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聖書箇所:創世記14112                2015-5-31礼拝

説教題:「群雄割拠の争いに巻き込まれた甥ロト」

【導入】

アブラムと甥のロトとは、結果として別れて暮す事になりましたが、決して不仲な訳ではありませんでした。

同じように、アブラムの僕らと、甥のロトの僕らの仲も決して悪くはありませんでした。

ウルを出立しハランまでの900kmの旅、ハランからカナンまでの800kmの旅、カナンからエジプトへの300kmにも及ぶ旅の連続は、また、見ず知らずの土地に滞在するのは、並大抵の苦労ではありません。

協力し合ってこそ、助け合ってこそ、苦労を乗り越える事が出来るのであり、譲歩があり、遠慮があってこそ、共に困難に立ち向かう事が出来るのです。

苦労、困難には乗り越えられ、立ち向かえても、長旅続きでは、寄留者であっては神経が疲弊し、財産が消耗し、家畜が減少するのが当たり前の状況にあって、神様のアブラムへの祝福の故に、甥のロトも祝福のお零れを受け、アブラムも甥のロトも、アブラムの家族も甥のロトの家族も、アブラムの僕らも甥のロトの僕らも、長旅の間、着物は擦り切れず、足も腫れなかったのです。

苦労の多い流浪の旅ですが、其々の持ち物は増え続け、特に、家畜に焦点を置くなら、常に家畜の餌が、新しい草が保証される旅であったのであり、家畜の数は増加の一途を辿り、相当の資産家になって行ったのです。

家畜が増えるのは好ましい事ですが、カナンの地に入って、定着するとなると、状況は変ってきます。

今の今まで協力し合い、助け合っていた僕同士ですが、其々の主人の家畜を第一、大切に思う行動から、牧草地争いが昂じて、別れて暮す事になってしまったのでした。

出来事、物事は単純ではなく、状況が複雑に絡み合い、関係しあっています。

ある一面だけを見て判断してはなりませんし、批判してもなりません。

財産が争いのもと、と決め付けてはなりません。

財産が悪い訳ではありません。財産を管理する人間の問題です。

争い、分裂=悪い事と決め付けてもなりません。

争いは、時に真理を明らかにする役割を果たし、分裂は、異質が取り除かれ、平和や新しい働きのスタートともなるのです。

更には、背後に働かれる神様の存在を忘れてもなりません。

出来事の全てが神様、御自らが、直接になされる訳ではありませんが、神様の許しの中で起こるのであり、人間には知らされていない理由があるのであり、神様の御こころを思索しつつも、分からない事は分からない事として、そのまま受け入れなければならない事もあるのです。

アブラムと別れて暮す事になった甥のロトは、ヨルダンの低地、良く潤った土地を選び、ヨルダンの低地に住む事になりますが、ロトにとって魅力的な土地は、多くの人々にとっても魅力的な土地であり、人々が集まり、コロニーを形成し、有力者が現れ、都市国家を形成し、覇権を争うようになって行ったのです。

【本論】

14:1 さて、シヌアルの王アムラフェル、エラサルの王アルヨク、エラムの王ケドルラオメル、ゴイムの王ティデアルの時代に、

14:2 これらの王たちは、ソドムの王ベラ、ゴモラの王ビルシャ、アデマの王シヌアブ、ツェボイムの王シェムエベル、ベラの王、すなわち、ツォアルの王と戦った。

12節の記述から当時の国際関係を知る事が出来ます。

先ず、1節ですが、

シヌアル」はシュメール、バビロンの辺りであり、現在のイラク南部地域ではないかと思われます。

エラサル」はバビロンの北部、アッシリヤ、アナトリヤ辺りであり、現在のトルコ東部ではないかと思われます。

エラム」はメソポタミヤの東、ペルシャ湾の北、ティグリス河の西部辺りであり、現在のイラン西部ではないかと思われます。

ゴイム」はヘブル語で「諸国民、異邦人」の意味であり、特定の地名ではなく、地名を忘れられてしまった故に付けられたた名前ではないかと思われますが、現在のトルコ中部辺りではないかと思われます。

これら4つの大国が同盟を結んでパレスチナ北部を支配していたのです。

対する、2節ですが、

ソドム」「ゴモラ」「アデマ」「ツェボイム」「ベラ、すなわち、ツォアル」はヨルダンの低地、死海の南岸、カナンの地に点在する都市国家であったようです。

北に1節の記す国家群が、南に2節の記す国家群があったのですが、これらの、聖書の記す場所を、正確には特定できません。

しかし、大まかな位置関係を把握していただけたら、当時の国際情勢、緊張関係の理解の助けになるのではないかと思います。

さて、興味深いのは二人の王様の名前であり、「ソドムの王ベラ」と「ゴモラの王ビルシャ」です。

ベラ」は「悪において」、ビルシャ」は「よこしまにおいて」の意味であり、元来の名前をもじって付けられた通称、あだ名ではないかと考えられています。

本名は極普通の名前であって、或いは、ひょっとしたらかわいらしい名前で、迫力がないので、敢えて、ちょっと恐ろしい名前に言い換えて、凄みを利かせ、睨みを利かせようとしたのかも知れません。

ベラの王、すなわち、ツォアルの王」には王名の記述がありません。

聖書に登場する人名や地名は、当時の文化が影響し、時代が影響して付けられ、また、思い出して記され、記された時代の影響を受けていますから、現代の私たちにとって、難解になってしまう事もありましょうが、聖書は難解だから、或いは意味不明な単語が多いから、抜けがあるから、信頼に値しないとの判断は早計でしょう。

聖書は「創作」であると考える方々がいらっしゃいますが、もし聖書が「創作」なら、国名にしても、王名にしても、抜けはないでしょうし、意味不明な名前を付けはしないでしょう。

実在の地名を付けるでしょうし、如何にも強そうな名前、偉大そうな名前を付けるのではないでしょうか。

聖書は伝承の過程において抜けや意味不明になってしまった部分がありましょうが、それをそのままにしている事が、逆に、伝承の信頼性を現しているのであり、聖書は信頼性の置ける書であると言えるのではないでしょうか。

14:3 このすべての王たちは連合して、シディムの谷、すなわち、今の塩の海に進んだ。

3節の記述は、今回取り扱っているエピソードが起こった時代と、記述された時代との差が存在する事を示唆します。

読者は「シディムの谷」を見る事が出来ず、シディムの谷」と呼ばれていた所は「塩の海」になっていた事を教えているのです。

今回取り扱っているエピソードが起こった時は、「塩の海」が小さかった事を示唆し、10節の「瀝青の穴」の実在を暗示し、聖書に記された時には、「シディムの谷」も「瀝青の穴」も拡大してきた「塩の海」に呑み込まれていて、その存在が確認できなかったので、3節の注釈を必要としたのでしょう。

14:4 彼らは十二年間ケドルラオメルに仕えていたが、十三年目にそむいた。

二つの勢力、北の4大強国と、南の5国は、凡そ800km程離れています。

この800kmは現代の800kmではありません。

移動は徒歩と家畜の力に頼るしかありませんから、一日平均40km走破したとしても、二十日を必要としますから、頻繁な交流が在った訳ではありません。

北の4大強国が軍隊を駐留させる程ではなかったようですが、それでも、北の支配国の、南の被支配国に向けられる抑圧は恒常的であり、永続的であった事でしょう。

季節毎に、収穫の一部を搾取するために北の4大強国から軍隊が派遣され、南の5国の貴重な農作物を、家畜を、工芸品や金銀を巻き上げられていたのです。

当初は、北の4大強国に対抗する力を、南の5国は持ってはおらず、北の4大強国の言いなりであり、屈辱に甘んじるしかなかった。

しかし、南の5国は徐々に力をつけ、軍備を増強させ、連合して、ついに十三年目に、北の4大強国に反旗を翻し、貢を納める事を拒否するに至ったのです。

14:5 十四年目に、ケドルラオメルと彼にくみする王たちがやって来て、アシュテロテ・カルナイムでレファイム人を、ハムでズジム人を、シャベ・キルヤタイムでエミム人を、

14:6 セイルの山地でホリ人を打ち破り、砂漠の近くのエル・パランまで進んだ。

800kmの遠征は、単独で出来る事ではなく、北の4大強国は連合軍を組織して、南に進軍します。

しかも、直接、一直線に南の5国に進攻するのではなく、行き掛けの駄賃でしょうし、糧食を補給するためでしょう、

アシュテロテ・カルナイム」「ハム」「シャベ・キルヤタイム」「セイル」「エル・パラン」で略奪をしつつ、南へ進軍するのです。

アシュテロテ・カルナイム」は古い地名と新しい地名を重ねて表記し、読者の助けとしていますが、この「アシュテロテ・カルナイム」はガリラヤ湖の東、バシャンの辺り、

ハム」はガリラヤ湖の南東、ギルアデの北辺り、

シャベ・キルヤタイム」は死海の東、モアブの北辺り、

セイル」は死海の南端、ゼレデ川以南、エドム辺り、

エル・パラン」はアカバ湾ではないか、と考えられていますが、

1節、2節で説明したように、正確な位置は特定できません。

5節の「レファイム人」は申命記311節によれば、勇猛果敢な巨人の一族であり、

ヨシュア記1715節に記されているように、後の時代まで勢力を保持した民族ですが、

当時、北の4大強国連合軍には抗(あらが)えず、搾取、強奪に甘んじるしかなかったようです。

破竹の勢いで、ヨルダン川の東岸、死海の東岸を南下する北の4大強国連合軍は、塩の海を大きく回り込んで踵を返し、北西に進路を変え、

14:7 彼らは引き返して、エン・ミシュパテ、今のカデシュに至り、アマレク人のすべての村落と、ハツァツォン・タマルに住んでいるエモリ人さえも打ち破った。

エン・ミシュパテ、今のカデシュ」は塩の海の南西、100km程の辺り、

ハツァツォン・タマル」は塩の海の西の辺りです。

アマレク人」も「エモリ人」も、勇士として名を残す民族ですが、北の4大強国連合軍は、難なく制圧し、行く先々で搾取、強奪を繰り返します。

14:8 そこで、ソドムの王、ゴモラの王、アデマの王、ツェボイムの王、ベラの王、すなわちツォアルの王が出て行き、シディムの谷で彼らと戦う備えをした。

14:9 エラムの王ケドルラオメル、ゴイムの王ティデアル、シヌアルの王アムラフェル、エラサルの王アルヨク、この四人の王と、先の五人の王とである。

ここに北の4大強国連合軍と南の5国の連合軍とが戦いを交えるのですが、北の4大強国連合軍は、軽く見積もっても1000km以上の進軍を続けて来たにも拘わらず、ゆっくり休む間もない、戦いに明け暮れる旅を続けて来たにも拘わらず、北の4大強国連合軍の戦力は保持され、戦士の士気は些かも衰えてはおらず、南の5国の連合軍の抵抗も空しく、南の5国は軍隊を維持、保持する事かなわず、南の5国の連合軍は、シディムの谷に、散り散り、ばらばらになり、北の4大強国連合軍は悠々と凱旋する事になるのです。

14:10 シディムの谷には多くの瀝青の穴が散在していたので、ソドムの王とゴモラの王は逃げたとき、その穴に落ち込み、残りの者たちは山のほうに逃げた。

瀝青」は「アスファルト」の事で、「バベルの塔」の建築に用いられた、便利、強力な建材ですが、シディムの谷には多くの瀝青が噴出していたようです。

塩の海」に呑み込まれてしまった「シディムの谷」ですが、現在も「アスファルト」が噴出しているかは分かりません。

聖書巻末地図、「キリスト時代のパレスチナ」を見ていただくと、「塩の海、または死海」カッコ「アスファルト湖」と記されて、往時の様子が覗えましょう。

戦いは一方的、北の4大強国の圧勝であり、南の5国の連合軍は瓦解、敗走し、王様も命からがら逃げるのが精一杯だったようです。

多くの戦死者が出る中で、ソドムの王は助かったようです。

17節でアブラムを出迎えているからです。

軍隊の守りもなく、無防備となった都市は、北の4大強国連合軍の略奪の限りにあい、

14:11 そこで、彼らはソドムとゴモラの全財産と食糧全部を奪って行った。

14:12 彼らはまた、アブラムのおいのロトとその財産をも奪い去った。ロトはソドムに住んでいた。

11節で、「ソドム」「ゴモラ」から搾取していますが、「アデマ」「ツェボイム」「ベラ、ツォアル」に触れていません。

この記述から、北の4大強国連合軍の遠征は、南の5国の反乱、謀反を叩くのが直接、唯一の目的ではなく、見せしめ、征伐のための、殲滅、壊滅が目的の遠征でもなく、当時の、国際関係の出来事の一つであり、列強国が連合はするけれども、その目的は弱小国を押し並べて殲滅、壊滅するためではなく、人間を殺せば、大きな憎しみを買ってしまいますから、人間は生かしておいて、何回も搾取出来るように、農作物、家畜だけを奪って引き上げ、小さな町では大した戦利品は見込めませんから、手を付けず、適度に残しておき、

大きく育つのを望みつつ、引き上げたのではないでしょうか。

そんな中で不幸だったのが、ロトの一族です。

アブラムと別れた直後は、ソドムの町から遠くもなく、近過ぎもしない所に住まいを構えていましたが、町は便利であり、また、安心であり、段々近づき、ついに物理的にも、精神的にも一緒になってしまい、北の4大強国連合軍の略奪に合い、拉致されてしまったのです。

【適応】

アブラムの甥のロトの災難を、自らソドムに近づいた結果であり、自業自得だ、自己責任だと責めてはなりません。

見た目でヨルダンの低地を選んだ結果だ、因果応報だと、決め付けるのも正しい事ではありません。

正しい者には神様の守りがあり、災難は正しくない者に臨む、との考えも、常に正しいとは言い切れません。

私たちは聖書を読んでいるので、ソドムやゴモラの状態を知っていますが、ソドムとゴモラだけが特異な、悪徳の町であった訳ではありません。

当時の社会構造や倫理観を、道徳観念や人権思想などなどを考慮しなければなりません。

聖書は男性社会、女性の地位の低さ、奴隷制度について何も記してはいませんし、聖書は「聖絶」を奨励していますが、あくまで条件付きであり、これらを現代に適応したり、肯定するような発言をしたならば、大変な事になります。

安易な決め付けや、思い込みは厳に慎まなければなりません。

現代の常識や社会構造、倫理観で、道徳観念や人権思想などなどで、聖書の世界の出来事を評価しては、正しい判断が出来ませんし、逆もまた然りです

現代の社会構造や常識、倫理観、道徳観念や人権思想などと、聖書の時代の社会構造、聖書の教える倫理観、道徳観念や人権思想などの両方を知っている事に意味があるのではないでしょうか。

世の人々は聖書の教える倫理観、道徳観念や人権思想などを知らないのですから。

聖書の登場人物や、出来事は第三者的な批評をするために記されているのではありません。

自分に置き換えて考えなければならず、時にお手本にする人物が登場し、出来事が起こり、時に警告としての人物が登場し、出来事が起こりましょう。

良いお手本であれ、悪いお手本であれ、それをどのように生かすかが問われているのではないでしょうか。

聖書の記事を第三者的に見て、ああだ、こうだと批判しても意味はありません。

アブラムの甥のロトの災難について、神様は何も仰ってはいません。

見た目で選ぶとこんな災難に遭うんだよ、悪に近づくとこんな災いに巻き込まれるんだよ、ではありません。

ソドムとゴモラが略奪を受けたのは、神様の裁きの予兆ではありません。

ソドムとゴモラが滅ぼされたのは、ソドムとゴモラの責任ではなく、当時の社会への警告であり、現代に生きる私たちや社会への警告です。

当時の国際社会は、弱肉強食社会であり、略奪が普通に行なわれていたのであり、偶像礼拝が蔓延り、乱れた性意識だったのです。

ダビデはサウル王の迫害を避けるため、ペリシテ人の地に逃れ、ペリシテ人の地に拠点を置き、各地を襲い、略奪と殺戮を繰り返しましたが、これが当時の社会だったのです。

勿論、略奪がよい事だ、殺戮も許される、ではありません。

聖書は単なる道徳の書ではなく、単純な警告の書でもなく、社会と関わって生きていく人々や、出来事を織り交ぜて記し、神様の側、即ち、あるべき姿と、現実の生活との間に生じる葛藤を浮き彫りにして、私たちに考えさせるチャンスを与えているのではないでしょうか。

最初に申し上げましたが、出来事の全てが神様、御自らが、直接になされる訳ではありませんが、神様の許しの中で起こるのであり、人間には知らされていない理由があるのであり、神様の御こころを思索しつつも、分からない事は分からない事として、そのまま受け入れなければならない事もあるのです。

世の中は複雑に関係していて、単純に因果応報、を持ち出して結論付けてはならず、特に現代は非常に複雑に関係、関連していて、全体を把握した上で判断、行動するのは至難の業です。

社会の矛盾、一人の人間にはどうしようもない事、抗(あらが)えない事が沢山あり、好むと好まざるに拘わらず、否応無しに巻き込まれてしまいます。

本人の責任に帰するのは酷であり、神様はそんな事を望んではおられないでしょうし、聖書もそんな事を教えてはいません。

事件や出来事の背後には、神様の許しがあっての事ですが、全ての出来事が個々人の責任の結果と判断するのは早計です。

不幸な事件に巻き込まれたり、被害者になってしまう時、時に加害者になってしまう事もあるでしょうが、何でも「罪の結果」と結論付けてしまうのも早計であり、聖書的な判断ではありません。

冷静に受け止め、吟味し、反省すべき点は反省し、神様はこの出来事を通して何をされるのだろう、何を教えようとしておられるのだろう、と沈思黙考し、神様の時を待つ事が重要なのではないでしょうか。

神様は必ず、最善の策を用意されています。

それが、私の意に添うもの、願いの通り、とは限りませんが、出来事の顛末は、未信者には神様の存在を暗示させるもの、信仰者には神様の存在を確信させるものなのです。

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ペンテコステ記念礼拝・・・鈴木教子宣教師

聖書個所:使徒の働き2章1節から13節                 2015-5-24礼拝

説教題:「今日(こんにち)のペンテコステのしるし」

【聖書】

2:1 五旬節の日になって、みなが一つ所に集まっていた。
2:2 すると突然、天から、激しい風が吹いて来るような響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。
2:3 また、炎のような分かれた舌が現れて、ひとりひとりの上にとどまった。
2:4 すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした。
2:5 さて、エルサレムには、敬虔なユダヤ人たちが、天下のあらゆる国から来て住んでいたが、
2:6 この物音が起こると、大ぜいの人々が集まって来た。彼らは、それぞれ自分の国のことばで弟子たちが話すのを聞いて、驚きあきれてしまった。
2:7 彼らは驚き怪しんで言った。「どうでしょう。いま話しているこの人たちは、みなガリラヤの人ではありませんか。
2:8 それなのに、私たちめいめいの国の国語で話すのを聞くとは、いったいどうしたことでしょう。
2:9 私たちは、パルテヤ人、メジヤ人、エラム人、またメソポタミヤ、ユダヤ、カパドキヤ、ポントとアジヤ、
2:10 フルギヤとパンフリヤ、エジプトとクレネに近いリビヤ地方などに住む者たち、また滞在中のローマ人たちで、
2:11 ユダヤ人もいれば改宗者もいる。またクレテ人とアラビヤ人なのに、あの人たちが、私たちのいろいろな国ことばで神の大きなみわざを語るのを聞こうとは。」
2:12 人々はみな、驚き惑って、互いに「いったいこれはどうしたことか」と言った。
2:13 しかし、ほかに「彼らは甘いぶどう酒に酔っているのだ」と言ってあざける者たちもいた。

(説教本文は非掲載とさせていただいております)

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聖書個所:ヨハネの福音書5:2429                 2015-5-17礼拝

説教題:「命と裁き」

【導入】

私たちを取り囲む環境は目まぐるしく変化しています。

イエス様の時代と現代では何もかもが違いますが、その中でも非常な違いを見せている事の一つは情報の量とそのスピードではないでしょうか。

膨大な量の情報が溢れており、ニュースやインターネットでこの瞬間に世界中の情報を閲覧する事が出来るとは、一昔前には考えられなかった事です。

その情報ですが、全てが有益であり、また必要な訳ではありません。

有害な情報も、危険な情報も、不必要な情報も、偽物や嘘の情報も混在しているのですから、その中から必要な情報を、正しい情報を取捨選択しなければなりません。

聞き流す事も、鵜呑み、丸呑みも情報に対する正しい対応とは言えません。

例え小さな情報であり、地域限定の情報でも、ある情報と出会った時、人はその情報を聞き入れるか、聞き捨てるかの選択をしなければならないのです。

それは今も、2000年前も変らないでしょう。

イエス様と出会い、イエス様の話しを聞いた人は多勢いましたが、その全てがイエス様の話しを受け入れた訳ではありません。

多くの人はイエス様の語られた言葉、ご自身こそが預言者が語り、聖書に約束されたメシヤであるとの証言を正しく受け止める事が出来ず、受け入れる事が出来なかったのです。

この判断は非常に残念な決断ですが、人々はイエス様の証言を拒絶しただけでなく、聖書が、またイエス様のなされた不思議な業が、イエス様を神の子と証ししているのに、多くの人は受け入れられず、信じられなかったのです。

そんな頑なな人々にイエス様は、信じない者にならないで、信じるもになりなさいと、繰り返し語りかけられます。

もしわたしが、わたしの父のみわざを行なっていないのなら、わたしを信じないでいなさい。

しかし、もし行なっているなら、たといわたしの言うことが信じられなくても、わざを信用しなさい。それは、父がわたしにおられ、わたしが父にいることを、あなたがたが悟り、また知るためです。(ヨハネ10:3738

イエス様は言葉と業とによって、ご自身が神様から遣わされたメシヤだと証しをされたのです。

ここにイエス様の証言をどう聞くか、聞く者の姿勢が問われてくるのです。

【本論】

5:24 まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。

24節から教えられる事は、漫然と聞く事が救いの条件ではない事を教えています。

「私たちの魂の救いは、イエス様の言葉を聞いて、イエス様を遣わした神様を信じる事による」のです。

神様は慈愛に富んだお方であり、情け深く、憐れみ深いお方ですが、だからといって誰にでも無条件で赦しを宣言し、永遠の命を与える訳ではありません。

イエス様の言葉を聞き、神様が罪人を救うためにイエス様を送って下さった事を信じる者にだけ、赦しと命が与えられるのです。

人が救われるためには律法を守り行なわなければならない、と言うのが当時のユダヤ人の考えでした。

しかし、律法を完全に守る事が出来る人は一人もいないのです。

それは律法が不完全だからではなく、人間には罪があって、律法の要求をまっとう出来ないからなのです。

律法を字義通り、完全に守れる人はいませんから、救われる人は誰一人いない事になります。

そこで神様はご計画を立て、イエス様の言葉を聞く者、聞いて神様を信じる者を救おうとされたのです。

勿論、ここで言っている「聞く」と言う事は、単に耳で聞く事以上を要求している事は明らかです。

聞き流したり、鵜呑みにするような漫然とした聞き方ではなく、心で聴く、従順な心をもって聴く、聴き従う事を目的として聴く、と言う意味です。

そのようにイエス様の語られる喩え、教え、教理を聴く者は命を持つと仰るのです。

これがイエス様の弟子の聴き方であり、羊の聴き方なのです。

イエス様が「わたしの羊はわたしの声を聞き分けます(ヨハネ10:27」と語っている通りです。

何時でも喜んでイエス様に従おうとする心を持って聴く事を意味しているのです。

斜に構えて、批判的に聞くのではなく、信仰と愛とをもって、聴き入るのです。

愛するお方の語る言葉を一言も聴き漏らさないように、神経を集中し、全身全霊で聴き、従うのです。

これが救いをもたらす聴き方なのです。

私たちが忘れてはならないのは、このようにイエス様の教えを聴く者の姿勢は2000年前も今も同じであり必要であると言う事なのです。

現在、イエス様の言葉を直接聞く事は出来ませんが、聖書を通して、説教を通して聴く事が出来ます。

ですから聖書も、説教も、漫然と読み、また聞くのではなく、そこからイエス様の御心を汲み取る聴き方が必要とされているのです。

同じように「わたしを遣わした方を信じる」と言う言葉も漠然とした神信仰が永遠の命に至る道である事を意味しているのではありません。

日本には八百万の神様がいると言われていますが、そのような漠然とした、曖昧模糊な神様を信ずるのではなく、ここで語られている神信仰は、キリストにある神を信じる事、

罪人を救うためにキリストを遣わしたお方としての神様を信じる事を意味しており、

主イエス・キリストの父なる神様、御子キリストの血によって贖いを計画し、救いの道を提供して下さった方である神様を信じる事なのです。

そのような者は「さばきに会うことがない」のです。

裁きに会わないとは、遠い将来、最後の審判の時の事ではなく、現在の事であり、私たちの罪咎は現在すでに取り去られている事を宣言しているのです。

同じく「死からいのちに移っている」と言う言葉も、将来の約束ではなく、現在すでに命の書に名前が記されている事を宣言しているのです。

イエス様を信じる者は霊的に死んだ状態から、霊的な命のある状態に移っていると言う意味なのです。

私たちは現在、地上に生きていますが、永遠の命を持つ者も、死刑が確定している者も混在していて見分けがつきません。

しかし、イエス様を信じていない者は死刑が確定しており、執行猶予状態にあるのであり、生物としては生きていますが、本当に意味では死んでいるのです。

一方、イエス様を信じた者は、信じたその日の内に、無条件で罪が赦され、死刑判決は破棄され、永遠の命が与えられているのです。

5:25 まことに、まことに、あなたがたに告げます。死人が神の子の声を聞く時が来ます。今がその時です。そして、聞く者は生きるのです。

ここで「死人」と言われているのは本当の死人ではありません。

前節で死刑が確定している者の事を話しましたが、彼らの事です。

つまり霊的に死んだ人々の事なのであり、決して本当に死んで墓に入っている人々の事ではありません。

放蕩息子の喩えで、父親が「この息子は死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかったのだから」と言って祝宴を始めたように、神様から離れた者は、神様から見て死んだ者であり、希望も未来もない状態にあるのです。

しかし、そんな死んだ状態にある者に、神様は、イエス様を送って下さり、イエス様の声を聞かせて下さったのです。

その時が来ている、今がその時なのだとの宣言なのです。

そして、「その時」と言われるタイミングは人それぞれです。

人は一生の間に福音を聞くチャンスがあります。

聖書から、或いは説教から、キリスト教放送、或いはキリスト教の書籍で直接に。

間接的に、キリスト教の教えとは知らずに、聖書の一節を聴く事がありましょう。

その時、聴いて受け入れるか、拒否するかで別れてしまうのです。

次の機会にしようと、多くの人は考えますが、決断は先延ばしにしていては機を逸してしまうのです。

イエス様が仰るように、今がその決断の時なのです。

イエス様の言葉を聴いて決断した人は、生きるのですが、

5:26 それは、父がご自分のうちにいのちを持っておられるように、子にも、自分のうちにいのちを持つようにしてくださったからです。

世界の創造者である父なる神様が、全ての命をも創造された事に疑いを挟む余地はありません。

そして、神様は子なるイエス様に命を支配する権威を与えられたのですが、それは人間に賜物として様々な能力を与えるのとは違います。

イエス様の持っている命に対する権限は、神様の人間の贖いに関する永遠のご計画において与えられたものであり、神様がイエス様に、全人類に命を与える者となるよう任命されたと言う意味なのです。

それで、イエス様の声を聴いて受け入れる者は命を得る事が出来るのです。

同じように

5:27 また、父はさばきを行なう権を子に与えられました。子は人の子だからです。

命を与えると言う事は、裁きと密接に関連しています。

裁きの結果、命が与えられるか、罰が与えられるかが決まるからです。

子なるイエス様は父なる神様からその裁きの権限を委ねられている事の宣言なのです。

イエス様は神ですが、自分の判断で行なう事はなさらず、全て神様に委ね、神様に従いました。

それは全てにおいて神様が全てとなられるためなのです。

子は人の子だからです」この言葉はイエス様の謙りの表現です。

イエス様は実に、ご自身を低くされ、私たちと同じようになられましたが、罪を犯す事なく、その命を人類の贖いのために捧げました。

このイエス様の義人としての生涯が人類の代表として神様に覚えられている事の宣言なのです。

イエス様は神として人類を裁きますが、同時に人類の代表として神様から義の栄冠を受け取るのです。

そのイエス様が受け取った義の栄冠を、イエス様はイエス様を信じる人々に付与するのです。

そこで義と見なされた人々は無罪放免され、義の栄冠を受け、永遠の命に入り、イエス様を拒んだ者は有罪が確定し、永遠の裁きに服さなければならないのです。

5:28 このことに驚いてはなりません。墓の中にいる者がみな、子の声を聞いて出て来る時が来ます。

ユダヤの人々は、また聖書を読み進めて来た人は、イエス様が命を与え、裁きを行なわれると言う神様だけが持つ職権、権威について話された時、非常に驚いた事でしょう。

しかし、これは皆、聖書に記されている事であり、注意深く読むならば、理解出来る事なのです。

しかし、目が曇り、心が閉ざされている人々には不思議で信じられない事として映った事でしょう。

イエス様は更に話しを進めます。

その内容は重要な真理、死者の甦りについてです。

25節では生きていても死んだ状態にある人々が対象でしたが、ここ28節では文字通り本当に死んだ人が対象となっています。

この死者の甦りは全人類的なものであり、決して少数の限られた者たちだけの事ではありません。

アダムとエバから始る人類の全て、死んだ者全て、墓の中にいる者全てが皆出て来るのです。

老いて死んだ者も、若くして死んだ者も、金持ちも貧しい者も、男も女も皆出て来るのです。

この甦りはイエス様の命令によって起こる出来事です。

イエス様の声が死者たちを墓から出て来る合図、号令となるのです。そして、

5:29 善を行なった者は、よみがえっていのちを受け、悪を行なった者は、よみがえってさばきを受けるのです。

全ての人が甦るのですが、甦った人々には、はっきりとした区別があります。

甦って命を受けるグループと、甦って裁きを受けるグループです。

その違いは29節に記されているように善を行なったか、悪を行なったか、ですが、ここで善と言っているのは、善行、功徳、奉仕、献金や、御霊の実である、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制などではありません。

イエス様を神様が遣わされた救い主、メシヤとして信じ、受け入れたかどうかであり、

同じように、悪と言っているのは、悪行、不品行、穢れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、酩酊、遊興などではなく、イエス様を信じず、拒否し、神様が遣わされた人類の救い主と認めなかった人々の事なのです。

この28節、29節のみことばは、この世が全てであって、今の命だけが全てであり、死が終結であると考えている人々に、それは大きな間違いであり、人は死んで終りではない事を教えます。

このみことばは、裁きの日などない、地獄などない、後の世で悪者に対する裁きなどある訳がない。

神様は愛のお方であるのだから、誰をも裁く事などなさらないと考えている人々に、それは大きな間違いであり、裁かれるために甦りがある事を教えます。

このみことばは、甦りは信者の特権であり、悪者は完全に滅びてしまう、絶滅してしまうと考えている人々に、それは大きな間違いであり、信者も悪人もともに甦る事を教えます。

このみことばは、信仰を持っているとか、キリストを信ずると告白しさえすれば、生き方や行為は大して重要ではないと考えている人々に、それは大きな間違いであり、行ないが重要である事を教えます。

イエス様の仰る善い行ないとは文字通りの善行などではなく、イエス様を救い主として信じ続ける生き方の事であり、洗礼を受けておけばいいと言うような信仰生活に警告を与えているのです。

【適応】

善い行ないが何であるかを知っている人、或いはそれを教える人が甦って命を受けるのではなく、実際に善い行ないをする人が甦って命を受けるのです。

イエス様が人類の救い主、メシヤだと知っている人が甦って命を受けるのではなく、実際にイエス様に対する信仰を告白する人が甦って命を受けるのです。

善い行ないとはイエス様を救い主と信じて、私の主として受け入れ、私の心の王座にお座り頂く事です。

ヤコブ書に次のように記されています。

2:19 あなたは、神はおひとりだと信じています。りっぱなことです。ですが、悪霊どももそう信じて、身震いしています。

悪戯に神様を恐れ、闇雲にイエス様を神の独り子と認める事が善い行ないなのではなく、

イエス様の言葉を聞いて、明確な意思を持ってイエス様を私の救い主、贖い主と信じ、受け入れ、合わせてイエス様を遣わした神様を信じる事が善い行ないなのです。

イエス様だけが命を与える権限を持ち、イエス様が神様から裁きを委ねられていると信じる事が善い行ないであり、「善を行なった者」と認められるのです。

イエス様に対する信仰以外、善い行ないと言えるものは何もないのです。

イエス様の言葉を聴いて、説教を聴いて、イエス様は神様が遣わされた人類の救い主であると信じる事が、そして、信じた通りにイエス様を信頼して、イエス様に従って生き続ける事が善い行ないなのです。

その時、裁きに会う事なく、命が与えられるのです。

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聖書個所:ヨハネの福音書5:1923                 2015-5-10礼拝

説教題:「御子に委ねられた裁き」

【導入】

安息日に病人を癒し、病気を癒された人に寝ていた床を取り上げて運ぶ事を命じたイエス様の行為は、祭司長やパリサイ人、律法学者たちの容認するところではありません。

そのような律法に反する行為は、律法を定めた神様への反逆であり、律法を教え、律法の遵守のために命をかけている祭司、律法学者、パリサイ人たちの権威に対する挑戦でもあるからです。

ガリラヤ地方から出て来た、何処の馬の骨か解からない新参者が、何か不思議な事をして人々を驚かせているらしい。

その程度の事で止まっているならば、神に仕える者らしい寛容をしめし、大目に見るところでしょうが、安息日に関する律法を無視して、安息日に病気を癒すと言う行為を行い、更に安息日に荷物を運ばせているとの報告を聞いては黙っていられません。

一人の律法違反行為は、違反者だけに留まらず、その災いはイスラエル民族全体に及ぶのであり、現に、ローマ帝国の支配下に置かれ異邦人に屈服し、屈辱的な従順を強いられているのは、過去に偶像礼拝を行い、神様の命令を軽んじて来た結果であると信じているからです。

これ以上の屈辱は味わいたくない。

早くローマ帝国から解放してくれるメシヤが来ないものか。

神様からの怒りを招くような、メシヤが来られるのを阻害するような行為は徹底的に取り締まらねばならない。

一つ、お灸でも据えておいて、今後二度と律法違反や、自分勝手な事をしないように厳重注意をしようと、犯人探しを始めます。

病気を癒され床を運んでいた人を捕まえて問い質し、イエスという男が犯人だと解かると、イエス様を探し出して糾弾します。

威儀を正した装束姿のユダヤ人指導者に囲まれて、普通のユダヤ人ならば萎縮してしまうところですが、イエス様は詫びを入れるどころか、ユダヤ人指導者の思いも及ばない返答をします。

わたしの父は今に至るまで働いておられます。ですからわたしも働いているのです。

それは、自分を神様と同列に置く内容の宣言であり、このイエス様の発言はユダヤ人指導者にとって驚愕の言葉であり、神様を冒涜する言動であり、断じて赦されるものではなく、イエス様を殺そうとまで思わせる程の激しい怒りとなるのです。

怒り心頭に達しても、人を殺そうとまでは、中々思うものではありません。

律法を誰よりも深く研究し、宗教的指導の立場にいるユダヤ人指導者たちですから、殺人がどんなに重い罪であり、固く禁じられている事であるかを誰よりもわきまえているのですから、ユダヤ人指導者の怒りが、どんなに激しかったかが伺われます。

この怒りは単純な怒りではなく、律法違反の結果下される神様の怒りに対する恐怖と渾然となった、私たちに想像出来ない種類の怒りであったろうと思われます。

【本論】

ユダヤ人指導者たちの、尋常でない怒りに接して、イエス様は弁明をなされます。

この弁明は安息日遵守の規定を破った、と言う訴えに答えるためのものでありました。

そもそもイエス様はユダヤ人指導者たちとの衝突を避けて、ガリラヤに退かれたはずです。

この事は41節からの学びで確認した事です。

それなのにユダヤ人指導者の目が光っているエルサレムに来て、安息日の神聖を犯し、ユダヤ人指導者たちと敢えて事を起こしたのは、目的があるからです。

イエス様の最終目的は十字架ですが、イエス様はこの時すでに、十字架への道、ビア・ドロローサを歩み始めている、と言う事なのです。

その、言わば十字架への道の準備の一環として、避けていたユダヤ人指導者と対峙したのです。

イエス様がわざわざ安息日に奇跡を行い、ユダヤ人指導者と問答を始めたのは、安息日の意味を教えるためではないのです。

勿論、成り行き上、安息日の意味を教える意味もありますが、重要なのは、イエス様がどなたであるか、何の目的で来られたかをユダヤ人指導者だけでなく、ユダヤ人全てに伝えるためであり、単に奇跡を行う昔のエリヤやエリシャのような預言者の登場ではなく、ローマ帝国からの解放者、メシヤではない事を知らせるためであるのです。

ここでのポイントはふたつです。

父なる神様とイエス様とのご関係がどのようなものであるのかと、言う事と、イエス様が父なる神様から与えられた役割は何か、と言う事です。

まず、父なる神様とイエス様とのご関係は、19節で「まことにまことに、あなたがたに告げます。子は、父がしておられることを見て行なう以外には、自分からは何事も行なうことができません。父がなさることは何でも、子も同様に行なうのです」とイエス様がはっきりと述べられているように、天の神様は、父であり、私は子どもなのだ。

親しい関係にあるから父のような神と呼びかけているのではなく、父そのもの、本当の親子の関係だと、仰っているのです。

まことにまことに、ギリシャ語でアーメン、アーメン。

この表現は必ず、特別に深く、重要性を持った発言に先立って用いられる常套句です。

これから重要な事を話すよと、前置きして、「父がしておられることを見て行なう以外には、自分からは何事も行なうことができません。父がなさることは何でも、子も同様に行なうのです」と語り出します。

これは、出エジプト記20章、及び申命記5章にある、十戒の第五戒となる「父と母を敬え」と言う戒めそのものです。

敬うとは、形式だけ整えて、表面的に尊敬していれば良いのではなく、聞き従う、従順である、裏表なく仕える、自分自身のように愛し仕えると言う事です。

そしてそれは23節にある「それは、すべての者が、父を敬うように子を敬うためです。子を敬わない者は、子を遣わした父をも敬いません」につながり、父なる神様とイエス様の関係は同格であり、イエス様を敬わない者は、見かけは父なる神様を敬っているように見えても、その本質は敬う事なく、軽んじていると教えているのです。

神様とイエス様の関係は親子の関係であり、世の親が子どもにして見せ、教える事があるように、神様はイエス様に手本を見せ、働きを委ねました。

世の子どもは親から受け継いだ事を行い、発展させる役割があるが、わたしは神様から委ねられた働きを、命じられた通りにしているだけだと仰っているのです。

世の中では、親の七光り、会社経営者の世襲制、政治の世界では二世議員問題が批判されます。勿論、弊害も多く、その通りだとも思うのですが、それは、単なる利益や既得権の独り占めという事で、確かにあまりよいことではないでしょう。

事実、そうした弊害が現れ、会社や政治がおかしくなる場合もあります。

しかし、ここでイエス様がおっしゃっているのはそんな世襲とかの問題ではありません。

この世に関しては、よい意味でも悪い意味でも、父、或いは親からしか学べない事がある、親から引き継ぐものがある、これが行われなければ親子の関係の意味がなくなってしまうように、少なくともわたしは、父が行うのを見て、その通りにするだけだ、それは、教わった事を機械的に行なうと言う事ではなく、父の心と全く同じになって父に成り代わって行なうと言う事なのです。

そして、世の父親は自分の考え、経験の中で子どもに教え、訓戒を与えますが、父なる神様とイエス様の関係は地上の親子とは全く違う関係である事を示しているのです。

父なる神様には間違いがなく完全であり、イエス様もまた間違いがなく完全であり、父なる神様のご意志を寸分違わず完全に行なう事が出来るのです。

カエルの子はカエル、子は親の背中を見て育つ、子は親の鏡、親の顔が見たいなど、私たちは、知らず知らずの内に、イエス様と同じ意味の事を言っているのです。

無意識のうちにも知っているはずのこの原則を、私たち自身が忘れ、破っているのかも知れません。

子どもに立派になって欲しければ自分が立派に生きて見せる他はなく、いくら自分のようにはなるなとは言っても、イエス様のおっしゃるとおり、親を見て育つと言う原則はすでに決まっているのであり、イエス様も父なる神様の姿を見て、行動しているのであり、父なる神様とイエス様の間にある完全な一致を宣言しているのです。

イエス様は神としての特質の故に、また父なる神との関係の故に、父なる神と無関係に、或いは、父なる神と別々には、何も行なう事が出来ないとの宣言なのです。

それは決して、子なるイエス様に行なう力が欠けているとか、足りないからではなく、ご自分の意思で父なる神様のお考えだけを行なおうとされているのです。

自発的に自らの意思を制限し、神様のご意志を優先させる時、神様はイエス様がすべき事をお示しになられます。

20節「それは、父が子を愛して、ご自分のなさることをみな、子にお示しになるからです。また、これよりもさらに大きなわざを子に示されます。それは、あなたがたが驚き怪しむためです」とある通りです。

世の人々は世襲制を悪く言いますが、責任を果たすために苦労する父を間近で見据えて来た子ども、その苦労のもたらす結果を直接見て来た子ども以外に受け継げないものもあるのではないでしょうか。

生き様とか精神とかは、言葉とか書かれた物では伝え切れないのです。

汗を流し、涙を流し、血を流して来た生き方は、言葉以上に伝わるのではないでしょうか。

多分そうなのだと思います。親には、自分の生き方を子どもに見せる責任があるのです。子どもは、親の生き方から何かをきっと学んでくれるでしょう。

父なる神様と子なるイエス様、勿論、私たちには、到底うかがい知れない、神秘で特別なご関係ですが、私たち人間の親子関係とも無関係ではありません。

聖書におけるどんな問題も関係も、すべて私たちの模範、ひな形になっているからです。イエス様以外にも、聖書にはたくさんの立派な人物が登場します。

モーセもパウロも立派な人たちで、とても真似出来ませんが、私たちが真似出来ようが、出来まいが、神様が示してくださった模範、目指すべき姿である事は間違いありません。

ですから、イエス様のご証言の中にある、ここでの「父なる神様と子なるイエス・キリスト」との関係は、そのまま私たち親子の関係の姿でもあるのです。

これは決して完璧であれとか、立派であれとか、子どもに欠点は見せるなと言う事ではありません。

私を含めて、多くの大人の生き方は参考にして欲しくはないと、残念ながら考えます。

しかし、もう一歩踏み込んで考えて見ますと、確かに重い責任で大変ですが、それによって自分の生き方も変わって来るのであれば、むしろ親にとって幸いであることが分かります。

子どもの模範、目指すべき姿を指し示して行く責任が親にはあるのです。

その責任を自覚する事が、親自身の成長につながり、成長しようとして努力している親の姿を見て子どもも学ぶところがあり、成長するからなのです。

使徒パウロは、ピリピ人への手紙317節で「兄弟たち。私を見ならう者になってください。また、あなたがたと同じように私たちを手本として歩んでいる人たちに、目を留めてください」と言っています。

パウロのように兄弟たちの手本になるような生き方は出来なくても、少なくとも自分の生き方の目指すところは、失敗しながらであってもイエス様に倣う生き方であり、それを子どもに示せたら、伝えられたらなと思います。

19節、20節では、イエス様は父なる神様のお考えを完全に引き継がれ、父なる神様が行なおうとしていた事を完全に行なわれる、と言う事を宣言しているのです。

二つ目のポイント、イエス様が父なる神様から引き継がれた、与えられた役割は何かと言う事ですが、それは言うまでもなく21節の「父が死人を生かし、いのちをお与えになるように、子もまた、与えたいと思う者にいのちを与えます。」と言う事であり、そして22節の「すべてのさばきを子にゆだねられ」たと言う事です。

ユダヤ人指導者はイエス様がご自分を神様と等しくしていると言って非難しましたが、それならばと、イエス様はユダヤ人指導者に、イエス様が父なる神様と同じように死人を生かし、命を与える力を持っている事を宣言されたのです。

つまりイエス様は、人に命を与え、人の罪を裁く権威を持っているのですが、これは、信仰を守るのが難しければ難しいほど、困難であればあるほど、忘れてはならないことです。

私たちは罪を犯さないで生きる事を願いますが、罪を犯さない人間は一人もいないのですから、この人の罪を裁く権威がイエス様に与えられているという事は、そして、イエス様が命を与えたいと思う者に命を与える事が出来る、イエス様を信じる者が一人として裁かれない、赦されると言う事は、言いようのない喜びにつながる宣言なのです。

【適応】

二のポイントで話してきましたが、父なる神様とイエス様とのご関係がどのようなものであるのか、と言う事と、イエス様が父なる神様から与えられた役割は何か、と言う事は別々のものではありません。

父なる神様と子なるイエス様は親子の関係であり、父なる神様のご意志を子なるイエス様が完全に引き継いでおられ、イエス様は神様に代わって、役割を行なわれるのであり、イエス様が行なうのは神様が行なうのと全く変らないと言う事なのです。

その神様のイエス様に委ねられた役割は人を裁き、人に命を与えると言う仕事なのです。

創世記27節に命の事が記されています。

「その後、神である主は、土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで、人は、生きものとなった。」

神様は人に命を与えられましたが、人は罪を犯して呪われた者となり、裁きを受け、死ななければならなくなったのですが、神様はイエス様を十字架につける事で人類の罪を赦すと言うご計画を立て、合わせて、イエス様の死を、私の罪のためであると告白する者に命を与えると決められました。

イエス様は父なる神様から人に命を与える権限を委譲され、この十字架を信じる者に命を与えるのです。

イエス様は命を与えられた神様と同様に、ご自身のご意志のままに、肉体的にも霊的にも命を与える事がお出来になるのです。

イエス様のご意志で与えているのですが、イエス様のご意志、それは神様のご意志であり、不一致や齟齬は全くないのです。

命、これはイエス様が与える事の出来る贈り物の中で最高のものです。

その最高の命を、比類のない神様と同等の権威を持つ者として、そして誰にも異議を申し立てる事が出来ない神様から与えられた権限をもって与えられるのです。

イエス様が与えたいと思う人に与えるのであり、誰からも指示もされなければ、相談する事もなく、イエス様のお考えだけで与える事が出来るのです。

いのちを与える」と訳されているギリシャ語は、非常に強い言葉であり、直訳すると「生きるようにする」なのです。

与えはしたけれど、肉体的にも霊的にも、何時かは弱まり、衰えて行くようなものではなく、生きるようにする、生き続けるようにするとの、積極的な働きかけを意味する言葉であり、何時までも強く、活発であり続ける命を与えるとの約束なのです。

この命を与える、と言う事は裁きと密接に関連しています。

裁きの結果は、永遠の滅びか、永遠に生きるかです。

裁きについて、イエス様はマタイの福音書1028節で「からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。そんなものより、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい。」と仰っていますが、この裁きの権限が神様からイエス様に与えられているのです。

イエス様の裁きは完全であり、神様の裁きと全く変りません。

この裁きと命を与える役割、権限が神様からイエス様に与えられていると信じて、イエス様を敬う事は、イエス様を遣わした神様を敬う事なのです。

イエス様を神様が遣わした人類の救い主として受け入れる事は、神様の救いのご計画を受け入れる事です。

その時、どんな罪を犯していても、罪を赦され、永遠の命を与えられるのです。

イエス様を敬い、受け入れる事、それが私たちのなすべき事なのです。

そして、そのイエス様を信じる信仰者の姿が、子どもや家族の救いにつながる事を覚えておきたいのです。

信仰は個人の応答ですが、個人的な問題ではありません。

救いの道が一つであるなら、個人の問題は全体の問題でもあるはずです。

イエス様に裁きが委ねられている事を私たちは信じていますが、それを子どもや家族に示す責任があるのです。

神様の願いはあなたの救いだけでなく、あなたの家族をも救う事だからです。

私たちの愛する子どもや家族に、イエス様に裁きが委ねられている事を、イエス様に永遠の命がある事を伝えて行こうではありませんか。

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書箇所:創世記131418                 2015-5-3礼拝

説教題:「この地全部を永久にあなたに与えよう」

【導入】

前回、アブラムと甥ロトとの、別れの経緯についてしか触れず、アブラムの心境に付いては殆ど触れませんでしたが、アブラムと甥ロトとの別れは、アブラムにとっては三重の悲しみ、苦しみであり、アブラムの悲しみ、苦しみを確認しておく事は大切な事ですので、

アブラムの悲しみ、苦しみについて少し、触れておきたいと思います。

アブラムの悲しみ、苦しみの第一は、患難辛苦を共にした者との別れだ、と言う事です。

アブラムと甥のロトは、メソポタミヤのウルを出立してから、カナンに入るまでの、直線距離で1700km以上の旅を共にしたのであり、カナンとエジプトとの、凡そ300kmを往復する旅を共にしたのであり、其々の旅での苦労、カナンでの飢饉、エジプトでの問題を共に乗り越えた仲間、同士との別れだ、と言う事です。

アブラムが体験させられた、目的地を知らされていない旅、流浪の旅は、本当に不安の連続だったのではないでしょうか。

現代の道のような、整備された道を行く旅では、快適な乗り物に乗って移動する旅ではありません。

安全が保証された道中ではなく、天幕生活は寛げる時間ではありません。

常に危険と隣り合わせの旅であり、病気や事故、強盗や野獣を恐れる旅です。

一瞬も気を抜けず、気を抜いた瞬間に、命の危険を招く事になってしまうでしょう。

気を張り詰め続ける旅であり、緊張の連続であり、信頼の出来る、気の許せる、ツーカーの仲間がいなくては適わない旅でしょう。

そんな信頼出来る仲間との別れは、年齢の差に関わらず、俗に「片腕を失う」と表現されるような、悲しみ、苦しみであった事でしょう。

第二に、子のないアブラムにとって、甥のロトは我が子のような存在であり、親しい肉親との破綻、別れは、言葉に言い表せない悲しみ、苦しみであった事でしょう。

アブラムと甥のロトとの年齢差は、然程大きくはなかった可能性がありますが、年齢が近かったならばジェネレーションギャップも少なく、助け合う、持ちつ持たれつの、支え合う関係、頼もしい関係であったでしょうし、年齢が離れていたならば、保護し、慈しみ、成長を愛でる、愛しい関係であったでしょう。

歳を経るごとに逞しく成長して行く姿を見る事は、親にとって、親代わりの者にとって、これ以上の安心、喜びはありません。

本当に好ましい、微笑ましい関係であった事でしょう。

そんな、肉親の、本当の親子のような関係の者との別れは、身を割かれるような悲しみ、苦しみだったのではないでしょうか。

第三に、甥のロトが、明らかに好ましくない方向に歩んでいった事への心痛であり、ロトを待ち受けている試練、患難に対する心配、不安でしょう。

何の強制もなく、誘導もなく、ロトが自分で、全くの自由意志で選んだ地域であり、アブラムには全く責任はありませんが、それでも、心配するのが親心と言うのもでしょう。

自己責任だと見捨ててはなりませんし、突き放してしまったり、適宜なアドバイスを怠ってはなりませんが、行き過ぎた介入は、お節介であり、微に入り細に入ったお膳立ては不要です。

失敗して成長するのであり、苦労して身に付くのですから、程度の予想が付いても、黙って任せて、困った時に助けるのが、申し出があった時に惜しまず援助するのが、親の、親代わりの後見人の務めなのではないでしょうか。

甥のロトの前途に待ち受ける試練を、自身の悲しみ、苦しみと感じたのではないでしょうか。

決して、良い土地を失った事への、悲しみや苦しみではなかった、と言う事です。

これらの悲しみ、苦しみと言う前提があって、神様はアブラムに現れ、約束の再確認をされるのです。

【本論】

13:14 ロトがアブラムと別れて後、【主】はアブラムに仰せられた。「さあ、目を上げて、あなたがいる所から北と南、東と西を見渡しなさい。

甥のロトと別れ、悲しみに打ちひしがれ、気落ちしたアブラムに神様は声を掛けてくださいますが、これは、アブラムの歩みと、甥のロトの歩みは別であり、其々に、各々に神様のご介入があり、導きがあり、試練があり、守りがあるのであって、ロトは悪い選択をしたから、失格者となり、烙印を押され、厳しい試練が、困難が待っている、ではなく、アブラムは正しい選択をしたから、花丸を貰って、慰められる、祝福される、でもありません。

ヨハネの福音書2123

わたしの来るまで彼が生きながらえるのをわたしが望むとしても、それがあなたに何のかかわりがありますか」であり、常に、神様と私との関係だけを見、考えなければなりません。

使命も、賜物も、従順も、反発も個人的な事であり、赦しも救いも、個人的な事であり、

他人が関わる余地は、全くありません。

エゼキエル書1820

罪を犯した者は、その者が死に、子は父の咎について負いめがなく、父も子の咎について負いめがない。正しい者の義はその者に帰し、悪者の悪はその者に帰する」のであり、

親子であっても、兄弟であっても、親族であっても、夫婦であっても、全く関係なく、

其々の行為において裁かれ、呪われ、赦され、祝福されるのです。

神様の前に、神様に喜ばれる選択をしたアブラムであり、アブラムの選択に神様は祝福の宣言をなさいますが、この宣言は、創世記127節、

あなたの子孫に、わたしはこの地を与える」の再確認です。

ヨルダンの肥沃な低地は、本当に魅力的であり「喉から手が出る」程に、所有欲を刺激したのではないでしょうか。

長い旅をして来たが、ヨルダンの低地以上に肥沃な、良い土地はなかった。

神様の約束の土地は、このヨルダンの低地に違いないとの思いが、アブラムの脳裏を掠めたのではないでしょうか。

しかし、そんな考えは神様からのものではありません。

見える所が全てでも、見える物が全てでもありません。

見える所は一部分でしかなく、見えない所の方が広く、見える物も一部分であり、見えない物の方が沢山あるのです。

アブラムは目を上げて、ヨルダンの低地を見渡していながら、魅力的なヨルダンの低地を甥のロトに譲りましたが、見えるものが全てではない事を信仰によって知っていたからに他ありません。

13:15 わたしは、あなたが見渡しているこの地全部を、永久にあなたとあなたの子孫とに与えよう。

神様に促されて、アブラムは再び「目を上げて」「見渡し」ますが、そこは、人間が選んだ土地ではなく、神様が見せてくださった土地であり、神様の祝福が、守りが、溢れ、続く土地なのです。

神様は、神様が与えてくださる時まで待つ者に、神様が与えてくださるモノを待つ者に、良いモノをくださらない訳がありません。

見過ごしてしまっていた所に、本物があるのであり、見落としてしまった物に、本物が隠れているのです。

ヨルダンの低地から、眼を転じた所に、もっと素晴らしい肥沃な土地があったのであり、

神様が霊の眼を開いてくださり、嗣業の地を見せてくださったのです。

永久に」は、単なる時間の長さではありません。

「何時までも」「限りなく」を意味しつつ、実質を伴うものであり、具体的なものであり、同じ状態が安定的に続く事を保証しているのでもなく、時代、信仰の状態、、神様のご計画、ご摂理の中にあって、様々な体験や、出来事の中にあっても、失敗や頓挫、離反や反逆などなどがあっても、尚、アブラムの所有を離れる事はなく、アブラムの子孫の所有であり続ける事を保証しているのです。

更に、現実を見れば、アブラムには実子が与えられておらず、子のように過ごして来た甥のロトとも別れ、悲しみ、苦しみの中に置かれていましたが、

13:16 わたしは、あなたの子孫を地のちりのようにならせる。もし人が地のちりを数えることができれば、あなたの子孫をも数えることができよう。

と、神様は宣言なさいます。

15節、16節に「あなたの子孫」と言う言葉が三回も繰り返し使われていますが、神様の約束の確かさを、約束の具体性を現していましょう。

まだ子のないアブラムに三度も語られた事の意味は、大変大きい。

この宣言を聞いた時、アブラムは壮年期であったでしょうが、三度も語られたのですから、鮮明に記憶された事でしょう。

その記憶は、歳老いて、子など望み得ない状況下になっても、折々に思い出されたのではないでしょうか。

先に、約束の再確認と申しましたが、神様のお約束に再確認の必要も、確かさの保証も全く必要ありません。

神様が宣言されたなら、それは常に真実であり、一字一句の間違いもない、部分的な変更もない、完全、無謬のお約束であり、完全に履行されるのです。

神様の宣言は、お約束は、全く疑いの余地のないものなのですが、忘れ易く、疑い易く、迷い易い私たちのために、神様は何度も何度も、宣言を繰り返し、お約束を繰り返し、

宣言の確かさを、お約束の確かさをお示しくださっているのです。

特に、私たちが悲しみに、苦しみに打ちひしがれている時に、神様の宣言、お約束に対する疑いや迷い、不安が生じた時に、神様は、慰めとして、励ましとして、宣言を、お約束を繰り返し、確信を新たにしてくださるのです。

13:17 立って、その地を縦と横に歩き回りなさい。わたしがあなたに、その地を与えるのだから。」

神様は、耳に聴かせて、思い出させ、眼に見せて、安心させるだけではなく、実際に歩く事によって、神様の宣言の、お約束の確かさを体感させてくださいます。

古代、中近東パレスチナでは土地取得の際に、言葉だけでなく、或いは書面上だけでなく、実際に歩いて、双方が確認し合うと言う、儀式的、象徴的行為があったそうですが、

人間の不真実さを補うための、儀式的、象徴的行為の無意味さを一笑にふすのではなく、

常に真実な神様にとって全く不必要な、不釣合いな、人間同士の儀式的、象徴的行為をも採用されて、神様の宣言の、お約束の確かさを保証してくださるのです。

これら一連の、神様の宣言の繰り返しは、お約束のことばの繰り返しは、子のないアブラムにとって、どんなにか大きな、確かな、深い、慰め、励ましとなった事でしょうか。

エジプトで大失態を演じてしまい、信仰者として落第点をつけられても、何も反論出来ない者でありながら、約束を反故にされても、何も要求出来ない者でありながら、神様は神様の真実故に、神様の誠実故に、宣言の確かさ、お約束の確かさを再確認してくださったのです。

13:18 そこで、アブラムは天幕を移して、ヘブロンにあるマムレの樫の木のそばに来て住んだ。そして、そこに【主】のための祭壇を築いた。

ヘブロン」はユダ山地南部、エルサレム南南西30km、海抜1000mの地点にあり、世界最古の都市の一つと考えられ、地理的に、戦略的に重要な地点の一つであり、聖書的にも重要な場所です。

幾つかを紹介するならば、創世記23章に記されていますが、アブラムが妻のサライを葬るために、私有の墓地として買ったマクペラの畑地はヘブロンにあり、また、サムエル記第二、2章に記されていますが、ダビデが油を注がれて、ユダ部族の王となった場所であり、

同じく、サムエル記第二、5章に記されていますが、ダビデがイスラエル民族の王となった場所であり、非常に意味のある、歴史的な場所なのです。

ヘブロン」には「同盟」の意味がありますが、先住民エモリ人との同盟関係を示しているのかも知れません。

ヘブロン入植直後に祭壇を築きますが、カナン入植後、三番目の祭壇です。

最初がシェケムの、モレの樫の木のそばであり、

二番目がベテルの東であり、そして三番目が、ヘブロンの、マムレの樫の木のそばに築いた訳ですが、アブラムは、事ある毎に祭壇を築き、神様との関係を確認し、

我が進むべき道、選ぶべき道を確認し、天幕生活、旅の生活、に、神様の保護を求め、祝福を求めたのでしょう。

天幕と祭壇は、アブラムの生活そのものであり、神様に信頼し、神様に従う生活の象徴が、天幕と祭壇なのです。

【適応】

神様の宣言、お約束は、時に疑いを抱く事がありましょう。

神様の宣言、お約束は、時に大き過ぎて、実感できない事がありましょう。

神様の宣言、お約束は、時に何故と思う事もありましょう。

こんな何も出来ない者に、失敗ばかりの者に、期待外れの者に、何故と。

しかし、神様の宣言、お約束は、出来る者だから、約束を守る者だから、期待通りの働きをする者だから、役に立つ者だから交わされるのでも、与えられるのでもありません。

そもそも、神様は仕えられる必要もありませんし、助けを必要とされませんし、献げられる必要もありません。

世界は神様のものであり、神様の自由に出来るものです。

神様は全知全能であり、永遠、不変であり、何にも依存されません。

神様は人間を造られ、被造物を支配、管理、お世話するようにし、神様と交わりを持つようにしましたが、人間がいないと、被造物の支配や管理、お世話が出来なくなって困る訳ではなく、人間がいないと、寂しいのでも、暇を持て余すのでもありません。

神様の期待は、人間が生きて行く、成長して行く過程において、人間が神様を知り、神様よって造られた存在である事を知り、神様を崇め、神様を喜び、神様と共に生きる事を期待しているのです。

この期待に応えるならば、何も出来なくても、失敗ばかりでも、役に立たなくても問題ではないのであり、神様の期待に応えようとする者を、祝福してくださるのです。

アブラムが神様に従っても、従わなくても、神様は何の影響も受けません。

しかし、神様に従う時、神様は喜び、祝福してくださるのです。

神様を知る、それは知識として知っているレベルではなく、神様を選ぶ事であり、神様と交わりを持つ事であり、神様に従う事であり、神様と共に生きる事です。

失敗しても、罪を犯しても、神様から離れる事なく、神様から隠れる事なく、成功しても、上手に出来ても、有頂天になる事なく、神様に先んずる事なく、神様を無視してもならないのです。

失敗しても、上手く行っても、神様から離れない者、神様の存在を片時も忘れない者を、神様は喜び、最高のモノを委ねてくださるのです。

「この地全部を永久にあなたに与えよう」との宣言は、単なる譲渡、所有権の宣言ではありません。

ご褒美でもなく、報酬でもありません。

好き勝手にして良い、との許可でもありません。

具体的に言い換えるなら「この地の管理、お世話を永久にあなたに任せよう」であり、

重い責任と義務が付随する宣言ですが、これ以上の信任、喜びはないのではないでしょうか。

「この地の管理、お世話を永久にあなたに任せよう」良い時も、悪い時もあるでしょう。

上手く行く時も、失敗する時もあるでしょう。

否、期待に応えられない事の方が多いのではないでしょうか。

それ承知で、神様は人間に、信任してくださるのです。

アブラムは、「あなたが見渡しているこの地全部を、永久にあなたとあなたの子孫とに与えよう」の宣言を、どんな思いで聞いたのでしょうか。

言葉通り、単純に「こんな素晴らしい広い土地を、私にくださるんですか、本当ですか、良いんですか、嬉しい」だったでしょうか。

本当の意味「この地の管理、お世話を永久にあなたに任せよう」を考え、尻ごみしたでしょうか。

責任の大きさ、重さを感じつつも、期待されている事を喜んだのではないでしょうか。

神様がアブラムに期待し、委ねたように、神様は私たち一人一人に、何かしらの働きを期待しています。

それを知った時、知らされた時、拒否しますか、辞退しますか、遠慮しますか、尻込みしますか。

それとも、緊張しつつ、畏まりつつ「やらせてください、やってみます」と応答するでしょうか。

一人一人に、賜物が、能力が、得意業が与えられ、使う事が期待されています。

しかも、アブラムが甥のロトと別れて後に、命じられたように、「あなたに」であり、誰かと一緒に、皆で、ではなく、あなたに、あなた一人で賜物や能力を用いるように、期待されているのです。

あなたの賜物で、あなた自身が、なのです。

勿論、絶対に単独でやらなければならない、助けを求めてはならない…ではありません。

或いは、思いのままにでもなく、人と同じ事をしてはならないでもありません。

依頼者である神様の御こころを考えて、です。

アブラムに与えられた使命は、カナンの地の管理でしたが、広義には被造物の普遍的な管理であり、狭義には神の民としての歩み、宣教の働き、伝道の働きをも包含している事は明白です。

継続した働きであり、永続的な働きであり、普遍的な働きであり、特に神の民としての歩みは、信仰継承が前提になっている事も覚えなければなりません。

人間的な動機や計画ではなく、神様から委ねられた働き、使命である事を忘れてはなりません。

個人的な働きでありつつ、民族、組織、集団に与えられた働きでもあり、全体を見つつ、個人的に働くのです。

この地の管理、お世話を永久にあなたに任せよう

神様から委ねられた大切、重要な働きである事を覚えつつ、一人一人に与えられた賜物を持って、委ねられた場所と時間を弁えて、信仰と働きを子々孫々に継承して、神様のご栄光を現し続けて行こうではありませんか。

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