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聖書箇所:創世記221524                 2016-2-28礼拝

説教題:「祝福と備え」

【導入】

月日の過ぎるのは早く、あっという間に2016年の2月も終わろうとしています。

1年の6分の1が終わろうとしている訳であり、のんびりしている暇はありません。

本日、午後には、教会総会が開催され、2015年の報告と、2016年の計画に付いて話し合われます。

とかく事務的に進め勝ちに成らざるを得ませんが、議案の一つ一つに、神様が関与されている事を覚え、神様の御計画と導きと祝福と守りを念頭に置かなければなりません。

教会の会議や総会は、世の中一般の会議や総会とは異なり、達成可能な計画を立案、検討し、推進するために話し合うのではなく、赤字を出さないために話し合うのでもありません。

神様の栄光を現すために話し合うのであり、身の丈に見合った計画を立てると同時に、神様からのチャレンジを反映させなければならず、実現が難しくても進めなければならない計画もあり、収支の帳尻を合わせる会計を計画するのではなく、神様の栄光を現すためなら、赤字を増やすような事になっても、惜しまずに支払わなければなりません。

余裕があるから、余裕がある時に奉仕、献金するのではありません。

忙しくても、大変でも、喜んで奉仕し、余裕の無い中から、犠牲を払い、大きな痛みを伴いながら、せい一杯を献げる時、神様の栄光が現れるのであり、神様のお働きに参与出来、祝福に与れるのです。

アブラハムの払った犠牲は、計り知れず、大きな悩み、苦しみも伴いましたが、神様は助けてくださり、導いてくださり、想像もしなかった結果を用意してくださいました。

そして、信仰が伴った行ない、犠牲には、大きな祝福が宣言されるのであり、その祝福は概念的な祝福ではなく、死後の世界における祝福でもなく、現実の世界での、実体を伴う祝福です。

【本論】

22:15 それから【主】の使いは、再び天からアブラハムを呼んで、

22:16 仰せられた。「これは【主】の御告げである。わたしは自分にかけて誓う。あなたが、このことをなし、あなたの子、あなたのひとり子を惜しまなかったから、

22:17 わたしは確かにあなたを大いに祝福し、あなたの子孫を、空の星、海辺の砂のように数多く増し加えよう。そしてあなたの子孫は、その敵の門を勝ち取るであろう。

22:18 あなたの子孫によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになる。あなたがわたしの声に聞き従ったからである。」

17節の前半、18節の前半の祝福の宣言は、過去に何回も宣言された祝福の繰り返しですが、17節後半には、新しい祝福が付け加えられました。

即ち「あなたの子孫は、その敵の門を勝ち取るであろう」です。

神様は、忘れ易い人間に、疑いを起し易い人間に、間違い易い人間に、約束を繰り返し宣言され、約束の確かな事を保証されます。

勿論、一言一句まで、全く同じでは無いかも知れませんが、主旨は終始一貫しており、変更される事も、修正される事も、削除される事もありません。

アブラハムとの約束は、最初の約束の宣言の時に、アブラハムの子孫とも交わされている事が宣言され、時間が経過し、イサクが加えられ、イスラエルが加えられますが、約束自体に変化がある訳ではありません。

アブラハムと交わされた約束は、更新するのではなく、再契約するのでもなく、最初の約束が、子々孫々に連綿と引き継がれるのであり、2年毎に更新の時が来て、条件が変るのではないか、と言った心配や、代替わりの時に再契約をしなければならず、改めて審査を受けなければならない、と言った心配も全くありません。

心配どころか、17節後半に宣言されているように、祝福が具体的に宣言されるのであり、子孫が増えたのは良いけれど、肩身を狭くし、小さくなって、怯えながら生きるのではなく、「敵の門を勝ち取る」即ち「町を占領し、町を支配する」事が宣言されているのであり、しかも、その約束、宣言は、16節「わたしは自分にかけて誓う」のであり、変わる事のないお方、永遠に存在されるお方が、変わる事のないご自身に対して、永遠に存在されるご自身に対して、誓われるのであり、誓いの確実性、永遠性、不変性を保証しているのです。

ここで、敢えて、特別な誓いを宣言されるのは、神様の側にも誓う必要があった訳ではなく、あくまで人間のためにであり、忘れ易い人間のために、疑心暗鬼に陥り易い人間のために、間違い易い人間のために、身勝手な解釈をし易い人間のために、であり、人間に、アブラハムに保証を与え、確信を与え、安心を与え、平安を与え、且、隙を窺うサタンに対する牽制であり、口出しをするサタンに対する、邪魔をしようと画策するサタンに対する駄目出しです。

ここで注意しなければならないのは、この大いなる祝福を得たのは、

16節「あなたが、このことをなし、あなたの子、あなたのひとり子を惜しまなかったから」ではありません。

祝福は、神様からの一方的な「恩寵、恵み」であり、信仰を持って、18節「あなたがわたしの声に聞き従ったから」先に宣言された祝福を与えられたのです。

「子どもを献げる」とか、「財産を献げる」とか、「身を献げる」とか等ではなく、信仰による行ないが、義と認められるのであり、神様の命令に聴き従う事が、義と認められるのであり、信仰によらない全ての行ないは、人々の称賛を浴びようとも、効果絶大でも、画期的、革新的でも、人類に多大な貢献をしようとも、皆がハッピーでも、罪なのです。

ここで「罪」と言うのは「犯罪」の意味ではなく、神様の命令、十戒、教え、聖書に従わない事であり、神様に眼を向けない事、耳を塞ぐ事、背を向ける事です。

神様から眼を逸らさず、聞き耳を立て、従順であったが故に、アブラハムは義と認められ、祝福を、恩寵、恵みを受け得たのです。

22:19 こうして、アブラハムは、若者たちのところに戻った。彼らは立って、いっしょにベエル・シェバに行った。アブラハムはベエル・シェバに住みついた。

創世記225節で

22:5 それでアブラハムは若い者たちに、「あなたがたは、ろばといっしょに、ここに残っていなさい。私と子どもとはあそこに行き、礼拝をして、あなたがたのところに戻って来る。」と言った。」と記されていますが、

この宣言の通り、アブラハムは礼拝、しかも、神様に喜ばれる礼拝、

即ち、最高の献げ物、愛する我が子イサクを生け贄として献げたので、

イサクを返して頂き、イサクと共に戻って来たのです。

神様に聴き従い、最高のモノを献げる時、最高のモノが与えられるのであり、

付け加えて、最高の祝福も与えられるのです。

祝福を受けるか否かは、信仰を持って聴き従うか否かにかかっており、

信仰を持って聴き従うなら義と認められ、義人の受ける報いを受けるのであり、

信仰を持って最高のモノを献げるなら、義人の受ける報いとして最高のモノを与えられるのです。

私たちの礼拝は、神様に喜ばれる、最高の礼拝でしょうか、最高の献げモノを献げているでしょうか。

信仰を持って、礼拝を、献げモノを献げ、義人と見做されているでしょうか。

吟味したいところです。

ベエル・シェバ」はゲラルの王アビメレクからの申し出で、アブラハムの住まう所となった土地ですが、譲り受けた土地ではありません。

アブラハムの所有する土地ではなく、無償で、期限の設定なしで、借り受けている土地であり、この後、アブラハムは、エフロンの私有地、マクペラの畑地と洞穴を正式に買い取り、アブラハム私有の墓地とし、サラを埋葬する事になりますが、アブラハムの所有する土地は、このマクペラの畑地と洞穴、墓地だけであり、住まいのためでも、農作物のためでも、家畜のためでも、土地を所有しなかったのであり、この世では、寄留の旅人に徹しての生涯を送るのです。

言わば、固定資産、不動産を一切持たない生涯であり、正に、旅人としての生涯であり、神様に対する信仰のみに頼った、寄り縋った生涯であった事が、証しされているのです。

そんな、生活にも、将来にも、何の保証のない生涯ですが、神様が保証となっておられ、アブラハムの生涯に、深く、関わっておられる事が明らかにされます。

22:20 これらの出来事の後、アブラハムに次のことが伝えられた。「ミルカもまた、あなたの兄弟ナホルに子どもを産みました。

22:21 すなわち長男がウツ、その弟がブズ、それにアラムの父であるケムエル、

22:22 次にケセデ、ハゾ、ピルダシュ、イデラフ、それにベトエルです。」

アブラハムには、2人の兄弟がいました。

どちらが兄だったのか、弟だったのかの関係は断定出来ませんが、ハランとナホルであり、ミルカはハランの娘であり、ナホルは姪と結婚したのであり、ナホルとミルカの間には、8人の子どもが与えられました。

8人の子どもの名前の最後には、ベトエルの名前が記され、

22:23 ベトエルはリベカを生んだ。ミルカはこれら八人をアブラハムの兄弟ナホルに産んだのである。

リベカは将来、イサクと結婚する事になりますが、ベトエルはイサクの従兄弟であり、イサクは従兄弟の娘と結婚する事になるのです。

不思議な事ですが、偶然ではなく、神様のご計画であり、アブラハムに注がれる神様の恩寵、恵み、祝福は、アブラハムを皮切りに、徐々に増え続けるアブラハムの子孫に注がれる…のではなく、アブラハムに注がれる遥か以前から、アブラハムの親族にも注がれているのであり、ハランの息子、アブラハムの甥のロトとの関係においても、ナホルの8人の息子、更には、

22:24 レウマというナホルのそばめもまた、テバフ、ガハム、タハシュ、マアカを産んだ。

と、記されているように、ナホルには12人の子が与えられ、12部族とされるのも、アブラハムに注がれる神様の恩寵、恵み、祝福があってこそであり、この12部族、と言う数は、神様の恩寵、恵み、祝福の現れです。

アブラハムの子、イシュマエルの子も12部族とされた事が、創世記25章に記されており、イサクの子、ヤコブの子も12部族とされた事は、説明するまでもない事ですが、イサクと生涯を共にする伴侶は、イサクの叔父(伯父?)の、12部族の中に備えられていたのであり、神様は、少ない数の中から、少ない選択肢の中から、まあまあ、そこそこの人物を選ばれるのではなく、膨大な数の中から、一番相応しい人物を、最高の人物を、事前に選ばれておかれるのであり、アブラハムの僕を導き、出会わせ、イサクと結び合わせ、救い主へと続く子孫をお与えになられるのです。

アブラハムは、凡そ100歳でイサクを授かりますが、イサクが成長し、結婚適齢期になるまでの間に、イサクの数多の従兄弟、親族の中から、ベトエルを選び、ベトエルの子リベカを選び、育み、イサクと出会わせてくださるのです。

何と、深遠、遠大、広大なる神様のご計画であり、恩寵、恵み、祝福でしょうか。

アブラハムの全く関わり知らない所で、神様のご計画は着々と進んでいるのであり、神様の祝福の宣言の裏付け、備えは着実に、確実に、現実に進められているのです。

【適応】

この神様の恩寵、恵み、祝福は、直接にはアブラハムに語られ、アブラハムに注がれ、アブラハムの血縁の子孫に注がれている事は、改めて確認するまでもありませんが、アブラハムとは血縁のない、アブラハムの霊的子孫である私たちにも注がれている事を忘れてはなりません。

神様との出会いが与えられ、信仰を持った、信仰を持たせてくださった瞬間から、神様の恩寵に預かり、恵みを、祝福を頂くのではありません。

神様の恩寵、恵み、祝福の故に、イエス様が十字架に掛られたのであり、イエス様の贖い、犠牲、苦しみの故に、罪人であった私たちが、神様の下に導かれ得たのであり、神様の恩寵、恵み、祝福の存在を知り得たのです。

神様の恩寵、恵み、祝福は、人種、国境、文化、時代を越えて、注がれているのであり、アブラハムやイサクを祝福するために、ナホルを祝福し、ベトエルを祝福したように、あなたを、私たちを祝福するために、親族を祝福し、友人を祝福し、知人を祝福し、関係者を祝福し、関係なさそうに思える人々を祝福するのです。

教会を祝福するために、関係教会を祝福し、他教団や他教派教会を祝福し、地域を祝福するのです。

祝福は、単純に良い事がある、上手く行く、と言う事に限定されている訳ではなく、神様のお取り扱いを受ける、と言う事であり、非常に繁栄し、膨大な資産を蓄えても、その蓄えは神様によって取り上げられ、神様を信じる義人に配分される事もあるでしょう。

厳しい状況に長く置かれていたとしても、孤立無援であったとしても、八方塞であったとしても、それらは皆、訓練であり、訓練の背後では、同時に、脱出、解決の備えが神様によって着々と進められているのであり、祝福の宣言と共に、祝福の具体的な備えも進められているのです。

祝福の宣言は、言葉だけの概念的な慰めではなく、遠い将来、死んでから天国に招かれる、と言ったような、観念的なものでもなく、現実に味わう事の出来る祝福であり、実際に体験出来る祝福です。

幼い子どもの皆さんには、賜物を豊かに用いる準備の期間であり、信仰生活の備えの時であり、沢山の可能性の、大きな希望の未来が待っていますし、青年の皆さんには、賜物を生かして活躍し、この世を神様の御こころにそってお世話、管理する働きが期待されていますし、伴侶を得た方には、伴侶と共に助け合い、協力し合い、補い合って、其々の賜物を存分に用いる、豊かな信仰生活が待っていましょうし、お子さんが与えられた夫婦には、信仰継承すると言う、掛け替えのない大切な使命が与えられますし、お歳を召された皆さんには、祈り、執り成すと言う、尊い働きが期待されていますが、これら全てに、神様は関わられ、祝福し、備えていてくださるのです。

頑張ったり、無理したりではなく、神様に信頼して、信仰を持って聴き従う時、あなたの人生は、私たちの人生は、本当に豊かで掛け替えの無い人生となるでしょう。

神様が備えてくださっているのですから、齟齬は無く、不足は無く、余りに余って、溢れ出し、溢れ続け、関わる人々を祝福し続けるのです。

アブラハム一人への祝福でさえ、先に述べたように、多くの人々に祝福をもたらすのですから、ここにおられる皆様への祝福が、どれ程の祝福を世界にもたらすのかを考えたなら、驚きであり、大いに期待しなければならないのではないでしょうか。

しかし、この世界に眼を転じたならば、この世界が祝福されているとは、言い難い様相ですが、見えない所で祝福の備えは進んでいるのであり、進められているのであり、今は、点であり、点が散在しているだけで、点の働きは小さく、祝福も極小さく、極限られていると思われましょうが、神様のご計画は着々と進んでいるのであり、進められているのであり、点には大きな力が秘められているのであり、神様の力が注がれ続けているのであり、点が繋がり線になり、線になった時には、更に面になった時には、驚異的な祝福が形となって現れるでしょう。

その日は、決して遠くはありません。

その祝福の鍵を握っているのがアブラハムであり、私たちです。

アブラハムの信仰に倣って、神様から大きな祝福を頂き、世に取り次ごうではありませんか。 

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聖書個所:ヨハネ7:1024                    2016-2-21礼拝

説教題:「イエスとは誰なのか・・・私の主」

【導入】

イエスとは誰なのか。

イエス・キリストとは誰なのか。

2000年前も、今も、この話題は本質的に変わっていないのかも知れません。

「イエスキリスト」をNET、YAHOOGOOGLEで検索したところ其々82万件程の情報がありました。

「キリスト」で検索すると1490万件の情報があり、人々の関心の強さ、深さの現れを物語っている数値です。

キリスト教の始祖。

その生誕年が西暦紀元とされるが、実際には差があると考えられている。

「イエス」は「ヤーウェ(イスラエルの神)は救いである」という意味のヘブライ語の人名イェホーシューア(短縮形ヨシュア)のギリシア語音訳(正確にはイエースース)。

「キリスト」は本来固有名詞ではなく、「油注がれた者」を意味するヘブライ語マーシュィーアッハ(メシア)にあたるギリシア語(正確にはクリストス)である。

これは『新約聖書』時代のユダヤ人には救済者の称号となっていたが、他の諸民族の間ではその意味が理解されず、したがってイエス・キリストは固有名詞として用いられるようになった。

キリスト教の始祖との扱いから、釈迦、孔子とともに三聖人の一人に数えられたりもしますが、これらの記述は中立的な立場の客観的な説明であって、「私にとって」を考えなければ第三者的な立場での言葉遊びであり、意味のない事なのです。

では、2000年前の、実際にイエス様を見た人々、イスラエル人たちは、どのように考えていたのでしょうか。

【本論】

12節に記されているように「良い人だ。」と言う者もあり、「違う。群集を惑わしているのだ。」と言う者もあったのですが、これも客観的な意見であって、第三者的な立場で、イエス様の評価をしているに過ぎません。

それは13節「しかし、ユダヤ人たちを恐れたため、イエスについて公然と語る者はひとりもいなかった。」からだと、当時の状況を述べていますが、多くの人々にとって、イエス様は遠くから見る存在であり、イエス様の招きに従って生き方を変えるより、現状を維持、保持するほうが重要であり、変化を好まない傾向にある事を証しているのです。

イエス様を信じるとは言っても、それは順調に行っている時だけであり、迫害が起こったり、困難が起こると、一人、二人と去って行くのです。

また、持っている物を捨ててイエス様に従う者は稀であり、多くの者は持っている物を捨てる事が出来ずに、生き方を変えるまでには至らずに、イエス様を後に残して去って行くのです。

多くの人々が公然と語らなかったのは、そしてユダヤ人を恐れたのは、ここでユダヤ人と言っているのはユダヤ宗教指導者たちの事ですが、ユダヤ宗教指導者たちを恐れたのは、イエス様がメシヤだと告白するものはユダヤ人の会堂から追放されることが決まっていたからであり、ユダヤ人の会堂から追放されるのは、天国から追放されるのと同義であり、それが怖くて「イエスは主です」との告白ができなかったからなのです。

イエス様がメシヤだとしても、現実のユダヤ宗教指導者たちから目の敵にされ、ユダヤ人の会堂、集会から追放される事に覚悟が出来なかった結果が、第三者的立場に立たざるを得なかった、天秤にかけて、現状に留まってしまった、と言う事なのです。

人は未来のいのちの事よりも、今日のいのちを長らえる事に懸命であり、迫害より、安逸を願う者、変化より、安定を好む者なのです。

パンの奇蹟から発展して、食べてなくなるパンではなく、永遠のいのちに至るイエス様を受け入れ、信じ従う事を解き明かされますが、群集との、ユダヤ人との、弟子たちとの論争が上手く噛み合う事はなく、そこでも多くの人々が去って行きました。

そして、イエス様の実の兄弟たちとの論争があり、710節につながります。

イエス様は兄弟たちの勧め、それは多分に揶揄を含んだものではありましたが、エルサレムに上ることの勧めに対して、「わたしはこの祭りには行きません。」と仰いました。

7:10 しかし、兄弟たちが祭りに上ったとき、イエスご自身も、公にではなく、いわば内密に上って行かれた。

イエス様は先のご自身が発せられた言葉を翻されたのではなく、兄弟たちの、自分の栄光を現すような勧めに対して拒否を示したのであって、神様の時が満ちてない事を言明しておられました。

イエス様の行動は全て神様の御心に従うものであり、兄弟の勧めであろうと、ユダヤ宗教指導者たちの命令であろうと、神様の御心でない事には一切従う事はなかったのです。

逆に神様の命令ならば、どんな困難な状況であっても従ったのであり、イエス様が都に上られたのも、神様の御心に従っての行動であり、ユダヤ宗教指導者たちが待ち構えていても、困難があると解かっていても、神様の御心に従って上って行かれたのです。

 

それは18節につながりますが、自分を空しくして、自分の考えを捨てて、神様のお考えに従う、神様の栄光を求める、神様の栄光を現す生き方なのです。

7:11 ユダヤ人たちは、祭りのとき、「あの方はどこにおられるのか。」と言って、イエスを捜していた。

イエス様が都に上られた事は直ぐに広まってしまったようです。

内密に上って行かれたのに、イエス様のエルサレム入りは人々に知れ渡り、ユダヤ宗教指導者たちはイエス様を捕えようと捜査網を張り巡らします。

ユダヤ人が待ち構えている中、イエス様は臆する事なく、大胆な行動に出られます。

7:14 しかし、祭りもすでに中ごろになったとき、イエスは宮に上って教え始められた。

7:15 ユダヤ人たちは驚いて言った。「この人は正規に学んだことがないのに、どうして学問があるのか。」

ユダヤ宗教指導者たちはイエス様が律法学者としてラビの学校で正規の専門教育を受けた事もないのに、堂々と聖書を解説しているのを見て驚きました。

人々に聖書を教えられるのは、エルサレムにある幾つかの神学校で学んだ者だけであり、ユダヤ宗教指導者たち、つまり律法学者、パリサイ人たちが認めた者に限られていたからです。

イエス様が自分の考えを広めているならば、それは神様に対する冒涜であり、断じて許される事ではなかったのです。

しかし、イエス様の語られる言葉は、聖書の本質を見事に解き明かして、ユダヤ宗教指導者たちも驚愕する内容であったのです。

正規に学んだ事がないのに、と訝るユダヤ宗教指導者たちに、

7:16 そこでイエスは彼らに答えて言われた。「わたしの教えは、わたしのものではなく、わたしを遣わした方のものです。

7:17 だれでも神のみこころを行なおうと願うなら、その人には、この教えが神から出たものか、わたしが自分から語っているのかがわかります。

7:18 自分から語る者は、自分の栄光を求めます。しかし自分を遣わした方の栄光を求める者は真実であり、その人には不正がありません。

イエス様は、ご自分が教師である事も、その教えの内容も、共に神様から出た事であると指摘されます。

イエス様は人間の権威によって教師に任じられたのではなく、神様によって任命を受けました。

イエス様の語られる事は、ユダヤ宗教指導者たち、律法学者、パリサイ人のような知識の寄せ集め、切り売りではなく、神様から出たもの、神様のお考えそのものを語っていると証言されています。

イエス様の行動も、語られる事も、自分の栄光ではなく、神様の栄光を現すものであって、イエス様が神様から遣わされた者である事を証言しているのです。

イエス様はご自分を遣わされた方の栄光を現す事を究極の目的としておられ、このユダヤ宗教指導者たちとの論争においてイエス様が強調しておられるのも、神様の栄光であり、イエス様の教えも神様から出たものであると言う真理なのです。

律法学者、パリサイ人の生き方は、群集の賞賛を受ける生き方であり、神様の栄光より、自分がどう見られているか、です。

しかし、イエス様の生き方、行動は、常に神様の御心を行なおうとするものであり、神様の栄光を求め現す事です。

自分がどう見られようと、神様の言葉を語るのであり、批判されようと、理解されまいと、真理を教えられるのです。

そして、このイエス様のお考え、行動を理解出来るのは、認める事が出来るのは、真剣に神の御心を行なおう、神様の栄光を現そうと願う者だけであると言われるのです。

何故ならば、神様の事を中心に考え、行動する者だけがイエス様の考え、行動に同調できるからであり、自分を中心にしか考えられない者は、神様を中心には考えられないからなのです。

そして、ここでイエス様はパリサイ人や律法学者が、如何にも神様を中心に考えているように見せかけている事を指摘されます。

7:19 モーセがあなたがたに律法を与えたではありませんか。それなのに、あなたがたはだれも、律法を守っていません。あなたがたは、なぜわたしを殺そうとするのですか。」

イエス様はモーセの与えた律法を認められ、それを尊重する事は正しい事であり、従うべきである事を言明します。

そして、イエス様は、あなたたちはこのモーセの律法を守っていないと指摘されるのです。

ユダヤ宗教指導者たちは、律法の正当な継承者であると自認し、誇っていましたが、ユダヤ宗教指導者たちは、イエス様が安息日を破ったと指摘しながら、イエス様を殺そうと考え、その機会をうかがっていたのであり、イエス様はその矛盾を指摘なされたのです。

イエス様に矛盾を指摘されて、ユダヤ宗教指導者たちは答えに窮しますが、ユダヤ宗教指導者たちのイエス様を殺そうとの思惑を知らない群集はユダヤ宗教指導者たちに代わって答えます。

7:20 群衆は答えた。「あなたは悪霊につかれています。だれがあなたを殺そうとしているのですか。」

7:21 イエスは彼らに答えて言われた。「わたしは一つのわざをしました。それであなたがたはみな驚いています。

7:22 モーセはこのためにあなたがたに割礼を与えました。・・ただし、それはモーセから始まったのではなく、先祖たちからです。・・それで、あなたがたは安息日にも人に割礼を施しています。

7:23 もし、人がモーセの律法が破られないようにと、安息日にも割礼を受けるのなら、わたしが安息日に人の全身をすこやかにしたからといって、何でわたしに腹を立てるのですか。

7:24 うわべによって人をさばかないで、正しいさばきをしなさい。」

イエス様はユダヤ人の非難の原因となった、安息日にベテスダの池にいた病人を癒した出来ごとに言及します。

しかし、それは、非難を受けるような事ではなく、律法に適っている事である事を説明なさいます。

割礼とは神の民となる事の契約の印しであり、割礼自体には救う力も聖める力もありません。

しかし、神様につながる事の印しであり、安息日であっても、守らなければならない大切な儀式であったのですが、イエス様が来られた事により、神の民となる印しは割礼から、イエス様を信じる事に変わったのであり、安息日の意味も、仕事をしない日から、イエス様を迎え入れる備えの日へと変わったのです。

更に言えば、安息日だけでなく、一週間の全てがイエス様を迎え入れる備えの日なのです。

ですから、イエス様を迎え入れるための、妨げとなっている病気、体の欠陥、不具合を取り除く事に、悪霊の支配から開放する事には、何の問題がないばかりか、身体全体を神様に仕えるのに相応しく造り変える作業であり、最優先で行なわれるべき事なのです。

人間の全存在を神様に従うに相応しく、新しくするのがイエス様の癒しの目的であり、安息日であっても、割礼を施すのが許されているように、安息日であっても、イエス様に従う備えをするために、全身を健やかにするのに何の問題もないのです。

これは神様のお考えであり、ご計画なのです。

イエス様はこの神様のご計画に従って、人々を癒し、悪霊から解放して下さったのです。

しかし、旧態依然の考えから抜けられないユダヤ宗教指導者たちは何の効力もない割礼や仕事をしてはならないと言う安息日の規定に縛られ、その律法の本来の目的、本物が来るまでの仮のものである事を忘れてしまっているのです。

【適応】

私たちもユダヤ人と同じ過ちを犯しかねません。

言葉通りの規定に縛られて、律法主義に陥り、他人にも律法遵守を要求しかねません。

律法を守らなければならないとの強迫観念に陥り、安息日を守る事にきゅうきゅうとし、喜びのない生活を送ってはいないでしょうか。

逆に律法は廃棄されたと、間違った解釈をする危険にも注意しなければなりません。

イエス様は律法を廃棄するために来られたのではなく成就するために来られたのです。

律法は良いモノであり、守るべきものでありますが、その意味するところを履き違えてはいけません。

安息日の規定は仕事をしないのが目的なのではなく、イエス様の再臨を待ち望む備えの日であり、何時イエス様が来られても慌てないように、一週間を計画的に生きるための訓練なのです。

日曜日にイエス様の再臨があるのではありませんが、安息日を守らず、働き続けた時にイエス様が来られたならば、どんな言い訳をする事になるのでしょうか。

月曜日から土曜日までは自由に使って良いのです。

一週間の内、日曜日を聖別する事によって、一週間をも聖別する事になるのであり、イエス様が何時来られても、何の疚しい事もなく、イエス様の前に立つ事が出来るのです。

イエス様に律法を、安息日を守る事を要求するユダヤ宗教指導者たちが、律法が禁じている殺人の計画を立てるような事が起こるのは、自分を正しいとして、自分の行動、考えを吟味する事を忘れているからです。

パウロのように、自分は罪人の頭だ、したくない悪を行なっている、と言えるのは、常に神様の御心を求めて生きているからこそです。

パウロも、伝統や権威を第一として、それに縋っていた時には、自分を正しいとしてイエス様を迫害しましたが、イエス様と出会って変えられてから、神様を第一に考える者へと変えられたのです。

イエス様は誰なのか。

イエス様は律法の完成者であり、安息日の主です。

神の民となるための唯一の道であり、体と心の不具合や、環境の不都合を取り除いて、神様に仕えるに相応しい身体、状況として下さるお方なのです。

しかも、これらの告白は、誰かに伝えるための告白ではなく、私がイエス様に仕えるための告白なのです。

冒頭に紹介したNETの情報や辞書の解説のような第三者的な感想や事実の羅列ではなく、「私の主」と告白して従う事が求められているのです。

ここにおられるお一人お一人がイエス様を「私の主」と告白し、

イエス様が来られる日まで迫害や困難、不利益を恐れずイエス様は私の主ですとの信仰を告白し、保ち続けられますように。

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聖書個所:ヨハネ7:19                    2016-2-14礼拝

説教題:「イエスの兄弟たち(肉親)の不信仰」

【導入】

イエス様が5000人の成人男性の空腹を、5つのパンと2匹の魚で満たした出来事によって、人々はそれまで以上に、イエス様に付きまとうようになりました。

多勢の人々が舟でガリラヤ湖を渡り、カペナウムにいるイエス様を探し当てて押し迫って来た時、イエス様は「なくなる食物のためではなく、いつまでも保ち、永遠のいのちに至る食物のために働きなさい。」と諭されました。

永遠のいのちに至る働きとは、何か良い行ないをするとか、律法を守るといった事ではなく、イエス様を神様が遣わした者と信じる事です。

人はどんなに努力して律法を守っても、難行苦行に耐えて善行に励んでも、それで罪が赦されたり、義と認められる訳ではありません。

唯一義と認められるのは、神様が遣わしたイエス様を「私の救い主と信じる事」であり、イエス様を「私の内にお迎えする事」だと教えられ、その譬えとして「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。」と仰られたのです。

しかし、この真理は人々に理解されず、ユダヤ人宗教指導者の反感を買い、イエス様の弟子からも「これはひどいことばだ。そんなことをだれが聞いておられようか。」との反発を受けて、弟子たちのほとんどがイエス様から離れて行ってしまったのです。

人々の反感を買い、弟子たちが居なくなると言う事は、この世的にはマイナス評価ですが、イエス様の働きの目的は人々の迎合を受ける事ではなく、勢力、教勢の拡大ではありません。

イエス様の教えは、人々には受け入れられ難い教えであり、躓きとなり、真の弟子と、表面だけの偽者が分けられ、偽者は滅びの道を驀進し、真の弟子は訓練を受けてますます神様に近づき、喜ばれる者となって行くためのものなのです。

この5000人の給食の出来事は、人々の空腹を満たしただけでなく、救われるべき者に永遠のいのちを得る秘訣を教えるものへと発展して行ったのです。

この一連の、永遠のいのちを得るための教えは、ユダヤ人の過ぎ越しの祭りが間近に迫った季節の出来事でした。

現在の暦では3月下旬か、4月上旬です。

イエス様の教えに失望して、多くの人々がガリラヤ地方を去って行ったのですが、イエス様は引き続きガリラヤに滞在して各地を巡回しておられたのです。

【本論】

7:1 その後、イエスはガリラヤを巡っておられた。それは、ユダヤ人たちがイエスを殺そうとしていたので、ユダヤを巡りたいとは思われなかったからである。

7:2 さて、仮庵の祭りというユダヤ人の祝いが近づいていた。

この「仮庵の祭り」は現代の暦では9月下旬から10月上旬に行なわれる祭りであり、ユダヤ人が必ず祝わなければならない重要な祭りの一つです。

たった1行しか費やされていませんが、この仮庵の祭りはユダヤ人に取って特別な意味のある祭りでした。

それは第1に、ユダヤ教の祭りの中で、その年の最後に行なわれ、モーセの律法に定められている年中行事を締め括る行事である事。

2に、刈り入れの終りを告げる行事であり、一年の労働が終わり、すべての収穫を喜ぶ祭りであった事。

3に、ユダヤ教の祭りの中でも特別楽しく、喜びに満ちた祭りであった事。

4に、大祭司が至聖所に入り、出て来て民を祝福する祭りであった事。

5に、祭りの最後は聖なる贖いの日であり、荒野に山羊が放たれ、全ての民に自由が宣言された事。

このように、仮庵の祭りはユダヤ人に取って特別な、別格の祭りであり、その祭りには、あらゆる所からユダヤ人が集まって来たのであり、これを前提に34節の兄弟のことばを読むと、兄弟がイエス様に何を期待していたかを伺い知る事が出来るでしょう。

イエス様は過ぎ越しの祭りから仮庵の祭りまで、凡そ6ヶ月の期間、ガリラヤを巡っておられた訳ですが、この期間に何をなされたのか、聖書には何も記されていません。

しかし、イエス様が無為に時を過ごされる事はなく、ガリラヤ地方で宣教活動を行ない、永遠のいのちを得るための福音を宣べ伝え、病気に苦しむ人々を解放するために数々の奇蹟を行なわれた事でしょう。

しかし、イエス様の兄弟たちにとって、そんなローカルな活動よりも、中央に出て行って多勢の人々の注目を集め、喝采を浴びる事を願い、自分たちも、イエス様の兄弟として共にその中心にいて、人々の尊敬を受けたいと願っていたのでしょう。

7:3 そこで、イエスの兄弟たちはイエスに向かって言った。「あなたの弟子たちもあなたがしているわざを見ることができるように、ここを去ってユダヤに行きなさい。

7:4 自分から公の場に出たいと思いながら、隠れた所で事を行なう者はありません。あなたがこれらの事を行なうのなら、自分を世に現わしなさい。」

7:5 兄弟たちもイエスを信じていなかったのである。

イエス様の肉親の、兄弟のことばは、人間と言う者は絶望的なまでに頑なで不信仰である、と言う事を表わしています。

人としてのイエス様は、全く清くあられ、しみも汚れもなかったにもかかわらず、最も身近にいて、イエス様の言動をつぶさに見ていた、聴いていた肉による兄弟、親族が、イエス様をメシヤとして受け入れられないだけでなく、預言者としても受け入れられない様子が描かれているのです。

兄弟たちのことばには、イエス様に対する嘲りが込められています。

兄弟たちのことばは、メシヤとしてのイエス様を人々に知らせようとしているのではなく、単なる有名人、ひょっとしたら、何かの余禄に与れるかも知れない。

そんな動機でイエス様を担ぎ上げ、イエス様について行く人々が多勢いたのであり、イエス様の兄弟たちもその一人でしかなかったのです。

人間はどんなに正しいと見える人でも、立派な人でも、欠点があり、相応しからぬ部分があるものです。

しかし、イエス様には影の部分は全くないのです。

何処を見ても、正しく、不正がなく、清く、汚れがなく、憐れみに富み、情け深いのです。

その裏表のないイエス様を、理解出来ないで、信じる事も出来ないでいるのです。

人間は真実を見れば信じられる訳ではありません。

人間には導きの恵みと、回心の恵みが必要なのです。

イエス様の奇蹟を見て、イエス様の教えを聴いて、イエス様ご自身と生活を共にすると、自動的に信者になるのではない事を教えています。

イエス様の下に導かれ、イエス様と出会うと言う特権だけでは、誰もキリスト者にはなれないのです。

聖霊なる神様が直接働かれて、回心の促しがあって始めて救いを受け入れ、キリスト者とさせていただく事が出来るのです。

だから、イエス様は644節で「わたしを遣わした父が引き寄せられないかぎり、だれもわたしのところに来る事は出来ません。」と仰られたのです。

イエス様の言動をつぶさに見聞きしていた兄弟たちも、聖霊様の導きがなければ、イエス様を受け入れる事ができず、批判的なことばをイエス様に浴びせ掛けてしまうのです。

神の民、ユダヤ人たちがイエスを殺そうとしていた、と言うだけでもひどい事なのに、一番の理解者であるべき兄弟たちも、イエスを信じていなかった、とは本当に悲しい事です。

兄弟たちの批判的な勧めに対して、イエス様はまだ時が来ていない事を証言なさいます。

7:6 そこでイエスは彼らに言われた。「わたしの時はまだ来ていません。しかし、あなたがたの時はいつでも来ているのです。

7:7 世はあなたがたを憎むことはできません。しかしわたしを憎んでいます。わたしが、世について、その行ないが悪いことをあかしするからです。

7:8 あなたがたは祭りに上って行きなさい。わたしはこの祭りには行きません。わたしの時がまだ満ちていないからです。」

7:9 こう言って、イエスはガリラヤにとどまられた。

イエス様の行動は全て、神様のご計画に従ってなされたものです。

この神様のご計画に沿わない歩みは決してなさらなかったのです。

神様に喜ばれ、神様に愛される歩みです。

比べて私たちの行動は常に自分中心であり、自分の利益を優先させます。

神様のご計画より、神様のお考えより、自分の計画、考えを優先させます。

神様に従うより、神様を従わせます。

何時の間にか、気付かない内に、自分を神に等しい位置に置いてしまっているのです。

そのような者が神のことばを聴くはずがなく、従うはずがありません。

イエス様と肉のつながり、血のつながりがある兄弟であっても、世に属する者は神様には従えないのです。

イエス様の肉を食べ血を飲んだ者、イエス様と霊的なつながりのある者だけが、神様に従えるのであり、その者は世に属してはおらず、イエス様と同じように、世に憎まれ、拒絶され、排斥されるのです。

ですから、信仰に関してなんの問題なくこの世で生活出来ている人は、自分の信仰を吟味する必要がある事を銘記して下さい。

【適応】

世と問題を起こさず、当り障りのない生活を送る事は、処世術かも知れませんが、それでは真の信仰者とは言えません。

この世にも、神にも仕える事は出来ないのです。

二人の主人に仕える事は出来ないのです。

神様に従う生活は必ず問題が生じます。

信仰を持つ時、信仰を持ち続ける時、必ず障害が起こり、困難が生じます。

家族の反対が起こり、家族との諍いに発展するかも知れません。

職場でも、学校でも、地域社会でも不利益を被り、肩身の狭い思いをする事があるでしょう。

しかし、神の御子イエス様の家族、兄弟でさえも、イエス様を理解しなかったのであり、揶揄し、批判的なことばを投げかけたのです。

家族に理解されない事は特別な事ではなく、世に受け入れられない事も驚く事ではないのです。

イエス様でさえ、家族に理解されず、世に受け入れられず憎まれ、最終的には殺されたのです。

ましてや、欠点だらけの私たちキリスト者が家族の理解を得られず、世に憎まれても当然ではありませんか。

家族への伝道は非常に困難です。

伝道どころか、キリスト教の話をする事すら憚れる状況の時もあるでしょう。

でも、そんな時は、イエス様の事を、イエス様の兄弟の事を思い出して下さい。

一生懸命祈っても、誘っても、教会に来てくれないし、揶揄され、それでもクリスチャンなの、と皮肉を言われてしまう事も多々ある事でしょう。

家族が、兄弟が信仰を受け入れず、キリスト教をけなされたとしても、落胆したり、意気消沈したりする必要はありません。

私たちはイエス・キリストを紹介すれば良いのであって、回心の恵みは神様の範疇に属することであり、神様のご計画の時に受け入れる事が出来るからです。

イエス様の兄弟たちも、イエス様が十字架に付けられるまで、イエス様を理解する事が出来ず、信仰を持つ事が出来ませんでしたが、十字架の後に回心の恵みに与り、イエス様を受け入れエルサレム教会の中心的指導者として活躍するようにされるのです。

イエス様の兄弟ヤコブがその人です。

ヤコブ書を書いたとされる人物ですが、生まれた時からイエス様と共に育っても、イエス様を受け入れる回心の時は、イエス様が十字架に架かられて後の事だったのです。

イエス様の兄弟の不信仰は驚く事ではなく、世に属している者の自然な姿であり、神様の恵みによって変えられる前の人々の姿なのです。

私たちも、家族の不信仰を嘆く事なく、信仰を持って祈り続けましょう。

反対されても、揶揄されても、祈り続けましょう。

神様は祈りに答えて、回心の時を備えてくださいます。

時が良くても悪くても、弛まず、語り続け、誘い続け、祈り続けるなら、

必ずあなたも、あなたの家族も救われます。

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聖書箇所:創世記22114                 2016-2-7礼拝

説教題:「試練と備え」

【導入】

2016年も早くも1ヶ月が過ぎ、2月に入ってしまいました。

年が替わり、年度も替わろうとしている今の時期は、為すべき事は幾つもあるのに、身体は一つであり、何から手を付けたら良いのか、どれを優先させたら良いのか悩み、結局、何れも中途半端であったり、先延ばしにしてしまって、期限が来て、慌ててしまう事が多いのではないでしょうか。

直ぐにやれば良いのでしょうが、時間の掛るモノもあれば、簡単なモノもあり、自分で出来るモノもあれば、分担しなければ出来ないモノもあり、提出までの期間もばらばらで、短期間のモノもあれば、数ヶ月の猶予のあるモノもあり、広く深く強い影響を与えるモノもあれば、何の影響も及ぼさないようなモノもあり、これらの総合的な見極めが、極めて重要です。

そして、最後まで責任を持って、最善を尽くして取り組まなければなりませんが、付きっ切り、と言う分けには行かず、割り込みが入り、計画を見直さなければならない事もしばしばでしょう。

そんな中でも、本当に大事な事を見失ってはならず、見誤ってもなりません。

生きる事が、過酷な時代にあって、生き残る事が、困難な時代にあっても、然りですが、複雑な現代社会、グローバルな現代にあっても、然りであり、唯一真の神様を見失ってはならず、信じる事、聴く事、従う事を最優先させなければなりません。

常に、聞き耳を立てていなければならず、何かに集中している時でも、没頭している時でも、神様の声を聞き漏らしてはならず、手を止めて、行動を中止して、従わなくてはならないのです。

それは、時に厳しい選択を強いるでしょうし、大きな犠牲も伴いましょうが、神様は助けてくださり、導いてくださり、想像もしなかった結果を用意してくださいます。

そして、信仰者として大きく成長させてくださる事になるのです。

【本論】

22:1 これらの出来事の後、神はアブラハムを試練に会わせられた。神は彼に、「アブラハムよ」と呼びかけられると、彼は、「はい。ここにおります」と答えた。

水の貴重なパレスチナでは、水の確保は死活問題であり、泉や井戸の権利争いが、血を流す騒動に発展する事もしばしばでしたから、アブラハムとアビメレクとの穏やかな話し合いと、譲歩、和解は、特殊な事と言わなければならず、双方が、唯一真の神様を知っており、意識せずとも神様が仲介していたからこそ、可能ならしめたのであり、この試練、経験を通して、アブラハムは、より深く、神様を信じ、神様に従う決意を新たにした事は間違いありません。

「鉄は熱いうちに打て」と申しますが、信仰も、決意も、経験の冷めやらぬうちに、次なる試練を受ける事によって確実になるのであり、神様は新たなる試練を与えられます。

22:2 神は仰せられた。「あなたの子、あなたの愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そしてわたしがあなたに示す一つの山の上で、全焼のいけにえとしてイサクをわたしにささげなさい。」

イサクは、アブラハム100歳の時に産まれた子であり、愛おしさは格別でしょう。

その最愛のイサクを殺さなければならないとは、イシュマエルを追放したばかりであり、心の傷は癒えてはおらず、人間的な愛の否定の連続であり、家系の存続を完全に断念する事であり、何より、殺人であり、神様の忌み嫌われる、異教徒の人身御供そのものであり、更には、イシュマエル追放の後では、イサクはアブラハムの祝福を引き継ぐ、文字通りの希望であり、神様の約束の成就に不可欠な存在です。

神様は「イサク」を通して、この世界を祝福すると宣言されたのであり、神様の約束は変更されたのでしょうか。

アブラハムは最大とも言うべき試練を受けますが、この試練は、何物をも、自分の物とせず、全てを神様に献げる生活を実践し、神様への無条件、絶対の信仰を持つようにとの、神様からの要求であり、宗教的、倫理的、論理的難題であり、神様への猛烈な抗議、反論が当然予期される場面ですが、アブラハムは、これらの疑問を一切口に出さず、神様に問い掛けず、神様もまた、理由を説明せず、アブラハムのなすべき事だけを宣告します。

22:3 翌朝早く、アブラハムはろばに鞍をつけ、ふたりの若い者と息子イサクとをいっしょに連れて行った。彼は全焼のいけにえのためのたきぎを割った。こうして彼は、神がお告げになった場所へ出かけて行った。

聖書は、淡々と状況だけを記しますが、アブラハムは一睡も出来なかったのではないでしょうか。

この先、どうなるのかを考えても、答えが出る訳でもなく、悶々とした夜を過ごし、まんじりともせず夜を明かし、明けては欲しくない、迎えたくもない朝を、希望の朝ではなく、失意と絶望の朝を迎えたのではないでしょうか。

そんな状況でも、さすがは信仰者アブラハムであり、夜明けと共に起きだし、イサクを焼き尽くすための薪を用意し、身支度を整え、イサクとふたりの若者を伴い、ベエル・シェバを出発し「モリヤの地」に向います。

モリヤの地」の正確な位置は解りませんが、エルサレム近郊ではないかと考えられています。

ベエル・シェバから100km程の所であり、

22:4 三日目に、アブラハムが目を上げると、その場所がはるかかなたに見えた。

人間の歩くスピードは、1時間で4km程と言われていますので、100km25時間、18時間歩くならば3日あれば何とか歩ける距離ですが、前途に希望でも待っていなければ、積極的でなければ、自分を奮い立たせなければ三日で歩ける距離ではありません。

アブラハムの旅は、失意と絶望の旅であり、重い足取であった事でしょう。

しかし、アブラハムの歩みは、失意と絶望の、とぼとぼとした歩みではなく、決意に満ちた、力強い、しっかりとした、迷いのない歩みでありました、

22:5 それでアブラハムは若い者たちに、「あなたがたは、ろばといっしょに、ここに残っていなさい。私と子どもとはあそこに行き、礼拝をして、あなたがたのところに戻って来る」と言った。

このアブラハムの言葉には、神様の命令に対して、完全な理解が伴っているとは言い難く、また、明確な根拠があった訳ではないでしょうが、決して、闇雲な盲信や、焼けっぱちな思い付きから出た言葉ではなく、神様の約束への、信仰に基づく明確な信頼と、揺るぎ無い確信があったからであり、自分を奮い立たせ、イサクや若者に悪戯な不安を与える事のない配慮からの言葉であり、イサクを殺し、生け贄にした後の、神様の業を預言する言葉であります。

静かな言動の中にも、熱い信仰を秘めており、イサクは安心してアブラハムに従ったのであり、若者は平安のうちに、アブラハムとイサクを見送る事になるのです。

揺るぎ無い信仰と確信は、自身をしっかり立たしめ、関係者にも安心と平安を与えるのです。

22:6 アブラハムは全焼のいけにえのためのたきぎを取り、それをその子イサクに負わせ、火と刀とを自分の手に取り、ふたりはいっしょに進んで行った。

この時、アブラハムの年齢は、推定114歳前後であり、イサクの年齢は、推定14歳前後であり、そこそこの量の薪を背負う事が出来たでしょうが、アブラハムは家長であり、薪を背負う事はしません。

イサクの運べる量の薪では、生け贄を焼き尽くすには、とても足りませんから、「モリヤの地」で、薪を調達する事を前提としていたのではないでしょうか。

可能な限り、周到に準備をしなければなりませんが、何でも自前で、ではなく、時には、現地調達をし、協力者を募っても構いませんが、ここぞと言うところは、限定された対応をしなければなりません。

途中までは、若者やロバの助けを受けて薪を運びますが、いよいよの段階では、自分たちで薪を運ばなければならないのであり、薪も最低限の量は持って行き、現地で慌てる事のないようにしなければなりません。

何でもかんでも人任せ、現地で探し回るのは、信仰者の姿ではありません。

常に、問題がないか、相応しいか否かの吟味をしなければなりません。

22:7 イサクは父アブラハムに話しかけて言った。「お父さん。」すると彼は、「何だ。イサク」と答えた。イサクは尋ねた。「火とたきぎはありますが、全焼のいけにえのための羊は、どこにあるのですか。」

イサクの質問は、当然な疑問であり、核心に触れる質問です。

人里離れた山裾であり、生け贄を手に入れる事は出来ません。

アブラハムは多くの羊や牛を持っておりながら、アビメレクには、気前良く、羊の群れ、牛の群れを与えておきながら、神様に献げる、と言う明確な目的があるにも関わらず、生け贄を持って来ないとは不思議な事であり、腑に落ちないのが当然であり、訝り、先の質問となるのですが、しかし、立場立場によって、知っておくべき事柄は違います。

生け贄の事は、アブラハムのみが、知っていれば事足りるのであり、イサクは知る必要も、知らせる必要もありません。

イサクはアブラハムの従者であり、イサクに求められるのはアブラハムに対する従順だけであり、相談相手でもなく、忠告者の働きでもありません。

促されたのならば別ですが、疑問は疑問として、内に収めて置くべきであり、軽々しく、口にすべきではありません。

アブラハム自身にも葛藤があり、疑問がありますが、神様に一切の質問や不満を申し述べてはいないのであり、何でも知ろうとするのは、正しい事ではないのですが、

22:8 アブラハムは答えた。「イサク。神ご自身が全焼のいけにえの羊を備えてくださるのだ。」こうしてふたりはいっしょに歩き続けた。

アブラハムはイサクの質問に答えますが、預言的な回答であり、更なる質問を遮るかのような回答であり、厳しさを込めた回答ですが、分を弁える為には、有効な回答と言えるでしょう。

22:9 ふたりは神がアブラハムに告げられた場所に着き、アブラハムはその所に祭壇を築いた。そうしてたきぎを並べ、自分の子イサクを縛り、祭壇の上のたきぎの上に置いた。

先に申し述べたように、イサクは14歳前後であり、生け贄にされるのが、殺されるのが解った時点で逃げ出すでしょうし、必死になって暴れるのではないでしょうか。

しかし、聖書には全くそんな状況が記されてはいません。

イサクの合意、同意があったからであり、アブラハムの神様に対する従順は、生活の全てに行き渡り、漲っていたからであり、イサクは学び、継承していたからこそです。

信仰は、従順は、一人の信仰では、一人の従順では充分とは言えません。

何人もの信仰と従順が合わさって、初めて力を発揮するのであり、神様に献げられるべく、形をなして行くのです。

勿論、一人の信仰や従順でも、その影響力は侮れませんが、何人かが、助け合ってこそ、重なり合ってこそ、各方面に影響し、大きな力となるのです。

イサクの協力を得て、生け贄の準備が整い、

22:10 アブラハムは手を伸ばし、刀を取って自分の子をほふろうとした。

22:11 そのとき、【主】の使いが天から彼を呼び、「アブラハム。アブラハム」と仰せられた。彼は答えた。「はい。ここにおります。」

22:12 御使いは仰せられた。「あなたの手を、その子に下してはならない。その子に何もしてはならない。今、わたしは、あなたが神を恐れることがよくわかった。あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しまないでわたしにささげた。」

イサクを屠ろうと、刀を振り下ろす、その間一髪のタイミングに神様が介入され、待ったを掛けます。

イサクを屠る、その瞬間を想像してみてください。

愛するイサクを殺すのに、冷静でいられるでしょうか。

精神的なブラックアウト状態にならなければ、とてもじゃないですが、人は殺せません。

眼を開いていても、見てはおらず、耳に声は届いていても、聞いていない状態に陥っていて当然です。

茫然自失、無自覚状態に陥って、刃を振り下ろす事だけに全神経を集中させ、狂気に近い精神状態に陥って、機械的にならなければ、イサクを屠る事は出来ないでしょう。

しかし、アブラハムは冷静であったのであり、神様の声を聞き漏らしはしなかったのです。

明確、鮮明な意識の中で、実行しつつ、神の声を聞き漏らさない冷静さ保持していたのです。

信仰は、走り出したら止まらない、ものではありません。

信仰は、動き出したら止められない、ものでもありません。

勿論、止まるのが前提、止める可能性を秘めて、走る、動くではありません。

神様の命令には、100%の力で走り出し、全身全霊で動き出さなければなりませんが、神様の声を聞き漏らさず、想定外の事を、急に言われても、従わなければならないのです。

どんなに重要でも、急いでも、早く終わらせたくても、間髪をいれず停止させ、神様の新しい指示を聞き、従わなければならないのです。

そこにこそ、神様の栄光が現れるのであり、それでこそアブラハムはイサクを取り戻したのです。

22:13 アブラハムが目を上げて見ると、見よ、角をやぶにひっかけている一頭の雄羊がいた。アブラハムは行って、その雄羊を取り、それを自分の子の代わりに、全焼のいけにえとしてささげた。

アブラハムとイサクが到着する前に、羊は藪に角を引っ掛け、散々もがいていた。

けれども抜け出せず、もがき疲れたところに、人が来たので、静かに、じっと様子を窺っていた。

害を加えられそうにないので、またぞろ、もがき出し、アブラハムに見つけ出された。

こんな所が、真相でしょうが、神様の介入があってこその、備えであり、この場所、この時間、この状況で、必要は備えられたのであり、

アブラハムの生け贄を献げると言う目的は、完全な形で果たされたのです。

22:14 そうしてアブラハムは、その場所を、アドナイ・イルエと名づけた。今日でも、「【主】の山の上には備えがある」と言い伝えられている。

先を見る事の出来ない私たちですが、神様に対する信仰を持ち、神様を信頼して進むなら、必ず、助けはあり、備えられている事を知るに至ります。

進まなければ、逸れてしまえば、戻ったなら、神様の業を見る事は出来ません。

【適応】

アブラハムのイサクを献げる旅は、どんなにか、苦痛であった事でしょうか。

その苦痛を3日も味わったのです。

イサクにとって、3日の旅は辛いものではなく、楽しい旅だったのではないでしょうか。

4歳とは言え、まだまだ幼く、先に行ったり、珍しいものを見つけて遅れてしまい、慌ててアブラハムに追いつく。

夜は旅の疲れで、アブラハムの懐ですやすやと寝息を立てている。

そんな微笑ましい旅だったのではないでしょうか。

しかし、アブラハムの心中は、穏やかではなく、逃げ出したい誘惑に駆られ、イサクを献げてしまったならば、サラに何て報告したら良いのだろうかと、苦しみ悶えていたのではないでしょうか。

しかし、状況が変わる様子はありません。

目的地はどんどん近づいている。

献げる瞬間は刻一刻と近づいている。

アブラハムは葛藤を抱えつつも、逃げ出さず、試練に耐え、最終的な最大の試練に臨むのですが、3日間の旅は、必要な過程だったのであり、この3日があってこそなのではないでしょうか。

啓示を受けて、その場でならば、考える間もなく、葛藤の期間も短く、勢いと度胸で可能ならしめましょうが、3日の旅で、とことん考え、葛藤と対峙し、沈思黙考、冷静さを保ち、従順に徹したのであり、この過程を経てこそ、本物の信仰、信頼ゆえの行動となり、神様に受け入れられるのではないでしょうか。

単なる勢いや蛮勇によってイサクを献げても、信仰と信頼が伴わなければ意味がありません。

何回かお話ししたように、信仰によらなければ、それは罪であり、神様に受け入れられはしません。

信仰によって決断したならば、神様は受け入れてくださいます。

葛藤の末であっても、逡巡が伴っても、それは自然な事であり、誰にでも起こる事です。

しかし、葛藤や逡巡は不信仰だ、眼を堅く閉ざし、耳を塞ぎ、歯を食いしばって、何も考えないようにしなければ、と考えてしまうならば、それを従順と呼べるでしょうか。

無理矢理、強引、強制、であり、神様に受け入れられませんし、何より、平安がなく、喜びがありません。

試練に遭遇した時、眼を堅く閉ざし、耳を塞ぎ、歯を食いしばって、何も考えないようにするのと、眼を大きく開き、耳を傾け、一息吐いて、充分吟味して、神様は何をなされるのか、この事から何を教えようとされるのか、何の意味があるのかと、考えた上で、従うのとでは、結果は同じでも、全く違うものなのではないでしょうか。

どんな行動でも、常に冷静に、常に神様ご介入の余地を残しておく事は重要です。

アブラハムは、イサクを殺すと言う、大きな試練の中でも冷静さを保ち、神様ご介入の余地を備えていたので、神様への完全な従順を全うしつつ、イサクを殺さずに済んだのです。

皆さんにも、大きな試練があるでしょうが、アブラハムの信仰に倣って、神様から大きな祝福を頂こうではありませんか。

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