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聖書箇所:創世記91829                 2015-1-25礼拝

説教題:「ノアの醜態をおおう

【導入】

創世記611節、

6:11 地は、神の前に堕落し、地は、暴虐で満ちていた。

6:12 神が地をご覧になると、実に、それは、堕落していた。すべての肉なるものが、地上でその道を乱していたからである。

しかし、9

6:9 ノアは、正しい人であって、その時代にあっても、全き人であった。ノアは神とともに歩んだ。

神様を顧みず、無視し、自分勝手に生きる、欲望のままに生きる、他人の権利を踏みにじる、命を軽んじる時代にあって、ノアは不正に関わらない、暴虐を行なわない、高潔な人物であり、「神とともに歩」む人物であり、神様から「正しい人、全き人」と評価されましたが、決してノアの内に罪の性質がなかった訳では、完全無欠であった訳ではありません。

アダムとエバから引き継いだ罪の性質「原罪」はノアの内にも厳然としてあったのであり、罪の影響を全く受けなかったのではありません。

ノアの内では、義に親しみ、義を行なおうとする思い、神様と共に歩もうとする思いと、

罪と妥協し、罪を行なおうとする思い、神様を離れようとする思いとが、絶えず戦っていたのであり、義と罪が拮抗する中で、神様の助けをいただいて、辛うじて、不正や暴虐に関わらず、罪を犯さずに歩み、滅びに転落せずに済んだのです。

神様に選ばれて、大洪水の災禍から救われ、神様に招かれて、祝福を受け、神様の立てられた契約に入れられて、再生の歩みを踏み出したノアとノアの息子たちですが、先に述べたように、ノアにも罪の性質は引き継がれているのであり、ノアの息子たちにも罪の性質は引き継がれています。

引き継がれる罪の大きさ、深刻さ、影響力は、段々薄まる、小さくなる、弱くなる性質の物ではありません。

父から半分、0.5、母から半分、0.5、合わさって全部、1になるのであり、複製、合成されて、罪は子々孫々へと引き継がれて行くのです。

罪の性質が表面化するか、沈静化するかは、神様との関係次第であり、神様との関係が正常、濃密であれば、罪は出ようにも出る事が出来ず、罪が無いように、消えたようにさえ思えるでしょうが、神様との関係が希薄、脆弱になれば、罪の性質は強く、大きく、濃く現れるでしょう。

神様との関係は、日々のデボーションや聖書通読と、毎週の礼拝で養われる、維持されるものであり、何もせずにいては、衰える、希薄になる一方であり、自然に養われ、維持される事はありません。

また、日々神様と共に歩んでいても、油断は禁物であり、罪は隙を突いて、弱い所を、弱い部分を攻撃してきます。

【本論】

9:18 箱舟から出て来たノアの息子たちは、セム、ハム、ヤペテであった。ハムはカナンの父である。

9:19 この三人がノアの息子で、彼らから全世界の民は分かれ出た。

18節にノアの息子たちの名前が記されています。

ノアの息子は「セム、ハム、ヤペテ」の三人であり、何故か「ハムはカナンの父である」と、ハムの息子にまで言及されています。

ノアの三人の息子の家系は10章に詳細に記されていますから、ここに記す必要は無かろうかと思いますが、カナン」は人類の歴史を紡ぐに当り、重要な、しかも不名誉な役割りを担う事となるので、ここに記して、20節以降の出来事の布石としているのでしょう。

現在、世界には約63億の人々が生きていますが、人種も、民族も、国も、言語も、様々な宗教も、文化も、習俗も、慣習も、伝統も、全て、この三人から分かれ出て、分散、拡散して行ったのです。

分散、拡散に至る顛末に付いては、11章で学ぶ事にしましょう。

9:20 さて、ノアは、ぶどう畑を作り始めた農夫であった。

20節は、このまま読むと、ノアがブドウ栽培の創始者である事を宣言、証言しているように受け取る事が出来ますが、「ノアは農夫であり、ブドウ畑を作り始めた」と訳す事も出来ます。

大洪水前にもブドウ栽培は盛んであった。

しかし、大洪水によって全ての農耕、牧畜が“0”になってしまい、ノアは手始めに、経験のあったブドウ栽培からやり直す事にした、と言う事なのではないでしょうか。

神様からの祝福は「パンとぶどう酒」に代表されますが、それはそのまま、農耕の祝福であり「麦とブドウ」に言い換える事が出来ます。

ざっくり申し上げて、雨季の農作物が「麦」であり、

乾季の農作物が「ブドウ」であり、年間を通しての農耕の祝福を「麦とブドウ」で現します。

ブドウは、そのまま食べて良く、乾燥させて保存食に出来、醗酵させてぶどう酒や酢を作り、飲むに良く、料理用にも活用出来る、大変有用な、食生活を豊かにする農作物である事は説明するまでもない事でしょう。

しかし、有用な物も、用い方次第で問題が生じる事が少なくありません。

神様による創造直後の世界は、自然は、植物は、動物は、非常に良かった、非の打ち所がなかったのですが、人間の罪により、世界は、自然は、植物は、動物は、罪の影響下に置かれ、害を及ぼすモノが現れ、良い影響ばかりではなく、悪しき影響も起す事になってしまいました。

適度に収穫し、適度に飲食するのでは飽き足らず、貪るようになってしまったのです。

全体も、個々のモノも、バランスを保てなくなってしまった、と言い替えて良いのかも知れません。

本来は良いモノなのに、制限をわきまえる事が出来ずに、悪しき影響が強く出るようになってしまった、悪しき影響が顕著になってしまったのです。

決してブドウ栽培や、ぶどう酒造り、ぶどう酒が悪い訳ではありません。

麦を発酵させればビールが出来ますし、米を発酵させれば日本酒が出来ます。

林檎やバナナ等の果物からも、トウモロコシ等の穀類からも、芋類からも、砂糖黍からも、お酒は造れるのであり、林檎やバナナ、トウモロコシ、芋、砂糖黍が悪い訳ではありません。

精製したアルコールは消毒にも、燃料としても活用できます。

飲酒を奨励する意志は全くありませんが、テモテへの手紙第一523節に記されているように、胃のために、度々起こる病気のためにも、少量のぶどう酒」は有用なのであり、

効用は認めなければなりません。

しかし、飲み過ぎて、前後不覚になってしまっては問題ですが、

9:21 ノアはぶどう酒を飲んで酔い、天幕の中で裸になっていた。

のです。

裸になっていた」は、直訳するなら「自分自身を裸にした」であり、また「」は婉曲(えんきょく)的表現であり、「陰部、性器」の意味ですから、「自分自身の陰部を曝け出していた」と訳せるのです。

ぶどう酒に酔って、正気を失った結果、自らを制御出来なくなって、全裸で寝込んでしまい、とんだ醜態を曝け出す事となってしまったのです。

何が理由で、前後不覚になる程ぶどう酒を飲む事になってしまったのかを、聖書は記していません。

辛い畑仕事であった、辛さを忘れるために飲み過ぎたのかも知れません。

家庭に問題が起こって、悩んでいたため、飲み過ぎたのかも知れません。

或いは、とても楽しい事、何か良い事があって、気分が良くて、飲み過ぎてしまったのかも知れません。

何かしら、同情できる理由があったのかも知れませんが、同意は出来ません。

辛さも、悩みも、問題も、アルコールでは解決出来ません。

埋める事は出来ません。

忘れる事も出来ません。

一時は忘れる事が出来るかも知れませんし、先延ばしには出来るでしょうが、返って、問題を拗らせ、難しくするだけなのではないでしょうか。

アルコールで満たすのではなく、神様に満たして頂かなくてはなりません。

アルコールで忘れるのではなく、神様に解決して頂かなくてはなりません。

ノアの醜態は、ノア自身で収まらず、波紋を広げ、周囲の人々を巻き込む事になります。

ハムの躓きとなり、ハムに罪を犯させる事になってしまうのです。

9:22 カナンの父ハムは、父の裸を見て、外にいるふたりの兄弟に告げた。

見て」と訳されている語は、たまたま見かけた、目にした、の意味ではなく、「注視する、じっと見る、凝視する」の意味であり、告げた」と訳されている語も、ありのままの事実を客観的に告げたの意味ではありません。

軽々しく告げた、吹聴した、言いふらした、の意味であり、父ノアの醜態を目にしても、適切な処置もせずに、そのまま放置し、恥ずかし気もなく、吹聴して廻った、と言う事なのです。

それは、父に対する不敬であり、十戒の第五戒「あなたの父と母を敬え」に抵触する行為である事は明らかです。

また、マタイの福音書528節に、

5:28 しかし、わたしはあなたがたに言います。だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです。」と記されている通りに、見るべきでないものを、まじまじと眺める行為は誉められた事ではなく、十戒の第七戒「あなたは姦淫してはならない」に抵触するのではないでしょうか。

この時点で、十戒は明文化されてはいませんが、大洪水を経験したノアたちは、何が神様の悲しまれる事であるか、何が神様の嫌われる行為が何かを知っていたのであり、十戒の言わんとする所は承知していたのではないでしょうか。

それなのに、ハムは十戒の主旨に反する事を行なってしまったのです。

ノアの醜態は、ノアに止まらず、ハムにまで影響を及ぼし、ハムに躓きを与える事になってしまったのです。

ハムの告げた事を聞いた兄弟の反応は如何だったのでしょうか

9:23 それでセムとヤペテは着物を取って、自分たちふたりの肩に掛け、うしろ向きに歩いて行って、父の裸をおおった。彼らは顔をそむけて、父の裸を見なかった。

ハムの対応と、セムとヤペテの対応は幾つかの点で対照的であり、何が望ましく、また、取るべき行動であるかを教えます。

一は、「無言」であった事です。

恥ずかし気もなく、騒ぎ立て、父の醜態を吹聴するハム。

比べて、終始無言で、父の醜態を被うセムとヤペテ。

この無言には、ハムへの叱責が込められているのではないでしょうか。

父の醜態は騒ぎ立てる類の事ではない、吹聴すべき事ではない、

父の尊厳を守らなければならない、醜態を被わなければならないのです。

二に、「見なかった」事です。

セムとヤペテは「顔をそむけて」「うしろ向きに歩いて行って」決して父の裸を見なかったのです。

凝視したハムとは大違いです。

見るチャンスがあっても見ない、聴くチャンスがあっても聴かない、話すチャンスがあっても話さない、関わる事があっても、必要以上には関わらない、のがベストな対応なのではないでしょうか。

三に、「裸をおおった」事です。

セムとヤペテは父の裸を被いました。

それは、泥酔という予想外の姿に、父の弱さを目撃し、父の弱さを庇おうとする、守ろうとする家族の責任、愛の表現なのではないでしょうか。

父の裸を被う事は、それ以上に問題を大きくしないための配慮であり、自分たちは勿論の事、他の人々を躓かせないための配慮であり、混乱に巻き込まれないようにした事、引き込まれないようにした事です。

18節でハムの息子に言及されていますが、セムにもヤペテにも息子たちがいたのであり、

孫たちが見ないように、騒ぎが広がらないようにしたのです。

罪の拡大、拡散を防いだ事は、称賛すべき行動なのではないでしょうか。

9:24 ノアが酔いからさめ、末の息子が自分にしたことを知って、

9:25 言った。「のろわれよ。カナン。兄弟たちのしもべらのしもべとなれ。」

9:26 また言った。「ほめたたえよ。セムの神、主を。カナンは彼らのしもべとなれ。

9:27 神がヤペテを広げ、セムの天幕に住まわせるように。カナンは彼らのしもべとなれ。」

ここで「末の息子」が誰を指しているのかが、謎であり、また何故、ハムが呪われるのではなく、ハムの息子のカナンが呪われるのかは不思議です。

先ず、24節の「末の息子」ですが、文脈から判断して「ハム」と考えるのが妥当でしょうが、918節に記されているノアの息子の名前の順序「セム、ハム、ヤペテ」は、関係するヘブル語文法から判断して、そのまま誕生順と考える事も出来るのですが、

例外も在り、決定する事は出来ません。

ハム」は「末の息子」なのか、否なのか。

この「末の」と訳されているヘブル語の直訳は「小さい、年少の」或いは「若き」であり、必ずしも「末の息子」を指してはいないので、また人格的に未熟な者、役に立たない者を意味する事もあるので、問題を起した「ハム」と考えても問題とはならないでしょう。

しかし「末の息子」と訳したからには理由があるはずです。

そして、その理由は、何故カナンが呪われるのか、に関連してきます。

末の息子」が「カナン」である理由について見てみましょう。

106節にハムの息子たちの名前が列挙されています。

10:6 ハムの子孫はクシュ、ミツライム、プテ、カナン。

とハムの末の息子は「カナン」なので、そして、「息子」と訳されているヘブル語には「子、孫、子孫」の意味があり、文脈で訳し分けますから24節の「末の息子」は「末の孫」の意味となり、「カナン」を指し示す可能性がある事になります。

言葉の矛盾は解消しますが、では何故「カナン」が呪われるのでしょうか。

ここで、重要なのは、カナンがハムの相続者である事で、ハムとカナンが同等に見られている事、同罪である事を強調している事なのです。

クリスチャンは、信仰継承を最重要課題として取り組みますが、ハムは、カナンに不信仰を継承してしまったのであり、ハムの性向をカナンが完全と言える程に引き継いでいた、同等、同罪だったと言う事なのです。

「子は親の背中を見て育つ」「親に似ぬ子は鬼子」等と申しますが、カナンはハムを見て育ち、ハムの悪いところ、即ち、淫らな性的欲望をそっくりそのまま引き継いでしまっていたのです。

カナンは後のカナン民族の祖であり、

カナン宗教、即ち、淫らな性的欲望と結び付き、倫理的に最低の宗教の祖となってしまったのであり、その兆候がノアの醜態で明らかにされたのです。

ノアは、このハムの不祥事がハムに止まらず、ハムの子孫に深く関連する事を預言的に語ったのです。

もう一つの預言は、26節のセムへの祝福と、27節のヤペテへの祝福です。

セムはアブラハム、イサク、ヤコブへと繋がり、救い主の家系へと繋がる、神様の選びの家系である事を預言し、神がヤペテを広げ」の「広げ」はヘブル語で「ヤフテ」であり「ヤペテ」との語路合せですが、ヤペテの繁栄を預言している事は明らかでしょう。

このように、神様はノアの口を通して、「祝福と呪い」を預言したのです。

神様は「祝福」か「呪い」を与えます。

勿論、猶予はありますし、反転、逆転もありますが「祝福」か「呪い」の二種類だけなのです。

「祝福」されているからと言って安心してはならず、祝福の内に留まるように、祝福を受け続けるように生きなければならず、「呪」われているからと言って悲観してはならず、絶望してはならず、悔い改め、祝福を受けられるように生きなければならないのです。

神様は祝福から呪いに移す権限をお持ちであり、呪いから祝福に移す権限をお持ちなのです。

9:28 ノアは大洪水の後、三百五十年生きた。

9:29 ノアの一生は九百五十年であった。こうして彼は死んだ。

ハムとカナンの絶望的未来はノアを悲しませたでしょうが、セムとヤペテの希望的未来は、虹の約束とあいまって、ノアの生きる希望、励みになったのではないでしょうか。

そしてそれは私たちに繋がる希望であり、祝福なのです。

【適応】

今日のテキストの中心は、ノアの醜態でもなく、ハムやヤペテの躓きでもありません。

今日のテキストの中心は、セムとヤペテの行動であり、特に23節の「おおった」です。

「おおう」は、「被う、覆う、蔽う、蓋う」等の漢字を当てますが、その意味の一つに「かばう」があります。

セムとヤペテの行動は、父の裸をおおい、父の醜態をおおい、父をかばい、父の尊厳を守った事でした。

そこに在るからと言って、凝視し続けてはならないのです。

事実であるならば、何でも言い広めて良い訳ではありません。

真実であるならば、誰に伝えて良い訳でもありません。

特に、家族にあってはおおい、かばい、隠し、守り合わなければならないのです。

身内の恥を隠す、と言った狭い料簡ではなく、家族の関係が、世の関係と同じであって良いのでしょうか。

尊敬できない父であっても、醜態を見せる父であっても、おおうのです。

家族の間では、責任を追及したり、裁くのではなく、家族は助け合い、責任を負い合い、赦し合う、受け入れ合う関係であって欲しい。

その事を、今日のテキストでは教えていないでしょうか。

旧約聖書の時代は、父権絶対の時代であり、父権は絶大です。

父に従う事が、子の勤めであり、父に逆らう事は出来ません。

父の決定に不満があっても、絶対服従です。

イサクは、自分を殺そうとするアブラハムに対して、理由も聞かず、無抵抗、無抗議で身を委ねたのです。

聖書には記されていませんが、セムもハムもヤペテも、父に全く不満がなかった訳でも、父に対して尊敬できない部分が皆無であった訳でもないでしょう。

ハムの行動は、ハムの性向も関係しているでしょうが、父に対する不満の現れ、父を尊敬出来ない思いの現れ、と判断しても、間違いではないでしょう。

そんな、尊敬できない部分があり、不満があり、不満を口に出来ない不満があり、

そんな父が大失態をやってしまったのです。

これを好機と見て、ハムは父の醜態を吹聴したのです。

言い方を変えるなら、父を攻撃したのです。

一方、それでも、セムとヤペテは父を尊敬し、父の醜態に乗じて、父を貶めようとはしなかったのです。

否、もっと積極的に、父の醜態を隠し、父の尊厳を守ったのです。

他人の醜態、失態を暴くのではなく、吹聴するのではなく、「おおう」事こそ、神様が私たちに求めている事なのではないでしょうか。

教会ではお互いを「兄弟姉妹」と呼び合いますが、その目的は、家族の関係のように庇い合い、おおい合うためではないでしょうか。

問題もなく、仲良くやっている時は勿論の事、問題が起こっても、例えギクシャクしているような関係であったとしても、「おおい」合う関係を維持する事、実践する事なのではないでしょうか。

自身では、内部では解決できない問題でも、不用意に吹聴するのではなく、信頼出来る者に相談し、最適な道を模索すべきなのではないでしょうか。

最低限の関係者のみで、解決を計るべきなのではないでしょうか。

セムとヤペテが、二人だけで解決を計ったのは、父の醜態を孫たちに、曾孫たちに見せない、知らせない配慮であり、父の尊厳を守る配慮であったのです。

最後に、この「おおう」は私たちに対する神様の行為である事を確認したいと思います。

神様は私たちの醜態や欠点を暴き立てる事をなさらず、罪を追求、咎め立てする事もなさらず、おおい隠し、おおい隠すにとどまらず、贖い、これ以上ない醜態や罪を、醜態や欠点がなかったかの如く、罪を犯さなかったかの如く見做してくださるのです。

醜態、罪を憐れみによっておおわれ、贖われた者として、兄弟姉妹の醜態や罪をおおう者として歩む時、神様は更なる祝福を注いでくださいます。

裁く通りに裁かれます。 

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聖書箇所:創世記9817               2015-1-18礼拝

説教題:「契約のしるし、虹

【導入】

私たちの「礼拝」に対するイメージは、人間の側から献げるもの、人間主体の行為のように思えましょう。

しかし、神様は人間の献げる礼拝を、献げ物を必要としている訳ではありません。

世の神観ですが、時に、神様と言いながら人間と対等な存在として描かれ、人間に従属的であり、人間の献げ物によって養われており、人間に顧みられないと困ってしまって、だから祟り、呪う、と考えます。

神様と人間は相互依存的であり、持ちつ持たれつの関係であり、神様に仕え、献げる見返りとして、人間は悪いモノ、例えば病気や災害から守られ、幸福が与えられる、願いが叶うと考えます。が、聖書はそう教えてはいません。

神様は何ら、人間を必要とはしていません。

仕えられる必要もありませんし、献げられる必要もありません。

神様は見返りで人間を祝福するのではなく、神様は人間を被造物の最高峰として造られたのであり、神様ご自身に似せて造られたのであり、それ故に愛し、慈しみ、祝福してくださっているのです。

出来不出来に関わらず、有能無能に関わらず、忠実不忠実に関わらず、謙遜傲慢に関わらず、人間を愛し、関わり続けてくださるのです。

神様に対して不遜であっても、それでも、見捨てず、切り捨てず、関係を断つ事なく神様との関係を忘れないように、使命を忘れないように、使命を果たす事が出来るための賜物を頂くために、神様の前に正しい事とは何かを、神様が嫌われる事は何かを知るために、

そして、神様が人間を罪の世界に派遣し、罪の世界にあって神様の栄光を現すために、その備えとして「礼拝」があり、「礼拝」に招いてくださり、身に余る祝福を与えてくださるのです。

「礼拝」は神様の側からの呼び掛けであり、神様からの招きであり、神様主体の行為である事は前回確認したとおりです。

事前審査が行われ、人物評価が行われ、能力検定が行われ、合格者だけが礼拝に招かれるのではなく、招かれる資格のない者が、神様に相応しくない者が招かれているのが「礼拝」なのです。

この基本姿勢は「契約」においても然りです。

通常、「契約」は相互に守るべき条項があります。

先に述べたように、世の神観では、「契約」において神様と人間とは対等であり、相互に守るべき条項がありますが、聖書の神様はそうではありません、

神様とノアたちとの契約締結の様子を見てみましょう。

【本論】

9:8 神はノアと、彼といっしょにいる息子たちに告げて仰せられた。

9:9 「さあ、わたしはわたしの契約を立てよう。あなたがたと、そしてあなたがたの後の子孫と。

9:10 また、あなたがたといっしょにいるすべての生き物と。鳥、家畜、それにあなたがたといっしょにいるすべての野の獣、箱舟から出て来たすべてのもの、地のすべての生き物と。

8節から10節で、契約者が誰なのかが明記されます。

契約者の一方は「わたし」即ち「神様」であり、他の一方は「ノアと、彼といっしょにいる息子たち」です。

ここで神様はノアと、その息子たちと契約していますが、契約は双方に信頼関係があって初めて成り立つ物です。

然るに、ノアとノアの息子たちは、決して全く罪がなかった訳ではありません。

辛うじて大洪水の災禍から免れましたが、無罪であった為に救われたのではなく、完全な義人であったために救われたのでもありません。

聖書に記されている通りに「義人はいない」からです。

確かに、エゼキエル書1414節に

14:14 たとい、そこに、ノアとダニエルとヨブの、これら三人の者がいても、彼らは自分たちの義によって自分たちのいのちを救い出すだけだ。

と記されてはいますが、これをもってノアたちを、神様の基準での「義」と断定してはなりません。

自分たちの義」と記されているように、義を追求する生涯であった人物、神様に対して従順な生涯であった人物、と理解するとよいでしょう。

ノアもダニエルもヨブも、義人とみなされたのです。

そのノアと、ノアの信仰を受け継いだノアの息子たちと、神様は契約を締結するのです。

本論に戻って、

契約を締結するのは、今、この時「ノアと、彼といっしょにいる息子たち」とですが、

あなたがたの後の子孫」とも、

あなたがたといっしょにいるすべての生き物」とも締結する契約である事が明記されています。

あなたがたといっしょにいるすべての生き物」については詳細に「鳥、家畜、野の獣、箱舟から出て来たすべてのもの、地のすべての生き物」と記されています。

即ち、契約が普遍的であり、ノアとその家族、その子孫への祝福が、共にいる全てのモノに、永続的に及ぶ事を意味しているのです。

通常の契約では、契約の及ぶ範囲を細かく限定し、契約の有効期間を明確に区切ります。

保険契約などでは、分厚い「約款」があり、読んでない、知らなかった、或いは、こうだろうと思っていた、は通用しません、

人情的には何とかしたくても、契約書に記されていないと、何にも出来ませんし、契約書に記された範囲と期間とでしか、保障対応出来ないのです。

それが契約と言うものですが、神様の契約は範囲・・・無制限、期間・・・無期限なのです。

大洪水で滅びてしまった世界に生き残ったのは、ノアの箱舟に入った人間たちと動物たちだけであり、現在の世界に満ちている人間と動物は、ノアとその息子たちの子孫たちであり、箱舟で助かった動物たちの子孫であり、この契約が現在も有効であり、従って私たちが、全ての動物が契約の当事者である事を知るのは重要です。

宗教の違い、人種の違い、民族の違い、国の違い、地域の違い、種類の違い、多い少ないの違いも関係なく、全ての生き物が、この契約の当事者なのです。

そして、神様と霊的に応答出来る人間は、被造物の最高峰として造られた人間は、契約の当事者である動物たちを代表して行動しなければならないのです。

その行動とは、神の栄光を現す事です。

さて、通常「契約」は「結ぶ」とか「交わす」と表現する行為ですが、9節には「立てる」と記されています。

即ち、この神様と被造物との契約は「結ぶ」「交わす」モノではなく、神様が一方的に「立てた」モノであり、神様のイニシチアブ、主体性、主導権を意味し、神様が契約を確立し、維持、堅持するものである事を強調しているのです。

しかも、権力保持者が、自身に有利な、不当な契約を一方的に立てた、押し付けたのではなく、天地万物の創造者が、主権を持って被造物のために立てた契約だ、と言う事なのです。

被造物のあらゆる違反行為、不作為行為、契約違反に関わらず、契約が破棄される事はなく、契約が変更される事もなく、何かの条件が付け加えられる事もないのです。

神様が主権を持って一方的に「立てられた」契約だからこそであり、神様がお持ちの属性「独立性、不変性、無限性、単一性」によって裏付けられており、

この契約の確かさを担保、保証しているのです。

9:11 わたしはあなたがたと契約を立てる。すべて肉なるものは、もはや大洪水の水では断ち切られない。もはや大洪水が地を滅ぼすようなことはない。」

11節で契約の具体的内容が語られます。

大洪水」が「」即ち「人間、鳥、家畜、野の獣、箱舟から出て来たすべてのもの、地のすべての生き物」を「断ち切ることはない、滅ぼすようなことはない」と宣言します。

11節には「大洪水」と言う単語が2回出て来ます。

最初の大洪水には冠詞が付いていますが、次の大洪水には冠詞が付いていません。

最初の「大洪水」は、「今しがた収まった、あの大洪水」の意味であり、次の「大洪水」は、「あのような大洪水」の意味でしょう。

ですから、ここで注意しておきたいのは、一般論として大洪水が起こらない事を宣言しているのではないと言う事です。

昨年も豪雨や台風による洪水の被害、高潮の被害や土石流の被害が世界各地で起こった事が報道されました。

多くの尊い人命が失われ、多大な損失を与えましたが、局地的であり、限定的であり、短期的であり、創世記6章、7章、8章に記されている大洪水の比ではないのであり、神様の裁きとしての、生き物を一掃するような大洪水は起こらないのです。

再び、創世記65

地上に人の悪が増大し、その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾く」ような状況になっても、滅ぼされる事はないのです。

否、更に状況が悪化し、悪が増え広がり、蔓延り、席巻し、世界を完全に埋め尽くしたとしても、それを理由として大洪水を起こす事は、生き物を滅ぼす事はないと宣言されたのです。

それは、私たち罪人にとってなんと大きな意味を持つ宣言でしょうか。

多くの人は、少しは正しい事を行っている、と仰られるかも知れませんし、そんなに悪い事はしていない、と仰られるでしょう。

確かにその通りです。

悪に積極的に荷担しないまでも、悪と少なからず妥協している部分がある事は否めないのではないでしょうか。

悪と血を流すまでに悪と闘ってはいないのであり、神様に信頼している、信じていると言っても、その信仰は未熟で、疑い易く、迷い易く、確立しているとは言い難く、悪との関係においても、神様との関係においても、この世に、この地上に、神様が「義」と認めるような「義人」は一人もいないのです。

しかし、神様は、義人が0でも、裁かず、滅ぼさないと宣言なされたのです。

9:12 さらに神は仰せられた。「わたしとあなたがた、およびあなたがたといっしょにいるすべての生き物との間に、わたしが代々永遠にわたって結ぶ契約のしるしは、これである。

9:13 わたしは雲の中に、わたしの虹を立てる。それはわたしと地との間の契約のしるしとなる。

9:14 わたしが地の上に雲を起こすとき、虹が雲の中に現われる。

9:15 わたしは、わたしとあなたがたとの間、およびすべて肉なる生き物との間の、わたしの契約を思い出すから、大水は、すべての肉なるものを滅ぼす大洪水とは決してならない。

契約には契約書が付き物、不可欠ですが、書面としての契約書は後代の代物であり、古代においては、石の柱を立てたり、塚を建てて、或いは山など、変らないもの、動かないものを引き合いにして、契約の変わらない事の担保、保証としましたが、神様は雨の後に現れ出る「虹」をもって契約のしるしとしたのです。

「虹」の直訳は「弓」です。

現代では日常生活で弓を使う事も、弓を見る事もないでしょうが、古代では弓は狩猟の主要な道具であり、戦いの重要な武器であり、生活と密接に関わっているものです。

雨が降って、外出できない時にも、壁に掛かっている弓を見て、雨が上がる事を期待し、大洪水とならない安心を感じたのではないでしょうか。

また、虹には手が届きませんから、変える事も、消す事も、即ち、手を加える事は出来ませんが、それが、この契約の性格をよく表わしているのです。

神様は「虹を立てる」と仰せになられましたが、契約も、そのしるしである「虹」も、神様のイニシチアブ、主体性、主導性を意味し、神様が契約を確立し、維持、堅持するものである事を強調しているのです。

虹は雨が上がった時に見られるものですが、世界中、何処ででも、誰もが見る事が出来ます。

勿論、太陽が出ている事、太陽を背にしている事など幾つかの条件がありますが、時代を超え、国境を越え、人種を越え、見る事が出来ます。

石の柱や、塚、山などであったなら、そこに行かなければ見る事は出来ませんし、壊れる事も、朽ちる事も、崩れる事もありましょう。

しかし、虹は変わる事なく架かり続け、証言し続けるのです。

「大洪水によって滅びる事はない」と。

9:16 虹が雲の中にあるとき、わたしはそれを見て、神と、すべての生き物、地上のすべて肉なるものとの間の永遠の契約を思い出そう。」

9:17 こうして神はノアに仰せられた。「これが、わたしと、地上のすべての肉なるものとの間に立てた契約のしるしである。」

16節の「わたしはそれを見て、・・・永遠の契約を思い出そう」は、神様が忘れる事の可能性を意味する言葉ではありません。

神様は被造物の事を、何時も心にかけておられる事を宣言しているのであり、神様は人間のために「虹」を架けられたのであり、人間が「虹」を見て、人間が「虹」を見る度に、神様の契約の確かさを認めるのです。

【適応】

大洪水の直後の世界は、混乱の世界であり、瓦礫や死体で溢れており、しるしとなる柱を立てても、塚を建ててもも、移動させられ、時に壊され、崩され、山さえも削られ、また忘れられる可能性がありました。

また、言葉や文字で残したとしても、言葉や文字は万能な様で、決して万能では、普遍的ではありません。

今日のテキストは、バベルでの言葉の混乱の前に起こった出来事ですが、民族や国が違えば、言葉や文字も違います。

言葉や文字が万能、共通のツールでない事は明らかです。

世界共通の契約書が必要であり、それが「虹」なのです。

契約書は大切な物であり、紛失してはなりませんから大事に保管しなければなりませんが、契約書を仕舞い込んでしまって存在自体を忘れては、契約を忘れては意味がありません。

契約の当事者が、何時でも見る事が出来つつ、決して紛失しない、でなければなりません。

その点で、誰でも、何処でも、何時でも見る事の出来る「虹」は普遍的であり、神様の契約を忘れない為に、何時でも思い出す為に、また、後世に、仲間に、他人に伝え、広めるのに、情報伝達や保存保管の選択肢がなかった時代にあって、最適なツールなのではないでしょうか。

神様の被造物に対する憐れみ、愛は「虹」に刻み込まれ、現されましたが、虹だけに神様の被造物に対する憐れみ、愛が刻み込まれているのでは、現されているのではありません。

神様が造られた自然が、太陽が、月が、星が、神様の創造の技を伝えているのであり、神様が造られた自然が人間や動物を養っているのであり、自然が神様の人間や動物に対する憐れみや愛を現し、伝えているではありませんか。

虹を見ても契約を思い出さなければ何の意味もありません。

自然を見て神様の憐れみと愛を確認しなければならないのではないでしょうか。

私たちの周りには、気を付けさえすれば、神様の憐れみと愛を現すモノが溢れているのではないでしょうか。

虹は、大洪水の後に出現した物ではありません。

大洪水以前からあった、普通の自然現象です。

しかし、神様は虹に意味を与え、私たちに示してくださったのです。

虹を、天と地との掛け橋と見る昔話があったと思いますが、虹は神様と人間、神様と動物、神様と被造物を結ぶ掛け橋なのではないでしょうか。

私たちは神様の憐れみと愛を、子に親に兄弟に、友人知人に伝えなければなりませんが、

簡単な様で中々難しい課題です。

しかし、虹を見て、自然を見て、虹をきっかけに、自然をきっかけに話題を神様に繋げて行かれては、発展させて行かれては如何でしょうか。

「虹について、聖書にはこんな話があるんだよ」と。

虹は過去の遺物ではなく、現在も有効な契約書であり、世界が大洪水によって滅ぼされる事のない保障であり、人間に対する、神様の憐れみと愛のしるしなのです。

勿論、もう裁きは起こらないとか、この世界が未来永劫に続く事を意味、保障しているのではありません。

終末は必ず来ますし、世界は必ず裁かれます。

大洪水は破滅しかもたらさず、再出発しか出来ませんでしたが、終末の裁きは、滅びと同時に、新しい世界が造られ、新しい世界が始まるのであり、再出発ではないのです。

虹を見る度に、再出発の途上にある身である事を覚え、神様の憐れみと愛の中に生かされている身である事を覚え、終末の再創造の希望に生きる者でありたいと願うものです。

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聖書箇所:創世記917               2015-1-11礼拝

説教題:「ノア家族と生き物への祝福

【導入】

2015年が始まって早くも3回目の礼拝、新年礼拝と2回の主日礼拝でありますが、「礼拝」は人間の側から献げるもの、人間主体の行為のように思えましょうが、そうではありません。

「礼拝」は神様の側からの呼び掛けであり、神様からの招きであり、神様主体の行為です。

礼拝プログラムを見ても、先ず、神様からの招きで始まり、応答讃美などが続きます。

神様の御こころ、そのものである聖書拝読があり、聖書の説き明かしである説教があり、応答讃美があり、献金へと続きます。

神様を称える頌栄があり、最後に神様からの祝祷で閉じられます。

神様が罪人である私たちを招いて下さるから教会に来る事が出来るのであり、神様に相応しくない罪人が礼拝に出席する事が出来、祝福を与えられるのです。

終始、神様主体です。

そして礼拝の中心は「聖書」であり、聖書に込められた「愛と祝福」です。

神様は人間を愛しており、人間に祝福を与えたいがために、教会に来る事を奨励し、罪人を罪から救うために、義と認めるために、そして、祝福を与るために、礼拝と呼ぶ場、教会と呼ぶ場を用意してくださったのです。

ですから礼拝や教会を人間の都合で考え、理想化してはなりません。

礼拝プログラムがお粗末でも、教会と呼ぶには貧相な、立派な建物でなくても、信徒の交わりが希薄でも、何も無くても、神様の招きが宣言され、御言葉が語られ、祝祷があれば、充分であり、立派な礼拝、素晴らしい教会なのです。

応答讃美も、説教も、献金も、言わば添え物であり、中心は御言葉と祝祷です。

それが罪人である我々に、受ける資格のない罪人に用意されているのです。

神様との契約を破り、エデンの園を追い出されたアダムとエバ、その子孫の堕落した、淫らな、暴虐に満ちた世界。

その罪の世界を裁く大洪水の直後に、再スタート、やり直しの前に、神様は罪深い人間に改めて、再度、命令を与え、祝福してくださいます。

ノアたちの再出発の様子を見てみましょう。

【本論】

9:1 それで、神はノアと、その息子たちを祝福して、彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地に満ちよ。

9:2 野の獣、空の鳥、・・地の上を動くすべてのもの・・それに海の魚、これらすべてはあなたがたを恐れておののこう。わたしはこれらをあなたがたにゆだねている。

天地万物の創造の最高峰として、神に似せて造られた人間に与えられた命令は、

創世記1章28

1:28 神はまた、彼らを祝福し、このように神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」

でした。

この命令はまだ罪を犯してはいない人間、アダムとエバに与えられたのですが、同じ命令が罪を犯した人間アダムとエバ、その子孫に与えられたのです。

神様の、人間に対する態度が基本的には変わっていない事が明らかであり、わたしはこれらをあなたがたに」との言葉を追加している事から、神様は罪を持つ人間に被造物を信任したのであり、期待、信頼に足る者と見做している事を読み取る事が出来ましょう。

神様との約束を破り、大失敗を犯しながら悔い改める事もなく、他人に責任転嫁する人間であり、徹底的な復讐を宣言し、殺人をも辞さないと豪語し、暴虐非道を勲章にするような人間であり、堕落、腐敗、倒錯した世界を悲しむ事も無く、逆に変な理解を示し、一緒になって享楽に溺れるような人間ですが、神様はそんな人間を信任し、期待し、信頼に足る者と見做してくださっているのです。

これは極めて重要な事、不思議な事ではないでしょうか。

この世の中で、犯罪、大失敗、大失態に対する評価は厳しいものであり、汚名返上、信頼回復、名誉挽回は簡単では、甘いものではありません。

誰もが、信任に足るかどうか疑心暗鬼し、期待して大丈夫かと悩み、信頼しても裏切られるのではないかと心配するのではないでしょうか。

本当に大丈夫なんですかぁ、心配だなぁ。

間違いないでしょうねぇ、意気込みだけじゃないでしょうね。

今度はちゃんとやってくださいよ、失敗は許されませんよ。

証拠を見せてください、でなければ任せられませんね。

任されたとしても、逐次的に状況を報告しなければならず、監視役が付き、定期的な監査が入るのが普通です。

そんな状態が何年も続き、実績を経て、やっと信頼を回復する訳です。

執行猶予中に罪を犯せば、失敗すれば、全て水の泡であり、二度とやり直すチャンスは与えられないでしょう。

しかし、神様は執行猶予も付けず、実績を要求せず、何の条件も付けずに、大切な自然、動植物、地球の全てを人間の支配に委ねたのです。

罪や失敗、失態は無いにこした事はありませんが、あっても、再任されるのが、神様の世界なのです。

罪や失敗、失態を不問に伏すのではなく、赦すのでもなく、神様の支配者としての権限で人間に再度信任するのであり、何度でもやり直しのチャンスが在るのであり、やり直せるのです。

しかし、決して罪や失敗、失態を問題にせず、有耶無耶にし、何時の間にか赦しているのではなく、責任はきっちり問われ、非常に厳しい処罰を受けなければなりません。

しかし、あり得ない事ですが、不思議な事ですが、人間の犯した罪、失敗や失態の責任は神様が引き受けて下さるのであり、イエス様が十字架に掛る事により、処罰を引き受けてくださり、私たちを、罪を犯さなかった者、失敗や失態をしなかった者と見做してくださるのです。

だからと言って、罪に対して無感覚になったり、罪と共存したり、意識的に罪を犯したり、罪を甘く見てはなりません。

罪に対しては鋭い感覚で察知し、徹底的に排除し、関わらないように、近づかないように、近づけないようにしなければなりませんが、罪や失敗、失態を恐れ過ぎて消極的、保守的、単なる現状維持になってはならないのです。

良い物であった世界が、自然が、動植物が、人間が、人間の罪の故に、悪しき物となってしまっていましたが、積極的に関わり、関わり続け、支配者である神様の御こころ、命令に沿って支配し、秩序を維持、回復させなければなりません。

罪に満ち満ちた世界で幾ら神様の御こころを行っても、正義を行っても、焼け石に水、大海の一滴で、何の効果も影響もないのではありません。

一人一人の働きは小さく、限定的、断続的であっても、0ではないのであり、

必ず罪の世界に影響を与えます。

何故ならば、神様が背後に居られるからであり、罪の世界を聖くする事が神様の願いだからです。

そのために、ノアとその家族が選ばれたのであり、アブラハムが選ばれ、ダビデが選ばれ、私たちが選ばれ、

「生めよ。ふえよ。地に満ちよ。

9:2 野の獣、空の鳥、・・地の上を動くすべてのもの・・それに海の魚、これらすべてはあなたがたを恐れておののこう。わたしはこれらをあなたがたにゆだねている。との命令を与えられたのです。

そして、人間は神様の命令に忠実である事だけが問われるのです。

9:3 生きて動いているものはみな、あなたがたの食物である。緑の草と同じように、すべてのものをあなたがたに与えた。

ここで「肉食」が承認された事が明らかにされました。

神様の創造の始まりにおいて、人間を含む全ての動物の食料は植物でした。

草その物が、草木に実る果実が人間と動物の食料でした。

しかし、この宣言以降、肉食が許されたのです。

完全菜食の世界から、肉食の世界、雑食の世界になった訳ですが、その変化は、食べられる物が増えた、と言う食文化の多様化ではありません。

肉食は即ち、動物を殺す事であり、動物の「いのち」が絶たれる事であり、命の付与者である神様抜きには考えられず、神様の痛みを意味するのではないでしょうか。

古代ユダヤの牧畜は、羊の一匹一匹を区別し、世話をし、大切に扱ったそうです。

一匹の迷える羊の喩えにある通りです。

現代でも、その名残はありましょうが、牧畜は事業、産業の一形態であり、ドライに考えれば牛は牛乳を生産する装置であり、鶏は卵を生産する装置であり、牛も豚も鶏も、収入の手段でしかありません。

牛の「いのち」の事を、豚の「いのち」の事を、鶏の「いのち」の事を、魚の「いのち」の事を、然程重要には考えませんが、何にも「いのち」があるのであり、その「いのち」を犠牲にしなければ、肉食はあり得ないのです。

動物を造られ、「非常によかった」と感想を述べられた神様が、その良い動物を殺す事を許可、承認する事が断腸の思いであろう事は想像に難くありません。

そして、肉食との関連で、血が「いのち」そのものである事を教え、「いのち」と血が同格である事を示唆しているのです。

この事は、後の、罪の贖いのためには血が必要となる事の伏線となっています。

それを暗示させるのが4節以降です。

9:4 しかし、肉は、そのいのちである血のあるままで食べてはならない。

9:5 わたしはあなたがたのいのちのためには、あなたがたの血の価を要求する。わたしはどんな獣にでも、それを要求する。また人にも、兄弟である者にも、人のいのちを要求する。

9:6 人の血を流す者は、人によって、血を流される。神は人を神のかたちにお造りになったから。

「いのち」は何よりも尊重されなければならず、食のために動物を殺す事は許可するが、「いのち」は「いのち」の付与者である神様に帰属する物であり、「いのち」を象徴する「血」は神様にお返ししなければならず、人間は一滴たりとも食してはならない事を、自由には出来ない事を宣言しているのです。

副次的には、血を媒体とする病気、血に起因する疾病から健康を守る為との理由もあったでしょうし、血に対する文化の影響、例えば、長生きするために生き血を啜る、とか、

猛獣や勇士の力を取り入れるために、祟りを除くために、血を食する、との間違った、何の意味もない習慣、言い習わしを廃絶する意味でもありましょう。

そして、人間の「いのち」を損なったならば、動物でも人間でも、殺さなければならず、

「いのち」は「いのち」でしか贖う事が出来ない事を教えているのです。

殺人の始まりは、カインが弟アベルを殺した事から始まりましたが、例え兄弟でも殺めた者は、「いのち」を損なった者は自分の「いのち」をもってしか贖えないのです。

「いのち」は関係が希薄であろうと密であろうと、どんな関係であろうとも損なってはならないのであり、この教えが人類にとって普遍的な教え、命令である事を暗示しています。

不当に「いのち」を損なった時にだけ「いのち」をもって償うのであり、宗教の違い、主義主張の違い、人種の違い、国の違いを理由にして殺してはならないのです。

殺人はどんな理由があっても、状況であっても許されはせず、ましてや、誰かのために殺人を行うなどは言語道断です。

「いのち」の損失は、何の金品も、身代わりも購う事は出来ません。

血を流した者は、自身の「いのち」を差し出す事だけしか出来ないのです。

そのように「いのち」は「いのち」でしか贖えませんが、「いのち」を差し出せば終わる訳では、解決する訳ではありません。

「いのち」の創造者であり、「いのち」の付与者である神様を悲しませた事実は残るのであり、被害者の「いのち」が損なわれた悲しみに、加害者の「いのち」が損なわれた悲しみが加わり、二重の悲しみを味わわなければならないのです。

更には、人間は神のかたちに造られたのであり、殺人は神様の尊厳に対する暴挙である事を覚えなければなりません。

6節の「人の血を流す者は、人によって、血を流される」は復讐を許す意味では断じてありません。

殺人に対する刑罰としての死刑が人の手を通して行われる事を宣言し、しかし、非常に限定的であり、厳しい制限があり、「神の裁き」でしか、認められない事を暗示しています。

人を殺すと必ず祟りがあるとか、呪われるとか、不思議な報いが訪れるのではありません。

人知れずに、報いがやって来るのではなく、明確に裁きがやって来るのです。

正式な裁判が開かれ、正確な証拠が提出され、厳正な審議、審判が行われ、厳格に執行されなければなりません。

裁判官、或いは死刑執行許可者、そして死刑執行人は非常に大きな責任を負っているのであり、その役職にある者だけに許されている事であると、覚えていなければなりません。

しかし、死刑制度を容認している、肯定している、推奨している訳ではありません。

争いを力で、問題を殺人で解決しようとする人々を戒め、無秩序な殺人の繰り返しを戒め、復讐の連鎖を阻止するのが目的である事を忘れてはなりません。

「いのち」の尊さを教え、無為な殺人の連鎖を戒めた後に、

9:7 あなたがたは生めよ。ふえよ。地に群がり、地にふえよ。」

と、1節を繰り返して最後とし、一つの区切りにしていますが、

生めよ。ふえよ。地に群がり、地にふえよ」は、即ち、神様の祝福そのものです。

神様の祝福が、サンドィッチ構造となっており、神様に祝福される為に「いのち」を尊び、無為な殺人を戒めているのです。

【適応】

「いのち」を尊重するのは、神様から祝福を頂くためであり、「いのち」の尊重は、神様の主権の尊重であり、神様の主権に従う事です。

全ての「いのち」は神様の主権の下にあり、人間の「いのち」のみならず、動物の「いのち」も大切にしなければならず、自分の「いのち」も疎かにしてはなりません。

自他の「いのち」を大切にするところに、神様の祝福が注がれるのであり、被造物は人間の支配、管理のもとで、秩序が保たれ、祝福を受け、繁栄する事が出来るのであり、全ての動物は人間に服従するように、人間を恐れるようになったのであり、これが神様の御心なのです。

しかし、人間に服従するからといって、人間を恐れるからといって、動物に対して好き勝手にしてよい訳でも、横暴に振舞ってもよい訳ではありません。

被造物が繁栄するように、人間は支配、管理、お世話をしなければならず、人間の好き勝手、自然の摂理を乱すような、自然の摂理に反するような横暴な行為は厳に慎まなければなりません。

生きとし生けるものの「いのち」を尊重するところに神様の祝福が注がれ、神様に祝福されてこそ繁栄するのです。

神様の呪いの先には破滅、滅亡があり、神様の祝福の先には繁栄と希望があるのです。

神様の呪いによって世界は滅び、箱舟の中の人間と動物だけが生き残ったのであり、大洪水によって滅びた世界に増え拡がらなければなりませんが、その使命を全うするためには、神様から祝福を頂かなくてはならないのであり、「いのち」を尊重するところに、祝福が注がれ、祝福が留まるのです。

そして「いのち」の尊重は、「いのち」の創造者であり、「いのち」の付与者である神様を尊重する事であり、神様を称える事、神様を崇める事、神様の栄光を現す事なのです。

「生めよ。ふえよ。地に満ちよ。地を従えよ」は命令であり、祝福です。

この世界が「いのち」で溢れ、全ての「いのち」が生き生きとして、神様を称える世界を造る事が、人間に与えられた使命なのです。

そして、この命令、祝福を受け取るのが礼拝であり、教会なのです。

その命令と祝福を受け取って、罪の世に出て行き、神様の命令と祝福を宣べ伝える私たちでありたいと願うものです。

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聖書個所:ヨハネの福音書4:28303942             2015-1-4礼拝

説教題:「自分で聞いて信じる」

【導入】パリサイ人との衝突を避けて、ユダヤからガリラヤへ退かれたイエス様ですが、

ユダヤからガリラヤへ行かれるのに、ユダヤ人が決して選ばないサマリヤ経由の道を選んだのは、サマリヤ人の中にも救われるべき魂があったからでした。

そのサマリヤ人との出会いを求め、その切欠にサマリヤの女に飲み水を求めた事から始まった会話によって、いのちに至る知恵、いのちに至る律法の話しになり、始めは水にこだわって、ちぐはぐな問答をしていたサマリヤの女ですが、自分の過去を言い当てられて、イエス様に対する評価が変り、より高度な内容、真理の解き明かしに話しは発展して行きます。

そして、真の礼拝とは場所によるものではなく、形式によるものでもなく、民族や人種の違いはなくなり、礼拝を献げる者の心の状態が重要になる、と言う事を教えられました。

イエス様の仰られる真の礼拝者とは「霊とまこと」によって礼拝を献げる者たちであり、

その「霊とまこと」とは私たちの敬虔な態度や真実、誠実、謙遜、犠牲などではなく、

イエス様がお持ちの神の霊と、イエス様によって完成されたまことによるのだと教えられました。

神様を恐れの対象として礼拝するのではなく、愛する父として、喜び、感謝に溢れて礼拝する時が来る、それは遠い未来の事ではなく、イエス様が来られた今が、その時なのだと教えられたのでした。

イエス様から教えを受けたサマリヤの女は、その真理の全てを完全に理解した訳ではありませんが、明快な答えと、権威ある教えに、「今、私と話しているこのお方こそ、キリストと呼ばれるメシヤに違いない」との結論に至るのでした。

メシヤの来られる事は、個人的な事件ではありません。

サマリヤ人全体に関わる事であり、このサマリヤの女も、メシヤが来られたと言う大事件を一刻も早く皆に知らせなければと行動を起こします。

イエス様の弟子たちが戻って来たのを切欠に、

【本論】4:28 女は、自分の水がめを置いて町へ行き、人々に言った。

町に戻って伝道を開始した訳ですが、ここで「水がめ」と訳されているギリシャ語はガリラヤのカナの結婚式における奇蹟物語に登場する「水がめ」と同じ単語が使われています。

それは小さな容器ではなく、オリエントの国々で女性が頭の上に乗せて運ぶような、大きなかめを表わします。

かなり大きなかめであったので、水が入っていても、入っていなくても、急いで運ぶのは無理な事でありました。

そこで、この女は急いで町に戻ろうとして、かめをそこに置き去りにした訳ですが、

「置いて」と訳されているギリシャ語は「捨て置いて」「置き去りにして」の意味です。

水を汲むために井戸まで来たのに、その大事な仕事を脇に置いて、或いは、大切な水がめを捨て置いて、イエス様の事を人々に伝える事を優先するために走ったのです。

大事な水がめを置き去りにした女の気持ちははっきり解かります。

私たちはしばしば、信仰の事よりも、生活の事を優先させてしまいますが、このサマリヤの女は自分の生活の事は後回しにして、サマリヤの住民のための行動を優先させます。

それはメシヤが来られた事は何より重要な事であると認識したからに違いありません。

イエス様から聞かされた事柄に全く心を奪われた女は、それを直ぐに隣人に、スカルの町の人々に伝えたいと考え、直ぐに行動したのです。

誰にも会いたくないからと、誰も居ない時間帯を見計らって水を汲みに出て来た女が、

今、イエス様に会って、福音に触れて、それを誰かに伝えたいと強く願ったのです。

人と会うのが苦手でも、嫌な事であっても、福音には人に知らせなければならなくなる力が秘められているのです。

それは、伝えようとする内なる願い言うよりも、内には収め切れない溢れる喜びでしょう。

抑え切れない喜び、伝えなければならない使命感かも知れません。

それで今しがたイエス様から教えられた事を、他の人々にも告げ知らせるため、大事な水がめを捨て置いて、急ぎ走り去ったのです。

町に戻った女は出会う人々に次々に声をかけます。

人を選ばず、誰にでも手当たり次第にです。

ここにこの女の、良き知らせを告げ知らせようとの熱意と熱心を感じる事が出来るでしょう。

この女は、スカルの町で白い目で見られていた女です。

誰も相手にしてくれず、話しかけられもない、話しかける事もない生活がずっと続いていた女です。

更には、女が信仰について語る事など有り得ない時代に、信仰について語るために急ぎ町に戻って行ったのです。

人々の注目を集める事もなく、誰も聞いてくれないだろうと承知の上で、なお臆せずに人々に語りかけたのです。

聞くか聞かないかはその人の問題、責任ですが、聞いた者には語る責任があります。

聞いた人が語らなければ、聞く事が出来ませんから、語らなかった者に責任があります。

このサマリヤの女にはそんな意識は無かったでしょうが、語らずにはおれなかったのです。

その語る事は神学的な事でもなければ、イエス様の仰った事の繰り返しでもありません。

4:29 「来て、見てください。私のしたこと全部を私に言った人がいるのです。この方がキリストなのでしょうか。」

この伝道のスピリットは注目に値します。

サマリヤの女は相手と議論して言い負かそうとしたのでも、理路整然と神学を語ったのでもありません。

自分がキリスト、即ちメシヤを見出したと確信した時、他の人々に「来て、見てください」と呼びかけ、キリストと出会うように勧めただけなのです。

そこには工作も、工夫も、演出もありません。

唯、キリストに会って下さいと、勧め、呼びかけただけなのです。

私たちは人々を教会に誘うために色々と工夫をし、準備をしますが、勿論それらの事も重要、大切な事ですが、このサマリヤの女のスピリットに学ぶところが大きいのではないでしょうか。

このサマリヤの女は断られたらとか、聞いてくれなかったら等とは考えていません。

断られない工夫をしたり、聞いてもらえるための準備などもしてはいません。

論争を想定して対策を企ててもいません。

唯「来て、見てください」と会う人毎に声をかけ続けただけなのです。

その極めて単純なことばにこそ、人を魅了する真理が隠されているのではないでしょうか。

唯「来て、見てください」と要請しただけですが、結局、これが人を導く最良の方法である事が多いのです。

単純ですが、大胆な要請です。

キリスト教を弁護し、教会のイメージを良くしよう、とややこしい細工をするよりも、効果的で、一番人を引き付ける方法なのです。

素朴で、無学な、しかし温かい女の、心からのことばの方が、高尚な学問で武装した弁論家のことばより、人の心に入って行くのではないでしょうか。

殆どの人は説得されても、意志を変える事はありません。

表面的には納得しているように見せても、心の奥底では拒否し、決して受け入れようとはしないのです。

しかし、単純であればあるほど、大人でも、子どもでも理解でき、心に届くのではないでしょうか。

このサマリヤの女の伝道方法は、福音を伝えようとする全ての者に大きな励ましとなるでしょう。

誰もが皆、筋を追って議論できる訳ではありません。

弁証論をマスターしている訳でもありません。

だが、神学校に行っていなくても、伝道方法のイロハを習っていなくでも、伝道は出来るのです。

信じる者なら誰もが、この単純な「来て、見てください」と言うだけで良いのです。

その結果は驚くべきものとなりました。

4:30 そこで、彼らは町を出て、イエスのほうへやって来た。

一人の女のことばが町の人々の心を動かし、キリストを求めさせる切欠となったのです。

私たちは僅かな努力も、決意も、行動も決して軽んじてはならないのです。

小さな努力でも、取るに足り無い決意でも、ささやかな行動でも神様はそれらの献げ物を用いて大きな働きとして下さるのです。

始まりは「水」を求めると言う小さなエピソードからスタートしたのに、あなたの夫を連れて来なさいと促されただけなのに、今はスカルの町全体を巻き込む大きなうねりとなったのです。

女性が神様のもとで、教会を生み出す大きな働きをする事があり、聖書にもそれが記されていますし、

日本に宣教に訪れた人々の中には多くの女性がいらっしゃいます。

「ドノヴァーの碧い空 エミー・カーマイケルの祈りと生涯」という本には、松江で宣教を始めたエミー・カーマイケルと言う一人の女性の働きが紹介されていますが、神様の憐れみは極東の地、日本にも注がれ、女性宣教師が派遣されたように、スカルと言うサマリヤ人の町にも神様の目が、憐れみが注がれていて、一人の女性の働きを通して、キリストと出会い、キリストに対する信仰を多くの人々が持つ事が出来たのです。

伝道は、信仰の働きは、男性に与えられた働きであると誰もが思っていた時代に、イエス様は女性にもその働きを委ね、女性に相応しい形で、伝道の働きを委ねたのです。

口があり、信仰がある全ての人は、女性でも、男性でも、老人でも、子どもでも、キリストについて伝道する事が出来るのです。

例え口が不自由でも、別の方法で「来て、見て下さい」と伝える事が出来れば良いのです。

一人の女の証言によって、信仰に導かれようとしている人々が続々とイエス様の下にやって来ました。

そのスカルの町の人々がイエス様に会いにやって来る姿を見て、イエス様が弟子たちに信仰の刈り入れが間近に迫っている事を教えられた様子は前回学びました。

その、もう刈り入れるばかりになっている人々がイエス様の下にやって来たのは、

4:39 その町のサマリヤ人のうち多くの者が、「あの方は、私がしたこと全部を私に言った。」と証言したその女のことばによってイエスを信じた。

からでした。

たった一人の女の証言が、サマリヤ人の多くの人々の信仰に影響した、とはにわかには信じられない事のようですが、神様はそれを、人々を回心に導くのに喜んでお用いになられたのです。

女の証言は突飛な点は一つもなく、誇張された説明も、目立った雄弁さもありませんでした。

それは素朴な信仰から出た、心からの、まじめな証言に過ぎないものでした。

そんな素朴な信仰から出た働きでも、神様は用いられるのです。

教会には様々な人が集い、其々に賜物が与えられています。

当然、様々な手段、伝道方法がある訳で、神様はそれを用いられる、と言う事実を忘れてはならないのです。

どんな方法も軽んじてはならないのです。

もしも女が語らなかったとしたら、サマリヤ人は信仰を持ち得なかったのです。

外見上の弱々しさ、頼りなさ、不器用さの故に、その方法を軽んじ、非難し、攻撃するようなことがあってはなりません。

あからさまな非難、攻撃がなくても、影でささやいたり、心の内でつぶやいても、それは神様の主権を否定するものです。

ダビデは玩具のような石投げと、小石を用いて、巨漢のゴリヤテを倒したではありませんか。

あの場面でダビデを罵ったのはゴリヤテだけではなかったはずです。

敵も罵ったでしょうが、味方であるイスラエルの陣営も、あんな物でゴリヤテを倒せるはずがない、ダビデが殺されるのは火を見るよりも明らかだ、と思った事でしょう。

しかし、敵を倒すのは道具の優劣ではなく、神様に対する信仰です。

人を信仰に導くのは巧みなことばではなく、神様に対する信仰です。

ダビデは信仰を持って戦ったから、玩具のような道具でも敵を倒す事が出来たのであり、

サマリヤの女は信仰を持って語ったから、単純素朴なことばでもサマリヤ人をイエス様の下に導くに至ったのです。

しかし、サマリヤ人の信仰は、まだまだ幼く、イエス様の方に目が向き、心が開かれた状態でしかなかったのです。

4:40 そこで、サマリヤ人たちはイエスのところに来たとき、自分たちのところに滞在してくださるように願った。そこでイエスは二日間そこに滞在された。

この40節には、教えを求めるサマリヤ人の積極的な願いと、それに応えて下さるイエス様の積極性を見る事が出来ます。

折角イエス様に目が向き、心が開かれても、イエス様を心にお迎えしなければ、イエス様は強引に押し入るお方ではありませんから、真の信仰を持つには至らないでしょう。

しかし、サマリヤの人々は「願い続けた」のです。

イエス様は熱心な懇願を心待ちにしておられるお方です。

決して、忙しいから、次に行く所があるからと言って、その切なる願いを退けるお方ではありません。

エマオに向う二人の弟子も、もしも「一緒にお泊り下さい」と願わなかったならば、目が開かれる事も無く、復活のイエス様にまみえると言う素晴らしい特権を逃してしまった事でしょう。

サマリヤの住民もイエス様に滞在を願う事で、イエス様から直接に福音を聞く事が出来、

救いの確信に至る事が出来たのです。

イエス様に出会い、その不思議な業を目撃しても、立ち去って下さいと願う人々がある一方で、サマリヤの住民はイエス様に滞在する事を願ったので、ユダヤ人に開かれた福音に、異邦人として最初に与る特権を逃す事がなかったのです。

これは信仰の問題だけではなく、イエス様を拒否したカペナウム、コラジン、ベツサイダは、現在ほとんど跡形もなくなっていますが、イエス様を受け入れ、信じたサマリヤとスカル地方に位置するナブルスとその近郊はパレスチナの他の地域と比べると、今もなお、繁栄を続けているのは興味深い事実ではないでしょうか。

イエス様が滞在された二日間に、どのような福音宣教がなされ、信仰教育に費やされたかは興味深い事ですが、聖書には記されていません。

しかし、行く先々で、通りで、広場で、招かれた家々で福音を語り続けたであろう事は想像に難くありません。

4:41 そして、さらに多くの人々が、イエスのことばによって信じた。

人を救う神様の主権が、このところにも表わされています。

ある人はある方法で福音に出会い、救われ、他の人は別の方法で福音に出会い、救われるのです。

あるサマリヤ人は、女の証言を聞いた時に信じ、他のサマリヤ人は、イエス様の言葉によって信じたのです。

ユダヤ人がサマリヤ人の町に入る事はあり得ない事でしたが、誰かが招けば、そこにもイエス様は来て下さり、入って行かれるのです。

そうすれば、頑なにユダヤ人を拒否していたサマリヤ人もイエス様の話しを聞く事になり、信じるチャンスが訪れるのです。

聖霊の働きを一つの様式だけに限定しないように注意しなければなりません。

神様は突飛とも思える方法をも用いて、サマリヤ人を救い、日本人を救い、あなたの家族を救おうと計画され、働き人を送り、信仰の道を開いて下さるのです。

4:42 そして彼らはその女に言った。「もう私たちは、あなたが話したことによって信じているのではありません。自分で聞いて、この方がほんとうに世の救い主だと知っているのです。」

このサマリヤ人の「この方がほんとうに世の救い主だ」との告白は素晴らしい告白です。

このように明確な宣言は、福音書の何処にも見当たりません。

しかしサマリヤ人たちがイエス様は「世の救い主」であると告白した時、その意味を完全に把握していたかどうかは微妙です。

その時の文化、世界観が強く影響しているからです。

しかし不完全ではあっても、キリストは「ユダヤ人」だけでなく、全人類の贖い主として来られると言う真理を見事に言い表わしているのは注目すべき告白です。

メシアの来られるのを待ち望んでいたユダヤ人であっても、そのメシヤ像はユダヤ人に限定されていたのに対して、異教的な思想を持つサマリヤ人の、ユダヤ人が混血として蔑んでいた人々から、キリストの救いの普遍性が語られた事は、神様の恵みが誰にでも啓示されていて、受け入れる事が出来る真理である事を証ししているのです。

【適応】

聖書を熟知し、神様に選ばれた民として自負していたユダヤ人ですが、彼らもイエス様の話しを聞いていましたが、頑なにイエス様を排斥し、救い主として受け入れず、拒否し、排除したのに比べ、サマリヤ人はイエス様の傍に来て、その教えを聞き、信じて世の救い主と告白したのです。

この違いは何処から来たのでしょうか。

ユダヤ人の多くはイエス様の行なわれた奇蹟、証拠としてのしるしを目撃しています。

しかし、このサマリヤでは奇蹟は一つも行われてはいません。

井戸端で会話をし、サマリヤ人に語っただけです。

ユダヤ人がなかなか信仰に入らなかった時期に、短時間に一つの町の住民の殆どが信仰に入ったのは何故でしょうか。

第一に考えられるのは、救いは人間の側にあるのではなく、神の側にある一方的な恵みである、と言う事です。

最も無学で、無知であった者が信じ救われるのに、最も博学で、頭の良い人たちが不信仰を続け、失われた存在に気がつかないでいる。

知識とか、努力とか、行いではなく、ただ神様の一方的な選びの恵みによって救われるのです。

次に教えられるのは、人を回心に至らせるのは奇蹟や特別な体験ではなく、恵みだ、と言う点です。

ユダヤ人はイエス様の奇蹟を何度となく目撃し、何ヶ月も、何週間もそのメッセージを聞くと言う特権に与ったのですが、極わずかの人だけが悔い改めたのであり、多くの人々は心を頑なにし、イエス様から離れて行ったのです。

比べてサマリヤ人は全く奇蹟を見る事もなく、たった二日間、イエス様と共に過ごしただけなのです。

その実際の時間は僅かなものでしょう。

しかし、時間の長さ、内容の深さではなく、神様の恵みによって、町中の人が信仰に入ったのです。

今日のテキストが教えているのは、人の心の回心を促すのに最も必要なのは聖霊の恵みと言う事なのです。

イエス様がサマリヤに立ち寄られたのは、サマリヤ人がイエス様を招聘したからではありません。

サマリヤ人の叫びが、熱心が天に届いたからでもありません。

神様の一方的な恵みによって、救いを与えようとして、イエス様をサマリヤに遣わしたのであり、一人の女の証言を聞いて応答した者が、神様の恵みに与って、信仰に入ったのです。

信仰は、先ず聞く事から始りますが、それも恵みなのです。

サマリヤ人は「自分で聞いて」と告白していますが、それも恵みによって聞くことが出来ている事を忘れてはなりません。

恵みによって福音に触れ、恵みによって信仰を与えられるのです。

恵みによってキリストと出会うチャンスが与えられ、恵みによってキリストを受け入れるのです。

サマリヤの女は神様の恵みによってイエス様と出会い、その会話を通して恵みによって信仰が与えられました。

サマリヤの住民は神様の恵みによって女の証言を聞き、イエス様の下に来た事によって恵みを受け信仰の確信が与えられました。

私たちも神様の恵みによってイエス様の事を知り、教会に来て神様の恵みによってイエス様を受け入れる事が出来、恵みによって信仰に入ったのです。

神様がサマリヤ人を救われたのは、サマリヤ人に何か良いところがあったからではありません。

神様の一方的な恵みによって救われたのであり、私たちが救われたのも、私たちに何か良いところがあったからではなく、神様の一方的な恵みによって救われたのです。

この神様の恵みはユダヤ人だけ、何かをした人だけと言うような、限定したものではありません。

全ての人に提供されているものであり、あなたも、あなたの家族もこの救いに招かれているのです。

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 聖書箇所:出エジプト記1212            2015-1-1新年礼拝

奨励題:この月・年をあなたの始めとしなさい」

【導入】

新年おめでとうございます。

本日は椎名町教会の新年礼拝にお越し下さり、ありがとうございます。

2014年は昨日で終わり、今日から201511日が始まりました。

年の区切り、月の区切り、日の区切りがある訳で、年毎に、月毎に、日毎に計画を立て、それを実行し、時に反省しつつ、生涯を積み重ね、歩んで行く訳です。

「区切り」或いは「始まり」は暦の上では、或いは表記の上では、明確なのですが、実際は、決して機械的にすぱっと切り替わる訳のものではありません。

時計の針は刻々と進んで行きますが、実際には連続であり、年も月も日も、連続の中で進んでいる物です。

年も月も日も時間も連続であり、繋がっており、過去の上に現在があり、現在の先に未来がある訳です。

そして、過去の影響を受けない現在はなく、現在の影響を受けた未来があるのです。

即ち、過去を引きずって生きて行くのが人生なのです。

過去の影響を受けない人生はあり得ませんが、過去の経験をプラスにするかマイナスにするかは選べるのではないでしょうか。

思い出したくない過去、消し去りたい過去であっても、プラスにする事も出来、栄光の過去、誇りたい過去であっても、マイナスをもたらす事もあるでしょう。

即ち、忘れる事の大事さと、覚えて置く事の大事さを合わせ持たなければならないのが人生であり、信仰なのではないでしょうか。

更に、決断と始めるタイミングが重要であり、現在と未来を決定付けるのです。

【本論】

出エジプト記

12:1 主は、エジプトの国でモーセとアロンに仰せられた。

ユダヤ人の、凡そ400年にわたるエジプトでの生活は、決して楽しい生活ではありませんでした。

ユダヤ人がエジプトに住み着いた当初は、ヨセフの働きもあって、優遇された、快適な生活であった事でしょうが、ヨセフの働きを知らないエジプト王が即位すると、ユダヤ人に対する扱いは厳しくなり、過酷な、理不尽な労働が課せられ、奴隷と変らなくなってしまいました。

また、エジプトの文化、宗教は、唯一の神を信ずるユダヤ人に相応しいものではなく、何時の間にか悪しき影響を受け、忌まわしい偶像礼拝に対する抵抗も薄れ、時には受け入れてさえいたのです。

神様に選ばれた民としての自覚も薄れ、目に見えない神様に頼るよりも、信仰するよりも、現実のエジプト王を恐れ、エジプトに依存、エジプトに同化するようになっていったのです。

エジプト人と民族的にも文化的にも宗教的にも、混交が行われ、ユダヤ人として、神様に選ばれた民として、存亡の危機に立たされていた、その時に、神様はモーセとアロンを遣わしてくださいました。

紆余曲折があり、いよいよエジプトを脱出する、その時に、神様は、

12:2 「この月をあなたがたの月の始まりとし、これをあなたがたの年の最初の月とせよ。

と仰せになられます。

神様の「月の始まり」「あなたがたの年の最初の月とせよ」との宣告は、過去を忘れなさい、心機一転しなさい、の意味ではありません。

過去、即ち、王様の気分次第で変るような地位に、境遇に安住する事なく、戻る事なく、

常に変る事のない神様と共に生きる始まりとする事の勧めであり、動く事も出来ず、何をする力もない偶像に頼る生活と決別し、何処にでもおられ、全てを支配しておられる神様に仕える生活を始める事の勧めであり、偶像と結び付いた文化や民族と離れ、二度と交わる事なく、唯一の神様を信じるところの文化を、同じ信仰の民と共に構築する事の始まりの勧めなのです。

現実を見ない、浮世離れした信仰生活の勧めではなく、理想に憧れる、現実逃避の生活の勧めでもありません。過去の歴史をしっかり記憶し、二度と繰り返さない決意と、神様との約束を忘れず、疑わず、神様に従う生き方を始める勧めなのです。

【適応】

古来「一年の計は元旦にあり」と申しますが、11日、毎年の初めに、新しい生き方を決意するのではなく、聖書から教えられ、説教から教えられ、デボーションで教えられたなら、その時に、考え方を、生き方を改めるべきではないでしょうか。

神様が命じられたなら、11日を待つまでもなく、来週からでもなく、来月からでもなく、

神様が命じられたその日を月の初め、年の初めとし、スタートしなければならないのです。

「思い立ったが吉日」と申すように、即応答が大事なのではないでしょうか。

明日に先延ばしていてはなりません。

明日が必ず来る保証などないからであり、明日に延ばす生き方は、結局、先延ばしを繰り返すだけになってしまうでしょう。

先延ばしは慎重の現われではなく、不信仰の現われであり、即応答は軽率ではなく、神様への信頼の現われなのです。

ユダヤ人は400年以上エジプトに住み、気候風土にも慣れ、生活の基盤もあり、何不自由なく暮らしていましたが、神様が介入され、状況が大きく変り、神様の命令でエジプトを脱出したのです。

罪の生活を離れたのです。

何もかも捨てて、旅立ったのです。

もう少し考えてから、誰かに相談してから判断しよう、状況を見てから決断しよう、であってはなりません。

ここにおられる皆様は、神様から召しを受けた人であり、救いと福音に招かれた人です。

神様に従う生き方を始める事が期待されています。

神様の招きに応答し、新しい月、年を始められ、

祝福された人生に入られますようにお祈り致します。

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