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聖書箇所:創世記212234                 2016-1-31礼拝

説教題:「アブラハムとアビメレクの和解」

 【導入】 

何時の時代にあっても、何処の国であっても、また、小さな村、小さな組織、小さな家庭にさえも内憂外患は付き纏うようです。 

唯一真の神様への信仰を持っていても、持っていなくても、同じように問題は起こりますが、唯一真の神様を信じる者には、不思議な導きがあり、円満な解決が与えられます。

一方だけが大きな損をする事もなく、一方だけに不満が残る事もなく、関係者全てに、安堵と平安をもたらし、更には、関係者全てに、神様が伴って下さるという、祝福がある事です。

アブラハムの家庭にも、問題は山積し、内においては、夫婦とそばめの問題があり、

イシュマエルとイサクの問題があり、外においては、流浪の旅であり、厳しい自然の中で生存して行かなければならず、弱肉強食の社会であり、北の列強国連合の脅威に晒され、パレスチナ、カナンの地の先住民との間に軋轢があり、緊張の連続の毎日であり、身も心も休まる時がなかった事でしょう。

そんな厳しい状況の中に置かれていても、アブラハムには常に神様がついておられたのであり、内憂に対しては、ハガルとイシュマエルを追い出すと言う、悲しい選択をしなければなりませんでしたが、神様ご自身が現れてくださり、アブラハムに励ましを与え、決断に導いてくださり、ハガルとイシュマエルにも、神様ご自身が現れてくださり、祝福を与えてくださいました。

外患に対しては、神様の助けにより、列強国連合に拉致された甥のロトとその家族、強奪された財産の全てを取り戻しました。

エジプトの王パロや、ゲラルの王アビメレクを恐れ、狡賢い策略で騙してしまった時にも、神様が現れてくださり、サラを窮地から助け出し、パロが、アビメレクが手荒なまねを控えるようにしてくださり、アブラハムに沢山の和解の品々を与えたのであり、アブラハムは、アビメレクの一族と、ゲラルの民を祝福したのでした。

しかし、狡賢い策略は、神様を忘れて取ってしまった策は、時を経て、我が身に返って来るのであり、何度かは、神様のお取り扱いを受けなければならず、結果、信仰者として成長させてくださる事になるのです。

【本論】

21:22 そのころ、アビメレクとその将軍ピコルとがアブラハムに告げて言った。「あなたが何をしても、神はあなたとともにおられる。

21:23 それで今、ここで神によって私に誓ってください。私も、私の親類縁者たちをも裏切らないと。そして私があなたに尽くした真実にふさわしく、あなたは私にも、またあなたが滞在しているこの土地にも真実を尽くしてください。」

家族の問題が解決し、安堵している時に、唐突に「アビメレクとその将軍ピコルとが」アブラハムを訪ねて来て、不思議な提案をします。

アビメレクの滞在地はゲラルであり、アブラハムの滞在するベエル・シェバはゲラルの東南東にあり、凡そ30kmも離れています。

現代の30kmではありません。

主な移動手段は徒歩であり、8時間はかかる距離であり、余程の事がない限りは行き来する事はなく、定期的な行き来があった訳でもないでしょう。

しかし、アブラハムが滞在するベエル・シェバは、アビメレクの領地であり、アビメレクの支配下にあり、アブラハムは寄留の身ですから、用事があるなら呼び出せばよさそうなものですが、何故か、呼び出す事をせず、遠路の旅の労苦を厭わずに、一国の王様が、将軍を連れて、即ち、威儀を正して、厳重な護衛を連れて訪ねるからには、正式な、公式な訪問であり、相当の理由があった事でしょうし、成り行きによっては、武力をちらつかせての交渉をも視野に入れていたのかも知れません。

導入で、アブラハムの取った、狡賢い策略に触れましたが、アビメレクにしたら、触れたくはない過去であり、アブラハムとは関わりたくもない事でしょう。

代理人を遣わし、事務的に伝えても、事は足りそうなところですが、しかし、自ら会って交渉しなければならず、申し出は必ず受けてもらわなければならず、自身で確認しなければなかったのです。

申し出は先に読んだ通りですが、その原因は何でしょうか。

聖書は直接の原因を記していませんが、

21:25 また、アブラハムは、アビメレクのしもべどもが奪い取った井戸のことでアビメレクに抗議した。

との記述から、アブラハムの僕たちと、アビメレクの僕たち、ゲラルの住民たちとの

水問題、井戸の所有権争いを原因とする仲違い、諍いだったのではなかったでしょうか。

そして、不仲から派生する、疑心暗鬼、様々な諍いだったのではないでしょうか。

水が貴重なパレスチナでは、水の有無は死活問題であり、水の確保は最重要課題です。

泉を探し、何時でも利用出来るように手入れ、整備をしなければならず、せっかく苦労して得た、大切な井戸を取られてしまうならば、大問題であり、所有者を明確にせねばならず、時には命懸けで守らなければならず、血を流すような激しい争いに発展した事もあったのでしょう。

そんな縄張り争いでも、神様はアブラハムと僕たちを守ってくださり、アブラハムに有利に展開したのでしょう。

井戸を取り上げられても、アブラハムの家畜が渇きで弱る事もなく、アブラハムの農作物は豊かな実りをもたらしたのであり、逆に、アビメレクは、井戸を実行支配していたにも関わらず、水不足に悩まされ、農作物のための灌漑にも苦労したのではないでしょか。

神様が不思議な力でアブラハムを助け、守っているのを目撃し、神様の臨在を実感したのではないでしょうか。

そして、アブラハムの信じる神様に畏敬の念を抱き、アブラハムの実力も然る事ながら、サラを召した時に、アビメレク一族を襲った病苦の恐ろしさが甦り、水争いが昂じて、アブラハムの信じる神様との争いに発展する事に恐怖を覚え、アブラハムに穏やかな交渉を申し入れたのでしょう。

アビメレクの代だけでなく、アビメレクの子の代にも、孫の代にも、お互いに争いを仕掛けないように、友好関係を維持、存続するように持ちかけたのです。

しかも、「アブラハムの信じる神様によって」誓いを立てようとの提案なのですから驚きです。

信仰は、自分が信じていればそれで良い、と言うようなものではありません。

関わる人々にも影響を与え、畏敬と畏怖を覚えさせ、従わざるを得なくさせるのでなければなりません。

このアビメレクの提案の背後には、唯一真の神様への恐れがあったからであり、アブラハムの欠けだらけの信仰でも、異邦人に強い影響を及ぼしたのであり、神様は欠けだらけの信仰をも用いられる事を証しているのです。

この、アビメレクの提案は、願ってもない提案です。

21:24 するとアブラハムは、「私は誓います」と言った。

23節で「誓ってください」、

24節で「誓います」と訳されているヘブル語は「シャバ」であり、完全数“7”と関連していて、約束の確かな事を、安易な発言ではない事を、行動に責任を持つ事を確約するものです。

一国の王様と、流浪の寄留者が、対等な契約、条約を結んだ訳ですが、アビメレクはアブラハムの背後におられる神様と契約を結んだのであり、契約に不誠実ならば、神様が裁かれる事を、お互いが、暗黙の内に了解し合ったのです。

双方が契約に合意し、お互いに権利を尊重し、悪戯に刺激し合わない事を確認したのですから、アブラハムが苦労して整備した井戸についての権利を主張、確認するのは当然の成り行きで、25節の発言となった訳ですが、アブラハムの詰問に対して、

21:26 アビメレクは答えた。「だれがそのようなことをしたのか知りませんでした。それにあなたもまた、私に告げなかったし、私もまたきょうまで聞いたことがなかったのです。」

アビメレクの答弁は、言い逃れでも、白を切っているのでもなさそうです。

勿論、アビメレクの僕たちと、アブラハムの僕たちとの間に、何かしらの問題があった事は知っていたでしょうが、アビメレクの僕たちが、不利な報告をするはずもなく、具体的な事は知らなかったでしょう。

水は貴重なだけに、見つけ出し、整備した者に、権利があるのであり、アビメレクの発言が、井戸の返還を意味する事は明らかです。

21:27 そこでアブラハムは羊と牛を取って、アビメレクに与え、ふたりは契約を結んだ。

通常、契約は血を用いて結ばれます。

羊と牛は、その目的のためだけではなく、また、一頭ずつでもなさそうです。

何故ならば「羊と牛」は群れをも意味する言葉が使われているからであり、また、契約のための目的であるならば「アビメレクに与え」は不要なことばだからです。

アビメレクに「羊と牛」を与えたのであり、契約に必要なものも、用意したのです。

21:28 アブラハムは羊の群れから、七頭の雌の子羊をより分けた。

この「七頭の雌の子羊」は、アビメレクに与えた羊の中から選り分けたのか、それとは別に、新たに、選り分けたのか、見解が分かれるところですが、

重要なのは「七頭」と言う数であり、「七頭」と訳されているヘブル語は「シェバ」であり、「誓い」「シャバ」との語路合せなのです。

契約書や誓約書のなかった時代において、「誓い」と言う概念を、「七頭」と言う見える形にして、確認したのであり、誓いを交わした事を、耳と目で記憶させ、立ち合った者たちに知らしめるのであり、その説明が29節以降に解説されます。

21:29 するとアビメレクは、「今あなたがより分けたこの七頭の雌の子羊は、いったいどういうわけですか」とアブラハムに尋ねた。

21:30 アブラハムは、「私がこの井戸を掘ったという証拠となるために、七頭の雌の子羊を私の手から受け取ってください」と答えた。

21:31 それゆえ、その場所はベエル・シェバと呼ばれた。その所で彼らふたりが誓ったからである。」

七頭の雌の子羊」は井戸返還の代償や、対価ではなく、物物交換でもなく、井戸がアブラハムに帰属するものである事を確認するものであり、「ベエル・シェバ」の直訳は「七つの井戸」ですが、その意味する所は「誓いの井戸」であり、

井戸の所有権が確認された事を、合わせて双方が誠実に行動し、不利益となるような事をしないと、誓ったのであり、その誓いを記念、記憶させる命名なのです。

21:32 彼らがベエル・シェバで契約を結んでから、アビメレクとその将軍ピコルとは立って、ペリシテ人の地に帰った。

21:33 アブラハムはベエル・シェバに一本の柳の木を植え、その所で永遠の神、【主】の御名によって祈った。

植樹は契約の印の一形態であり、記念のため、契約の永続性を願って、植えられますが、契約は、人と人との間に交わされますが、神様の前で交わされるのであり、即ち、神様への信仰の証しとして、植えられたものなのです。

21:34 アブラハムは長い間ペリシテ人の地に滞在した。

誓い」の結果、アブラハムは安全の確証を得て、安住したのですが、アビメレクが主体的に関わっての庇護の下で、安全、安心、安住を得たのではなく、アビメレクは、アブラハムの信じる神様への恐れから、アブラハムとの間に平和を誓い合ったのであり、神様が介在しての「誓い」である事を忘れてはなりません。

交渉は双方が納得する形に、円満解決に至りましたが、

【適応】

アブラハムの所に、ゲラルの王様アビメレクと将軍ピコルとが訪ねて来た時、アブラハムはどんなにか、恐れ、慄いた事でしょうか。

一国の王様が、将軍と軍隊を引き連れて来るのは、尋常な事ではありません。

過去に、アブラハムが、北の列強国連合軍と戦って、甥のロトや財産を取り戻す事が出来たのは、神様の助けがあった事と共に、充分な戦闘、武器の準備、精神的な備えがなされていたからであり、敵には連戦の闘いの疲れが、遠征の旅の疲れが残っていたからです。しかし、今回のアビメレクとピコルの訪問は、突然であり、アブラハムに戦闘、武器の準備の時間はありません。

軍隊に包囲されての交渉は、非常に不利であり、相手の言い成りに成らざるを得ず、過激な発言や、不用意な反論は命取りです。

アビメレクがピコルを同行させたのも、アブラハムに精神的な圧力をかけ、交渉を有利に進める意図があった事は否めないでしょう。

しかし、アブラハムは、軍隊を目の当たりにしても、全く動ぜず、何の恐れも持たずに、堂々と交渉に臨んでいるのであり、別の見方をするならば、アビメレクはアブラハムの信じる神様を、心底から、恐れていたのであり、将軍ピコルと軍隊を同行させたのも、アブラハムを威圧する目的よりも、自身の安全のためであったのではないでしょうか。

わざわざ遠路、出向いたのも、ゲラルに下されるかも知れない災難を恐れたからではないでしょうか。

偶像や迷信を信じるのも、臆病の現れであり、未知のモノに対する、恐れの現れでしょう。

アビメレクの恐れは、漠然とした恐れではなく、神様の臨在を体験した者の、明確な恐れであり、アブラハムの信じる神様の怒りを恐れるが故に将軍ピコルと軍隊を同行させたのでしょう。

アビメレクとアブラハムとを比べるならば、アビメレクの方が上位であり、交渉の主導権もアビメレクにあった筈ですが、25節以降、主導権は入れ替わり、アブラハムが主導的立場になっています。

偶像を信じ、迷信に頼り、力を誇り、傲慢に振舞う民も、唯一真の神様と出会ったならば、威勢は削がされてしまうのです。

唯一真の神様を信じる民は、卑屈になる必要はありません。

変な遠慮をする必要もありません。

勿論、傲慢に振舞ったり、居丈高になってはいけませんが、全知全能の神様を信じ、従う者に相応しく、どんな時でも、揺らぐ事なく、平静に振舞い、神様の教えに従って、冷静沈着、客観的な判断を下すならば、双方にとって最善の結果をもたらす事は間違いありませんし、信頼を得る事になります。

唯一真の神様を知らない民を恐れ、この世的な策を弄していては、唯一真の神様に失礼ですし、神様は悲しまれます。

失敗しても、神様の赦しと助けを得て悔い改め、神様に対する信仰を取り戻し、神様との和解をなし、神様からの訓練を受けて、更に信仰の確信に至り、唯一真の神様を知らない民との和解に入り、同時に、唯一真の神様を世に知らしめるのです。

唯一真の神様を信じる民とされた私たちは、世に和解と平和をもたらし、唯一真の神様を世に知らしめる働きが期待されているのです。

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聖書箇所:創世記211421                 2016-1-24礼拝

説教題:「イシュマエル追放」

【導入】 

仲睦(なかむつ)まじい家族でも、何の問題もない訳ではありません。

子どもの将来、自身の老後の生活、親戚付き合い、地域との関係、事業の継承、信仰継承などなど。 

気に掛る事は山ほどもありましょう。

しかし、これらの問題は、誰もが抱える問題であり、問題と言うよりも、生きて行く上で取り組むべき、必須の課題なのかも知れません。

避けて通る事が出来ない課題であり、無視も出来ない課題なのですが、差し迫った課題ではないので、付かず離れず、敢えて扱わない、っていう感じでしょうか。

しかし、夫婦と言う特別な関係に、そばめと言う特殊な関係が絡むならば、これは大きな、複雑な、厄介な問題を引き起こします。

しかも、同居しているのであり、其々に子どもが産まれて、相続の問題も絡んでくる事になれば、更に問題は大きく、複雑、厄介になるでしょう。

アブラハムとサラの夫婦には、子どもが産まれず、悩んだ末に、サラの女奴隷ハガルをアブラハムのそばめとして与え、ハガルによってイシュマエルが産まれましたが、サラも、神様のお約束によってイサクを産む事になります。

イシュマエルもイサクも、神様の守りによって、すくすくと成長しますが、イサクの成長と共に、イシュマエルに身分の差を痛感させるような出来事が起こり、イシュマエルの内に、処理できない鬱憤、憤りが生じ、昂じて弟イサクを笑い者にしてしまった。

兄弟喧嘩の内にも入らないような、他愛のない悪ふざけであった事でしょう。

しかし、それを見咎めたサラによって、イシュマエルとハガルは追放されると言う結果になってしまったのです。

事の発端は、サラの提案であり、アブラハムも承知したのであり、この二人が主体的に関わった故の問題なのであり、二人の責任は重大です。

一方のハガルは奴隷の身分であり、主人に従わざるを得ませんから、その責任は軽微でありながらも、追放と言う過酷な裁定にも甘んじなければならず、何とも不条理を感じるのではないでしょうか。

神も仏もいないのか…と憤慨しそうな場面ですが、神様はしっかり見ておられ、ハガルとイシュマエルに注がれる神様の守りが途切れる事は、絶たれる事はないのです。

【本論】

21:14 翌朝早く、アブラハムは、パンと水の皮袋を取ってハガルに与え、それを彼女の肩に載せ、その子とともに彼女を送り出した。それで彼女はベエル・シェバの荒野をさまよい歩いた。

翌朝早く」は、夜が明けて直ぐに、であり、困難な選択の結果の、厳しい処置であり、先延ばしにしたい衝動に駆られましょうが、困難だからこそ、厳しい処置だからこそ、間髪を与えずに、速やかに、固い決意を持って、当らなければならないのであり、先延ばしにすれば、情が募り、決断が鈍るのは必至です。

アブラハムは親族に対する愛情を押し殺し、即座に行動に移します。

アブラハムはハガルに持てる限りの量の「パンと水の皮袋」を与えますが、担うにも限界があります。

イシュマエルは178歳と考えられますから、ハガルと共に「パンと水の皮袋」を担ったでしょうが、パンも水も、精々数日分程度しか、担えなかったのではないでしょうか。

日差しの強いパレスチナでは、水は直ぐに飲み干してしまうでしょう。

勿論、飲み干す前に補充もしたでしょうが、井戸や泉は、それなりに整備されてはいたでしょうが、主要な幹線道路沿いに、ぽつんとあるのであり、町や村にあるのであり、何処にでもあるものではありません。

補給しようにも、ハガルはエジプト出身であり、パレスチナは不案内な土地であり、補給するよりも、無くなる方が早かったのであり、水の補給は至難の業であった事でしょう。

アブラハムはハガルに、幾ばくかのお金も与えたでしょうが、コンビニエンスストアがある訳でも、自動販売機がある訳でもありませんから、水を買う事も出来ません。

定着する所を探す旅でありながら、水を探す旅になってしまっていたのであり、「ベエル・シェバの荒野をさまよい歩」く事になってしまうのです。

この「ベエル・シェバ」は死海の西50km程の所にあります。

水も底を尽き、食物も尽き、誰の保護も受けられない、絶望の真っ只中に置かれてしまったハガルとイシュマエル。

21:15 皮袋の水が尽きたとき、彼女はその子を一本の灌木の下に投げ出し、

21:16 自分は、矢の届くほど離れた向こうに行ってすわった。それは彼女が「私は子どもの死ぬのを見たくない」と思ったからである。それで、離れてすわったのである。そうして彼女は声をあげて泣いた。

15節、16節の記述では、イシュマエルは幼子のようにも読み取れますが、178歳前後の青年であり、流浪の旅の疲れからか、パレスチナの日差しと熱気とで脱水症状になっていたのか、或いは病気になっていたのかは、断定出来ませんが、一歩も歩けない状態に陥っていたのであり、ハガルはイシュマエルを支えきれず、それでも、パレスチナの強い日差しを避けるために、僅かな木陰を探し出し、イシュマエルを横たえるのです。

16節「矢の届くほど」は、ヘブル語的慣用句であり「目の届く所」の意味であり、呻き声や、呟き、か細い泣き声などは聞こえない距離であり、死に行く姿を見たくないと思いつつも、見捨てる事も、眼を逸らす事も出来ず、少しく離れて見守らざるを得ない母の、切ない心境を記しているのです。

誰の助けも保護も得られず、荒野の中にぽつんと佇むのであり、その絶望的な、深刻な状況故に、ハガルは慟哭し、嗚咽を洩らし、悲壮な叫びを天に向けて迸らせたのではないでしょうか。

イシュマエルを見捨てられないのはハガルだけではありません。

21:17 神は少年の声を聞かれ、神の使いは天からハガルを呼んで、言った。「ハガルよ。どうしたのか。恐れてはいけない。神があそこにいる少年の声を聞かれたからだ。

神は少年の声を聞かれ」の「神は聞かれる」事こそ、イシュマエルの名前の意味するところであり、奴隷の女の子であっても、アブラハムの子であり、その叫びを神は聞かれるのであり、直系ではなくても、アブラハムの子であり、その叫びを神は聞かれるのであり、流浪の身であっても、アブラハムの祝福に与る子であり、その叫びを神は聞かれるのであり、イシュマエルの叫びだから、神は聞かれるのです。

アブラハムの所に留まろうと、離れようと、アブラハムへの約束故に、イシュマエルの叫びを聞かれ、イシュマエルを祝福してくださるのです。

21:18 行ってあの少年を起こし、彼を力づけなさい。わたしはあの子を大いなる国民とするからだ。」

この約束は繰り返しであり、初回は創世記1610節に記されていますが、ここではサラに苛められ逃げ出したハガルに語りかけています。

16:10 また、主の使いは彼女に言った。「あなたの子孫は、わたしが大いにふやすので、数えきれないほどになる。」

2回目は創世記1720節に記されていますが、アブラハムに語りかけています。

17:20 イシュマエルについては、あなたの言うことを聞き入れた。確かに、わたしは彼を祝福し、彼の子孫をふやし、非常に多く増し加えよう。彼は十二人の族長たちを生む。わたしは彼を大いなる国民としよう。

3回目は創世記2113節に記されていますが、ここもアブラハムに語りかけています。

21:13 しかしはしための子も、わたしは一つの国民としよう。彼もあなたの子だから。」

合計4回も、重ねて約束されているのであり、繰り返し約束されているのであり、約束の確かな事を保証しているのです。

この約束は、地上的な、この世的な意味だけではありません。

イシュマエルもアブラハムの子孫であり、霊的な祝福を受け得るのであり、イサクの流れ、即ち、選びの民との関わりにおいて、大いなる国民となるのであり、決して対立関係を預言しているのではありません。

確かに、創世記1612節には

16:12 彼は野生のろばのような人となり、その手は、すべての人に逆らい、すべての人の手も、彼に逆らう。彼はすべての兄弟に敵対して住もう」と記されていますが、決して抗(あらが)いえない運命を預言しているのではなく、野生のロバのように奔放に生きるなら、「すべての兄弟に敵対して住」むようにもなるでしょうが、自制し、謙遜と忍耐を身に付けて生きるなら、「すべての兄弟と和合して住」む事も可能なのではないでしょうか。

また「敵対して」と訳していますが、そんなにも明確で、強い意味の言葉ではなく、「~の上に」と「~の前に」の合成語であり、「立ち塞がる、障害となる」程度の意味で訳す事も可能です。

神様は悪人を造る事はなく、滅びるのを黙って見ているお方でもありません。

神様が造られたモノは、良いモノであり、神様は、何一つとして滅びるのを望んではおられません。

神様のみこころは、アブラハムを祖とし、イサクに引き継がれる祝福を中心、主流とし、ダビデの子孫から救い主を起されますが、主流以外は滅びても良い、主流だけが残れば良い、救い主だけが重要である、などとは考えてはおられません。

傍流であるイシュマエルの子孫からも、祝福を受ける者が起され得るのであり、主流を代表するイサクの子孫と、傍流を代表するイシュマエルの子孫が、関わりを持ち、協力する事によって、補い合う事によって、全世界、漏れなく、アブラハムの祝福に預かる事こそ、神様の願いなのではないでしょうか。

現在の中東の混乱、騒乱の原因を、イサクとイシュマエルに遡らせる考え方があり、確かに、全くの間違い、見当違いとは言えませんが、神様が、争いの火種を準備する事はありません。

人間の持つ罪の性質が、みこころに従わせなくさせるのであり、大した事でもない事も火種にし、対立てしまうのではないでしょうか。

対立には2種類あって、相手を潰し合う対立もあれば、切磋琢磨する対立もあります。

神様のみこころは、切磋琢磨する対立であり、両者の賜物が生かされ、相乗効果で大きな成果を生む事ではないでしょうか。

そんな神様のみこころで、イシュマエルは「大きなる国民」とされるのです。

そして、神様は、遠い将来の約束と共に、現実の問題にも解決を与えてくださいます。

21:19 神がハガルの目を開かれたので、彼女は井戸を見つけた。それで行って皮袋に水を満たし、少年に飲ませた。

ハガルは、神様から与えられた約束を忘れた訳ではないでしょう。

否、神様の約束を常の支えとして、生きて来たのではないでしょうか。

奴隷の身分であり、アブラハム、サラとの身分の違いは、如何ともしがたく、サラに苛められ、肩身の狭い思いを耐え忍んで来たのも、神様の約束があってこそ、ではないでしょうか。

神様の約束だけを頼りに生きて来た。

思いがけずに、自由を手にし、一時、喜びましたが、次ぎの瞬間には野宿の連続であり、飢えと渇きが纏わり付き、最愛のイシュマエルの命は今にも尽きそうであり、絶望の中に置かれてしまい、見えるものが見えなくなってしまっていたのであり、見るべきお方も見えなくなってしまっていたのですが、しかし、神様に声を掛けられ、希望を与えられた時、霊の眼が開かれ、合わせて、肉の眼も開かれ、必要としていた井戸を見る事が出来たのです。

肉の必要を見つけ出すのは、肉の眼ではありません。

肉の必要を見つけ出すのは、霊の眼に助けられた肉の眼なのです。

霊の眼が開かれていなければ、本当に肉に必要なものか否かの判別が付きません。

毒と薬の見分けが付かなければ、身を滅ぼしてしまうように、霊の眼が開かれてこそ、肉に必要なモノを見出せるのです。

21:20 神が少年とともにおられたので、彼は成長し、荒野に住んで、弓を射る者となった。

イシュマエルの名前の意味は「神は聞かれる」ですが、「聞かれる」と言う事は、言い換えれば「共にいてくださる」からこそ可能な事であり、名前に秘められた意味の通り、神様と共に生きる事になるのです。

イシュマエルは「成長し、荒野に住」む事になりますが、荒野は非常に過酷な環境です。

水が乏しいから荒野になるのであり、農作物の栽培には不向きですし、自然の果樹も、種類は限られ、量も期待出来ません。

過酷な環境は、動物にも過酷であり、少ない食料と水を、奪い合うのであり、そんな環境に住めたのは、神様の加護を抜きには考えられません。

21:21 こうして彼はパランの荒野に住みついた。彼の母はエジプトの国から彼のために妻を迎えた。

ハガルは逞しく成長したイシュマエルに、妻を探しますが、

ハガルはエジプト人であり、伝はエジプトにいる親族、友人です。

結果、エジプト人をイシュマエルの妻とする事になりますが、これは残念な事です。

ハガルは意識していなかったでしょうが、神様のご計画で、異教の地、偶像の満ちる地、エジプトを離れさせていただいたのであり、アブラハムの信じる神に出会わせていただいたのに、更に、アブラハムの信じる神様から声を掛けられ、約束まで交わしてくださったのに、自ら、異教の地、偶像の満ちる地、エジプトに霊的に近づき、断たれていた肉的な交わりを、回復させてしまったのです。

それは、アブラハムの祝福の系列から遠ざかる結果となってしまいます。

離れても回復するチャンスは、常にあるのですが、それは、神様との関係においても、悪との関係においても同じです

悪との関係を断ち、神様を信じる事になっても、悪に戻る可能性はあり続け、神様を離れ、悪に親しんでも、神様に戻る可能性もあり続けるのです。

エジプトの影響を受けたイシュマエルは、霊的にアブラハム、イサクと対立する事となり、霊的な影響は、肉に現れ、今日に繋がる中東、パレスチナの混乱の遠因となっているのです。

【適応】

イシュマエルは追放され、アブラハム、イサクと離れて暮す事になりますが、イサクとの交流が断絶されてしまった訳ではありません。

喧嘩別れした訳でもなく、主義主張などの反目で別れた訳でもありません。

兄弟としては、非常に良い関係であったと思われます。

アブラハムの葬儀の模様が創世記25章9節に記されていますが、イサクとイシュマエルは共同してアブラハムの葬儀を執り行ったのであり、異母兄弟としての交流と協力は絶える事なく、周辺諸国、諸民族と闘い、其々が民族として繁栄し、独自の文化を築いて行ったのです。

その歩みの背後には、イサクに対する神様の約束があり、イシュマエルに対する神様の約束があり、イサクも、イシュマエルも、其々に、大いなる国民とされて行くのです。

イシュマエルは、アブラハムの庇護の下から追い出され、兄弟から離れ、荒野での生活を余儀なくされ、人間的には、この世的には、前途多難、不幸な生涯に追い遣られたかのように思いましょうが、神様の約束は、変わる事なく、永遠であり、イシュマエルを離れる事はありません。

人間からは追放され、断絶を宣言されても、神様は追放する事も、断絶する事もありません。

常に傍にいてくださり、聞いてくださり、交わりを持ち続けてくださいます。

人間には理解されず、受け入れられず、拒絶されても、神様は全てを知っていてくださり、受け入れてくださり、拒絶する事はありません。

色々な事情があり、様々な事柄が重なり、誤解があって、社会から追放され、時には、社会に居場所のない人々を受け入れる使命の教会にも、疲れた人々の憩いの場であるはずの教会にも居辛くなる事がありましょうし、時には、戒規や出入り禁止、除名などの処分を受ける事があるやも知れませんが、神様は誰をも、何時でも、どんな事情の者も、一瞬でも拒否される事はありません。

勿論、戒規や出入り禁止、除名などの処分を受けないにこした事はありませんが、罪人の集まりである教会ですから、軋轢があり、意見の相違があり、誤解があり、結果として不本意にも、追い出す事に、出て行く事になる事もありましょうが、

神様は追い出される人とも居てくださり、出て行く人とも居てくださいます。

神様は見捨てる事はありません。

去る者、追わず、でもありません。

来る者、拒まず、去る者と共に、なのです。

ここで確認しておきたいのは、言動に何の責任もない、問われない、と言う事ではありません。

言動には責任があり、言動の結果は、蒔いた種から出たモノは刈り取らなければならないのですが、人間社会や教会から追放されても、それでもって神様からも追放されたのではない事は覚えておかなければなりません。

追放されたように見えても、本質は追放したのかも知れず、追放された者の方に、真理があるのかも知れません。

イエス様は民衆や宗教指導者たちに追放され、処刑されましたが、イエス様にこそ、真理があったのであり、永遠の命があったのであり、神様が伴いたもうたではありませんか。

追放と言う現実を見るのではなく、神様との繋がりこそ、見なければならず、神様との見えない繋がりこそ、神様との霊的な繋がりこそ、最大の関心事なのであり、私たちがどのような状況におかれても、私たちに本当の平安をもたらすモノなのです。

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聖書個所:ヨハネ6:6071                    2016-1-17礼拝

説教題:「弟子たちのつぶやき」 

【導入】 

「人の子の肉を食べ、またその血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません。」 

衝撃的なことばです。 

未開人の古い因習で、戦争の勝利宣言や、相手の勇気を称えて人肉を食するという習慣があった事は皆様も知っておられる事と思います。 

日本ではキリスト教の伝来と共にぶどう酒が持ち込まれ、その色からキリシタンは血をすする、と風評された時期もあったようです。

しかし、先のことばは、誤解でもなければ、未開人の事でもなければ、猟奇的な秘密結社のメンバーのことばでもありません。 

しかも、秘密裏に語られたことばでもなければ、奥義として封印されたことばでもありません。 

神の御子イエス様が、群集の前で、ユダヤ人宗教指導者たちの前で、イエス様の弟子と自認する人々の前で、永遠のいのちを得るための真理として語られたことばなのです。

勿論、本当にイエス様の肉体を食し、その血液を飲む事を勧めている訳ではなく、あくまで、比喩、例えのことばですが、ユダヤ人宗教指導者たちも、イエス様の弟子たちも、イエス様のことばをそのまま受け止めてしまったのです。 

イエス様が例えや比喩で語られる事が多い事は、聖書を読めば一目瞭然ですが、その中でも極めつけの例えなのではないでしょうか。

イエス様が例えで語られる。 

群集やユダヤ人宗教指導者の反論に合い、群集やユダヤ人宗教指導者はつまずき離れて行く。 

しかし、弟子たちには、例えの意味するところを教えられ、弟子として留まり、弟子として成長して行く。 

しかし、今日の宣教の箇所は、何時ものパターンとは少し違います。 

弟子の中からもイエス様のことばを聴いて離れていく者が多勢起き、しかも、イエス様は彼らを引き止める事をせず、去らせるにまかせるのです。 

それは、イエス様の例えが何時もとは違って、同じ例え、即ち「パン」を用いて、何回も繰り返されているからであり、5000人の給食の奇蹟と重なって語られているからであり、ことばと現実の出来事と関連させて教育がなされたからなのです。 

ですからこれ以上の解説、説明は不要であり、父から聴いて学ぶ意欲のない者が、振るい分けられるためなのです。 

イエス様のことばを聴いても、信じられず、反発して離れていく者がいる事は悲しい事ですが現実なのであり、弟子といえども例外ではないのです。 

【本論】 

6:60 そこで、弟子たちのうちの多くの者が、これを聞いて言った。「これはひどいことばだ。そんなことをだれが聞いておられようか。」 

「ひどいことば」と訳されているギリシャ語の意味は「気持ち悪い、過酷な」です。 

人の肉を食べ、血を飲むと言う行為は、想像するのも気持ち悪いおぞましい行為ですが、これは本当に肉を食べ血を飲む、と言うのではなく、イエス様の犠牲の上に、永遠のいのちへの道があると言う事です。 

教会は初代信徒の流した血と涙、殉教者の血と涙で建てられた、と言うような表現をする事がありますが、文字通り、語彙通りに考える人はいないでしょう。 

多くの信徒の犠牲があって、教会の礎となり、教会が建てられていった事を現している言葉です。 

同じように、イエス様の肉を食べ、血を飲むと言うのは、イエス様を受け入れ、イエス様が私の内に生きる、と言う事であり、私をイエス様の肉と血につながる者とする、と言う事です。 

日本や韓国でも血の繋がりを重要視しますが、イスラエル人は血統を非常に重要視します。 

混血を避け、それこそ血眼になって、血統を守ろうとします。 

祭司となれるのはアロンの血筋だけであり、レビ人として神殿に仕える事が出来るのはレビの血筋の者に限られます。 

また、メシヤ、イスラエルの支配者はダビデの血筋から生まれると預言され、イスラエル人はそれを信じていますから、イスラエルは血筋に希望を見出して生きる民族と言っても過言ではないのです。 

そんな血筋を大切にするイスラエル人ですから、肉の繋がり、血の繋がりは我々が考える以上に生活の隅々にまで行き渡っているのです。 

旧約聖書には頻繁に、新約聖書にも系図が出て来ますが、これは権威づけのための人名の羅列ではなく、血筋の確認なのであり、権利と責任の継承の確認のために記されているのです。 

肉の繋がり、血の繋がりも、権利と責任の繋がりであり、その継承のしるしを現しているのです。 

ですからイエス様が肉と血を引き合いに出して語られているのは、イエス様に繋がっている事の確認であり、イエス様の持っている権利と身分の継承というとても重要な事なのです。 

それなのに、肉を肉としてしか考えられず、血を血としてしか考えられない人々はイエス様の例えを、おぞましい教えとしてしか聴く事が出来なかったのです。 

6:61 しかし、イエスは、弟子たちがこうつぶやいているのを、知っておられ、彼らに言われた。「このことであなたがたはつまずくのか。 

6:62 それでは、もし人の子がもといた所に上るのを見たら、どうなるのか。 

イエス様は弟子たちの考え違いを指摘されます。 

イエス様は真理を語られたのに、弟子たちは、イエス様のことばから真理を汲み取ろうとせず、常識や、経験で判断しようとしたのです。 

血を飲む行為は律法によって禁じられていますが、同じ律法の教えによって肉と血が意味するものをイスラエル人は我々とは違う感覚で聴き取れるはずです。 

血はいのちそのものである事。 

血を振り掛ける事によって、聖めがなされる事。 

血を流した罪は、血を流さなければ赦されない事。 

しかし、自分たちの考えで凝り固まっていて、イエス様の語られる事が理解出来ないでいるのです。 

別の言い方をするなら、神様の教え、ことばより自分の考え、常識、聖書知識を優先させていると言う事なのです。 

或いは、自分の理想、あるべき姿をイエス様に投影し、期待していたのです。 

民衆は、期待に反し、理想にずれているイエス様を拒否し、反発を露にします。 

イエス様の教えは、時に難解な事も、従うのに困難を覚える事も多々ある事でしょう。 

甘っちょろい考えではイエス様について行く事は出来ません。 

聖書の教えも、イエス様の教えも、命がけで、真剣に取り組まなければ理解も出来ないし、体験も出来ないし、味わう事も出来ないのです。 

弟子になると自動的に理解出来るようになる訳ではありません。 

肉と血の教えは簡単とは言いませんが、ちょっと難しい、理解に苦しむことばでつまずいて、イエス様を拒否していたならば、イエス様が天に昇るのを見た時、どんなに後悔すれば良いのでしょうか。 

後になって、イエス様を信じていれば、と思っても遅いのです。 

弟子たちが後悔しないように、イエス様は霊の働きと、肉の働きを解説なさいます。 

6:63 いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません。わたしがあなたがたに話したことばは、霊であり、またいのちです。 

イエス様が肉と仰る時、常にイエス様ご自身の身体を現している訳ではなく、私たちの肉体を現している時もありますから、聖書は注意深く読まなければなりません。 

ここでイエス様が肉に例えているのは私たちの肉体の事です。 

そして、それは律法であり、生贄の規定であり、祭りの規定を現しています。 

どれだけ律法を守っても、肉体を従わせても、罪の身代りの生贄を献げても、イスラエル人に命じられている祭りを行なったとしても、それで永遠のいのちを得られる訳ではありません。 

イエス様の語られることばにだけいのちがあり、イエス様の語られることばを信じる者だけがいのちを得ることが出来るのです。 

永遠のいのちに至るのは肉体の苦行や訓練ではなく、律法に従う事ではなく、イエス様のことばを信じて、御霊に導かれて歩む事なのです。 

6:64 しかし、あなたがたのうちには信じない者がいます。」・・イエスは初めから、信じない者がだれであるか、裏切る者がだれであるかを、知っておられたのである。・・ 

6:65 そしてイエスは言われた。「それだから、わたしはあなたがたに、『父のみこころによるのでないかぎり、だれもわたしのところに来ることはできない。』と言ったのです。」 

律法を表面的に理解し、上辺を繕っている者たちは、神様のことばを聴いて、それに従っているように、敬虔そうに見えますが、 

本心は神様に従っているのではなく、自分たちの伝統や言い伝えに従っているのであり、自分たちの考え、常識、聖書知識に合致する教えだけに聴き従っているのです。 

イエス様の下に来るのに、自分の考えや常識は妨げになるだけです。 

自分の考えや、期待、理想を捨てて、無条件に神様のことば、イエス様のことばに従う者だけが、神様の招き、イエス様の招きに素直に従う者だけが救いに与る必須要件なのです。 

父のみこころによるのでないかぎり、だれもわたしのところに来ることはできない」と言うことばは、神様の主権的な、一方的な選びであって、私たちには選択の自由がないようにも読めますが、神様のみこころと言うのは、イエス様の声に聴き従う者を受け入れると言う事であり、私たちの従順が問われているのです。 

結局、自分の考えとイエス様の考えが合わないと思う人々は、イエス様の下を離れて行ったのであり、 

6:66 こういうわけで、弟子たちのうちの多くの者が離れ去って行き、もはやイエスとともに歩かなかった。 

6:67 そこで、イエスは十二弟子に言われた。「まさか、あなたがたも離れたいと思うのではないでしょう。」 

6:68 すると、シモン・ペテロが答えた。「主よ。私たちがだれのところに行きましょう。あなたは、永遠のいのちのことばを持っておられます。 

6:69 私たちは、あなたが神の聖者であることを信じ、また知っています。」 

シモン・ペテロは何時も弟子たちのまとめ役的働きをし、弟子たちの総意を代表して発言しますが、ペテロが、弟子たちが、私たちがイエス様を選んだのではありません。 

このペテロの信仰告白は大切ですが、聖霊が働いてこのような告白に導いてくださったのであって、その事が70節に記されています。 

6:70 イエスは彼らに答えられた。「わたしがあなたがた十二人を選んだのではありませんか。しかしそのうちのひとりは悪魔です。」 

6:71 イエスはイスカリオテ・シモンの子ユダのことを言われたのであった。このユダは十二弟子のひとりであったが、イエスを売ろうとしていた。 

イエス様の招きは、万民に開かれています。 

イエス様の招きを拒否する事は、関係修復の道を絶つ事であり、他に、修復の道はありません。 

神様もイエス様も悪は嫌われ、黙認、容認なさる事は絶対にありませんが、罪人であろうと、反対者であろうと、悔い改めて飛び込んで来るのを両手を広げて待っているのです。

 それはイエス様を死刑にする画策をしていたユダも例外ではありません。 

イエス様を売り渡そうと、イエス様を知らないと言い張ろうと、強くなって逃げ出そうと、それらの行為を悔い、罪を告白し、イエス様の下に帰って来るなら、赦されない罪はなく、受け入れられない人はいないのです。 

【適応】 

イエス様の弟子になると、試みが無くなる訳ではありません。 

全てが順調に行き、困難が無くなる訳ではありません。 

イエス様に対する信仰が深まれば深まるほど、比例して誘惑や試みも強くなります。 

イエス様を、心の底から愛していたのに、イエス様が逮捕された時には、弟子は誰も残らなかったのです。 

イエス様の教えにつまずく者もおれば、状況につまずく者もいるのです。 

サタンはあらゆる方法を用いて、イエス様の弟子を引き離し、イエス様の働き、神様のご計画を阻止しようとします。 

サタンの活動は2000年前だけではありません。 

現代もサタンの暗躍はそこかしこでなされています。 

聖書の教えや説教に疑問を感じさせたり、教会生活や奉仕に魅力を感じなくさせます。 

教会や牧師の欠点が目に付くようになり、口からは批判や非難が飛び出します。 

イエス様から直接、神のことばを聴いたのに、離れていった弟子たちと同じです。 

自分の価値観、キリスト教観、教会観、牧師観に合致しないと、魅力を感じなくなり、「これはひどいことばだ。そんなことをだれが聞いておられようか。」となるのです。 

この評価は共感を呼び、多くの弟子が、否、ほとんどの弟子がイエス様を見限って去って行ったのです。 

残ったのは12弟子とわずかの人々だったようです。 

イエス様のことば、聖書のことばは私たちの理解を越えるものです。 

その時は分からなくても、真理が、神のことばが語られたのであり、本物の信仰と、偽物の信仰が振い分けられる時でもあるのです。 

イエス様のことばにつまずいて去っていった多くの弟子たち、残ったのはほんのわずかでしたが、みことばの取り扱いを受け、選ばれた弟子たちによって現在に至る教会が建て上げられていったのです。 

教会は仲良しクラブでも、キリスト教的趣味の会でもありません。 

父のみこころにより、イエス様の選びによって集められた者たちの訓練の場です。 

説教からチャレンジを受け、それを信仰生活で現して行くのです。 

聖霊なる神の助けをいただいて、教えやことばにつまずくことなく、イエス様や教会を離れる事なく、サタンの誘惑に負ける事なく、イエス様に選ばれた弟子としての生涯を生きようではありませんか。 

御国をめざして。

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聖書個所:ヨハネ6:4159                    2016-1-10礼拝

 説教題:「ユダヤ人のつぶやき」

 【導入】

イエス様が5つのパンと2匹の魚を、大人の男性だけでも5000人に分けて与えられ、その5000人が満腹し、満足した奇蹟は多くの人々が体験し目撃しました。

イエス様の行なわれた奇蹟を体験し、目撃した人々は、イエス様に幻想を抱いて付いて行きます。

物珍しさから付いて行く人々もおれば、その不思議な力を用いて、ローマ政府の支配から解放してくださるのではないか、イスラエル王国の再建者となってくださるのではないか、と考える人々もいた事でしょう。

イエス様が支配者となれば、王となれば、何かのおこぼれに与れるだろうと考える人もいた事でしょう。

しかし、イエス様はその考えの間違いを正し、イエス様が来られた目的を教えられます。

イエス様の来られた目的は、父なる神様のみこころを行う事であり、父なる神様のみこころとは、人々の罪の赦しであり、罪人を天国に招き入れてくださる事です。 

決してローマ政府からの解放でもなければ、イスラエル人のための王国を設立する事でもありません。 

病気を癒す事でも、空腹を満たす事でもありません。 

ですが、苦しんでいる人々を見捨てる事はイエス様のみこころではなく、病気を癒してくださり、虐げられている人々を慰め、飢えている人々を満ち足らせてもくださるのですが、それが目的で来られたのではない事を証しする事も忘れてはいません。

イエス様は人々の要求を満たした後で、更に重要な事、大切な事を教えてくださる。

それが、イエス様の行動、伝道パターンです。

5000人の給食の後に、イエス様は最初に群集に向けて、次にユダヤ人に向けて、最後に弟子たちに向けて話しをなさいましたが、今日の説教は二番目のユダヤ人に向けて語られたところから学んで行きたいと思います。

本論に入る前に、前回の確認をしましょう。

何故ならば、今日のユダヤ人との論争は、群集に語ったイエス様の言葉が問題となっているからです。

イエス様はパンの奇蹟を目撃して付いて来る群衆に向って、「食べればなくなってしまうパンのために働くのではなく、永遠のいのちに至る食べ物のために働くように」と勧めます。

その働きとは、何か良い行いをする事ではなく、イエス様を神様が遣わした者と信じる事だと諭します。

信じる事が永遠のいのちに至る働きだなんて、訳の分からない事を、イスラエル人の誰が信じるでしょうか。

イスラエル人は律法を守る事、生贄を献げる事が永遠のいのちを手に入れる絶対条件であると堅く信じていました。

そう言う教育を受けていたからであり、イスラエル人の誰もが信じて来た事なのです。

その昔からの先祖代々の教え、絶対だと信じて来た事を覆すのは簡単な事ではありません。

モーセが与えた律法、生贄の教え、祭りの規定を覆せるのは、モーセに優る預言者だけだと確信していますから、群集はその昔、イスラエルの民がエジプトを脱出し、食物がなくなった時、モーセがマナを降らせて民の飢えを満たした故事を引き合いに出して、イエス様にイエス様が神から遣わされたと信じるための奇蹟、モーセに優る預言者だと信じるに足る奇蹟を要求します。

イエス様は群集の要求に対して、モーセがパンを与えたのではなく、神様が与えてくださったのであり、今、神様は天からまことのパンを与えたのであり、わたしがその天から下って来たいのちのパンだと宣言されたのです。

【本論】

6:41 ユダヤ人たちは、イエスが「わたしは天から下って来たパンである。」と言われたので、イエスについてつぶやいた。

6:42 彼らは言った。「あれはヨセフの子で、われわれはその父も母も知っている、そのイエスではないか。どうしていま彼は『わたしは天から下って来た。』と言うのか。」

このユダヤ人の言葉は無知とか、不信仰では片付けられない言葉です。

「神」と言う偉大な、無限の、不変の存在が、卑しい有限な、老いて行く人間から生まれるなんて誰が信じるでしょうか。

誰が疑問もなく受け入れる事が出来るでしょうか。

お母さんの保護、愛情がなければ死んでしまうか弱い存在に生まれた人間が、天から下って来た神の子だなんて、ユダヤ人だけでなく、日本人も、韓国人も、中国人も、世界中の人が信ずる事はできないでしょう。

父も母も極、普通の人間です。

生まれも、素性も、村中、町中の人々が知っている。

先祖を辿れば、偉大なダビデ王家に続くかも知れないが、今は市井の一市民であり、大工の息子で弟が4人いて、妹も2人以上いたようです。

そんな何処にでもいる、普通の家族の中から突然「わたしは天から下って来たパンである」と言われても、信じられないのが当然であり、ユダヤ人を責める事は出来ません。

しかし、イエス様はこの日、突然、何の前触れもなく、突拍子もない事を宣言されたのではなく、凡そ30歳になった時、公生涯に入られた時、バプテスマのヨハネの紹介を受けたのであり、バプテスマのヨハネから洗礼を受けられたのであり、その時、天から御霊が鳩のように下って来るのを多くの人々が目撃したのです。

そしてこの時、人々は天から「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ」との声を聞いたのです。更に、人間には絶対に出来ない奇蹟を次々と行なわれたのであって、イエス様を並の人間ではない、神の遣わされた預言者、神様の愛する子、と信ずる素地は整えられていたのです。

しかも、ユダヤ人は聖書の預言を熟知しており、救い主が生まれる事を知っていたのです。

しかし、幾ら素地が整えられ、充分な備えや証拠があっても、信じられないのが人間です。

人は理解を越えた出来事に出会う時、呆然とし、それを受け入れるよりは、拒否する生き物なのです。

ですからユダヤ人のつぶやきは特殊な事ではなく、多くの人間の自然な反応なのです。

自然な反応ではありますが、そこに留まっていたなら、永遠のいのちを得る事は出来ません。

6:43 イエスは彼らに答えて言われた。「互いにつぶやくのはやめなさい。

6:44 わたしを遣わした父が引き寄せられないかぎり、だれもわたしのところに来ることはできません。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。

6:45 預言者の書に、『そして、彼らはみな神によって教えられる。』と書かれていますが、父から聞いて学んだ者はみな、わたしのところに来ます。

ユダヤ人はイエス様が「わたしは天から下って来た」と言った言葉につぶやいているけれど、つぶやきは何の解決も、前進も発展ももたらしません。

つぶやきは時間の浪費でしかありません。

イエス様は人間には理解の限界がある事を知っておられますから、つぶやくのをやめて、そのまま受け入れることを勧め、更に重要な事を語り始めます。

父が引き寄せられないかぎり、だれもわたしのところに来ることはできません。

これが真理なのです。

イエス様を神の子と信じる事も、イエス様のところに来る事も、人間の努力や意志ではなく、神様が引き寄せているかどうかにかかっていると言うのです。

人は自分の知識や経験で神様を知る事も、神様の下に来る事も出来ません。

イエス様の弟子は12人いますが、誰一人として自発で弟子になった人はいません。

皆、イエス様が声をかけ、召して弟子として下さったのであり、イエス様の選びなのです。

つまり、イエス様を信じる事も、イエス様のところに来る事も、イエス様の選びなのです。

神様が選んでくださったので、イエス様を信じる事が出来たのであって、私の努力が実を結び、見識が優れていたからクリスチャンになったのではなく、神様が私を選んでクリスチャンにしてくださったのです。

だからと言って、神様は嫌がる者を無理矢理にクリスチャンにする訳ではありません。

父なる神の声を聞いた者の全てが自動的にクリスチャンになる訳ではありません。

聞いて学んだ者、聞いて受け入れた者が、神様のところに来るのです。

そして、神様の声を聞き、神様の招きに応じて、神様の下に来る者を、神様は拒否する事なく受け入れてくださり、終りの日に永遠のいのちを与えてくださると言うのですが、誰かが神様の招きを教えなければ、神様の招きを知る事ができません。

その神様の招きを携えて、神様の命令で来られたのがイエス様なのです。

6:46 だれも神を見た者はありません。ただ神から出た者、すなわち、この者だけが、父を見たのです。

と、イエス様は仰っています。

人間は誰も、聖い神様を見る事は出来ません。

ただ「神から出た者」すなわち、イエス様だけが神様を見たのですから、神様を紹介する事が出来るのです。

6:47 まことに、まことに、あなたがたに告げます。信じる者は永遠のいのちを持ちます。

つまり、神様を見た者が、神様について語る事を信じるのが、私たちに提示された方法なのです。

先に申しましたが、罪人が神様を見る事は出来ません。

聖くない人間が、聖い神様を見る事は出来ないのです。

それで、神様がイエス様を人間として地上に生まれさせ、神様の事を伝えるように計画されたのです。

このイエス様を信じる事が、神様の招きに応じる唯一の方法なのです。

そしてこの信じる事が、如何に重要かを示しているのが、48節の「まことに、まことに」なのです。

人間がこの教えを理解し、悟って、受け入れる事において、しばしば困難が伴います。

今日の宣教のテキスト箇所はイエス様がユダヤ人に語っている場面です。

聖書の知識においては右に出る者がいないユダヤ人ですが、彼らは聖書が指し示すお方がイエス様であると受け入れる事も、信じる事も出来ないでいるのです。

それは語る内容より、伝統や系譜、権威を重要視し過ぎていて、誰が語ったかを重要視するからであり、

祭司でもなく、律法学者でもなく、パリサイ人でもないイエス様が語る言葉だから信憑性がないと判断したからなのです。

聖書の達人が、イエス様を信じられないのですから、聖書の知識も乏しく、常識や経験が邪魔をしている群集が真理を受け入れる事が出来ないのは当然です。

イエス様はつぶやくユダヤ人に向って、つぶやきの原因になった言葉に戻り解説をなさいます。

6:48 わたしはいのちのパンです。

6:49 あなたがたの先祖は荒野でマナを食べたが、死にました。

6:50 しかし、これは天から下って来たパンで、それを食べると死ぬことがないのです。

6:51 わたしは、天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。またわたしが与えようとするパンは、世のいのちのための、わたしの肉です。」

49節に「死」と言う言葉がでてきますが、人は罪の結果として死ななければなりません。

マナを食べようが、水を飲もうが、薬を飲もうが、延命処置を仕様が、人は罪の刈り取りをして、死ななければならないのです。

しかし、天から下って来たパンを食べる、即ち、イエス様を受け入れる時、イエス様の罪のない性質が私たちに転嫁されて、罪の結果としての死を迎える事がなく、永遠のいのちを得る事が出来るのです。

エジプトを脱出したイスラエルの民はマナとウズラと水で養われましたが、口から入った物は、消化されて出ていくだけでその人の内には留まりません。

しかし、イエス様というパンを受け入れた者は、イエス様がその人の内に留まり死ぬ事のないいのちを得ることが出来るのです。

6:52 すると、ユダヤ人たちは、「この人は、どのようにしてその肉を私たちに与えて食べさせることができるのか。」と言って互いに議論し合った。

イエス様のことばを文字通りにしか理解できないのはユダヤ人も群集も変りありません。

いや、弟子たちでさえも、正しい理解には更なるイエス様の導きを必要としたのです。

ユダヤ人は物としての肉にこだわり続け、愚かな質問を繰り返します。

6:53 イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。人の子の肉を食べ、またその血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません。

6:54 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。

6:55 わたしの肉はまことの食物、わたしの血はまことの飲み物だからです。

6:56 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、わたしのうちにとどまり、わたしも彼のうちにとどまります。

6:57 生ける父がわたしを遣わし、わたしが父によって生きているように、わたしを食べる者も、わたしによって生きるのです。

6:58 これは、天から下ってきたパンです。あなたがたの先祖が食べて死んだようなものではありません。このパンを食べる者は永遠に生きます。」

イエス様は繰り返しパンの意味、肉の意味を解説してくださいますが、イエス様が熱心になればなる程、群集もユダヤ人も冷ややかになり、その心を頑なにしてしまい、イエス様を受け入れる事はなかったのです。

また53節からのイエス様のことばは、次に弟子たちのつぶやきとなって行くのです。

この事は次回の礼拝で学びますが、ユダヤ人も群集も弟子たちも、パンの譬え、肉の譬え、血の譬えを理解する事が出来ず、多くの人々がイエス様を離れ、折角神様が用意してくださった永遠のいのちを受け取る事なく立ち去ってしまうのです。

最後に、このユダヤ人との論争が会堂で行なわれた事が記されています。

6:59 これは、イエスがカペナウムで教えられたとき、会堂で話されたことである。

会堂ではモーセの律法が朗読され、その解説が行なわれ、礼拝と生活の基本として教えられていました。

そこにイエス様が永遠のいのちを得るための、新しい律法を提示したのです。

イエス様の説話はユダヤ教との絶縁を宣言するものであり、ユダヤ教では達成する事の出来なかった義を得る真理の宣教の開始を意味しているのです。

【適応】

ユダヤ人のイエス様のことばに対するつぶやきは伝統、系譜、権威に支配された者のことばです。

イエス様がパリサイ人や律法学者の弟子ではなく、祭司とも関係なかった事は、また、大工の息子であった事は、ユダヤ人の宗教的指導者の伝統にそぐわない事であり、系譜から外れた者であり、何の権威もない者のことばであり、聞くに価しないし、ユダヤの伝統と権威に楯突く言動であったのです。

ユダヤ人はモーセの律法を守るために、数々の規定を設けていましたが、イエス様のことばはそれらの伝統、権威を失墜させる行為であり、人の肉を食べ、血を飲むなどと言う言葉は、神様と聖書を冒涜する言葉であり、断じて容認出来る言葉ではなかったのです。

しかし、イエス様は神様に遣わされて来られたのであり、聖書を廃棄するために来られたのではなく、完成させるために来られました。

聖書には血を飲むことを固く禁じる律法が記されています。

それを行なえと言うのですから、ユダヤ人が驚くのは無理ありません。

しかし、血はいのちそのものであると、教えられているのですから、血を飲む事が譬えであると理解したならば、永遠のいのちを持つお方の血を飲んだなら、永遠のいのちが得られると容易に受け入れられる教えなのです。

しかし、ユダヤ人は律法の一字一句を守り、生贄を献げ、決められた祭りを行なう事が義とされ、永遠のいのちを得る唯一の方法と信じて行なって来ましたが、人は行いでは義とされないのです。

行いではいのちを得る事は出来ないのです。

いのちを得る唯一の方法がイエス様の肉を食べ、血を飲む事なのですが、肉と血は比喩であり、イエス様を神様の遣わされた救い主として受け入れる事なのです。

更に、パンと水が肉体の健康ために必要なように、イエス様の肉と血は、信仰と霊的な健康を保つために必要なものなのです。

毎日パンを食べ、水を飲むように、毎日イエス様の肉食べ、血を飲まなければなりません。

それは、毎週の礼拝を守る事であり、毎日家で聖書を読み、祈りを献げる事です。

聖書を読み、祈りを献げる事は、イエス様との交わりであり、その交わりを毎日欠かさない事が大切なのです。

聖書通読に、個人祈祷に重きを置かない傾向がありますが、一週間を主日礼拝だけで生きていくのは無謀な相談です。

食い溜めも飲み溜めも出来ないように、聖書の読み溜めも、祈り溜めも出来ないのです。

毎日、イエス様との親しい交わりを欠かしてはなりません。

聖書を読み、祈るのはイエス様のためではなく、イエス様との交わりを保持し続けるためなのであり、私たちのためなのです。

イエス様の肉と血は私たちに永遠のいのちを約束するものです。

信じるだけで救われるなんて変な教えだと、日本の伝統にそぐわないとつぶやかないで、神様の招きに応じて、イエス様を信じ受け入れてください。

そうすれば永遠のいのちから漏れる事は決してありません。

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聖書箇所:創世記21813                 2016-1-3礼拝

説教題:「イシュマエルvs.イサク」

【導入】

善意から行なった事でも、世の中、一般で行なわれている事でも、また、教会の業、奉仕、献金、であっても、信仰から出ていなければ、それは「罪」であり、禍根やしこりを残し、問題を起し、混乱を起します。

残念な事ですが、善意から出た、教会の業でも、問題を起し、混乱を起すのですから、ましてや、この世の事であるならば、撚り一層複雑な問題を起し、収拾困難な混乱を起します。

各々に与えられた分、即ち、神様からの命令、使命を弁え、その分の範疇で、信仰を持って、最大限の努力と工夫をするのが、御こころであり、分を弁えない逸脱は、越権行為は、神様の御こころを無視する事であり、不信仰です。

夫婦にとって、子どもが与えられないと言う事は、得に女性にとって、子どもを産めないと言う事は、二重三重の苦しみである、と言う事は、前回学びました。

愛でる対象がない、財産、働きを継承できない、神様の祝福を受けられない、神様から呪われている…。

何とかしなければ…。

しかし、神様から「あなた自身から生まれ出て来る」と宣言されているのですから、何年でも、何十年でも、年老いても、足腰が立たなくなっても、それでも待たなければなりません。

神様が制定された結婚の制度は、男女、それぞれ一体づつであり、二人でありながら一人の如くであり、如何なるモノも、加わる事があってはならず、どんな理由があっても、引き離してもならない制度です。

神様の宣言の「あなた自身から生まれ出て来る」の「あなは」は「アブラハムとサラ」を意味し、アブラハムとサラによって子が生まれると宣言されたのですから、社会一般では奴隷を与えて、奴隷によって子どもを得る事が当たり前、常識であっても、誰も咎めもせず、非難もしなくても、奴隷を与えてはならず、信仰を持って神様の約束を、神様の業を、待たなければなりません。

しかし、アブラハムは、サラの提案を受け入れ、アブラハム86歳、サラ76歳の時、エジプト人の奴隷ハガルによってイシュマエルを得たのでした。

神様の約束は、アブラハム、サラの不信仰に関わらず、最初の約束から25年が過ぎた時に、機が熟し、アブラハム100歳、サラ90歳のときに、約束の子イサク誕生に至るのですが、イサクの成長と共に、問題が、混乱が起こります。

【本論】

21:8 その子は育って乳離れした。アブラハムはイサクの乳離れの日に、盛大な宴会を催した。

ユダヤ人の、当時の「乳離れ」の時期は、一般的に3歳から4歳でした。

当時の一般的な慣習であり、産後の回復、育児の負担、子どもの無事な成育への配慮などからの知恵と思われますが、年子、二つ違いの兄弟姉妹、ではなく、3つ、4つに成長するまで、母親は付きっきりで育児に専念したのであり、次の子は、3年後、4年後、だったようです。

そして、乳離れの時期に、家族、親類縁者のみならず、土地の人々を招いて、盛大な宴会を催し、料理、酒を振舞ったのです。

幼子の無事な生育が困難な時代にあって、難しい時期を越えた祝いであり、お披露目的な意味もあった事でしょう。

一大イベントは「結婚式」であり、一週間前後を掛けて祝ったようですが、「出産]「乳離れ」も家族、親類縁者総出で、村中総出で祝ったのです。

21:9 そのとき、サラは、エジプトの女ハガルがアブラハムに産んだ子が、自分の子イサクをからかっているのを見た。

祝いの席での出来事か、日常生活での出来事か、はハッキリしませんが、イシュマエルがイサクを「からかって」いるのを、イサクの母サラが見咎めます。

この時、イシュマエルは17歳から18歳に成長しており、立派な青年です。

方や、イサクは「乳離れ」の時期ですから3歳から4歳であり、その体力、腕力、知力の差は雲泥の差であり、からかって」が何を意味するかは、何を仕掛けたのかは、明確ではありませんが、からかって」と訳されている語は「笑う」の強意、強調形であり、

「苦笑い、揶揄、蔑み」の込められた「悪ふざけ、嫌がらせ、苛めて、笑いものにした」のではないでしょうか。

イシュマエルは「盛大な宴会」を、どのような思いで見、加わっていたのでしょうか。

「三つ子の魂、百まで」と申しますが、自分の「乳離れ」の時の宴会と比較して、その歴然とした差に、驚き、不条理に怒りを覚え、反発し、その処理しきれない、ささくれ立った感情の嵐の鉾先を、幼く、あどけない、慕ってくるイサクに向けたのではないでしょうか。

21:10 それでアブラハムに言った。「このはしためを、その子といっしょに追い出してください。このはしための子は、私の子イサクといっしょに跡取りになるべきではありません。」

イシュマエルとイサクは異母兄弟ですが、イシュマエルは、サラが仕組んで、サラの提案で、サラの子として、産ませたのであり、イシュマエルが産まれた時、サラは76歳ですが、イサクを妊娠する89歳までは完全に我が子と見做して養育して来たのであり、サラは自身が妊娠、出産する事を、全く信じてはいなかったのですから、ずっと、我が子として、跡取りとして接して来たはずであり、イシュマエルは実質的にサラの子なのです。

イサク出産と共に、掌を返したような変化は、矛盾の一言では片付けられません。

サラ自身にも、葛藤があり、悩みに悩んだ末に出した結論なのではないでしょうか。

アブラハムの後継ぎとして可愛がって、育てて来たのであり、178年も寝食を共にして来たのであり、簡単に切り捨てられるものではないはずです。

神様の明確な約束、創世記1719

17:19いや、あなたの妻サラが、あなたに男の子を産むのだ。あなたはその子をイサクと名づけなさい。わたしは彼とわたしの契約を立て、それを彼の後の子孫のために永遠の契約とする」がある。

しかし、跡取の権利を有する者である事は、紛れもない事実であり、対立の可能性があり、からかっている」現実を見せられては、跡目相続争いが杞憂ではなくなったと実感したのであり、我が子可愛さから、イシュマエル追放を決断させるのです。

21:11 このことは、自分の子に関することなので、アブラハムは、非常に悩んだ。

イシュマエルは、アブラハム86歳の時に産まれた子どもです。

老齢で授かった子であり、愛着はひとしおでしょう。

サラと同じく、長い間、跡取として接して来たのであり、跡取として育てて来たのであり、何より、二人を追い出す事が、正しいとは思われなかったのです。

だから「非常に悩んだ」のですが、この「アブラハムは、非常に悩んだ」と訳されている言葉の直訳は「彼の目には非常に悪であった」であり、アブラハムとしては、追い出す事は「悪」であり、選択肢でありながら、選べない、ジレンマに悩んでいたのです。

しかし、サラの言う事には一理あり、決して無慈悲な提案ではないのです。

ハムラビ法典、バビロンの王ハムラビが、紀元前17世紀の在位期間中に制定した、明文化した、とされる法典ですが、このハムラビ法典では、父の認知を条件として、奴隷の女の子は、自由の女の子と同等の権利を持つ事を規定しています。

即ち、正式な跡取であり、相続する権利があります。

しかし、奴隷の身分である事に変わりはありません。

そこで、もう一つの身分、相続に関する法を紹介しましょう。

ハムラビ法典の150年前に制定されたとされる、リピット・イシュタル法典では、奴隷の女の子は、自由を与える交換条件として、跡取の権利を失う、と規定されているのです。

即ち、サラの提案は、無慈悲な、情け容赦のない、非常に厳しい過酷な提案なのではなく、自由を与える提案であり、奴隷の身分から開放される、またとないチャンス、この上もない寛大な提案なのだ、と言う事です。

とは言え、身分は自由人でも、財産がなければ路頭に迷うのは必至です。

そこで、後の時代ではありますが、申命記1513節に次ぎのような規定が設けられます。

15:13 彼を自由の身にしてやるときは、何も持たせずに去らせてはならない」です。

これは、ヘブル人の奴隷に関しての規定ですが、奴隷開放に際して、相応の何かを、生きて行くに必要、充分なモノを持たせるのが、神様の教えであり、祝福の基であるアバラハムの下を去る者が、無一文、着の身着のまま、はあり得ない事でしょう。

相応のモノを与えるとは言え、実子であり、17年も辛苦を共にして来た我が子を追い出すのは忍び難く、悩むアブラハム。

21:12 すると、神はアブラハムに仰せられた。「その少年と、あなたのはしためのことで、悩んではならない。サラがあなたに言うことはみな、言うとおりに聞き入れなさい。イサクから出る者が、あなたの子孫と呼ばれるからだ。

神様のアブラハムに対する指示は、サラの提案を受け入れよ、ですが、妻に従うのではなく、神様の目的に従うのであり、歴史における神様のご計画に従うのです。

表面的には人の意見であったり、人間の提案ですが、背後で神様が働かれ、人を通して御こころを現されるのであり、全ては、神様の主権であり、神様の選びである事が、宣言されます。

神様への信仰の欠如から起こった、失敗であり、待つ事が出来ずに、人間的な、安易な方法を選んでしまって起こった問題であり、神様のご計画が進む中で起こった、イシュマエルとイサク、サラの確執ですが、神様はこの失敗、問題、確執を通して、歴史の支配者は誰なのか、一族、人間の命運を握っておられ、導いておられるお方が誰なのかを示されたのです。

神様の命令に反し、この世の方法を採用し、勝手な判断、勝手な行動をとってしまいましたが、そのため、余計な問題や、悩みを抱えてしまいましたが、神様は苦渋の決断をするアブラハムに、慰めの言葉、約束を与えられます。

21:13 しかしはしための子も、わたしは一つの国民としよう。彼もあなたの子だから。」

13節は、創世記1720節の言葉です。

17:20 イシュマエルについては、あなたの言うことを聞き入れた。確かに、わたしは彼を祝福し、彼の子孫をふやし、非常に多く増し加えよう。彼は十二人の族長たちを生む。わたしは彼を大いなる国民としよう。

幾ばくかのモノを貰っても、それで安全は、買えません。

病気や事故は突然にやって来ます。

17歳とは言っても少年の域であり、壮年の知恵や経験を持ってはいません。

そんな現実の中で、追い出したならば、命の保障はなく、生き延びられるかを心配する者にとって、13節の約束は、どんなに大きな慰めとなった事でしょうか。

【適応】

本日の説教題を「イシュマエルvs.イサク」としましたが、実際的な状況は「イシュマエルvs.サラ」であり、その本質は「アブラハムvs.神」でしょう。

人間は、常に神様と対峙しており、神様に従うか、自分の考えで行くか、を選択しなければなりません。

神様に従うならば、即ち、信仰によって従うなら祝福が伴い、自分の考えで行くなら、即ち、信仰によらない行動ならば、問題と混乱が付き纏う事になるでしょう。

そんな不信仰な選択、行動でも、その結果招き寄せた問題、混乱でも、神様は自業自得だとして、見捨てる事も、放っておかれる事もなさいません。

ご介入され、人間に知恵を与え、人間の作った規則を用いて、欠陥だらけのこの世の浅知恵をも用いて、御こころを進められ、イシュマエルにとっても、イサクにとっても、アブラハムにとっても、サラにとっても、ハガルにとっても、最善に導いてくださいます。

気付きを与えてくださり、多少の痛みや、悲しみは伴いましょうが、慰めを与えてくださり、希望を与えてくださいます。

人間の判断や裁定では、矛盾が内在し、歪が生じ、誰かが損な役回りに立たされましょう。

良く出来たとしても、「三方一両損」、即ち、関係者全員が、均等に損を負担する、でしょうが、神様の裁定は、最高の裁定であり、関わった全員に、大きな祝福をもたらします。

アブラハム、サラにとっても、負い目とならず、後味の悪い、生涯の汚点となるような結果ではなく、イシュマエルが生き延び、大いなる国民となるのであり、イサクが名実ともに、アブラハムの働きと財産を引き継ぐのです。

イシュマエル、ハガルにとっても、奴隷の身分から脱出し、自由を手に入れるのであり、ご主人様に許しを乞う必要もなく、誰にも邪魔されずに、何処にでも行けるし、何でも出来るのです。

自由の素晴らしさ、晴れ晴れしさは、奴隷の身分にあった者でなければ分らないでしょうが、制限が全くないのですから、どんなに嬉しかった事でしょうか。

陰湿な苛めに合う事もなく、卑屈になることもない。

努力や苦労が、自分に返って来るのですから、働き甲斐があり、工夫にも身が入る事でしょう。

これらは、偶然の産物ではなく、失敗しつつも神様に従うアブラハムであったからであり、アブラハムに注がれる、神様の恵みが、イシュマエルやハガルにも注がれたのです。

不信仰から出た行動を、その悲惨な結果を、神様は信仰に引き戻し、祝福に替えてくださいますが、だからと言って、不信仰な行動を認めている訳でも、奨励している訳でもありません。

常に信仰的な、判断と、選択と、行動を取れるように祈らなければならず、神様を意識した日々を積み重ねなければなりません。

イエス様の十字架により、神様との和解が成り、神様との親しい交わりが、回復し、その結果、人間同士は、説教題のような、対立する関係でなく、和解、共存、共栄が可能になりました。

主イエス・キリストを土台として、信仰によって行動するなら、クリスチャンは、与えられた賜物を存分に発揮する事が出来、家庭や教会は、祝福され、その使命を果たす事が出来、教会、家庭の祝福は、地域社会のみならず、世界に波及し、社会、世界の混乱は、収束に向かい、世界、社会に平和が実現します。

クリスチャンの信仰による行動が、信仰による祈りが、家庭を、教会を、地域社会を、世界を大きく変えるのです。

神様は、どんな小さなことでも、信仰によって行動する事を期待しておられます。

神様の期待に応える2016年であり、神様の栄光を現す2016年でありたいと願うものです。

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