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聖書箇所:ヨハネの福音書3:22~30 2014-11-30礼拝
説教題:「皆あのお方の方へ」
【導入】
29節に花婿の友人が登場しますが、ここに紹介されている友人は、私たちが考えるような結婚式に招かれた多勢の友達の一人ではありません。
日本風に言うならば仲人、或いは結婚披露宴の司会者のような存在であり、働き人の事です。
仲人の働きは花婿と花嫁を出合わせることであり、要所要所でアドバイスをしたりして、結婚までを滞りなく進める事が重要です。
仲人は、二人との出会いの時に自己紹介はしますが、その後は花婿、花嫁が主人公です。
司会者も結婚式、披露宴の進行を務めるのが目的であり、主人公は花婿、花嫁であり、司会者が何時までもスポットライトを浴びているのはおかしい事です。
このヨハネの福音書はイエス様の生涯、働きについて記されたものですが、その始めにはバプテスマのヨハネの事が記されていましたが、その目的はバプテスマのヨハネの働きを明確にするためであり、決してバプテスマのヨハネ伝でもなければ、その功績を称えたものでもありません。
バプテスマのヨハネの働きは、光であるイエス様を証しする事、人々に紹介する事であり、イエス様が来られるまでの道ぞなえなのです。
ですから、光である、主人公であるイエス様が来られたならば、スポットライトはバプテスマのヨハネからイエス様に移り、イエス様が主人公とならなければなりません。
そして、その使命を明確に自覚していたバプテスマのヨハネはイエス様と出会って「この方こそ、聖霊によってバプテスマを授ける方である」、「この方が神の子であると証言しているのです」と公に告白し、人々をイエス様と出会うに相応しく、悔い改めに相応しい実を結ぶようにバプテスマを授け続けていたのです。
しかし、頭では解かっていても、心では受け入れられないのが人間の弱さであり、バプテスマのヨハネの弟子たちの姿でもあったのです。
イエス様と出会うための備えであるバプテスマであるはずですが、何時の間にかバプテスマを授ける事が目的となってしまい、弟子たちはバプテスマ自体に重要性を、目的を持ち、イエス様の道備えという働きが見えなくなってしまっていたのです。
この本末転倒の弟子たちの姿から、キリストの弟子のあるべき姿を確認して行きたいと思います。
【本論】
3:22 その後、イエスは弟子たちと、ユダヤの地に行き、彼らとともにそこに滞在して、バプテスマを授けておられた。
エルサレムでユダヤ人の指導者ニコデモとの問答を終えたイエス様は、弟子たちと共にエルサレムから下られてユダヤの地に行き福音を宣べ伝えられました。
福音を宣べ伝えるだけではなく、バプテスマをも授けておられた事が記されています。
しかし、このバプテスマはイエス様ご自身が授けられていたのではなく、4章2節に記されているように弟子たちが授けていたのです。
弟子たちが授けていたからと言って権威がないのではなく、主イエス様の監督の下に、主イエス様のお名前によって弟子たちが授けていたのであり、主イエス様ご自身の業である事を確認しておかなければなりません。
初代の弟子たちはイエス様からバプテスマを授けられ、使徒の時代に入ってからは弟子がバプテスマを授けた、と言うような事ではなく、福音宣教の始めから弟子たちが主イエス様のお名前によってバプテスマを授けていたのであり、それが今日まで連綿と続いているのです。
主イエス様の御名によるバプテスマですから昔も今も、誰に授けられたかも全く問題なく、遜色ない権威があるのです。
3:23 一方ヨハネもサリムに近いアイノンでバプテスマを授けていた。そこには水が多かったからである。人々は次々にやって来て、バプテスマを受けていた。
3:24 ・・ヨハネは、まだ投獄されていなかったからである。・・
ユダヤの地と、サリムに近いアイノンがどの位離れていたか解かりません。
ユダヤの地は特定の地ではなく、広い範囲を現した地名であるからです。
またアイノンも現代ではここだと確定する事が出来ず、ガリラヤ湖の南30km辺りではないかと考えられているだけです。
問題は場所ではなく、バプテスマのヨハネもバプテスマを授け続けていた事にあるのです。
バプテスマのヨハネのバプテスマとイエス様のバプテスマ。
どちらが有効か、大事か。上か、下か。
日本風に言うならば霊験あらたかなのか、です。
3:25 それで、ヨハネの弟子たちが、あるユダヤ人ときよめについて論議した。
「きよめ」と記されていますが、意味する所はバプテスマの事であります。
どこの世界にもありそうな論議ですが、結局、どっちが本物か、きよめる力に優れているか、と言う事です。
光であり、命であり、神の子であるイエス様から受けたバプテスマの方がありがたい、と思うのが人情であり、それがバプテスマのヨハネの弟子との口論の原因なのです。
ユダヤ人にとって聖めは大切な儀式であり、エッセネ派は日に何度も聖め、つまりバプテスマを行なっていた事が記録に残っています。
ユダヤ人が聖めの儀式にかける情熱は半端なものではなく、徹底的な細則を設けて、聖めの儀式に細心の注意を払いました。
ですからバプテスマのヨハネのバプテスマと、イエス様のバプテスマのどちらに権威を認めるかは格好の話題となった訳なのです。
ここで先に進む前にバプテスマについて確認しておきましょう。
バプテスマのヨハネのバプテスマと、イエス様の弟子が授けたバプテスマ。
そして、イエス様が十字架に掛かられて後のバプテスマ、つまりペンテコステ以降のバプテスマ、この三者に違いがあるか、ないかです。
結論を一言で言うならば、大きな違いはない、と思います。
ヨハネのバプテスマとキリスト教のバプテスマは、付随的な点では異なっていますが、本質的な点では同じであり、バプテスマのヨハネによってバプテスマを授けられた者は、ペンテコステの日の後、再びバプテスマを受ける必要はないのです。
何故なら、ヨハネのバプテスマは、ユダヤ教の清め、洗い、ではなく、罪の悔い改めのバプテスマであり、神様に立ち帰る告白の結果のバプテスマであるからです。
また、バプテスマのヨハネの弟子であるペテロ、アンデレがイエス様の弟子になった時、また、ヤコブ、ヨハネ等の弟子たちがイエス様からバプテスマを受けたと言う記述がない事から、イエス様はバプテスマのヨハネの授けるバプテスマの権威を認めていたのであり、イエス様ご自身がヨハネのバプテスマの権威を認めていた事を証ししているからです。
勿論イエス様がバプテスマを受けられたのは罪の赦しを受けるための悔い改めのバプテスマではありません。
また、原始キリスト教のバプテスマは、現代のバプテスマの形態とは大きく違っていました。現代の「父、子、聖霊の名によって」となるのはずっと後の時代の事であり、イエスさまの時代は簡単、単純なものであったのです。
さらに、4章2節で弟子がバプテスマを授けていたと言う記述から、イエス様はバプテスマを授けてはいなかったのであり、弟子のバプテスマに権威を認めていた事の証しとなっているのです。
バプテスマは「心で信じて、口で告白した」「しるし」として授けるものであり、バプテスマで救われる、赦されるのではないからです。
イエス・キリストの御名によるものであり、授ける者の影響は受けない、イエス・キリストの名において授けられるバプテスマは全て有効である、と言う事なのです。
後世において「父と、子と、聖霊」の御名においてバプテスマが授けられますが、その本質は「罪の告白」に対する信仰によって授けられるものであり、バプテスマのヨハネのバプテスマも、罪の告白と、神に立ち返る告白に対するバプテスマですから本質において同じと言えるのではないでしょうか。
ユダヤ人とバプテスマのヨハネの弟子の、問答の結論は記されていませんが、あらゆる時代の人々は、単に人間が定めた儀式について質問をし、論争し、そのために相手を罵り、迫害する事に熱心ではあるが、その意味するところ、神様の願いである信仰、希望、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、柔和、自制について、肉に死ぬ事、御霊によって生きる事には、少しも熱心を示さないなら悲しい事です。
バプテスマを受ける事も聖餐を受ける事も重要ですが、その意味する所を忘れたならば、バプテスマも聖餐も有益どころか特権意識、選民思想につながる危険な事です。
バプテスマを受けた後も、以前と何ら変らない生活をしているなら、聖餐を受けても日々の悔い改めがないなら、そんなバプテスマにも聖餐にも何の意味もないのです。
心の状態こそ問題としなければなりません。
権威主義、形式主義に陥りやすい私たちへの警告としたい教えです。
3:26 彼らはヨハネのところに来て言った。「先生。見てください。ヨルダンの向こう岸であなたといっしょにいて、あなたが証言なさったあの方が、バプテスマを授けておられます。そして、みなあの方のほうへ行きます。」
多くの人々はイエス様のバプテスマの方に権威を見て取って、イエス様の方へ行き、ヨハネからは離れて行ったようです。
ヨハネの弟子たちは自分たちの師の働きのために心配を示し、イエス様が公に活動を始めたために、ヨハネの人気が落ちて着た事に苛立ちを示している様子が現されています。
弟子たちはヨハネの証言を聞いていて、イエス様がどのようなお方なのかをしっかり教えられているはずなのに、イエス様の働きを認められないのです。
キリスト教界の初期の段階から、心の狭さと、党派心が露に記録されていて悲しむべき箇所です。
しかしこれは他人事ではありません。
現代でも、教勢の拡大に重きを置きすぎて、信徒の奪い合い、いい加減な受け入れが横行し、実のない、見せ掛けだけの教会が乱立するならば、神様はどんなに悲しまれるでしょうか。
受洗者何名、教会員数何名。
こんな目標を掲げたくなる気持ちも解からなくもありませんが、神様の働きは人数で現されるものではありません。
内なる状態が整えられれば、受洗者は与えられ、教勢は増えるのではないでしょうか。
私たちは心して、こんな教勢拡大の片棒を担がないよう注意しなければなりません。
3:27 ヨハネは答えて言った。「人は、天から与えられるのでなければ、何も受けることはできません。
この節も非常に示唆に富んだ節です。
成功、勢力の拡大など大きな影響力を持つようになる事は、いずれも神様が与えて下さった賜物によるのであり、その働きが、他の働き人に取って代わることも神様の御心である事を受け入れなければなりません。
ヨハネの偉大な働きもイエス様が来られるまでであり、それが神様の御心なのです。
ヨハネがこの事をわきまえていたように、状況の変化を御心として受け入れ従ったように、私たちも神様の定めに従わなければならないのです。
しかしヨハネの弟子たちは状況の変化、イエス様の働きにシフトしている事を受け入れる事が出来ません。
3:28 あなたがたこそ、『私はキリストではなく、その前に遣わされた者である。』と私が言ったことの証人です。
第三者がイエスのバプテスマだ、ヨハネのバプテスマだと騒いでいるなら兎も角、ヨハネの弟子たちこそ、キリストの証人となるべき人物たちなのです。
ヨハネは弟子たちに対しても「見よ、神の小羊」と紹介し、弟子たちがイエス様に付いていく事を、イエス様の弟子になる事を妨げる事はしなかったのです。
ヨハネは繰り返し、自分はキリストではなく、遣わされた者に過ぎない事を弟子たちに思い出させます。
さらにバプテスマのヨハネは自分とイエス様との関係を花婿とその友人の関係を例えに用いて説明します。
3:29 花嫁を迎える者は花婿です。そこにいて、花婿のことばに耳を傾けているその友人は、花婿の声を聞いて大いに喜びます。それで、私もその喜びで満たされているのです。
花嫁とは信者、花婿とは主イエス・キリストを現しています。
ユダヤ人の習慣によれば、友人の働きは花嫁と花婿の連絡係を務めることです。
友人は花婿の利益を図り、あらゆる障害を出来る限り取り除き、両者が早く結婚出来るように奔走しました。
この目的を果し、花嫁と花婿が良い関係を結ぶ事が出来るなら、友人にとってそれに勝る喜びはないのです。
バプテスマのヨハネの使命は人々にイエス様を紹介する事であり、人々がイエス様の言葉を聞いてイエス様を受け入れて、イエス様の花嫁となる事です。
その時イエス様の喜びはヨハネの喜びとなるのだと語っているのです。
イエス様と人々が出会い、受け入れ結婚するならば、友人であるヨハネの働きはそこで終ります。
3:30 あの方は盛んになり私は衰えなければなりません。」
イエス様が主人公であり、ヨハネはしもべに過ぎないのです。
イエス様はますます権威のある方として崇められ、ヨハネは次第に人気を失っていかなければならないのは、正しい事であり、適切な流れであり、必要な事なのです。
しもべが何時までも主人にとって代わっていてはならず、夜が明けて太陽が昇ったならば、明けの明星は徐々に光を失っていくように、それが自然の摂理であり、ヨハネはそれを自分に当て嵌めて語ったのです。
あの方は盛んになり私は衰えなければなりません。
イエス様は太陽のように輝き、ヨハネはその圧倒的な輝きの中で、その存在が薄らいで行くのですが、それでいいのだ、それがあるべき姿なのだと語っているのです。
イエス様がバプテスマのヨハネを評して「女から生まれた者の中で一番偉大な人物」と言いましたが、ヨハネが偉大なのは立派な働きをした事だけではなく、何時までも、その地位にしがみついて、勢力を保持しようとしなかった事、自分の分をわきまえていて、引き際をわきまえていた事、自分を虚しくして、イエス様に道を譲って、主役の座を明け渡した事なのです。
【適応】
教会の働き、説教者の働きは、皆にイエス様を紹介する事です。
皆をイエス様の方へ導く事です。
誰それ先生の教会、と言う言い方をしますが、大きな間違いです。
便宜上、そのような言い方をしますが、教会はキリストのモノです。
教会はキリストの花嫁であり、誰のものでもありません。
説教者は教会の頭ではなく、しもべとしてキリストを指し示す事に徹し、福音を語り、神様の裁きを語るのです。
警告を発し、悔い改めを促すのです。
信者である聴衆が知識と信仰において成長する手助けをし、キリストを益々はっきりと知る様になり、自分の事は以前より重く考えないようになることの手助けをするのです。
人々をキリストの花嫁として相応しく整えるのが、キリストの弟子の務めです。
キリストの弟子の働きは、主であるキリストに成り代わる事ではありません。
バプテスマを授ける事でも、病気を癒す事でもありません。
人々に尊敬され、もてはやされる事でもありません。
自分が輝くのではなく、輝いている方を教える事がキリストの弟子の働きなのです。
キリストの弟子の働きは、教会に人々を連れて来る事であり、あらゆる生活の場でキリストを証しする事です。
家族、友人、知人が教会に来るように祈り、誘って見ましょう。
それは、無理矢理教会に連れてくるとか、口を開けばキリストと喚く事ではなく、
教会に、キリスト教に興味を持たせる事です。
バプテスマのヨハネが自分の働きを明確に自覚し、イエス様を指し示す働きに徹した様に、私たちも何かを為したり、立派なことをするのではなく、聖霊に充たされて、イエス様を紹介すれば良いのです。
そうすれば聖霊が働いて人々はキリストに興味を持ち、教会に関心を示すでしょう。
罪深い私たちには難しい事ですが、聖霊様の助けがあれば、出来ない事ではありません。
聖霊に満たされる事を願い、祈るなら、神様は祈りに応え、聖霊様を送って下さいます。
聖霊の助けによって、あなたに証しする力を与えて下さり、聖霊の助けによって、人々がキリストの下に来るようにして下さるでしょう。
皆あの方のほうへ、それは神様の願いであり、私たちの喜びにつながる事なのです。
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聖書箇所:ヨハネの福音書3:17~21 2014-11-23礼拝
説教題:「神が御子を世に遣わされた」
【導入】
商店街やデパート、また繁華街や遊園地などではハロウィンの飾り付けからクリスマスの飾り付けに慌しい昨今ですが、キリスト教会では、次週はアドベント第1週目を迎える訳です。
「アドベント」とは「到来」と言う意味で「待降節」とも言い、救い主の来られるのを待ち望む期間の事ですが、初臨にも、再臨にも使われる言葉です。
即ち、この世の救いの為に、人となられた主イエス・キリストの来臨を待ち望む時であると同時に、人類の罪の審判者として、やがて来りたもう再臨のキリストを待望する時の二つの意味があるのです。
歴史的には東方教会において初めに復活節に備えるレントとともに定着しました。
西方教会では6世紀になってクリスマスの準備の期間として取り入れられるようになり、11月30日に一番近い日曜日をアドベント初日としました。
尚、この日が教会暦の一年の、初めの日と定められたのは8世紀頃からと言われています。
欧米において待降節は主イエス・キリストの来臨を待ち望む期間とされ、厳粛に生活する習慣が行き渡っています。
しかし、段々とその意味が薄れ、お祝いの、お祭りの要素だけが表面に出て来ているようです。
日本ではその傾向が顕著で、世の中は年末の慌しさと共に、お祭り、お祝いとしてのクリスマス一色で、イエス様の再臨に思いを寄せる人はほんの僅かしかいないのが現実です。
嘆かわしい事ですが、そう言う私たちもどれだけイエス様の再臨を待ち望んでいるでしょうか。
口では再臨を願っていても、その生活が、行動が、思いがイエス様の再臨を待ち望んでいると言えるでしょうか。
今日、もう一度、イエス様の来られる事の意味について考えたいと思います。
【本論】
3:17 神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。
この言葉の前提となっているのは3章16節の言葉です。
即ち「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」
このヨハネの福音書3章16節は聖書の中の聖書であり、聖書の中心的主題を簡潔、的確に現した言葉であり、聖書の中に、これ以上素晴らしい御言葉はありません。
多くの人が愛唱聖句に上げていますが、罪人である私たちに慰めを与え、希望を与える御言葉です。
17節も16節と同じように私たちに慰めを与える言葉です。
神様のお考えは、罪にまみれ邪悪なこの世を嫌うどころか、愛して下さり、滅ぼす事なく、永遠の命を与える事であり、救う事であり、それを明確に宣言しているのです。
神様は凡そ2000年前に、罪の赦しのために、救いのために独り子を遣わされたのです。
メシヤとして世に遣わされた神の子、イエス様は、私たちの救いのためにこの世に来られたのです。
神様は、この罪の世を、神様に逆らう人間を救うために、天使や、他の被造物ではなく、ご自身の独り子である御子を遣わしました。
その理由は罪の無いお方、被造物でないお方、つまり神様だけしか、世の罪から人を救い出す事が出来ないからです。
ニコデモを初めとして全てのユダヤ人は、メシヤは世を裁くお方として認識していました。
古の預言者はメシヤによる裁きを語り、滅びを宣言しました。
例えば、詩篇2篇9節「あなたは鉄の杖で彼らを打ち砕き、焼き物の器のように粉々にする」とのダビデの預言を、ダニエル書7章9節~22節の「もろもろの王座が覆され、年を経た方が世界を裁く」と言う裁きについてのダニエルの預言によって、メシヤを裁き主として認識していたのです。
ニコデモはメシヤが来られる時には力と大いなる栄光を身にまとって来られ、全ての人を裁くと言う期待を抱いていたのです。
その時には律法を守るユダヤ人は天国に入れられ、律法を知らない、或いは律法を守らない異邦人は裁かれ、地獄に行くのだと。
このような考え方はユダヤ人、ユダヤ教に限った事ではなく、多くの人が、神様が来られた時には、正しい者を天国に入れ、悪人を地獄に落とす事を期待し、多くの宗教が、この事を教えています。
しかし、イエス様がニコデモに語られたのは、ユダヤ人に語られたのは、私たちに語られたのは、神様のご計画、メシヤを遣わすのは、悪人に対する裁きではなく赦し、罪人に対する滅びではなく永遠の命を与えるためだと仰ったのです。
しかも、それはユダヤ人に限った事ではなく全ての人々が対象なのであり、人種も、男女も、国籍も、言葉も、民族も関係無いのです。
正しい者が天国に入れられ、悪人が地獄に行く事は至極当然の事のように思え、悪人が赦されるのは不当な事、そんなのずるい、と思うのが大方の考えではないでしょうか。
しかし、果して正しい者がこの世に居るのでしょうか。
盗んだり、人を殺す事だけが罪ではありません。
心の中で憎んだり、ねたんだりする事も罪なのであり、神様を神様として崇めず、その命令に従わない事も罪であり、そのような事が一度もない、と言い切れる人が居るのでしょうか。
神様が義と認める、本当に正しい人が何人居るのでしょうか。
残念ながら一人も居ません。
神様が世界を裁かれたなら、その裁きに耐えられる人は一人も居ないのです。
もしメシヤが裁き主であるなら、凡そ2000年前に人類は滅び、世界には人っ子一人居なく無っていた事でしょう。
メシヤは裁き主ではなく救い主としてこの世に来られた。
イエス様はニコデモの考え違いを、ユダヤ人の考え違いを17節で指摘し教えておられるのです。
神様が世を裁くのは本意ではないとしても、何でも赦し、受け入れる、と言う事ではありません。
神様が世を救うには条件があります。
それは「御子によって」です。
御子、即ち「イエス・キリスト様」以外には如何なる手段も方法も、世を救う事は出来ないのです。
良い行ないも、律法を守る事も、修行も、訓練、鍛錬の類も、役には立つでしょうが、救いの手段にはなり得ないのです。
御子によってだけ救われるのです。
また「御子によって世が救われるため」ではありますが、世の全ての者が最後には救われて、誰も失われる者が無いようにするのでもありません。
この事を明確にするために、イエス様は18節の言葉を語られます。
3:18 御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。
メシヤが来られ、世の罪を取り除いたので、誰もが裁かれないのでは、無条件で救われるのではありません。
無条件で赦されるのではありません。皆が漏れなく御国に入れるのでもありません。
御子を信じる者は裁かれないのですが、信じない者は裁かれるのです。
しかも、聖書は「裁かれるであろう」と予言しているのではなく「裁かれている」と、未来の事を過去の事のように断言しているのです。
イエス様を信じない事は、裁きを確定する事であり、未来のある時点で、それは自身が死を迎える時かも知れませんし、イエス様が再臨される時かも知れませんが、その時に裁かれている事がはっきりするのです。
人間の社会でも裁判が行なわれ、有罪が確定し、死刑が決定しても、その場で死刑が執行される事はありません。
それから何日か後に、或いは何年か後の、ある時点で刑が執行される訳です。
神様の裁きも同じように、裁かれ、刑は確定してはいますが、刑務所で拘束される訳ではありませんから、無罪の人と何ら変らない地上での生活を送る事が出来るのです。
しかし、その生活は似て非なるものです。
片や永遠の命に、片や永遠の滅びに向う生活なのです。
何故イエス様を信じない事が裁きなのでしょうか。
3:19 そのさばきというのは、こうである。光が世に来ているのに、人々は光よりもやみを愛した。その行ないが悪かったからである。
3:20 悪いことをする者は光を憎み、その行ないが明るみに出されることを恐れて、光のほうに来ない。
人は光であるイエス様の下に来るか、避けて来ないかの二者選択しか道は無いのです。
光を愛するか、闇を愛するか。
闇とは道徳的闇、知的闇、すなわち、罪、無知、迷信、および無信仰です。
人はこれら全ての事と手を切らない限り、イエス様の下に来て、福音を受け入れる事は出来ません。
それなのに彼らは闇と手を切るどころか、闇を愛し、離れようとはしないのです。
闇から離れられない事が裁きであり、そのまま滅びを決定付ける行為なのです。
光は遥か彼方にあるのではありません。
私たちの所に来て下さったのですから、調べる必要も、探す必要もありません。
唯、受け入れれば良いのに、それを拒否したのですから、弁解の余地はありません。
彼らは光よりももっと愛しているものがあり、それが彼らをキリストの下に来させようとしないのです。
彼らには、やめたくない何かがあり、明るみに出されたくない事が、非難されたくない事が確かにあるのです。
人の目にはそれを隠す事が出来るかも知れませんが、神様の目に隠す事は出来ません。
それらのものが彼らを裁き、有罪とするのです。
3:21 しかし、真理を行なう者は、光のほうに来る。その行ないが神にあってなされたことが明らかにされるためである。
「真理を行なう者」とは「真理を行なおうと願う者」と意味理解すると解かり易いでしょう。
何故なら義人は一人も居ないのですから、真理を行なう者も一人も居ません。
人は罪人ですから、自発的に真理を行ない得ないのです。
イエス様という光が来て下さり、その光を受け入れた者が真理を行ない得る者とされるのです。
光の方に来れば、自分の行ないが正しいか、悪いかが解かります。
光の方に来るから、何が真理かが解かり、真理を行なえるようにもなるのです。
光が基準になれば、その判断は何時も神様の前に真実で、正しいものとなります。
それは神様に受け入れられ、裁きを受ける事がないのです。
【適応】
裁かれないためにはイエス様を信じなければなりません。
それは今までの生き方を捨てる事、罪から離れる事、生き方を変える事、罪咎を明るみに出す事ですから、簡単な事ではないでしょう。
ある人にとってはものすごい決断が必要とされると思います。
しかし、簡単ではありませんが、不可能な事ではありません。
私たちには難しい事ですが、神様に不可能はないからです。
しかも、聖霊という助け主が常に傍にいて助けて下さり、イエス様という執り成し主が、神様の横にいて執り成して下さっているからです。
闇を愛するとは、悪い事をするとか、悪癖を止められないと言う事ではなく、それを隠し、神様の前に明らかにしない事なのです。
神様の前に隠したい事、明るみに出したくない事、それは人様々ですが、上辺を繕い、如何にも敬虔そうに過ごしながら、心のうちは問題が、罪が渦巻き、神様に告白しないで、自分の努力で何とかしよう、何とか出来ると考えて、明け渡さない事、隠し続ける事が闇を愛すると言う事なのです。
その行ないの全てを神様の前に明らかにされる事を真剣に求め、祈る時、神様は罪や問題を追及されず、赦しを宣言し、イエス様の義を与えて下さいます。
イエス様が来られたのは罪を追及し、咎を暴き、裁く目的ではありません。
罪咎に苦しみ、悩む人々に赦しを宣言し、罪咎の呪縛から開放するために来て下さったのです。
この恵み、祝福は全ての人に提示されています。
キリストによって世界の全ての者に救いの扉が開かれています。
救いは世界の全ての者のために備えられています。
それゆえ、この世の中の如何なる者でもキリストを信じるなら救われるのです。
誰でもです。
光に背を向けず、こうして光の方に来た、教会に集まった皆さんはイエス様を信じる人々だと思います。
洗礼は受けておらず、信仰告白はしていないかも知れませんが、神様は心の中をご存知です。
あなたがイエス様を信じているなら裁きを受ける事は無いでしょう。
どうか、この福音を家族に、友人知人に紹介して下さい。
この福音は誰もが受ける権利を与えられていますが、誰かが伝えなければ知る事が出来ません。
クリスマスを機会に全ての人が福音を受け入れて、裁かれる事なく、救われる事を、イエス様の御名によって願うものです。
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聖書箇所:箴言3章1節から10節 2014-11-2礼拝
説教題:「主はあなたの道をまっすぐにされる」 河野 優 牧師
【導入】
「まっすぐな道」とはどんな道でしょうか?カーブのない一直線の道、アップダウンのない平坦な道...。
人生を「歩む」、この「道」を進むなど、しばしば人の人生は「道」にたとえられます。聖書でも然り、聖書が語る道、それは「生き方」であって、それは神を信じる道とそうでない道に分かれます。
聖書が教える、神を信じて歩む人の道は「まっすぐな道」です。
【本論】
① 「まっすぐ」の意味するところ
さて、信仰者の道はまっすぐではありますが、それは決して「平坦な」道ではなく「楽」な道ではありません。
平坦でないばかりか、遠回りをしているかのように感じることさえある、曲がりくねった道、険しく細い道であるかもしれません。
それは皆さんが信仰者として歩んできた中で実感として感じておられることではないかと思います。
しかし、神を信じ神と共に歩む道は「まっすぐな道」であると、神を信じる者の道を神様が「まっすぐにしてくださる」ということは真実です。その意味するところは何でしょうか?
孔子の論語に「四十にして惑わず」(不惑)という言葉があります。狭い枠に心がとらわれるのを惑といい、 枠にとらわれぬ自由な気持ちになるのを「不惑」というそうです。
神を信じる者の道が「まっすぐにされる」ということを言い換えると、神を信じる者の道は不惑の道であると言えるのではないかと思うのです。
単に惑わされないだけではない、神が信じ従うものに与えてくださる恵み溢れる「生き方」がどういうものであるのか、その意味するところは次の二つのことから確認できます。
それは「心を尽くして主に拠り頼む」こと、「いくところどこにおいても主を認める」ことです。
② 心を尽くして主に拠り頼む
「主に拠り頼む」ことについて見ていきましょう。
聖書が語る「拠り頼む」とは、助けのない者がうなだれているところから来ている言葉だとされています。
助けを求めて自分のすべてを相手に投げかける、完全にもたれかかる、ということです。自分自身は完全に無力であり、全面的に人やものに依拠すること、です。
これは「委ねる」とも言い換えることができるでしょう。
自分の力を全く抜いて、完全に脱力してしまってずべてを任せる。
これは、相手や対象の物事が自分を支えてくれるという絶対的な確信がないとできないことではないでしょうか。
しかも、ここでは主にのみ拠り頼むことを勧めつつ、「自分の悟りに頼るな」と加えられています。
私たちは主に拠り頼んでいるといいながらも、しばしば自分自身を頼りにしてしまうことが多いのではないでしょうか。
聖書では私たち人間がいかに神ではなく自分に頼り、失敗し続けているかが繰り返し語られています。
最初の人間であるアダムからしてそうでした。
拠り頼むべき神の言葉・命令、「園の中央にある木の実だけは食べてはいけない」を無視して罪を犯したのですから。
また、出エジプト記以降の神の民イスラエルの歩み、姿を見ても、相変わらず主に拠り頼みつつも、時に自分の悟りに、自分の思いを優先して失敗する惨めな現実を見ることができます。
私たちは自分の考えや価値観によって神の言葉に拠り頼んだり、拠り頼まなかったりすることがあるのです。
思い当たることはないでしょうか。
聖書が語っているように、自分の悟りに頼るのではなく、「心を尽くして主に拠り頼め」と命じています。
③ どこにおいても主を認める
自分の悟りに頼らず主にのみ拠り頼むことの具体的な現実として、「行く所どこにおいても主を認めよ」と命じられています。
ここでいう「認める」とは「知る」という意味です。
聖書における「知る」という言葉は、単に知識的な意味で物事を知るということではありません。
親しく知ること、人格的な交わり・関係を通して「知る」ということ、現実的なことを意味しているのです。
一昨日は宗教改革記念日でしたが、宗教改革のスローガンのようなものの一つに「coram deo」という言葉がありました。
この言葉は「神の前に」という意味の言葉で、自分自身をいつでも主の前に置くことを意味しています。
前東京女子大学長の湊晶子先生は、あるインタビューの中でこう語りました。
「人は自分の中に座標軸を持つことが大切です。
まず、横軸は人とのつながり。
でも、人の間だけでものを考えると、どうしてもぶれてしまいがちです。
誰かと比較して、「私は駄目だ」と感じたり、またはうぬぼれてしまったり。
だから、縦軸、つまり人との比較ではなく、自分自身の指標を持つことも大切なんです。」
ここで言う指標、それは「主なる神」であって、主なる神を人生の指標にすることこそが信仰者の姿だといっています。
主は決して変わることなく動かされることなく真実なお方。
まさに決してぶれない、このお方をいつも「知っている」「認める」ならば、その歩みは決してぶれることはない。
信仰を持つこと、神を信じて生きることは、縛られた窮屈なものではありません。
むしろ神を信じて生きるその道は、いつどこにおいてもぶれることのない芯を据えることができ、それゆえに枠に囚われずに大胆にまっすぐ進むことができるのです。
神を日々正しく知ってこそ、すべてのことが正しく真実に位置づけられるのです。
【適応】
私たちは日々様々な問題に直面し、信仰的決断を迫られます。時にその決断は人生を左右するほど重要なこともあるでしょう。
信仰者の歩みは決して平坦ではありません。
しかし、心を尽くして主に拠り頼み、いつでも主の真実さを認めることができるなら、その道は「まっすぐ」にされる。
これこそ、主があなたの道をまっすぐにされる」ことの現実に他なりません。
いつ何時でも、真実で恵みあふれる神様が私の中心にあって支えてくれている。
だから私は主にすべてを委ねてより頼みつつ、しっかりと自分の足でこの道を歩み続けることができる。
このような確信に立って、私たちは主が備え共に歩んで下さるまっすぐな道を歩み続けることができるのです。
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