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説教者:吉枝隆邦牧師 hi-b.a.
(高校生聖書伝道協会) 2014-5-25礼拝
聖書箇所:ヨハネの福音書19:31-37
説教題:「十字架と旧約聖書」
19:31 その日は備え日であったため、ユダヤ人たちは安息日に(その安息日は大いなる日であったので)、死体を十字架の上に残しておかないように、すねを折ってそれを取りのける処置をピラトに願った。
19:32 それで、兵士たちが来て、イエスといっしょに十字架につけられた第一の者と、もうひとりの者とのすねを折った。
19:33 しかし、イエスのところに来ると、イエスがすでに死んでおられるのを認めたので、そのすねを折らなかった。
19:34 しかし、兵士のうちのひとりがイエスのわき腹を槍で突き刺した。すると、ただちに血と水が出て来た。
19:35 それを目撃した者があかしをしているのである。そのあかしは真実である。その人が、あなたがたにも信じさせるために、真実を話すということをよく知っているのである。
19:36 この事が起こったのは、「彼の骨は一つも砕かれない。」という聖書のことばが成就するためであった。
19:37 また聖書の別のところには、「彼らは自分たちが突き刺した方を見る。」と言われているからである。
(説教本文は、説教者の許諾を得ておらず掲示していません。ご了承願います。)
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聖書箇所:創世記1:20~31 2014-5-18礼拝
説教題:「創造の経緯、第六日目まで:動物と人…人に与えられた使命…」
【導入】
日本の学校では「進化論」をあたかも揺るぎ無い、疑問を挟む余地の無い、確定した真実として教えていますが、「論」とあるように、学説に過ぎません。
日本で唯一無二の真実として教えられている「進化論」、
ダーウィンの唱えた進化論が有名ですが、
ダーウィン以前にはラマルクという学者が進化論を唱えています。
「進化論」は矛盾のない論文のように理解している節がありますが、
進化だけでは説明できない部分があり、有神論的進化論、定向進化説、跳躍説、突然変異説などが発表されています。
「進化論」に対抗する「論」として「創造論」があり、私たちクリスチャンは神様による「創造」を信じている訳です。
この「創造論」にも理解に差異があり、六日間創造説、長期間説、断絶説、枠組み説などが唱えられています。
創造論の差異については西満先生が書かれた「天地創造の六日間」に簡潔にまとめられていますので、それでも難しいのですが、参考になさってください。
「進化論」にしても「創造論」にしても、再現が出来ず、想像でしかないのですから、真実はわからないのであり、
両論がある事を教えるのが正しい教育のあり方、態度なのではないでしょうか。
それなのに、創造論の存在すら教えない日本の教育は、科学的な態度で無いばかりでなく、
両者を比較し、自分で考え、取捨選択し、結論を導き出すと言う、教育の基本を奪う行為であり、
中立であるべき教育を歪める、犯罪とも言える行為です。
創造論と進化論の対峙は、有神論と無神論の対峙であり、
神様によって造られた価値ある物、意味ある物、と、自然に発生した価値も意味もない物との関係になるのですから、
生き方、考え方を変え得る、重要な問題になのですから、疎かに扱ってはなりませんが、
色々な説、論があり、それを信じる人がいる事を認め、受け入れる事も重要です。
違いを攻撃の根拠とし排除する、切り捨てる社会に、平和や共存はあり得ないでしょう。
他人の意見を受け入れる、考え方の違いを尊重する社会は、健全であり、平和や共存を実現させるのではないでしょうか。
違いを認め受け入れつつ、染まらず正して行く使命がクリスチャンに与えられているのです。
人間同士の関係だけでなく、植物とも、動物とも、自然とも健全な関係で共存する社会は、
凡ての物が神様によって造られた被造物であるとの理解があること、
神様のご意志に従って利用、管理しなければならない物であるとの認識、理解があるクリスチャンに委ねられた使命と言えるのではないでしょうか。
中々解決の糸口の見えない社会問題も、神様不在の論議だからであり、
神様を認める社会なら、神様に管理を委ねられていると理解するなら、
解決の糸口を見つけるのは難しくはないでしょう。
クリスチャンの働き、使命は大きいのであり、神様に期待されているのです。
その「人に与えられた使命」を、共に確認して行きましょう。
【本論】
1:20 神は仰せられた。「水には生き物が群がれ。鳥が地の上、天の大空を飛べ。」
1:21 神は、海の巨獣と、種類にしたがって、水に群がりうごめくすべての生き物と、種類にしたがって、翼のあるすべての鳥を創造された。神はそれを見て良しとされた。
植物が自生し、動物が生きられる環境が整い、いよいよ創造の業は最終段階に入ります。
生き物の内でも、水に住む生き物が最初に創造されました。
「生き物」と表現されていますから
鮪や秋刀魚などの魚類、浅蜊や蜆などの貝類、烏賊や蛸などの軟体類、海豚や鯨などの哺乳類、蟹や蝦などの甲殻類、蛙や山椒魚などの両生類、水生昆虫、プランクトンや珊瑚なども、この段階で創造されたのでしょう。
次いで鳥が創造されましたが、
「鳥」と訳されているヘブル語は「飛ぶ生き物」を意味する単語ですから、
羽があり飛ぶ事が出来る生き物の事であり、鳩や鷲などの鳥類のみならず、蝶や蜂、飛蝗や蝉などの虫も、この段階で創造されたのでしょう。
蝙蝠もこの段階で創造されたのだろうと思います。
ユダヤの文化では蝙蝠も鳥の種類に数えられているからです。
これらの記述から、神様の創造の業は、厳密な種属毎に創造したのではなく、
水の中、空、陸地、其々に焦点を合わせていって、其々の環境に最適な生き物を創造されたと言う事なのです。
神様の創造の業は、種類の関連性を柱とする画一的、機械的、無味乾燥なものではなく、
多様性に富み、相互の関係性を持って創造され、変化に富み、様々の種や属が同時進行的に創造されて行ったのです。
一つの種が、別の種になるとする進化論を前提とすると、別の種になるまで何十万年も生き延びなければならず、
それを繰り返すのは、生き延びていくのは、簡単な事ではないのです。
新しく生まれた種が、その環境に適合して生き延びて行くのも、至難の業であり、
現実の世界の多様性を進化論で説明すると、時間が足りないそうです。
計算が合わないのです。
そこで、跳躍説とか突然変異説を持ち出す訳ですが、
あり得ない事が、そんなに都合よく、自然に起こるなんて、誰が信じるでしょうか。
机上の空論であり、進化論の矛盾や問題点を跳躍説とか突然変異説で誤魔化し、辻褄合わせをしているに過ぎないのです。
これらの諸説は、進化論も含めて、同一種の中の、変化の多様性の説明には活かされるでしょうが、種を越える変化を説明するには矛盾だらけ、強引であり、正しい論述とは言い難いでしょう。
しかし、創造論を受け入れるなら、種の豊かさを問題なく説明出来るでしょう。
殆ど瞬間、と表現して良いほど短期に、様々の種類の哺乳類、魚類、鳥類、昆虫類、爬虫類、生き物が産みだされ、バランス良く配置され、秩序ある世界となり、しかもある意味、単純な世界、シンプルな世界、となるのです。
進化論を取り入れるなら、生命が誕生するためには、実験室のような特別な環境が必要であり、
直ぐ後には、生命を維持するための、安定した環境が必要です。
進化論では、原始地球が苛酷な環境から、安定した環境になるまで億を単位とする年月が必要ですが、
それが、種の変化に都合よく、タイミング良く、繰り返すなんて、自然に起こり得る事でしょうか。
創造論にも、私たちが理解する上で問題がない訳ではありませんが、
全知全能神様の存在を前提とし、認めているのなら、それらの問題も問題ではなくなるのではないでしょうか。
「海の巨獣」についてですが、鰐、蛇、竜などを示す言葉です。
「海の巨獣、鰐、蛇、竜」は、エジプト、メソポタミヤの神話では、神様の敵として描かれ、
神様と同じ力を持つ存在として畏怖され、時に信仰の対象にもなっていましたが、
「海の巨獣」も神様の手による被造物であり、
前回学んだように、太陽や月、星と変らない被造物であり、何の霊的力も、影響力も、運命を左右する力もない事を、決して神ではない事を宣言し、強調しているのです。
「海の巨獣」を時に「鯨」と理解する節がありますが、ユダヤの文化で鯨を意味する事はありません。
1:22 神はそれらを祝福して仰せられた。「生めよ。ふえよ。海の水に満ちよ。また鳥は地にふえよ。」
「生めよ。ふえよ。」即ち、繁殖力は生き物に自然に備わった能力、自動的な機能ではなく、
神様の祝福として与えられた能力、機能であり、
生き物各々に繁殖期があり、神様の特別の、創造の業の結果なのです。
生む事、増える事によって、神様の創造の業が完成するのですが、現時点で未完成の意味ではなく、
生み続けるような生き物として、増え続けるような生き物として創造された、と言う事なのです。
しかも、命令形であり、継続的な繁殖は神様の御心なのです。
生き物はこの命令を意識してはいないでしょうが、繁殖期がこの事を証言していますし、
後の時代に「去勢」が行われる事を禁じての宣言でもありましょう。
ユダヤでは「去勢」は固く禁じられています。
レビ記22章24節「また、睾丸が押しつぶれたり破れたり、引き裂かれたり切り取られたものを主にささげてはならない。あなたたちの国でこのようなことをしてはならない。」
エジプト、メソポタミヤでは、家畜の品質を良くするために、数の調整のために去勢を行なっていたようですが、人為的な去勢は神様の御心ではないのです。
欠陥と思えても、増え過ぎる懸念があっても、自然の営みを大切にしたのであり、
生み続けるような生き物として、増え続けるような生き物として、生き物は創造されたのであり、
去勢は神様の命令に反する行為であることを宣言しているのです。
1:23 夕があり、朝があった。第五日。
1:24 神は仰せられた。「地が、種類にしたがって、生き物を生ぜよ。家畜や、はうもの、野の獣を、種類にしたがって。」そのようになった。
1:25 神は、種類にしたがって野の獣を、種類にしたがって家畜を、種類にしたがって地のすべてのはうものを造られた。神はそれを見て良しとされた。
水に住む生き物の創造に続いて、24節から、地上の生き物が創造されます。
24節の「地が、種類にしたがって、生き物を生ぜよ」だけを読むと、
地上の生き物が「地」から生まれたように、「地」が生み出したかのように読めますが、
ヘブル語の意味は「出て行く、出て来る、引き出す、導き出す」であり
24節は25節の記述と合わせ読み、理解しなければなりません。
合わせ読むなら、地の上の生き物は神様の創造の業である事は明白です。
「はうもの」は「滑らかに動くもの」「這いながら動くもの」の意味であり、
「滑らかに動くもの」として考えられるのは、蛇、
「這いながら動くもの」として考えられるのは、亀や蜥蜴(とかげ)、足がいっぱいあって這いまわる百足(むかで)の類とか、蚯蚓(みみず)などの類でしょう。
これらが「よいもの」として創造されました。
気持ち悪いと感じるような生き物も、創造の時には良い生き物であったのであり、
凡てが調和の取れた、必要な、素晴らしい生き物であったのです。
1:26 神は仰せられた。「さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配するように。」
太陽、月、星、植物、動物が創造され、最後に人間が創造されました。
その目的は、生き物を支配するためであるのです。
人間は被造物の一つであり、自然の一部ですが、それを越えた存在である事を押さえておかなければ為りません。
創造の業の連続性を持って人間も創造されましたが、非連続でもあるのです。
人間だけは「われわれのかたちとして、われわれに似せて」創造されたのです。
動物園に例えるならば、動物を造っていく中で、珍獣、目玉展示物として人間を造ったのではなく、
動物園を管理し、動物の世話をする存在として人間を造られたのです。
しかも、機械的に管理し、修理し、点検し、世話をし、餌を与え、繁殖させるロボットとして造られたのではなく、
創造者である神様と霊的に繋がり続け、神様のご計画、お考えを意識し、
維持、発展させる、神様の代行者、代理人、全権委任者として造られたのです。
他の被造物は存在するだけで意味がありますが
人間だけは存在と共に、神様に代わる存在として働く事に意味がある特別な存在なのです。
1:27 神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。
人間だけが男と女に創造されました。
「男と女」の意味は「雄と雌」ですが、単に雌雄の別ではなく、創造の初めから性別を意識して創造されているのです。
動物の雌雄の特徴は性器以外、殆どありません。
羽の色が違うとか。鬣(たてがみ)があるとか、身体が大きいとかであって、
それらの特徴を除けば、略、同じです。
しかし、人間だけが「男と女」と、性別を意識して創造されたのであり、
違うものとして創造されたと言う事なのです。
違いは欠点ではなく、補い合う事によって、より勝れるものとされる可能性を秘めた事であり、
異なったものの結合、協力を通して、個体に勝る働きを秘めていると言う事なのです。
1:28 神は彼らを祝福された。神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」
28節前半は22節と概ね同じです。
「祝福」も同じへブル語が使われており、その意味は「賜物を与え、務めを授ける」ですが、
動物と人間とでは、意味と期待に格段の差がありましょう。
動物に与えられた祝福は、繁殖させていただく事、即ち、増えて良いと言う許可であり、
賜物は繁殖する能力であり、増え、広がる事で自然の営みに寄与しますが、
人間には、動物と同じ祝福に加えて、動物の繁殖の手助けをする事、増え広がった動物を最適に管理する事が許可され、委ねられた務めである、と言う事なのです。
関連するので「支配」を先に確認しますが、
支配は抑圧、強制、束縛、搾取などではなく、
お世話、管理、点検、見張り、維持、向上、発展などであり、
被造物の一つ一つが本来の目的を果たし得るように治める事です。
これは簡単なようで非常に難しい課題です。
被造物の一つ一つが本来の目的を果たし得るためには、創造者との絶えざる交流が必要不可欠、絶対条件であり、神様の御心を謙遜に確認しつつ、
広範な知識を蓄え続け、経験、体験を活かし、それらを惜しみなく共有しなければならないからです。
そしてこの働きが「男と女」、即ち、違う人格を持つ者に委ねられている事は重要です。
気の合う者同士、同年代、同族、共通の価値観を持つ者の集まりによる働きではなく、
気の合わない者も、年代を越えて、外国、異人種、異文化に生きる人々とも協力しなければ、達成できない働きなのです。
得手不得手を認め受け入れ、期間限定でなく、地域限定でもなく、
何時でも、何処でも、誰とでも良い関係を築き、被造物の一つ一つが本来の目的を果たし得るように、努め、務め、勉めなければならないのであり、
それが、祝福に繋がり、祝福とは被造物の一つ一つが本来の目的を果たし得る事なのです。
1:29 神は仰せられた。「見よ。わたしは、全地の上にあって、種を持つすべての草と、種を持って実を結ぶすべての木をあなたがたに与える。それがあなたがたの食物となる。
1:30 また、地のすべての獣、空のすべての鳥、地をはうすべてのもので、いのちの息のあるもののために、食物として、すべての緑の草を与える。」そのようになった。
人間の、動物の食物として、植物、果実と草そのものが与えられました。
この節を狭義に解釈して、肉食の禁止、
或いは、全ての動物がかつては草食であった、と解釈してはなりません。
この節の本意は、神様の備えによって養われている、生かされている事を教えており、
全ての生き物が、植物に依存している事を、一般的に述べていると理解するのが妥当でしょう。
植物の働きを、存在の意味を考える時、植物は食物として動物を養うだけでなく、
動物の排出する二酸化炭素を吸収し、
動物が生きるために必要な酸素を供給します。
枝を伸ばし、葉を茂らせて日陰を作り、地表からの水分の蒸発を抑制し、必要以上に乾燥するのを防ぎます。
根を張り、土を囲い込み、土砂の流出を防ぎ、動物が生息するための環境を守ります。
小動物や昆虫などにとっては住まいでもあり、安全な避難場所でもあるのです。
他にも、多くの見えざる働きがあるでしょうから、動物は植物によって養われ、守られ、支えられているのであり、全面的に依存しているのです。
1:31 神はお造りになったすべてのものを見られた。見よ。それは非常に良かった。夕があり、朝があった。第六日。
神様の創造の業は全て、ご計画通りに進み、完成しましたが、
それは、一応の完成であるとか、及第点であるとか、満足出来るレベルだ、の意味ではありません。
非常に良かった、のであり、この上もなく良かった、非の打ち所が皆無な出来映えだ、の意味です。
何の欠点も、何の不足も、余分も、邪魔者もなく、完璧だったのです。
【適応】
その完全、完璧、非の打ち所のない作品群は、多少の世話をしなければならないように、創造されていました。
手入れをしなければならないように、創造されていたのです。
何の手間をかけなくても、完璧な状態を維持し続けるように創造する事も出来たでしょうが、
敢えて、手がかかるように造られ、
その完全、完璧、非の打ち所のないけれども、多少の世話を必要とする作品群の管理を、神様は人間に委ねられたのです。
何の世話も管理も必要としない作品は、何時見ても同じ、何の変哲もない物でしかありません。
直に飽きてしまうでしょう。
行楽地のアトラクションとは比べられませんが、行く度に新しい発見があるように工夫され、飽きさせないようにしているのに比べると、納得できるのではないでしょうか。
技術者業界用語では隙間とか、ズレを「遊び」と呼ぶのですが、適度な隙間やズレがある事によって、扱い易くなり、収まりが良くなり、使い勝手、保存などがし易くなるのですが、
神様は、自然界にも「遊び」を入れて、少しずつズレて来る、変化が起こる、影響しあうように創造され、
単純、単調な繰り返し世界ではなく、変化に富んだ、複雑な、美しい世界になるように意図されて創造されたのです。
しかし、草木が生えるに任せ、動物が繁殖するに任せていては、ズレは大きくなりバランスの崩れを引き起こし、秩序がなくなり、雑多な世界になってしまいます。
作品群の管理、言い方を変えるなら植物、動物、自然界の「お世話」をし、バランスが大きく崩れないようにするために、人間は創造されたのです。
一方、人間ですが、全く手もかからない世界で、のんびり、日がなボーっと怠惰に過ごすのではなく、
管理者、お世話人、働く存在、として創造され、置かれたのです。
人間はお世話係りとして創造されたのですが、奴隷としてではなく、ロボットとしてでもありません。
するもしないも、何処までやるかも、何時やるかも、何をするかも自由に選べる権限、裁量権も共に与えられているのです。
奴隷やロボットは、命令された事には忠実ですし、忠実である事が最大の特徴でしょう。
しかし、非常事態に、想定外の事には対応できません。
自由意思がなく,何の権限も裁量権を与えられていないからです。
しかし、人間には自由意思があり、判断が出来、選択が出来、決断が出来ます。
神様は人間に自然を、植物を、動物を自由に扱う権限、裁量権を与えられ、
変化する自然を、手のかかる植物を、世話を必要とする動物を任されたのです。
この神様の信任に応えて、自然の、植物の、動物のお世話をするのが、人間が創造された理由なのです。
10タラント、5タラント預かった僕が、其々の能力、賜物と裁量によって、預かった財産を倍にしてご主人に渡しましたが、
自然を預かった人間は、其々の能力、賜物と裁量によって、預かった自然をより良い物にして神様に渡さなければならないのです。
この神様の信任に応えるためには、神様と綿密な関係を維持しなければなりません。
何でも出来るし、何をするのも許されていても、手を出してはいけない線、覗いてもいけない線がある事を弁えなければなりません。
完全な制御が出来ないうちは、研究のレベルに留めておき、実用化は断念する、
何世代も後への影響を検証できないうちは、研究のレベルに留めておき、実験データ蓄積の期間とし、世には出さない強い意志が、決断が必要なのです。
世は、罪故に、委ねられた権限、裁量を無制限に拡大させ、したい放題、早い者勝ち、やった者勝ちの様相を呈していますが、分を弁え、留まり、時に断念、中断、後退、撤退する事も必要なのです。
それが、神様に対して、あるべき姿であり、美しい僕の姿なのです。
それは創造主を認める事であり、創造主の栄光を現す事なのです。
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聖書箇所:創世記1:6~19 2014-5-11礼拝
説教題:「創造の経緯、第四日まで…大空と地、日月星…」
【導入】
唯一の神様、創造主なる神様による天地創造の経緯は、余りにも壮大過ぎ、深遠であり、人間には理解出来かね、表現出来かね、言葉や文字で現すには限界がありますが、
創造主なる神様のご計画と、神様の発せられた「ことば」によって創造された事を知るのは、何よりも大切、重要です。
私たちの住む、生きる天地、宇宙、地球は偶然出来たのではなく、生物、人間は意味もなく生まれたのではありません。
偶然の、偶然のビック・バンによって宇宙が始まったのではなく、
単純な有機物から偶然下等な微生物が生まれたのではなく、
下等な微生物が数億年、数十億年の歳月をかけて高等な人間に進化したのではないのです。
宇宙の始まりの経緯にビック・バンが関わっているかも知れませんし、
生物の多様性を進化論で説明出来るかも知れませんが、神様のご介入があった事を認めなければなりません。
神様のご介入がなく、凡てのものが自然に発生したのであれば、自然に消滅しても、それが、それこそ自然なのであり、
神様のご介入なく、神様と無関係に、意味もなく生命が、人間が誕生したのであれば、意味もなく殺し合って滅びても、関心を払う必要はありません。
人間の命も、尊厳も、その維持も意味がないのであり、あらゆる研究も、解析も、応用も無意味でしょう。
死も苦しみも、意味がないのであり、ありのままに、欲望のままに、楽しく愉快に生きるのが自然でしょう。
破壊しようが、汚染しようが、
遺伝子を組替えようが、クローン技術を多方面に応用しようが自由でしょう。
しかし、神様と霊的に応答する者として人間が創造され、人間を置くために宇宙、地球が、凡ての物が創造されたと考えるならば、
凡ての生き物のみならず、凡ての被造物が相互に関係を持っていること、
苦しみにも死にも意味が隠されている、と考えるのは必然なのではないでしょうか。
神様の造られた状態を維持し、神様の御心にそって発展させる事がなすべき事であり、
決して手を出してはいけない線があり、核、遺伝子は蓋を開けてはならない、覗き込んではならない、手を出し、手を加えてはならないのです。
聖書ははっきりと、明快に、宇宙の、地球の、生物の維持管理を人類に命じておられ、
けっして宇宙、地球、生物を、人間の自由にして良い、手を加えて、より良い物にしなさいとは命じてはおられません。
世界の創造の結果は「非常に良かった」のであり、如何なる瑕疵、欠陥、過不足もなかったのであり、人間の手助け、知恵を必要とはしないのです。
その「非常に良かった」創造の業を、共に確認して行きましょう。
【本論】
1:6 神は仰せられた。「大空が水の真っただ中にあれ。水と水との間に区別があれ。」
1:7 神は大空を造り、大空の下の水と、大空の上の水とを区別された。そのようになった。
1:8 神は大空を天と名づけられた。夕があり、朝があった。第二日。
天地創造の経緯は、二節から「地球」に視点が移り、地球から見た、或いは地球に立っての創造の経緯、創造の二日目以降を記しています。
六節を読むと、原始地球の状態が混沌とした状態であり、秩序がなかったかのように読めるかも知れませんが、混沌、無秩序を記しているのではありません。
創世記から申命記までの五つの書物は、モーセが著者とされ、通称「モーセ五書」と呼ばれていますが、
その総てが、相当に後の時代まで口伝であり、書物、巻物の形になるのはずっと後の時代の事です。
連綿と伝えられて来た口伝を、モーセ亡き後、書物として記し残し、幕屋、神殿に収めた訳ですが、
モーセに啓示され、文字に記された天地創造の経緯は、神様の霊に拠るものであり、
全く間違いのない啓示でありましたが、
モーセ自身は、エジプトの文化の中で生まれ育ち、エジプトの教育を受け、エジプトの宗教観、神観の影響を受けていますから、エジプト的な理解、表現にならざるを得ません。
更に文字にし、書き残す時には、語彙の乏しさ、表現力の貧しさの影響を受けるでしょう。
更に、聞き手、読み手もエジプト、メソポタミヤ、オリエント等の文化の影響を受けているのですから、歪んだ理解となるのは、想像に難くありません。
天地創造の経緯はメソポタミヤ、オリエント、エジプトの伝承にもあるでしょうから、
それらの影響を排除し、天地創造が八百万の神によるものではなく、似て非なるものである事を示し、唯一の神様の創造である事を伝える使命をもって記されている事を見なければなりません。
敢えて、メソポタミヤ、オリエント、エジプトの伝承と似たような経緯を取りつつ、
どんな状態でも、どんな段階を経ても、唯一の神様による創造である事を教えているのであり、記しているのです。
八節で、神様は「大空」を「天」と名付けられましたが、この「天」が一節の「天」と同じでない事は説明するまでもないでしょう。
一節の「天」は「宇宙」を意味しており、七節以降の「天」は地上から見上げた「大空」です
その「大空」は、
「水の真っただ中に」あるのですが、これもメソポタミヤ、オリエントの影響を受けた表現なのでしょう。
現代の私たちは、空気に含まれる水蒸気、気体の水の存在を知っていますが、
当時の人々にはそんな知識もなく、理解出来ない事の一つだったのであり、
天に巨大な水瓶があり、そこから雨となって降って来ると考えていましたが、
本物の水瓶こそありませんが、空気の層が水分を含み、蓄えているのですから、水瓶と理解したのは、強ち間違いだとは言えないでしょう。
空気に含まれ蓄えられている目に見えない「水」と、
地上にある見える「水」を対比させ、
それらは神様の創造物であり、
「水と水との間に区別があれ」
「大空の下の水と、大空の上の水」との表現から、神様が区分され、保持しておられる事を宣言しているのです。
この水の区分と大空の出現で第二日が終わりますが、
この日にちの区分も、現代の24時間の一日に当て嵌めて理解してはなりません。
あくまでも、区切りとして理解しなければならず、
本当の意味は、イエス様が来られ、凡てが明らかにされるまで待たなければならず、
信仰の一言で疑問を封じ、無理やり納得させるのではなく、
科学的に説明できないとして拒絶するのでもなく、
解らない事は解らないままにしておき、時が来るのを待つのが信仰である事を忘れてはなりません。
無理なこじつけ、変な理屈付けは、聖書のあちらこちらで矛盾を生じ、一貫性に欠ける事となるでしょうし、
聖書を攻撃する恰好の的となりかねないのですから、注意が必要です。
1:9 神は仰せられた。「天の下の水が一所に集まれ。かわいた所が現れよ。」そのようになった。
1:10 神はかわいた所を地と名づけ、水の集まった所を海と名づけられた。神はそれを見て良しとされた。
日本の神話では、日本列島の始まりは、イザナギの尊とイザナミの尊であり、
棒で泥を掻き回して、棒を引き上げた時に出来た島に降り立ち、二人の尊が次々に島を産んでいったとされています。
民族其々に似通ったような天地創造の伝承があるようですが、
大陸は、列島は、大小様々の島々は、神様のことばによって現れたのです。
泥が盛り上がって出来たのではなく、産み出されたのではなく、神様が造られた水に覆われていた地球、その水が集まるべき所に集められて、陸が現れたのです。
地殻隆起説、大陸移動説などで、説明が出来るかも知れませんが、
自然に出来たのではなく、神様が地球に速過ぎず遅過ぎない自転を与え、その最適な自転運動の結果、水は収まるべきところに収まり、陸と海が出来たのです。
潮汐の干満は、自転に月と太陽の引力の影響が加わって起こるのですが、
ここにも神様の緻密なご計画があるのであり、
月が適度な距離に置かれているために、大き過ぎない海岸線の変化が起こり、生物の多様性に繋がっているのです。
神様のことばによって現れた地、陸に対して、次なることばが発せられます。
1:11 神は仰せられた。「地が植物、すなわち種を生じる草やその中に種がある実を結ぶ果樹を、種類にしたがって、地の上に芽ばえさせよ。」そのようになった。
1:12 地は植物、すなわち種を生じる草を、種類にしたがって、またその中に種がある実を結ぶ木を、種類にしたがって生じさせた。神はそれを見て良しとされた。
1:13 夕があり、朝があった。第三日。
地質的環境が整い、いよいよ生物の創造の段階に入りました。
ここで注目したいのは11節で地に対して「…させよ。」と言われている事です。
10節まで、また、14節以降の神様のことばは「…あれ。」「…あるように。」で、神様が直接、創造されていますが、
11節では「地」に対して植物を生じるように命じられているのです。
この違いは何を意味するのでしょうか。
正解は………解りませんが、
可能性の一つは、大地は「母なる」とか「生物を育む」との形容詞がぴったりですが、
そのように、「地」は最初から、生物を産み出し、育む存在として創造された、と言う事なのではないでしょうか。
この後に創造される動物や人間の食物は植物でした。
地は生命を維持し、発展させる重要な役割を与えられたのであり、
他の被造物は存在していれば、それだけで充分であり、他の特別な働きが期待されていないのに比べて、
地は存在しているだけでは不充分であり、植物を生じさせ続け、動物を養い続ける、と言う働きが期待されているのではないでしょうか。
私は農業学者でも、地質学者でも、植物学者でもないので、詳しい事は解りませんが、
雑草は肥料を与えなくても、手入れをしなくても、抜いても抜いても生えて来ます。
雑草の底力かも知れませんが、その底力も地が支えているのであり、地が雑草の生育を支えているのです。
砂漠でも雨が降れば植物は育つのであり、痩せた地でも花を咲かせ実を実らせます。
地が栄養を与えるのであり、本当に不思議な事ですが、地が神様の命令に如何に忠実か、と言う事なのではないでしょうか。
1:14 神は仰せられた。「光る物が天の大空にあって、昼と夜とを区別せよ。しるしのため、季節のため、日のため、年のためにあれ。
1:15 また天の大空で光る物となり、地上を照らせ。」そのようになった。
1:16 神は二つの大きな光る物を造られた。大きいほうの光る物には昼をつかさどらせ、小さいほうの光る物には夜をつかさどらせた。また星を造られた。
1:17 神はそれらを天の大空に置き、地上を照らさせ、
1:18 また昼と夜とをつかさどり、光とやみとを区別するようにされた。神はそれを見て良しとされた。
1:19 夕があり、朝があった。第四日。
第四日目には太陽、月、星が創造され、昼と夜を区別し、年月、季節の「印」となるように命じられました。
ここで、重要なのは太陽も、月も、星も、被造物であり、昼夜の時間と季節の区別をする「印」でしかない、と言う事です。
この宣言の背景には、太陽を礼拝したり、月の満ち欠けで吉兆を占ったり、
星の位置で吉兆を占う事などが、蔓延していた事を暗示させます。
他の民族、文化はいざ知らず、ユダヤ人は太陽を礼拝してはならず、月星で占いをしてはならないのです。
太陽も月も星も、神様のことばによって造られた被造物であり、
太陽は地を照らし、熱を与え、
月は夜空にあって、月明かりとなり、
星は神様の存在を叫び、業を称える、声なき声であり、
決して神の化身ではなく、従って運命を握ってはおらず、吉兆を語りもせず、
決して人を導く、助ける、救う、如何なる力も霊力も、
人の願いを、神様に取り継ぐ力さえも持ってはいないのです。
ディズニー映画「ピノキオ」の主題歌であり、美しいメロディー、歌詞の「星に願いを…」。
「輝く星に 心の夢を 祈れば何時か叶うでしょう
きらきら星は不思議な力 あなたの夢を満たすでしょう
人は誰も一人 哀しい夜を過ごしてる
星に祈れば淋しい日々を 光り照らしてくれるでしょう」
名曲の一つであり、詩的な表現であり、その琴線に触れる詩を否定する者ではありませんが、現実問題として「星に願いを」かけても、何の意味もないのです。
願いは太陽、月、星などの被造物にではなく、これらの創造主である神様にかけてこそ、意味があるのです。
【適応】
被造物の凡てに、存在の意味があります。
期待されている働きがあります。
その働きは、地味かも知れません。
目立たないかも知れません。
評価されないかも知れません。
無くても大して影響が無いように思えるかも知れませんが、
神様が造られ、置かれている事に、最大限、最高の目的、意味があるのです。
働きの有無、大小ではなく、
影響力の有無、大小ではなく、
神様に造られ、「ある」だけで意味のある存在と断言出来るのです。
ましてや、地のように期待されている働きがあるなら、尚更です。
草木を産み出す働きは、何にも代え難い働きです。
土そのものを食べる事は出来ませんが、土が産み出し、土が育む物でしか、動物は生きられないのです。
草、そのものや実、果実は評価されるでしょうが、土が評価される事は少ないのではないでしょうか。
直接の働きではありませんから、目立たず、軽く見られ勝ちですが、
間接的でありながら、重要な働きもあるのです。
間接的であるために、評価されない働きではありますが、縁の下の力持ち的な働きがあるのであり、神様に期待された働きなのです。
東京の夜空では見る事が難しいかも知れませんが、雲の上を見るならば、無数の星が瞬いています。
本当に「数え切れないほど」であり、一つくらい、否、100個、1000個どころか一億個無くなっても、私たちの生活に何の影響も及ぼさないでしょう、支障はないでしょうが、
影響があるかないかではなく、神様が造られた事と、存在する事自体が大切なのです。
この地上には63億の人々が住んでいますが、皆、神様が造られたのであり、
一人として不要な人はなく、存在している事に意味があるのです。
一人一人は、星のような小さな存在であっても、神様の目には掛け替えの無い貴重な存在であり、
その一人一人に目立たないけれども大切な土の働きが期待されているのです。
私一人くらい、居ても居なくても何も変らないし、何の役にも立たない、ではないのです。
その働きは、何かを産み出す事かも知れませんし、誰かを支える事かも知れません。
育む事かも、慈しむ事かも知れません。
ここに居られる皆様も、掛け替えの無い存在であり、期待されている働きがある事を知っていただき、
置かれた場所で、環境で、
与えられた能力で、賜物で、神様に仕えるなら、
それは創造主を認める事であり、創造主の栄光を現す事なのです。
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聖書箇所:創世記1:1~5 2014-5-4礼拝
説教題:「創造の経緯、第一日…混沌から秩序へ…」
【導入】
皆様はディスカバリー・チャンネルをご存知でしょうか。
ご覧になられた事がおありでしょうか。
ディスカバリー・チャンネルでなくても、教育テレビや民放でも「宇宙の神秘」と言ったようなタイトルで特集が組まれ、
物理学者、天文学者、数多の著名人がゲストとして加わり、
気の遠くなるような宇宙の大きさや、現在も光の速さで膨張を続けている事などが紹介されています。
多くの学者が、宇宙の全貌を、その組成を、その生成の経緯を解明しようと、日夜観測を続け、研究を重ねていますが、全容の解明には至っておらず、推測の域を出ていないのが現実です。
宇宙の始まりには様々な説があるようですが、
現在は「ビッグ・バン」によるものだ、との説が有力なようです。
このビッグ・バン説を多くの学者が支持していても、
何も無い所から、突然、膨大な量の物質が瞬間的に発生し、爆発的に拡散し、猛烈なスピードで拡張していると説かれても、
誰も見た者がいないのですから、本当かも知れませんし、違うのかも知れません。
現実に「膨大な量の物質」が宇宙に存在しているので、何も無い状態、物質も、時の流れも、空間自体も無い状態を想像出来ませんし、
何も無い状態から膨大な量の物質が発生した、その一部が銀河系になり、更にその一部が太陽系になり、更に偶然に地球が出来た、と言われても、俄かには信じられませんが、
宇宙の存在が、地球の存在がそんなあやふやな偶然の結果の産物であるならば、
ありとあらゆる物質が、たまたま出来たのであるならば、
有っても、無くても、何の支障も意味もないのであり、
こうして私たちが生きているのも偶然であり、存在の意味も、目的もない事になるでしょう。
しかし、聖書ははっきりと、明快に、宇宙の、地球の、生物の、人類の成り立ちを説明しています。
とは言え、この聖書は論文ではなく、解説書でもなく、説明書などでもないので、
細部に至っての手順や時間経過、経緯を懇切丁寧に書き記してはいませんので、
理解し難い部分があり、解釈が難しい部分があり、難解な書物ではありますが、
決して空想の物語、寓話ではなく、荒唐無稽な神話、御伽噺ではなく、
事実であり、神様の啓示の記録であり
私たちの存在意味と目的に付いて明確に記しています。
共に、神様の啓示を聴いて行きましょう。
【本論】
1:1 初めに、神が天と地を創造した。
この一節の主語は「神」であり、この一節で明確に宣言されているのは宇宙、地球の誕生が神様の手の業、神様による創造であり、無神論、偶然論、運命論、唯物主義を否定し、
そして以降に続く生命誕生創造の業も神様の業であり、「種類に従って」と記されているように、進化論を否定したものである事は明確です。
ここで進化論、即ち、ある生物から違う生物に進化するのは否定しますが、
環境に適応した種族が生き残り、子孫を残し、撚り環境に適応する能力を獲得して行く事を否定するものではありません。
自然界には時に突然変異が起こりますし、放射線、熱、圧力など、人為的な力を加えて突然変異を促す事が出来ますが、
それは変異、或いは適応、選択であって別物の、新種の発現ではありません。
更に、神様が凡ての物を創造されたのであり、神様と被造物は明確に区別されなければならないものであり、神様と宇宙を同一視する汎神論、
生物、非生物、無機質を問わず、凡ての生物、物質の中に霊魂、或いは霊が宿ると言うアミニズムを明確に否定します。
動物、植物、自然を慈しみ、物を大切にする事は大事な事です。
動物、植物にいのちはありますが、動物、植物、物、山や石、貴金属に、霊魂や霊はないのであり、従って祟る事も、幸不幸をもたらすこともないのであり、
ラッキーアイテム、ラッキーカラー、お守り、方位の吉兆に何の意味も力もありません。
霊魂、霊が宿るのは、そのような存在として特別に造られた人間だけであり、
似ていても、知能が高くても、感情を持っていても、霊的存在なのは人間だけなのです。
神様が「初めに」「天と地を」即ち、宇宙と地球を「創造した」のであり、
物事凡ての始まりは神様にある事が宣言されています。
偶然で宇宙や地球が出来たのではなく、
その生成の過程で、引力が働いたり、反発力が働いたり、核融合、核分裂などが起こり、物理の諸法則が作用したでしょうが、その物理の法則も神様が創造された法則であり、
神様のご意思、お考え、ご計画に従って「天と地」が「創造」されたのです。
見えると見えざるとに関わらず、凡ての物が、空間が、時間が、規則が、法則が、神様によって造られたのであり、神様の創造の業に先んじる、如何なる物も、法則も、時間も、空間も存在しないのです。
そして「初め」があるのですから「終り」があります。
新約聖書、黙示録が明確に、この世の終りを預言しています。
この宇宙は、地球は、未来永劫に続く、存続するのではありません。
宇宙が出来て百億年以上、地球が出来てウン十億年以上、と言われています。
更にそれと同等の永さで宇宙や地球は存在し続けるでしょうが、
私たちの時間感覚では無限のように思えても、変らないように見えても、変化、言い方を変えるなら、朽ちて行くのであり、劣化して行くのであり、終りの時があるのであり、必ず終りは訪れるのです。
1:2 地は茫漠として何もなかった。やみが大水の上にあり、神の霊が水の上を動いていた。
一節の主役は神様であり、中心的に描かれていたのは神様の創造された広大な宇宙です
そこから私たちの住む地、地球へと視線が、焦点が移り、記述が始まりますが、
一節は「ヘッドライン、見出し、要約」であり、二節以降に連続すると共に、
二節以降は、一節を詳細に記した部分と理解出来るでしょう。
時に、一節と二節には非常に長い時間的隔たりがあり、天使の反乱があり、混乱に至ったとの説があります。
その理由は「地」、即ち地球の状態が、「茫漠として何もなかった」と記されているからであり、
新改訳第一版では「形がなく、何もなかった。」、
新共同訳では「混沌であって」、
口語訳では「形なく、空しく」等と訳されていますが、
決して無秩序であった訳でも、渾然一体だった訳でも、空しい物の集合体でも、茫漠と表現するような状態であった訳でもありません。
神様の創造の業は絶妙なタイミングで材料となる物を創造し、暫時取り寄せて組み立てなければならなかったのではありません。
人間の感覚では、熟成させる時間が必要であり、馴染ませる時間が必要ですが、
神様は何でも、瞬間に完全な状態に創造される事が出来ます。
しかし、最初から完成された形を見せられたならば「ある」事は理解出来ますが、誰が創造されたかは知る事が出来ません。
また、凡てにおいて無限、完全の能力を持つ神様の、壮大広遠にして緻密で繊細な創造の業を、
凡てにおいて有限、不完全な人間が、言葉にし、文字に記すので、貧弱な言葉、語彙でしか現せないのであり、陳腐な表現に為らざるを得ないのであり、
それでは神様の創造の業を理解出来ません、現す事が出来ません、伝える事が出来ません。
そこで、神様は二節以降の手順、段階を選ばれたのであり、
順を追って、人間に啓示されたのであり、
神様の知恵であり、優しさ、配慮の現われでもあるのです。
「神の霊が水の上を動いていた」は「神の霊が水の上を覆っていた」と訳す事が出来ます。
「覆っていた」の意味は、母鶏が翼で卵を抱く意味の言葉であり、
「天と地」創造の業が、機械的、無感情、無機質な作業ではなく、
卵が母鶏の暖かい、安全な、愛情に溢れた環境で、羽化を待つに似て、
神様の暖かい、安全な、愛情に守られた中で創造された事を伝えているのであり、
それはそのまま、私たち一人一人が、神様のご計画、愛情によって生まれた事を、
大切な掛け替えのない存在として、見守られている事を教えているのではないでしょうか。
1:3 神は仰せられた。「光があれ。」すると光があった。
1:4 神は光を見て良しとされた。神は光とやみとを区別された。
神様は第四日目に太陽を造られましたが、「光」自体は、太陽の創造に先んじて、この時点で造られました。
矛盾するように感じられるかも知れませんが、
太陽は「昼を照らす物」として造られたのであり、光は太陽からだけ発せられる事を宣言してはいません。
先入観や思い込みを排除して読まなければならないのであり、
先にも申し上げたように、創造の経緯を、人間に理解出来る様に啓示されているのであり、
矛盾や齟齬ではなく、理解の限界である、
物理学、量子力学などの論文ではないとの、前提で読まなければなりません。
大人が物事を子どもに説明する時、語彙の少ない幼子でも解る言葉を選んで、解り難い所は端折って、例えを用いて説明するように、
神様は愚かな人間に、壮大な創造の経緯を噛み砕いて説明してくださっているのです。
それなのに、僅かな言葉尻を掴んで、全体を否定するような行為は慎まなければ為らないでしょう。
人間は自分の理解の限界を弁えて、謙虚になって読まなければ、聴かなければならないのであり、
謙虚になれば、全知全能の神様の業として、受け入れるのに困難を覚える事は少なくなるのではないでしょうか。
「光」と「やみ」は区別、区分されたのであり、光の及ばない所が闇なのですが、
光は神様に属し、闇は神様の支配の及ばない所、との理解は間違っています。
闇も神様の支配下にあり、闇も神様にとっては暗くはなく、凡てが明らかにされ、知られているのであり、
何一つ、隠し通せる事はないのです。
闇の存在さえも、神様の許しの中にあるのであり、
言い替えれば、悪の存在も、神様は許されるのであり、
それは、悪を瞬時に滅ぼすのではなく、猶予を与えている、悔い改めのチャンスを与えていると理解するのが妥当でしょう。
闇、即ち「罪」の存在を許さず、即座に排除されるなら、私たちはこの世に生きては折られません。
神様の愛情を強く感じさせるところです。
この「光」ですが、私たちは実体のない物、掴み所のない物のように思いますが、
現代の物理学では「光子」と言う素粒子の一つであり、量子力学で説明され得る粒子、立派な物なのであり、被造物なのです。
科学、物理学の進歩は、凡ての物質が数種類の素粒子から出来ている事を明らかにしていますが、
素粒子の組み合わせで様々な物質が出来ているのを知る時、
絶妙なタイミングで造られ、組み合わされて機能を発揮するのを見る時、
創造者の存在を否定する理由を挙げられるでしょうか。
見れば見るほど、知れば知るほど、神様の存在を確信するのではないでしょうか。
1:5 神は光を昼と名づけ、やみを夜と名づけられた。夕があり、朝があった。第一日。
「光を昼と名づけ、やみを夜と名づけられ」ましたが、
光と昼はイコールではなく、
闇と夜もイコールではありません。
光の溢れる時間帯を便宜上「昼」と呼び、
光のない時間帯を便宜上「夜」と呼ぶ事にしたのであり、
多分に比喩的である事に注目したいと思います。
働くのは昼であり、休むのは夜です。
正しい業は光に、昼に相応しく、
悪い業は闇に、夜に相応しい。
光の中なら細かい作業も出来ますし、誰の目にも明らかですが、
闇の中では細かい作業は出来ませんし、乱雑に為らざるを得ませんし、誰の目にも隠れている事になります。
昼に働き、夜に休む事を奨励している、
光の中を歩み、闇の活動を控える事を奨励しているのではないでしょうか。
それが、光の子である人間に相応しいのです。
最後に「夕があり、朝があった。第一日」についてですが、
「一日」は私たちの知っている現代の24時間の意味の一日ではなさそうです。
何故ならば、「昼と名づけ」の「昼」と、「第一日」の「日」は同じヘブル語の単語が使われています。
即ち「光」が「昼」で「一日」なのです。
日本語では、「昼」と「一日」では持つ意味合いが随分違いますが、
ユダヤ人の文化では一日の始まりが夕方ですから、昼の終り即ち、一日の終りであり、光が昼で一日と言う感覚を、然程、違和感なく、受け入れられるのでしょう。
それでも、「光」のある時間帯を「昼」と名付け、それを「一日」と見たのですから、
光のある間に働く事、光のない時間帯には働きが期待されていないと言う事なのでしょう。
5節の「一日」が私たちの考える24時間ではなく、また一日でない可能性大ですが、違うとも、同じだとも断定は出来ません。
しかし、区切りとして、最後の安息日を含めて、7段階を経て創造の業が進められたのであり、
7段階を経て、即ち7つの昼、日を要して創造の業が進められた、と言う事なのでしょう。
神様が一日を、24時間ではなく、昼の間だけと見ている事には意味があります。
光のある間に最大限の活動をし、光のない時間帯は休む、静まるべきではないか、と言う事です。
現代は、24時間活動できるように環境が整備されていますが、
活動しなければならない訳ではありません。
神様は休まなくても疲れないし、緩急を取り入れなければ良い働きが出来ない訳でもありませんが、
敢えて、光のある間だけに働きを限定されたのです。
この事は私たちに何を教えているのでしょうか。
神様に造られた私たちは、夜は休むのが、一番であり、良い働きに繋がる、と言う事なのではないでしょうか。
勿論、介護、警察、消防、社会インフラなど、休みのない働きもありますが、
昼と夜を区別した働き、メリハリを付ける事を、交代で休む事を教えているのではないでしょうか。
【適応】
今日の説教のタイトルの副題は、二節の言葉を引用して「混沌から秩序へ」としましたが、
創造の業があって、混沌とした宇宙、地球から、秩序ある宇宙、地球へ移り変って行ったと言いたいのではありません。
或いは、創造の段階において混沌から秩序立って行った、と言いたいのでもありません。
先にも申し上げたように、混沌は「茫漠」、「形がなく、何もなかった」、「形なく、空しく」等と訳されていますが、
それらの言葉が当て嵌まる状態は神様不在の状態であり、
神様不在は、空しい、何もない、或いは何もないのと等しい、と言う事を伝えたいがための表現であり、タイトルなのです。
神様と共に生きる世界、
光と闇を区別し、光の中を生きる生涯、
それこそ、創造の業の、究極の目的である事を現したいがための副題なのであり、
「初めに神が」と記されているように、神様を頂点とする、初めとする、第一とする生き方を目指して頂きたいと願って付けたタイトルでもあるのです。
聖書を読んだ事のない人は、神様を知らない人は、或いは、神様などいないと思い込みたい人は、宇宙は自然に出来た、偶然の産物だ、
従って人間も進化の過程で偶然に出現したに過ぎない、と考えます。
そんな考えの生きつく先は、運命論に傾倒し、虚無主義となり、刹那的な生き方になるでしょう
自分自身の存在意義を見出せず、目標を持つ事も出来ないでしょう。
しかし、聖書は、宇宙は、地球は、生きとし生けるものは、人間は神様が造られた、と記し、
たまたま、なんとなく、偶然に、暇だから造られたのではなく、
明確な宣言を通して、終りを意識して造られた事を記しています。
この神様の壮大広遠なご計画に、私たちが組み入れられているのであり、
否、私たちを造るお膳立てとして宇宙、地球など凡てのものを造られたのです。
宇宙も地球も、被造物の凡てが、人間のために造られたのであり、
また、誰一人として、偶然に生まれた者はなく、不必要な者もいないのです。
皆、神様に愛されている存在であり、神様を見失った混沌とした生き方から、神様に従う秩序ある生き方に移って欲しいと願っておられるのです。
宇宙と地球、世界の創造は、想像を超えた素晴らしい出来事ですが、
更に素晴らしいのは、神様と霊的に応答できる人間の創造であり、
第一日は、その序章なのです。
続く第二日以降を通して、神様がどんなに人間を愛しているかを確認して行きたいと思います。
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