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聖書箇所:創世記4:1~7 2014-7-27礼拝
説教題:「カインとアベル、其々の献げ物」
【導入】
人間は「神のようになる」との蛇の誘いにそそのかされて、「食べてはならない」との神様との約束を破り、食べる必要性の全くない、「善悪の知識の木の実」を食べてしまいました。
その結果、知り得たのは「裸である」と言う事実と、「恥」の概念でした。
「恥」は「隠す」につながり、「隠す」は「嘘を付く」「責任を転嫁する」につながります。
「隠す」「嘘を付く」「責任転嫁」は、神様の最もお嫌いになる行為の数々です。
「神のようになる」と思って取った行動の結果は、神様との関係が破綻し、夫婦の関係にもひびが入り、自然の関係にも大きな傷を与え、自然は秩序正しく運行する事が出来なくなり、世界が苦しみの中に置かれると言う惨憺たる結果でした。
挙句の果てに、人間はエデンの園を追放され、荒涼とし、人間の侵入を拒み、茨とアザミの密生する土地で生活を営まなければならなくなってしまいました。
自分が選び取った行動の結果であり、どんな状況であっても、過酷な現実であっても受け入れなければならず、文句は言えません。
楽しかった労働も、苦しみに変わり、汗を流し、手に豆を作り、怪我や病気に怯え、野獣に慄き、老後の生活を心配する事になってしまったのです。
それでも、そんな哀れな人間を、神様は見捨てる事をなさらず、動物の命を犠牲にして、「皮の衣」を作って着せてくださいました。
暑さ、寒さをしのぎ、冷たい雨露や強い日差しから守り、擦り傷、切り傷を防ぐ事の出来る、最高の、最適の、最善のプレゼントでした。
皮の衣は単なる「モノ」ではありません。
神様の愛の現れであり、神様の憐れみの現れであり、神様の守りの現れです。
神様によって覆われているのであり、何時でも、何処でも、何をしていても、です。
そんな皮の衣に守られて、見えざる神様の御手に守られて、人間は荒野での生活を始めた訳です。
過酷な現実であり、ひびの入ってしまった夫婦関係ですが、それでも、お互いを必要とし、協力し、助け合い、生きて行く中に、神様は慰め、喜び、希望を与えてくださいます。
【本論】
4:1 人は、その妻エバを知った。彼女はみごもってカインを産み、「私は、【主】によってひとりの男子を得た」と言った。
この「知った」は「知的に、全人格的に、肉体的に知った」の意味であり、性の営みがあった事が記録されているのです。
性の営みは、夫婦にのみ与えられた特別な権利です。
排他的であり、誰も入り込む事は出来ず、夫婦二人だけの親密な関係です。
占有的であり、お互いがお互いだけを占有し、決して引き離せない関係です。
非常に麗しい関係であり、決して解消してはならない関係であり、死守しなければならない特権であります。
死別、不貞以外の理由で別れてはならず、重婚しても、浮気をしても、不倫をしてもいけません。
不貞は絶対してはなりません。
何故ならば、夫婦関係を完全に破壊するからであり、家庭、家族を崩壊させるからであり、神様が最も忌み嫌われる事だからです。
エバは身ごもり、男の子を産みますが、その経験は当人にとって始めての体験であり、人類は誰も経験した事のない体験ですから、不安に怯え、心配に心が押し潰されそうになったのではないでしょうか。
陣痛の痛みは、例えようもない、表現しようのない痛みだそうですが、初産の不安と激しい痛みの中で、「私は、【主】によってひとりの男子を得た」と神様を讃美する告白をします。
子どもの誕生が、エバの初体験であると同時に、人類史上始めての経験であり、全くの驚き、神秘であった事と同時に、自分の業ではなく、神様の業であると理解し、告白したのです。
受胎も、出産も、動物全般に普通に行なわれる営みであり、特殊な事ではありません。
人間だけの特別な営みではありませんが、「知的に、全人格的に、肉体的に知った」上で、受胎するのであり、夫の協力、助け、理解によって出産までの期間を過ごし、出産に至るのです。
更に、動物とは違って、神様が関わり、受胎にも、出産までの期間にも、出産にも深く関与されているのであり、神様を離れての、受胎も、出産もありません。
子どもの誕生は、神様の業であり、身ごもる事も神様の業であり、身ごもらない事も神様の業です。
出産に至るのも神様の業であり、人間的には残念な事ですが、出産に至らないのも神様の業なのです。
この事を理解したエバの「私は、【主】によってひとりの男子を得た」との告白、即ち「私は…得た」も、産んだ、手に入れた、掴んだ、得た…ではなく、授かった、預かった、与えられた、受け取った、委ねられた、…の意味である事は明白でしょう。
その「私は…得た」のへブル語は「カーニーシー」であり、「カーニーシー」の語呂合せで「カイン」と名付けられたのです。
また、この「カイン」には「槍」の意味があり、カインの生き様を暗示しているようです。
4:2 彼女は、それからまた、弟アベルを産んだ。アベルは羊を飼う者となり、カインは土を耕す者となった。
2番目の子ども「弟アベル」の出産も、喜びであり、神様への感謝、讃美が献げられた事でありましょうが、この事も、名前の由来についても聖書は何も記していません。
しかし、「弟アベル」の意味を調べて見ると、「アベル」の意味は「息、蒸気」であり、「空しさ」を象徴するヘブル語である事から、短命である事を、殺される事を、空しい最後を迎える事を、預言的に現しているのではないでしょうか。
カインとアベルの兄弟は、父アダムの農耕と牧畜の仕事を、其々の賜物に従って分担していたようです。
生活の必要のための分割、担当分けであり、貴賎、軽重、善悪はありません。
農耕も牧畜も、其々に大変な苦労を伴う仕事であり、其々の繁忙期、閑散期には協力、助け合い、応援をしていたのではないでしょうか。
現代の日本の農家、畜産家では、長男が家業を継ぐ事が多いかと思いますが、次男、三男はサラリーマンをしていても、繁忙期には休暇を取って、実家を応援する事は珍しい事ではなく、普通に行なわれているようです。
カインとアベルは仲睦まじい兄弟であり、アダムとも、良い親子関係だったのではないでしょうか。
4:3 ある時期になって、カインは、地の作物から【主】へのささげ物を持って来たが、
4:4 アベルもまた彼の羊の初子の中から、それも最上のものを持って来た。
カインもアベルも、自発的に献げ物を持って来たのであって、神様の要求によるのではない事は重要なポイントです。
神様への献げ物や礼拝は、人間の自発性に起因するものであり、強制、強要があってはなりません。
勿論、神様の御こころ、聖書の教えを伝え、解説もし、説教もしますが、あくまで自発です。
自発的な感謝をもって神様に近づくのです。
「カインは、地の作物から【主】へのささげ物を持って来た」し、「アベルもまた彼の羊の初子の中から、それも最上のものを持って来た」のです。
礼拝は、単に神様の前に出る、近づくに留まらず、生贄、献げ物が伴う事を教えます。
礼拝、献げ物は、人間の本性に基づく事を暗示しています。
人間には、神様を礼拝する、献げ物をする事が、本性として備わっている、と言う事です。
ですから、人種、民族、文化、時代に関わらず、人間には神秘的なもの、不思議なもの、理解を超えたもの、に対する畏怖、尊敬、敬慕の念があり、数多の神を作り出し、自然にも、宇宙にも神秘性を投影し、アミニズム、太陽礼拝、月礼拝、星座から連想される神々、山にも大木をも礼拝するに至るのです。
カインの献げ物は農作物であり、アベルの献げ物は家畜でしたが、農作物と家畜の違いに問題、差異があるのではありません。
カインは神様との関係を維持するためにのみの、必要最低限を用意したのであり、アベルは神様に対して、心からの感謝を持って、神様に近づくために、良き物、最高の物を選ぶために、心を割いていた事に眼を留めなければなりません。
神様は農作物も、家畜も召し上がりはしませんし、必要ともされません。
肉食系の神様でも、草食系の神様でもないのです。
何でも、野菜でも羊でも、宝石でも貴金属でも、布でも皮でも、献げるモノを喜んで受け取ってくださいますが、しかし、形式的な献げ物、右へ並への献げ物には、興味はありません。
カインの献げ物は、正に、形式的な、可もなく不可もない献げ物であり、アベルの献げ物は、正に、心からの感謝を込めた最高の献げ物だったのです。
【主】はアベルとそのささげ物とに目を留められた。
4:5 だが、カインとそのささげ物には目を留められなかった。それで、カインはひどく怒り、顔を伏せた。
カインの献げ物は、決して好い加減な物でも、腐った物でも、在り来たりな物でもありませんでした。
カインなりに、選んだものでしょうし、汗水流して、丹精込めて育てた農作物ですから、どれを献げても遜色なかったと思います。
礼拝も自発、献げ物も自発。
しかも、礼拝、献げ物の事を言い出したのはカインだったのではないでしょうか。
カインが言い出し、促されて、アベルは気が付き、従ったのかも知れません。
カインが誘わなければアベルは礼拝も、献げ物もしなかったに違いない。
だからこそ、アベルの献げ物に眼を留められた事に、自分の献げ物に眼を留められなかった事に、耐えられなかったのではないでしょうか。
自尊心が傷付けられた事に耐えられず、怒りに震え、「顔を伏せた」のでしょう。そのカインの怒り、嫉妬に気付かれた神様はカインにチャンスを与えられます。
神様の備えられた悔い改めの機会です。
4:6 そこで、【主】は、カインに仰せられた。「なぜ、あなたは憤っているのか。なぜ、顔を伏せているのか。
神様の態度に腹を立て、神様には何も言えないから、アベルに怒りの矛先を向けようとするカインに対して、外に向けられた怒りの矛先、槍を納めて内に心を向けさせ、内なる心の奥底を直視させ、事の真相を吟味するように仕向けられたのです。怒りを納めるのは、冷静になろうとするのは、簡単な事ではありません。
強い精神力、自制心が必要でしょうし、、時に時間が必要でしょうが、場合によっては助けが必要でしょうが、自身で乗り越えなければならないのです。
カインを助けるべく、神様は助け船を出したのです。
4:7 あなたが正しく行ったのであれば、受け入れられる。ただし、あなたが正しく行っていないのなら、罪は戸口で待ち伏せして、あなたを恋い慕っている。だが、あなたは、それを治めるべきである。」
6節7節は理解し難い個所なので、意訳をしてみましょう。
即ち「あなたは不当に扱われたかのように怒っているが、本当に正しい行動をしたと言い切れるのか。
やましい思いや、アベルの献げ物と比べるような思いが全くなかったと言い切れるのか。
正しい行動であったなら、真っ直ぐにしておられるはずではないのか。
何故、顔を伏せているのか。
衝動に身を任せて、怒りに引きずられる結果となってはならない。
あなたは怒りを支配出来るし、支配しなければならない。」
「待ち伏せ、襲う」のは猛獣の行動パターンですが、罪も待ち伏せして、虎視眈々と隙を窺い、襲いかかり、時に、息の根を止めるようなダメージを与え、時に罪の仲間に引きずり込むのです。
罪の仲間に引きずり込み、更に仲間を増やし、鼠算式に神様に敵対する勢力を拡大して行くのですから、何処かで、その動きを止めなければなりません。
動いているものを止めるのは難しい事ですが、勢いが付いていなければ、比較的簡単に止められます。
初期に止める事が、如何に大切か。
逆に、神様に従う行動も、動き出しは頼りなく、弱々しくても、勢いが付けば止めるのは難しい事なのです。
怒りに身を任せて、罪に荷担する生き方を選ぶか、自己吟味して、罪を告白して、神様に所属する生き方を選ぶか、なのです。
ここで、一つ確認しておきたいのは、
神様はカインが罪を犯すことを望まず、注意喚起された、という事です。
神様はカインを愛し、カインが罪を犯すことなく、真の礼拝者になって欲しかったのです。
カインの献げ物を受け入れたくて、働きかけたのであり、カインが気付き、より善い献げ物を献げる者、より善い真の礼拝を献げる者になって欲しかったのです。
【適応】
本日の説教題を「カインとアベル、其々の献げ物」としましたが、今まで述べて来た事からも、献げ物自体に問題があったのではない事は明白です。
罪は、聖いはずの礼拝や献げ物、奉仕にも影響し、同じ神様を礼拝する者の間にも、仲が良かったであろう兄弟の間にも、嫉妬や妬み、優越感や劣等感を生じさせ、怒りを持つまでに、殺人にまで発展させる、侮りがたい力がある事を教えているのです。
唯一の神様を礼拝する、信仰的な行為においてさえ、こんな事が起こり得るのであり、神様との関係、神様に対する思いを常に点検しなければなりません。
マルコの福音書12章42節に記されている、レプタ銅貨2枚を献げた寡婦の話しから、神様の喜ばれる献げ物は、金額でも、回数でもない事は明白です。
ルカの福音書18章13節に記されている、神殿に入ろうともせず、顔を上げようともせず、胸を叩いた取税人の話しから、神様の喜ばれる信仰生活は、礼拝は、断食でもなく、献げ物でもなく、他人との比較でもない事は明白です。
何を献げたか、ではなく、どんな思いで献げたか、が大切であり、礼拝を守ったか否かではなく、どんな思いで礼拝を献げたか、が大切であり、人に出来ない奉仕をしたか否かではなく、どんな思いで奉仕をしたか、が大切なのです。
そこに他人との比較や、自分自身の中にさえ、もったいない思いや、これで良いや、この位で良いや、などの思いがあってはならないのです。
他人と比較すれば、優越感、高慢、裁き、非難の思いが浮かぶでしょうし、劣等感、挫折感に引きずられるでしょう。
自身の問題としても、義務感や習慣、形式主義の虜になってしまっているかも知れません。
人の評価が気になっての礼拝、献げ物、奉仕になっているかも知れないのです。
私たちに対する罪の影響は思う以上に深く、広く、強力です。
罪の影響を全く受けない人はいません。
だからこそ、余計に、常に、徹底的に心を点検しなければならないのです。
神様に受け入れられる礼拝だろうか、献げ物だろうか、奉仕だろうか。
自慢する思い、比較する思いがないだろうか。
礼拝も献げ物も奉仕も、誰に見せる訳でもなく、誰かに知ってもらう必要もありません。
神様に献げる礼拝であり、献げ物であり、奉仕なのですから、神様に知っていただけたなら十分なのであり、街角に立って祈る必要は無く、隠れた所で祈ればよいのです。
断食している事が知れ渡るように、やつれた顔付きをする必要は無く、普段と同じようにしていれば良いのです。
これ見よがしの奉仕するのではなく、隠れた奉仕こそ神様に相応しい奉仕なのです。
神様に献げるに相応しく整える事が最大の課題であり、関心事であらねばならないのです。
罪を持つ人間が、どうしたら全く罪のない神様に相応しく、義なる神様に相応しく仕える事が出来るか、近づけるかを考えなければなりません。
欠けだらけの礼拝、貧しい献げ物、不充分な奉仕しか出来ない人間が、どうしたら神様に喜ばれるか、神様に受け入れられるかを考えなければなりません。
出来ない事、無い物を持ってではなく、ある物で、出来る事で、心を込めて…が大切なのです。
そして、人と比較してではなく、其々が自身に出来る最高の物を献げれば、神様はレプタ銅貨2枚でも、農作物でも、家畜でも、全く問題無く、唯一無二の礼拝、献げ物、奉仕として受け入れてくださいます。
そんな礼拝、献げ物、奉仕を献げる者となりたいものです。
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聖書箇所:創世記3:20~24 2014-7-20礼拝
説教題:「楽園からの追放」
【導入】
現在、景気は上向いていると言う政府のコメントですが、実生活では全く感じられません。
教会の経済状況も、私たちの家計も厳しく、もうちょっと余裕があったらなあ、と感じていらっしゃるのではないでしょうか。
私たちが生きて行く上で、ちょっと「余裕」があると安心出来るのは事実でしょう。
経済的な余裕は、病気の時、急な出費にも対応出来ましょう。
時間的な余裕は、趣味や娯楽に割く時間が増え、生活を豊かなものにするでしょうし、
行動にもゆとりが生まれ、多少交通機関が遅れても、急な来客、電話があっても、予定や約束を守る事が出来るでしょう。
精神的な余裕は、冷静に対処出来ましょうし、広い視野で全体を見る事が出来、最適な決断をする事が出来るでしょう。
余裕を持つ事は大切であり、必要です。
余裕に似た言葉に「余分」と言う言葉があります。
広辞苑によれば「余裕」は「余りがあって豊かな事。ゆとり」、
「余分」は「余った分。また、必要以上の分。余計」と解説されています。
「余裕」は最適なゆとり、
「余分」は不必要、過剰、と言う事でしょうか。
余裕は必要なものであり、生活を豊かなものにするでしょう。
これは、解説するまでもなく、皆さんも経験されている事でしょう。
一方、余分は不必要なものであり、自他に、有形無形の不益をもたらす事もあるのです。
経済的な余分は、貯め込まれ、「死蔵」されてしまっては本来の機能を果たせません。
乱費、散財しても本来の機能を果たしているとは言えないでしょう。
時間的な余分は、怠惰に過ごす事に繋がり、また、要らぬお節介をする事にも繋がりましょう。
余分な能力は、仕事を増やし、責任を背負い込む事になるのではないでしょうか。
経済、時間、能力などなど全てに、相応、不相応があるのであり、
相応なものでこそ、相応の働きが、期待されている働きが出来るのではないでしょうか。
不必要な持ち物や能力は、不相応であり、宝の持ち腐れ、どころか、高慢になり、分を弁えない、不遜な生き方になりかねないのです。
人間には、神様が与えてくださった、最適、充分な賜物があるのであり、
それ以上は不必要、余計であり、働きに益をもたらしはしません。
人間は「神様のようになる」必要はなく、そのままで充分、神様の期待通りの働きが出来るのに、
蛇の誘いに乗っかって、禁断の木の実を食べ、「自分で判断し、決断する」と言う、余計な仕事まで背負う事になってしまったのでした。
「自分で判断し、決断する」と言う事は、素晴らしい能力のようですが、
全知、全能の裏付けがあってこそ、「自分で判断し、決断する」事に、間違いがないのであり、
知的にも、能力的にも制限がある中では「自分で判断し、決断する」のは無理な事なのです。
子どもが親の判断、決断に従う時、一番安全であり、最適であり、安心、平安な結果に行き着くのと同じでしょう。
神のようになろうとした結果は、神様との断絶であり、夫婦間の亀裂であり、自然ともギクシャクした関係になってしまいました。
神様と断絶した人間には、「苦しみ」が宣告されましたが、
それは「エデンの園からの追放」と言う形で実現します。
【本論】
3:20 さて、人は、その妻の名をエバと呼んだ。それは、彼女がすべて生きているものの母であったからである。
神様から人間に「死」と「苦しみ」が宣告された直後に、
アダムは妻に「エバ」と言う名前を付けました。
「エバ」と言う名前には「生きているものの母」と言う意味が込められた訳ですが、
「エバ」と訳されているヘブル語は「ハーバー」であり、
「生きているもの」と訳されているヘブル語は「ハーイ」であり、
「ハーバー」と「ハーイ」の語呂合せになっているのです。
即ち「エバ」と言う名前には、人類の母となり、子、子孫が多く与えられる事、人類の始祖となる事を預言しつつ、
嫌でも「生命、生きる事」を連想させるのであり、
神様からの「死」の宣告と、エデンの園からの追放に伴う「苦しみ」を、如何に重く受け止めていたかを物語っているのではないでしょうか。
死を宣告され、死を実感し、避けられない事実を自覚したからこそ、
より一層、生命に対して、生きる事に対して意識が高まり、執着し、貪欲になった事の現われなのではないでしょうか。
エデンの園を追い出されるに当って、
自分たちに降りかかる全ての問題を、自分の力、知恵で対処し、解決し、生きて行かなければならない困難さ、過酷さ、
禁断の木の実を食べてしまった事を、悔い、
「死」宣言され、死を見つつも、死に向って生きるのではなく、
生命を見つめて生きる決意を確認したのです。
これは、「死」を思い出したくはないからこその防衛反応なのでしょう。
エバの名を呼ぶ度に、「生命、生きる事」をイメージした訳ですが、
それは裏返せば、死を連想し、死の現実を恐れたからです。
全ては自分たちの蒔いた種であり、その結果ですから、受け止めねばならないのです。
前途の多難さを覚える時、如何にも心細かった事であろうと思いますが、
心のみならず、着物においてもみすぼらしく、益々、途方にくれたのではないでしょうか。
神様から「死」と「苦しみ」が与えられましたが、
それは、神様が人間を見捨てた印ではありません。
その証拠に、
3:21 神である【主】は、アダムとその妻のために、皮の衣を作り、彼らに着せてくださった。
アダムが作った自分たちのための、腰の覆いは無花果の葉っぱで作られており、
如何にも頼りなく、直ぐに枯れてしまい、用を成さなくなるような代物でした。
そんな間に合わせの物、一時凌ぎの物では、これからの労働に、生活に、旅には耐えられません。
身体中擦り傷、切り傷だらけになってしまうでしょう。
寒さも防げないし、強い日差しから身を守ることも出来ません。
風雨に直接曝されたならば、その寒さは想像以上の負担になります。
そこで、神様は人間を風雨から、寒さ、日差し、外傷から完全に守る機能を果たし、耐久性に優れた、永続的な物として、皮の衣を作ってくださったのです。
勿論、皮の衣といえども、永久に使える訳ではありませんが、
葉っぱと比べるならば、月とスッポン、天地、雲泥の差がありましょう。
神様は本当に必要なものを知っておられますが、
同時に、直接、今、必要な物が何かも知っておられ、その必要を満たしてくださいます。
イエス様は人間を罪から救い、贖うために来られましたが、
民の必要のために、病気を癒し、食料を与え、慰めを与えられたのです。
永遠の命と、今日の食事や健康と、どっちが大切なのか、と言う二者選択ではなく、
どちらも其々に必要であり、必要を与えられる愛に満ちたお方なのです。
そのためには動物の命を惜しまず犠牲にされるお方です。
神様は何に対しても真剣であり、最高、最良、最善の物しか造りませんし、与えません。
いい加減な物、間に合わせの物、取り敢えずの物、一時凌ぎの物などは作られはしません、与えられはなさいません。
後には自分たちで調達し、自作し、工夫するにしても、
最初には手本となる物、真似ればいい物、
しかも、作るに、そう難しくない物を作ってくださるのです。
手に入らない材料ではなく、何処にでもあり、簡単に手に入る材料で、自分たちの必要を用意出来るようにしてくださったのです。
これは、現代の開発国支援に生かされている考え方です。
高価で高機能の設備を設置しても、複雑過ぎて使いこなせる人がいないない、
故障しても直せない、あっという間にスクラップ同然になっている。
ではなくて、誰にでも扱える簡単な設備を設置し、教育をし、必要な工具、部品を置いてくる。
これが、本当の支援、息の長い支援なのです。
本論に戻って、皮の衣ですが、
勿論、何の苦労もなく、神様が作り与えてくださったものと同じ物は作れないでしょう。
工夫が必要であり、試行錯誤も経験するでしょうし、
皮を手に入れるためには危険も伴うでしょう。
衣にされる動物だって、殺されるのは嫌でしょうから、簡単に捕まっては、大人しく殺されては、材料になってはくれません。
逃げもし、激しく抵抗もするでしょう。
でも、工夫と努力次第であり、手に入らない事はないのです。
そんな材料が、人間に与えられているのであり、
工夫次第で作る事が許されているのです。
即ち、余りに危険な作業が伴い、非常に大掛かりな設備が必要であり、厳重な管理を必要とするような仕組みは、人間には与えられてはいないと知るべきなのではないでしょうか。
地球環境を破壊するような物は、自然を汚染するような物は、
種を絶滅させるような危険な物は、取り返しのつかないような事故を起す物は作ってはならないし、加工しても、取り出しても、利用してもならないのです。
神様の造られた状態の物を、上手に利用するに留まるのが、正しい利用の仕方なのです。
神様の作ってくださった皮の衣は、優しく身を包み込み、
丈夫で温かく、身体を守り、安心を与えた事でしょう。
反面、動物の命が取られたのであり、血が流されたのです。
私たちは自然に養われ、自然に守られ、自然に生かされている事を覚え、
資源を無駄にする事を慎み、有効に利用し、再利用、再生に務めなければなりません。
3:22 神である【主】は仰せられた。「見よ。人はわれわれのひとりのようになり、善悪を知るようになった。今、彼が、手を伸ばし、いのちの木からも取って食べ、永遠に生きないように。」
この22節を紐解く前に、一つ確認しておかなければならない事があります。
神様と人間との約束は2章16節、17節、
「2:16 神である主は、人に命じて仰せられた。「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。
2:17 しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。」」
ですから、「いのちの木の実」を食べる事を禁じられてはおらず、
「いのちの木の実」を食べていたとしても不思議ではありませんし、問題ありません。
但し、状況は複雑で、2章9節、
「2:9 神である主は、その土地から、見るからに好ましく食べるのに良いすべての木を生えさせた。園の中央には、いのちの木、それから善悪の知識の木とを生えさせた。」
のです。
園の中央に「いのちの木」と「善悪の知識の木」が生えていたのですが、
どのような状態で生えていたのでしょうか。
並んでいたにしても、多少でも離れていたなら、「いのちの木」と「善悪の知識の木」の区別が付きますから、「いのちの木の実」を食べてしまっても当然ですが、
「いのちの木」と「善悪の知識の木」の枝が絡まったような状況であったなら、区別しがたいような状況だったとしたならば、どちらも食べてはいなかったと考えられます。
本題に戻ります。
「いのちの木の実」ですが、それ自体に魔術的な力がある訳ではなく、
いのちは神様から与えられる事と、
罪のない人間だけが食べる事が許される事とを、象徴的に現しているのでのです。
「善悪の知識の木の実」を食べる前の人間には罪がなく、自由に「いのちの木の実」を食べられましたが、
罪に堕ちた人間は、もはや「いのちの木の実」を食べる事が許されはしないのです。
神様に従う生き方においてのみ、いのちに意味があるのであり、
神様に従わない生き方は、神様に逆らう生き方は、いのちを捨てた生き方であり、生きていても神様の前には死んでおり、
神様に生かされている事を確認する「いのちの木の実」も無意味でしかなくなるのです。
この「いのちの木の実」は象徴であり、
現代の聖餐式のパンと葡萄酒に引き継がれていましょう。
パンと葡萄酒は救いの結果、永遠のいのちが与えられている事の象徴であり、
信者が信仰を吟味し、贖いと赦しと救いを確認する作業であり、
パンと葡萄酒に霊的、魔術的力は何もありません。
食べても飲んでも、それで贖われる訳でも、赦される訳でも、救われる訳でもないのです。
食べなくても飲まなくても、それで贖いが無効になる訳でも、赦しが取り消される訳でも、救いが破棄される訳でもないのです。
「いのちの木の実」の禁止は、神様との関係の断絶、
特に「いのち」との関係において断たれている事を象徴的に現しているのです。
厳しい宣告と現実ですが、
ここにも、神様は希望を置いてくださっているのです。
先に24節を見てみましょう。
3:24 こうして、神は人を追放して、いのちの木への道を守るために、エデンの園の東に、ケルビムと輪を描いて回る炎の剣を置かれた。
「いのちの木の実」を口にする事が出来ず、
「エデンの園」にも入れはしませんが、両方とも取り去られては、消滅してはいないのです。
即ち、回復の望みがある、と言う事なのです。
「ケルビムと輪を描いて回る炎の剣」が「エデンの園」を「守っている」ので、人間が立ち入る事は出来ず、「いのちの木の実」を食べられはしませんが、
守りが解除されたなら、入れる、食べられる可能性が残っている事を示しているのです。
「ケルビム」も「輪を描いて回る炎の剣」天的存在であり、
其々に定冠詞が付いているので、ユダヤ人には周知の存在のようです。
「ケルビム」は御使いと考えられる存在です。
十戒が刻まれた石の板が入った「神の契約の箱」を覆い、守り、
神殿内部の至聖所を守るため、区切りの幕に刺繍されてもいました。
直接「ケルビム」と表記されているだけでなく、
「ケルビム」を指していると考えられる記述は黙示録他、随所にあります。
「輪を描いて回る炎の剣」は直接の言及はありませんが、エゼキエル書や黙示録に「輪を描いて回る炎の剣」を指していると考えられる記述が多数あります。
これらは恐ろしい存在ではありますが、人間の侵入を防ぐために置かれているのであり、
乱入を阻止するためであり、
時至れば、入場係り、誘導係りに場所を譲り、いのちの書に名前を記された者が、入れるようになるのです。
「ケルビム」も「輪を描いて回る炎の剣」も、その時までの暫定的な働きであり、
神様と人間との関係が回復するまでのものでしかないのであり、
エデンの園に入れる希望は、いのちの木の実を食べる希望は取り上げられてはいないのです。
その意味でも、「失楽園」即ち「失って」はおらず、
「追放されて」いるだけであり、追放が解かれる時が、回復の時が必ず来るのです。
3:23 そこで神である【主】は、人をエデンの園から追い出されたので、人は自分がそこから取り出された土を耕すようになった。
エデンの園からの追放は、辛く、哀しい出来事ではありますが、絶望ではないのです。
先に確認したように、回復の希望がある追放生活ですが、現実は厳しいものでした。
何処も良く潤っていた「エデンの園」を追放され、
固く締まった荒地、茨とあざみの生い茂る荒地を開墾し、井戸を掘り、運河を引き、灌漑し、
額に汗を流し、手に豆を作り、筋肉疲労に、腰の痛みに、苦しみつつ、
糧を得る事になってしまったのでした。
焼け付くような熱さの中で働き、
凍える寒さの中で、猛獣の暗躍する不安な中で、眠れぬ夜を過ごして、行き着く先は、エデンの園ではなく、土なのです。
本来は、従える関係でありながら、
今は、土地をなだめすかしてお世話をして、辛うじて僅かの糧しか得られないのであり、
従えるはずの土に、従うような、養われるような生活になってしまったのです。
良く言えば、持ちつ持たれつ、ですが、
祝福されたエデンの園の主から、呪われた荒地の僕になってしまったのです。
これが「神のようになろう」とした結果であり、
「神のようになる」幻想の回答だったのです。
【適応】
私たちはエデンの園を追放されたアダムとエバの子孫であり、
私たちもエデンの園に入れませんが、
追放されただけであり、回復の希望の中にある事を、決して忘れてはなりません。
人間は、最悪の状態に置かれるとやけになって、自暴自虐になる事がありましょうが、
入れない事が決定、確定したのではありません。
ですから失望する事なく、常に、眼を天に向け、エデンの園、御国を仰ぎ見て、
エデンの園は、御国は遠く離れているけれども、入る可能性を持っている事を忘れず、
入る権利を得る方法と、行き着く手段が何かを考えなければなりません。
旧約の時代、ユダヤ人は礼拝や生贄を献げる事で、律法を守る事で、祭りを祝う事で到達出来る、入れると考えていましたが、
完全無欠な礼拝や献げ物を献げなければならず、
律法の一点一角まで守らなければならず、
祭りや安息日を一日たりとも欠かしてはならず、
それでも「辛うじて入れるかも知れない」であって、絶対の保証ではないのです。
人間は罪だらけ、欠けだらけ、失敗ばかりであり、神様の基準には到達出来はしないのであり、従って、行いによっては、御国に入れる確証はないのです。
これでは「絵に描いた餅」のようであり、
到達出来る方法がないなら、エデンの園は、御国は無いのと同じだと考えましょうが、
入る方法、到達する方法が示されているのであり、
それは神様が遣わしたイエス様を神の御子と信じる事です。
罪の無い神の御子が、私の罪を赦すためにこの世に来てくださり、十字架にかかり死んでくださった事を、
神の御子が死んだ事で、神様との関係が回復し、
エデンの園に、御国に到達する事が出来る、入場手形を与えられた、と信じるなら、信じた通りになるのです。
御国に行く道は、幾つあるのでしょうか。
エデンの園を守るために「ケルビムと輪を描いて回る炎の剣を置かれた」のが、
「エデンの園の東」である所に、ヒントが隠されてはいないでしょうか。
「エデンの園」の入り口は、幾つもあるのではありません。
一つしかないのです。
先日、富士山の登頂ルートが全部開かれ、4つの登山ルートを利用出来るようになりました。
其々に特徴があって、目的によって、体力によって、日程によって選ぶ事が出来るようです。が、
エデンの園、御国への道は、4つもありません。
道は一つ、入り口も一つ、入場手形も一つなのです。
試行錯誤の結果、道を探し出す、辿り着く、入るのではなく、イエス様と言う道が示され、ここを行けば必ず辿り着き、絶対間違う事も、迷う事もありません。
疲れはしますし、諦めそうになる時もあるでしょうが、
イエス様が一緒に歩いてくださり、重い荷物を代わりに背負ってくださり、
時には私たちを背負ってくださり、
励まし、助け、守ってくださるので、必ず辿り着くのです。
イエス様と言う御国の主人が一緒なので、門番は扉を開き、必ず入れてくれます。
皆様もイエス様とご一緒に、エデンの園に、御国に行こうではありませんか。
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聖書箇所:創世記3:14~19 2014-7-13礼拝
説教題:「惑わしの結末」
【導入】
スポーツの世界では並ぶ者のない、超一流になられた選手に対して、
能力を称え、尊敬の意味を込めて「神様」の称号を付けて、
「野球の神様」とか「サッカーの神様」と呼ぶ事がありましょう。
芸能の世界でも、工芸の世界でも、超一流の人々が活躍されていて、
人間国宝、至高の匠、等と呼ばれ、神様扱いされる事がありましょう。
他人から「神様」と呼ばれるまでになるためには、
相当の苦労、努力、精進、忍耐、訓練、期間が必要であり、
持って生まれた素質、センスや、環境も重要なポイントになりましょう。
一方、努力しても、精進しても、長期間頑張り続けても、
中々上達せず、凡庸のままで生涯を終える事も珍しい事ではありません。
「神様」と呼ばれるようになるのは並大抵の事ではないのであり、
楽して上達する事はなく、普通にやっていたのでは人の先頭に立つ事は出来ません。
ですから「聞き流すだけで上達する」とか「これを使えば、あなたも一流選手」なんてキャッチコピーはちょっと怪しい。
同じように、リスクが少なく、確実に儲かる、なんて投資話や、金融商品もちょっと、否、かなり怪しい。
簡単に上達し神様と呼ばれるようになれる程、世の中、甘くないし、良く考えれば解りそうな事なのでしょうが、
でも、信じたくなるのが、楽して良い目を見たいのが人間なのかも知れません。
木の実を食べるだけで「神のようになる」と言う蛇の惑わしに、多少の抵抗と言うか、反論と言うかを試みますが、
誘惑の力は大きかったのでしょうか、強かったのでしょうか、
魅力的な誘いだったのでしょうか、
多少迷いや疑いを感じつつも「試して損は無い」と考えたのでしょうか、
神様に叱られても、大した事はないと考えたのでしょうか。
神様のようになれたなら、叱られる事もないと考えたのでしょうか。
女は禁断の木の実を取って食べ、そばにいた男にも取って与えたので、男も食べてしまったのでした。
その結果は………惨憺たるものでした。
「神のようになる」なんてとんでもない。
「神様を避けるようになった、神様から隠れるようになった」のです。
そんな男と女、罪を犯した人間に、神様は「あなたは何処にいるのか」と呼びかけ、
隠れていないで出て来て、報告、連絡、相談、謝罪するチャンスを与えられたのですが、
責任の擦り合い、押し付け合い、
至っては、直接口には出しませんが、神様が原因だ、とまで言っているのです。
【本論】
3:14 神である【主】は蛇に仰せられた。「おまえが、こんな事をしたので、おまえは、あらゆる家畜、あらゆる野の獣よりものろわれる。おまえは、一生、腹ばいで歩き、ちりを食べなければならない。
神様は蛇には理由を問わず、直ちに宣告をされます。
サタンの暗躍が明白だからであり、
神様と人間との関係の断絶が目的であり、人間同士の関係の破綻が目的であるからでしょうか。
詳しく確認しましょう。
先ず第1の理由は、蛇もサタンも「神に似るように、神の形に造られて」いないからです。
サタンは堕天使とも呼ばれるように天使の一つであり、人間と同じように霊的存在ではありますが、人間とは違います。
サタンは単なる被造物であり、神様と応答出来る存在ではありません。
応答出来るとは、言葉の遣り取り、意志の疎通の意味ではありません。
応答出来るとは、命令や許可を受け、報告、連絡、相談をし、指示を仰ぐ、と言う意味でもなく、
応答出来るとは、神に似るように造られ、神の形に造られている、と言う事です。
人間は神様の指示で働く僕ではなく、
神様に向かい合える、対等に応答出来る存在であり、友、親子のような関係性を持つ存在なのであり、
人間は被造物でありながら、神様と応答出来る存在であり、
しかも、人間は神様の許し無くして、善でも悪でも、何でも自由に行ない得るのです。
人間は神様の命令を拒否する事も出来ます。
しかし、サタンは善でも悪でも、神様の許しの中でしか、行動出来ません。
神様の命令を拒否する事は出来ません。
人間を誘惑する事も、神様の許しの中で行なわれたのであり、
誘惑は人間に与えられた試練であり、試練を通して成長を期待されているのです。
サタンに成長とか、期待はありません。
言わば、道具、機能の一つであるから、一方的な宣告を受けるしかないのです。
理由の第二は、蛇、即ちサタンは神様を唆(そそのか)したからなのです。
ヨブ記に、神様とサタンの遣り取り、神様を唆すサタンの姿が描かれ、
ヨブと友人たちとの遣り取りが記されていますが、
サタンの暗躍により、ヨブの信仰が試されたのであり、
最終的にヨブの信仰は形式的、概念的な域を脱し、
神様をリアルに、実在するお方として認識するに至るのです。
サタンは神様とヨブとの関係の断絶を画策しましたが、失敗しました。
返ってヨブの眼が開かれ、ヨブの信仰が高められたのです。
神様を唆したサタンについて、ヨブ記は何も記していませんが、サタンに厳しい裁きが下された事は想像に難くありません。
女と蛇、との遣り取りの背景には、ヨブ記に記されているような、神様とサタンとの遣り取り、経過があったのであり、
故に弁明の機会が与えられず、「こんな事をしたので」との言葉に、経緯を暗示させ、
いきなり厳しい宣告が言い渡される事になったのです。
サタンへの厳しい宣告は「のろわれる」と言うものでしたが、
この「のろわれる」はヘブル語の「アールール」の訳です。
「蛇は動物の中で一番狡猾であった」と3章1節で紹介されていますが、
この「狡猾」はへブル語の「アールーム」の訳であり、「最も賢かった、知恵があった」とも訳す事が出来ます。
「アールール」と「アールーム」の語路合せであると同時に、
「狡猾」即ち「知恵」の使い方を誤ると「のろわれる」事になる事を示唆しているのではないでしょうか。
知恵を与えてくださった神様を忘れ、知恵をひけらかし、知恵に依存する時、
知恵を悪用し、人間を引き摺り込み、神様に逆らわせようと画策した時、
知恵は身を立てるモノ、良きモノではなくなり、
身に呪いを招き、身を滅ぼす元になったのですから、注意しなければなりません。
蛇は多くの動物の中で、呪われた、特異な存在となってしまったのでした。
その「呪い」が端的に現されているのが、地を移動する姿であり、食物を食べる、捜す姿です。
蛇は元々、地を這いずり廻って生活していたのですが、その姿に新しい意味が与えられました。
地を移動する姿、地を這いずり廻る姿、食物を捜し、食する姿を「呪い」と宣言されてしまったのです。
自らを高い地位に置こうとした結果が、地を舐めるように這いずり廻る結果となり、
最も卑しめられた状態に落とされてしまったのです。
ノアの大洪水の後に、虹に新しい意味が与えられたのと同じです。
這いつくばる姿が、卑しめられる事の象徴となったのです。
また、蛇の食物ですが、実際に地の塵を食べる訳ではありませんが、
先の分れた舌をちょろちょろさせる姿は、食べ物を漁っているようであり、
地を這いずる廻る姿と合わせて、呪いと卑しさを雄弁に語っているのではないでしょうか。
3:15 わたしは、おまえと女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく。」
蛇への宣告は「呪い」だけでなく、
女との間において、女の子孫と蛇の子孫との間において「敵意」即ち「争い、戦い」がある事を宣言します。
これは「原福音」と呼ばれますが、女の子孫に救い主が現れ、サタンが滅ぼされることを暗示しています。
が、直接にはイエス・キリストを指し示してはいません。
子孫は単数でありますが、集団をも意味しますので、教会、クリスチャンが、サタンと戦い、
「彼は、おまえの頭を踏み砕き」と、教会、或いはクリスチャン、究極的にはイエス・キリストがサタンの頭を砕き、滅ぼし、完全な勝利を得る事を、
「おまえは、彼のかかとにかみつく」と、サタンが反撃し、激しい苦痛や痛手を受けるであろうが、その反撃が教会やクリスチャンに致命傷をになる事はなく、
イエス・キリストの勝利が微塵も揺らぐ事はないのです。
このように蛇には「呪い」が言い渡されましたが、男と女には何が与えられるのでしょうか。
3:16 女にはこう仰せられた。「わたしは、あなたのうめきと苦しみを大いに増す。あなたは、苦しんで子を産まなければならない。しかも、あなたは夫を恋い慕うが、彼は、あなたを支配することになる。」
「あなたのうめき」を、新改訳聖書第1版、2版では「身篭りの」と訳していますが、
女の、妊娠期間中の肉体的困難、精神的困難の全てを指し示しているに止まらず、
子育ての苦労、子どもの病気や怪我に対するうめき苦しみ、心労を、大いに増すと、宣告するのです。
罪を犯す前も、妊娠中、出産、出産後の子育ては、大変な苦労ではあったでしょうが、
神様の庇護の下での、平安と安全、安心が保証された「身篭り、子育て」が、
男の理解と協力があり、精神的にも肉体的にも守られた「身篭り、子育て」が、
自身の責任においての「身篭り、子育て」になってしまったのであり、うめき苦しむようになってしまったのです。
更に、夫婦の関係にも大きな変化が現れます。
「女は夫を恋い慕うが、彼は、あなたを支配することになる」と言うのです。
罪を犯す前も、夫が頭であり、支配する責任があり、女は従う義務があったのですが、
罪を犯してからは「支配」の意味が変わってしまいます。
1章26節などで「支配」と訳されているヘブル語には「導く」の意味もある単語が使われており、
力の支配ではなく、其々の役割、賜物の認識に基づき、賜物を活かす、祝福の関係でしたが、
ここ3章16節で「支配」と訳されているヘブル語は「治める」の意味もある、別の単語が使われており、
力による強制的支配の、夫の考え、意志を優先させる支配の関係になってしまう事が宣告されているのです。
共同ではなく、上下関係、主従関係になってしまいますが、
そんな、ある意味不当な支配、束縛でありながら、女は夫を「恋い慕」い、悪い意味で「依存」する事になるのです。
続いて男に対して宣告が下されます。
3:17 また、人に仰せられた。「あなたが、妻の声に聞き従い、食べてはならないとわたしが命じておいた木から食べたので、土地は、あなたのゆえにのろわれてしまった。あなたは、一生、苦しんで食を得なければならない。
私たちは、どんな状況でも、どんな環境でも、何時でも、何処でも、
神様の声を聴き、神様の教えに従い、神様との約束を守らなければなりません。
出来る事だけではなく、出来る限りでもありません。
無理でも、大変でも、嫌でもです。
しかし、中々、そうは行かないのが、現実でありましょうが、
神様の声を聴かず、神様の教えに従わず、神様との約束を守らなければ、
其れなりの罰、ペナルティーが科せられるのは当然です。
神様との約束を守らず、女の差し出した禁断の木の実を食べてしまった代償は、予想もしなかったものでした。
人間が神様との約束を破ったが故に、土地が呪われてしまったのです。
人間が呪われたのなら、蛇の場合と同じであり、当然と思いましょうが、
人間ではなく、土地が呪われてしまったのです。
土地は植物、動物を生み出し、動植物を育み、動植物を守り、自然の営みを支えますが、
その仕組みが呪われてしまったのです。
呪われた、とは概念的な事ではなく、機能が狂った、正常に機能しなくなった、と言う事です。
呪いの結果、
3:18 土地は、あなたのために、いばらとあざみを生えさせ、あなたは、野の草を食べなければならない。
事になってしまったのです。
土地は有用な物を生え出させる使命、賜物が与えられていながら、
土地の意志に反して、無用な物、有害な物、邪魔物、茨とアザミを生え出すようになってしまったのです。
茨とアザミは、荒れた土地のしるしであり、乱れのしるし、混乱のしるしであり、
神様の支配による秩序から、神様不在の無秩序に入った事のしるしなのです。
人間の罪により、自然は乱れ、動植物にも混乱が生じ、
無用な物、有害な物、邪魔物が蔓延るようになり、
有用な物、無害な物、必要な物を駆逐するようになってしまったのです。
17節に戻りますが、
人間は「苦しんで食を得なければなら」なくなりました。
本来、労働は楽しい作業であり、喜びであり、祝福であり、率先して取り組む事がでましたが、
人間の罪故に、強制的であり、義務的であり、苦しく、辛く、嫌なモノになってしまったのです。
その上に、茨やアザミが蔓延し、労働がより一層苦しく、辛く、嫌なモノになってしまったのです。
3:19 あなたは、顔に汗を流して糧を得、ついに、あなたは土に帰る。あなたはそこから取られたのだから。あなたはちりだから、ちりに帰らなければならない。」
エデンの園では、食物は土地が生み出してくださり、手入れをする必要はありましたが、
四季折々に木の実が豊かに実り、食物に不自由、心配、遠慮する必要はありませんでした。
しかし、これからは人間が調達しなければならなくなったのです。
種を蒔き、水を蒔き、育て、取り入れ、貯蔵し、保管しなければならなくなってしまったのです。
明日の食料の事も勿論ですが、来月の食料の事、来年の食料の事、将来の食料の事を心配しなければならなくなったのです。
その苦しく、辛く、嫌な作業、心配を一生続けなければならなくなってしまったのです。
雨の日が続いても、曇り空が続いても、晴れの日が続いても、風が吹いても、
寒くても、暑くても、作物の実りの心配をしなければならなくなってしまったのであり、
働かなくてはならなくなってしまったのです。
その患難辛苦が一生、代々、子々孫々にまで引き継がれる事になってしまったのです。
そして、人間は最後には、土から造られた故に、死んで、朽ちて、土に返る事になるのです。
私たちの使っている新改訳聖書は「ちりだから」と訳していますが、
新共同訳聖書は「塵に過ぎない」と訳し、人間は何も勝ってはいない事を強調しています。
これが「神のようになろう」とした結果であり、
「神のようになる」幻想の回答だったのです。
【適応】
惑わした結果は「呪い」であり、
惑わされてしまった結果は「苦しみ」でした。
「惑わし」を「騙す」とか「誘(さそ)う」「誘(いざな)う」と言い換えても意味は同じでしょう。
人を惑わしたり騙したりすると、人にも憎まれ、恨(うら)まれ、呪われますが、
何より恐ろしいのは、神様に呪いを宣告されるのであり、神様の呪いは、人の呪いの比ではありません。
逃れる事も、かわす事も、先延ばしにする事も出来ません。
人が呪っても、その呪いには何の力もなく、痛くも痒くもありませんが、
神様の呪いは、現実です、確実です。
神様の呪いは速やかに訪れ、徹底的な滅び、破壊、破滅をもたらします。
人を惑わす言動は「呪い」に至るのであり、それは、子々孫々にまで影響します。
親の罪は子に責任はありませんし、子が責任を負う必要はありません。
各々が責任を負わなければなりませんが、強い影響を与える事は確実です。
「朱に交われば赤くなる」の喩えの通りに、親の、身近な人の影響力は強く、
特に悪い力の影響は侮れません。伝染するのです。
呪いを招くような行為は、慎む、否、絶対に関わってはならないのです。
惑わした結果は「呪い」であり、
惑わされてしまった結果は「苦しみ」でしたが、
上手い話に乗ってしまったり、騙され、誘いに引っ掛かった時、
その結果は「苦しみ」なのです。
負わなくても良い負債を背負い、被る必要の無い苦しみを被る事になるのです。
神様から与えられている恵みだけで十分であるのに、
それ以上は不必要であるばかりでなく、多過ぎるモノは害を成すに至るのです。
人、其々の能力、力量、資質に相応しい賜物が与えられているのであり、
その与えられた賜物を活かすのが、充分活用するのが、最大限の効果を発揮するようにするのが、人間のなすべき事なのです。
あれもこれもと、欲しがる事ではないのです。
与えられていないのも、実は恵みなのです。
与えられた人には、活用の義務があり、責任があります。
宝の持ち腐れ、であってはならず、無いモノねだり、であってもならないのです。
余計な賜物を欲しがるような事をせず、誘惑に乗っかって欲しがったりせず、
与えられていない事を悲しんだり、持っている人を羨んだりする必要はなく、
与えられた賜物を喜び、謙遜に活用するのが、なすべき事なのです。
与えられた賜物を活用する事に徹し、工夫し、磨きをかけるなら、
他の賜物を欲しがる事もなく、他の賜物に気を取られる事もないでしょう。
自分の分を弁え、活用する事が、自身の祝福であり、
他の人々の、其々の賜物を尊重し、生かす事であり、全体の調和が取れ、至って神様の栄光が現される事になるのです。
手には手の働きがあるのであり、
足には足の働きがあるのです。
手が足になる必要はないし、足が手になる必要もありません。
手が手である事が、足が足である事が、調和であり、其々が最大に活きる活かす生き方なのです。
神様との関係が揺るぎないモノであるならば、惑わされる事はないでしょうし、
惑わす事もないでしょう。
エデンの園、の調和は、アダムがアダムである事であり、
アダムが神になる事ではないのです。
教会も、この世も、同じであり、あなたがあなたである事が、教会の調和であり、
世界の調和であるのです。
それは、私が一番輝く事であり、あなたが一番輝く事であり、皆が其々に一番輝く事であり、
神様の栄光を現す最短の道なのです。
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聖書箇所:創世記3:8~13 2014-7-6礼拝
説教題:「不毛の責任転嫁」
【導入】
宇宙即ち、天地万物の全てが、唯一の神様の御ことばにより、何も無いところから造り出されましたが、
神様は、被造物の最高峰として、神様に似るように、神様の形に人間を造られ、
その人間に被造物を支配する事と、守る事とを命じられました。
支配とは思いのままに、意のままに、好き勝手にではなく、被造物の一つ一つが本来の目的を果たすための手助けであり、お手伝いであり、お世話です。
支配にはもう一つの側面があり、それは、制限があり、約束事があり、その範囲において自由に采配を振るう事が許可されている、と言う事です。
無制限、何でもかんでもではないのです。
人間には神様から一つの約束事が与えられました。
契約、と言っても良いでしょう。
その契約は、「善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ」でした。
この条件さえ守れば、どの木からでも思いのままに、好きなだけ、何時でも、何処ででも食べる事が出来るのです。
エデンの園に、何種類の木が生えていたかは記されていませんが、何十種類、何百種類とあったのではないでしょうか。
季節毎に実が成り、豊かな食事となったのであり、
たった一本の木に固執、執着する必要は全くありません。
全く困る事のない、飽きる事のない、単調な食料事情ではなかったのです。
人間は住むにも、食べるにも、働くにも最高の環境に置かれ、
人間は一番相応しい、一番似つかわしい、最高、唯一無二のパートナーを得て、エデンの園を支配、管理、お世話する働きを始めましたが、
エデンの園に、蛇が登場し、要らぬお節介をします。
蛇の言葉巧みな誘導に引っ掛かり、
「神のようになる」との誘いに乗っかり、
神のようになる必要性は全くないのに、禁断の木の実を食べてしまったのでした。
私たちは、禁断の木の実の限らず、文書化されているいないに関わらず、
各種の約束事の中に置かれ、生きています。
他愛のない約束事から、重大な結果を招く約束まで様々です。
そして、意識的、無意識、たまたま、偶然、予想外の展開、状況の変化、などなどを理由に、
約束、契約を破ってしまう事は、決して珍しい事ではなく、日常茶飯事、と言っても大袈裟ではないのが、人間の姿なのです。
約束を破ったり、契約の不履行は、無いに越した事はありませんが、
長い人生、生涯の中で、誰もが一度や二度は大きな失敗を、取り返しの付かない大失態を経験するのではないでしょうか。
約束を破ってしまう事、契約の不履行は避けられませんが、その対応如何が問題なのではないでしょうか。
私が勤めていた会社では「ホウ・レン・ソウ」と言う合言葉を叩き込まれました。
その意味は「報告、連絡、相談」です。
悪い状況、危険な兆候は早めに、問題化する前に報告、連絡、相談してこそ、
更なる悪化、取り返しのつかない結果を未然に防ぐ事が出来るのであり、
事が大きくなってからでは、大変な労力、時間、費用がかかるのです。
表面化、問題化してからでも、誤魔化すか、他人の所為にするか、言い訳をするかによって、
信用を失い、何もかもお終いになるか、
逆に非を認め、謝罪し、再発防止策やその体制を提案、実行するなら、
誠実さを認められ、名誉を回復するチャンスを与えられ、より強い信頼を獲得する事もあるのです。
【本論】
3:8 そよ風の吹くころ、彼らは園を歩き回られる神である【主】の声を聞いた。それで人とその妻は、神である【主】の御顔を避けて園の木の間に身を隠した。
私たちは「そよ風の吹くころ」との表現に、夕方の涼しい、気持ちの良い風が吹く情景を思い浮かべ、
続く「園を歩き回られる神」と擬人的に記されている事とを合わせ読んで、
一日の終る夕刻に、日が少し翳って来て、薄っすら寒さを感じる時刻に、
神様が巡回する様子を想像しますが、
「そよ風の吹くころ」の直訳は「日の、風の、ころ」であり、
「日」は「時、年、生涯、時間、期間、今日、昨日、明日」をも意味し、
「風」は「霊、息」をも意味しますので、涼しさや爽やかさを全く意味していません。
決して、優雅な状況、一日が終わろうとしている、のんびりとした、仄々(ほのぼの)とした状況の描写ではなく、
8節の主人公は「彼ら」即ち「アダムとエバ」であり、彼らが感じた様子、状況であると理解する必要があるでしょう。
蛇の誘惑に合い、言葉の遣り取りの末、禁断の木の実を食べてしまい、
裸である事を知り、慌てて間に合わせの腰の覆いを葉っぱで作り、
ほっと一息吐いて、周りの状況に思いを馳せる、見渡せる余裕が出来、
「風」を感じる心境になった「時」を、指し示しているのではないでしょうか。
慌てている時、心配事がある時、集中している時、暑さも寒さも感じず、騒音も耳に入らず、まして微風を感じる余裕などないのではないでしょうか。
「そよ風の吹くころ」とは、爽やかさや涼しさ、心地よさではなく、
大変な事をしでかしてしまい、ハラハラ、ドキドキが治まって、
周りの様子に気が廻るようになり、微風を感じた時、なのです。
それに合わせたかのように、神様の臨在を感じます。
「園を歩き回られる神」と記されていますが、擬人的な表現であり、
また「神である【主】の声を聞いた」の「声」は「音」の意味でありますが、
「足音」ではありません。
蛇との関わりで、すっかり忘れていた、失念していた、蚊帳の外に置かれていた神様の気配を感じた事の、詩的な表現であり、
「声を聞いた」の「聞いた」は、神様に背いてしまった者が、神様に対する新しい感覚、
今まで感じた事の無い、余所余所しさ、他人行儀、距離感を感じさせる表現なのではないでしょうか。
それは、恐怖であったかも知れません。
「善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ」が現実味を持って迫った来たのであり、
その現実性故に、神様の臨在は、近寄って来られる気配は、物質的な圧迫感、威圧感、恐怖を伴って迫って来たのではないでしょうか。
とても神様の前に出る訳には行かず、
「それで人とその妻は、神である【主】の御顔を避けて園の木の間に身を隠した」のです。
神様の臨在からの逃避であり、
罪の結果としての逃避の試みであり、
「神のようになる」のではなく、
「神を避けるようにな」ってしまったのです。
そして、園の守り手であるはずの者が、園に身を隠し、園に守られる事を期待する者となってしまったのです。
この世の全ての被造物を支配し、守る者が、
この世に支配され、守ってもらわなければならなくなってしまったのです。
財産、資産を支配するはずが、財産、資産に支配され、守銭奴と呼ばれるような者になってしまったルーツはここにあるのではないでしょうか。
3:9 神である【主】は、人に呼びかけ、彼に仰せられた。「あなたは、どこにいるのか。」
神様は全てを見通し、全てを知っておられるます。
神様は人間が何処にいても、何処に隠れても、常にその存在を知っておられます。
ですから聞く必要は無く、答えを貰う必要もありません。
そして、この「あなたは、どこにいるのか」の問いかけは、
叱責でもなければ、判決の言い渡しでもありません。
人間の側からの、意識的ではないにしても、人間の責任においての一方的な断絶を回復させんがための呼び掛けであり、
優しい、愛に溢れた、捜し求める、隠れている所から出て来る事を期待しての呼びかけであり、
その意味での応答を求めての問いかけである事は明白です。
断たれた交わりの回復が提供されているのです。
恵みの機会であり、チャンスです。
「ホウ・レン・ソウ」のチャンスです。
してしまった事を報告し、謝罪し、赦しを乞うのが当然であり、妥当でしょう。
チャンスを生かすも殺すも、応答のし方次第です。
3:10 彼は答えた。「私は園で、あなたの声を聞きました。それで私は裸なので、恐れて、隠れました。」
事の次第の報告と謝罪の言葉、赦しを乞う言葉が出るかと思いきや、
人間の口から迸るように発せられたのは、隠れる事になった直接の原因ではなく、
原因から発生した現象、現状を報告したのです。
寝坊して遅刻したのに、目覚ましが鳴らなかったからだ、電車に乗り遅れたからだ、混んでいて乗れなかったからだ、と説明するようなものでしょうか。
忘れ物をした時、鞄に入っていなかった、鞄が小さかったからだ、と説明するようなものでしょうか。
こんな説明が通じるでしょうか。
こんな説明を誰が欲しがるでしょうか。
裸である事を知った理由、原因、
神様を恐れるに至った原因、隠れざるを得なくなった原因を報告すべきなのではないでしょうか。
更には「裸なので」と、裸は悪い事であり、恐れなければならず、裸の状態を容認し、
教えてくれなかった神様に責任があるような言い方をしているのです。
3:11 すると、仰せになった。「あなたが裸であるのを、だれがあなたに教えたのか。あなたは、食べてはならない、と命じておいた木から食べたのか。」
神様は人間の側からの自発的な告白を待たれるお方です。
そして、人間の側からの告白を促されるお方です。
理詰めで、段階を踏んで、やってしまった事を確認させつつ、
自白を待たれるのです。
神様は全てをご存知ですから、自白の有無に関わらず、正しい判断、裁決が出来るのであり、
神様の権威を持って、裁かれても何の問題もありません。
しかし、神様は自白、告白を尊重され、自分自身が何をしたか、何故裁かれているかを知る事を望まれるのです。
結果を叱るのではなく、原因を理解した上で叱らなければ、叱る意味がありません。
原因を明確に自覚してこそ、叱る意味があるのです。
原因が不明確であるならば、叱られても不当な扱いと思うだけであり、嵐が過ぎ去るのを待つ時間でしかなく、再び同じミスを繰り返すでしょう。
最初の問いかけは「あなたは何処にいるのか」であり、
「何故隠れているのか」ではありませんでした。
何もかも知っておられながら、「何をやったのだ」でもなく「何故隠れているのだ」でもなく「あなたは何処にいるのか」であるところに、
神様の無限の愛を感じるのではないでしょうか。
神様の愛から来る、優しさから来る配慮に、人は全く気付かず、あろう事かの返答をいたします。
3:12 人は言った。「あなたが私のそばに置かれたこの女が、あの木から取って私にくれたので、私は食べたのです。」
「あなたが私のそばに置かれた」のが原因です、と神様に責任転嫁します。
「この女が」原因です、と女に責任転嫁します。
「この女が」…何と言う言いようでしょうか。
神様が女を造られ、男の前に連れて来られた時には大感激し、
「これこそ、今や、私の骨からの骨、私の肉からの肉。これを女と名づけよう。これは男から取られたのだから」と叫んだのですよ。
喜び、感謝し、愛しい存在、掛け替えのない存在、比類のない存在であると叫んだのに、
今は「この女が」…ですよ。
そして「この女が」「私にくれたの」が原因です、と女に責任転嫁します。
私は食べたくはなかった、でも、あなたが私のそばに置かれたこの女が、あの木から取って私にくれたので、食べたのであって、
「あなたが私のそばに置かれ」なければ、
「この女が」いなければ、
「私にくれ」なければ、決して食べる事はなかった、私には責任がない、私の所為ではない、と躍起になって弁明します。
食べてしまったのは事実ですから、食べた事は仕方なく認めつつ、
それを正当化する努力をし、仕方がなかったと自己弁護するのです。
自己弁護に走り、正当化を主張する人間には、何を言っても届きません。
噛んで言い含めても、諭しても、決して受け入れは、悔い改めようとはしないでしょう。
3:13 そこで、神である【主】は女に仰せられた。「あなたは、いったいなんということをしたのか。」女は答えた。「蛇が私を惑わしたのです。それで私は食べたのです。」
神様は女に告白を促しますが、女は男から二重とも言える責任を押し付けられたのですから、たまったものではありません。
冗談じゃない、「蛇が」悪いんです、と蛇に責任転嫁します。
「惑わした」のが悪いんです、と蛇に責任転嫁します。
「蛇が」いなければ食べませんでした。
「惑わ」さなければ、決して食べる事はなかった、私には責任がない、私の所為ではない、と男と同じように、躍起になって弁明します。
食べてしまったのは事実ですから、食べた事は仕方なく認めつつ、
それを正当化する努力をし、仕方がなかったと自己弁護するのです。
確かに、蛇のせいかも知れません、女のせいかも知れません。
しかし、無理やり口に押し込まれてしまったのでも、
これは、禁断の木の実ではないよ、似ているけれど違う木の実だよ、と言って騙したのでもありません。
蛇の言葉は巧みではあったにしても、強制も、恫喝もなかったのに、女は自ら手を伸ばし、もぎ取り、食べたのですから、
女が男に差し出したのは確かですが、男は何の確認もせず食べたのですから、其々に責任がありましょう。
罪の擦り合い、責任の押し付け合いには、何も良い物は生まれません。
自分は正しく、誰それが悪い、環境が悪い、では対策の取りようも、対応のしようもありません。
健徳的なものは何も生み出さず、
恨み、憎しみ、の連鎖が始まり、その先は「呪い」です。
【適応】
昔、「不幸の葉書、手紙」と言うのがありました。
受け取ったら同じ文面の物を、何日以内かに、何人かに出さないと「不幸になる、呪われる」と言うものでした。
時々、こんなのが私の所に届きました。
逆の「幸福の葉書、手紙」ってのもあったような気がします。
仮に本当であったとしても、誰かに不幸をもたらす物を、送る訳には行かないし、
こんな葉書一枚が幸不幸をもたらすなんて思えませんから、無視して放って置きましたが、
特別、不幸な事は起こらなかったし、何か不幸が起こっても、手紙の所為だとは思いませんでした。
不幸や呪いの発信源にはなりたくなかったのですが、
現実の責任問題となると、冷静に対処するのは難しい事かも知れません。
約束、命令に反した行動を取り、それを追求された時、
違反を認め、自己弁護、言い訳をしないのは難しい事でしょう。
特に、騙された時、自分も被害者だ、との意識がある時は尚更でしょう。
しかし、自分の責任はどうするのでしょう。
人の所為にして、解決するのでしょうか。
何か、良い影響を残すでしょうか、誰かの益になるでしょうか。
責任の擦り合い、罪の押し付け合いは良い物は何も生み出さず、
被害者意識、憎しみ、呪いだけが残り、それは何時までも残り、後を引き、
関係はギクシャクしたものとなるでしょう。
責任転嫁は不毛であり、
蛇に責任を押し付け、女に責任を押し付け、神様に責任を押し付けてまで、責任逃れに走る醜態を晒す事になるのです。
もしここで、男も女も、自身の責任を考え、責任ある応答を取っていたなら、事態は大きく違った方向に進んだのではないでしょうか。
勿論、罪は罪ですから、死に値するものであり、それが減免する事はありません。
罪が支配する世界になる事は避けようがありません。
イエス様の十字架が必要であり、イエス様の贖いの死だけが神様と人間との和解をもたらすのですが、
ユダヤ人の歴史、救済史は、「生贄による義」「律法による義」を求める生き方ではなく、
「各々が正しいと思う生き方」…さ迷いの歴史ではなく、
罪の中に置かれていても「常に神様と共に生きる」歴史になっていたのではないでしょうか。
罪を認めず、責任を逃れる生き方は、さ迷う生き方であり、何も良い物をもたらしません。
しかし、罪を認め、責任を取る生き方は、辛く、厳しい現実と向き合わなければなりませんが、
義に生きる生き方であり、即ち「常に神様と共に生きる」のですから、生贄や、律法は必要のない生き方であり、
それこそが知恵を得た者の生き方なのではないでしょうか。
聖書は「知恵、知識」を「神を恐れる者」と定義しています。
ヨブ記28章28節「見よ。主を恐れること、これが知恵である。悪から離れることは悟りである。」
箴言1章7節「主を恐れることは知識の初めである。」
知恵、知識を得る王道は「禁断の木の実」を食べる事ではなく「主を恐れること」なのです。
「主を恐れること」とは、単なる畏怖や恐怖ではなく「最大限の敬意を払い、最大限に尊重する」です。
私たちが神様に最大限の敬意を払い、最大限に尊重する、と言うのは、
神様が造られた被造物に対して、最大限の敬意を払い、最大限に尊重する、と言う事であり、
そこに、責任転嫁は起こり難いのではないでしょうか。
即ち、神様との関係が全てに関係し、影響し、決定すると言っても過言ではないのです。
私たち、神様を知り、恐れる者として相応しい、責任の取り方、弁明の仕方、応答のし方があるのであり、
失敗も、対処の仕方によって、発展やより良い関係を築く可能性を秘めているのであり、
それが、クリスチャンとしての証しになるのではないでしょうか。
そして、全ての事を働かせて益としてくださる、と言う御言葉が現実性を持って迫って来るのです。
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