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聖書箇所:ローマ人への手紙8:12~17 2014-10-26礼拝
説教題:「御霊と共に生きる」
【導入】
このローマ書は1章の1節、そして7節に記されているように、「神の福音のために選び分けられ、使徒として召されたキリスト・イエスのしもべパウロ」から「ローマにいるすべての、神に愛されている人々、召された聖徒たちへ」宛てて書かれた手紙です。
書いた人も受取人もはっきりしている手紙ですが、パウロ自身はこの時点でまだローマに行った事はありませんでした。
俗に言う、第三次伝道旅行の途中、コリントに寄った際に執筆した、と考えられています。
では何故、行った事のないローマの人々に手紙を書く必要があったのでしょうか。
それは15節「ローマにいるあなたがたにも、ぜひ福音を伝えた」かったからなのです。律法を守る事では達成できない「神の義」に到達するのは「福音」しかない。
その福音を正しく知って欲しい。だから何とかして伝えたい。
その熱い思いを込めて福音の本質を色々な次元で説明したものが、この「ローマ人への手紙」なのです。
16章に渡る内容ですから相当の思い入れが有った事は間違いありません。
それは福音を正しく理解し、キリストの身丈にまで成長して欲しかったからです。
それで5節「私たちは恵みと使徒の務めを受けました。それは、御名のためにあらゆる国の人々の中に信仰の従順をもたらすためなのです。」とのキリスト者の務めを紹介しながら、6節「あなたがたも、それらの人々の中にあって、イエス・キリストによって召された人々です」と、ローマの信徒に対して、「あなたたちも私(パウロ)の同労者であり使徒の務めに召されているのだ。だから、信仰の幼子の状態に止まっていないで、御霊と共に歩んで成長して欲しい。」
そんな思いを込めて、パウロが各地で宣べ伝えて来た福音の内容をまとめ、手紙として書き上げて行くのです。
【本論】
パウロは、「福音」は「イエスを信じる信仰による義」であると定義します。
3章22節に「イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。」と、ある通りです。
このことは1章から7章まで繰り返し述べられてきています。
その数およそ12回。「信仰による義」はそれ程大切なことであり、「義人とされる」手段は律法でも、割礼でも、ユダヤ人であることでも、ないのです。
そこで本日のテキストの8章ですが、「信仰による義」との関連で「御霊」について記されています。
8章1節「こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。
2 なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。
3 肉によって無力になったため、律法にはできなくなっていることを、神はしてくださいました。神はご自分の御子を、罪のために、罪深い肉と同じような形でお遣わしになり、肉において罪を処罰されたのです。
4 それは、肉に従って歩まず、御霊に従って歩む私たちの中に、律法の要求が全うされるためなのです。」
私たちからみれば「イエスを信じる信仰」によって義と認められるのですが、神様からみれば「御霊」を下されたので「イエスを信じる信仰」が生じるということなのです。
この様に「信仰による義」は「御霊」の働きであり、「御霊」によって「イエスを信じる信仰」が生まれるのです。
この「御霊」はパウロを助けるだけでなく、神に愛されているローマの人々、今悩み苦しむ私たちをも助けて下さるお方なのです。
そして今日のテキストに入って行く訳です。
12節「ですから、兄弟たち。私たちは、肉に従って歩む責任を、肉に対して負ってはいません。」
この冒頭の「ですから」は、1章から8章まで書き進めて来た事を受けての「ですから」であり、先に紹介した1節から4節、そして直前の11節「もしイエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリスト・イエスを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられる御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださるのです。」を受けて「ですから」と説明を続けるのです。
「私たちは、肉に従って歩む責任を、肉に対して負ってはいません。」
「肉」と言う言葉が続けて出て来ますが「肉」とは何を意味しているのでしょうか。
「肉」とは「生まれながらの自分」を表わします。
そこで「肉」を「生まれながらの自分」に置き換えて読んでみましょう。
「私たちは、生まれながらの自分に従って歩む責任を、生まれながらの自分に対して負ってはいません。」
生まれながらの自分が何と言おうと、その言うことに従う必要はないのです。
キリストの十字架による贖いで律法の要求が全うされて、新しいキリストにある永遠のいのちに生かされている、
ですから、生まれながらの自分、古い自分に従って生きる責任はないのです。
また「責任」と訳されているギリシャ語は「負債」「債務」を意味し、他に「負い目」「義務」とも訳されています。
私たちは肉に従って歩む義務も無い、負い目も無い、借金は0だ、と言う事なのです。
それなのに「肉」つまり「生まれながらの自分」に従って歩んだならばどうなるのでしょうか。
答えは明白です。13節に記されている通りです。
13節「もし肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬのです。しかし、もし御霊によって、からだの行ないを殺すなら、あなたがたは生きるのです。」
13節前半で「肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬ」と、言うのですが、日本語ではギリシャ語のニュアンスが上手く伝わってきません。
もっと強い表現が使われています。
つまり「肉に従って生きるなら、あなたがたは死ななければならない。」
あるいは「肉に従って生きるなら、あなたがたは確実に死ぬ。」なのです。
死ぬかもしれない、死ぬといけない、からではありません。
確実に死ぬのです。
このフレーズ、何処かで聞いた覚えがありませんか。
そう、創世記です。善悪の知識の木について神様は次の様に命じられました。
2章17節「しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。」
肉に従う生き方とは、要するに、自分勝手に生きることです。
自分の力で生きる事です。
どんなに努力、精進しても、律法を完全に守れる人は誰も居ないのです。
肉に従う生き方は、全てを自分で判断し、自分で選択する生き方です。
そこに神様は居られません。神様など必要としない生き方なのです。
結局肉に従う生き方は、神様の怒りを受けて肉体も魂も確実に滅びる生き方なのです。
パウロは創世記を思い浮かべながら語ったに違いありません。
肉に従って生きるなら、あなたは今、確実に死ぬのだ。
歴史から何の教訓も学ばなかったのか、忘れてしまったのか、と。
13節後半「しかし、もし御霊によって、からだの行ないを殺すなら、あなたがたは生きるのです。」
本日のテキストで度々登場する「御霊」と訳されているギリシャ語は、「霊」一般を意味する言葉です。
では、何故「霊」としないで「御霊」と訳しているのでしょうか。
パウロはロマ書1章4節で、この「霊」と言う言葉を、「聖い御霊」と聖霊の働きを強調して記していますので、文脈からも、霊一般ではなく神様から来るところの「霊」と考えて良いでしょう。
つまり、私たちの力では滅びるしかないが、御霊の力、聖霊の導きに従うなら結果は全く違って来る、と言う事なのです。
また「からだの行ないを殺すなら」の「殺す」は「絶つ」とも訳せる言葉ですので、「御霊に従ってからだの行ないを絶つなら、生かされる」となります。
13節はで分れていますが、ギリシャ語ではであって一つの文章です。
また12節と13節もで区切られていて別々になっていますが、
ギリシャ語ではで継がっており12節と13節は一つの文章なのです。
ここでは12節の「肉に従って歩む義務も責任もない」と言うことを強調して、
13節前半の「肉に従って生きるなら死ぬ」と13節後半の「御霊によってからだの行ないを殺すなら生きる」とに関連付けて考えなければなりません。
パウロは「肉に従って歩む義務も責任もない」のだから、「死ぬことになる肉の生き方」ではなく、「肉に従って歩む義務も責任もない」のだから、「御霊に従ってからだの行ないを殺しなさい。」と言いたかったのです。
14 節「神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。」
「導かれる」と言うギリシャ語は「連れて行く、導く、案内する、ガイドする」と言う意味の他に、もっと強制的な「捕まえる、収監する」と言った意味や、介助するニュアンスを含んだ「連れて行ってあげる、運んであげる」と言う意味を持つ言葉です。
2箇所ほど例を見ましょう。
ルカ4章40節「その病人を御許に連れてきた」手助けしながら連れて行く姿です。
ルカ10章34節「近寄って傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで、包帯をし、自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行き、介抱してやった」死にそうで動けない人を運んであげる姿です。
御霊の導きは単なるガイド、道案内ではありません。
行き先だけを指示して「後はご自由に」ではありません。
一緒に行ってはくれるけれど、危険が迫れば逃げてしまう雇い人の様でもありません。
死にそうな私たちを、迷っているあなた達を守り、介護し背負って連れて行って下さるお方なのです。
お父さん、お母さんが人ごみの中、子どもが迷子にならない様に、子どもの手をしっかり握って離さない様に、神様は私たちを掴んで離さないでいて下さるのです。
それは私たちが神の子どもだからであります。
日本語では省略されていますが14節の頭には「というのは」と言う接続詞があります。
12節13節で説明した「肉に従って歩む義務も責任もない」「というのは」
「神の御霊に導かれている人」だからであり、「神の子どもだから」なのです。
「神の子どもだから御霊様が守って背負って連れて行って下さる」と言う事なのです。
御霊は私たちが御霊に従って歩む事が出来る様に助けて下さるのです。
15節「あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、『アバ、父。』と呼びます。」
15節は14節を解説しているようなニュアンスを感じ取る事が出来るでしょう。
15節には二種類の霊が登場します。
奴隷の霊と、子としてくださる霊です。
ここで言う「奴隷の霊」も「子としてくださる御霊」も身分に関わる事ですが、両者は全く正反対のものです。
「奴隷」には何の自由も希望も将来もありません。
役に立たなければ捨てられてしまいます。
更にこの世との関わりにおいては律法に縛られた状態。
また「この世の主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊(エペソ6:12)」に追従する意味においても、しかりです。
比べて「子」の場合はどうでしょうか。
単純な呼称、区別を現すだけのものではありません。
身分としては神様の養子とされるのです。全くの自由が保証されています。
親である神様の財産を譲り受ける権利を与えられ持っています。
役に立とうが立つまいが、子なのですから捨てられる事はありません。
例え一時的に迷い出ても「彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけし」て迎えてくれるのです。
さらに「急いで一番良い着物を持って来て、この子に着せなさい。それから、手に指輪をはめさせ、足にくつをはかせなさい。そして肥えた子牛を引いて来てほふりなさい。食べて祝おうではないか。この息子は、死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかったのだから(ルカ15:20~24)。」と、地位、権威、身分の象徴である着物、指輪、靴が与えられ、絶対の信頼と揺ぎ無い平安の内に生かされるのです。
その究極の特権とも言えるのが、神様に向かって「アバ、父よ。」と呼びかける事が許されている事です。
「アバ」と言うのは父親に対する情のこもった呼びかけの言葉です。
これはマルコ14章36節でイエス様が父なる神に向かって呼びかけた言葉です。
それと同じ呼びかけをする事が許されているのです。
それは私たちが神の子とされる霊を受けているからなのです。
これこそ特権中の特権と言えるのではないでしょうか。
「呼ぶ」と訳されている言葉は「わめく」「大声で叫ぶ」と言う意味を持っています。
申し訳なさそうに小さな声で「おとうちゃん」と呼ぶのではなく、特権を与えられた者として堂々と「おとうちゃん!」と叫ぶのです。
自分から呼びかける、叫ぶと言うより、御霊により信仰が与えられた者は、御霊の与える喜びと感謝な心に溢れて「アバ、父よ」と叫ぶ、と言った方が正しいのかも知れません。
それは「あなたがたは子であるゆえに、神は「アバ、父。」と呼ぶ、御子の御霊を、私たちの心に遣わしてくださいました。」とガラテヤ4章6節で教えている事からも明白です。
16節「私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかししてくださいます。」
私たちが神の子どもであることは私たちが勝手に考えた空想でも、妄想でもありません。
15節にあるように「子として下さる御霊を受けたので」そう言っているのです。
しかし、聖書は、律法は一人の証言では真実と認めません。
二人以上の証言があって始めて、客観性のある真実、と認めるのです。
では「私たちが神の子どもであること」を、私たち以外の誰が証言して下さるのでしょうか。
16節に記されているとおり「御霊ご自身」が証言しているのです。
しかも、無理やり、仕方なく証言者となられたのではありません。
能動的に、自ら進んで証言者となって下さっているのです。
これほど確実な信頼できる証言者が他に居るでしょうか。
私たちは嘘を付く事が在るでしょうが、嘘を付く事の出来ない方が証言者となって「私たちが神の子どもであること」を立証して下さるのです。
「私たちの霊」もまた以前の古い罪にまみれた霊ではありません。
15節で学んだ様に「子として下さる御霊を受け」ているからです。
御霊は信仰を与えると共に、御霊による全幅の信頼をもって「私たちが神の子ども」であると確信させるのです。
そして、このことは変更されたり、取り消されたりすることがないのです。
何故なら、神様が決めた事であり、御霊様が証言して下さっているからです。
御霊を受けた私たちだからこそ「神の子である」自覚が生まれ、「アバ、父よ」と呼びかける事が出来るように変えられて行くのです。
17節「もし子どもであるなら、相続人でもあります。私たちがキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているなら、私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人であります。」
15節で学んだ様に、子どもと奴隷は比べ様が無いほど大きな違いがあります。
この17節では財産の「相続」を問題にしていますが、子どもと奴隷とではどれ程の違いがあるのでしょうか。
子ならば、額はともかく、必ず貰えます。貰う権利があります。要求する事も出来るのです。
それは実子であろうが養子であろうが法的には同等です。
しかし、奴隷にはレプタ銅貨1枚でさえ貰う権利はないのです。
あなたたちは奴隷じゃないでしょう。
14節でも、15節でも、16節でも確認した様に「御霊」を受けて神の子どもとされているのです。
「子」と言うのは先に説明した様に呼び方だけの問題でなく有形・無形で実質・実体が伴います。
子どもなら神様に対しての相続人、しかもキリストを頭とする共同の相続人なのです。
キリストと同等の権利を有する相続人なのです。
さて、17節を読む時、財産の相続人となる為には「苦難をともにしているなら」と言う条件が必要な風に読めますが、ギリシャ語本文にその様なニュアンスはありません。
「苦難を共にしているのですから」と現在すでにその様に生きていると認めて下さった上で、「神の相続人であり、キリストとの共同相続人である」と言う宣言なのです。
今現実に苦しみの中にある人には慰め励ましとなるみことばです。
苦しみは苦しみで終わらず、栄光を受ける事の保証となるからです。
だから落胆せず、喜んで、雄々しく、主のための苦難を受けよう、と言うことになるのです。
この世の相続に付いて考えて見ましょう。
相続するのは財産だけではありません。借金などの負債も相続しなければなりません。
財産だけ相続する、と言う訳には行かないのです。
財産と負債があり、相殺して通常はプラスになるので、負債を合わせて財産を相続するのです。
ですから莫大な負債が見込まれる時には相続を放棄する事も選択肢として提示されています。
では神様の国の相続について考えて見ましょう。
財産の部分は何でしょうか。第一にキリストと共に受ける栄光でしょう。
私たちはキリストと共に被造物の全てを支配する事になるのです。
天国に入る事も上げられるでしょう。
神様との関係が完全に回復した世界に入り、神様と顔と顔を合わせて暮らせます。
永遠のいのちもあります。新しい体が与えられ、死も苦しみも悲しみも無い世界に入れられるのです。
逆に負債となる部分は何でしょうか。
パウロの言葉を借りて見ましょう。
「患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。(ロマ8:35)」
「今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。(ロマ8:18)」
財産と負債を比べたら、負債は取るに足りないものでしかないのです。
そうは言うけれど、現実の、目の前の患難は永遠に続くように思えます。
迫り来る迫害は耐えられそうにありません。
でも安心して下さい。
14節の御言葉を思い出して下さい。
「神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。」
御霊の働きによって私たちは神の子どもとされているのです。
神の子どもであるならば、神様は私たちの味方です。
「神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう(ロマ8:31)。」か。
「私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。(ロマ8:37)」
【適応】
勝利者となる秘訣は御霊と共に歩む事です。
御霊に従って歩み続ける限り滅びる事はありません。
挫折しても、失敗してもそれで終りではありません。
御霊の助けにより何度でも立ち上がり、立ち向かうことができます。
御霊は私たちを離さず、神の御許に連れて行って下さいます。
神の子どもとされているのですから、御霊に導かれて歩もうではありませんか。
それとも、まだ主の苦難を退けて「肉に従って生きる」ことを選ぶのですか。
生まれながらの自分の言うことに聞き従うのですか。
自分の思い通りに生きる事を願うのですか。
自分の判断、自分の考え、自分の意見を優先させるのですか。
そのような生き方は、御霊を受ける前の期間で充分なのではありませんか。
これからは御霊に導かれて、神の子どもとして歩もうではありませんか。
自分の思い通りに生きるのではなく、自分の判断ではなく、自分の考えではなく、
自分の意見を優先させるのではなく、御霊の導きに従って生きようではありませんか。
あなたは、すでに神の子どもとされているのですから、御霊に導かれて生きることは、神の子どもとされた私たちに相応しい生き方なのです。
ここに居られる皆さんが御霊様の助けにより、神の子どもとして、御霊様に導かれて歩まれますように。
これこそパウロの願いであり、神様が御霊を送られた目的なのです。
主のための苦難を恐れずに、雄々しく主のために、主の栄光のために生きて行きましょう。
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聖書箇所:創世記8:15~22 2014-10-19礼拝
説教題:「再出発」
【導入】
人生と言う旅路を長く歩んで来た方々も、まだまだ人生の途中にある方々も、人生を振り返れば、誰にでもやり直したい出来事や、消してしまいたい出来事の一つや二つはおありでしょう。
あんな事しなければ良かった。
何故あんな事してしまったんだろう。
あの時、別の道を選んでいたならば。
止めておけば、こんな後悔しなくても済んだのに。
やり直せたならなぁ。
消してしまえたらなぁ。
過去の出来事を消し去る事も、やり直す事も出来ませんが、その経験を役立てる事は出来るのではないでしょうか。
昨今、ノーベル賞の日本人三人の受賞が話題になっていますが、受賞するに価する発見、発明、成果などは、短期間で、数回で出せる訳ではありません。
一つの成功や発見の裏には、気の遠くなるような時間と、信念、忍耐、努力が必要です。
一つの成功や発見の裏には、1000や10000の失敗があると言われています。
その失敗ですが、消極的に捉えれば、経済的に見れば、無い方が良い、と言う事になりますが、積極的に捉えれば、正しい答えに導くための行程であり、選択のためのステップであり、本来の目的とは違いますが、副産物的な発見や発明がありましょう。
失敗は、失敗の記録は、同じ事を繰り返さずに済み、成功へ導く道しるべであり、決して無駄では無いのです。
一人や一つのグループの能力には限界がありますが、失敗の記録を複数のグループで共有するなら、多岐に渡って研究できますから、成功への時間は驚異的に短縮できるでしょう。
失敗の経験は、同じ事を繰り返さない事につながりますから、未来を明るくするモノであり、同じ失敗の道は選ばない事になりますから、将来の希望につながるモノと言えるのではないでしょうか。
人間の失敗、即ち「罪の蔓延、堕落の深刻化」によって、大洪水が起こり、人間が滅ぼされる事になってしましましたが、大洪水の記録を継承する事は、罪の行き着く先が何であるかを継承する事であり、罪を犯さない努力の励みとなるのではないでしょうか。
心機一転、再出発は大事ですが、過去を忘れた心機一転、過去の失敗を捨てての再出発ではなく、過去を踏まえた心機一転、過去の失敗を犯さない堅い決意の下での再出発でなければなりません。
大洪水を経験したノア一家の新しい生活の始まりは、人類の再出発であり、神様と共に歩み、神様の御こころに従う歩みの再出発でなければならないはずです。
ノアたちの再出発の様子を見てみましょう。
【本論】
8:15 そこで、神はノアに告げて仰せられた。
見渡す限り水、また水の世界、水が地の全面を覆っていた大洪水は終わりました。
聖書の記述によれば、地が乾き始めたのがノアの生涯の第601年の第1の月の1日で、地の全面が乾き切ったのが第2の月の27日です。
ノアが地の様子を知るために、鳥を箱舟の窓から放ったのは4回です。
1回目に烏を放ったのは、ノアの生涯の第600年の第10の月1日に山々の頂が現れてから40日後と考えられますが、烏は地にも木にも留まる事が出来ず、烏は箱舟に戻って来ました。
その日か、何日か後に鳩を放ちますが、鳩も地にも木にも留まる事が出来ず、鳩は箱舟に戻って来ました。
1週間後に、鳩を放った時、鳩はオリーブの若葉を持ち帰り、更に1週間後に鳩を放った時には、鳩は箱舟に戻っては来なかったのです。
この鳩の様子は、地はある程度乾き、植物が自生し始め、若葉を持つまでに息を吹き返していた事を示し、人間たち、動物たちが生きていく上でほぼ問題、支障がなかった事の客観的な状況を教えている訳です。
鳩がオリーブの若葉を持ち帰ってから、14節「8:14 第二の月の二十七日、地はかわききった」と言う記述までの期間は、何日ほどであったのでしょうか。
鳩が飛び去ってしまってから何日、何週間かかったのでしょうか。
更に、14節の記述と、15節の記述との時間的隔たりは、何日ほどだったのでしょうか。
箱舟に入った日は、ノアの生涯の第600年の第2の月の10日ですが、箱舟を出た日は記録されていません。
推測する材料はなく、確定的な事は言えません。
何回か説明させて頂いて来ましたが、聖書は時系列で記されてはいないので、また、起点が明確ではない記述も多いので、正確には言い切れませんが、
14節の「第二の月の二十七日」は、鳩が飛び去ってしまってから、凡そ60日前後経過した月日なのではないかと思われます。
鳩が飛び去った時点で、地は充分乾いており、人間や動物が箱舟を出るのに何の支障も無かったでしょうが、箱舟の中のノアたちは、動物たちは、勝手な判断で箱舟を出る事はしませんでした。
待ちに待ち続けて2ヶ月近く経過していても、ノアは勝手な判断をせず、箱舟の中で待ち続けました。
神様が箱舟の戸を閉められたのですから、神様の許しがあるまで、神様が戸を開けられるまで待たなければならず、神様からの声を待ち続けたのです。
その待ちに待った時が来たのです。
8:16 「あなたは、あなたの妻と、あなたの息子たちと、息子たちの妻といっしょに箱舟から出なさい。
8:17 あなたといっしょにいるすべての肉なるものの生き物、すなわち鳥や家畜や地をはうすべてのものを、あなたといっしょに連れ出しなさい。それらが地に群がり、地の上で生み、そしてふえるようにしなさい。」
ここには三つの命令が記されています。
一つは「箱舟を出る事」であり、今一つは「連れ出す事」であり、出た後には「増える事」です。
箱舟の中は暗く、窮屈であり、臭くて騒がしい生活です。
こんな劣悪な環境に一年以上も閉じ込められていたのですから、一刻も早く飛び出したいと、誰もが考えると思います。
箱舟を出る時は待ちに待った瞬間ですし、箱舟を出る事は神様の御こころですから、グズグズしていてはならず、速やかに箱舟を出なければなりません。
しかし、意外や意外、人間は劣悪な環境でも「住めば都」であり、慣れると離れ難くなる事があります。
踏ん切りがつかず、慣れ親しんだ物もたくさんあるから未練がある。
でも、何もかも捨てて出なければなりません。
この命令、指示が出された時間は記されていませんから、早朝かも知れませんし、深夜かも知れません。
食事時かも知れませんし、休んでいる時かも知れません。
でも、何をしていてもしていなくても、何時でも何処にいても、自分の都合ではなく、神様の命令、指示に従わなくてはならないのであり、直ぐに箱舟を出なければなりません。
しかし、秩序があるのであり、我先に出るのではなく、ノアの指示で、先ずノアが、続いて妻が、息子たちが、そして息子たちの妻たちが、一緒に箱舟を出なければならないのです。
勿論、小さな戸、出口ですから、横並びに一緒に、でない事は明らかです。
ノアに続いてノアの家族が箱舟を出、ノアとノアの家族の先導で、動物たちが箱舟を出るのです。
ノアたちは最後の最後まで動物たちの面倒を見、動物たちの世話をしなければなりません。
狭い戸口に動物たちが殺到したならば、大混乱に陥ってしまうでしょう。
出るに出られず、怪我や事故につながります。
それより何より、神様は無秩序をお嫌いになられます。
急ぐ時でも、早る時でも、整然と、順序正しく、秩序正しく、静かに行動しなければなりません。
結果、それが一番早く、安全で、問題も起こらない方法なのであり、即ち、神様の栄光を現す行為、最初から最後までで神様の栄光を現すのです。
自分たちが箱舟を出、動物たちを箱舟から出して終わり、お役、放免、ではありません。
次には、ノアたちは、動物たち、家畜たち、鳥たちが増えるようにしなければならないのです。
勿論、神様の創造の摂理で、動物たちには繁殖の能力が与えられており、人間には世界を支配、即ち、お世話、管理する使命が与えられていますが、17節で明確に、再度、動物繁殖のお世話、管理、支配の命令が与えられたのです。
秩序ある繁殖、増えすぎない配慮、減ってはならない工夫が、ノアに、人間に命令として与えられたのです。
現在、絶滅危惧種に指定されている動植物があり、絶滅危惧種に指定されそうな動植物があり、既に絶滅してしまった動植物があり、動植物の分布バランスは崩れ、
今後、絶滅危惧種の指定は益々増えそうな状況ですが、17節の命令を今一度、再確認しなければなりません。
動植物の環境を破壊してはならず、動植物の生態系を乱してはならず、乱獲、駆逐によって絶滅させてはならず交配、品種改良にも慎重に臨まなければなりません。
動植物と人間が共存、共栄しなければならないのです。
大洪水によって全てが滅ぼされた後、新しい第一歩を踏み出すに際して、人間の一人一人に、動物の一匹一匹に「増える」事を命じつつ、野放図な増殖ではなく、人間の管理下で増殖する事が期待されているのです。
地は元々、人間や動物、植物の生きる所、繁殖する所として与えられていますが、
「地の上で生み、そしてふえるように」と命じられた意味を考える必要がありそうです。
地は人間だけの物ではなく、動植物共有の物であり、人間と動植物が共存、共栄しなければなりません。
人間が動植物を駆逐するような環境破壊は、厳に慎まなければなりません。
動植物の住み易い環境は、人間にとっても住み易い環境であり、人間中心の環境作りは、環境破壊であり、環境バランスを崩し、巡り巡って人間の生き難い環境にしてしまうのです。
効率を考え、病虫害への配慮から、工場のような、完全に隔離された植物の飼育法が話題となっています。
家畜においても、交配は管理されており、優秀な精子と卵子の組み合わせで、人間にとって有用な家畜が供給されていますが、果たして正しい行為、管理なのでしょうか。
「地の上で生み、そしてふえるように」との呼びかけを、吟味する必要があるのではないでしょうか。
8:18 そこで、ノアは、息子たちや彼の妻や、息子たちの妻といっしょに外に出た。
8:19 すべての獣、すべてのはうもの、すべての鳥、すべて地の上を動くものは、おのおのその種類にしたがって、箱舟から出て来た。
ノアは神様の命令、指示に従って家族と共に箱舟を出、動物たちが箱舟を出る手伝いをしました。
巨大な箱舟から、小さな戸口から動物たちを出すのですから、数日かかったのではないでしょうか。
人間の言う事などに聞き従わないのが当たり前の動物たちですが、神様のお働きで、混乱もなく、粛々と動物たちは箱舟を出、それぞれの動物たちが、それぞれの場所へと、離散して行ったのです。
動物たちは、神様の不思議な導きによって集まって来たのであり、大洪水が終わって後、神様の不思議な導きによって散らされて行ったのです。
8:20 ノアは、【主】のために祭壇を築き、すべてのきよい家畜と、すべてのきよい鳥のうちから幾つかを選び取って、祭壇の上で全焼のいけにえをささげた。
ノアは、巨大箱舟の造船と漂流に、神様の導きと守りを体験し、動物たちの集合、離散の背後に、神様の存在、働きを見、大洪水の始まりと収束に、神様の摂理を知り、神様を讃え、感謝し、同時に、与えられた使命に対する献身の思いを込めて「祭壇を築き」、数少ない動物の中から「幾つかを選び取って」完全に焼き尽くす「全焼のいけにえをささげた」のです。
「ささげた」は「礼拝した」の意味であり、形式的な献げ物をした訳ではありません。
自ら進んで、感謝の生け贄を献げたのであり、指示されてではなく、強制されてでもありません。
巨大な箱舟造りから、動物の集合、大洪水の始まり、1年余の漂流生活。
不安と疑問、葛藤と驚愕の連続です。
その強烈な体験、救いに選んで下さった事への感謝、守られた事への感謝、救われた事への感謝に対し、強烈な喜びを込めて、献げたのであり、生け贄は「賛美、献身、贖い」の意味が込められている信仰の表明なのです。
「献げ物」は即ち「礼拝」であり、「献げ物」は即ち「献身」であり、「献げ物」は即ち「奉仕」であり、これらは密接な関係、離せない関係、関連している関係であり、同じ事を四つの言葉で表現しているのです。
「献げ物」の伴わない「礼拝」はなく、「献げ物」を通して「献身」を表明するのであり、自身を「献げ物」とする「奉仕」こそ、即ち、生き方が、神様の喜ばれる「献げ物」なのです。
レビ記以降で「生け贄」の制度が制定、確立していきますが、「生け贄」には、献げた者と、祭司の取り分があります。
献げ物の一部を焼いて煙りにし、一部を献げた者が食し、一部は祭司の物となりますが、「全焼のいけにえ」は全てを焼き尽くし、人間の取り分は全くありません。
全てが献げられるのであり、完全な服従、完全な献身、完全な贖いを意味する大切な献げ物、生け贄なのです。
生け贄の制度が制定される前に、そのような意識をもって、自発的に、自身の完全な服従、献身、贖いとして生け贄を献げた事を神様は喜ばれます。
8:21 【主】は、そのなだめのかおりをかがれ、【主】は心の中でこう仰せられた。「わたしは、決して再び人のゆえに、この地をのろうことはすまい。人の心の思い計ることは、初めから悪であるからだ。わたしは、決して再び、わたしがしたように、すべての生き物を打ち滅ぼすことはすまい。
8:22 地の続くかぎり、種蒔きと刈り入れ、寒さと暑さ、夏と冬、昼と夜とは、やむことはない。」
21節で「【主】は、そのなだめのかおりをかがれ」と、神様を擬人的に表現していますが、神様は献げ物を食する事も、生け贄から立ち上る香りを嗅がれる事もありません。
献げられる必要はなく、仕えられる必要もありません。
礼拝も祈りも讃美も必要とされる訳ではありませんが、しかし、献げられる事を喜び、仕えられる事を喜ばれ、礼拝を喜ばれ、祈りをお聴きくださり、讃美を受け入れて下さるのです。
どんな献げ物でも受け入れてくださり、どんな奉仕でも受け入れてくださいます。
ノアの献げた動物は、ノアの所有物ではなく、神様が集めてくださり、箱舟に入れてくださった動物であり、神様の所有物ですが、ノアに管理が任されており、ノアの裁量で自由になる動物です。
しかし、無駄にしてはならず、減らしてはならず、細心の配慮を持って管理しなければならない動物ですが、先ず、神様にお献げしたのです。
少ない時、貧しい時、厳しい時、誰に、何を献げるか、どのように扱うか、が問われます。
巨大な箱舟とは言っても、動物の種類は多くても、一匹一匹が貴重な存在であり、
何としてでも増やさなければならない状況下で、一匹たりとも殺せない状況下で、
一匹でも殺せば、「増やす」使命に支障があっても、ノアは献げずにはいられなかったのです。
貴重な動物でも、神様に献げるなら、以降の問題は神様が解決してくださる、との信仰でノアは神様に貴重な動物を献げたのであり、それを神様は何より喜ばれたのです。
「人の心の思い計ることは、初めから悪であるからだ」の「初めから」は「幼い時から」と訳す事が出来ます。
人間は罪の性質を持って生まれるのであり、幼い時から罪人なのです。
しかし、そんな罪人をも、神様は憐れんでくださり、ノアの献げた真心からの生け贄、信仰の表明である生け贄を喜び、献身の表明である生け贄を喜び、「罪の蔓延、堕落」を理由として「決して再び、すべての生き物を打ち滅ぼすことはすまい」と、世界を滅ぼす事をしないと宣言されたのです。
ですが、この宣言は「世の終りが来ない」事の宣言ではありません。
22節の「地の続くかぎり」との宣言も、無限性を語っているのではなく、有限性を語っている、と理解しなければなりません。
私たちは「地」は変らず、永遠に動かない物のように見ていますが、地は変わり移ろうのであり、その有限の中で「種蒔きと刈り入れ、寒さと暑さ、夏と冬、昼と夜とは、やむことはない」のです。
世の終りは来ます。
イエス様による裁きの時は来ます。
それは、神様の創造の時からのご計画だからです。
世の終りは、「人の罪」を原因として到来するのではなく、福音が世界に届いてからであり、イエス様による救いの到来の時として、神の国の完成の時として来るのです。
その時の備えとして、罪を離れ、神に近づくために再出発しなければなりません。
【適応】
やり直しのチャンスは必ず在ります。
と言うか、失敗の次の瞬間は、やり直しのチャンスなのではないでしょうか。
やり直しを先延ばしにしていては機を逃します。
しかし、漫然とやり直したのでは、同じ失敗を繰り返すだけなのではないでしょうか。
人間には罪の性質があり、それはこびり付いており、洗い流せず、離れはしないからです。
人間には罪の性質がある事を忘れず、失敗や罪を告白し、悔い改め、イエス様の執り成し、聖霊様の助けを信じて再出発をしなければなりません。
その決意表明が、献げ物であり、讃美であり、祈りであり、奉仕であり、一言で表すならば礼拝なのです。
一日一日にも問題はあり、失敗はあり、キリスト者として相応しくない言動があった事でしょう。
一週間一週間、一ヶ月一ヶ月とても同じです。
毎日、神様との個人的な礼拝の時を持ち、昨日を悔い改め、新しい一日の再出発をしなければならず、毎週、神様との公の礼拝の時を持ち、過ぎし一週間を悔い改め、新しい一週間の再出発をしなければならず、毎月、神様との聖餐の時を持ち、過ぎし一ヶ月を悔い改め、新しい一ヶ月の再出発をしなければなりません。
日々の悔い改めの積み重ねと、神様との関係修復、それに伴う献げ物が、救われた者に、赦された者に相応しい応答なのではないでしょうか。
人間的な後悔と自責の念からの再出発ではなく、貧しい礼拝しか献げられない者であり、僅かな物しか献げられない者ですが、心からの礼拝と献げ物をもって再出発するなら、神様と共に歩む再出発であるなら、失敗を恐れる事なく、罪を恐れる事はありません。
呪いを受ける事も、滅ぼされる事もありません。
神様の祝福である「種蒔きと刈り入れ、寒さと暑さ、夏と冬、昼と夜とは、やむことはない」のであり、イエス様再臨の時、神の国到来の時に、真っ暗な、窮屈な、汚い、不自由な箱舟のような肉の衣、罪を脱ぎ捨てて、新しい身体で、罪のない身体で再出発する予表なのです。
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聖書箇所:創世記8:1~14 2014-10-12礼拝
説教題:「待つ・・・ひたすら待つ」
【導入】
東日本大地震、大津波、原発事故での被災者は、現在も大変苦しく辛い避難生活を余儀なくされていますが、被災直後は、避難直後は、支援物資は不足がち、連絡にも不備があり、配給も極端に偏りがちで、混乱や不満も生じましたが、争奪戦や、暴動にならなかった事は、配給、炊き出しの時の整然とした、長蛇の列の順番待ちは日本人の美徳として、海外のメディアでも取り上げられて、話題になった事は記憶に新しいのではないでしょうか。
でも、日本人は待つのに慣れている民族である訳ではなく、お互い様の気持ちと、譲り合いの精神が、また、普段からのご近所様との関係、知り合い同士の関係が、争奪戦や混乱に至らなかった大きな理由なのではないかと思います。
大震災と言う特殊な状況下で美徳が発揮されたのは、普段からの習慣があったからであり、先日のiPhone販売に際しても、遊園地のアトラクションの順番待ちでも、美味しいラーメン屋の順番待ちでも、電車バスの前でも、人々は整然と並び、割り込みもなく、不満もなく、自分の順番が来るまで、じっと待ち続けます。
待ち続けられるのは、目的があるから、目的がはっきりしているから、自分の意志で並んだから、待っているからであり、目的が無い時、目的がはっきりしない時、何となく興味をそそられて程度の理由、と言う時には、もっと重要な目的がある時には諦めて、列を離れるのでは、待つのを止めるのではないでしょうか。
特に強いられて待たされる時には、時間はより長く感じ、何時まで続くのかと苛々し、自分勝手な判断で待つのを止めてしまうのではないでしょうか。
人間が待つ事が出来るのは、理由が合理的で明確であり、理由に合意出来、期限がはっきりしている時であり、いい加減な理由であったり、不承不承であったり、期限が決められていない事に忍耐を働かせるのは中々難しいようです。
屁理屈に丸め込まれてだと、強制的だと、期限が明確でないと苛々は募り、自分勝手な理由をつけて、合理的な理由を考え出して、待つ事を中断させようとします。
人間社会では、合理的理由がない、合意が得られていない、期限が明確でない、などの理由で、是非の問題は別として、勝手に中断する事は珍しくありませんが、信仰の世界では、合理的理由があり、合意が得られ、期限が明確、と言うのは少ないのではないでしょうか。
そして、そのような中で、不安と不満が募る中で、忍耐する事が、待つ事が求められる事が多いのです。
神様からノアに与えられた使命は、箱船を造る事であり、箱船を造る理由は示されました。
しかし、大洪水の期間は示されず、箱船の中に滞在する期間も示されはしませんでした。
ノアたちは、真っ暗な箱船に、動物たちの強烈な臭いと喧噪の中に、何時まで居なければならないのでしょうか。
【本論】
8:1 神は、ノアと、箱舟の中に彼といっしょにいたすべての獣や、すべての家畜とを心に留めておられた。それで、神が地の上に風を吹き過ぎさせると、水は引き始めた。
8章1節の時点を、正確に述べる事は出来ませんが、大雨が降り出し、地下水が噴出し出し、大洪水が起こってから150日目、凡そ5ヶ月目の事と考えられます。
見渡す限り水、また水の世界の中に、ノアたち、動物たち、鳥たちの乗る箱船が如何にも頼りなさそうに、大洪水で押し流された数多の樹木、瓦礫、人間の遺体、動物の死骸とともに、浮かんでいます。
箱船は風に流され、波に弄ばれ、歪み、軋み音を発し、漂流物がぶつかり、今にもバラバラに壊れそうな様相を呈していますが、神様は箱船を、箱船の中のノアとノアの家族、動物、家畜、鳥の事を忘れた訳ではありません。
船造りの経験が無い素人が造った巨大な箱船は、水に静かに浮かべるだけでも壊れてしまいましょう。
多少の風には耐えられても、波に耐えるためには、相当の強度が必要です。
現代の構造計算をして造られた頑丈な鋼鉄製の船であっても、波に持ち上げられた時、船自身の重さに耐えられず、真っ二つに折れてしまうそうです。
素人が造った箱船が、大洪水と150日の漂流に耐え得たのは、この後の200日以上の漂流に耐え得るのは、只々神様の守りがあったからです。
ですから、「心に留めておられた」は「思い続けておられた」の意味であり、「たまたま思い出した」のではありません。
神様を見る事が出来ず、触る事も出来ませんが、神様は実在し、生きておられ、何時も箱船を見張っておられ、箱船の事を、ノアたちの事を、動物たち、鳥たちの事を片時も忘れる事はないのです。
しかも、単に「忘れない」「気に懸けている」のではなく、介入し、働きかけようとされる、神様の憐れ、顧みを中心に据えて読まなければなりません。
神様は心配そうに遠くから眺めておられ、はらはらされているだけではなく、具体的な策を用意し、実際に働き懸けられるのです。
その働き懸けが「風を吹き過ぎさせると」と言う言葉に秘められています。
「風」と訳されているヘブル語は、創世記1章2節で「神の「霊」」と訳されているのと同じヘブル語です。
神様が「霊」を送り、霊の働きで「水は引き始めた」のです。
日常生活でも、洗濯物の乾き具合は、適度な風通しが重要であり、風がないと、洗濯物の乾き具合は今一です。
部屋乾しでも、扇風機の風を当てるだけで、乾く時間は大幅に短縮できます。
神様は自然に任せて大洪水を終わらせたのではなく、神様の「霊、息」を吹きかけられ、神様の主体的、主権的な働き掛けで大洪水、収束の時を始められたのです。
しかも、箱船が壊れるような強風ではなく、優しい風、霊を送られたのです。
1節最後の「引き始めた」は、エステル記2章1節
「2:1 この出来事の後、アハシュエロス王の憤りがおさまると」の「おさまる」と訳されているヘブル語と同じ語です。
大洪水の荒れ狂った様が静まって行く様子を描写し、あるべき姿に治まる様子を、あるべき所に収まる様子を描写しているのです。
単に「水位」が下がり始めたのではなく、荒れ狂っていた水面が静かになった事から、秩序回復の兆しを表現しているのです。
8:2 また、大いなる水の源と天の水門が閉ざされ、天からの大雨が、とどめられた。
「また」は「と同時に」の意味であり、「水の引き始め」は「大いなる水の源と天の水門が閉ざされ、天からの大雨が、とどめられ」と同時進行であり、地下水の大噴出が止まってこそ、大豪雨が終わってこそ「水は引き始めた」のです。
神様の業は、ご計画は、齟齬が無く、幾つもの要因がベストタイミングで揃うのであり、無駄な事は何一つありません。
無駄なように見えても、思えても、備えであり、伏線であり、遅いように見えても、決して遅れているのではないのです。
地下水の大噴出が止まって、大豪雨が終わって、神様からの風が吹き過ぎて、
8:3 そして、水は、しだいに地から引いていった。水は百五十日の終わりに減り始め、
8:4 箱舟は、第七の月の十七日に、アララテの山の上にとどまった。
3節が意味する日付と4節の日付は、ほぼ同日です。
大豪雨が始まり、地下水が噴出し出したのが、ノアの生涯の600年目の、第2の月の17日です。
そこから150日目は凡そ5ヶ月の後であり、第7月の17日前後です。
3節と4節の関係では、水が減り始めて直ぐに、アララテの山に止まったかのように、漂着したかのように読み取れます。
ちょっと日付の辻褄が合いません。
この「とどまった」と訳されているヘブル語の語源の意味は「休む、休息」であり、直接に「漂着した」の意味ではない事は明らかですから、150日に及ぶ不安な漂流を終えて、将来の休息の確信を得た、収束に向かう安心を表現している、と理解すると同時に、「ノア」の意味が「休み、休息」である事を思い出して頂けるなら、ユダヤ文化得意の語呂合わせであり、ノアの名前の通りに、実質的な休息が伴う状況下に向かっている事を暗示しているのではないでしょうか。
「アララテの山」ですが、「山」は複数形であり、単独の山を意味していません。
アララテの山地、アララテ山脈の何処かに止まったのですが、この「アララテの山」は、現在のアルメニヤ地方、黒海とカスピ海の中間あたりの地域ではないかと考えられ、学者によって発掘調査がなされていますが、箱船の形跡、痕跡は見つかっていないようです。
発見されてほしい気もしますが、信仰は、形跡、痕跡の有無、証拠の有無で判断するものではない事を忘れないでほしいと思います。
8:5 水は第十の月まで、ますます減り続け、第十の月の一日に、山々の頂が現れた。
神様から送られた「風、霊」により、見る見るうちに水は減り続けます。
大洪水の出現に勝るスピードで水は減り続けたのであり、神様の働き掛け、ご介入で未曾有の大洪水が急速に収束に向かっている事が表現されています。
山頂を15キュビト、即ち7m近くも上回っていた水位は下がり続け、大豪雨、地下水の大噴出が止められてから、2ヶ月と10日で「山々の頂が現れた」のです。
この驚異的な減水の様子から、神様の不思議な働き掛けを読み取らなければなりません。
大災害は神様の御手で始まり、災害からの復旧は自然任せ、人の手で、ではありません。
大災害は神様の御手で始まり、収束も神様の御手によって始められるのです。
大災害も、大災害からの復旧も、神様の業であり、神様の栄光を現すものなのです。
8:6 四十日の終わりになって、ノアは、自分の造った箱舟の窓を開き、
8:7 烏を放った。するとそれは、水が地からかわききるまで、出たり、戻ったりしていた。
この「四十日の終わり」が何時から数えてなのかは明確ではありませんが、第10の月の1日を起点と考えるのが妥当でしょう。
とすれば、第11の月の10日頃に、ノアは烏を放ったのですが、烏を含めて、古代の船乗りは、陸地の位置、方向を知り、進行方向を決めるために船から鳥を放ったそうです。
烏も鳩も、長距離の飛行に耐え得る鳥であり、人間の生活圏にいる鳥ですから、入手し易く、船乗りにとって重宝な、便利な道具であった訳です。
ノアの放った烏は、高く舞い上がっても陸地が見えなかったのでしょう。
何回か出たり、戻ったりを繰り返しますが、船の周りを飛ぶだけで、陸地が現れた形跡を教えてはくれませんでした。
8:8 また、彼は水が地の面から引いたかどうかを見るために、鳩を彼のもとから放った。
8:9 鳩は、その足を休める場所が見あたらなかったので、箱舟の彼のもとに帰って来た。水が全地の面にあったからである。彼は手を差し伸べて鳩を捕らえ、箱舟の自分のところに入れた。
6節7節の出来事と、8節9節の出来事との時間的隔たりは分かりませんが、烏でだめなら鳩、と考えたのでしょうか。
同日の出来事とも考えられますし、数日の間を置いて、様子を窺ったのではないかとも考えられますが、確証はありません。
烏の様子を窺いつつ、鳩を放つタイミングを見計らっていたとも考えられますが、これも確証はありません。
70人訳では、7節の最後に「そして帰らなかった」を付記していています。
烏は出たり戻ったりを繰り返しましたが、遂にノアの下に戻ってこなかった、それで鳩を放ったと説明するのです。
一番蓋然性のある説明、解説と言えるでしょうが、これも確証はありません。
聖書は烏と鳩とを選び、放つ、明確な理由、意味を述べていないからです。
ユダヤ人なら説明するまでもない明確な理由を知っているかも知れません。
烏と鳩の違いを、烏は腐肉を漁る鳥であり、汚れを現し、鳩は聖霊を象徴し、聖さを現すとの考えもありますが、確かな所は分かりません。
確かなところは、水は急激に減り続けていましたが、まだまだ、乾いた陸地、安心して着地出来る場所は無かった、と言う事であり、加えて、使命を放棄し、逃げ出してしまった烏には使命が与えられませんし、長い箱船生活、窮屈な箱船生活、薄暗い箱船生活に飽き飽きし、箱船を離れた所に自由と希望がありそうに思えても、箱船以外に何処にも安全な所はなく、滅びが待っているだけであり、滅びてしまった事を暗示し、鳩はノアの元に戻って来、ノアは鳩に手を差し伸べ、鳩を箱船に入れますが、箱船は即ち、神様の守りの象徴であり、安全な箱船に入れられた事を、戻って来た、離れなかった鳩には再び、使命が与えられる事を暗示しているのではないでしょうか。
8:10 それからなお七日待って、再び鳩を箱舟から放った。
ユダヤ社会において、聖書の記述において、「7」は完全数であり、また、重要な区切りでもあります。
天地創造は7日で完成したのであり、大洪水の後にも7日の間に、人間が何もせず、何も知らない内に、環境が整えられ、新しい歴史の幕開けの準備が進められていたのです。
8:11 鳩は夕方になって、彼のもとに帰って来た。すると見よ。むしり取ったばかりのオリーブの若葉がそのくちばしにあるではないか。それで、ノアは水が地から引いたのを知った。
「夕方になって」鳩は帰って来ましたが、夕方まで跳び続けたのではありません。
羽を休めるところが無数にあったからであり、鳩の行動範囲が飛躍的に広がった事を教えます。
しかも単に留まるところがあった、陸地に乾いた所が現れた、ではなく、「むしり取ったばかりのオリーブの若葉がそのくちばしにあるではないか」と植物が息を吹き返した証拠を持って帰って来たのです。
私たちは「鳩」を「平和」の象徴と捉えますが、この箇所での鳩には、新しい創造の先触れとしての使命が与えられたのであり、新しい創造を待ち望む人々を導く存在である事を現しているのです。
大洪水の過ぎ去った地には、荒廃が広がっているのではなく、神様の御手によって、新しい創造が始まっているのであり、それが「オリーブの若葉」に象徴されているのです。
鳩は「オリーブの若葉」を持ち帰りましたが、オリーブだけではなく、様々の樹木が新しい枝を伸ばし、新芽を出し、草は茎を伸ばし、新しい葉を広げ、箱船の中の動物たち、家畜たち、鳥たちの食料となるべく一斉に成長を始めた事を暗示しているのです。
地は乾き、食料の心配もなさそうです。
直ぐにでも箱船を出たいところですが、ノアは先走った判断、行動を慎み、
8:12 それからなお、七日待って、彼は鳩を放った。鳩はもう彼のところに戻って来なかった。
鳩は地が乾き、植物が息を吹き返した確実な証拠を持ち帰り、ノアに示しましたから、これ以上、留まる必要はありません。
大切、重要な働きをした報いとして、一番に好きな所を選ぶ特権を与えられた、と言う事なのではないでしょうか。
8:13 ノアの生涯の第六百一年の第一の月の一日になって、水は地上からかわき始めた。ノアが、箱舟のおおいを取り去って、ながめると、見よ、地の面は、かわいていた。
8:14 第二の月の二十七日、地はかわききった。
鳩が飛び去った空から、ノアは目を地に戻します。
地はすっかり乾いており、植物が息を吹き返しており、人間が生活し、動物、家畜、鳥が生きるために何の支障もない事は明らかでした。
大豪雨、地下水の大噴出が始まり、大洪水が起こって150日目に峠を過ぎ、150日目から大洪水は収束に向かい、7ヶ月と10日が過ぎて、地は乾き切りました。
全期間1年と10日。
暗い箱船から、狭苦しい箱船から、不自由な箱船から、動物の世話から、動物の強烈な臭いと鳴き声から解放され、青空の下で伸び伸びしたい、深呼吸したい。
待ちに待ったこの時ですから、箱船の戸を開けて、飛び出して、乾いた大地を踏み締め、新鮮な空気を胸一杯吸い込みたいのはやまやまですが、ノアは、ノアの家族は、箱船の中の動物たちは、一人も、一匹も、一羽も飛び出しはしませんでした。
地は乾き、何の問題もない。
箱船の中に留まらなければならない理由はない。
「さあ、箱船を出ようではないか!」誰しもが考える事であり、誰しもが取る行動でしょう。
しかし、ノアは自身が箱船を出る事も、家族が箱船を出る事も、動物が箱船を出る事も許しはしなかったのです。
神様の許しがないからです。
神様の指示がないからです。
【適応】
「先んずれば人を制す」と申しまして、早ければ早いほど良い結果に行き着くと考えますが、決して早ければ良い訳ではありません。
神様の許しがない限り、先走ってはなりません、勝手な判断をしてはなりません。
何事にも時があり、熟成期間が必要であり、何より神様の御心を中心に判断、決断、行動、反省しなければなりません。
事態が好転しない時にも、状況が膠着している時にも、今がチャンス、と思う時にももう待つのは充分でしょう、と言う時にも、充分吟味され、人々の賛同を得られ、人々に促されても、神様が「OK」を出さない限り、神様が許されない限り、神様が指示を出されない限り、行動に移してはならないのです。
説教題に掲げたように「待つ、ひたすら待つ」のです。
時宜を逸する心配を抱えるかも知れません。
何時まで待てば良いのかと悩むでしょう。
この世の常識は、この社会で求められる行動は、消極的な指示待ちではなく、積極的、自発的な判断、決断で行動する事でしょう。
ですが、私たちへの神様の期待は「待つ」事であり、勝手に箱船の戸を開けて、外に出る事ではないのです。ノアが烏を放ち、鳩を放って地上の様子を調べたように、世の中の状況を調べる事は、動向を知る事はOKでしょうが、得た状況、情報で判断し、行動してはならないのです。
特に、神様の命令で始めた事は、神様の指示で終わらせなければ、中断しなければ、なりません。
信仰的な事の決断に、この世の常識、この世の社会通念を適用してはなりません。
神様の導き、命令、指示で始めた事は、自分勝手な理由、状況判断、社会通念で終わらせてはならず、神様の導き、命令、指示を待ち、待ち続け、神様の導き、命令、指示が明確に示されてから終わらせなければなりません。
聖書の教え、導きで始めた事は、自分勝手な理由、状況判断、社会通念で終わらせてはならず、聖書の教え、導きを待ち、待ち続け、明確な聖書の教え、導きを得てから終わらせなければなりません。
祈って始めた事は、自分勝手な理由、状況判断、社会通念で終わらせてはならず、祈り、祈り続け、祈りの答えを待ち、待ち続け、答えを頂いてから終わらせなければなりません。
安直に結論を出してはならず、都合の良い結論に誘導してはならず、ただただ神様から指示が、聖書から、霊的な頷きが得られるまで待たなければなりません。
何時まで待つのかを示されていなくても、何処まで行くのかを示されていなくても、全てをご存知で、最善に導いて下さるイエス様が傍にいてくださるのですから、心配いりません。
ノアは何時まで待てば示されていないのに、待ち続けました。
アブラムは何処に行くのか示されていないのに、故郷を捨てて旅に出ました。
その先に、祝福が待っていたのです。
信仰を持って待つ時、祝福が待っているのです。
信仰を持って出て行く時、祝福が待っているのです。
あなたも忍耐を働かせて待って、待ち続けて、あなたが来るのを待っている神様からの大きな祝福を受け取って下さい。
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聖書箇所:創世記7:13~24 2014-10-5礼拝
説教題:「箱舟の戸を閉ざす神様」
【導入】
暑い夏も終り、紅葉の便りも聞かれる季節になって来ました。
行楽の秋ですから、ハイキング、登山、散策等を計画されている方々もおられるのではないでしょうか。
きっちりとした計画を立てずに、行き当たり場当たりに、思いつくままに行き先を決め、用意が出来たら出発される、と言う方々もいらっしゃるかと思います。
一人旅ならば、家族での旅行ならば、それも「あり」でしょうが、友達やグループでの旅行であるならば、事前の打ち合わせ、計画が無いと、待ち合わせるにも無駄な時間が多くなり、楽しいはずの旅行がつまらない旅行に成りかねません。
都会では電車も飛行機もは次々に出発しますが、ちょっと郊外に出れば、電車の本数は極端に少なくなり、地方に行けば飛行機の便は格段に悪くなり、乗り遅れたならば大変な事になります。
時間の確認、事前の計画が大事です。
一方、世の中には期限が決められていない事が沢山あり、出入り自由、何時でも受け付けます、等などもありますが、多くの場合、締め切り期限、提出期限、受け付け期限、があり、出発時間、開始時間、締め切り時間、門限等などが決められています。
その期限も、厳格に決められている事もあれば、割り合いと、緩い事もあるようです。
同盟教団の補教師試験の提出物、正教師試験の提出物の提出期限は非常に厳格であり、配達記録が残る形で発送しなければならず、発送日が一日でも遅れたならば内容が如何に素晴らしくても、受け付けてはくれません。
どんなにお願いしても、平身低頭しても受け付けてはくれません。
公正をきするためであり、仕方がない事ですが、長年の苦労は水の泡となってしまいます。
それでも、次年度にチャレンジする事は可能ですが、チャンスは一度限り、と言うものも少なくありません。
そして、本当に大切な事、掛け替えのない事、取り返しのつかない事は、一度限りであり、遅れたならば、絶対に入れない、間に合わなければ、絶対に受け付けてはくれないような事なのではないでしょうか。
その厳格な期限ですが、突然発表される訳ではありません。
予告があり、期限が公示されます。
警告があり、執行まで猶予があります。
忘れてしまうような遥か先の事を予告するのではなく、何度も何度も予告され、警告され、注意を促し、準備をするように勧めます。
世界が洪水によって滅ぼされるとの予告、警告は、大雑把ですが100年前後の猶予がありました。
現代の100年ではありません。
800年も900年も生きた時代の100年ですから、決して長くはありません。
箱舟を造るのに必要な時間を考慮しての100年ですから、短かったかも知れません。
そんな中で、滅びの時は刻一刻と迫り、箱舟の完成と同時に、神様のご計画は次の段階に入ります。
【本論】
7:13 ちょうどその同じ日に、ノアは、ノアの息子たちセム、ハム、ヤペテ、またノアの妻と息子たちの三人の妻といっしょに箱舟に入った。
「ちょうどその同じ日に」、即ち、箱舟が完成した日に、箱舟完成途中から続々と集まって来た動物たちと共に、ノアと、ノアの家族は箱舟に入り込みます。
時に、私たちは躊躇する事があります。
二の足を踏む、と表現するような状況に置かれた時、足を踏み出すのは簡単な事ではありません。
薄暗い箱舟。
自分たちで造った箱舟ですが、だからこそ余計に不安に駆られたのではないでしょうか。
素人が造った箱舟であり、未曾有の大洪水に立ち向かうには余りにもお粗末な箱舟です。
悩み、苦しみ、自問自答があり、激しい葛藤があり、それでも決められないで、忸怩たる思いを経験された方もいらっしゃるのではないでしょうか。
しかし、ノアとノアの家族は、神様の命令に従って箱舟に乗り込みました。
渋々と神様の命令に従ったのではなく、黙々と神様の命令に、否、信仰を持って神様の勧めを選び、信仰を持って箱舟を造り、信仰を持って箱舟に乗り込んだのです。
この13節は、単に7節の繰り返しではなく、ノアの息子一人一人の名前が上げられているのが、特徴的であり、「皆が従った」ではなく「ノアと、ノアの息子たちセム、ハム、ヤペテ、またノアの妻と息子たちの三人の妻」男女八人が、誰の強制でもなく、誰の誘導でもなく、誰に騙されてでもなく、ノアとノアの三人の息子が、その妻たちが、其々に、自発的に、積極的に、個人の応答として神様の勧めに従ったのです。
「ノアの妻と息子たちの三人の妻」の名前が記されていないのは、男性中心の社会、時代にあっての事であり、妻は夫に従って箱舟に入ったのではありません。
四人の女性たちも、個人的に、自発的に、積極的に、神様に従う道を選んだのであり、自らの意志で箱舟に乗り込んだのです。
ノアの妻も、三人の息子も、その妻も、ノアから離れるチャンスは幾らでもありました。
鎖に繋がれている訳でもなく、見張りがいる訳でもありません。
100年の間に逃げ出す、離れるチャンスは数え切れない位あった筈です。
荒唐無稽な箱舟造りに現を抜かす夫に愛想を尽かして、逃げ出さなかったのです。
「もぉ、離婚だわ」の選択をしなかったのです。離れなかったのです。
その理由は、「ノアの妻と息子たちの三人の妻」との記述に、ヒントがありましょう。
「妻」は単数です。
妻が一人なのは当たり前でしょうか。
ノアの生きた時代は「地上に人の悪が増大し、その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾」いていた時代です。
不正や暴力、悪が横行する背景には、道徳の低下が著しかった事が明白です。
一夫多妻、不倫、乱れに乱れた性生活が横行し、正式な妻の他に、数人の妻を囲うのが当たり前の時代の中で、ノアも三人の息子たち、セムも、ハムも、ヤペテも、一夫一妻を貫き通したのであり、家庭に、聖さが保たれていたのです。
聖いところに、聖い者が集まるのは自然であり、或いは、聖いものに触れるなら、聖くされるのは必然であり、ノアの聖さが、如何に秀でたものであったか、かを知る事が出来るのではないでしょうか。
そんな聖いノアたちに、神様が注目し、世界の滅びから救い出そうと思われ、ノアたちも応答したのです。
13節の最後の言葉「入った」は7章で6回使われていますが、ノアたちの応答や、動物の自発性と共に、神様の摂理的な働きかけによって「入れられた」事を暗示させるのです。
箱舟に入れられた人間たちや動物たちは、神様のご計画、神様の摂理で生き残るように定められていたがために「入れられた」のあり、滅びに定められているモノが「入れられる」事は決してないのです。
7:14 彼らといっしょにあらゆる種類の獣、あらゆる種類の家畜、あらゆる種類の地をはうもの、あらゆる種類の鳥、翼のあるすべてのものがみな、入った。
7:15 こうして、いのちの息のあるすべての肉なるものが、二匹ずつ箱舟の中のノアのところに入った。
7:16 入ったものは、すべての肉なるものの雄と雌であって、神がノアに命じられたとおりであった。それから、【主】は、彼のうしろの戸を閉ざされた。
ノアとノアの家族と共に、「あらゆる種類の獣、あらゆる種類の家畜、あらゆる種類の地をはうもの、あらゆる種類の鳥、翼のあるすべてのものがみな」箱舟に入れられました。
ノアが選んだのではなく、ノアが連れて来たのでもありません。
神様に選ばれた動物たちが、不思議な神様の導きで遠い所から、長い旅を続けてノアの所に辿り着いたのであり、箱舟に入れられたのです。
100年掛りの箱舟建造計画であり、箱舟完成の日に合わせて、動物たちは箱舟に到着し、箱舟に入ったのです。
一ヶ月、一年の短期の計画でも、周到、綿密に立てた計画でも、齟齬が生じ、行き違いが起こり、計画がずれる事はよくある事ですし、ずれる事も想定の範囲でしょう。
しかし、神様のご計画には、齟齬も行き違いもズレも全くありません。
締め切りを延期する事もなく、門限を伸ばす事もなく、遅れている動物たちを待つ事もなく、全て、計画の通りであり、乗り遅れは“0”なのです。
神様のご計画、摂理に従って集まった動物たちが箱舟に乗り込んだ直後に、箱舟の戸は神様によって「閉ざされ」ました。
この記述は、ノアが内側から戸を閉めた事を否定するものではありません。
神様のご意志によって行動するノアの動作を、神様ご自身の業として説明しているのです。
勿論、神様が超自然な方法で戸を閉ざされたのかも知れません。
ノアや私たちの理解を超えた、神様の憐れみのご計画を強調しているのです。
神様によって「閉ざされた戸」は、神様によってしか開かれません。
遅れている動物が見えたから「閉じるのを待とう」…はありません。
悔い改めた人間が現れたから「開こう」…もありません。
可愛そうだから「開けてあげよう」…もありません。
閉じてしまってからでは、大洪水が終えるまでは、絶対に開かれる事はないのです。
ここに、裁きの厳しさが現されています。
神様の忍耐はギリギリまで維持され、裁きの始まる瞬間まで、持続しますが、裁きが始まったならば、即ち、戸が閉じられたならば、それは完全な断絶、遮断であり、箱舟に入る如何なる方法もないのです。
戸が閉ざされるまでが全てであり、戸が閉ざされた瞬間に、救いの道は完全に閉ざされ、箱舟の中に居る物だけが大洪水を逃れられ、救われるのです。
7:17 それから、大洪水が、四十日間、地の上にあった。水かさが増していき、箱舟を押し上げたので、それは、地から浮かび上がった。
7:18 水はみなぎり、地の上に大いに増し、箱舟は水面を漂った。
7:19 水は、いよいよ地の上に増し加わり、天の下にあるどの高い山々も、すべておおわれた。
7:20 水は、その上さらに十五キュビト増し加わったので、山々はおおわれてしまった。
大雨が降り注ぎ、地下水が湧き溢れ、大洪水になる様子が描かれていますが、本当に地球の全ての陸地が水没したのでしょうか。
アルプスも、ヒマラヤも、エベレストも水没したのでしょうか。
聖書を読む時に注意しなければならない事は、絶対的な意味での記述と、象徴的な意味での強調的記述、誇張的記述とを、区別しなければならない、と言う事です。
文字通りの意味で捕らえ、理解しなければならない記述と、誇張的記述、強調的記述を区別しなければなりません。
聖書は科学論文ではなく、地理について語る事が目的でもありません。
聖書の関心、中心は「人間の罪」と「罪からの救い」であり、この洪水物語の関心は、伝えたい事は「人間の招いた裁きの結果」を記す事であり、裁きの厳しさ、凄まじさを、散文的に、文学的に表現しているのであり、神様の裁きから逃れ得るものは何一つない事を強調しているのです。
「地」と訳されているヘブル語には「土地、故郷」の意味があり、「山」と訳されているヘブル語には「丘、高地」の意味があります。
「地」は必ずしも「地球」を意味してはおらず、「山」は「8000m級のアルプスやヒマラヤ」を意味してはいないのです。
しかし、極、限られた地域での大洪水、大災害、と断定するのは、21節以降の記述とそぐわず、採用できる説ではありません。
また、この当時、陸地は一箇所に集まっていて、概ね平地であり大洪水の後に、地殻変動が起こり、土地が隆起し、山脈が出来た、大陸に分かれたとする説がありますが、時間的に無理があり、採用できる説ではありません。
誇張的表現、強調表現をしていますが、現実に見渡す限りの大洪水が起こったのであり、箱舟の窓から外界を見渡した時、視界に映る限り、遥か彼方までの全面が水に被われていたのであり、人間や動物が生き残れる可能性が全くない事を記述しているのです。
7:21 こうして地の上を動いていたすべての肉なるものは、鳥も家畜も獣も地に群生するすべてのものも、またすべての人も死に絶えた。
7:22 いのちの息を吹き込まれたもので、かわいた地の上にいたものはみな死んだ。
7:23 こうして、主は地上のすべての生き物を、人をはじめ、動物、はうもの、空の鳥に至るまで消し去った。それらは、地から消し去られた。ただノアと、彼といっしょに箱舟にいたものたちだけが残った。
7:24 水は、百五十日間、地の上にふえ続けた。
大雨が降り注ぎ、地下水が噴出し、各地に鉄砲水、土石流、土砂災害が起こった事でしょう。
精々一週間程度の大雨による鉄砲水、土石流でも甚大な被害をもたらすのですから、40日40夜の経験した事のない豪雨は、どれほどの災害をもたらした事でしょうか。
しかし、それは序章であり、大洪水の状態が150日間も続いたのです。
息吐く暇を与えない過酷な状況が5ヶ月も続いたのです。
あちらこちらからの地下水の止めど無い噴出は、豪雨とあいまって筆舌に尽くしがたい大災害を引き起こした事でしょう。
穏やかな海であっても、長く泳ぐのは当然ながら、浮かんでいるのも困難です。
波が襲い掛かり、深みに引きずり込まれ、上下も分からなくなってしまうのです。
水が文字通り荒れ狂い、浮かび、泳ぐ生き物に襲いかかり、翻弄し、揉みくちゃにし、全てを押し流し殺してしまったのです。
それもこれも、人間が堕落したからであり、地が暴虐で満ちていたからです。
それでも直ぐに裁きを下さず、ノアを通して裁きが迫っている事を教え、救われるための方法を示してくださったのです。
しかも、100年近くも待ってくださった、猶予を与えてくださったのですが、人間は無為に過ごし、堕落、暴虐から立ち帰りはしなかったのです。
神様が箱舟の戸を閉められるのを、人々はどんな思いで眺めていたのでしょうか。
【適応】
箱舟は、当時の世界では比類のない超巨大な建造物です。
人々の注目を集め、関心を得た事は間違いありません。
時に、東京スカイツリー見物のように、箱舟見物ツアー、箱舟内部見学ツアーが組まれたかも知れません。
物見遊山の、大勢の見物人が後を絶たなかったのではないでしょうか。
しかし、箱舟と自分とを関連付けては考えなかった、考えられなかったのです。
箱舟は巨大であり、関心は示しますが、それ以上ではなかったのです。
大洪水が起こる、世界が滅びる…そんな馬鹿な事が起こるはずがない。
しかし、何を根拠に裁きがない、世界の滅びはないと言うのでしょうか。
逆に、裁きが、滅びが目前に迫っている証拠は山ほど上げられましょう。
「4:8カインは弟アベルに襲いかかり、彼を殺した」のであり、
「4:23私の受けた傷のためには、ひとりの人を、私の受けた打ち傷のためには、ひとりの若者を殺した。
4:24カインに七倍の復讐があれば、レメクには七十七倍」と豪語した事は、人々の知るところです。
「6:5地上に人の悪が増大し、その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾いていた」のであり、
「6:11 地は、神の前に堕落し、地は、暴虐で満ちていた。
6:12 神が地をご覧になると、実に、それは、堕落していた。すべての肉なるものが、地上でその道を乱していた」のです。
神様はノアに裁きを語り、ノアに箱舟造りを命じ、ノアは100年掛りで箱舟を建造したのです。
その100年の間、また、箱舟完成に合わせて、見た事もないような珍しい動物たちが次々と現れ、続々と箱舟に乗り込む様子を目の当たりにしたのです。
これ以上、幾つ証拠を見せれば、提示すれば納得すると言うのでしょうか。
箱舟にノアとその妻、ノアの三人の息子とその妻、動物たちが乗り込んだ直後には暫しの静寂が在ったのではないでしょうか。
箱舟の横腹に開いている、箱舟の大きさに比べたら非常に小さい、しかも真っ暗な穴のような入り口。
薄気味悪いかも知れません。
この穴の先に希望があるなんて、俄かには信じられないでしょう。
しかし、人の命令にはなかなか、否、絶対に従わない野生動物たちが、野鳥たちが誰に追い立てられるでもなく、整然と、黙々と箱舟に乗り込むのは異常な光景で在った筈です。
野生動物は非常に勘が鋭く、危険をいち早く察知し、安全な所に一目散に逃げて行きます。
その野生動物たちが、野生の鳥たちが、狭い、暗い戸口に逃げ込むのですから、箱舟以上に安全な場所はないのではないでしょうか。
人間は経験を判断材料とし、知恵を駆使し、進む道を選びますが、経験した事がない事には、知恵が及ばない事には、どう対処したら良いのでしょうか。
何も指針や啓示がなければ、路頭に迷うしかありませんが、知恵も経験も限られた野生動物たちが箱舟に入るのを見た時に、ここに安全があり、救いがあると信じるのは愚かな事でしょうか。
地震や災害の前触れとして、動物の異常行動が上げられますが、決して偶然でも、意味のない行動なのでもありません。
神様が与えてくださった危険予知能力なのではないでしょうか。
動物の行動や、無名の牧師の言う事なんか信じられず、学者や知識人の発言でないと信じられないのでしょうか。
有名な教会、カテドラルには訪問者が絶えませんが、十字架をアクセサリーにはしますが、教会や十字架を自分の救いに関連付けては考えません。
聖書は荒唐無稽な書物であり、歯牙に掛ける価値もない書物となっています。
聖書に記されている大洪水物語は、神話や寓話ではなく、歴史の事実であり、時至って、最終的な裁きがある事と、救われるための道が備えられている事を教えます。
その救われる道は、神様のご計画は、知識や経験では知る事が出来ず、人々には愚かに見え、何故、どおしてと訝るような事ですが、
キリスト・イエスを信じる信仰で救われるのです。
人間の知恵や経験では理解出来ない事なのです。
そして、箱舟の戸が閉められる時が来たように、終りの時は刻一刻と迫っているのであり、戸が閉められてからでは、泣き叫ぼうが、懇願しようが、決して開けられる事はないのです。
しかし、裁きが来る事を信じ、救いがキリスト・イエスにある事を信じるなら、誰でも必ず救われるのであり、決して滅ぼされる事はないのです。
戸は必ず閉まります。
その前兆は明らかです。
風紀は乱れ、風俗産業花盛り、神様が定められた結婚の制度の尊厳は地に落ち、バツ三さえも珍しくはなくなっています。
法律の隙を突く違法行為の蔓延、モラルを欠いた飽くなき利益の追求、人命、人権の尊厳は踏みにじられ、簡単に、無差別に、欲望のために殺人を犯し、と、神様の御こころを無視した、否、神様に歯向かうような、挑戦するような世の中です。
終末は確実に近づいています。
キリスト・イエスと言う舟の、救いの戸が閉まる前に決断し、乗らなければなりません。
あなたは何時、決断し、キリスト・イエスと言う舟に乗りますか。
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