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聖書箇所:創世記13:1~13 2015-4-26礼拝
説教題:「アブラムと甥ロトとの争い、別れ」
【導入】
信仰とは、神様のご計画、お約束に対する信頼であり、見ずして、詳細を知らずして、神様にお委ねする事であり、神様にお任せする事であり、神様のご命令への従順です。
何処へ行くかを知らされないのに、神様のご命令に従って旅立ったアブラムであり、神様への信頼、信仰を認められ、信仰者、義人とされて行くアブラムです。
人は、数々の、様々の訓練、試練を受けて、神様への従順と、自我の考えのままに生きたいとの思いとの間を行きつ戻りつしつつ、失敗を繰り返しつつ、自分の弱さを知り、自分の足りなさを知り、自分の罪を知り、神様の守りを知り、神様の愛を体験し、神様の祝福を実感し、神様の臨在を確信するのであり、徐々に、本当に少しずつ、信仰者と呼ばれるに相応しく整えられ、義人とされて行くのですが、しかし、この世では罪人のままであり、時に神様を裏切り、神様に逆らい、神様を悲しませもします。
アブラムも、神様を信頼し、神様にお委ねし、神様にお任せしてはいましたが、平時は、それらが出来ても、非常時には、この世を見て恐ろしくなり、不安に駆られ、信仰者として相応しからぬ行動を取ってしまいます。
羊飼いであり、遊牧民であるユダヤ人にとって、天幕生活、遊牧生活は日常であり、危険や不安は常にあるでしょうが、遊牧は巡回の生活であり、一年のサイクルで繰り返すので、直に慣れて来るでしょうが、目的地を知らされない旅は、しかも長旅は、遊牧の生活とは趣を違にしましょう。
常に見ず知らずの土地に入って行くのであり、常に新しい不安を抱えた旅であり、常に危険と隣り合わせの旅であり、心の、身体の休まる時はないでしょう。
そんな旅の疲れも、不安も払拭されない中での、地味豊かで、飢饉とは無縁であろうと思われるカナンを襲った厳しい飢饉は不安を煽り、少しでも多く食料が確保出来る場所を、安心して住める場所を捜して、おろおろした事でしょう。
切羽詰って神様に相談をせず、指示も仰がず、自分勝手にエジプトに逃げ込んでしまいました。
身の安全を図るために、嘘をつき、計らずも愛する妻サライを窮地に立たせてしまいますが、憐れみ深い神様がご介入され、サライにも、アブラムにも、アブラムの持ち物にも危険が及ぶ事はなく、窮地を脱し、アブラム一行は、パロの保護下、安全にエジプトを脱出する事が出来たのでした。
しかし、信仰の試練は一回限りで終りではなく、又、新たな試練がアブラムに臨みます。
【本論】
13:1 それで、アブラムは、エジプトを出て、ネゲブに上った。彼と、妻のサライと、すべての所有物と、ロトもいっしょであった。
カナンの地の飢饉を、エジプトの地でやり過ごしたアブラム一行ですが、カナンの地周辺に住んでいて飢饉に遭った者が皆、エジプトの地に逃げ込み、エジプトの地で飢饉をやり過ごした訳ではありません。
エジプト王国は寛大、寛容な国であって、慈悲深い国であって、カナンの地の避難民を、飢饉からの避難民を皆、受け入れ、養った訳ではありません。
そんな事をすれば、幾ら裕福な国であっても疲弊してしまいます。
ですから、誰でもを受け入れたのではなく、エジプト王国にとって益をもたらす者だけを受け入れたのであり、受け入れても損にならない者だけを受け入れたのです。
非常な資産家であるとか、非常に有能な者であるとかです。
危機に乗じてぼろ儲けを画策するのは、古今東西変らない人間の強欲の現れですから、悲しい事ですが、何も持たない者が受け入れられ、保護される事はありません。
避難民が豊かなエジプト王国に押しかけ、多くの者が追い出され、受け入れられず、路頭に迷う中で、アブラム一行はサライの美貌故に受け入れられたのであり、エジプト王パロの手厚い持て成しと保護を受け、飢饉を乗り越える事が出来たのです。
それでも、多くの場合、飢饉の間は、資産や蓄えた物で食い繋いで行くのであり、資産や蓄えが無くなれば餓死は必至です。
辛うじて充分な蓄えがあったとしても、飢饉が終わる事には無一文になっている事が多いのですが、アブラム一行は、飢饉知らずのエジプト王国で飢饉をやり過ごして、一族を守っただけではなく、エジプト王パロからの贈り物で、
13:2 アブラムは家畜と銀と金とに非常に富んでいた。
と、記されるまでになり、カナンの地に戻ったのです。
その資産は、エジプト王国だけで得たのではなく、長旅の間にも蓄えられたのであり、長旅の間にも、神様の守りが、祝福があった事を物語っています。
旅先で食料を得るためには、衣類を手に入れるためには、日用品を得るためには、主に物々交換しかありません。
羊と食料を交換し、山羊と衣類を交換し、牛と日用品を交換し、です。
それは、資産が減って行く事であり、資産の枯渇は死を意味したのですが、神様がアブラムの羊を、山羊を、牛を、持ち物の全てを祝福してくださったので、旅の間も資産は徐々に増えて行ったのであり、そこにエジプト王パロからの贈り物が加わり、非常な資産家になっていたのです。
神様の祝福は宣言であると同時に、実質を伴うものです。
言葉だけの祝福に留まらず、資産が増え、名実共に、なのです。
更に、アブラムへの祝福は、アブラムの上にのみ、注がれたのではありません。
同行者にも注がれたのであり、甥のロトの持ち物も神様の祝福を受け、ロトも資産家になっていたのです。
この事は、アブラムの信仰ゆえの祝福が、ロトをも富ませたのである事は明白ですが、
信仰は本人のみを祝福するものではなく、関わる人をも祝福するものである事が明白です。
アブラムは資産が増えるのを自分の信仰の故だから、自分が受けるべき、とは考えませんでした。
神様からの祝福は分け与えるべき、分かち合うべき、共に喜ぶべきであると理解し、神様からの祝福で増えた自分の資産を、自分の所に囲い込まず、甥のロトに分け与え、エジプト王パロからの贈り物も甥のロトに分け与えたのではないでしょうか。
神様から与えられた祝福は多い少い、大きい小さい、重い軽いに関わらず、一人で抱え込むものではなく、一人占めするものでもなく、分け与えるものであり、施すものなのです。
神様はそれを期待しているのであり、周囲に祝福を分け与えない者は、神様を悲しませます。
多く与えられた者は、多く施すべきであり、多く施す者は、さらに多く与えられるのです。
何故ならば、与えられているのではなく、委ねられているのであり、多く委ねられながら、少ししか施さない者は、神様の期待に反する者であり、持っている物までも取り上げられてしまうのではないでしょうか。
神様の御こころにそぐわないでいては、取り上げられてしまうのは仕方のない事でしょう。
しかし、僅かな物しかなくても、精一杯を施すなら、神様の期待に応える者であり、神様は更に多くの物を委ねてくださるのです。
忠実な僕には多くを任せ、委ね、不忠実な僕には、何も任せは、委ねはしないでしょう。
神様の御こころにそって歩んだアブラムは、自身も甥のロトも裕福にならせていただいたのです。
さて、アブラムがカナンの地で飢饉に遭遇し、エジプト行きを決めたのは創世記12章9節に記されているように「ネゲブ」でしたが、アブラムは失敗の元となった「ネゲブ」に舞い戻ったのです。
これはとても大切な事です。
何が原因で間違ったのか。
物理的な道ならば別ルートや近道、ショートカットと言う方法もありましょうが、信仰的な道に別ルートや近道、ショートカットは相応しくありません。
信仰の失敗は、その時点に戻って、そこからやり直すべきでしょう。
単なる出直し、やり直し、ではなく、間違った道を選んでしまった理由を吟味し、考察しなければなりません。
時に辛い作業であるかも知れません。
思い出したくない事であるかも知れません。
忘れてしまっているかも知れませんが、詳細な点まで思い出し、正面から向き合い、しっかり吟味しなければならないのです。
日本的な水に流す、無かった事にする、有耶無耶にする、であってはなりません。
適当な吟味は、形だけ、口先だけの悔い改めしかもたらさず、形だけの悔い改めに、考え方や生き方を変える力はありません。
真摯な吟味が、考え方を変え、生き方を変え、同じ過ちを繰り返すのを防ぐのであり、似たような過ちを防ぐ力となるのです。
そのような真摯な生き方、悔い改めが信仰を強くするのであり、確立させるのであり、
周囲の人にも影響を与えるのです。
13:3 彼はネゲブから旅を続けて、ベテルまで、すなわち、ベテルとアイの間で、初めに天幕を張った所まで来た。
13:4 そこは彼が以前に築いた祭壇の場所である。その所でアブラムは、【主】の御名によって祈った。
アブラムは旅を続け、信仰の原点である「ベテル」にまで戻ります。
ベテルは高原地帯であり、見晴らしが良く、目先しか見ず、目先の利益しか考えなかったアブラムにとっては象徴的な意味がある場所といえるでしょう。
アブラムは物理的な失敗地点、信仰的な分岐点に戻り、信仰、礼拝の象徴である「祭壇」に戻り、霊的なやり直しを神様に誓い、祈るのです。
一番は、使命の自覚であり、地上の全ての民族の祝福の基となる事であり、何時、如何なる時にも、何処ででも、目先の恐れや利益に惑わされず、神様に従う者となる事であり、
妻のサライに姦淫を犯させずに済んだ事、旅路の守り、多くの資産を持つに至った事に対する感謝でしょう。
更には、甥のロトとの軋轢についても、祈ったのではないでしょうか。
祈りの結果、8節のような言動、対応に導かれたのではないでしょうか。
13:5 アブラムといっしょに行ったロトもまた、羊の群れや牛の群れ、天幕を所有していた。
ウルを出立した時には、本当に僅かな資産しか持ってはいなかったでしょうし、天幕も家族が住むものだけだったでしょう。
しかし、ハラン滞在中にハラン出立からカナン、ネゲブまでの旅の間に、ネゲブ出立からエジプトまでの旅の間に、エジプト出立からネゲブ、そしてベテルまでの旅の間に、失った物は無く、旅の途中で神様が増やしてくださった家畜や資産に、エジプトで得た家畜や資産が加わって、使用人や奴隷を所有するようになり、天幕も家族用、使用人用、奴隷用を所有するにいたり、アブラムも甥のロトも、相当の資産を所有するようになったのです。
神様の祝福を受けて「羊の群れや牛の群れ、天幕を所有」するようになったのですが、
問題、試練が生じます。
この対応こそが鍵であり、新しい祝福にも繋がり得るし、呪いや混乱にも繋がり得るのです。
13:6 その地は彼らがいっしょに住むのに十分ではなかった。彼らの持ち物が多すぎたので、彼らがいっしょに住むことができなかったのである。
土地は、神様が決められた通りに、季節に従っての、地勢に従っての植物しか自生しませんし、神様が決められたスピードでしか成長しません。
多少の季節外れはあっても、春に芽を出す植物が秋に芽を出さないし、秋に芽を出す植物が春に芽を出しはしません。
低地の植物は高原では成長出来ませんし、粘土質の土地を好む植物もあれば、水捌けの良い土地を好む植物もあり、人間の都合にあわせて成長する事は無く、固有の成長しかしません。
また、土地に限らず、許容量と言うものがあります。
畑でもハウスでも、養鶏場や養豚場でも、生産性を上げるために、高密集化が普通ですが、一定量を超えて密集すると、ストレスが急激に増加して、発育が悪くなり、弱くなり、病気に罹り易くなり、生産性が著しく低下するそうです。
一定の土地には、一定の植物しか、動物しか生息出来ないのです。
アブラムの家畜と、ロトの家畜の両方を養うには、ベテルは狭過ぎたようです。
13:7 そのうえ、アブラムの家畜の牧者たちとロトの家畜の牧者たちとの間に、争いが起こった。またそのころ、その地にはカナン人とペリジ人が住んでいた。
家族、兄弟、親戚は、一番意志の疎通が期待できる関係であり、信頼出来る関係であり、助け合うにこれ以上の信頼、安心はありませんが、よい事ばかりとは限りません。
先日も、何とか家具の経営権争いが、報じられていましたが、家族なら何時でも何でも理解してくれ、常に協力的であるとは限りません。
良い点は山ほどありましょうし、多くは仲睦まじくやっているのでしょうが、一度ギクシャクすると、血縁であるが故に、難しい展開になってしまう事が少なくないようです。
トップである責任者同士は仲違いしないようにしていても、最善の案を模索し、解決を計ろうとしても、取り巻きが、部下が、実務者レベルがトップ責任者の意を汲まず、意に反する行動を取る事や、勝手な行動を取る事や、過激な行動を取る事は珍しい事ではありません。
アブラムとロトの間には了解や取り決めが交わされていても、周知徹底されていなかったり、解釈の相違があったりして、摩擦が起こってしまう事があったのでしょう。
何より、人間は「ここまでがアブラムの土地、ここからがロトの土地」と区別がついても、羊や山羊に、牛に区別はつきません。
美味しそうな牧草があれば、アブラムの土地だろうとロトの土地だろうと、そんな事は関係ありません。
メーメー、モーモー鳴きながら、ムシャムシャ食べ進むのであり、それが一匹一頭ではないのですから、収拾がつかなくなり、イザコザが絶えないのは当然の事です。
更に、先住民のカナン人、ペリジ人は、入植者を快く思ってはおらず、四者によっての、ベテル争奪戦、牧草地争奪戦が起こってしまったのです。
目の前の牧草にしか興味が無いのは、固執するのは、知恵の無い家畜だけでなく、知恵を与えられたはずの人間も同じであり、カナン人、ペリジ人には先に住んでいたとの先有意識、優先意識があり、アブラムの僕と、ロトの僕の間には叔父と甥との上下関係、力関係があり、譲ろうとか、引こうとかの人徳を発揮する事はなく、権利や自由を主張するに終始するのであり、そこに解決策が見出せる訳がありません。
13:8 そこで、アブラムはロトに言った。「どうか私とあなたとの間、また私の牧者たちとあなたの牧者たちとの間に、争いがないようにしてくれ。私たちは、親類同士なのだから。
13:9 全地はあなたの前にあるではないか。私から別れてくれないか。もしあなたが左に行けば、私は右に行こう。もしあなたが右に行けば、私は左に行こう。」
神様の宣言、約束は、ベテルを含むカナン全土をアブラムに与える、と言うものであり、
カナンの地を自由に支配してよいのですが、「今」ではありませんし、無制限の自由、支配を保証している訳ではありません。
カナンの地は、アブラムの子孫に与えられるのであり、神様の御こころに従って支配しなければなりません。
神様の御こころは、排他的な、強権的な支配ではなく、共存的、融和的な支配です。
「支配」との表現よりも「お世話」と表現するのがぴったりでしょう。
旅人をもてなし、弱者の世話をさせていただき、異邦人を受け入れ、寡婦、孤児の世話をさせていただくのです。
敵を作らず、敵との和解のために祈るのです。
先を譲る事や、権利を主張しない事は、敗北ではなく、弱さでもありません。
本当の勝者、強者とは、神様を信じて、確信を持っている者であり、それ故に、譲り、争わず、戦わないのです。
問題や試練は、信仰の訓練であり、品性の訓練でもあります。
ローマ書5章3節
「そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、
5:4 忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。
5:5 この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。」
訓練、患難によって、ますます神様に近づくのであり、神様の愛を知る事が出来るのです。
飢饉と言う試練には、エジプト王国滞在と言う試練には、信仰者らしい対応が出来なかったアブラムですが、ベテルでは、牧草地争いでは、アブラムは信仰者らしい対応を見せます。
叔父であり、年長者であり、優先権があり、何より、神様から言質を頂いていると言うのに、ベテルを離れる決断をし、甥のロトに好きな方を取るように促したのです。
深い思慮と、判断力と、気前の良さの溢れた申し出ですが、それは、自分の利益を優先させない判断、決断であり、地上の富に固執しない姿勢の現れであり、失う事を恐れない信仰の現れであり、神様の宣言を確信している事の現れであり、新しい困難への対処を心得た者の言葉と言えるのではないでしょうか。
アブラムも、始めは何故問題が起こるのか、悩み、神様に不平不満を申し述べたのではないでしょうか。
甥のロトが年長者を敬うように。
現地民がアブラム一行を離れて、引き上げるように。
私たちも、回りが変るように祈ります。
しかし、人は変らないし、人を変えようとするのは大変です。
自分が変るべきであり、神様はあなたがどうするかを見ておられるのです。
変らなければならないのは分かっている。
しかし、人は変化を嫌い、現状維持を求めます。
多少の問題があっても、何とかやっているんだし、また新たな問題を起す事になるし、新しい問題に対処するより良いじゃあないか、と思います。
しかし、問題を放置しておいてはなりません。
部下の起した問題でも、当事者同士に任せる、問題解決を計らせるのではなく、責任者が、直接介入し、問題を引き受け、問題解決に取り組まなければならないのです。
何より、自分が変らなければ、人は変りません。
13:10 ロトが目を上げてヨルダンの低地全体を見渡すと、【主】がソドムとゴモラを滅ぼされる以前であったので、その地はツォアルのほうに至るまで、【主】の園のように、またエジプトの地のように、どこもよく潤っていた。
13:11 それで、ロトはそのヨルダンの低地全体を選び取り、その後、東のほうに移動した。こうして彼らは互いに別れた。
先に説明したようにベテルは高原地帯であり、ヨルダン渓谷全域と、死海南端の町ツォアルまでも見渡せましたから、緑の多い、潤っている土地、牧畜に最適な土地を探すのに好都合です。
しかし、見えるものが永続する保証はありません。
何より、神様のご支配と、神様の御こころを考慮するならば、今は緑豊かな土地であっても、家畜を飼うのに最適であっても、遠からず不毛の荒地にされ得るのであり、今は草木の生えない荒地でも、遠からず緑も深い森にされ得るのではないでしょうか。
今は繁栄しているソドムとゴモラも、遠からず壊滅してしまうのであり、今は誰も住んでないようなエルサレムですが、遠からず神様の栄光を現す神殿が立てられるのではないでしょうか。
ロトは見える所によって判断し、ヨルダンの低地全域を選びます。
積極的であり、能動的ですが、この世的であり、人間的であり、信仰からは程遠い決断です。
一方、アブラムの申し出は、消極的に見え、受動的ですが、信仰に立ってこその英断であり、非常に信仰的です。
与えられた選択の自由は、選ぶべきものを、正しい理解と判断とをもって選ぶのであり、
見たところだけで判断するのではなく、選ぶべきものを選ぶ、信仰の眼を与えてくださるように、祈るところから始めなければなりません。
信仰の眼、信仰の決断は、一朝一夕で与えられるものではなく、不断の祈り、祈りの蓄積が、選ぶべきものを選ぶのであり、不断の御ことばの蓄積が、正しい判断、決断に至るのです。
13:12 アブラムはカナンの地に住んだが、ロトは低地の町々に住んで、ソドムの近くまで天幕を張った。
13:13 ところが、ソドムの人々はよこしまな者で、【主】に対しては非常な罪人であった。
ソドム、ゴモラは滅ぼされてしまい、その位置は特定できませんが、歓楽的、刹那的、享楽的な町であり、人を魅了する、引きつける力を持っていたようです。
便利な町であり、魅力的な部分もあったようですが、住民は「よこしまな者で、【主】に対しては非常な罪人であった」と記されています。
「よこしまな者」の直訳は「悪い」であり、強奪や強盗、暴力や殺人が横行しているイメージよりも、不正が横行している、騙したり、誤魔化したりが日常的に、誰もが行なっていた事を現しており、更に「【主】に対しては非常な罪人であった」は文字通り、神様が忌み嫌われる性的不品行、偶像礼拝、呪い、占いなどが横行、蔓延していた事を現しています。
こんな町が繁栄、永続する事はありません。
裁きを暗示させる記述です。
【適応】
血の繋がった、一緒に育った、共に患難辛苦を乗り越えて来た、一番理解、信頼出来る関係であっても、問題や争いは生じます。
ましてや、氏育ちも、環境も、文化も、利害も違う者同士であるならば一層であり、人は皆「罪」を持っているのですから、親兄弟だろうと、親戚だろうと、無二の親友だろうと、友人だろうと、同好の士だろうと、教会だろうと、クリスチャンだろうと、人が集まれば、必ず問題や争いが生じるのであり、問題や争いがない方が不思議と言うものです。
勿論、教会やクリスチャンは神様の特別な恵みを頂いて、神様が働かれて、守られていますが、サタンもまた、教会を混乱させ、分裂させ、崩壊しようとして、執拗に隙を窺って問題や争いを生じさせ、クリスチャンの交わりに亀裂を生じさせようと暗躍しています。
教会やクリスチャンの関係に問題や争いが起こる事は、悲しい事ですが、認めなければなりませんし、認めなければ解決は始まりません。
問題や争いが起こる事は恥ずかしい事ではなく、認めようとしない事が問題なのであり、隠す事が恥ずかしい事なのだとの認識を持たなければなりません。
そして、問題は、その問題や争いをどのように扱うかです。
見ない振りをするか、放置しておくか、適当にあしらっておくか。
即座に介入するか、直接介入するか、具体的な指示を出すか。
勿論、状況や内容、時期によって様々であり、一律には判断も、決断も、対応も出来ないでしょうが、問題や争いを知った時点で、何より先に「祈る」のがベストでしょう。
神様に聞いていただくのですから、冷静になり、状況や内容を詳細に吟味し、嘘偽りなく、都合の良い事だけを述べるのでもなく、都合の悪い事を隠す事もなく、大袈裟も矮小もなく、正直に、ありのままを告白しなければなりません。
然る後に、対応を考えなければなりません。
その前提条件は、上位の者が、譲歩する、譲る、引くであり、赦すです。
その根拠は、神様に全幅の信頼を置いているからであり、神様が最善をなさると確信しているからです。
アブラムも、神様から与えられた権利を主張せず、叔父としての地位を主張せず、下位の甥のロトを一切非難する事なく、寛容を示し、和解を提示し、優先権を与えたのです。
それが出来たのは、神様の約束を信じたからであり、カナンの地支配は、ネゲブやベテルの所有は、将来の事であり、今ではない、と言う事であり、手放そうが、譲ろうが、離れようが、逃げようが、拒否しようが、神様の約束、宣言は必ずなる、と確信していたからであり、将来カナンは、ネゲブは、ベテルは、必ず与えられる、所有するようになる、と確信していたからです。
今、ベテルをカナン人、ペリジ人に譲っても、ネゲブを撤退しても、甥のロトにヨルダンの肥沃な土地を譲っても、その結果、羊や山羊、牛を失ってしまったとしても、使用人や奴隷を手放さざるを得なくなったとしても、無一文になったとしても、神様は、失った羊や山羊、牛や使用人、奴隷以上のものを与えられる力をお持ちのお方であり、最善をなしてくださるお方だと確信していたので、話し合いという方法でもなく、交渉と言う手段でもなく、神様への信仰故に、損得、プライド、名誉を越えて、撤退する、譲る決断をなし得たのです。
神様を信頼して、損になっても神様に従う生き方は自身の信仰を益々強くし、「地上のすべての民族は、あなたによって祝福される」が現実となり、周囲の人々へ和解をもたらすのであり、両者に祝福をもたらすのです。
神様はそんな信仰者を求めておられるのです。
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聖書個所:ヨハネの福音書5:10~18 2015-4-19礼拝
説教題:「安息日の意味」
【導入】本日の宣教の中心、主題は安息日です。
キリスト教で安息日と言えば日曜日を指し示し、安息日イコール日曜日のイメージがありますが、そうではありません。
イスラム教徒にとっての安息日は金曜日であり、ユダヤ教徒にとっての安息日は土曜日なのです。
イスラエルの都、現代のエルサレムにはユダヤ教徒、イスラム教徒、キリスト教徒が住んでおり、其々に安息日を守っていますので、キリスト教徒の経営する店は日曜日がお休みであり、イスラム教徒が経営する店は金曜日がお休みなのです。
そしてユダヤ教徒の経営する店は土曜日がお休みであり、エルサレムには3日間も安息日があり、其々一切の仕事をしない日となっているのです。
学校も休み、映画館なども休みとなり、公共の交通手段であるバスも止まってしまうそうで、何かと不便かと思いますが、ユダヤ教徒、イスラム教徒、キリスト教徒が住み分けていて、其々の地域を構成していますので、住民の生活には支障がないようです。
しかし、観光客には不便この上もなく、安息日の地域に迷い込んでしまうと買い物は出来ないし、移動すらままならないと言う困った事になってしまう訳です。
これは現代のエルサレムの姿ですが、イエス様の活躍された2000年前のエルサレムはユダヤ教徒の町でしたから、土曜日が安息日であった訳です。
旧約聖書を信じ、そこに記されている十戒、律法を守る事に懸命なユダヤ人は、十戒、律法を補完する様々な規定を設けて、十戒違反、律法違反となる行動を取らないように細心の注意を払っていました。
その規定はイエス様の時代にも厳格に守られており、十戒の第4戒、安息日の教えについても、先祖代々の言い伝え、伝統が引き継がれ、律法学者が様々な規定を設けて、
民衆が安息日の神聖を犯さないように、パリサイ人が注意していました。
安息日の教えは出エジプト記20章8節と申命記5章12節にさかのぼります。
出エジプト記をお読みしますのでお聞きください。
開かれる方は旧約聖書130頁です。
20:8 安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。
20:9 六日間、働いて、あなたのすべての仕事をしなければならない。
20:10 しかし七日目は、あなたの神、主の安息である。あなたはどんな仕事もしてはならない。・・あなたも、あなたの息子、娘、それにあなたの男奴隷や女奴隷、家畜、また、あなたの町囲みの中にいる在留異国人も。・・
20:11 それは主が六日のうちに、天と地と海、またそれらの中にいるすべてのものを造り、七日目に休まれたからである。それゆえ、主は安息日を祝福し、これを聖なるものと宣言された。
礼拝の中で十戒を唱和する事がありますが、その時は8節だけが唱和され、9節以降は省略されます。
9節は安息日の意味が、10節では安息日の対象者が、11節には安息日制定の理由が記されていますが、何が仕事であり、何処までが仕事でないのかを明確にしていません。
そこで、安息日に許される仕事と、許されない仕事について、細かく規定を設ける必要があり、明確にされ文書化されていったのです。
その数39と言われています。
その39箇条の規定の中に、安息日に荷物を運ぶ事を禁じる項目がありました。
【本論】
どんな荷物であれ、荷物を運ぶ事は立派な仕事であり、労働とみなされて、取り締まりの対象になり、違反すれば罪のための生贄を、これまた規定に従って献げるなど大変な事になります。
ですから安息日に荷物を運ぶ人など誰もいない訳ですが、逆に一人でも荷物を運ぶ者がいればすごく目立つ訳です。
5章1節から9節に、38年もの長きに渡り病んで臥していた人がイエス様の力によって癒された次第が記されていましたが、その時イエス様が与えた命令によって、病んで臥していた人は起きて、寝ていた床を取り上げて歩き出しました。
これが普通の日なら何の問題もなかったのです。
ところが、その日は安息日であった。と9節に記されています。
「床」…私たちが日常使っている寝具を想像してはなりません。
「床」とは「寝茣蓙」のような物で、暑いパレスチナ地方では普通に用いられていた物です。
病人は石畳の上に横たわっていましたが、石畳に直接、横たわったら痛いですから、寝茣蓙のような物、マットのような物を敷いて、その上に横たわっていましたが、「床」とは、その寝茣蓙のような物、マットのような物であり、敷布団のように厚くも重くもありません。
くるくるっと巻いて小脇に抱えて持ち運べる程度の物で、大きな物ではありませし、重い物でも、特殊な物、即ち貴重品でもありません。
小さな、軽い物であり、荷物と呼ぶよな代物ではなく、それを丸める事も、運ぶのも、仕事と呼ぶには大袈裟な事であり、何でもない事です。
そもそも売り物でもありませんし、自分が使っていた物を持って帰るのは当たり前の事ですが、安息日にはどんな「物」でも片付けても、運んでもならないのです。
5:10 そこでユダヤ人たちは、そのいやされた人に言った。「きょうは安息日だ。床を取り上げてはいけない。」
5:11 しかし、その人は彼らに答えた。「私を直してくださった方が、『床を取り上げて歩け。』と言われたのです。」
5:12 彼らは尋ねた。「『取り上げて歩け。』と言った人はだれだ。」
5:13 しかし、いやされた人は、それがだれであるか知らなかった。人が大ぜいそこにいる間に、イエスは立ち去られたからである。
ユダヤ人たちは律法の規定に従って注意を与え、病気だった人と問答を始めます。
荷物を運んでいる理由、そこに至った理由を知らないユダヤ人ですから、当然の注意であり、ある意味、責任を果たしている訳ですから非難される事ではありませんが、問題は、律法や自分たちで作り上げた規定を守る事、人間の作り上げた伝統を尊重する事に終始して、神様が制定された安息日の意味を忘れている事にあるのです。
安息日が規定された理由は先程読んだように明確に記されていました。
六日間働いたら、七日目は休め。
自分も休むし、雇い人にも、動物にも、極端に言えば道具にも休みを与えなければならない、と言う規定です。
安息日は人間のために設けられたのです。
安息日は人間の幸せのためであり、健康のためであり、働き過ぎを防ぐためであり、財産を増やす事に血眼にならないように、働く事の意味を忘れないように設けられ、強制的に休息を取る事が命じられているのです。
雇い人が休息を与えなければ、労働者は休息を取る事ができません。
働かせる人、雇い人から、働く人、労働者、家畜を守る為に安息日が設けられているのです。
自分の意思で労働に従事していたとしても、ついつい無理をして働き過ぎてしまいます。
だから神様は人間に労働を離れる事を命じたのであり、それが安息日なのです。
また、安息日は仕事をせず、労働から離れるだけでなく、のんびりと休暇を楽しむ日でもあります。
辛い労働を離れて、自分の楽しみのために自由に使える時間ではありますが、自由気ままに、怠惰に一日を過ごしてよい訳ではなく、そこにも制限を設けて、先ず、神様と親しく交わり、六日間の生活に感謝し、六日間の言動を吟味し、神様に相応しくない言動を改め、整えられて、新たな力を頂いて、また、次ぎの労働の六日間を過ごす備えをするのです。
労働は神様から与えられた仕事ですから、常にご主人である神様のご意志を確認しながら働かなければ、間違った方向に進んでしまいます。
神様から与えられた労働を自分の利益、名誉、目的のために用いるようになり、他人の事を思いやる事もなく、本来の目的を忘れた労働になってしまうのです。
労働を通して神様に仕え、神様の栄光を現すのです。
神様のための労働ですから、神様の御心に忠実であれば結果も、成果も問題ではなくなります。
休んでいたら「はかどらない」ではなく、休む事も神様から与えられた仕事なのです。
安息日を守って休む事も大切な使命なのです。
休む事により、自分の生き方、労働に対する考え方を見直し、神様との関係を正し、軌道修正をし、常に神様との関係を維持するために、安息日が設けられたのであり、そのために安息日を遵守しなければならないのです。
安息日は労働だけでなく、あらゆる自己都合をも制限しなければなりません。
趣味も、旅行も、娯楽も、制限しなければなりません。
それは神様中心の生活スタイルを確立するための、生涯をかけた戦いと言えるでしょう。
安息日を守る事に、仕事以上の、趣味以上の、娯楽以上の情熱を注ぎ、犠牲を払い、自制しなければなりませんが、それはサタンの誘惑から自身を守るための訓練でもあるのです。
人間は神様の声より、サタンの声に従いやすい性質を持っています。
神様の命令より、自分の都合を優先させやすい傾向があります。
サタンの誘惑に負けないためにも、自分の都合を優先させないためにも、神様との関係を揺るがないものとするためにも、安息日を守る事を通して、神様に守っていただく必要があるのです。
安息日は人間のために設けられました。
安息日は神様に守って頂く日であり、神様との関係を正す日なのです。
病気の人もイエス様と出会って神様との関係が正されたのです。
それで、病からも解放されて床を取り上げて歩く事ができたのです。
38年もサタンの束縛の下にあって、自由に歩き回る事ができず、不自由な生活を強いられて来た人が、イエス様の憐れみを受けて、自由を取り戻し、これからは自由に何処にでも行く事ができるようになったのに、新しい生き方に入ったと言うのに、人間が作った安息日の規定を守る事に情熱を注ぐユダヤ人は、神様との関係が回復したしるしである自由に歩く身体にされた事を共に喜ぶ事ができず、見かけ上の、床を取り上げた事、荷物を運ぶと言う姿だけを見て、怪しからん、と文句を付けたのです。
そして、床を取り上げて歩けと言った人は誰かと、問い詰めるのですが、イエス様の名前を知らないので答える事ができず、ユダヤ人の追及も終り、放免されます。
5:14 その後、イエスは宮の中で彼を見つけて言われた。「見なさい。あなたはよくなった。もう罪を犯してはなりません。そうでないともっと悪い事があなたの身に起こるから。」
全ての病気が罪の結果ではありませんが、この人の場合は罪の結果であった事が明白です。
「もう罪を犯してはなりません」と仰っているからです。
何の罪が原因で病気になり38年も寝たきりの状態に置かれていたのかは不明ですが、イエス様と出会い、罪を赦され、自由を獲得しました。
その自由をまた罪を犯すために使う事がないように、イエス様は注意を与えます。
「もう罪を犯してはなりません」
罪は犯罪の事だけではありません。
神様を認めず、自分勝手に生きる事も罪であり、殺人などの罪は犯していなくても、神様の命令に反した行動もれっきとした罪なのです。
私たちは世的な罪には敏感ですが、神様との関係における罪には鈍感であり、神様の命令に反する行動を罪とは考えない傾向があります。
偶像礼拝をしても、御名を侮っても、教会に行かなくても、十分の一献金をしなくても、罪とは考えないし、世の中もそれで犯罪者扱いはしませんが、神様の目には、みな律法命令違反の罪人であり、罪の報酬から来る死を受け取らなければならない罪人なのです。
イエス様によって、罪が赦され、自由にされても、その自由にされた身体で再び罪を犯し続けるなら、その人にとって十字架は無意味であり、救われる事はないのです。
5:15 その人は行って、ユダヤ人たちに、自分を直してくれた方はイエスだと告げた。
5:16 このためユダヤ人たちは、イエスを迫害した。イエスが安息日にこのようなことをしておられたからである。
5:17 イエスは彼らに答えられた。「わたしの父は今に至るまで働いておられます。ですからわたしも働いているのです。」
5:18 このためユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうとするようになった。イエスが安息日を破っておられただけでなく、ご自身を神と等しくして、神を自分の父と呼んでおられたからである。
17節の「わたしの父は今に至るまで働いておられます」の意味は次の通りです。
「天におられるわたしの父なる神は世界を創造されましたが、後は自然の運行に任せて放置しておられるのではありません。
世界の摂理的統治において絶えず憐れみとやさしさの業を行っておられる。
全被造物の必要を満たし、宇宙と地球上の全機構を完璧に維持し、天から雨を降らせ、実りの季節を与え、命を守り支えておられる。
また、サタンの暗躍を押さえ、サタンが勝手な事をしないように止めておられる。
更に、人類の救いのための計画を推し進められ、まどろむ事も、休む事もなく人々を守り続けていてくださっているのです。
これら一切の事を父なる神は、平日と同様、安息日にもしておられる。
もし父なる神がこれらの仕事をやめられたら、全世界は大混乱に陥る事であろう。
父なる神は創造の業を休まれた時も、摂理の業は休まれなかったのです。
父なる神の愛する子である私も、安息日に憐れみの業を行う権利を主張する。
そのような業を行っても、父なる神が安息日を破っていないのと同様、私も破ってはいないのである。
父なる神は第4戒が尊ばれるよう命じられた。
しかし安息日にも太陽を昇らせ、草を茂らせる事は止められなかった。
父なる神と一体である私も安息日を尊ぶが、憐れみの業を止める事は決してない。」
その父なる神の、人類を救うと言うご計画のために地上に来られたイエス様ですから、
サタンの束縛に苦しんでいた人を解放するのは当然の事であり、ユダヤ人たちの前でそれを宣言されたのです。
しかしユダヤ人はイエス様の言葉の意味、安息日の意味を理解する事なく攻撃します。
イエス様が「私たちの父」と呼ばず「わたしの父」と表現した事が、神様と自分を等しくしたとしてユダヤ人の逆鱗に触れ、以降、ますます激しい攻撃に曝される事になるのです。
【適応】
十戒や律法はユダヤ人たちが主張するように守らなければならないものですが、律法は私たちを縛るものではなく、私たちを守るものなのです。
規律がある事で、行動に制限が生まれ、罪を犯す事が防げるのです。
安息日の規定も、不自由を強いるものではなく、サタンの誘惑から、自身の弱さから、守るためのものなのです。
神様は滅びに邁進している私たちを見て、憐れんでいます。
立ち止まって、神様を見上げて欲しいと願っています。
安息日は忙しい私たちを立ち止まらせ、息切れしないように、間違った方向に進み易い私たちの方向を正し、神様との関係を維持するために必要な制度なのです。
今日は都合がついたから教会に行くのではなく、先ず、日曜日に教会に行く事を中心に据え一週間の計画を立て、仕事の予定を組ましょう。
イエスキリストを頭とする教会だけに本当の安息があるからなのです。
日曜日でなければ出来ない事があるかも知れませんが、神様との交わりと、そのやらなければならない事と、どちらが大事、大切ですか。
私たちが犠牲を払って安息日を守るのではなく、神様が、キリストと言う犠牲を払って、安息日を通して私たちを守ってくださるのです。
神様の守りより強力なものはありません。
その神様の守りを出て、自分で自分を守ることは出来ません。
安息日は安全保障なのです。
安息日の規定は、束縛ではなく、祝福なのです。
神様の祝福の中で、憩い、平安に、安全に、過ごそうではありませんか。
神様は私たちを招いて下さり、多大な犠牲を払って守って下さっているのです。
私たちが守るものではなく、私たちを守るもの、それが安息日なのです。
最後に、安息日を教会で過ごす時生じる幾つかの不安について確認しましょう。
先にも述べたように、六日間働いて、日曜日を教会で過ごしたら、家族や友人との時間がなくなる、趣味や娯楽の時間がなくなる、旅行も難しくなる、等の不安です。
神様は人間を苦しめるために、縛るために安息日を制定したのではなく、人間が生き生きと生きるために安息日を制定したのであり、安息日に限らず、神様との関係を忘れず、神様を第一にする限り、基本的に何をしても、何もしなくても自由です。
人間は一人で生きているのではなく、家族や友人との関係も大事、大切です。
そして、未信者の家族や友人に、福音を伝えるのは難しい事であり、家族や友人を教会に誘えれば、それが一番ですが、中々上手く誘えないし、誘っても、中々すんなり教会に来てはくれません。
礼拝を通して神様から力をいただいてこそ、整えられてこそ、家族や友人を大切に出来るのであり、何を大切にしているか、何を中心にして生きているかが、そのまま伝道なのではないでしょうか。
生き方こそ、家族や友人に自然な形で伝える、福音なのではないでしょうか。
次ぎに、趣味や娯楽、旅行についてですが、生活の潤いであり、必要なモノです。
家族や友人と趣味や娯楽、旅行を大いに楽しんでください。
未信者の家族や友人との都合がつき易いのは日曜日が中心となるのは自然な事ですから、
礼拝直後に趣味や娯楽に出かけるのもOKだし、出先の教会で礼拝を献げるのもOKだし、夕礼拝でもOKです。
神様は、神様と共に過ごす時間を確保するなら、どんな形であっても赦して下さるのではないでしょうか。
勿論、毎週毎週と言うのは問題ですが、安息日の過ごし方は、残りの六日間の過ごし方に強く影響を与えるのであり、十戒や律法の規定は、何を中心に生きているかを意識させるモノである事を忘れてはなりません。
この考え方は献金や奉仕などの献げモノにも適応できる考え方です。
十戒や律法、安息日の教え、献金の教え…がある事によって、何を基準に生きているかを悟らせます。
自分の思いのままに生きるか、神様に従って生きるか、他者との比較で献げるのか、全くの自発で献げるのか、決まりだから礼拝や献金を献げるのか、神様に赦されているから、喜んで礼拝や献げモノを献げるのか、なのです。
これをハッキリ自覚させるのが十戒であり、律法であり、安息日や献金の教えなのです。
見かけは命令の形ですが、神様に対する考え方や献げモノに対する考え方を吟味させる道具であり、道しるべであり、基準なのであり、信仰の状態を知る、神様と私との関係を知る唯一の手掛かりです。
「嫌々ながらでなく、強いられてでもなく、喜んで」を神様は求めておられます。
私たちの礼拝、献げモノは如何でしょうか。
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聖書箇所:創世記12:10~20 2015-4-12礼拝
説教題:「これは私の妹です…保身のための嘘」
【導入】
前主日、5日日曜日はイースターであり、死と復活に付いて聖書から学んだ事でした。
私たちは清く、正しく、美しく、義人として生きる事を願っても、汚れにまみれ、不正を行ない、嘘で誤魔化し、醜く、罪人としてしか生きられず、天国に入る資格のない者であり、この世での、病気、苦しみ、悩み、悲しみ、死は、避けて通れない問題ですが、
解決があるのであり、全たく汚れがなく、正しく、美しい、義人であるイエス様の死によって、私たちの全ての罪、過去の罪も、現在の罪も、将来の罪も赦されるのであり、
私たちを清く、正しく、美しい、一点の曇りもない「義人」と見なしてくださりイエス様の復活によって、私たちに死のない永遠の命が与えられる、病気、苦しみ、悩み、悲しみのない、新しい身体が与えられる保証となり、イエス様を信じる事によって、イエス様の義が、永遠の命が、新しい身体が与えられ、天国に招き入れてくださる事を教えられました。
これは聖書が教えている、神様のご計画であり、お約束です。
努力や精進、難行苦行では、善行や奉仕、献げ物では得られなかった罪の許しと永遠の命が、イエス様を信じるだけで与えられるのです。
俄かには信じられない事であり、簡単に納得出来る事ではありません。
多くの人が「そんな事があるだろうか」と訝(いぶか)り、疑い、信じようとはしません。
だからこそ、信じる事が関門となるのです。
見た事もない、聞いた事もない、想像も出来ない、信じられそうにない神様のご計画、お約束を信じるのは、神様への信頼であり、神様に委ねる事であり、神様に任せる事であり、
神様はその行為をもって、天国に入れる義人の資格を与えてくださるのです。
信頼され、委ねられ、任されたら、どうするでしょうか。
信頼されて、信頼を裏切るでしょうか。
委ねられて、委ねられたモノを放置するでしょうか。
任されて、任されたモノをいい加減に扱うでしょうか。
人間でも信頼に応えよう、委ねられたモノを大切にしよう、任されたモノを誠実に扱おうとするでしょう。
ましてや神様が信頼に応えない訳がありません。
委ねられたモノを大切にしない訳がありません。
任されたモノを誠実に扱わない訳がありません。
神様との約束だから確信を持って、イエス様を信じるだけで天国に入れると断言出来るのです。
とは言え、イエス様の十字架の死によって与えられた義人の資格ですが、義人と見なされたのであって、義人になったのではありません。
この世では罪人のままであり、時に神様を裏切り、神様に逆らい、神様を悲しませます。
アブラムも、神様を信頼し、委ね、任せてはいても、時にこの世を見て恐ろしくなり、不安に駆られ、信仰者として相応しからぬ行動を取ってしまいます。
【本論】
12:10 さて、この地にはききんがあったので、アブラムはエジプトのほうにしばらく滞在するために、下って行った。この地のききんは激しかったからである。
アブラムは、何処へ行くのか目的地を知らされぬままに、困難な旅に出かけました。
道は平坦ではなく、宿屋がある訳でもなく、コンビニエンスストアやスーパーマーケットがある訳でもなく、自動販売機がある訳でもなく、病院、診療所がある訳でもありません。
何を手に入れるのにも、水であろうと、食料であろうと、衣服であろうと、日用品であろうと、困難を極めたのであり、病気や怪我の心配は絶えず付き纏った事でしょう。
しかし、そんな不安や恐れを微塵も見せずに、神様を信じて旅に出たのであり、目的地かと思ったのに、神様から旅の終わりは宣言されず、更に旅を続ける事になります。
しかも、次ぎの目的地に一直線、まっしぐら…と言う旅ではなく、カナンの地を隅々まで調べるような、将来手に入れる地を下見するような旅だったのではないでしょうか。
多少でも知識があるのと、全く不案内なのとでは、雲泥の差がありましょう。
今はカナン人が支配していますから、アブラムには手強過ぎる相手です。
しかし、将来、アブラムの子孫が増え、カナンに戻ってきた時の備えがなされ、アブラムには知らされてはいないけれども、カナンの地の調査、偵察が行なわれたのではないでしょうか。
カナンの地の旅の最中に、カナンに飢饉が起こります。
カナンは乳と蜜の流れる地と表現される肥沃な土地ですが、雨季の雨量に大きく依存しています。
パレスチナの雨季は10月頃から翌年4月頃迄であり、雨季の雨量と、乾季の強さで、旱魃か否かが、飢饉か豊作かが決まります。
一方、エジプトの地はナイル川の水量に依存しています。
ナイル川は夏の3ヶ月に増水しますが、年間を通じて安定した水量があり、旱魃に強い地域なので、パレスチナの地が旱魃、飢饉でも、エジプトは例年並みの収穫があったようです。
エジプト行きは、飢饉に当面した人間の当然の選択肢であり、飢饉を恐れたアブラムはエジプト行きを選択しますが、アブラムの独断であり、褒められた選択ではありません。
否、褒められないどころか、失敗の始まりと言っても過言ではありません。
何故ならば、神様の指示でもなければ、神様に尋ねてもおらず、神様の了解を得てもいないからです。
不安、恐れを逃れるために、独断でエジプトに向いますが、不安や恐れは、更に不安を引き寄せ、恐れを煽る事に繋がります。
12:11 彼はエジプトに近づき、そこに入ろうとするとき、妻のサライに言った。「聞いておくれ。あなたが見目麗しい女だということを私は知っている。
「妻のサライに言った」の「言った」は、言い含めた、指示した、命じた、の意味です。
言い含めた内容は12節の言葉ですが、理由は「あなたが見目麗しい女だということ」です。
当時、サライは65歳と推測されます。
現代の感覚では高齢であり「おばあちゃん」と呼んでも問題ない年齢ですが、サライの一生は127歳であり、サライがイサクを生んだのは91歳の時と推測されます。
当時はまだまだ超長寿命の名残が色濃く残っており、現代の65歳の容姿、容貌、体力だったではなく、30代、40代に匹敵する容姿、容貌、体力だったのでしょう。
更に、ユダヤ人とエジプト人との顔立ちの違いから、より一層、際立って美しく見えるであろう事は想像に難くなく、アブラムは極度の不安に駆られてしまったのです。
目的地の知らされていない旅の不安に、終わりのない旅の不安が重なり、更に、飢饉の不安が圧し掛かり、アブラムの独断でエジプト行きを決行しますが、神様に対する信頼の揺らぎ、不信仰であり、不信仰は、勝手な行動に繋がり、勝手な行動は更なる問題と不安を引き起こします。
未知のエジプト人に対する不安がアブラムの不信仰を加速させて、とんでもない言葉を口にしてしまうのです。
12:12 エジプト人は、あなたを見るようになると、この女は彼の妻だと言って、私を殺すが、あなたは生かしておくだろう。
アブラムの不安は、身の安全に対する不安であり、決して根拠のない不安ではありません。
12節のような事は、古代、日常茶飯事とまでは言い切れませんが、決して稀有な事ではありませんでした。
ダビデが他人の妻となったミカルを奪い返した事が、サムエル記第2、3章13節以降に記されています。
ダビデがウリヤの妻バテシェバを見初めて、ウリヤを激戦地で戦死するように仕向けた事が、サムエル記第2、11章に記されています。
アラムの王ベン・ハダデがイスラエルの王アハブに、「あなたの妻を奪う」と宣言した事が、列王記第1、20章に記されています。
ヘロデが兄弟ピリポの妻ヘロデヤを奪った事がマルコの福音書6章17節に記されています。
権力者、実力者が、弱者を虐げるのは、昔も今も変わらない事なのであり、
夫婦の中を割くのは、或いは家庭を崩壊させるのは、悪魔と、悪魔の手先となった権力者、実力者の最大の関心事、課題です。
何故ならば、神様によって結び合わされ、一体とされた夫婦の仲を割く事は、神様が一番悲しまれる事であり、一番惨い仕打ちだと言う事であり、悪魔にとっては勝利の瞬間であり、支配者にとっては、征服欲を満足させる行為だからなのです。
どんなに問題のある夫婦でも、分かれない事が、神様の祝福をいただく、最高の方法であり、最短の道なのであり、分かれさせない事も、神様の祝福をいただく、最高の働きなのです。
12:13 どうか、私の妹だと言ってくれ。そうすれば、あなたのおかげで私にも良くしてくれ、あなたのおかげで私は生きのびるだろう。」
「私の妹だと言ってくれ」とのアブラムの言葉は…真実です。
創世記20章12節に
「また、ほんとうに、あれは私の妹です。あの女は私の父の娘ですが、私の母の娘ではありません。それが私の妻になったのです。」とアブラムとサライが異母姉妹である事が記されています。
また、古来、妻の立場と言うモノは非常に弱い立場であり、夫の庇護があってこその妻の座であり、夫の庇護がなくなれば、未亡人になれば路頭に迷うのは必至です。
そこで、妻を守る意味から「妹」の身分を与える事が行なわれていたようです。
「妻」でありながら「妹」であり、血縁のない者が、一族に組み入れられるのであり、
夫が亡くなっても、一族の庇護の下で守られるのです。
この2つの意味で「妹」としても嘘ではないのですが、しかし、根底にあるのはアブラムの保身であり、明らかに人を欺く意味で使われている言葉です。
恐れが言わせてしまった言葉かも知れませんが、
神様を信頼してハランを出立し、800km以上の旅が守られた事を糧として、神様に期待され、祝福の基となる働きを担う者として成長し、歩んで行くはずが、即ち、試練を受けて、聖化され、益々信仰の高嶺へと歩むべきが、飢饉を恐れてエジプトに行った事で、更に問題に、恐れに遭遇してしまったのです。
恐れの処理の如何によっては、ちょっとしたズレが生じ、更に窮地に自らを落ち込んでしまい、奈落に入り込み、信仰のどん底に沈んでしまう事の典型なのです。
アブラムに「妻に姦淫を犯させても、自分の身を守ろう」とする卑劣な思いはなかったでしょうし、「あなたのおかげで私にも良くしてくれ」は、妻を利用して「利益を得よう」とまでは考えていなかったでしょうが、あわよくば「あなたの妹さんを嫁に貰えないだろうか。これはほんのお近づきの印です。」などと言って、金品を持って来るのを期待していたかも知れません。
余所者は肩身の狭い思いをするものですが、何かと便宜を計ってもらえる事を期待していたかも知れません。
しかし、嘘はアブラムの思惑を大きく外れ、思っても見なかった展開を見せます。
12:14 アブラムがエジプトに入って行くと、エジプト人は、その女が非常に美しいのを見た。
アブラム一行は、利便性のある所に、しかも、余所者が目立たない所を選んで滞在した事でしょう。
しかし、その配慮もサライの美しさを隠すのには役立ちませんでした。
「非常に美しい」との評判はあっという間に噂は広がり、何と、高級官僚にまで、宮廷にまで届くのに、然したる時間は必要なかったようです。
12:15 パロの高官たちが彼女を見て、パロに彼女を推賞したので、彼女はパロの宮廷に召し入れられた。
アブラムが「妹」とエジプト人に紹介したのが徒(あだ)となり、アブラムの予想外の展開となり、サライはパロの側室に推賞され、アブラムの同意を求められる事もなく、サライはパロの権威の下におかれる事となってしまい、アブラムには、もはや、何も出来なくなってしまったのです。
12:16 パロは彼女のために、アブラムによくしてやり、それでアブラムは羊の群れ、牛の群れ、ろば、それに男女の奴隷、雌ろば、らくだを所有するようになった。
皮肉にも、アブラムの予想通り「パロに…よくして」貰い、多くの財産を所有するに至るのです。
しかし、ここに記されているアブラムの財産リストの全てが、パロからの贈り物ではありません。
無一文でエジプト入りしたのではなく、以前から持っていた財産に加えられたのであり、「所有するようになった」と記される程の資産家となったのです。
アブラムが豊かになる一方で、
12:17 しかし、【主】はアブラムの妻サライのことで、パロと、その家をひどい災害で痛めつけた。
とんだとばっちりを受けたのが、パロの一族です。
「災害」と訳されていますが、新共同訳では「恐ろしい病気」、口語訳では「疾病」と訳されていますから、偶然ではない、原因がサライに起因する事が明らかな、災難、事故、病気が立て続けにパロの一家を襲ったのでしょう。
神様は、唯一の神様を知らず、信じない人々にも、太陽神、動物神を崇め、偶像礼拝が蔓延るエジプトにも、占いや呪(まじな)いを通して、夢や幻によって、御こころを教えてくださいます。
酷い災害の真の原因を知ったパロは激怒し、
12:18 そこでパロはアブラムを呼び寄せて言った。「あなたは私にいったい何ということをしたのか。なぜ彼女があなたの妻であることを、告げなかったのか。
12:19 なぜ彼女があなたの妹だと言ったのか。だから、私は彼女を私の妻として召し入れていた。しかし、さあ今、あなたの妻を連れて行きなさい。」
パロは、嘘を吐いたアブラムに対して、嘘に同調したサライに対して、手荒な行動は取りませんでした。
パロが事の真相を知った理由を聖書は明らかにしていませんが、神様は何らかの方法で真の原因をパロに示すと同時に、アブラムたちに手を出せば、更なる災害が、もっと酷い災害が起こる事をも示されたのでしょう。
更に神様は、アブラムの一族に十分な保護を講じるように、警護するようにパロに示されたのでしょう。
12:20 パロはアブラムについて部下に命じた。彼らは彼を、彼の妻と、彼のすべての所有物とともに送り出した。
20節のパロの命令は、単なる国外追放、強制退去、放逐、厄介払いではありません。
国境まで、厳重な警護をつけて丁重に送り出したのであり、無言のうちに、アブラムの一族が、エジプト王パロの庇護下にある事を、内外に示唆したのであり、アブラムの一族に危害を加えるような事をすれば、強国エジプトの報復にあうであろう事を示唆したのです。
聖書を読む私たちは、事の真相を知っていますが、事情を知らない周辺住民、特に追い剥ぎ、強盗の類は、エジプトを恐れて、アブラムの一族に手を出すのを控えた事は容易に想像出来るでしょう。
アブラムの嘘は、褒められた事ではなく、汚点と断定してもよい、情けない事ですが、
神様はアブラムを咎めだてしません。
しかし、決して容認した訳ではありません。
神様はアブラムとの約束の成就を優先させて、不安に駆られて勝手な行動を取ってしまったアブラムを、恐れるアブラムを、嘘をつくアブラムとサライを守ってくださったのです。
【適応】
嘘も方便、などと申します。
確かに、病気で余命幾ばくもない人に「あなたは直らない、死ぬ」と宣告する事は残酷であり、「大丈夫、良くなるよ」と励ます場合はあるでしょう。
再起不能な状態の人に、駄目出し、追い討ちは掛けないで、「何度でもやり直せるよ、何とかなるよ」と励ます場合もあるでしょう。
真相を知っていても、本人の口から発表すべきであり、「知らない、分からない」と濁しておくのが良い場合もあるでしょう。
しかし、保身のために嘘をつく事、根回しをして嘘を強要する事、嘘に荷担させる事は断じてすべきではありません。
小さな嘘でも、嘘は嘘であり、嘘を隠すために、嘘が露見しないために、更に嘘をつく事になります。
嘘は広がって行くのであり、嘘は深まっていくのであり、嘘は他人を巻き込みます。
本人の思惑とは全く違った方向に進み、思いも寄らない結果に行き着きます。
しかも、取り返しのつかない、修復不可能な結果になります。
その全責任は、結果は、自身で負わなければなりません。
嘘は神様を信じる者に相応しい行為ではなく、神様を悲しませ、悪魔を喜ばせます。
嘘は神様から離れさせ、悪魔に近づかせます。
嘘は人を悪い方向に導き、人を巻き込み、人を苦しめ、人を悲しませ、人を不幸にします。
嘘は必ず暴かれ、隠しおおせるものではありません。
不安や恐れから逃れようとする時、嘘によって解決を計ると、一時凌ぎを計ると、必ず嘘の泥沼に陥ります。
信仰者でも不安を感じるし、恐れを抱きます。
信仰を持っていれば、不安にならない、恐れない、何て事はありません。
信仰が弱いから、不安になるんだ、恐れるんだ、でもありません。
不安や恐れは、どんな時でも神様に従う道を選ぶための、信仰の確立のための訓練であり、また、自分の弱さを正しく知るために必要なモノなのですから、不安や恐れを恥じる必要も、隠す必要も、誤魔化す必要もありません。
感じた不安を、抱いた恐れを、正直に、直ぐに、包み隠さず神様に申し述べれば良いのであり、助けを、解決を、守りを願えば良いのです。
アブラムの場合、飢饉に遭遇した時、その不安を申し述べれば良かったのです。
エジプト入りで恐れを抱いた時、その恐れを告白すれば良かったのです。
神様が指示を出し、知恵を授け、勇気を与えてくださいます。
また、直接に、間接的に助け手を起し、助け手を遣わしてくださいます。
人間は弱い生き者であり、漠然とした不安、恐れには信仰的に対処出来ても、具体的な事象、迫り来る危険、突発的な事件、飢饉であるとか、迫害、誹謗中傷には弱く、信仰的な判断、決断をする余裕もなくなり、神様に祈る事も出来ず、神様の回答を待つ事も出来ず、咄嗟に、吟味する余裕もなく、自己判断で逃げ出し、嘘をつきます。
人間は弱い生き者であり、誰もが、大小、強弱、長短様々な不安を感じ、恐れを抱きます。
問題は不安を感じる事、恐れを抱く事ではなく、対処の仕方なのです。
慌てて、前後の見境もなく、逃げ出すのではなく、祈りましょう。
咄嗟に嘘をつくのではなく、誤魔化すのではなく、祈りましょう。
祈る余裕がなく、行動してしまい、嘘をついてしまう事もありましょうが、落ち着いてから、じっくり考えてみたならば、相応しくなかったと思ったならば、逃げ出してしまったなら、戻れる所まで戻り、嘘をついてしまったなら、遅くはありませんから本当の事を告白しましょう。
神様は一切の失敗を認めないお方ではありません。
神様に時間切れもありません。
逃げ出さないに、嘘をつかないに越した事はありませんが、逃げ出してしまっても、嘘をついてしまっても、それで終りではありません。
神様は悔い改めるのを待っていてくださり、必ず、助けてくださり、守ってくださいます。
不安や恐れを払拭し、安心と平安を与えてくださり、信仰の確信を与えてくださいます。
神様は失敗しない、嘘をつかない優等生を求めておられるのではなく、失敗しつつも神様から離れない生き方は自身の信仰を強くし、周囲の人々への証しとなるのであり、神様はそんな人を求めておられるのです。
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聖書個所:ルカの福音書24:1~12 2015-4-5礼拝
説教題:「よみがえりの意味」
【導入】
イースターおめでとうございます。
イースターは復活祭とも呼ばれていますが、これがイエス様の復活、甦りを記念する日、お祭りであることは皆様よくご存知の事と思います。
このイエス様の甦りですが、仮死状態から息を吹き返した、死んだ人間が蘇生した、と言うようなものではありません。
仮死状態から息を吹き返す、死んだ人間が蘇生する、と言うのは極、稀な事でありそれだけで奇蹟として驚くべき事ですが、イエス様の甦りは、これらの事とは全く性質の異なる出来事なのです。
イエス様の奇蹟の数々を知っていらっしゃる皆様ですから、イエス様が寡婦の一人息子を生き返らせた話や、マルタ、マリヤの兄弟ラザロを生き返らせた話しを覚えていらっしゃると思いますが、それらの事とイエス様の甦りは全く違う種類、性質の出来事なのです。
何故ならば、イエス様の復活、甦りは、聖書に預言されていた事であり、イエス様の預言の成就であり、人間を罪から救い、永遠のいのちに入れると言う、神様のご計画の完成であるからです。
しかし、この事を理解するのは簡単な事ではありません。
生前、イエス様はご自身が復活する事を、甦る事を預言していましたが、弟子たちはそれを全く理解してはいなかったのです。
この事で弟子を責める訳には行きません。
死は絶対であり、死は人間にはどうしようもない現実であり、逃れる事も、先延ばしにする事も出来ない、唯受け入れるしかない現実なのです。
イエス様に生き返らせていただいた寡婦の一人息子もラザロも、死から脱出しましたが、それは一時的なもので、何時までも生き続けた訳ではありません。
人間、誰しもが遅かれ、早かれ、必ず死ぬのであって、その死の力から逃れおおせる人は、唯の一人も居ないのです。
イエス様を偉大な預言者、メシヤ、キリストと考え告白していた弟子たちも、目の前で十字架上に死んだイエス様を見ているのです。
どんなに偉大な預言者でも死んでしまえばお終いだと考えるのは無理からぬ事です。
この厳然とした死と言う事実の前にはなす術もなく、弟子たちはイエス様の死を受け入れるしかありませんでした。
政治的にも、宗教的にもユダヤ人を解放して下さるお方と信じていたけれども、死んでしまえばお終いです。
イエス様の死を目撃した弟子たちは落胆して其々の家に帰り、失意のうちに安息日を過ごしていた事でしょう。
ここで言うところの安息日は、ユダヤ教の安息日の事で、現代の暦では土曜日に当ります。
その翌日、日曜日の朝の出来事が、24章1節から記されているのです。
【本論】
24:1 週の初めの日の明け方早く、女たちは、準備しておいた香料を持って墓に着いた。
24:2 見ると、石が墓からわきにころがしてあった。
24:3 はいって見ると、主イエスのからだはなかった。
24:4 そのため女たちが途方にくれていると、見よ、まばゆいばかりの衣を着たふたりの人が、女たちの近くに来た。
失意のどん底にあったのはイエス様の十字架上での死を目撃した弟子たちだけではありません。
イエス様の側近くに仕えていた女性たちも同じです。
彼女たちも、弟子たちと共に、イエス様ご自身が語られた甦りの預言を何度となく聞いたいた筈ですけれども、それはイエス様の死という現実を覆すものとはならず、弟子たち以上の落胆と失意の中に安息日を過ごしていた事でしょう。
もう、何時まで待っても、祈っても、願っても、あの愛するイエス様と話しをする事も、一緒に食事をする事も出来ないのだ。
楽しく語らい、教えていただいた事などなどを、次々と思い起こした事でしょう。
喪失感(そうしつかん)と虚無感に何もする気も、気力も起こらない。
愛する者を亡くした悲しみは、決して埋める事も、紛らわす事も出来ません。
それでも、安息日が明けたので、気を振るい立たせてイエス様の埋葬の奉仕のために墓に来たと言う場面なのです。
すると、不思議な事に、墓に来て見るとイエス様の御身体がなくなっているではありませんか。
しかし、御身体がなくなっていても、イエス様の復活の預言と結び付けて考える事が出来ないで途方にくれている。
そんな途方にくれている女性たちを、神様は「愚か者」と叱らずに、御使いを遣わして事の次第を悟らせてくださいます。
24:5 恐ろしくなって、地面に顔を伏せていると、その人たちはこう言った。「あなたがたは、なぜ生きている方を死人の中で捜すのですか。
24:6 ここにはおられません。よみがえられたのです。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。
24:7 人の子は必ず罪人らの手に引き渡され、十字架につけられ、三日目によみがえらなければならない、と言われたでしょう。」
24:8 女たちはイエスのみことばを思い出した。
御使いが語った言葉に触発されて、イエス様が語られた甦りの預言を思い出した事でしょう。
しかし、思い出したとは言っても、完全な理解に至った訳ではありません。
甦りの意味は、仮死状態からの蘇生や、息を吹き返したと言う事ではありません。
完全に、本当に、絶対に死んでいるイエス様を、神様が甦らされたのです。
甦った身体は、神様が与えられた新しい身体であり、私たちの持つこの肉体とは違う身体です。
聖書を読む私たちは、経緯を知っており、全体像を把握しており、これらの事を教えられていますが、彼女たちには、そんな知識はありません。
そんな不完全な、不充分な知識ながらも、信仰を持って御使いの言葉を信じたところに、女性たちの素晴らしさが現れています。
理解出来る事、当然の事を受け入れるのに信仰は必要ありません。
常識や経験、知識では信じられそうもない事を受け入れるのが信仰です。
しかも、闇雲に、何の根拠もなく受け入れるのではなく、神様なら何でもお出来になる、神様なら不思議な事も、常識外れな事でもお出来になる、今は理解出来ないが、何時か、必要なら明らかにしてくださる、として受け入れるのが信仰です。
彼女たちが、甦られたイエス様を見ないで、甦られた事を受け入れたのは、素晴らしい事なのではないでしょうか。
良くは理解出来なくても、現実に、眼の前に甦られたイエス様を見たならば、受け入れるのは容易な事でしょう、しかし、甦られたイエス様を見ないで、甦られた事を受け入れるのは容易な事ではありません。
証拠を見せてもらいたい、納得出来る説明が欲しい…誰もが思う所でしょうが、彼女たちはそれをしないで、御使いを信じ、神様を信じ、イエス様の甦りを受け入れたのです。
このイエス様が甦ったという素晴らしい知らせを一刻も早く皆に知らせなければ、と考えた彼女たちは、
24:9 そして、墓から戻って、十一弟子とそのほかの人たち全部に、一部始終を報告した。
24:10 この女たちは、マグダラのマリヤとヨハンナとヤコブの母マリヤとであった。彼女たちといっしょにいたほかの女たちも、このことを使徒たちに話した。
女性たちは見た事、聞いた事を弟子たちに証ししました。
一人の女性の証しではありません。
名前が記されている女性が3人、他にも数人の女性がいた事が記されていますから、少なくとも5人以上の証言者が異口同音に見た事の一部始終を、イエス様の甦りを報告したのです。
24:11 ところが使徒たちにはこの話はたわごとと思われたので、彼らは女たちを信用しなかった。
この「たわごと」と訳されている言葉は医学用語で、精神錯乱状態の支離滅裂な発言を現している言葉です。
ユダヤ人の間では2人以上の証言が、証言の信憑性を保証すると考えていましたから、如何に常識では考えられないような不思議な事であっても、5人以上の女性の証言なのですから、一考に価するもの以上、と考えるのが妥当でしょう。
しかし、弟子たちは彼女たちの必死の証言を全く意に介せず黙殺してしまったのです。
幾ら女性の地位が低かった時代とは言え、イエス様の弟子たちが、5人以上の女性の言葉に聴く耳を持たなかった、と言うのは残念でなりません。
しかし、証言と言うものは、このような宿命を持っていると言う事なのでしょう。
真実であるかどうかよりも、信頼できる人間の言葉かどうかの方が重要視されるものなのです。
事実、ユダヤ教の宗教指導者たちはイエス様の出自を問題にして、イエス様の言葉に権威を認めず、葬り去ってしまいましたが、イエス様の弟子たちも、女性の証言であるとして重く見る事をせず、たわごととしてあしらい、ユダヤ宗教指導者たちと同じ徹を踏んでしまっているのです。
弟子たちも私たちも、証言や説教を人の言葉として聴くのではなく、真実かどうかを聖書に照らし合わせて見極めなければなりません。
そのためには、日頃から聖書に親しみ、聖書の言葉、教えに照らし合わせて判断する習慣を付けて置く事が大切なのです。
人を信用して説教を聴くのではなく、神様の約束を信じて、人を通して語られる聖書の教え、説教を聴くのです。
そうすれば、ユダヤ人宗教指導者やイエス様の弟子たちと同じ徹を踏む事はないでしょう。
24:12 〔しかしペテロは、立ち上がると走って墓へ行き、かがんでのぞき込んだところ、亜麻布だけがあった。それで、この出来事に驚いて家に帰った。〕
多くの弟子たちが彼女たちの言葉を、たわごとと処理してしまった中で、ペテロだけは墓に走って行った事が記されています。
さすがペテロ、と言いたいところですが、ペテロもまた他の弟子たちと同様、イエス様の預言を、御使いの言葉を、信じた訳ではなく、墓を覗き込んで、御身体がないと言う事実を確認したのですが、イエス様の預言と、御使いの言葉と、お身体がない事を、一つに結び付ける事ができずに、ただ驚いただけで、家に帰って行ってしまったのです。
【適応】
世の中には不思議な事、奇蹟と呼ばれる事、常識では説明出来ない事がたくさんあります。
超常現象などと呼んだりしますが、その中には、科学的な説明を付けられる事もあるでしょう。
そして、科学的な説明が可能だと、奇蹟ではない、と断定しますし、科学的な説明が出来ないと、からくりがある、嘘だ、騙されている、迷信だ、たわごとだ、と言って切り捨ててしまうのが私たちや弟子たちの姿です。
たわごと、として切り捨てないまでも、私には関係ない、私とは世界が違うと言って帰って行ってしまうのが、有耶無耶のままで、真剣に考えようとはしないのが、私たちの姿なのではないでしょうか。
しかし、どんなに信じられなくても、どんなに不思議でも、神様が語られ、神様が約束されたならば、それは必ずその通りになるのです。
イエス様の甦りは、仮死状態からの生還、死からの蘇生ではありません。
神様の約束で、ご計画で、完全に死んでいたイエス様が甦らされたのです。
その神様が、イエス様を信じれば、罪が赦され、永遠の命を与えると約束して下さっているのです。
この神様の約束の保証となるのが、イエス様の甦りなのです。
イエス様が甦ったからこそ、神様の約束の全てが、その通りになると確信をもって言い切る事が出来るのです。
今は死ぬ身体を持っているけれど、神様の約束で死なない身体、永遠の命が与えられると信じる事が出来るのです。
信じても、今もまだ罪深く、罪を赦された者とされた、と言う実感が湧かないかも知れないけれども、神様の約束だから「義」とされているのだ、と確信をもって言う事ができるのです。
神様の約束だから間違いなく、その通りになるのです。
イエス様の甦りは、それはそれで素晴らしい事ですが、それだけではなく、もっともっと私たちと深い関りがあり、その関りこそが大切なのです。
イエス様の十字架上の死は、私たちの罪の刑罰の身代わりであり、イエス様の復活は、私たちに永遠の命が、新しい身体が与えられる事の印なのです。
イエス様の死と復活、その歴史的事実は、罪の赦し、永遠の命の約束の確実性を指し示しています。
この神様の約束を信じて、罪赦された者として、永遠の命を与えられた者として、今日もこれからもイエス・キリストを信じて、
イエス・キリストに従って歩んで行こうではありませんか。
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