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聖書個所:ヨハネの福音書4:273138              2014-12-28礼拝

説教題:「真(まこと)の食べ物」

【導入】

サマリヤの女に飲み水を求めた事から始まった会話によって、真の礼拝とは場所によるものではなく、形式によるものでもなく、民族や人種の違いはなくなり、礼拝を献げる者の心の状態が重要になる、と言う事を教えられました。

真の礼拝者とは「霊とまこと」によって礼拝を献げる者たちであり、その「霊とまこと」とは私たちの霊的な態度や真実、誠実、謙遜、犠牲などではなく、イエス様がお持ちの神の霊と、イエス様によって完成されたまことによるのだと教えられました。

信仰の創始者であり完成者であるイエス様だけが、真の礼拝者と呼べる存在であり、そのイエス様に対する信仰によって、私たちの献げる礼拝が神様に受け入れられる行為となるのです。

エルサレムから始まり現代に至るユダヤ教の新しい流れは、その始まりからサマリヤ人に開かれていた、異邦人に啓示されていたのです。

異邦人伝道はパウロの十八番、オハコのように思われますが、異邦人伝道の創始者もまたイエス様なのです。

イエス様は全てにおいて始めであり、また完成者なのです。

一人のサマリヤ人の女から始まったサマリヤ人への伝道はこの後、大きな進展を見せますが、それは次回紐解く事にして、今日は31節からのみことばを中心に、神の僕として生きる事について学んで行きたいと思います。

【本論】

サマリヤの女が町に戻って行くのと入れ替わりに、弟子たちがイエス様の下に戻って来ました。

声は聞えないけれども、イエス様と一人の女が何か話し合っている様子は遠見にも解かっていたようです

4:27 このとき、弟子たちが帰って来て、イエスが女の人と話しておられるのを不思議に思った。しかし、だれも、「何を求めておられるのですか。」とも、「なぜ彼女と話しておられるのですか。」とも言わなかった。

前回の説教で確認したように、ユダヤ教の教師が仲介者なしで、女性と話をする事はあり得ないことでした。

弟子たちはユダヤ教のタブーを犯しているイエス様を目撃した訳ですが、誰もその理由を訊ねようとはしませんでした。

何にでも首を突っ込みたがるペテロが何の質問もしないところが気になりますが、

しかし、主イエス様のなさる事に、何でも口を挟み、質問する事は賢明な事とは言えません。

解からない事があったら直ぐに質問する性急さより、イエス様のなさる事に、神様のお取り扱いに合理的な説明がつかない場合でも、タブーを犯すような理解出来ない事があっても、平安を保ち、いずれの日にか理由が示されると信じて待つ事が重要です。

大きな家には沢山の僕が働いていますが、忠実な僕は自分の義務を果す事に注力すべきであり、あれこれ詮索する必要はありません。

全体を把握しているのは主人であって僕ではありません。

各々の僕は主人の言い付けに従って行動しているのですから、他の僕のする事にあれこれ注文を付けたり、意見を言うのは主人の主権を侵す事であり、厳に慎まなければなりません。

イエス様は常識や習慣に支配されるお方ではありません。

イエス様はイエス様のお考えがあって行動されています。

救われるべき魂があれば、ユダヤ人が避けて通る事のないサマリヤに立ち寄り、タブーを犯しても女に声をかけられるのです。

世界はイエス様のモノであり、その主権者であるイエス様がなされる事は、全てが理解できる事ばかりではありません。

否、弟子たちにも、私たちにも理解出来ない事のほうが多いのではないでしょうか。

質問しなくても必要ならイエス様から説明があるでしょう。

それが証拠に35節からは主の弟子として何をしなければならないかが示されます。

そのイントロとなるのが31節からの弟子との会話です。

4:31 そのころ、弟子たちはイエスに、「先生。召し上がってください。」とお願いした。

弟子たちは先走った質問をする事なく、旅の疲れと空腹を癒すために用意した食べ物、飲み物をイエス様に差し出します。

現代のようにコンビニエンス・ストアがある訳でも、ファースト・フード店がある訳でもありません。

しかも、イエス様が休んでおられる井戸から一番近い町であるスカルはユダヤ人を嫌っているサマリヤの町です。

近くのサマリヤの町スカルで食べ物を探してきたのか、遠くまで足を延ばして買い求めて来たのかを聖書は記していませんが、どちらにしても苦労して手に入れた食べ物に違いありません。

やっとの思いで手に入れて来た食べ物、飲み物をイエス様に差し出した時、弟子たちはイエス様から「ありがとう、ご苦労様」の声を期待していたのではないでしょうか。

更には、イエス様が召し上がったなら、次には自分たちも空腹を満たせる期待があった事でしょう。

4:32 しかし、イエスは彼らに言われた。「わたしには、あなたがたの知らない食物があります。」

弟子たちは予想だにしない意外な答えを耳にします。

このイエス様の言葉は明らかに比喩的な意味で語られています。

イエス様は何か人間に知られていない、超自然的な食べ物を指し示しているのではありません。

人は空腹の時には力が出ず、食べ物を食する事で身体の内側から新しい力が湧き出て来る事を体験しますが、何かに熱中している時にも、空腹を忘れ、時の経つのを忘れて、力が漲って体力以上に働く事があるように、イエス様は弟子たちの知らない霊的な力の源、魂の栄養を得ておられ、神様を知らない人々を救いに導く事に新たな意欲を燃やし、そのため暫くの間、ご自身の空腹を忘れておられた事を証ししておられるのです。

イエス様は救いの御業に喜びと励ましを感じておられたため、それが食べ物、飲み物と同じくらい大切に思っている事を示しているのです。

決して食べ物に価値を見出さないとか、食べ物を軽んじるのではなく、

魂の救いこそ、食べ物より飲み物より大切であり、神様の願われる事である事を教えておられます。

しかし、飲み食いも、人を救いに導き、生かすための働に必要なモノであり、飲み食いも神様の栄光を現すためのモノである事を忘れてはならないのです。

イエス様の言葉を肉的、物質的な意味にしか理解出来ない弟子たちは、

4:33 そこで、弟子たちは互いに言った。「だれか食べる物を持って来たのだろうか。」

弟子たちがイエス様の仰る「食べ物」の霊的な意味を理解出来ない点は、サマリヤの女が「水」の意味を、ニコデモが「新しく生まれる」の意味を理解出来ない事と同じです。

霊的な目が開かれていなければ、イエス様の言葉の霊的意味を理解出来ないばかりか、表面的な言葉の、常識的、一般的意味に惑わされ、真の意味を悟る事が出来ないばかりか人を救いに導く唯一の手段、福音すら律法主義的な解釈となりかねません。

イエス様は食べ物が不必要だとは仰っていません。

食物は肉体のために必要ではありますが、食物の事ばかりに気を配っていてはならず、魂の必要にも心を配らなければならないのです。

魂の救いのために労する事は食事をする事と同じ位、重要な事であり、魂の救いのために働く事は、肉体の必要を忘れさせるほどの充実感を与える事である。

イエス様はその事を弟子たちに教えようとされたのに、弟子たちはあくまで肉体の必要の事しか考える事が出来ませんでした。

弟子たちは、イエス様が食べ物を手に入れられる状況ではない事を承知していましたから、お互いの顔を見合い、囁き合い、疑問を口にしたのです。「だれか食べる物を持って来たのだろうか。」

この日本語に訳された鍵括弧の疑問文ですが、ギリシャ語には否定句が付いていますので、「だれも食べ物を持って来ないのに、イエス様は何を食べたのだろうか」の意味となります。

この誤解に対して

4:34 イエスは彼らに言われた。「わたしを遣わした方のみこころを行ない、そのみわざを成し遂げることが、わたしの食物です。

イエス様は人々には喩えで語られても、弟子たちにはその説き明かしをして下さいますが、ここでも弟子たちに食べ物の意味するところを解説されます。

「行ない、成し遂げること」と訳されているギリシャ語は「行なうべき、成し遂げるべき」と翻訳するのが原意に近いでしょう。

行なっても行なわなくても良いような事ではなく、しなければならない事であり、この事のためにイエス様は人となって地上に来られたのです。

イエス様が「行なう」事を食物と見なされた「みこころ」とは、「イエス様への信仰による救い」が広く宣べ伝えられ、恵みの門が罪人に広く開かれている、と言う神様のご計画を指し示す事に違いありません。

「神様のご意志を実現し、わたしの声を聞く全ての人に向って、御子を信じる者は決して滅びる事がない、と宣教する事が、わたしの糧です。」とイエス様は仰りたいのです。

大切なのは、イエス様による救いの告知と言う、神様の御心を行なう事なのです。

イエス様が「成し遂げよう」とされた「みわざ」とはイエス様が地上で実行されようとした救い主としての使命の達成、十字架での死であり、イエス様が生涯をかけて全うされた神の戒めへの従順を指し示すに違いありません。

「世に現れて人の魂を救うと言う大切な働きを日々行なう事、日々、神様との和解、平和を宣べ伝え、日々、あらゆる義を実現する事、それがわたしの糧です。」とイエス様は仰っているのです。

イエス様は神様から与えられたご自分の使命を明確に弟子たちに示した後で、弟子たちに与えられた使命について話を展開されます。

4:35 あなたがたは、『刈り入れ時が来るまでに、まだ四か月ある。』と言ってはいませんか。さあ、わたしの言うことを聞きなさい。目を上げて畑を見なさい。色づいて、刈り入れるばかりになっています。

4:36 すでに、刈る者は報酬を受け、永遠のいのちに入れられる実を集めています。それは蒔く者と刈る者がともに喜ぶためです。

4:37 こういうわけで、『ひとりが種を蒔き、ほかの者が刈り取る。』ということわざは、ほんとうなのです。

4:38 わたしは、あなたがたに自分で労苦しなかったものを刈り取らせるために、あなたがたを遣わしました。ほかの人々が労苦して、あなたがたはその労苦の実を得ているのです。35節の格言はユダヤ人に広く知られた格言ですが、何故イエス様はこの格言をここで引用されたのでしょうか。

それは、34節でイエス様が神様から与えられた使命、公的な働きを始められた事を証ししておられますが、その福音宣教によって救われる者が起こされるにのは、まだまだ時間がかかると思っている弟子たちに対する警告なのです。

通常作物の生育には時間がかかります。

種蒔きから収穫までは4ヶ月位かかるでしょうが、福音宣教の実は蒔いたその日に実を結ぶ事もあるのです。

事実、30節には、井戸の傍でイエス様に教えられた女の証しによって、サマリヤの町の住民がこぞってイエス様に会いに出かけて来ている様子が記されているのです。

「あなた方は種蒔きと刈り入れの間には4ヶ月あると言い習わしている。だが霊的な働きにおいては、もっともっと早く刈り入れの時期が始る事もあるのだよ。目を上げて、やって来るサマリヤ人を見て御覧なさい。種が蒔かれた正にその同じ日に、御言葉を聞くためにやって来ているではないか。畑はもう色づいていて、刈り入れるばかりになっているのだよ。」

36節以降も含蓄のある教えです。

種蒔きをした旧約時代の預言者、イエス様が来られる道備えをしたバプテスマのヨハネ、刈り入れをした新約時代の使徒たち、種蒔く者であれ、刈り入れる者であれ、収穫を望み見て働いた者全てが一堂に会して、共に喜ぶ日がやって来ると言うのです。

更に、36節で「刈る者は報酬を受け」と表現しているように、働き人が報酬を受け取らない事はありません。

時に、この世では種を蒔く者は、その労働の結果である実を見る事がなく世を去り、刈り入れる者のみが収穫の喜びを味わう事がありますが、しかし、魂の救いのための働きは永続的な働きであり、刈り入れもまた永続的な働きであり、地上で実を見る事がなかったとしても、天国で救われた者と一堂に会して収穫の喜びを味わう事が出来るのです。

【適応】地上では、ある者は種蒔く者であり、ある者は刈り入れる者です。

それぞれに割り当てられた働きを分担したのであり、どの働きも同じ収穫を望み見て働くのであり、天国で同じ喜びを味わう事になるのです。

福音の働きのための奉仕、求霊活動には、刈る者が必要なように、種蒔く者も必要である事を覚えておきましょう。

刈り入れの働きは種蒔く働きより人目に留まり易く、評価される傾向にあります。

しかし、種蒔く者が居なければ刈り入れがない事を覚えておかなければなりません。

今回のテキストでは種蒔く者と刈り入れる者が登場しましたが、作物の育成には、豊かな収穫のためには、水を撒く者や、雑草を抜く者、肥料をやる者が必要であり、

収穫が近づけば、泥棒や、野生動物から守るための見張りも必要となります。

目立つ働きもあれば、縁の下の力持ち的な働きもあります。

誰にも評価されなくても神様はちゃんと見ていて評価して下さいます。

働きは色々ありますが、どれもが必要な働きであって、その働きの集合があってこそ、豊かな収穫を享受し、共に収穫を喜ぶ事が出来るのです。

働きは同時ではありません。

生育のタイミングに合わせて、働きの時期がずれているから、全体として調和が取れ、作物はすくすくと成長し豊かに結実するのです。

それぞれの働きに忠実であってこそ、最終的に豊かな収穫が見込めるのであり、何処かで誰かが手を抜けば、収穫は激減してしまう事でしょう。

そうならないためにも、各々が与えられた働きを神様からの使命として受け止め、仕えて行きたいものです。

神様に仕えるに必要な力と知恵は、神様からいただく霊的な食物でしか得られません。

私たち其々に与えられる霊的な食物、真の食物とは何でしょうか。

肉の糧を食している限り、動物としては生きて行けるでしょうが、それでは、神様によって目的を持って造られ、生かされている信仰者として生きていると言えるでしょうか。

神様の使命に生きていると言えるでしょうか。

イエス様は神様の御心を行ない、その御業を成し遂げる事がわたしの食物だと仰いました。

弟子に向っては刈り入れる事が、あなたがたの本当の食物なんだよ、と教えられました。

神様に仕える喜び、奉仕に生きた人生は、どんなにか充実した人生と呼べるのではないでしょうか。

私たちに喜びを与える奉仕、達成感を与える奉仕、生きる目的となる奉仕、生きる糧となり得る働きとは何でしょうか。

私たちにとって喜びにつながる、本当の食物は何でしょうか。

ある人にとっては、家族を教会に誘う事かも知れません。

ある人にとっては、奉仕する事かも知れません。

ある人にとっては、祈る事かもしれません。

ある人にとっては、教会に来て座っている事かも知れません。

それも立派な務めなのです。

それは、何の働きもしていないのではなく、教会に来て座っている事が、他の人の励まし、慰めになる大切な働きである事を知って頂きたいのです。

イエス様が神様の与えて下さった使命に生きて、霊の満腹感を味わい、霊の達成感を味わって、感謝したように、私たちも神様の与えて下さった使命に生きて、霊の満腹感を味わい、霊の達成感を味わって、感謝しようではありませんか。

地上での生活をエンジョイするために、美味しい物を食べ、面白おかしく楽しく暮らしても、霊の糧を食しておらず、霊的な飢餓に気がつかないで召されたならば、天国での収穫の喜びに加われないなら何とも寂しいのではないでしょうか。

天国でのイエス様と多くの弟子たちとの収穫の喜びに加わるためにも、

地上で神様に仕える事による、永遠の喜びに至る本当の食べ物を食して生きようではありませんか。 

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聖書個所:ルカの福音書:812       2014-12-24クリスマス・イヴ(燭火)礼拝

説教題:「部外者にスッポットライトが当たる」

【導入】

今晩は。

今宵は椎名町教会のクリスマス・イヴ礼拝にお越し下さり、ありがとうございます。

初めての方は・・・

しかし、初めて教会に足を踏み入れた時の事を思い出すと、クリスマスとか、結婚式とか、イエス・キリスト伝とかで、キリスト教に多少の接点や知識があっても、教会自体には馴染みがなく、多少の抵抗や漠然とした恐れ、二の足を踏む思いがあったのではないでしょうか。

教会って、神社やお寺と違って境内がなく、建物に直接招き入れられるのでちょっと戸惑いと抵抗を感じられるかも知れませんし、キリスト教ってヨーロッパ、アメリカの宗教、と思われ、何となく違和感を感じられるかも知れませんが、決してそんな事はありません。

キリスト教が世界に広がる為の貢献をしたのはヨーロッパの国々やアメリカですが、キリスト教発祥の地は西アジア、中東と呼ばれる地域です。

教会は老いも若きも男も女も、職業、貧富の区別なく、国籍、主義主張に関係なく、誰でも集まれる場所です。

しかし、最初からそうだった訳では、初めから現代のような形であった訳ではありません。

キリスト教はユダヤ教から生まれた宗教であり、ユダヤ教の教え、律法が根底にあります。

ユダヤ教では神殿に入る、即ち、礼拝を献げ、生贄を献げられるのは、ユダヤ人、或いはユダヤ教に改宗した人だけであり、しかも律法を厳格に守る、聖い人でなければなりませんでした。

身体を洗って聖めなければならず、しかも、細かい規則に従って洗わなければなければなりません。

日常生活でも、食べ物や着る物にも細心の注意を払わなければならず、病気で湿疹や出血があると神殿には入れませんでした。

どれが欠けても、違反しても、神殿には入れず、礼拝を献げられませんでした。

そして、礼拝を献げられない事は、何より辛い、悲しい事でした。

何故ならば、礼拝を献げられない事は、生贄を献げられない事であり、生贄を献げられない事は、罪が赦されない事であり、罪を赦されない者は、天国に入れない事を意味したからです。

現代の私たちには想像がつきませんが、天国に入る為に、並々ならぬ努力をし、真剣に悩んだのです。

そして何とか礼拝を献げ、生贄を献げたのですが、天国に入るに序列があり、祭司や律法学者、パリサイ人は優先的に、一般人はどうにかこうにか、やっとこさっとこ天国に入れられましょうが、誰からも無理だろうなと思われていたのが、なんと「羊飼い」だったのです。

動物の世話は、24時間、365日休みなしです。

汚れる仕事です。

当然、神殿には行けないし、行けても、汚れているので入れません。

誰からも、神様から見捨てられた存在と見なされていましたし、羊飼い自身もそう思っていた事でしょう。

神様が、何か重要な事を知らせてくださる事があった時、その知らせは祭司や律法学者、パリサイ人であり、聖なる人に、であり、決して「羊飼い」の所には来る筈はないと考えられていたのです。

しかし、素晴らしい神様からの知らせは、一番必要としている人に、悲しみ、悩み、苦しんでいる人に与えられたのです。

【本論】

ルカの福音書28節~12

:8 さて、この土地に、羊飼いたちが、野宿で夜番をしながら羊の群れを見守っていた。

:9 すると、主の使いが彼らのところに来て、主の栄光が回りを照らしたので、彼らはひどく恐れた。

誰からも顧みられず、自分自身でも絶望だと思っている羊飼いに、御使いは現われてくださったのであり、ユダヤ人にとって、否、人類にとって最も重要、且つ必要不可欠な知らせが、羊飼いに伝えられたのです。

羊飼いの喜びはどんなに大きかった事でしょうか。

呪いや裁きの宣告を受ける事はあっても、良い知らせ、喜びの知らせを受け取る事になると誰が想像出来たでしょうか。

しかし、これが神様のご計画であり、神様の関心の現われなのです。

神様は弱い者、小さい者、悲しむ者、取るに足りない者に最大の関心を持っておられます。

虐げられている者、蔑まれている者、軽んじられている者に何よりも関心を持っておられます。

そして、そんな者たちに、悲しまなくてよい事を、苦しまなくてよい事を、諦めなくてよい事を、希望を持ってよい事を伝えてくださるのです。

不安で不安でしょうがない者に、不安にならなくてよい事を、安心してよい事を伝えてくださるのです。

駄目だ駄目だと思っている者に、駄目ではない事を伝えてくださるのです。

しかも、遠い将来の事を、あやふやな言葉で伝えるのではなく、現時点で、実際に近寄って来て、現実に見える形で現われ、手の届く、息吹を感じられる所に現れて、伝えてくださるのです。

しかも、愚かな不信仰な私たちが、疑ったり、迷ったり、どうにでも解釈できるようなあやふやな言葉や証拠ではなく、誰もが誤解する事のないように、見間違う事のないように、明確なしるしをも提示してくださるのです。

:10 御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。

:11 きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。

:12 あなたがは、布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。これが、あなたがたのためのしるしです。」

聖書には救い主が現われるという預言が各所に散りばめられていますが、何時現れるか、何処に現われるかは記されてはいません。

イザヤたちの預言は何時、成就するのだろう。

誰もが抱く関心事であり、その救い主の到来は高名な祭司に伝えられ、或いは預言者が起こされて伝えられると思っていた事でしょう。

しかし、祭司でもなく、預言者でもなく、羊飼いに伝えられたのです。

【適応】

そして、最初に救い主の現われが、即ち福音が羊飼いに伝えられた事も、神様のご計画となっています。

有名な祭司、預言者に現われたのではなく、名もない羊飼いに現われたのであり、上流階級層の、知識層で言葉巧みな祭司や預言者に福音宣教の働きが委ねられ託されたのではなく、最下層の、粗野で無学で朴訥な羊飼いに福音宣教の働きが委ねられ託されたのです。

御使いは、煌びやかな神殿に現れたのではなく、人里離れた荒れ野に現れたのです。

御使いは神殿に現われ、祭司や預言者に伝えたのではなく、見捨てられた荒野に現われ、見捨てられた羊飼いに伝えてくださったのです。

誰もがスポットライトが当たる事はないだろうと考えていた所に、人に神様はスッポットライトを当ててくださり、最高の知らせを、福音を伝えたのです。

救いは、福音は、神殿の中でしか得られないものではなく、頑張った人のものではなく、

神殿に行けない人にも、頑張りたくでも出来ない人にも与えられるものなのです。

今宵のお話は10分ちょっとのお話しでしたのでキリスト教のほんの一部しか語れませんでした。

教会では毎週日曜日の9時半から子どものための礼拝、11時から大人のための礼拝の時間を持っています。

水曜日の10時半から聖書を学ぶ時間もありますので、教会案内をご覧になり、是非教会にお越し下さい。

ここにおられる皆様が、神様からスポットライトを浴びた人となり、

救いと福音を与えられた人として、祝福された人生を歩まれますようにお祈り致します。

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聖書個所:ヨハネの福音書4:726          2014-12-21クリスマス記念礼拝

説教題:「クリスマスの礼拝者たち」

【導入】

巷も、教会もクリスマス一色で、これはこれで素晴らしい事ですが、教会が真の礼拝者の群れとなっているでしょうか。

教会は世に、本当の礼拝とは何かを発信しているでしょうか。

教会も世俗の影響を受け、上辺だけのお祭り騒ぎになっていないでしょうか。

そんな、自分達が楽しむ礼拝、形式だけの礼拝、儀式偏重の礼拝を神様はどうご覧になられているでしょうか。

イエス様が来られるまでは、礼拝は一部の特権階級が支配しており、規則にがんじがらめになってしまった義務的な、形式的な、喜びのない礼拝でした。

しかし、イエス様が来られて、新しい礼拝が始まったのです。

階級、身分の差もなく、職業の差さもなく、男女の差もなく、大人と子どもの差もなく、

人種、国籍の差もなく、誰もが礼拝を献げる事が出来るようになったのです。

ユダヤ教の歴史の中で画期的な事であり、その新しい礼拝が現代に続いているのですが、

その発端は、サマリヤの女から始まります。

前回までの礼拝説教を振り返って見ましょう。

イエス様がバプテスマのヨハネよりも弟子を多く作っている事がパリサイ人の耳に入った時、彼らとの摩擦を避けたイエス様はユダヤを去って、ガリラヤへ行かれました。

ガリラヤに行く道は幾つかありましたが、ユダヤ人が決して選ばない、通らないサマリヤを通る道をイエス様は選ばれました。

それはサマリヤにも救われるべき魂があったからです。

救われるべき魂があるなら、人々が敬遠する町であろうと、遠回りであろうと、疲れていようと、イエス様は喜んで行かれるのです。

朝早くユダヤを出発し、昼頃サマリヤに着いたイエス様は旅の疲れ、喉の渇きを覚えて井戸の傍で休息をとられます。

【本論】

その時

4:7「ひとりのサマリヤ人の女が水をくみに」ヤコブの井戸まで来たと言うのです。

これは偶然ではありません。

イエス様はこの一人の女との出会いのために、この女の礼拝を受けるために、そしてサマリヤの町の人々の魂の救いのために来られたのであり、この女との出会いも昼日中の、普通なら誰も水を汲みに来ない時間帯を選ばれたのです。

それはイエス様が個人的にサマリヤの女に宣教するためであり、弟子たちを同席させない配慮が覗われます。

パレスチナ地方では水を汲むのは通常朝か夕方(創2411)ですから、日中に水を汲みに来るからにはそれなりの事情があったのでしょう。

その理由は、この後のイエス様との会話で明らかになって行きます。

水を運ぶにも現代のように軽いポリバケツや台車が在る訳ではありません。

水を吸い込んで重くなった木の桶や、重い陶器の瓶を運んで行かなければならないのです。

帰りの道は水の重さが加わって、更に重くなっているのです。

日差しが強い中での重労働であり、想像するだけで疲れてしまいそうです。

そんな、いわくの在りそうなサマリヤ人の女の人に、イエス様は水をお求めになりました。

サマリヤ人と言うのは、アッシリヤ帝国の植民地政策によってイスラエルに入植した異邦人とユダヤ人の混血です。

宗教的にはモーセ五書と呼ばれる、創世記・出エジプト記・レビ記・民数記・申命記のみを正典とし、ゲリジム山での礼拝を主張していました。

ユダヤ教と同じ、と言っても過言ではありません。

しかし、混血の民族であり、独自の礼拝形式を持っていたために、ユダヤ人が受け入れる訳には行きません、更に、サマリヤ人に対するユダヤ人の態度は紀元前4世紀以降極端に悪くなりました。

それはゲリジム山に独自に神殿を建設した事が原因と考えられています。

ヨセフスの『ユダヤ古代誌』(ⅩⅢ:74以下)によれば、サマリヤ人はアレクサンドロス大王の許可により、エルサレム以外の場所での礼拝が認められ(Ⅵ:321324)、それがゲリジム山での礼拝の始まりであると言われています。

紀元前128年頃にヨハネ・ヒルカノスによってゲリジム山の神殿が破壊された後も引き続いて、このゲリジム山で礼拝が献げられていました。(ⅩⅧ:8587)。

これらの事が原因となって、

4:9後半「ユダヤ人はサマリヤ人とつきあいをしなかった」のです。

ですからユダヤ人は近道でも、安全でも決してサマリヤを通る道は選ばないほどに徹底していたのです。

また当時の社会常識では、宗教教師から女性に声を掛ける事はあり得ない事でした。

必要がある時は弟子を通して語りかけ、弟子を通して取り次いでもらっていました。

また「井戸」と言うのは結婚を申し込む場所、或いは男女の出会いの場であり、イエス様に相応しい場所では在りません。

それなのに、わざわざ遠回りまでしてサマリヤの町に来て、井戸の側で、女の来るのを待って

4:7後半「イエスは「わたしに水を飲ませてください」」と声を掛けられたのです。

事実、旅の疲れで喉も渇いておられたでしょうが、水を求められたのは会話の切欠です。

イエス様のお願いに対する女の答えは

4:9「そこで、そのサマリヤの女は言った。「あなたはユダヤ人なのに、どうしてサマリヤの女の私に、飲み水をお求めになるのですか。」」であり、サマリヤ人として至極当然な反応でした。

4:10イエスは答えて言われた。「もしあなたが神の賜物を知り、また、あなたに水を飲ませてくれと言う者がだれであるかを知っていたなら、あなたのほうでその人に求めたことでしょう。そしてその人はあなたに生ける水を与えたことでしょう。

「神の賜物」とは「イエス様ご自身」のことを指すのだとする説と、イエス様がお与えになる何か、「聖霊」または「啓示」だとする説があります。

「啓示」説と言うのについて、若干の説明を致しましょう。

このテキストの7節から15節中で「水」と言う言葉が11回も登場します。

ユダヤ教では「水」は「知恵や律法」に例えられます。

それは水が生きるために必要なように、知恵や律法は救いに必要であると考えて実行していたからです。

そして律法や知恵は神様から示された啓示であるので、イエス様が「水」或いは「神の賜物」と言われるのは「啓示」の事であり、「知恵」や「律法」の事であり、これらを与えられる、と言う事になりましょう。

しかも単なる「知恵」や「律法」ではなく「神様を知る知恵や律法」「命に至る知恵や律法」と言う事になるのです。

ですから 410節は「もしあなたが「イエス様ご自身の事」あるいは「イエス様が与える聖霊の事」「イエス様が与えるいのちの知恵・いのちの律法の事」を知り、また、あなたに水を飲ませてくれと言う者がだれであるかを知っていたなら、あなたのほうでその人に求めたことでしょう。そしてその人はあなたに「命に至る知恵・命に至る律法」を与えたことでしょう。」と読み替える事が出来るのではないでしょうか。

サマリヤの女との会話が進むに連れて、より深い、霊的な意味へと高められていくのは、ニコデモとの会話にも共通した要素です。

それは、イエス様との会話を通して、神様との出会いが与えられ、信仰を得て救われる事、更にはサマリヤ人全体に福音を伝えるために他ならないのです。

しかし、イエス様の仰る「水」が「命に至る知恵・律法」である事を理解出来ない女は、あくまで水にこだわって質問を続けます。

4:11 彼女は言った。「先生。あなたはくむ物を持っておいでにならず、この井戸は深いのです。その生ける水をどこから手にお入れになるのですか。

4:12 あなたは、私たちの先祖ヤコブよりも偉いのでしょうか。ヤコブは私たちにこの井戸を与え、彼自身も、彼の子たちも家畜も、この井戸から飲んだのです。」

4:13 イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。

4:14 しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」

410節、11節の「生ける水」はヘブル語的表現で「流水・湧き水」のことですが、

イエスが与えると言う「生ける水」は流水・湧き水の意味ではなく、414節「決して渇くことがなく,飲んだ人のうちで泉となり,永遠のいのちへの水となる」ものだと言うのです。

つまり、イエス様が与える知恵、律法を受け入れた者は永遠の命を得る、と仰っているのです。

しかし、イエス様の言われた事の深い意味を理解出来ないサマリヤ人の女は、

4:15「先生。私が渇くことがなく、もうここまでくみに来なくてもよいように、その水を私に下さい。」とお願いします。

女のお願いに対して、イエス様は不思議なことを仰います。

4:16 イエスは彼女に言われた。「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい。」

4:17 女は答えて言った。「私には夫はありません。」イエスは言われた。「私には夫がないというのは、もっともです。

4:18 あなたには夫が五人あったが、今あなたといっしょにいるのは、あなたの夫ではないからです。あなたが言ったことはほんとうです。」

唐突な展開ですが、これこそが、このサマリヤの女が朝晩の涼しい時間帯ではなく、人との出会いを避けて真昼間に水を汲みに来た理由なのです。

ユダヤ人と同じくモーセ5書を信じているサマリヤ人ですから、基本的に離婚は許されません。

それなのに5人も夫を替えているのは、或いは「夫はいません」と言っているところから、正式な結婚ではなく同棲状態だったのかも知れませんが、これもユダヤ教で禁じているところです。

現代なら「バツ5でーす」と、笑って済まされる事かも知れませんが、サマリヤの町中の人から後ろ指を指され、ふしだらな女と軽蔑され、肩身の狭い思いをしていたに違いありません。

その過去をずばりと言い当てたイエス様に対する評価が、

12節で「あなたは、私たちの先祖ヤコブよりも偉いのでしょうか。」とイエスの素性を訝り、怪訝そうに応対していた女が、その態度を改めて、19節の言葉となって表現されます。

4:19 女は言った。「先生。あなたは預言者だと思います。

4:20 私たちの先祖は、この山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムだと言われます。」

先に説明しましたが、「この山」とは「ゲリジム山」のことで「ゲリジム山」での礼拝か「エルサレム」での礼拝かが、サマリヤ人とユダヤ人との反目の大きな要因となっていたのでした。

ユダヤ人にとってエルサレムの神殿以外での礼拝は許される事では在りません。

なぜなら「礼拝」には「生贄」を献げる事が伴っているからです。

「礼拝」イコール「生贄」なのです。

そして「生贄」は神殿以外では献げてはならず、アロンの家系の祭司だけに許された奉仕なのです。

ですから礼拝を献げる場所と言う問題は重要なことであり、サマリヤの女の質問はとても大切な、的を射た質問であると言う事が出来るでしょう。

神様に対してどのような礼拝を献げる事が、神様に受け入れられる事なのかを、長年の疑問として抱えていたのでしょう。

このお方なら、その疑問に答えて下さるに違いない。

「だって見ず知らずの先生が、私の隠していた過去を言い当てたのだから…」

このような疑問に対してイエス様はやさしく、具体的に教えられます。

4:21 イエスは彼女に言われた。「わたしの言うことを信じなさい。あなたがたが父を礼拝するのは、この山でもなく、エルサレムでもない、そういう時が来ます。

4:22 救いはユダヤ人から出るのですから、わたしたちは知って礼拝していますが、あなたがたは知らないで礼拝しています。

4:23 しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。

4:24 神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」

5人の夫との生活は期待と破綻の繰り返し、潤いのない、喜びのない人生だったでしょう。

しかし、イエス様と出会って、命の水を与えられたなら、生き生きとした新しい人生が始るのです。

それは神様との関係が正される瞬間でもあります。

その新しい生き方が礼拝に現れて来るのです。

真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます

真の礼拝とは何でしょう。

サマリヤの女の疑問のようにエルサレムの神殿で献げる礼拝が本当の礼拝なのでしょうか、

ゲリジム山で献げる礼拝が本当の礼拝なのでしょうか。

決まったルールに則って生贄を献げる事なのでしょうか。

イザヤ書111(1127ページ)あなたがたの多くのいけにえは、わたしに何になろう。」と、主は仰せられる。「わたしは、雄羊の全焼のいけにえや、肥えた家畜の脂肪に飽きた。雄牛、子羊、雄やぎの血も喜ばない。

ホセア書66(1479ページ)わたしは誠実を喜ぶが、いけにえは喜ばない。全焼のいけにえより、むしろ神を知ることを喜ぶ。

アモス書521(1505ページ)わたしはあなたがたの祭りを憎み、退ける。あなたがたのきよめの集会のときのかおりも、わたしは、かぎたくない。

522 たとい、あなたがたが全焼のいけにえや、穀物のささげ物をわたしにささげても、わたしはこれらを喜ばない。あなたがたの肥えた家畜の和解のいけにえにも、目もくれない。

と忠告されているように、真の礼拝とは生贄や、献げ物等、祭儀的外面的形式的礼拝ではありません。

また、詩篇5116(955ページ)たとい私がささげても、まことに、あなたはいけにえを喜ばれません。全焼のいけにえを、望まれません。」を誤解した生贄や献げ物不要論、祭儀の内面化を推奨する事でもありません。

では、場所とか形式に寄らない本当の礼拝、

霊とまことによって父を礼拝する時が来ます」とはどの様に理解したら良いのでしょう。

「霊」と訳されているギリシャ語は「pneu'maプニューマ」と言い、ヨハネの福音書では「御霊」「聖霊」など「神の霊」を意味する場合が圧倒的に多いことばです。

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また「まこと」と訳されているギリシャ語は「ajlhqeivaアレーセイア」と言い、同じギリシャ語が、ヨハネ114節では「 ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。この方は恵みとまことに満ちておられた。」と、「まこと」はイエス様に満ちておられるものだと説明され、

ヨハネの福音書117節では「というのは、律法はモーセによって与えられ、恵みとまこととはイエス・キリストによって実現した、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである。」と、「まこと」はイエス様によって実現したのだと教えています。

これらの聖書の証言によって、「霊とまこと」とは「神の霊とイエス・キリストのまこと」と言うことになる訳です。

人間の霊的態度、人間の側のまことでなく、「神の霊とイエス・キリストのまことによって」礼拝するのだと教えているのです。

【適応】

しかし、罪人である人間に「神の霊とイエス・キリストのまことによって」礼拝できるのでしょうか。

この疑問に対する回答は「神を礼拝する」と言わずに「父を礼拝する」と言っている言葉にヒントがあります。

パウロは、神を「アバ、父」と呼ぶのは、子としてくださる御霊、御子の御霊が与えられているからだと教えています。(ロマ815、ガラ46

つまり、神から与えられる霊が、神を父と呼ばせ、神から与えられる霊によって生れた者だけが、神の子供として「霊とまことによって父を礼拝する時が来る」というのです。

罪人が恐れから神を礼拝するなら形式的にならざるを得ませんが、罪を赦された私たちが愛する、慕わしい父を礼拝するなら親子の関係ですから、その礼拝は形式に拘らない自由な暖かい礼拝となるのではないでしょうか。

この時ユダヤ人、サマリヤ人の区別はありません。

ユダヤ人と異邦人の区別はなくなるのです。

誰でもが罪を赦された子として神様の前に出て礼拝出来るのです。

真の礼拝者は「神の霊とイエス・キリストのまこと」によって礼拝するのですから、単なる会衆であってはなりません。

礼拝は神様への奉仕です。ですから、礼拝出席者はすべて「神への奉仕者」であると言える訳です。

奉仕者と言うと、説教者、司会者、奏楽者と考え勝ちですが、礼拝出席者はすべて「神への奉仕者」なのです。

礼拝を通して奉仕するのですから、お客様であってはなりません。

かと言って何かをしなければならないと言うのではありません。

礼拝出席者としてまず心得ておくことは、自分の務めが神の栄光を現すためにあるということです。

決して受身であってはならないのです。

そして直接の務めを負っている人も、負っていない人も、共同して神の栄光をあらわそうとするのが礼拝です。

その共同のわざの中で、考慮すべきことの一つに、どうしたら説教者によい説教をさせ得るかと言うことがあります。

すべての礼拝出席者は説教者を説教者たらしめることに意を用いるべきなのです。

しかし、はたして礼拝出席者のうち何人が、牧師の説教に重大な関わりをもつと自覚して席に座っているでしょうか。

礼拝開始前に席についているか否かと、讃美とは、礼拝出席者全員が礼拝に直接関わる場面です。

礼拝出席者が説教を、語られるみことばを待ち望んでいる。

説教者が講壇に立つ前に、席についている。

これは遅刻するな、休むな、寝るな、と言っているのでは在りません。

勿論、遅刻しない、休まない、寝ないに越した事はないのですが、

誰にでも遅刻してしまう事もあるし、休んでしまう事もあります。

連日の夜鍋仕事、残業残業で疲れていて、寝てしまう事も在るでしょう。

昨日、今日の事を言って言っているのではなく、普段の心がけの事を言っているのです。

また、讃美は礼拝の添え物、刺身の妻ではありません。上手に歌う事も重要ですが、誰に献げる讃美かが問題なのです。

これは発声や音程などの技術のことを言っているのではなく、スピリットを問題にしているのです。

ノン・クリスチャンのプロの声楽家による讃美と、上手じゃないけど忠実なクリスチャンによる喜びにあふれた讃美とでは、どちらが神様に受け容れられるでしょうか。

勿論、クリスチャンが充分な練習を積んで献げる讃美は神様がどんなに喜んで下さるかは言うまでもない事でしょう。

今日の礼拝を豊かにすると信じ、説教の一翼を担っているのだ、との意気込みをもって、礼拝に臨みましょう。

だからと言って力んだり、気負ったりする必要はありません。

礼拝は自分の力で献げるのではなく、神様の許しと憐れみと恵みの中で献げさせて頂くものだからです。

自然体で良いのです。在りのままの私でも良いのです。

神様はそのような思いで礼拝に出席する者を「真の礼拝者」として受け容れて下さいます。

説教者の為に祈り、司会者のために祈り、奏楽者のために祈り、礼拝出席者一人一人のために祈りましょう。

直接の奉仕も、勿論大切ですが、礼拝が神様への奉仕であることを考える時、礼拝出席者の礼拝に対する認識は重要です。

礼拝出席者はお客様ではなく、神様への奉仕者であり、礼拝を作り上げる共同作業者なのです。

教会に来てお話を聴いて帰って行くだけの聴衆であってはならないのです。

一人一人が神様に招かれた喜びと感謝に溢れて、礼拝を献げる事が求められているのです。

直接の奉仕者の為に、そして、礼拝出席者である私たちお互いの為に祈りましょう。

そして、説教者と、司会者と、奏楽者と、礼拝出席者とで共同して、神の栄光を現す礼拝を献げようではありませんか。

身分の低い羊飼いが最初の礼拝者として招かれ、差別されていたサマリヤの女が真の礼拝者とされたのです。

真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。

イエス様の御降誕に相応しい礼拝者として受け入れてくださいます。

今がその時です。

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聖書個所:ヨハネの福音書4:16                 2014-12-14礼拝

説教題:「疲れる事を厭わないイエス様」

【導入】

イエス・キリストは天地万物を造られた全能の神様の独り子です。

イエス様は神様のご計画に従って、神様と共に世界とその中の全てを造られました。

このヨハネの福音書の1123節で語られている通りです。

ヨハネの証言の通り、イエス様は神様なのですが、人となられたので、人としての性質もお持ちです。

姿形は私たち人間と変わる所はありません。

頭の先から、足の先まで、骨格も、筋肉も普通の人間と同じです。

後光が射しているとか、頭の上に光の輪が見える訳でもありません。

喉の渇きも覚えられるし、空腹も覚えられます。

高い所から飛び降りれば怪我もするし、鞭で打たれれば皮膚が裂け血を流される普通の人間です。

働けば疲れるし、重い十字架を軽々と運べる訳でもありません。

決してスーパーマンのような超人ではありません。

ユダヤ地方にも、ガリラヤ地方にも福音を宣べ伝え、病人を癒し、悪霊の束縛から解放して下さり続けましたが、休みなく働き続けた訳ではありません。

疲れれば休みを取り、体力が回復してから次の働きに取り組む。

嵐の中で揺れ動く船の中でも、疲れてぐっすり眠っておられるイエス様の姿は、私たちと少しも変わりません。

もし、違う所を見つけ出すなら、イエス様は疲れていても、使命を疎かにはしなかった、と言う事でしょうか。

救いを求めている人がいるならば、助けを求めている人がいるならば、何処へでも行かれたし、安息日でも、夜中でも、人々の訪問を拒絶する事なく、温かく迎え、その要求に応じて下さったのです。

ユダヤ人だけでなく、異邦人にも、福音を伝え、病気を癒し、神様の愛を伝えつづけたのです。

今日のテキストはイエス様の宣教旅行の一場面であり、ユダヤ人が付き合いをしなかったサマリヤ人にも遠回りをしてまで福音を伝える場面です。

【本論】

4:1 イエスがヨハネよりも弟子を多くつくって、バプテスマを授けていることがパリサイ人の耳にはいった。それを主が知られたとき、

4:2 ・・イエスご自身はバプテスマを授けておられたのではなく、弟子たちであったが、・・

12節の中で、イエス様の弟子たちがバプテスマを授けていた事については前回学んでいますので重複は避けますが、それを知ったパリサイ人の事が記されています。

119節にバプテスマのヨハネの証言、また彼の授けるバプテスマに対して、ユダヤ人は律法学者、パリサイ人を遣わし「あなたはどなたですか」と尋ねますが、彼らが知りたいのは救い主が来られるための道ぞなえの事でもなく、悔い改めの事でもありません。

彼らは自分たちの地位、権力が大事で、それを脅かす者、教え、働きに過剰な反応を示したのです。

それは、従来の慣習から外れない、温厚な宗教活動ならローマ政府は黙認してくれるが、

過激な宗教活動はローマ政府の取り締まりに合い、ユダヤ教も取り締まりの対象になる事を恐れての反応でもあったのです。

祭司、律法学者、パリサイ人はユダヤ教の分派、異端に非常な警戒を示していました。

彼らの掌握する範囲でなら、バプテスマのヨハネが何をしようが、イエス様が福音を宣べ伝えようが、問題とはしなかったのでしょうが、

人々がバプテスマのヨハネに注目し、イエス様の教えを権威ある新しい教えだと評価する事は、非常に危険な事であり、黙認する訳にはいかなかったのです。

自分たちの支配を越えて、勝手に活動する事が、ローマ政府の注意を引く事を極端に恐れたのです。

それで、バプテスマのヨハネの活動を、その言動を快く思わない人々はヨハネに「あなたは誰か」と質問をし、誰から許可を受けてバプテスマを授けているのかを問い質したのです。

その攻撃の矛先はイエス様にも向けられます。

バプテスマのヨハネに代わりつつあるイエス様の活躍を、働きを快く思わないパリサイ人は、イエス様に議論を吹きかけ、言葉の罠に落とし入れようと画策を始めるのですが、イエス様は受難の時が来るまでパリサイ人の挑戦を避け、そのような不毛な議論に巻き込まれるのを避け、

4:3 主はユダヤを去って、またガリラヤへ行かれた。のです。

ユダヤは塩の海とか死海と呼ばれている大きな湖の西側に位置する地域です。

塩の海の北端にはイスラエル北部にあるヘルモン山を水源とするヨルダン川が流れ込んでいます。

このヨルダン川は直線距離で約210km、蛇行距離では400kmを越すパレスチナ最大の川です。

このヨルダン川を北へ逆登るとガリラヤ湖がありますが、イエス様はこのガリラヤ湖地方に向かって行かれた訳です。

ガリラヤとユダヤ間を行き来するための最も安全なルートは、サマリヤ経由でありました。

(ヨセフス『ユダヤ古代誌』ⅩⅩ:118,『ユダヤ戦記』Ⅱ:232

ですから44節を省いて、3節から直接5節に飛んで読んでも不思議ではありません。

4:3 主はユダヤを去って、またガリラヤへ行かれた。

4:5 それで主は、ヤコブがその子ヨセフに与えた地所に近いスカルというサマリヤの町に来られた。

それなのに、4:4「しかし、サマリヤを通って行かなければならなかった。」とわざわざ書かれてあるのは何故でしょうか。

412節でイエス様と弟子たちがバプテスマを授けておられた事が記されていましたが、この事がヨルダン川近辺での事であったとすれば、大きく西に回り込んでサマリヤを経由するよりは、そのままヨルダン川沿いに北上する方が、ガリラヤに行く近道であったはずです。

しかし、このヨルダン川沿いに北上する道は渓谷沿いの危険な、険しい道です。

比べて、サマリヤ経由の道は平坦で距離も短いので、多少遠回りしてでも、何かしらかの問題があってもユダヤからガリラヤに行くなら安全なサマリヤ経由の道を選ぶのが常識的な判断です。

ですが、ユダヤ人はサマリヤ人を忌み嫌っていたので、サマリヤを経由する便利な道を通らず、敢えて峻厳なヨルダン川沿いの道を通るのが常識だったのです。

しかし、イエス様はこの常識を破り、敢えて遠回りになるサマリヤを通るルートを選んだのです。

ユダヤ人が選ばない道を選んだからには何か、特別な計画があったに違いありません。

聖書には「しかし、サマリヤを通って行かなければならなかった。」と記してありますが、イエス様がその道を選んだのは「サマリヤを通って行く必要があったから」なのです。

ガリラヤに行かれる事も大切な目的であったが、サマリヤにはもっと大きな目的があったのです。

その目的をご一緒に考えて行きましょう。

4:6「そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅の疲れで、井戸のかたわらに腰をおろしておられた。時は六時ごろであった。」

この「ヤコブの井戸」と言われているのは、伝承ではシェケム、現在の地名ではナブルスと言う所に建てられている教会の建物の中にある直径2m、深さ30mほどの井戸であると言われています。

そして、5節に出てくる「スカル」と言う町ですが、今日ではここと確定する事が出来ませんが、今日の「アスカル」と言う、ヤコブの井戸の北東約1kmに在る町と同一であるとする説と、「シェケム」と言う、ヤコブの井戸から約100m程離れた所に在る町と同一であるとする説があります。

1kmと100mでは随分違いますが、その距離はイエス様のサマリヤ人に対する愛を妨げる距離ではありませんでした。

6節に「時は6時ごろであった」とありますが、これは注釈付きの聖書には、欄外に在るように直訳で「第6時」の事であり、朝の6時や夕方の6時の事ではありません。

夜明けを起算点とするユダヤ式の時刻ならば、正午頃に相当します。

そして、これは、イエス様が日の出と共にユダヤを出発し30km程離れたサマリヤの町に5,6時間かけて正午頃到着したと考えると納得できる時間帯です。

日中の日差しの中、イエス様は遠回りして、スカルの町にわざわざ来られ、その町の大切な飲用水を賄う、ヤコブの井戸で休息を取られ、スカルの町の住民との出会いを求められたのです。

マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの、4つの福音書の中で、イエス様が疲れて、と表現されているのはここだけです。

休んでおられる姿や、弟子に休むように促す場面はありますが、イエス様ご自身が疲れて休んでいるのはここだけに記されている特別な出来事なのです。

イエス様は疲れていても、遠回りしてまでも、救いのために働かれる事を教えているとも、イエス様は疲れている事で、ユダヤ人と付き合いをしないサマリヤ人とコンタクトを取り、救いを提供しようとされているともとれます。

イエス様の姿は、人々が救われるためなら、何でもすると言う姿勢を覗わせ、教えているのではないでしょうか。

パウロが

9:20 ユダヤ人にはユダヤ人のようになりました。それはユダヤ人を獲得するためです。律法の下にある人々には、私自身は律法の下にはいませんが、律法の下にある者のようになりました。それは律法の下にある人々を獲得するためです。

9:21 律法を持たない人々に対しては、・・私は神の律法の外にある者ではなく、キリストの律法を守る者ですが、・・律法を持たない者のようになりました。それは律法を持たない人々を獲得するためです。

9:22 弱い人々には、弱い者になりました。弱い人々を獲得するためです。すべての人に、すべてのものとなりました。それは、何とかして、幾人かでも救うためです。

9:23 私はすべてのことを、福音のためにしています。それは、私も福音の恵みをともに受ける者となるためなのです。と第1コリントで920節で言っているのと同じです。

イエス様は一人のサマリヤ人の女がふしだらな生き方を捨てて、新しく生きるためなら、遠回りであろうと、疲れていようと、ユダヤ人が避けて通らない所まで来て下さり、声をかけて下さり、救いの道を教えて下さるのです。

【適応】

自分勝手に生きて来て、滅びるのは自業自得だから仕方がない、と私たちは考えますが、イエス様は、神様は、そのようには考えません。

罪人が滅びる事よりも、救われて生きる事を望んでおられるのです。

当時の人口が何人であったかは解かりませんが、現代なら63億人もいますから、一人位、救われても救われなくても同じと考えるのが私たちではないでしょうか。

一人の事より、100人に、千人に、万人に効果がある伝道の方法を模索し、推進させようとするのが私たちではないでしょうか。

投資とそれに見合う効果を期待する、資本主義の教えを受けている私たちがこのように考えるのは仕方がない事ですが、神様はそうは考えません。

効率の悪い、言葉による宣教と言う方法を取り、言葉の愚かさ、聖書を仲介として福音を知らせているのです。

現代のコンサルタントに相談したなら色々なアイデアや、方法論を示唆して下さるでしょう。

しかし、神様は宣教の愚かさを通して福音を知らせようとされ、イエス様ご自身も、6時間も歩いて、小さな町の外の100mも1kmも離れた所に休んで、一人の罪深い女のために時間も体力もかけて宣教されたのです。

強い日差しの最中、多くの人が家の中で涼んでいる、休んでいる時間帯に、一人の女との出会いを求めて待っている。

効率の悪い、無駄な労力です。

しかし、神様の目に一人のいのちは高価で貴いのです。

同じ労苦をするなら、人々の集まる所で、効果的な宣教を、と考えるのではなく、

無駄なような回り道をし、時間をかけても、誰も来ない日中の時間帯に井戸の傍で、一人の罪深い女の救いのために労して下さるのです。

ユダヤ人であろうと、サマリヤの女であろうと、日本人であろうと、外国人であろうと、金持ちであろうと貧乏であろうと、豪邸に住んでいようが、ホームレスであろうが、イエス様の目に映る姿は高価で貴いのです。

教会には色々な人が来ます。

救いを求めて来る人ばかりではありません。

食べ物を求めて、着る物を求めて、つまり施しを求めて来る人もいますが、彼らも神様の目には救いの対象なのです。

動機は様々、中には芳しからぬ人物が尋ねて来る事もあるでしょうが、神様の目には彼らも救いの対象者なのです。

生き馬の目を抜く、東京ですから、「蛇のようにさとく、鳩のようにすなおでありなさい。」との聖書の言葉を受け止めて、騙されないように注意すべきですが、慎重になり過ぎるあまり、本当に助けを必要としている人を排除してはなりません。

教会は救いを提供すると同時に、霊的な慰めを与え、肉体の必要に応えて施しをする場でもあるのです。

社会福祉、教育は教会から始った働きです。

現代はこれらの働きは国家が中心に担っていますが、手の届かないところがまだまだ多くあります。

地域教会はその穴を埋める働きが神様から委ねられています。

イエス様の時代には教会の働きをイエス様ご自身が担い、弟子と共に、遠回りをしても、疲れていても、求める人があるなら出かけて行ったように、現代は地域に教会があるのですから、尋ねて来る人に救いを提供し、施しをしようではありませんか。

元気だから遠回りをするのではありません。

求めている人がいるから遠回りをするのです。

余力があるから施しをするのではなく、求めている人がいるから、施すのです。

日本に宣教師が来たのは、ヨーロッパ、アメリカに余力があったからではありません。

アメリカ人は身体も大きく元気だったから極東の日本にやって来たのではありません。

屈強な人だけが宣教師になった訳ではありません。

正確な人数は解かりませんが無名のか弱い女性宣教師が世界各地に遣わされているのです。

強い男性だから宣教に出るのではなく、弱い女性も、疲れていても、裕福でなくても、神様の命令であり、そこに救われるべき魂があるから、困難を承知で、やって来たのです。

イエス様に倣って、遠回りであろうと、疲れていても、行かなければならなかったから、福音を運んできたのです。

「しかし、サマリヤを通って行かなければならなかった。」

私たちにとってのサマリヤは何を表わしているでしょうか。

苦手な人、行きたくない場所。

そこにも救いを求めている人が居るのです。

神様が愛しく思っている魂が居るのです。

出かけて行って訪問し、尋ねて来たなら暖かく迎えて、慰め、励まし、必要を与え、福音を伝えようではありませんか。

神様はそのために必要な知恵も力も与えて下さいます。

イエス様は旅の疲れの中にあっても、一人の魂の救いのために働かれました。

 


私たちもイエス様に倣って、疲れていても行きたくない場所でも、魂の救いのために働き、祈ろうではありませんか。

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聖書箇所:ヨハネの福音書33136             2014-12-7礼拝

説教題:「上から来られたお方」

【導入】

先ほど読んで頂いた31節から36節は、前回学んだ27節から30節までのバプテスマのヨハネの言った言葉の続きとして続けて読む事が出来ますし、30節で区切って、31節からを、このヨハネの福音書を記したヨハネの解説として読む事も出来ます。

誰が語ったかは大きな問題ではありますが、イエス様がどの様なお方かを記録する証言として見るならば、誰が語ったかは大きな問題ではないと言えるでしょう。

私たちの周りには、立派な人、偉大な人、社会に貢献した人が沢山います。

その影響は計り知れないほど大きい働きをした人から、局部的な働きであった人まで様々です。

先日、テレビの番組でこんな発言を聞きました。

うろ覚えなのですが、「Think global act local」

訳すなら「世界規模で考え、地域で活動しろ」でしょうか。

世界的な影響力を持つような人物は極、稀にしか出ては来ないですし、一気に世界を変えようとしても無理な相談ですが、小さな働きは誰にでも可能であり、そんな小さな地味ちな働きでも、地域で影響を与え続けるなら、各地に啓発され、応答する人物が起こされ、世界的な働きとなる事を含む言葉だと思います。

人の生き方に良い影響を与える働きならば、それは素晴らしい事ですが、どんなに素晴らしい働きも指導者も、徳の高い高潔な人物も、自分を救う事は出来ないのです。

神様から啓示を与えられ、幻を見させて頂いた人物であったとしても、彼等には神様の御旨や目的を完全に伝える事は出来ないのです。

救いの道をおぼろげに指し示す事は出来ても、間違いなく完全に伝える事は出来ません。

ある一部分を解き明かしたり、伝えたりする事は出来るかも知れませんが、それは不完全であり、不充分なのです。

それは、伝える者も、聞く私たちも地上に住む者であり、地上の事しか解からないからなのです。

地上の事は全て解かったような気になっていますが、地上の事であっても、その一部分しか知る事が出来ず、しかも、不充分な理解しか出来ないのが私たち人間の限界と言えるでしょう。

地上の事でもそうなのですから、ましてや天上の事、神様の御旨など、知る由もないのが現実なのです。

私たちが何故存在するのか、何故生まれたのか、何が目的なのか、或いは人生について、多くの人が語りますが、どれも似通っていて、参考にはなりますが、完全な答えを提供してはくれません。

バプテスマのヨハネは偉大な人物ですが、彼が語る事もまた地上の事、地上で起こった事に過ぎず、真理の一部を語る事しか出来ないのです。

では、私たちには、神様の御旨を完全に知る事が出来ないので、諦めるしかないのでしょうか。

そうではありません。被造物ではないお方、神様と共に世界を造られた方、全てを完全に知っておられるお方が知らせに来て下さればいいのです。

それは、御子イエス様です。

【本論】

3:31 上から来る方は、すべてのものの上におられ、地から出る者は地に属し、地のことばを話す。天から来る方は、すべてのものの上におられる。

神の御子イエス様は世界の創造の始めから、神様と共におられ、世界の創造に関って来られ、神様の御旨を余す所なく行なわれました。

それは、このヨハネの福音書の1123節に記されている通りです。

1:1 初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。

1:2 この方は、初めに神とともにおられた。

1:3 すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。

宇宙の、世界のバランス、秩序、調和は偶然の産物ではなく、神様の御心であり、神様のご計画の完全な現われなのです。

この世界の創造に関られたイエス様は被造物の全てを完全に知っておられます。

イエス様は私たちが片鱗しか知る事が出来ない、神様の深く限りない御旨を完全に知っておられるのです。

被造物を造られた方だけが被造物の全てを支配しておられるのですから当然です。

神様の懐に居られた方だけが、完全に神様の御旨を伝える事が出来るのです。

私たちの存在目的も、神様との関係も、人との関係も、完全に伝える事が出来るのはイエス様唯お一人なのです。

このイエス様の優位性、天来のモノである事、独自性が宣言されているのが31節の御言葉ですです。

3:32 この方は見たこと、また聞いたことをあかしされるが、だれもそのあかしを受け入れない。

イエス様は神様の御旨を余す所なく証しされました。

イエス様の証しされた事は、誰かからの又聞きでもなく、二番煎じでもなく、ご自身の目で見て、神様から直接聴かれて、神様から委ねられた私信を携えて、天から来られた方、上から下ってきた方として権威を持って証しされたのです。

伝言ゲームを体験された方は良くご存知でしょうが、簡単な言葉でも、数人に伝えて行くうちに大切な事が抜けたり、余計な事が加えられたりしてしまいます。

故意ではなくて、正確に伝えようとしても、正しく伝わらないのが常なのですが、イエス様が語られる証しは神様の御心そのままであり、寸分の違いもないのです。

また、その語る証しは全て正しく、間違いは一つもありません。

しかし、正しい事が受け入れられるとは限らないのです。

正しい事であっても、人は素直に受け入れる事が出来ず、反発し、排斥し、最後には十字架にかけて抹殺してしまったのです。

誰もそのあかしを受け入れない」と記されていますが、それが罪を持って生まれた人間の、神様に対する反応なのです。

生まれついての人間は肉に属する者であり、神様を、神様が遣わしたお方を受け入れる事が出来ないのですが、

誰もそのあかしを受け入れない」と言っても、聴いた人100%が神様を受け入れない訳ではありません。

ここは33節との関連から「極一部の人しか、そのあかしを受け入れない」と意味理解したほうが良いでしょう。

罪深い人間ですが、神様は憐れみによって神様を受け入れる心を与えて下さいます。

本当に一握りですが、神様を受け入れる者もいるのです。

3:33 そのあかしを受け入れた者は、神は真実であるということに確認の印を押したのである。

イエス様に従って行った弟子たちは、イエス様の語られた証しを受け入れ、神様に従う生き方に変えられました。

それが「神は真実であるということに確認の印を押した」と言う事です。

実際に印を押したと言う事ではありません。

署名、捺印は、自分の信仰を正式に表明する、自分の確信を公に告白する、と言う意味です。

印を押す事が大事なのではなく、証しを受け入れ、生き方が変る事が大事なのです。

聴いても生き方が変らなければ聴いた事にはなりませんし、神は真実である、との告白にも繋がりません。

この事は、洗礼にも、聖餐にも言える事です。

洗礼や聖餐が大事なのではなく、罪の自覚と告白、罪を悔い改め、神様に従うと告白し、行動が伴って始めて意味があるのであり、それらの意味で、神様を、神様が遣わした方を受け入れ、生き方が変ったのは少数の人々でしかなかったのです。

3:34 神がお遣わしになった方は、神のことばを話される。神が御霊を無限に与えられるからである。

バプテスマのヨハネを始めとして、多くの預言者が神様からの私信を携えて地上で働かれましたが、有限な人間には聖霊を無限に受け入れる事は出来ません。

小さな器に、大きなモノが入れられないのと同じです。

彼等は神様からその働きに必要なだけ聖霊が与えられて、偉大な働きをし、神様の私信を伝える事が出来たのですが、しかし、神様が遣わされた御子イエス様は、神様ですから聖霊を無限に与えられているのです。

そして、神様の御心を余す事なく地上に現されたのです。

イエス様は人々が理解出来るように、人間の言葉を語りますが、その語る言葉は神様の言葉なのです。

ここでも世の預言者とイエス様との違い、イエス様の優位性が証しされています。

多くの人がイエス様を偉大な預言者、エリヤの再来と見ていましたが、私の救い主として見る事はありませんでした。

私も幼い頃、イエス・キリストの伝記を読んだ記憶がありますが、偉人伝として読み、偉大な宗教家と言う理解でしたが、私の救い主として理解したのは、それから20年以上後の事であったのです。

バプテスマのヨハネは、このヨハネの福音書の著者は、イエス様は神である、上から来られた方である、と人々に伝えているのです。

イエス様はまことの人であると同時にまことの神様であられ、聖霊を無限に受けて神様の御心を語り、悪霊を追い出し、病から開放して下さったお方なのです。

断じて偉大な預言者の一人でもなければ、新しい教えの教祖様でもなく、神様がお遣わしになった神の一人子なのです。

3:35 父は御子を愛しておられ、万物を御子の手にお渡しになった。

ここで語られている、御子に対する神の愛は、人間が計り知る事の出来ない程に深いものです。

親が愛する我が子に自分の全財産を譲る様に、神様はイエス様に被造物の全てを譲られました。

全てがイエス様に委ねられたのであり、イエス様の支配下に置かれていないものは一つもありません。

ユダヤ人も異邦人も、男も女も、自由人も奴隷も、皆イエス様の手に渡されたのです。

父なる神様は、人間の救いに関する全ての事をイエス様に与え、委ねられたのです。

裁きも、赦しも、全てがイエス様に委ねられたのです。

だから

3:36 御子を信じる者は永遠のいのちを持つが、御子に聞き従わない者は、いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。

神様が全てをイエス様に委ねたのですから、イエス様を信じ、イエス様に聞き従う事が私たちの取るべき行動です。

神様がイエス様を愛したように、イエス様もイエス様に聴き従う者を愛して下さり、赦しを与え、永遠のいのちに入れて下さいますが、イエス様に聴き従わない者は、イエス様の支配を拒否するのですから、イエス様の赦しをも拒否する者であり、裁きに合い、いのちを与えられる事がないのです。

それが、神様の裁きであり、神様の怒りが留まる、と言う神様のご計画なのです。

説教において神様の愛、恵み、福音のみが強調されるきらいがありますが、この36節後半で、神の怒りについて明確に語られています。

神様が罪を嫌われる事は明白です。

罪をそのままにしたり、見過ごしたり、なかった事にする事はありません。

地獄は存在するのであり、神様は怒るお方なのです。

罪人は恐れなければなりません。

義人は一人も居ないのですから、全ての人のためにキリストの十字架が必要なのであり、その為にバプテスマのヨハネもパウロも裁きと救いを語っているのです。

神の怒りと、地獄の危険性について、人々に警告する事は、厳しい事ではなく、むしろ本当の愛情から出ている事なのです。

一人として滅びて欲しくない、だから厳しい事も語らなければならないのです。

【適応】

いのちか死か、天国か地獄か、いずれが与えられるかは、全て、ヨルダン川の向こう側でバプテスマを授けているイエス様を信じるか否かにかかっているのです。

御子を信じる事は救われるために最も重要な事であり、信じる事は天国に行く道であり、信じない事は神様の怒りの下に行く道なのです。

ここで、キリストにおける救いの現在性に注目しましょう。

信じる者は永遠のいのちを「持つ」と教えています。

人が自分の罪をイエス様に委ね、イエス様に信頼するその瞬間に、赦し、平安、天国に行く権利がただちにその人のものになるのです。

決して遠い将来に与えられるのではなく、ただちに与えられるのです。

信じた後、一定期間の訓練が課せられたり、課題が与えられる事もありません。

どんな罪を犯していても、悔い改めるなら、そのままで救われるのです。

相手に対する謝罪であるとか、賠償を行なう事がなくても、イエス様は赦して下さいます。

勿論、相手に対しての謝罪や、損害賠償はイエス様の喜ばれる事ですが、イエス様に対する悔い改めこそ、先決なのです。

何故なら、被造物の全ては父なる神様からイエス様に委ねられており、被害を与えた相手の主権者もまたイエス様なのですから、イエス様に対する謝罪こそ、最優先されるべきなのです。

私たち全ての者の上におられる方の主権を認め、聴き従う事こそ、私たちに求められている事であり、それだけが救いの道なのです。

人間にはイエス様による救いしか用意されてはおらず、他の如何なる手段においても天国に入る道は、永遠のいのちに至る道は用意されてはいないのです。

イエス様は天にいて地上を眺めておられたのではなく、地上に下りて来られ、私たちの罪を贖うために十字架に架かって下さいました。

このイエス様を仰ぎ見て、救い主として信じ、告白するだけで、救われるのです。

私たちには上から来られた方が示されているのですから、そのお方に聞き従おうではありませんか。

イエス様を信じて、永遠のいのちを頂いて、天に国籍を持つ者として、地上でも神の国の民として、イエス様の弟子として証しの生活を送ろうではありませんか。

「Think heaven live local」

「天国を覚えつつ、地上で生きよ」

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