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2014年9月28日 牧師 河野優
聖書箇所:ピリピ人への手紙 第1章21節から26節
説教題:「板ばさみの人生に溢れている希望」
【導入】
「板ばさみ」という言葉を聞いて、どのような状態を想像しますか。
ここでパウロが味わっている板ばさみ状態と、私たちが思い浮かべ、味わった板ばさみ状態とは、おそらく「違う」のではないかと思います。
パウロの言う板ばさみが希望に溢れるていることを確認し、私たちも同じ恵みを味わいたいと思います。
【本論】
①「板ばさみ」という言葉の意味
そもそも、板ばさみの状態とは文字通り、二つのものにはさまれて身動きが取れなくなっている状態を意味します。
そして、今日の箇所で使われている「板ばさみ」という言葉には、色々な意味があります。
第二コリント5:14でもパウロはこの言葉を使っています。
「というのは、キリストの愛が私たちを取り囲んでいるからです。」
(新共同訳では「キリストの愛が私たちを駆り立てている」)
そして今日の箇所では「引き裂く」という意味があります。
「駆り立てる」「引き裂く」は力の作用する方向が似ています。
共にその力は外側に向かって強力に働いています。
一般的な意味における「板ばさみ」は、外からの力に押さえつけられて身動きが取れなくなっている状態です。
この場合の力の作用は、外から自分の内側に向かってかかる方向で、全く正反対です。
ですから、パウロの板ばさみは「引き裂かれている」という意味で理解することをまず覚えたいと思うのです。
②二つのものの間に「板ばさみ」となっているパウロ
そこでパウロは言います。
「私は、その二つのものの間に板ばさみとなっています。」(23節)そして、二つのものとは「生きること」「死ぬこと」です。
パウロがこのとき置かれていた現実の状況は、まさに生と死の狭間に立たされていたはずです。
彼は今、牢屋で捕われの身であり、処刑されてもおかしくない、また生きて出られたとしても福音宣教に対する迫害はどこまでもついてまわり、結局自分の命は危険にさらされる。
そうであるならば、死んでしまったほうが...と考えてもしようがないような状況でした。
しかし、パウロの板ばさみ状態は、そのような選択に窮している苦しみの状態ではありませんでした。
なぜなら、彼には主が共におられるという信仰に、希望溢れるすばらしい祝福に与っていたからです。
その証として、パウロは「私にとって、生きることはキリスト、死ぬことも益です。」(21節)と語るのです。
ここでパウロは生きることと死ぬことは同じくらいの力を持って自分を引き裂いていることを告白します。
パウロの心情として、心が真っ二つに引き裂かれ、いずれも心から求めてやまない、それゆえ「どちらを選ぶべきか、わたしには分かりません」(22節)と率直に言うのです。
私を押し付けて身動きできなくするのではなく、私をひきつけてやまない二つのものがある。
それも自分では選ぶことのできないほどに両者は拮抗しているというのです。それが、生きることはキリスト・死ぬことは利益と語るパウロの板挟みの状態なのです。
生きることと死ぬことは別のことではなく、キリスト者にとって、パウロにとっては生きるにしても死ぬにしても、と同じ線上にあることです。
同じ主の支配が、恵みがあり続ける。私たちキリスト者の人生は、このような板ばさみの人生です。そしてここには希望が溢れているのです。
③確信して希望の道を歩き続ける
どちらを選択したとしても、希望に溢れている道。その選択は信仰的決断によって、確信をもってなされます。パウロはどんな選択をしたでしょうか。
彼の本音は「この世を去って、キリストと共にいたい」(23節)ということでした。
キリストの十字架による救いに与っている者として自然の、当然の願望です。しかし、彼は真剣に、そして熱烈に葛藤しているのです。板挟みと言うほどに。
キリストに出会って変えられ、救われ、福音を述べ伝えるものとして新しい人生を与えられた彼が生きる目的はただ一つ、その召しにふさわしく歩むこと、つまり一人でも多くの兄弟姉妹が救われることです。
ですから、彼の結論としての決断・選択は、板挟みではあるが、「いつもあなたがたと共にいることになるでしょう。」(25節)という、聖徒らと共に生きる道でした。
獄中にあっても、生きることはキリストと大胆に言い切り、自分のためではなくひたすらにキリストのため、兄弟姉妹のため、人々の救いのために大胆に喜んで生き続けるパウロ。
それは大いにピリピの聖徒らを力づけ喜ばせたはずですし、本人が目の前に現れたとしたら、その力はさらに増し加えられます。
私たちもそうではないでしょうか。一人一人が板挟みの人生にある。生と死を貫くイエス・キリストと共に生きる人生に。
そのように徹底的に自分ではなく主のために、兄弟姉妹のために生きる時、それは自分自身を希望と喜びに溢れさせるだけではなく、兄弟姉妹をも励まし、希望と喜びに溢れさせるのです。
この先を読んでいくと、パウロもまた「わたしの喜びを満たしてくださ(2:2)、「わたしはあなたがたの様子を知って力づけられたいので」(2:19)と言っています。
同じく、板挟みの人生に生きる兄弟姉妹たちの姿、存在は、パウロをも喜ばせ力づけるものであったのです。
ここに、麗しい教会の姿が垣間見えます。
キリストに、使徒たちに学びつつ、しかし私たち自身の歩みはどうなのか、そう問われている気がするのです。
【適応】
私を引き裂くほどに惹き付けて止まない、主と共にいるという恵みを、本当に自分は味わっているのか、改めて確認しましょう。そして、私たちが信仰をもって決断する時、それがどんな状況であったとしても、決して変わることがない希望が溢れています。その希望に生きる者として、互いに励まし合い、支え合いながら共に歩むキリストのからだなる教会を共に建て上げていきましょう。
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聖書箇所:創世記7:1~12 2014-9-21礼拝
説教題:「生き残るために箱舟に入りなさい」
【導入】
神様が人間を創造された時、人間を命令、指示に従順なロボットのような存在として造られたのではありません。
人間には「自由意志」、或いは「選択の自由」が与えられ、命令、指示、そして約束に従うようにも、命令、指示、約束を否む事が出来るようにも造ってくださったのです。
神様とアダム、エバとの約束、命令は、指示は、「善悪の知識の木の実、命の木の実」のお世話をしながら、「善悪の知識の木の実、命の木の実」を食べない事です。
難しい約束でしょうか。
エデンの園に「善悪の知識の木の実、命の木の実」しか生えていないならば、或いは、美味しいのは「善悪の知識の木の実、命の木の実」だけで、他の果樹は不味くて、しかも、少ししか実らないなら難しい約束、命令でしょうが、
実は意外と簡単な約束、命令なのではないでしょうか。
エデンの園は何処も良く潤っていて、様々な種類の美味しい果樹が育ち、一年中、絶え間なく、次ぎから次ぎへと完熟期を迎え、食べ切れない程、豊かに、たわわに実っていたのです。
生きるための必要は充分に満たされていたのであり、「善悪の知識の木の実、命の木の実」を食べる必要は全くありませんでした。
手の届く所にあり、何時でも取れる状態であり、誰かが見張っている訳でもありませんし、小鳥が啄ばみ、小動物が木に登り食んだのを見ても、全く食べようとは思わないし、食べる必要もなかったのです。
アダムとエバは、頑張って神様との約束を守っていたのではなく、与えられた「自由」を正しく用いて、神様との約束、命令を選び、決して「善悪の知識の木の実、命の木の実」を食べようとはしなかったのです。
しかし、食べてみたい気持ちは、多少はあった事でしょう。
だからこそ、「食べない」選択に意味が生じるのです。
アダムとエバは「食べない」を選び、神様との約束、命令、指示を誠実に守り、自然界に対して、植物、動物に対して、適切なお世話をしていたのです。
ところが、蛇が現れ、蛇の惑わしに誘われ、蛇の誘いを選び、食べてはならない、食べる必要のない「善悪の知識の木の実」を食べてしまったのでした。
この時から、人間には罪が入り、罪に汚染され、「自由」な、即ち、適切な、正しい判断が出来なくなり、「生きるために必要」か否か、ではなく、見た目で判断をするようになり、安心のために、自己満足のために、見栄のために、自慢のために、「生きるために必要」ではないモノを選択するようになってしまったのです。
「生きるために」は「神様に従って生きるため」であり、自分の思いのままに生きる事ではありません。
しかし、人間は「自分の思いのままに生きる」ために不要なモノを手に入れるために我武者羅に動き回り、本当に必要なモノを見失い、益々、不必要なモノのために貴重な時間を、能力を、資産を浪費しているのです。
生きるために必要なモノを選び、そのために時間を、能力を、資産を投入すべきであり、それを実践したのがノアと、ノアの家族だったのです。
神様の「人間を地の表から消し去る」と言う選択に対し、「生き残るために箱舟を造る」と言う選択肢が与えられ、「生き残るために箱舟に入る」と言う二つの選択肢が与えられます。
【本論】
7:1 【主】はノアに仰せられた。「あなたとあなたの全家族とは、箱舟に入りなさい。あなたがこの時代にあって、わたしの前に正しいのを、わたしが見たからである。
神様から「あなた」即ちノアに与えられた選択肢は「あなたとあなたの全家族とは、箱舟に入りなさい」です。
神様の指示は、命令の形を取ってはいますが、有無を言わさぬ厳しい命令口調ではなく、諭すような、懇願するような、即ち、ノアの「自由な選択」に訴えかけたのです。
大分前の事ですが、子どもに言われた一言で「はっ」とした事があります。
「何してるの?」と「どうしたの?」です。
「何してるの?」と「どうしたの?」…意味も、聞きたい答えも一緒でしょうが、聞き手は、受け止め手は、微妙に違うようです。
「何してるの?」には、詰問のニュアンスが滲んではいないでしょうか。
「どうしたの?」には、心配、案じているニュアンスが感じ取れるのではないでしょうか。
「箱舟に入りなさい」…ヘブル語は「命令形」であり、活字にしても命令口調ですが、「入りなさい」と訳されているヘブル語には「来る、行く、もたらす」の意味があり、「来なさい、行きなさい」即ち「おいでなさい、乗り込みなさい」と理解する必要がありましょう。
乗船の命令は、勧めは、無理強いではなく、強制ではなく、ノア一家を案じての、心配の思いが込められた「招き」の言葉である事を汲み取る事が出来るのではないでしょうか。
しかも、他に生き残る道があるならまだしも、生き残る道は箱舟に乗るしかないのですから、招きにも力が入るのは当然でしょう。
ノアの一家を案じ、箱舟に招く理由が続けて述べられます。
「あなたがこの時代にあって、わたしの前に正しいのを、わたしが見たからである」
「あなたが」とノア一人の名前を上げていますが、決してノア一人ではなく、ノアの一家をも指し示している事は明らかです。
前回、確認したように、救われるのは本人の信仰と応答であり、ノアの信仰と応答で家族が救われる事はありません。
ノアの家族はノアの信仰を見て、ノアの信仰に倣う者となっていたのであり、其々の信仰によって、救いの箱舟に招かれたのです。
ここで教えられる事は、裁きが延期されたり、裁きが中止される事は決してないが、逃れの道が備えられないうちに、裁きが来る事は決してないのであり、御こころに適う者には、神様から必ず招きがある、と言う事です。
神様からの招きは、明確な招きであり、誰も勘違いも、見逃す事もありません。
隠されていて、注意深くしていないと見逃すような事はなく、捜さないと見つからないようなものでも、ダミーがあるようなものでもありません。
救いの道は一つであり、他にはなく、神様が啓示して下さった道だけなのです。
神様は御こころに適った者に、正しい者に救いの道を用意され、ノアとノアの一家は、神様の招きを受ける信仰の持ち主でしたが、決してノアとノアの家族に与えられた「正しい」との評価は欠点がないとか、罪がなかった、罪を犯さなかったの意味ではなく、欠点があり、罪を犯しても、その欠点、罪を隠さず、告白し、赦しを乞い、神様と共に歩み続けた…の意味で「正しい」と評価されたのです。
この世に「正しい者」など、唯の一人もいません。
右を見ても、左を見ても、罪人ばかりです。
その罪人たちは、罪を何とも思わず、罪など犯さなかったかのように振る舞い、或いは、罪を勲章のように自慢する者もあり、それだからこそ、神様はこの世界を滅ぼすと宣言されたのです。
その数多の罪人の中で、ノアとノアの家族だけが、罪を悲しみ、罪の蔓延する世の中を見て心を痛め、悲しんでいたのです。
それは、神様の心を共有していた、と言う事であり、神様の憐れみを受けたのです。
人間の罪を悲しみ、苦しんでいたのはノアとノアの家族だけではありません。
動物も悲しみ、苦しんでいたのであり、苦しみ、悲しみから救い出すために箱舟に招かれました。
7:2 あなたは、すべてのきよい動物の中から雄と雌、七つがいずつ、きよくない動物の中から雄と雌、一つがいずつ、
7:3 また空の鳥の中からも雄と雌、七つがいずつを取りなさい。それはその種類が全地の面で生き残るためである。
何故、神様は「きよくない動物」をも、生き延びるようにされたのでしょうか。
この際、「きよくない動物」は滅ぼし、「きよい動物」だけにすれば、悔い改めない罪人を滅ぼす手間に対して、一石二鳥なのではないでしょうか。
しかし、注意しなければならないのは「きよくない動物」イコール「不必要な動物、有害な動物」ではない、と言う事であり、「きよい動物」イコール「必要な動物、有益な動物」でもない、と言う事です。
人間は、大洪水の後、動物を食料とするようになります。
しかし、何でも食べてよい訳ではなく、神様によって、食べてよい動物と、食べる事を禁じられる動物が指定されます。
即ち、生きるために動物を食しても良いが、食す事が禁じられている動物があるのであり、「善悪の知識の木の実、命の木の実」のように、食べてはならない動物を指定する事で、制限を与える事で、神様への従順と、神様に養われている事とを学ぶのです。
動物は人間のために存在していますが、「きよい動物」も「きよくない動物」も、神様が目的を持って造られた被造物であり、目的を継承するために、洪水後の世界に伝えるために、箱舟に招き入れられたのです。
広義には「種の保存、目的、働きの継承」のためであり、狭義には
8章20節
「8:20 ノアは、主のために祭壇を築き、すべてのきよい家畜と、すべてのきよい鳥のうちから幾つかを選び取って、祭壇の上で全焼のいけにえをささげた」と記されているように、生贄のためであり、
9章3節
「9:3 生きて動いているものはみな、あなたがたの食物である。緑の草と同じように、すべてのものをあなたがたに与えた」と記されているように人間の食物とするためです。
7:4 それは、あと七日たつと、わたしは、地の上に四十日四十夜、雨を降らせ、わたしが造ったすべての生き物を地の面から消し去るからである。」
何と厳粛な宣言でしょうか。
確固とした、揺るぎ無い、断定した宣言でしょうか。
明確に期限が語られ、被造物の終りが語られるのです。
「わたしが造ったすべての生き物を地の面から消し去るからである」
何と悲痛な宣言でしょうか。
1章31節で、被造物の出来映えを「非常に良かった」と、並々ならぬ出来映えであった事を宣言しながら、その最高傑作の被造物を消し去らなければならないのです。
神様の悲痛な、しかし、厳粛な宣言に、信仰者ノアは、何も感想を、意見を述べず、従順を通して、恭順を通して、神様の宣言を受け入れたのです。
アブラハムは、ソドムとゴモラに下される裁きに接して、神様に執り成しを試みましたが、ノアは全地が罪に塗れ、腐敗し、暴虐で満ちているのを目撃していますから、執り成す術もなかったのでしょう。
7:5 ノアは、すべて【主】が命じられたとおりにした。
ノアに出来る事は限られ、唯々、神様に従順な姿を人々に見せる事で、神様と共に歩む幸い、喜びを現し、箱舟を造る事で、この箱舟が浮かび上がる大洪水が起こる事を、人々に滅びが近い事を、身を以って現すしかなかったのです。
簡潔な5節の表記ですが、中身の濃い、重みのある内容が含まれています。
箱舟建造には、並々ならぬ苦労がありました。
全て人力です。
しかも、家族だけで、ノア夫婦と三人の息子夫婦で建造したのです。
木材の調達から運搬、加工、組み立て、補強。
食料の調達から運搬、保存。
動物の世話。
箱舟建造には、最も長く見積もって120年、と言う説があります。
息子たちが生まれた時、ノアは500歳でしたが、息子たちが生まれる前後に、神様から「箱舟を造れ」との啓示を受け、洪水が起こるノア600歳までの期間を箱舟建造に費やしたのです。
5節にはノアの苦悩、苦労、迷い、葛藤の歴史が凝縮されているのです。
「○○は、主と共に歩んだ。
○○は、全て主が命じられたとおりにした。」と記されるような生涯を歩みたいものです。
7:6 大洪水が起こり、大水が地の上にあったとき、ノアは六百歳であった。
大洪水が起こった、正確な年月日は、
11節
「ノアの生涯の六百年目の第二の月の十七日」です。
この日付は、象徴的な意味、抽象的な意味はなく、史実、事実である事を意味している日付です。
昔話ではなく、神話でもなく、伝承でもなく、確実に起こった事実、史実を記録しているのです。
ノアの一生は950年ですが、その凡そ3分の2の時点で大洪水を体験したのです。
900年前後の超長寿命を、現代日本の男性平均年齢80歳と単純には比較できませんが、人生の後半に突入している事は確かであり、子どもも与えられ、子どもの時代になりつつある事実は否定できません。
子どもが大人になり、信仰継承もまあまあ…隠居するのは早いにしても、このまま大きな変化もなく、過ごすんだろうなぁ、との漠然とした思いがあったのではないでしょうか。
ところが、ところが、思わぬ事が待っているのが人生なのです。
この「思わぬ事」はよい事も、悪い事も含みますが、「思わぬ事」は突然にやって来るようであっても、前兆はあり、予兆があり、前触れがあり、知らせがあり、備えの期間があるのです。
大洪水という大事件は、何の前触れも予兆もなくやってきたのではありません。
創世記6章5節
「6:5 主は、地上に人の悪が増大し、その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾くのをご覧になった」のです。
「増大し」「傾く」との時間的経過があり、ノアによる箱舟造りを通しての大洪水の予告があり、続々と動物が箱舟に乗り込むという不思議な光景、非日常を目の当たりにさせ、と、前触れ、予兆は充分与えられるのです。
大洪水の目的は、滅ぼすためではなく、正しい者が生き残るためであり、悪い行いに気が付き、悔い改めれば、誰でも救われるのです。
7:7 ノアは、自分の息子たちや自分の妻、それに息子たちの妻といっしょに、大洪水の大水を避けるために箱舟に入った。
7:8 きよい動物、きよくない動物、鳥、地をはうすべてのものの中から、
7:9 神がノアに命じられたとおり、雄と雌二匹ずつが箱舟の中のノアのところに入って来た。
準備は全て、一つの漏れもなく整いました。
どの季節であったかは聖書から知る事が出来ませんが、如何にも洪水が起こるのを予感させるような天候、気候でなかった事は確かです。
台風シーズンでもなく、長雨の季節でもなく、ノアたちが、動物たちが箱舟に入る時、不安材料は微塵もなかったのは確かです。
きっと空は綺麗に晴れ渡り、太陽が燦燦と輝き、優しいそよ風が吹いていた事でしょう。
人々は「今日は言い天気だ、明日も言い天気だろう、ずっとずっとこんな天気が続くだろう。
ノアは愚かだなぁ。役にも立たない箱舟なんか造って。動物を連れ込んだりして、何をしてるんだろう」と訝っていたのではないでしょうか。
7:10 それから七日たって大洪水の大水が地の上に起こった。
7:11 ノアの生涯の六百年目の第二の月の十七日、その日に、巨大な大いなる水の源が、ことごとく張り裂け、天の水門が開かれた。
7:12 そして、大雨は、四十日四十夜、地の上に降った。
全てにおいて神様の約束が延期、変更、中止される事はありません。
勿論、猶予期間は与えられ、その間に悔い改めるなら、延期、変更、中断はあり得ますが、意味もなく、延期されたり、変更されたり、中止されたりする事はありません。
必ず、預言の通りに、宣言の通りになります。
滅びの預言、宣言が実行されたなら、文字通り、滅びるのです。
最近の天気予報は「かつてなかったような大雨」とか「経験した事のないような豪雨」と表現される事が多くなってきましたが、ノアの時代に起こった豪雨、洪水は人類至上経験した事のない豪雨、洪水であり、文字通り「最初にして最後の、経験した事のない大豪雨、大洪水、大災害」なのです。
2~3日の豪雨でさえ、大災害を引き起こしかねないのに、40日40夜、経験した事のない、最初で最後の大豪雨が始まり、神様によって天に蓄えられていた水が次々に地上に降り注いだのです。
神様によって地下深くに押し込められていた地下水が続々と湧き上がって来たのです。
上からの水と、下からの水で地は見る見るうちに被われたのです。
【適応】
生きるために必要なものは何でしょうか。
生き残るために必要なものは何でしょうか。
この二つを混同したり、取り違えたりしてはなりません。
生きるために必要なものは沢山あります。
空気も水も、食物も衣類も、住む所も寝る所も必要です。
生物として生きるだけでなく、人間らしく生きるためには、家族や友人、娯楽や趣味も必要でしょう。
権利も安全も保障されなければなりません。
生きるために必要なものは多岐に渡り、全部がある程度のレベルにないと生きられず、一つでも大きく欠ける時は生死に関わる事になります。
一方、生き残るために必要なモノは非常に限定されましょう。
そして、普段は、日常の生活では殆ど必要性を感じないモノ、事なのではないでしょうか。
ノアの史実は、この事を明確に教えています。
巨大な箱舟を日常生活で使う事は絶対にありません。
そんな実用性のないものを、100年掛りで造るような事はありません。
そんなものに、労力、財力、時間を掛ける必要性を否定します。
非常時の備えは、過去の経験から割り出して備えるのが常識であり、巨大な箱舟は非常識の塊です。
例え未曾有の災害が起こったとしても、何とかなる、人間はピンチに強い、と楽観的に考え、そんな事は起こらない、と否定し、考えないようにします。
しかし、裁きは、大洪水は必ず起こるのであり、人間の知恵を総動員、結集しても、どんな対策を講じても、逃げても隠れても、絶対に生き残れません。
何故なら、天地万物を創造された神様が「地上のすべてのものは死に絶える」と宣言されたからです。
神様の宣言を覆すだけの知恵も力も、人間は備えてはいないのです。
人間には何の力も知恵もありませんが、神様は知恵と力の根源、源泉であり、神様の指示に従うなら、滅びから、大洪水から免れ得るのです。
しかも、人間の都合ではなく、神様の指示に全く完全に一致し、一字一句従う事です。
ノアの箱舟は、神様から与えられた指示通りに造りました。
ノアの考え、工夫、創作部分は全くなく、直ぐに造船に着手し、食料を調達し、家族と動物を箱舟に乗せたのです。
ノアの都合や考えは全く排除されています。
神様の指示に従う事、これだけが「生き残るために必要な事」「救われるために必要な事」なのです。
解っていても、知っていても、従わなければ何の意味もありません。
箱舟を造る必要を理解する事も、箱舟だけが生き残るために必要だと知っていても、造らなければ意味がありません。
他の方法を模索したり、躊躇したりも相応しくありません。
現代の私たちにとって「生き残るために必要な事」は何んでしょうか。
「救われるために必要な事」は何んでしょうか。
救われるために時間を使っているでしょうか、
救われるために財を使っているでしょうか、
救われるために力と知恵を尽くしているでしょうか。
生きるための必要と、生き残るための必要、即ち、救われるための必要を取り違えていないでしょうか。
勿論、生きるための必要を蔑ろにしろ、と言っているのではありません。
生きるための必要と、生き残るための必要の優先順位を、バランスを、意識と認識を吟味しなければならないのです。
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聖書箇所:創世記6:9~22 2014-9-14礼拝
説教題:「ノアの歴史。箱舟造り」
【導入】
アダムから始まった人類の歴史は、薔薇色の歴史が約束された歴史でした。
但し、何をしても薔薇色の歴史が約束、確定しているのではありません。
神様と交わした約束、契約を守る限りにおいて、です。
神様と交わした約束、契約とは「善悪の知識の木の実、命の木の実」のお世話をしながら、「善悪の知識の木の実、命の木の実」を食べない事です。
簡単な約束でしょうか。
いやいや、簡単そうですが、実は意外と難しいのではないでしょうか。
手の届く所にあり、何時でも取れるのであり、誰かが見張っている訳でもなく、時には熟しきって落た実を始末しなければならなかったのです。
甘いかおりがし、食欲をそそったのではないでしょうか。
小鳥が啄ばみ、小動物が木に登り食んだのを見ていたのではないでしょうか。
小鳥にも動物にも何も起こらない、死なないのを目撃しているのです。
それでも、アダムとエバは、神様との約束を守り、決して「善悪の知識の木の実、命の木の実」を食べようとはしなかったのです。
当初は、人間は神様との約束を守り「善悪の知識の木の実、命の木の実」を食べる事なく、自然界に対して、植物、動物に対して、適切なお世話をしていたので、神様と人間との関係は完全であり、麗しく、エデンの園はバランスの取れた環境を維持しており、植物も動物も、其々が本来の目的通り、造られた目的に添って生き生きと成長し、増え広がり、神様の栄光を現していました。
ところが、蛇が現れ、蛇の惑わしに誘われ、人間は神様との約束を破り、食べてはならない「善悪の知識の木の実」を食べてしまったのでした。
神様との約束より、蛇の言葉を選んだのであり、神様に背を向けたのです。
神様に背を向ける事、神様の優先順位を低くする事が「罪」であり、正しい選択をせず、的外れな選択をする事を「罪」と言い表す事も出来るでしょう。
アダムが「善悪の知識の木の実」を食べた事により、人類に罪が入り込み、罪に支配され、罪の奴隷となってしまったのでした。
ここから、人類の歴史は、自然界は大きく舵を切る事になります。
神様と共に歩み、神様の栄光を現す薔薇色の歴史から、神様を蔑ろにし、自分勝手に歩む灰色の歴史、限りなく黒に近い歴史が始まる事になるのです。
それがカインの弟アベル殺しに端を発するカインの歴史、滅びの歴史です。
力と恐怖、暴力が支配する社会が構築される一方で、神様は愛と赦しが根底にある社会を構築すべくセツを誕生させ、セツの子孫に神様との関係修復を託すのです。
しかし、神様の期待空しく、セツの子孫は、自らに内在する罪の影響を受け、カインの子孫の悪い影響で拍車が掛り、堕落の一途を辿るのです。
悪と罪の増大に心を痛められた神様は、ついに、厳しい選択をせざるを得なくなります。
「人間を地の表から消し去る」と言う選択です。
苦渋の選択、断腸の決断ですが、今日の聖書の個所は、その滅びの宣言の中にも示される神様の憐れみと、神様に憐れみを引き出させる信仰者ノアの歴史を紐解きたいと思います。
【本論】
6:9 これはノアの歴史である。ノアは、正しい人であって、その時代にあっても、全き人であった。ノアは神とともに歩んだ。
ノアは「正しい人であって」「全き人であった」と記されていますが、「正しい人であり続けた」「全き人であり続けた」の意味で理解する必要があります。
継続こそ本物の印であり、本物か否かの判断の分かれ目になります。
「三日坊主」と言う言葉がありますが、短期間なら何とか出来ましょうが、期限付なら頑張れましょうが、無期限は心にも身体にも大きな負担を強い、断念、挫折してしまう事は、決して珍しい事ではないのです。
続ける事も、耐える事も、長引くと辛いのは、中々難しい事であるのは、皆様も経験されている事でしょう。
俗に言う「良い時代」ならば、良い意味で環境が整っていれば、仲間の助け合い、励まし合いが期待出来るならば、続ける事は可能でありましょうが、ノアの時代は11節
「地は、神の前に堕落し、地は、暴虐で満ちていた」時代です。
「その時代にあっても」ノアは「正しい人であり続けた」「全き人であり続けた」のです。
孤立無援ほど辛い、厳しい事はありません。
「正しい人であり続ける」のは、「全き人であり続ける」のは、戦いであり、必死の覚悟と、決死の行動が伴わなければ、続ける事は出来ません。
内外から誘惑があり、人々の揶揄があり、時には恫喝、嫌がらせもあった事でしょう。
日本人は周りとの関係を非常に重要視する性質があります。
持って生まれた自然なモノなのか、学んだ知恵なのかは解りませんが、「嫌」を言えず、妥協してしまう事が、屈してしまう事が、有耶無耶にしてしまう事が少なくありません。
しかし、ノアはそんな誘惑、揶揄、恫喝、嫌がらせに屈せず、ノアは「神と共に歩んだ」否「神と共に歩み続けた」のです。
このノアの歩みは、何か凄い事をしたとか、神様の役に立つ事をした、の意味ではありません。
エノクと同じように、何の功績も残しませんでしたが、神様から離れず、神様の御心は何かを考え続け、神様のそばに居続けただけなのです。
孤立無援の戦いを続けるノアに、神様は援軍、助け、励まし合える、助け合える仲間を与えてくださいます。
それは三人の息子たちです。
6:10 ノアは三人の息子、セム、ハム、ヤペテを生んだ。
ノア500歳の時の事です。
「セム、ハム、ヤペテ」が三つ子なのか、続けて生まれたのか、は問題ではありません。
問題は、「地は、神の前に堕落し、地は、暴虐で満ちていた」時代にあって、どう生きたか、何を学んだか、何を吸収したか、何を取捨選択したかなのです
聖書は何も記していませんが、18節で「あなたの息子たち、あなたの妻、それにあなたの息子たちの妻」が箱舟に招かれている事実が答えを示しています。
救いは「個々人」の問題であり、ノアがどれほど神様に忠実でも、神様と共に歩もうと、神様に愛されていようと、救われるのはノアだけであり、ノアの信仰で息子たち、妻、息子たちの妻が救われる事はありません。
エゼキエル書14章14節、16節、
「14:14 たとい、そこに、ノアとダニエルとヨブの、これら三人の者がいても、彼らは自分たちの義によって自分たちのいのちを救い出すだけだ。・・神である主の御告げ。・・
14:16 たとい、その地にこれら三人の者がいても、・・わたしは生きている。神である主の御告げ。・・彼らは決して自分の息子も娘も救い出すことができない。ただ彼ら自身だけが救い出され、その地は荒れ果てる。」と記されている通りです。
ノアは自分の義を立てていただけではなく、息子たち、妻、息子の妻たち、其々が救いに与る者になるべく、信仰継承する努力をしていたのです。
6:11 地は、神の前に堕落し、地は、暴虐で満ちていた。
時代にあって、ノアの生き様が、息子たちの良き模範、良き導きになっていたのは明らかです。
ノアは信仰継承をきっちり行なっていたのであり、父としての、人としての責任を充分果たしていたのです。
先にもお話ししましたが、誘惑の力は侮れません。
誘惑の力と言うよりも、自分自身の内には罪があり、誘惑の力を引き寄せ、誘惑に同調し、共鳴してしまうのです。
或いは元々持っている罪に、誘惑が上乗せする形になり、力が合わさって増幅し、制御不能な力となってしまい、罪を犯してしまうのです。
地震による津波、台風などによる高潮の被害を増大させるのは、満潮のとき、特に大潮と重なる時だそうですが、いとも簡単に護岸を乗り越え、壊滅的な被害を及ぼします。
河川の氾濫も、自然災害の部分もありますが、人災の部分もあり、流木の除去、浚渫して川底を深くしておけば、増水にも耐え、被害を最小限に押さえる事が出来るそうです。
罪も似たような感じがいたします。
日頃の心の吟味が、罪の告白が、神様との関係の修復、維持が、罪の誘惑に対して、イザと言う時に大きな違いとなって現れるのです。
11節に戻って
6:11 地は、神の前に堕落し、地は、暴虐で満ちていた。
「堕落」は「乱れて」と訳せますが、時に「腐敗」と訳すほうが適切かも知れません。
「腐敗」の意味で理解すると、その深刻さが理解し易いのではないでしょうか。
堕ちたモノは、落ちたモノは、浮かび上がらせ、持ち上げ、乱れたモノは、整える事が出来ましょうが、腐敗したモノは、手の施しようがありません、回復の見込みはありません。
処分するしか、捨てるしかありません。
「暴虐」は「暴力」よりもより深刻です。
高圧的なやり方、人権、権利を蹂躙したやり方です。
ここでは「暴虐」と訳されていますが、常に暴力的な状態を現す訳ではなく、
エゼキエル書8章17節
「8:17 この方は私に仰せられた。「人の子よ。あなたはこれを見たか。ユダの家にとって、彼らがここでしているような忌みきらうべきことをするのは、ささいなことだろうか。彼らはこの地を暴虐で満たし、わたしの怒りをいっそう駆り立てている。見よ。彼らはぶどうのつるを自分たちの鼻にさしている。」
と、ユダの民が偶像礼拝にふける様子を指し示し、
エゼキエル書28章16節
「28:16 あなたの商いが繁盛すると、あなたのうちに暴虐が満ち、あなたは罪を犯した。そこで、わたしはあなたを汚れたものとして神の山から追い出し、守護者ケルブが火の石の間からあなたを消えうせさせた。」
と、ツロの商人の不正な商いを指し示し、
マラキ書2章15節
「2:15 神は人を一体に造られたのではないか。彼には、霊の残りがある。その一体の人は何を求めるのか。神の子孫ではないか。あなたがたは、あなたがたの霊に注意せよ。あなたの若い時の妻を裏切ってはならない。」
と、ここでは、直接「暴虐」の単語はありませんが、妻への「裏切り」こそは「暴虐」行為であり、神様が忌み嫌われる事である事を示します。
これらの「堕落」「暴虐」が極限に達していたのです。
聖い神様はこんな事には耐えられないのです、我慢ならないのです、
見過ごしには出来ないのです、放置出来ないのです。
人間の使命は「神の御こころ」に従って、「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ」でしたが、人間の罪から発した「堕落」「暴虐」が「生み、ふえ、地を満たし、地を従え」てしまったのです。
6:12 神が地をご覧になると、実に、それは、堕落していた。すべての肉なるものが、地上でその道を乱していたからである。
「堕落」「暴虐」は人間関係を破壊する罪悪ですが、根本の問題は、「堕落」「暴虐」は神様に対する悪であり、神様への挑戦である、と言う事です。
「暴虐」を与えた側と、受けた側との問題ではなく、神様との関係において取り扱われ、裁かれる問題なのです。
何故ならば、人間は神様に似せて造られており、神様の形に造られているので、人間に対する「暴虐」は、神様に対する「暴虐」であり、人間に対する不当な挑戦は、神様に対する不遜な挑戦であるからなのです。
6:13 そこで、神はノアに仰せられた。「すべての肉なるものの終わりが、わたしの前に来ている。地は、彼らのゆえに、暴虐で満ちているからだ。それで今わたしは、彼らを地とともに滅ぼそうとしている。
13節の記述は、地上の習慣を意識した比喩的表現でしょう。
地上では、様々な法律が実行される時、その内容が王様に提示され、吟味され、王様の署名を得てから法律として発効しますが、その手続きを想起させる記述です。
結論が上げられ、理由が述べられ、結論に至る経緯が示されているのです。
この洪水物語、裁き物語の中心思想は、強調点は、「堕落」「暴虐」は裁きを招く、滅びに至る要因、原因である一方で、裁きと滅びの中でも、正しい者のために救いが備えられている事を教えるのです。
6:14 あなたは自分のために、ゴフェルの木の箱舟を造りなさい。箱舟に部屋を作り、内と外とを木のやにで塗りなさい。
6:15 それを次のようにして造りなさい。箱舟の長さは三百キュビト。その幅は五十キュビト。その高さは三十キュビト。
6:16 箱舟に天窓を作り、上部から一キュビト以内にそれを仕上げなさい。また、箱舟の戸口をその側面に設け、一階と二階と三階にそれを作りなさい。
「ゴフェルの木」の「ゴフェル」の正確な意味は不明です。
口語訳聖書では「糸杉」と訳していますが、ユダヤ人にとっては馴染みの深い樹であり、簡単に手に入る樹であり、特別な樹ではなかったようです。
「やにで塗りなさい」の「やに」を新共同訳聖書では「タール」と訳し、口語訳聖書では「アスファルト」と訳しています。
植物油脂か、鉱物油脂かの違いはありますが、防水効果、防腐効果を期待しての作業である事に違いはありません。
人間は漁業も手がけていたでしょうから、舟造りは初めての事ではなかったでしょう。
材料の知恵も、補強の知恵も、防水、防腐の知恵も経験から得ていたと思いますが、しかし、今回造る事を命じられた舟は「長さは三百キュビト。その幅は五十キュビト。その高さは三十キュビト」の舟です。
一キュビトは、凡そ45cmと考えられていますから、「長さは135m。その幅は22.5m。その高さは13.5m」です。
巨大な舟であり、今までに得た知恵や経験は通用しません。
入手可能な材料、充分用意できる材料、扱い易い材料、最適な材料として「ゴフェルの木」を指定し、充分な強度を無理なく得るために、小部屋を作らせ、三階建てに作らせたのです。
現代も巨大タンカーだけでなく、船は個空間で区切られ、一箇所の浸水が全体に影響しないように工夫されています。
「やに」を塗る事が命ぜられましたが、「やに」は防水効果、防腐効果だけでなく、木で造られた船には隙間が無数にありますが、葦などの水草で埋めるための接着剤として、隙間を埋め密閉効果を高めるためであり、それを内と外から確保させているのです。
「やに」が「アスファルト」であるなら、アスファルトは空気に触れると固くなる性質があり、補強効果を与えているのであり、神様の配慮には驚くばかりです。
「天窓」と訳されている単語は、ここでしか使われていないため、正確な意味は不明であり、8章6節の「窓」とは違う単語です。
口語訳聖書では「屋根」と訳しています。
「天窓」であるなら、真っ暗な船内で、唯一の明かり、希望の光であり、
「屋根」であるなら、豪雨、波からの守りであると同時に、神様との隔てであり、魚の腹の中の暗黒、墓の中の暗黒を暗示し、暗黒からの開放を期待させるのではないでしょうか。
「戸口」の位置や大きさは記されていませんが、操作性、船の強度、安全性に関わる事であり、比較的小さな戸口であったと思われますが、救いの門の小ささ、狭き門を象徴しているのではないでしょうか。
6:17 わたしは今、いのちの息あるすべての肉なるものを、天の下から滅ぼすために、地上の大水、大洪水を起こそうとしている。地上のすべてのものは死に絶えなければならない。
神様の裁きの凄まじさを現し、神様は目的を必ず果たされる事の強調を確認する記述となっています。
「わたしは今」と、変更もなく、延期もなく、確実に起こり、新解約聖書では「起こそうとしている」とやや控えめに記していますが、新共同訳聖書では「もたらし」口語訳聖書では「送って」と、確定した事柄として訳しています。
「地上のすべてのものは死に絶えなければならない」のであり、免れる生きものは皆無である事を宣言するのです。
6:18 しかし、わたしは、あなたと契約を結ぼう。あなたは、あなたの息子たち、あなたの妻、それにあなたの息子たちの妻といっしょに箱舟に入りなさい。
先に確認したように、ノアの信仰でノアの家族が救われたのではありません。
ノアの信仰が継承されたので、ノアの家族が救われたのです。
信仰継承は、完全、完璧を要求しません。
ノアの信仰を見て、父のように神様を見上げて生きよう、夫のように神様と共に生きよう、義父のように神様に寄り添って生きよう、でさえも、神様は受け入れて下さるのではないでしょうか。
ノアだって完全、完璧な信仰の持ち主ではありません。
人間は誰しも罪の性質を持っており、罪の性質はなくなりません。
罪の影響を常に受けているのであり、義と不義の間を振り子のようにふらふらしているのが現実です。
それでも、義に留まっていたい、神様と共にいたい、と願うなら、神様はそれを信仰と見做してくださり、救われるのです。
家族の救いは、私たちの切実な願いです。
中々教会には来てくれないかも知れませんが、反対しないなら、少しでも興味を示すなら、協力的であるなら、本人は自覚していないでしょうが、あなたの信仰は伝わっているのであり、継承されているのであり、淡い信仰でも救われるのであり、救いの舟に招かれているのです。
しかし、ここでも、個々人の信仰が試されます。
舟に乗るか、否かです。
父の言う事を信じられず、夫の言う事を疑い、義父の言う事を無視するなら、招かれていても舟には乗らず、滅びるしかありません。
神様はノアと契約を結びますが、契約には「本人とのみ有効な、一過性の契約」と「解約の申し出がない限り、継続され続ける契約」があります。
神様とノアの交わした契約は後者であり、「ノアを通しての、人類との契約」であり、「一人との契約が人類全体に及ぶ契約」なのです。
この契約が交わされた結果が、箱舟に入る事であり、神様から箱舟に入るよう指示を受けたのです。
箱舟に入ったのは、ノア一族が生き残るためではありません。
新しい時代への、神様との約束の担い手として一歩を踏み出した、と言う事なのです。
6:19 またすべての生き物、すべての肉なるものの中から、それぞれ二匹ずつ箱舟に連れて入り、あなたといっしょに生き残るようにしなさい。それらは、雄と雌でなければならない。
6:20 また、各種類の鳥、各種類の動物、各種類の地をはうものすべてのうち、それぞれ二匹ずつが、生き残るために、あなたのところに来なければならない。
新しい時代での備えとして、様々な動物が生き残るようにしなければなりません。
ノアの役割、使命は動物を箱舟に入れる事ですが、家族で手分けするにしても、世界中を捜しまわる余裕はありません。
ノアの、ノアの家族の役割は動物のお世話であり、小部屋にバランス良く収納する事です。
動物は、20節「あなたのところに来なければならない」のであり、神様が主体的に働いて下さって、動物自らが、ノアの所にやって来るようにしてくださったのです。
人間の役割と、神様に委ねる部分がある事を明確に教える聖句です。
6:21 あなたは、食べられるあらゆる食糧を取って、自分のところに集め、あなたとそれらの動物の食物としなさい。」
ノアにはもう一つの役割が与えられます。
それは洪水の期間、7章11節から始まり、8章14節で地が乾ききるまでの期間であり、12ヶ月と11日分の食料を確保、搬入する事です。
ノアの家族8名分と、沢山の動物の食料は、膨大な量であった事でしょう。
その膨大な食料を何処から調達したのか、その資金は。何処に保管したのか、等など、疑問出は沢山がありますが、詮索の必要も、心配も要りません。
6:22 ノアは、すべて神が命じられたとおりにし、そのように行った。
ノアは出来る事を出来る限りやったのであり、箱舟を造りながら、食料を確保し、
未完成や不足の心配は、神様に委ねたのです。
このノアの信仰に、神様が応えてくださらない訳がありません。
箱舟建造期間が何年であったかは、聖書に記されていませんが、数年掛りのプロジェクトであった事は間違いありません。
困難は次ぎから次ぎにやって来たでしょうし、妨害や嫌がらせも数え切れなかったでしょう。
時に大雨が降るにしても、地を被うような大雨になるなんて、大洪水が起こるなんて、誰が想像出来るでしょうか。
完成したら無駄だった、を否定できないのです。
でも、ノアはあり得ない状況の中で、あり得ない事を忠実に行なったのです。
神様に命じられた事を一つも違わず行なったのです。これ以上の信仰が、従順があるでしょうか。
【適応】
ノアの歴史は、三人の子が生まれた時から、大きな変化を遂げます。
500歳で子どもが生まれ、600歳で大洪水に遭遇します。
この100年の間に、子どもが成長し、信仰の担い手とされ、ノアを助ける存在となります。
しかし、決して自然に信仰の担い手とされ、ノアを助ける存在となった訳ではありません。
堕落し、暴虐で満ちた世界に子どもを委ねる親はいないでしょうが、異常の中に身を置き続けると、何時しか異常と感じられず、異常が普通になってしまいましょう。
しかし、ノアは異常を異常と感じ続け、子どもを守り、信仰の担い手、信仰継承するために、自らが神様との関係を最優先にして来たのではないでしょうか。
信仰者としての姿を、生き様で見せて来たので、息子たちは、妻は、息子の嫁たちは、堕落に、暴虐に染まらずに唯一の神様への信仰を持つに至ったのです。
そして、ノアの受けた神様からの啓示を、息子たちは我が事として受け止め、箱舟の建造と、食料の調達に奔走する訳です。自分たちの生活を確保しながら、箱舟を建造し、食料を調達する。
否、箱舟を建造し、食料を調達するために、自分たちの生活を営むのです。
神様中心の生活を営んだのです。
箱舟は一回限りの使用で、再利用はされません。
他に流用されませんし、もう無用の長物でしかありません。
ヤニで防水、防腐処理を施してあるにしても、直ぐに朽ちて行くでしょう。
ノアの功績、大洪水の事実を証言するモノは直ぐに消えてしまうのです。
そんな、儚い物のために一生を献げるのです。
箱舟建造の設備、重機がある訳ではありませんから、全て人力です。
木を切り出すのも、運ぶのも、加工するのも、組み立てるのも。
しかも、ノアの家族のみで、巨大な箱舟を建造しなければなりません。
そのために何年も何年もかけた、と言うより、何年も掛るしかなかったのです。
100年以上かけたとの説がありますが、膨大な資金を投入し、汗水流して日夜働き、揶揄や誹謗中傷に耐えたのです。
誰にも理解されず、助けてあげた、生き残った動物に感謝される事もなく、ブーブー、メーメー、モォーモォー鳴くだけで手伝ってくれる訳ではありません。
生き残るのはノアの一族だけですから誰からの称賛を期待出来ませんし、期待しません。
唯々、神様に忠実であったのみなのです。
ノアの生涯、歴史は、私たちにキリスト者の生き様を示し、教えます。
誰からも理解されず、称賛も受けず、何やかや言われるだけ、悪口雑言を浴びるだけ。協力者もいない。
でも、それに耐え、神様に従い、神様と共に歩むなら、神様からの報いは大きく、
本人も、家族も救いに与るのです。
あなたの歴史は神様中心の歴史でしょうか。
あなたに委ねられた箱舟は何でしょうか。
その姿が、家族に伝わっているでしょうか。
家族が大なり小なり、影響を受けているでしょうか。
無駄とも思えるような働きを理解し、協力してくれるでしょうか。
それは次世代に信仰を継承する貴重な働きであり、そのために私たちは召されているのです。
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聖書箇所:創世記6:1~8 2014-9-7礼拝
説教題:「悪の増大に心を痛める神様」
【導入】
エデンの園から、楽園から、神様の庇護から追放されたアダムとエバ。
アダムとエバは、眼の前に広がる荒地を前にして、前途に待つ苦労に立ち竦み、方に暮れたと思います。
しかし、何時までも立ち竦んではいられません。
アダムとエバの夫婦は自然の脅威と戦い、猛獣の恐怖と戦いながら、茨とアザミの生い茂る荒地を開拓し、開墾し、畑を作り植物を育て、牧草地を作り牧畜を始めました。
額に汗を流し、手に豆を作り、足腰、全身の筋肉痛、疲労と怪我。
苦労も多かったですが、神様と完全に断絶した訳ではなく、神様からの祝福が全く途絶えてしまった訳ではありません。
猛獣の暗躍する闇夜でも、吹きすさぶ風、容赦なく叩きつける雨の中でも、神様の守りはあり続け、致命的な危機とはなりませんでした。
毎日を厳しい環境、辛い状況の中で過ごすのであり、毎日毎日、厳しい労働が繰り返されるのですが、幾ばくかの憩いも与えられ、祝福の一つである子どもが与えられ、二人も与えられ、仲睦まじい家庭が築かれたのです。
苦労を分かち合う、楽しみを分かち合う、助け合う、慰め合う、支え合う人が与えられているのは本当に素晴らしい事であり、美しい事であり、神様から与えられている祝福ですが、時に、麗しい関係にサタンが入り込み、美しい関係を破壊しようと暗躍します。
世の中、仲睦まじい兄弟関係、親子関係、親戚関係ばかりではありません。
「兄弟は他人の始まり」等と申しますが、兄弟間の争い、親子間の争い、親族の争いは、血の繋がりがある所為か、時に凄まじい物があります。
その根底にあるのはアダムとエバが犯した「罪」です。
罪は不満を温床として、妬みを芽生えさせ、憎しみを実らせ、争いを引き起こし、両者を破滅へと誘うのです。
罪は全く抗(あらが)い得ない、太刀打ち出来ない、強力無比な力ではありません。
罪は次々に新しい芽を出して来るでしょうが、罪の最初はどれも小さな芽であり、誰もが制し得るものであり、消滅させる事が出来るのです。
神様が仰られた通りであり、肥料を与えなければ、成長させなければ、枯れてしまいます。
しかし、完全には枯れてくれないのが根っこである「罪」の凄さ、強(したた)かさでしょう。
芽は枯れますが、根は枯れてはいないのです。
芽が枯れた事に安心していると、根は何時の間にか息を吹き返し、芽を出させ、思わぬ成長を遂げており、侮れない物になっている事もあるのです。
カインは神様の忠告を受けながら、励ましを受けながら、芽を摘まなかったので、実を結ばせてしまい、殺人を犯してしまったのでした。
殺人を犯したカインは放浪の身となり、両親の下を離れ、自力で社会を作り上げて行きました。
この事件の後、神様はアダムとエバの夫婦にセツを与えられ、セツもまた一つの社会を作り上げたのです。
カインの子孫が作り上げた社会と、セツの子孫が作り上げた社会は、其々に大きくなって行き、拡大し、分散し、を繰り返し現代にまで続いている訳ですが、
今日の聖書の個所は、その最初の拡大の過渡期の出来事です。
【本論】
6:1 さて、人が地上にふえ始め、彼らに娘たちが生まれたとき、
地上に人が増える事は神様の命令であり、願いであり、そのために子孫が与えられるのですから歓迎すべき事です。
創世記1章28節
「1:28 神はまた、彼らを祝福し、このように神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」」
「生めよ。ふえよ。地を満たせ」と言う「命令」を受けたのですから、与えられたのですから、可能な限り子を産み、育て、増え広がらなければなりません。
どんどん支配圏を拡大させ、神様が造られた世界を、造られた目的に従って生き生きと発展させるお世話をしなければならないのですから、子孫を産み、増えなければならず、一所に留まっていてはならないのです。
しかし、人間は保守的であり、変化を嫌う傾向があります。
この傾向も罪の結果でしょうが、増え広がるに際しても問題が起こります。
増え広がる事は、神様の御旨なのですが、人間に罪が入ったために、神様の御旨は正しく行なわれず、誰かが増え広げた所を、即ち、苦労して開拓、開墾した所を強奪、搾取、侵略するようになって行ってしまいました。
現代の地域紛争、国境問題、領土問題の根っこの一つはここにあるのでしょう。
国際問題について語るのは別の機会に譲る事にして、最初は小人数であって、外部との交流、接触は少なかったでしょうが、増え広がるにつれて、近隣の集落とも、頻繁に接触、交流が始まり、摩擦や軋轢も多発する事でしょう。
そこから身近な問題が、性的問題が起こります。
6:2 神の子らは、人の娘たちが、いかにも美しいのを見て、その中から好きな者を選んで、自分たちの妻とした。
「神の子ら」「人の娘たち」と記されていますが、この部分の解釈には諸説あります。
「神の子ら」をセツの子孫たち「人の娘たち」をカインの子孫たち、と解釈する説や、「神の子ら」を文字通りの神の子、或いは御使い、天使、半神半人のような存在、「人の娘たち」を文字通り、人間の子、と解釈する説などです。
確実な肯定の根拠、否定の根拠は見出せず、天国に召された時に、イエス様に尋ねなければなりませんが、カインの子孫「人の娘たち」のみならず、セツの子孫「神の子ら」にも罪の性質は引き継がれているのであり、「神の子ら」の子孫からも、神様を横に置き、神様を無視、軽視する人々、欲望のままに生きる人々、罪の誘うままに生きる人々、自分たちの力、知恵で生きようとする人々、が現れるのであり、「人の娘たち」の子孫からも、神様を信じ、神様に従う人々、自分の考えよりも神様に聴き従う人々、神様と共に生きる事を願う人々、が現れるのですから「神の子ら」をセツの子孫、「人の娘たち」をカインの子孫と区別、断定すべきではありません。
また「神の子ら」を文字通りの神の子、或いは御使い、天使との解釈には無理があります。
神の子はイエス様、唯お独りですから、「神の子」との解釈は採用出来ません。
御使い、天使との解釈にも問題があります。
イエス様がマルコの福音書12章25節で「人が死人の中からよみがえるときには、めとることも、とつぐこともなく、天の御使いたちのようです」と仰っているように、御使いは娶る事も嫁ぐ事もないのですから、「神の子ら」を御使い、天使、半神半人と解釈すべきではありません。
イエス様はマタイの福音書4章3節で
「平和をつくる者は幸いです。その人は神の子どもと呼ばれるからです」と仰られ、
ヨハネはヨハネの福音書1章12節で
「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった」と証言し、
パウロもローマ人への手紙8章14節で
「神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです」と宣ベ伝えたのです。
これらのイエス様の御言葉から、ヨハネやパウロの証言から、「神の子ら」を、神様を信じ、神様に従う人々、自分の考えよりも神様に聴き従う人々、神様と共に生きる事を願う人々、「人の娘たち」を、神様を横に置き、神様を無視、軽視する人々、欲望のままに生きる人々、罪の誘うままに生きる人々、自分たちの力、知恵で生きようとする人々、と解釈するのが順当ではないでしょうか。
「神の子らは、人の娘たちが、いかにも美しいのを見て、その中から好きな者を選んで、自分たちの妻とした」と記されていますが、これは、神様に聴き従「神の子」と呼ばれる人々の中から、神様の導きではなく、自分の好みで、結婚と言う一生の問題を決定する事が当たり前になって来ている事実を記しているのです。「神の子」の俗化です。
「神の子」と言う高貴な称号を与えられていながら、この世に同化し、この世の価値観、この世の風習、この世の関係に染まって行ってしまったのです。
しかも「自分の」妻ではなく、「自分たちの妻」であり、「妻」は「女性」の意味もあり、しかも複数です。
因みに「妻」と訳されているヘブル語は創世記2章23節の「これこそ、今や、私の骨からの骨、私の肉からの肉。これを女と名づけよう。これは男から取られたのだから」の「女」と同じヘブル語の複数形です。
これらを合わせて読む時「妻たち、女性たち」を「私たち」が共有していた事実、欲望の趣くままの淫らな性的関係が堂々と行なわれていた事実を付きつけるのです。
結婚は、神様が定められた制度であり、尊重し、死守しなければならない事であるのに、神の子たちまでもが、悪に汚染されていたのです。
その汚染は性的関係に留まらず、6章5節に繋がるのです。
「神の霊、神の息吹」は神様の御こころを行なう、神様に従順な人間の中にこそ、住まい、人間の本来の目的、即ち、被造物の全てが神の栄光を現すよう、お世話、お手伝い、支配するべく、手助けしてくださるのであり、目的を逸した人間に「神の霊、神の息吹」は相応しくなく、
6:3 そこで、【主】は、「わたしの霊は、永久には人のうちにとどまらないであろう。それは人が肉にすぎないからだ。それで人の齢は、百二十年にしよう」と仰せられた。
「肉に過ぎない」の意味は、文字通り、土塊の意味、朽ちて行く存在の意味、死ぬべき存在でしかない事を宣言すると共に、「肉」は「霊」に対比されるものであり、罪に塗(まみ)れ、罪に汚れ、罪から抜け出せず、益々罪に陥り、正しい事を行ない得ない、悲しい存在、哀れな存在になってしまっている事を宣言しているのです。
生命を長らえても、行ないは罪に汚れ、考える事は淫らな事ばかりであるなら、罪を積み重ねないために、命を取られる事が「神様の憐れみ、祝福」であるのです。
幼いうちに、若くして命を神様にお返しするのは、悲しい事ですが、罪を積み重ねない生涯である事は、恵み、祝福なのです。
6:4 神の子らが、人の娘たちのところに入り、彼らに子どもができたころ、またその後にも、ネフィリムが地上にいた。これらは、昔の勇士であり、名のある者たちであった。
4節は前後の文脈から外れた唐突な挿入であり、違和感を覚えますが、9節以降の「洪水物語」の布石になっているのです。
即ち、「勇士」であっても、「名のある者たち」であっても、人間は土塊に過ぎず、神様の御手によって滅びる存在でしかない事を教えるのです。
「ネフィリム」の意味は不明ですが、「落ちる、戦死する、襲いかかる」に関連している、と考えられています。
背の高い種族、巨人であったそうですので、勇猛果敢な戦士であり、戦死を恐れず、襲いかかり、必ず攻め落とす、事を現しているのではないでしょうか。、
「神の子」と「人の娘たち」の子が「ネフィリム」なのではありません。
「ネフィリム」はここと、民数記13章33節にしか出て来ず、推測するにも、聖書以外の情報もなく、詳細は不明ですが、旧約聖書が記録されるに至った時にも、ユダヤ人なら容易に思い出せる種族であったので、引き合いに出されているのでしょう。
6:5 【主】は、地上に人の悪が増大し、その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾くのをご覧になった。
「人の子」の影響力は強く、浸透力は驚異的であり、見る見るうちに「神の子」も、悪に染まって行ってしまったのです。
ここで、確認したいのは「神の子」は巻き込まれて可愛そう、影響を受けてしまっただけ…ではありません。
「神の子」が影響を受けたのは、影響を受ける備えがあったからであり、影響を刎ねつける、阻止する事をしなかったからです。
神様がカインに忠告したように、警告したように、罪は制しなければならないし、制する事が出来るのです。
それなのに、制する事を怠ったのか、甘く見たのか、侮ったのかは解りませんが、
罪は「神の子」をも巻き込み、倍倍ゲーム的に、瞬く間に世界に広がって行ったのです。
一事が万事であり、罪は一度許すと、更なる要求をします。
一度目は躊躇いがちに、恐る恐る…は、直ぐに二度三度になり、段々大胆になるのです。
罪は一種類に限定されず、一箇所に留まりません。
罪はあらゆる思考、行動に影響します。
罪の影響はガンのように広く、深く、隅々にまで及ぶのです。
性の乱れは、人間の尊厳を犯すモノです。
取り替え、引き換え、誰とでも、であり、性を道具としか、相手をモノとしか見ません。
嫌になったら捨てる、気に入らなければ交換する。
尊厳を受けるべき人間の扱いが、そんな程度であるなら、動物の扱いも、植物の扱いも、物の扱いも、被造物全の扱いが雑になり、好い加減になり、適当になり、乱れに乱れて収拾がつかなくなるのは、あっという間です。
その事実は5節の後半に明確に記されています。
「心に計ることがみな」「いつも」「悪いことだけ」。
「心に思い浮かぶ事の全てが、考える事の全てが、常に、例外なく、悪い事ばかりだけで、他にはない」と言うのですから、悲惨です。
手の施しようがありません。
救いようがありません。
もう、放置しては置けません。
自浄作用には期待出来ません。
回復の見込みは全く失せてしまったのです。
6:6 それで【主】は、地上に人を造ったことを悔やみ、心を痛められた。
「悔やみ」を「後悔」の意味に解釈してはなりません。
神様は悔やむ事も、後悔される事もありません。
民数記23章19節、
「23:19 神は人間ではなく、偽りを言うことがない。人の子ではなく、悔いることがない」と記されている通りです。
神様は、人間を正しくも、悪くも、自由に考え、選択し、行なえるように造られましたが、勿論、悪い方向を選び、悪い方向に進む事を期待して造られた訳ではありません。
正しい事を考え、正しい選択をし、正しい方向に進むように、思いを込めて造られたのであり、人間と約束を交わし、幾度となく導きを与え、悔い改めを迫ったのです。
しかし、人間の横暴な行ない、無分別な行ない、破廉恥な行ないは、改められる事はなく、益々、堕落は加速の度を増して行ったのです。
期待に応えない、応えようともしない人間にがっかりし、心を痛められたのです。
6:7 そして【主】は仰せられた。「わたしが創造した人を地の面から消し去ろう。人をはじめ、家畜やはうもの、空の鳥に至るまで。わたしは、これらを造ったことを残念に思うからだ。」
ここに神様の審判が決定し、宣言される訳です。
家畜やはうもの、空の鳥は、飛んだ災難に巻き込まれる事になってしまった訳ですが、人間の支配権は、被造物の全ての、隅々にまで及んでいるのであり、人間の罪の影響も、被造物の全ての、隅々にまで及んでいるのであり、免れるモノは一つもなく、全てが人間の罪の故に「消し去」られる事になってしまったのです。
何の責任もない被造物ですが、人間の支配下にあったがために巻き込まれてしまったのですから、人間の責任が如何に重く、大切であり、期待されていたかを物語っているのです。
一人一人の言動は、個々人の責任に留まらず、全てに影響するのです。
良くも、悪くもです。
「消し去ろう」は「滅ぼす」の意味よりも「拭い去る」の意味で理解するのが良いかと思います。
「良いモノ」から「悪いモノ」を取り去る、拭い去るの意味であり、「聖める」の意味に転化させる時、神様の審判には新しい意味が生まれるのではないでしょうか。
裁きは終焉ではなく、新しいスタートなのです。
私たちは何かを決定しても「とことん」「徹底的に」「完全に」は中々出来ません。
中途半端であり、妥協的です。
しかし、神様が事を行なわれる時は、完璧であり、創造に際しても「非常に良かった」のであり、「消し去ろう」時にも「完全に」なのです。
神様が悪を取り扱われる時の典型的なやり方です。
中途半端な方策は採られません。
しかし、被造物の全てが「消し去」られると言う、過酷な宣告の中で、一縷の望みが紹介されます。
6:8 しかし、ノアは、【主】の心にかなっていた。
「【主】の心にかなっていた」を、 新共同訳聖書は「主の好意を得た」と訳し、
口語訳聖書は「主の前に恵みを得た」と訳し、人間の側の行為の結果であると理解するのではなく、神様の恵みを強調する訳になっています。
ノアは、行為において「義人」であり、心において「全ったき人」であり、生活において「神様と共に歩んだ人」ですが、神様の恵みによって為し得たのであり、救われる事もまた、神様の恵みである事を教えています。
ノアは、暗黒の社会の中にもなお、正しく生きる人がいた、事を教える存在ではなく、消極的な意味ではなく、神様に背いて尚、生きる事は絶対に不可能である事の印であり、正しい人を見過ごしにはなさらない、否、恵みを施さずには、憐れみを注がずにはいられない積極的な関わりを教えます。
それは強調して強調し過ぎる事はありません。
【適応】
神様の御こころは、悪人、罪人が滅びる事ではなく、悪人、罪人を消し去る事でも、悪人、罪人を取り除く事でもありません。
神様の御こころは、悪人、罪人が神様の恵み、憐れみに気付く事であり、悪人、罪人が悔い改める事であり、悪人、罪人が聖められて神様と共に歩む事です。
ノアは義人に数えられますが、完璧、完全、無欠であった訳ではありません。
失敗もしたでしょうし、神様に相応しくない事も皆無ではなかったでしょう。
自由奔放に生きる人たちを見て、好き勝手に生きる人たちを見て、時に羨ましく思ったかも知れません。
しかし、直ぐに、悔い改め、そんな考えを振り払い、払い除け、近づいたら蹴散らし、近づかないように注意を払い、遠回りをしたのではないでしょうか。
義人の一人に「ヨブ」が上げられましょうが、ヨブは勧善懲悪、良い事をすれば良い報いがあり、悪い事、不幸が起こるのは悪い事を行なったからだと考えていました。
だから身に降りかかった不幸の意味が理解出来ずに悩み、神様に愚痴を零すに至ったのです。
現実の世界で身に降りかかる幸不幸の意味を考えるのではなく、その原因を探るのでもなく、呟かず、幸不幸を詮索するよりも、神様の臨在、憐れみ、恵みに気付くべきであり、神様がこの世界を支配しておられ、人間には知らされていない摂理がある事を知り、神様と共に歩む事を教えられ、健康も、家族も、友人も、財産も取り戻し得たのです。
神様は造られた全てのものが、神様と共に歩む事を願っておられるのであり、悪人、罪人の存在自体よりも、悪人、罪人が悔い改めない事に、悪と罪が止めど無く広がって行く事に、悪と罪に善人が感化し、巻き込まれて行く事を悲しまれ、心を痛めていらっしゃるのです。
逆に悪や罪が蔓延る社会の中でも、ノアのような存在は神様をお喜ばせし、「消し去ろう」とのご計画を延期され、止められるでしょうし、ノアのような人物には目をかけ、特別に扱われ、あらゆる艱難から救い出してくださるでしょう。
私たちは、神様のお心を痛める存在でしょうか、
失敗をしながらも、罪を犯しながらも、神様から離れず、神様と共に歩み、悔い改めて、神様をお喜ばせする存在でしょうか。
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