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聖書個所:ヨハネ7:4553                    2016-3-27礼拝

説教題:「イエスとは誰なのか…議会にて」

【導入】

イエス様は誰なのか。313日の礼拝では「神が遣わしたお方」と題して学びました。

続く、20日には「このお方はキリストです」と題して学びました。

本日はイースターであり、イエス様の復活を喜び、祝う日ですが、大切なのはイエス様がどなたであるかを知る事でも、救い主だと証言する事でも、救い主である事を証明する事でも、お祭り、即ち、儀式を行なう事でもありません。

私の主と告白して、自分の考えや思いを捨てて、イエス様に従う事にあると確認しました。

そうすれば、永遠のいのちを頂く事が出来るからです。天国に入る事が出来るからです。

信仰は何を信じるかが大事ですが、従わなければ意味がありません。

知っていても従わなければ何の意味もありません。

どんなに聖書の知識が豊富でも、その適応を正しく理解していても、実践しなければ「絵に描いた餅」であり、その人に何の影響も及ぼしません。

従うからこそ永遠のいのちを頂く事が出来るのです。

しかし、聖書の教えは簡単に従い得る教えではありません。

簡単には従えないからこそ、そこで苦しみ、悩み、迷い、イエス様の十字架の意味が明確になるのであり、私たちに必要である事が理解出来るのであり、また、十字架にしか希望がない事がわかるのです。

今日の宣教の題を「イエスとは誰なのか…議会にて」としましたが、議会、即ちサンヘドリンに属するのは、民の指導者、祭司、律法学者、パリサイ人であって、聖書の知識が非常に豊かな人々でした。

ユダヤ人は全般に聖書の知識が非常に豊富でしたが、彼ら議会に所属する人々は、それ以上に豊富な知識を持っていて、民衆を霊的に指導していたのです。

しかし、どんなに豊かな知識を持っていても、そこに、自分の考え、自分たちの伝統を優先するならば、知識は人々を正しい道に導くものとはならず、自分だけでなく、関りを持つ人々をも滅びに誘うものとなるのです。

信仰は個々人の応答が大切ですが、指導者には個々人の信仰の決断を助け、導く責任があります。その意味で、指導者的立場にある人々の責任は重く、その働きは重要です。

日夜、聖書知識の研鑚に励むと同時に、神様の前に罪人の一人として謙り、重責を担うに相応しく整えられて行く必要を痛感します。

今日のテキストに登場する指導者たちの姿を通して、私たち個々人の信仰生活と、先に救われた者の歩みについて学んで行きましょう。

【本論】

7:45 それから役人たちは祭司長、パリサイ人たちのもとに帰って来た。彼らは役人たちに言った。「なぜあの人を連れて来なかったのか。」

この役人たちは732節に「それで祭司長、パリサイ人たちは、イエスを捕えようとして、役人たちを遣わした。」と記されているように、イエス様を逮捕するために遣わされた人々でした。

イエス様を逮捕するからには、それ相応の理由がある事でしょうが、聖書にはその理由を「キリストが来られても、この方がしているよりも多くのしるしを行なわれるだろうか。」と、「群衆がイエスについてこのような事をひそひそと話しているのを耳にした。」からだ、と記しています。

イエス様はキリスト、つまりメシヤ、救い主ではないか、と噂話をされた事が逮捕の理由だと言うのです。こんな理不尽な理由で逮捕されたならば、たまったものではありませんが、自分たちの権益を守ろうとする人々の評価とは概ね、こんな程度の理由なのです。

自分たちの知らない事を民衆が話している。特に待望している救い主に関する事を、ユダヤ人の霊的指導者が知らなかったでは済まされません。

今までにも何回も話していますが、ユダヤ人はローマ帝国に支配されています。人々の願いは、このローマ帝国からの解放ですが、それは、ローマ帝国との決別、ローマ帝国に対する反乱を意味します。もしローマ帝国に対する反乱が起これば、即、民の指導者には思い刑罰が課せられる事になるでしょう。

ローマ帝国から解放されたいけれど、生半可な覚悟で反旗を翻す訳には行きません。

納得出来るかたちでの、明確なしるしがなければ、充分な確証がなければ、絶対の勝算がなければ、反旗を翻す訳には行きません。

どこの誰か分からない、出自もはっきりしない、預言にも現わされていない人物に、自分たちの命運を任せる訳には行きません。

不穏な動きは、小さな芽のうちに摘み取らなければなりません。

それで、民の指導者たちから、ユダヤ最高議会、サンヘドリンの決断として、イエス様の逮捕が命じられたのです。

そこでこの役人たちはイエス様を捕えようと、祭りの間中、機会を覗っていたようです。

しかし、イエス様の言動には、いささかも不審な点はなく、返って、群集のイエス様に対する評価と、熱意のために、役人たちはイエス様を逮捕する機会を捕らえる事が出来なかったのです。

そして、ついに、イエス様の公の証言によって、最初の頃よりももっと群集が興奮し出した祭りの終りの日には、役人たちは彼らを遣わしたサンヘドリンに戻って、命令を遂行出来なかった事を報告するしかなかったのです。

7:46 役人たちは答えた。「あの人が話すように話した人は、いまだかつてありません。」

役人たちの答えには二重の意味があります。

一つは、彼ら役人自身が、イエス様のことばに権威を感じた、と言う事です。

役人たちは今だかつて、イエス様が話すように話すのを聞いた事がありませんでした。

ユダヤ最高議会に仕える役人として、多くの議員、宗教指導者を見て来た事でしょう。

その指導者のそば近くで、永く仕えてきた彼らは、権威や威厳に対して敏感であり、逆に本物を見分ける感覚も研ぎ澄まされていたのではないでしょうか。

聖書を研究し、律法を熟知し、それを教える人々はたくさんいますが、それらの人々は聖書の権威を語っているに過ぎません。

しかしイエス様はそのような研究者、権威者人の一人ではありません。

聖書が証言しているメシヤ、キリストがイエス様なのであり、聖書の権威の上におられるのがイエス様なのです。イエス様は聖書を解き明かしているのではなく、聖書の本当の著者として語っているのです。

イエス様の持っておられる権威に圧倒されて、とても手だしなど出来るものではなく、口を封じられ、手を封じられ、逮捕など出来るものではなかったのです。

今一つ、役人たちは、イエス様の周りに集まっている群衆の心を支配しているイエス様のことばの力に注目していた、と言う事です。

役人たちは、群集にこれ程までに影響力を発揮する人を見た事がなかったのです。

ユダヤの最高議会に仕えているのですから、そこに所属する多くの指導者を見て来た事でしょう。聖書の権威をもって語る指導者のことばには、それなりの影響力がありますが、イエス様の影響力はその比ではありません。聖書のことばには人を変える力がありますが、イエス様は聖書の上に立つお方です。そのお方が語るのですから、人に影響を与えない訳がありません。

群衆の中にはイエス様に対して否定的な意見を述べる者もおりましたが、そう言う者は離れて行ったのであり、今、イエス様のそば近くでイエス様の話す事に耳を傾けているのはイエス様をメシヤ、キリストと信じている人々です。

このイエス様に従う群集の姿を見ては、とても逮捕する気にはなれなかったのです。

役人の報告を受けたユダヤ最高議会の人々は憤慨して役人を糾弾します。

7:47 すると、パリサイ人が答えた。「おまえたちも惑わされているのか。

「惑わす」と訳されているギリシャ語は、文字通りには「迷わす、誤らせる」と言う意味です。

お前たちまで、このイエスと言う男の教えの虜になってしまったのか。

この問いかけには、指導者たちの怒り、皮肉、嘲笑、不満が込められているのです。

7:48 議員とかパリサイ人のうちで、だれかイエスを信じた者があったか。

この傲慢な問いかけには、イエス様がメシヤではあり得ないと言う意味が込められています。

最高の教育を受け、宗教的に一番高い地位にいる我々がイエスを救い主ではないと断定しているのだ。我々が認定していない教師は、正式な教師ではないし、その教義は間違っている。伝統、歴史を継承している我々、最高議会のメンバーが受け入れない教えは間違っている。

これこそまさに、あらゆる時代にわたって、人間性が持ち出す共通の論法なのです。

真理は経験や歴史、伝統の中にあるのではなく、神様が遣わしたイエス様の中にあるのです。

地位や教養を持つ事や、伝統、歴史がある事自体は悪い事ではありません。

しかし、それが人間の魂の救いに対する、決定的な妨げになる事が多いのです。

偉い人、学識のある人が、最もキリストの真理を受け入れにくい人であり、一番イエス様を受け入れる事を嫌がる人である事が多いのです。

本人が気付いていない事が多いのですが、著名な教師、権威ある人のことばは吟味しないで受け入れますが、若い、或いは経験の少ない者のことばは軽く扱われる事が多いのです。

「金持ちが天の御国に入るのは難しい事です。」

言い替えれば「知識のある人が御言葉を受け入れるのは難しい事です。」

私たちは人を見て聞くのではなく、語ることば、そのものを聞かなければならないのです。

7:49 だが、律法を知らないこの群衆は、のろわれている。」

この宣告は軽蔑と嘲笑に満ちていることばです。

「この群集」とは一般大衆の事であり、「律法を知らない」とは、深く聖書を読んでおらず、系統立てた深い学びをしていない事を表わしています。

そして「呪われている」とは、神様の呪いの下にあり、イエスの教えに惑わされて、ひどい妄想に取りつかれている、と断言しているのです。

宗教上の論争で、自分たちと意見が違う人に対して「呪われている」と断言するユダヤ人指導者たちですが、当時、キリスト教の真理を見出したのは、学識豊かな宗教的指導者たちではなく、貧しい者、下層階級の人々だったのです。

パウロは「神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強いものをはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです」と言っていますが、まさにこの通りです。知恵や権威は救いに至る道ではなく、聖書に対する、みことばに対する従順さ、謙遜さこそが、救いに至る道なのです。

ユダヤ人指導者の傲慢な発言に対して、一人の人が立ち上がります。

7:50 彼らのうちのひとりで、イエスのもとに来たことのあるニコデモが彼らに言った。

ニコデモは、ユダヤ人指導者、サンヘドリンの議員の一人でした。

しかも、発言が許される地位にいた人物である事を暗示しています。

私たちはユダヤ人指導者の全部がイエス様に対して攻撃的、否定的であったような理解をしていますが、決してそうではないのです。キリスト教に理解を示さず、キリスト教にとって不都合な組織であっても、神様の支配は及び、恵みは注がれているのです。

パリサイ人の集団に属し、一丸となってイエス様を憎み、イエス様を殺したいと思っている人々の仲間の一人であっても、イエス様を弁護する者が置かれているのです。

反抗的で、心を頑なにして不道徳を行なっているからと言って、そのような人々の中にキリスト者は絶対にいない、と即断してはならないのです。

悪徳の町ソドムにはロトがおり、悪名高いアハブ家にはオバデヤがおり、バビロンにはダニエルたちがいたのです。ローマ帝国の宮廷にも、キリスト者はいたのであり、パリサイ人の中にはニコデモが置かれていたのです。集団としては「彼らの一人」でしたが、霊的にはそうではありませんでした。

7:51 「私たちの律法では、まずその人から直接聞き、その人が何をしているのか知ったうえでなければ、判決を下さないのではないか。」

これは明らかにイエス様の弁護をしていることばなのであり、律法に従って、イエス様を正しく、公平に取り扱うよう嘆願しています。

一見した所では、ニコデモの嘆願は、信仰から出たものではないと思えるかも知れません。

しかし、パリサイ人たちの、その時の精神状態を思うとき、役人たちへの怒りを思うとき、ニコデモが最大限の勇気を持って発言した事は、間違いありません。

イエス様に対する憎しみが激しい状況にあって、イエス様の名前を全く出す事なく、注意深く、普遍的な律法の適応と言う原則に論拠を置いてイエス様を弁護しているのです。

簡潔に直訳すれば「私たちの律法は、まずその人から最初に聞かなければ、罪ありとはしません。」です。

ニコデモは賢明にも律法に訴えました。「誰でも先ず、その人から弁明を聞き、その人が実際に何をしたか、明確な知識と証拠を得ないうちは裁かれる事はない、と言うのが、私たちが敬意を表わしていると言っている、あのモーセの律法の大原則ではないのですか。この人が、自分の口からどんな弁明をするかを聞きもせず、合法的な証人の証言から彼が実際何をしたか知る事もせずに、彼を罪ありとするのは律法にかなった事でしょうか。あなた方はこの人の件を性急に裁き、彼に身の潔白を証明する機会を与えもせずに罪人と決めつけて、私たちの律法に公然と逆らうのではないでしょうね。」

ニコデモはイエス様に対する信仰から、その時出来得る最大限の弁護をしたと言えるのです。初めは弱々しく、成長も非常に遅く、殆ど成長していないかに見えても、皆が同じように成長するとは限らないし、信仰は心の問題ですから表面で判断は出来ないのです。

ニコデモはイエス様の弟子たちが逃げ出した後に、イエス様の身体の下げ渡しを申し出て、埋葬をするまでに成長していたのであり、表面的な事で、その信仰を判断してはならないのです。

信仰の真価が問われるのは、順境のときではなく、逆境のときなのです。

7:52 彼らは答えて言った。「あなたもガリラヤの出身なのか。調べてみなさい。ガリラヤから預言者は起こらない。」

これは激怒から出た酷い侮辱、軽蔑のことばです。

「ガリラヤ」はエルサレムから見たならば辺境の地であり、軽蔑していた事を表わす蔑称です。「指導者であり、学問もあるパリサイ人、我々の仲間の一人であるあなたまでが、この愚かなガリラヤの連中の一人になろうとしているのか。」

この苦々しげなことばは、ニコデモが、この場で最大限、言える限りの弁護をした証拠と言えるでしょう。

イエス様の人気は高まる一方であり、阻止しようにも上手く行かず、失意と苛立ち、更には自分たちの完全な無能さを味わっているパリサイ人たちの心には、イエス様に対する好意的なことばは、凄く癪に障るものであり、公正且つ律法に適って行動する事が望ましいと言っただけで、パリサイ人の逆鱗に触れ、ニコデモは仲間のパリサイ人から最大の侮蔑のことばを浴びせられてしまったのです。

7:53 〔そして人々はそれぞれ家に帰った。

人々とは最高議会の構成員の事で、祭司長、律法学者、パリサイ人たちの事です。

彼らはプライドを傷つけられ、恨みを晴らせない怒りを押え切れず、どうしようもない苦々しさと怒りの思いを抱いて議会を解散させて、家路についていったのです。

【適応】

今日のテキストに登場する指導者たちの姿は2種類ありました。

律法に従う事を教える立場にありながら、律法を無視してイエス様を罪人と断定し、律法に立ち返って正しい対応をする様に進言したニコデモを罵倒した人々です。

片や、冷静になり、律法に従って本人から聞き、複数の証人から聞き、総合的に判断する事を提案した人です。

私たちは誰でもが、何時でも冷静且つ、公正な判断が出来る訳ではありません。当事者になれば、冷静さを欠き、感情的になり、主観的にしか判断出来なくなるかも知れません。

ましてや、不利な立場に追い込まれれば、保身が働くのは無理からぬ事でしょう。

保身から相手を攻撃し、自分の立場を少しでも優位にしようとしてしまいます。

議会ではニコデモは少数派でしたが、感情的にならず、冷静に、律法、つまり聖書の教えに則って論議を尽くし、イエス様を弁護しました。

多勢に無勢であっても、権力者、有力者と対峙しても、知識や経験豊富な人と相争う事になっても、感情的になっては問題は解決しません。

聖書は何と言っているか。イエス様なら何と判断されるだろうか。

常に、聖書に、イエス様に根拠を置いて判断し、論議すべきです。

ニコデモの提言は的を射たものであり、最高議会の面々は結局敗退せざるを得なかったのです。

聖書を根拠に論議するのはキリスト者の最低限のモラルでしょうが、更にキリスト者の取るべき態度は、論議よりも全てを神様に委ねる事です。

イエス様は裁判において不利な証言が出されたときにも、何の弁解もされませんでした。

全てを知っておられる神様が、時に適って助け手を送って下さいます。

イエス様の十字架刑を承認したポンテオピラトですが、彼はイエス様を弁護し、何とか釈放しようと努力したではありませんか。

今日のテキストの場面でも、ニコデモが議会において、イエス様の知らないところで弁護がなされていました。これらの弁護や発言は隠されたものではなく、聖書として凡そ1900年間、多くの人々の知るところとなっているのです。

結局、イエス様は、イエス様を憎む力によって十字架に付けられましたが、最終的な勝利の栄冠は、イエス様を殺そうと企んだ者にではなく、神様の力によって復活されたイエス様の頭上に輝いているのです。

私たちがこの世で生活を送るとき、誤解や偏見、勝手な想像、連想から誹謗中傷を受ける事があると思いますが、謂れのない非難や中傷は、一々弁解しなくても、誰かが弁護に立ってくれるでしょうし、最終的にはイエス様が弁護に立って下さいます。

イエス様はご自分の命をかけて、私たちを弁護して下さいます。

私たちの命を守って下さいます。これより大きな慰め、励ましがあるでしょうか。

世界中が敵対しても、イエス様が味方となって弁護して下さる。

この世では不名誉なレッテルが貼られたとしても、イエス様がそのレッテルを剥がし、栄光の冠を被らせて下さるのです。

この希望があるので、私たちはどんな境遇にあっても屈する事はないのです。

議論をして、相手を言い負かしても、それで、相手が納得し、信仰に入る訳ではありません。

クリスチャンと呼ばれる個々人の信仰生活が、イエス様と親しく交わるもの、その結果、充実したもの、喜びに満ち溢れたもの、希望に満ちたものとなるなら、理解させようと議論を尽くさなくても、教会に連れて来ようと工夫、無理しなくても、勿論、何時でも疑問に答える準備と、教会の存在や行事を知らせる必要はありましょうが、発する言葉の端々に優しさがあり、行ないに聖さがあるなら、自然に理解され、教会に行ってみたい気持ちになるのではないでしょうか。

ここにおられる皆様がイエス様を信じ、イエス様の優しさ、聖さに与り、この世にイエス様を知らせる存在となり、祝福をもたらす事を願ってやみません。

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聖書個所:ヨハネ7:3744                    2016-3-20礼拝

説教題:「イエスとは誰なのか…このお方はキリストです」

【導入】

イエス様は誰なのか。

この疑問は古くて新しい問い掛けです。

聖書を読む時、イエス様のなされた事を見た人々の、話されたことばを聞いた人々の反応、評価が二つに分かれていた事を知る事が出来ます。

良い人だ、と言う者もいれば、群集を惑わしているのだ、と言う者もいたのです。

現代に生きる私たちにとっても、その評価は一様ではありません。

偉人の一人、高尚な倫理、人類愛を説いた人、と言う評価もあれば、取り立てる程の事はない、と考える人もおり、神の独り子であり、人類の罪からの贖い者、人類唯一の救いの道と信じる人々もいれば、神の子ではないし、神でもない、と考える人もいるのです。

私も幼い頃、家にシュバイツアーや野口英世らの伝記に混ざってイエス・キリストの本があり、手にし、読んだ記憶が甦ります。

幼い事の記憶なので、その本の内容までは覚えていませんが、罪からの救い主と言う理解ではなく、世界の偉人の一人と言う理解でした。

尊敬する人物として、イエス・キリストの名前を挙げた事を思い出す事も出来ます。

イエス・キリストは偉大な人物であり、愛を説き、愛を実践された方ではありますが、しかし、それだけでは不充分な理解であり、評価でしかありません。

イエス様が活躍された当時、人々のイエス様に対する評価が二つに分かれていましたが、イエス様を良い人だ、キリストだと評価する人々も、その理解は、預言者の一人、新しい指導者、ローマ帝国からの解放者と言う理解であったのです。

イエス様を、群集を惑わす者との評価も、変化を嫌う人々、体制を維持しようとする人々、特にユダヤ教の指導者たちの評価であって、保守的な立場の人の意見と言う事が出来るでしょう。

つまり、どちらもイエス様を主観的に判断しているのであって、正しく評価しているのではないのです。

私たちも、ともすると、イエス様の時代の人々と同じように、イエス様を主観的に評価していて、そのような主観的な評価を根拠とする信仰に生きているかも知れないのです。

今日は「イエス様は誰なのか」を、聖書のみことばから学んで行きましょう。

【本論】

7:37 さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。

「祭りの終わりの大いなる日」にイエス様が叫ばれた事には意味があります。

祭りは一週間続きますが、その「祭りの終わりの大いなる日」には特別な生贄が捧げられ、七年に一度、律法が特別に朗読され、更には儀式に則り、シロアムの池から水が汲まれ、神殿の祭壇に注がれた、そうです。

祭りの全ての儀式が終わり、最後の生贄も捧げられ、人々がまさに懐かしの我家に帰ろうとしているその時を、イエス様は機会と捕らえ、立ち上がり、大きな声で、偉大な宣言をなされたのです。

この「祭りの終わりの大いなる日」の宣言には特別象徴的な意味があります。

一年の最後の祭りが終ろうとしていた。

そしてそれが終り、人々が家路に付く前に、イエス様は、新しい摂理の夜明けである偉大な真理を人々に宣言し、ご自身を、全ての生贄、全ての儀式の最後であると言われたのです。

生贄による罪の贖いも、律法の朗読による生き方への指針も、水による聖めも、イエス様によって、全てが完成するのです。

「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。」このことばは、魂の渇いている人すべてに対して、その渇きをいやすためにキリストの下に来なさいと言う一般的な招きのことばです。

イエス様はご自身をいのちの泉、即ち、人間の魂の欠乏を救うもの、弱った良心に満足を与えるもの、罪を取り除き、赦すものと宣言しておられるのです。

イエス様は、罪を自覚し、赦しを求めるすべての人に、私の下に来なさいと勧め、望んでいるものを上げようと約束しておられるのです。

イエス様が祭りの最後にシロアムの池から水が汲まれ、厳粛な方法で神殿に運ばれるという、ユダヤの習慣を引き合いに出されたのは、多くの人々がイエス様のおことばの意味を良く理解するため、つまり、「誰か、まことのいのちの水、シロアムの池から汲まれる水よりも良い水を必要としていませんか。

私の下に来て、信仰によって生ける水、、更には良心の平安、罪の赦しを、私から汲みませんか。」と言われている事がはっきり分かるようにするためであったのです。

また、この招きのことばは広く、誰にでも与えられている事も注目に値します。

誰であっても、その人の状態がどうであっても、それまでの生活が如何に悪く、邪悪であっても、イエス様の御手が伸ばされ、招きがなされているのです。

「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。」

福音は限られた人にしか提供されていない、などと言う事はありません。

造られた全ての人に提供されているのです。

しかし、誰にでもではありますが、ここにも注目しなければなりません。

招かれているのは「渇いている」人であるとの自覚がある人、と言う事です。

この「渇いている」と言う表現は比喩であって、魂の価値、罪の大きさ、自らの罪を認めた時、誰しもが感ずる霊的苦悩や不安を表わしています。

そのような人は、そこから解放されようと強く望みます。

「渇き」の辛さは、水の豊かな、しかも飲用に適した美味しい水がそこかしこに溢れている日本に住む私たちには解かり難い事でしょうが、パレスチナ、イスラエルの人々は誰もが知っている事なのです。

水は、しかも飲用に適している水は貴重なものです。

ヒゼキヤと言う王様はエルサレムが敵に取り囲まれた時、豊富な水を敵に渡してなるものかと、全ての井戸や水源を埋めてしまったのですが、水の大切さを如実に表わしている逸話でしょう。

渇きは、生活に密着した事柄であり、いのちに直接関る事であり、魂の状態を最も的確に象徴する比喩なのです。

あなたたちは魂の渇きを感じているか。

自らの罪を覚え、赦されたいと感じているか。

そんな人をイエス様は招いておられるのです。

渇きを自覚する人に指示されている手段、方法、道の単純さにも注目しなければならないでしょう。

イエス様は、ただ「わたしのもとに来なさい」と命じられているだけなのです。

イエス様に自らを明け渡すだけで良いのです。

イエス様を信頼し、頼り、信じ、全ての重荷とともに魂を委ねる。

それだけで充分なのです。

イエス様を信頼する事が「わたしのもとに来る」と言う事なのです。

イエス様の下に来るだけで、一切の必要が満たされるのです。

つまり、水を飲むと、たちどころに渇きは解消され、新しいいのち、力が漲るように、

イエス様を信じると、たちどころに赦され、義とされ、神に受け入れられる存在となるのです。

「飲む」と言うことばも勿論比喩であって、「渇く」と言うことばに相対しています。

イエス様の下に来ても、飲まなければ何の変化も起こりません。

渇いているという自覚、飲みたいと強く願う事。

そして、イエス様の下に来て、飲むと言う行動をする。

イエス様をいのちの泉として扱う事、それをイエス様は望んでおられるのです。

7:38 わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」

この38節は難解な部分です。

イエス様が聖書と仰っているのは旧約聖書の事ですが、旧約聖書に38節と同じ表現はありません。

イエス様は聖書の何処かをそのまま引用したのではなく、幾つかの、良く知られた箇所の意味を述べられたと考えられています。

代表的な聖句を幾つか紹介しましょう。

イザヤ123節「あなたがたは喜びながら救いの泉から水を汲む。」

イザヤ443節「わたしは潤いのない地に水を注ぎ、かわいた地に豊かな流れを注ぎ、わたしの霊をあなたのすえに、わたしの祝福をあなたの子孫に注ごう。」

イザヤ551節「ああ。渇いている者はみな、水を求めて出て来い。」

イザヤ5811節「主は絶えず、あなたを導いて、焼けつく土地でも、あなたの思いを満たし、あなたの骨を強くする。あなたは、潤された園のようになり、水のかれない源のようになる。」

イエス様はユダヤ人に良く知られたイザヤ書のことばから、イエス様を信じる者に与えられる恵みについて教えておられるのです。

わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。

この38節のイエス様のことばは、ヨハネの福音書414節のイエス様がサマリヤの女に、「わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇く事がありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」と言われたことばを連想させますが、イエス様を受け入れた者は、自分の魂の必要に対して十分な満足を与えられるようになるし、それだけでなく、他の人々に対する祝福の泉となる、との宣言なのです。

イエス様を信じる者のことば、働き、行ない、模範を通して、人生に必要な事が、同朋のための益となって流れ出るようになるのです。

その人自身が十分受け、他の人々への祝福ともなろうとの宣言なのです。

イエス様の恵みを多く受けた者は、溢れて他の人々へと流れて行く。

多くを受けていれば、多くのモノを与え、授けるようになるのです。

7:39 これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ注がれていなかったからである。

39節に入り、福音書の記者ヨハネは、イエス様が仰っている「水」とは「聖霊」の事を表わしているのだと教えています。

イエス様と聖霊、三位一体の第2位格と第3位格とは切っても切り離せない関係にあります。

イエス様を信じる事は、聖霊を受ける事であり、誰でもイエス様を信じた者は、聖霊を受けているのであり、聖霊を持っているのです。

聖霊を持っているならば力強い働きをするのであり、その人から溢れ出て、周りの人々に影響を及ぼし、3738節のことばのように人々にいのちを与える働き人となるのです。

7:40 このことばを聞いて、群衆のうちのある者は、「あの方は、確かにあの預言者なのだ。」と言い、

ここでの「群集」とは、祭りに出るために集まって来た人々の事であって、祭司長やパリサイ人たちの事ではありません。

お互いに議論し始める事になった「このことば」とは、今イエス様が語られた「渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。」と言う公の宣言に対しての反応です。

自らを、霊的渇きを癒す者、などと大胆に宣言するような人は、当然人々の注目を浴びた事でありましょう。

そして、ユダヤ人のなかで一番の預言者として知られているモーセの様な預言者に違いないとの結論に至るのです。

モーセはエジプトを脱出し、荒野で水がなく、人々が渇きを訴えた時、岩から水を出して、人々の渇きを癒しましたが、イエス様のことばから、イエス様をモーセと同じような預言者だと推測したのです。

7:41 またある者は、「この方はキリストだ。」と言った。またある者は言った。「まさか、キリストはガリラヤからは出ないだろう。

7:42 キリストはダビデの子孫から、またダビデがいたベツレヘムの村から出る、と聖書が言っているではないか。」

別の人々は、イエス様を「キリスト」つまり「油注がれた者」と判断しました。

これは全てのユダヤ人が、この時代、熱心に待ち望んでいたお方です。

もっとも、殆どの人々は現世的な救い主を期待していたにすぎませんが、とにかくその現れを大多数のユダヤ人が期待していたのです。

サマリヤの女でさえ「私は、キリストと呼ばれるメシヤの来られる事を知っています。」と言う事が出来る程、周知の知識であったのです。

それに対する反論も起こります。

イエス様が素晴らしい奇蹟をなさり、人々の魂を揺さぶる説教をしても、イエス様がガリラヤのナザレ出身である事は周知の事であり、従って約束されたキリスト、メシヤでは有り得ないと言うのが、彼らの反論の根拠であったのです。

もっともな論法と言えますが、イエス様の出生地に関して、如何に無知であったか、また、調べようとも、確認しようともしなかった姿は、祭司長、パリサイ人と変わりありません。

私たちも、人をある一面だけを見て評価しますが、全体を、隈なく調べて判断するのでなければなりません。

もし、イエス様の出生地に関して調べる事を怠っていなければ、多くの人々は正しい判断をして、イエス様から離れる事なく、イエス様の弟子となって、いちはやく永遠のいのちを見出した事でしょう。

結局、安易な判断は自分自身に大きな禍根を残す事になるのです。

しかし、ここには大切な真理が隠されています。

間違った知識ではありましたが、イエス様の時代の人々は、驚くほど聖書の知識が豊富だったと言う事です。

聖書の預言や約束に対して明確な知識を持っていました。

祭司、パリサイ人でなくても、極一般の人々でさえ、メシヤはダビデの子孫から出る事、ダビデ誕生の地として良く知られていたベツレヘムで生まれる事を知っていました。

聖書を根拠に論議出来る程に聖書を諳んじていたのです。

多くのクリスチャンが2000年前のユダヤ人よりも、はるかに聖書を知らないと言う事は、また聖書を自由に読める環境にありながら、聖書通読の如何に少ない事かと言う事は、実に嘆かわしい、懸念すべき事ではないでしょうか。

7:43 そこで、群衆の間にイエスのことで分裂が起こった。

7:44 その中にはイエスを捕えたいと思った者もいたが、イエスに手をかけた者はなかった。

ずさんな知識で判断し、イエス様をキリストだ、そうではない、と議論した所で、なんの益があるのでしょうか。

イエス様を中心としながら平和ではなく、分裂が起こるのです。

平和の主であるイエス様の下で、争いが起こるのは、人が堕落しているからであり、主観的に判断しているからに他ないのです。

【適応】

イエスとは誰なのか。

イエス様はキリストでありメシヤであり、私たちの主です。

主というのは主人と言う事であり、私たちはその僕ですと言う告白です。

これは私たちが調べたり、研究して得た成果ではありません。

聖書が教えている真理です。

その根拠は聖書の預言にあり、神のことばである聖書が預言しているお方だから、主と告白して従うのです。

神のことばである聖書が宣言しているから、それを客観的な根拠として、イエス様を救い主として受け入れるのです。

私たちが主体となって、聖書を調べ、研究しても、イエス様を信じる事にはなりません。

聖書を学問として研究している人は沢山いますが、それでクリスチャンになる訳ではありません。

私が主である限り、イエスは従であり、神のことばである聖書も、古代の書物のひとつであり、教養の糧でしかありません。

私が主である限り、イエス様は私の罪を贖うための道具であり、私を永遠のいのちに導くガイドでしかありません。

イエス様が主となってこそ、聖書は私の生活の指針となり、全てとなるのです。

イエス様が主となってこそ、私が生きるも死ぬも益となるのです。

イエス様が主となってこそ、私はどんな事でも出来るのです。させて頂くのです。

「この方はキリストだ」と宣言する事が重要なのではなく、私の主として認め、従う事が重要なのです。

多くの人がイエスを信じていると告白していますが、従っているかとなると疑問です。

自分の都合が優先し、結局イエス様の順位は2番目になり3番目にしてしまっているのではないでしょか。

イエス様がお生まれになられた時、羊飼いは真っ先にベツレヘムに駆けつけました。

東方の博士も、危険な長旅を物ともせずにエルサレムにやって来ました。

しかし、多くの人々はそれを知らされ、教えられ、エルサレムの近くに居ながら、自分の都合や、知識に照らし合わせて判断し、結局、イエス様の所に行こうとはしなかったのです。

今日、イースターを控えて、どれだけの人が、イエス様の復活を喜んでいるでしょうか。

アドベントの期間にどれだけの人が、イエス様の再臨を待ち望んでいるでしょうか。

イエス様をキリストですと告白する事は誰にでも出来ますが、告白した通りに生きる事は難しい事です。

しかし、イエス様に不可能はないのですから、イエス様を受け入れ、聖霊様の注ぎを受けて、イエス様の僕として生きようではありませんか。

それがイエス様が来られた目的であり、イエス様を迎えるに相応しい私たちの対応です。

ここにおられるお一人お一人がイエス様をキリストとして心に受け入れ、自身も救われ、人々に救いをもたらす人生を歩まれますように。

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聖書個所:ヨハネ7:2536                    2016-3-13礼拝

説教題:「イエスとは誰なのか…神が遣わしたお方」

【導入】

イエス様とはどのようなお方なのか。

イエス様は凡そ30歳になられてから、活動を始められました。

12人の弟子を任命し、ユダヤ教の教師、預言者として、御国の到来を宣言され、人々を病、苦しみ、悲しみから解放してくださいました。

イエス様のなされた事を見た人々の、話された事を聞いた人々の反応、評価は二つに分かれました。

良い人だ、と言う者もいれば、群集を惑わしているのだ、と言う者もいたのです。

ユダヤ宗教指導者たちは、イエス様の経歴に言及し、正規に学んだ事がない事や、ユダヤ宗教指導者たちの許可を得ていない事をあげて、何の権威によってこれらの事をしているのかと詰め寄るのです。

それらのユダヤ宗教指導者の嫌がらせに対して、イエス様はたじろぐ事なく、イエス様の行動は全て、神様の御心を行なっているだけだと、宣言されるのです。

それはガリラヤの片すみで起こった出来事ではなく、エルサレムの中心、神殿の中で起こった出来事なのです。

イエス様とユダヤ宗教指導者たちとのやり取りは、多勢の人々の前で行なわれたのであり、その一部始終が目撃されていました。

地方からエルサレムに上って来た人々も、エルサレムに住んでいる人々やエルサレムの近郊に住んでいる人々も、イエス様とユダヤ宗教指導者たちとのやり取りを聴いていたのです。

【本論】

7:25 そこで、エルサレムのある人たちが言った。「この人は、彼らが殺そうとしている人ではないか。

7:26 見なさい。この人は公然と語っているのに、彼らはこの人に何も言わない。議員たちは、この人がキリストであることを、ほんとうに知ったのだろうか。

地方からエルサレムに上って来た群集は、ユダヤ宗教指導者のイエス様を殺そうとの思いを知らなかったようですが、エルサレムに住んでいて、ユダヤ宗教指導者たちの動向を知っている人々は25節のように、イエス様に対する殺意を知っていたのです。

26節に記されている「議員」とはユダヤ最高議会サンヘドリンのメンバーので、祭司、長老、律法学者を中心としたユダヤ宗教指導者たちの事です。

彼らの思いは、イエス様を抹殺する事であり、それは、イエス様がご自分をメシヤだ、キリストだ、と自称する事に対する反発であり、それは、神様への冒涜と言う大罪を意味する事であるとの判断からなのです。

そんなユダヤ宗教指導者の思いを知っているエルサレムの住民は、ユダヤ宗教指導者が、イエス様が目の前で話しているのに、逮捕しない事を訝ります。

イエス様は大胆に、あからさまに公然と語っているのに、指導者たちはイエス様を捕えようとしないばかりか、その教えを語る事を止めようともしないという事は、指導者たちの考えが変わったのだろうか。

指導者たちはイエス様の教えを聞いて、考えを変えたのだろうか。

この人が神の子メシヤである、キリストであると本当に知ったのだろうか。

そんな疑問を口にし、更に

7:27 けれども、私たちはこの人がどこから来たのか知っている。しかし、キリストが来られるとき、それが、どこからか知っている者はだれもいないのだ。」

これはイスラエル人の中に広く、イエス様の出生は、ガリラヤのナザレが通説として浸透していた事を教えています。

イスラエル人はメシヤがユダヤのベツレヘムでお生まれになるとの預言者の言葉を信じていました。

早くメシヤが生まれないかと期待し、待ち焦がれていたのです。

イエス様が公生涯に入られ、活躍された時、人々は預言の成就か、メシヤの到来か、と期待した事でしょう。

バプテスマのヨハネが「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」と紹介している事に大きな期待を寄せていた事でしょう。

しかし、人々は、イエス様はガリラヤのナザレ出身であると理解していたのです。

イエス様が十字架につけられる前、ロバに乗ってエルサレムに入城する時、人々は「この方は、ガリラヤのナザレの、預言者イエスだ(マタイ21:11)」と叫びました。

イエス様の十字架には「ユダヤ人の王、ナザレ人イエス(ヨハネ19:19)」と書かれた罪状書きが掲げられていたのです。

このように人々は最後までイエス様をガリラヤのナザレ出身と思い込んでいました。

しかし、私たちが聖書によって知っているように、イエス様は実際には、メシヤ預言の通りユダヤのベツレヘムでお生まれになっていたのです。

血統を大事にし、家系や出生地に、かくも厳しいユダヤ人が、イエス様のご生涯を調べようともせず、一般に信じられていた言い伝え、通説だけで満足し、判断を下したのは残念な事ですが、不都合な事には解明する努力を払わず、目をつぶり、気付かぬ振りをするのは、罪の性質のなせる業でしょう。

こうしてイエス様をメシヤとして受け入れない理由の一つとしたのです。

この事を通して、私たちが忘れてはならない事は、これこそが神様が人を取り扱われる方法の一つだと言う事なのです。

つまり、神様は誰にも強制を、誘導をされないのです。

わざわざ出生地を不明確なままにし、誤解を払拭されないのは、イスラエル人に対する訓練の一つなのです。

イエス様が自ら、ご自分がナザレ出身ではなく、ベツレヘムの出身であると、人々の誤解を解く努力をしなくても、もしも、イスラエル人が怠惰を、傲慢を、独善を捨てて、謙虚に、熱心に、偏見なくイエス様の出生を調べ、イエス様が証明されたメシヤとしての証拠を、丹念に調べ直していたならば、真理を見出す事も可能であったのです。

事実、少数ではありましたが、最後までイエス様に従った弟子たちがいた事で明らかです。

メシヤが来られるという出来事は、歴史が始って以来の出来事ですから、誰も経験がありません。

参考になる事例がないのです。

唯一、聖書の預言だけが頼りですが、何時かと言う事は知らされていないので、イザヤやミカの預言を信じて、700年以上の時を今か今かと待ち続けて来たのです。

過去に事例がないのですから、イエス様が、私がメシヤだと宣言されても、疑い、迷うのは当然です。

ですから、神様は疑い、迷うことを咎めておられるのではなく、前例や、経験がない事を理由に、新しい事や、始めての事を拒絶する事を問題にしておられるのです。

イエス様が語られた事や、行なわれた奇蹟は、人々の理解を越えた出来事でした。

そこに自分たちの言い伝えや律法の知識を当て嵌めたならば、行きつく所は拒絶でしょう。

しかし、謙虚になって、神様に御心をお示し下さいと祈り、聴き、見るならば、そこに神様の真意が見えてくるに違いありません。

更には、人間の調査能力、知識、経験などは絶対的な力を持つように思いがちですが、決して万能ではないのです。

エルサレムの人々はイエス様の出生を知っていると豪語しましたが、それはイエス様がヨセフとマリヤの子であり、兄弟がいることなど、目に見える事柄だけであって、調べれば直ぐにわかる出生地の間違いすら正す事をしなかったのです。

そして、霊的な世界は見る事も、知る事も出来ない事を忘れているのです。

霊的な世界は信仰によって信じるしかないのに、霊的な世界にまで、自分たちの常識を適応し、理解しようとする時、間違いが起こり、神の子を拒絶すると言う失敗を犯すのです。

イエス様がこの世界にお生まれになったのは、世の罪を取り除くためであり、神様との霊的な交わりの回復のためです。

これは調べて理解する事柄ではなく、イエス様が語られた事を信仰によって受け入れる事柄です。

そのことを宣言しているのが28節のイエス様の言葉です。

7:28 イエスは、宮で教えておられるとき、大声をあげて言われた。「あなたがたはわたしを知っており、また、わたしがどこから来たかも知っています。しかし、わたしは自分で来たのではありません。わたしを遣わした方は真実です。あなたがたは、その方を知らないのです。

7:29 わたしはその方を知っています。なぜなら、わたしはその方から出たのであり、その方がわたしを遣わしたからです。」

人々がイエス様の出生がガリラヤのナザレではなく、ユダヤのベツレヘムであると知ったとしても、別の理由を探し出してきて、イエス様を拒絶した事でしょう。

出生地が何処かが問題なのではなく、神様の御心を知ろうとしない事が問題なのです。

次回の学びになりますが、46節の「あの人が話すように話した人は、いまだかつてありません。」とか、31節の「キリストが来られても、この方がしているよりも多くのしるしを行なわれるだろうか。」という事実を見聞きしても、不充分な表面的な証拠だけで簡単にイエス様を拒否し、「悪霊につかれている」とか「群集を惑わしているのだ」との結論を出してしまい、それで自分たちに納得させ、人々に強要するのです。

イエス様がメシヤであるという真理も、イエス様が神様から遣わされたという事実も、霊的な事柄であり、信仰によって受け入れる事であり、この世の知恵では理解出来ない事柄なのです。

イエス様は神様が遣わしたお方である。

神様のご計画には私たちの理解を越えた部分がある。

理解出来ない事も、いつか明らかにされるとの信仰を持って、イエス様を神の御子、神様の遣わされたメシヤとして受け入れられるならば、出生地の問題とか、安息日の神聖を犯した等と言う事は些細な問題となるのではないでしょうか。

イエス様の言葉も行ないも理解出来ないのは、神様を知らないからであり、神様を知ろうともしないからです。

別の見方をするなら、自分の考え、理想の神観、来るべきメシヤ像を持っているので、それに合わないものは、無意識のうちに拒絶しているのです。

柔軟な心で、神様を知ろうと願い、聖書を読み、理解出来なくてもイエス様の言葉に耳を傾けるなら、その行なわれた事柄から神様を見ようとするならば、神様は真実なお方ですから、必ず理解の手助けをしてくださいます。

そうすれば、イエス様の言葉の端々に、行ないの数々に神様の存在を感じる事が出来るのです

そして、今の瞬間まで頑なにイエス様を拒み、迫害していたとしても、神様は悔い改める者を見捨てる事はないのですから、イエス様を受け入れる心の状態にしてくださいます。キリスト者迫害の意に燃えていたパウロが悔い改めに導かれたのも、神様の憐れみであり、悔い改めに遅いという事はないのです。

しかし、人々は29節のイエス様の言葉に、猛烈な反発をするのです。

7:30 そこで人々はイエスを捕えようとしたが、しかし、だれもイエスに手をかけた者はなかった。イエスの時が、まだ来ていなかったからである。

7:31 群衆のうちの多くの者がイエスを信じて言った。「キリストが来られても、この方がしているよりも多くのしるしを行なわれるだろうか。」

7:32 パリサイ人は、群衆がイエスについてこのようなことをひそひそと話しているのを耳にした。それで祭司長、パリサイ人たちは、イエスを捕えようとして、役人たちを遣わした。

イエス様がエルサレム神殿と言う場所で、公然と語られたので、祭りに上って来た人々は皆、イエス様の事を知る事になりました。

噂でしかイエス様を知らなかった人々も、直接イエス様を見て、多くの者がイエス様を信じるに至ったのです。

偏見のない目で見れば、イエス様が普通の人でも、サタンの頭でもない事は、解かります。

何の知識もなく、イエス様は神の子か、キリストか、と判断を迫られたなら、即座には結論が出せないでしょうが、31節の「キリストが来られても、この方がしているよりも多くのしるしを行なわれるだろうか。」と言う意見は率直な気持ちを表している言葉だと思います。

イエス様を信じるのには高尚な神学とか、敬虔で豊富な聖書知識とかは必要ないのです。

素朴な信仰、幼子のような信仰があれば、それで充分なのです。

砕かれた悔いた心、神様はそれを蔑まれません。

群集がイエス様の方になびいていくのを見て、危機感を持ったユダヤ宗教指導者は、イエス様を捕えようとして役人を遣わします。

しかし、役人は群集に囲まれ、また神様の守りの中にあるイエス様を捕えるチャンスを掴むことが出来ずに、すごすごと引き上げざるを得なくなったのです。

イエス様に手を出せずにいる役人に向ってイエス様は言われます。

7:33 そこでイエスは言われた。「まだしばらくの間、わたしはあなたがたといっしょにいて、それから、わたしを遣わした方のもとに行きます。

7:34 あなたがたはわたしを捜すが、見つからないでしょう。また、わたしがいる所に、あなたがたは来ることができません。」

33節からイエス様の悲哀と慈愛に満ちた思いを知る事が出来ます。

頑ななユダヤ宗教指導者、エルサレムの住民、民衆、群集に対して、イエス様は見限る事なく、見捨てる事なく、「まだしばらくの間、わたしはあなたがたといっしょにいて」と宣言なさいます。

これだけ反発し、罵り、攻撃してくる人々に対して何という寛容を示されるのでしょうか。

反対者とは一刻も長くは一緒に居たくないものです。

しかし、イエス様はご自分の考えではなく、神様のご計画に従ってこの世に来られたのであり、去って行かれるのです。

どんなに反発する人々であっても、イエス様はご自分から拒絶することはなさらず、ギリギリの瞬間まで待ってくださるのです。

しかし、自分たちの伝統や、方法、考えに固執している限り、イエス様、つまりはキリスト、メシヤを捜し出す事は出来ません。

現代に至るまで、救いの道はイエス様にしかなく、メシヤもキリストも人の知恵とか努力で探し出す事は出来ず、神様の哀れみによってしか知る事は出来ないのです。

そして、34節の「わたしがいる所」これは天国を現していますが、自分の知恵、精進、努力で天国に入る事は決して出来ないのです。

しかし、このイエス様の「捜すが、見つからない」「わたしがいる所に、あなたがたは来ることができません」と言う言葉を正しい意味で理解出来ないユダヤ人たちは

7:35 そこで、ユダヤ人たちは互いに言った。「私たちには、見つからないという。それならあの人はどこへ行こうとしているのか。まさかギリシヤ人の中に離散している人々のところへ行って、ギリシヤ人を教えるつもりではあるまい。

7:36 『あなたがたはわたしを捜すが、見つからない。』また『わたしのいる所にあなたがたは来ることができない。』とあの人が言ったこのことばは、どういう意味だろうか。」

ユダヤ人は異邦人を軽蔑、嫌悪していました。

勿論ギリシャ人も例外ではなく、支配者であるローマ人ほどではなかったにしても、ユダヤ人以外として徹底的に区別していたのです。

そのギリシャ人世界にもユダヤ人は散らばっていたのですが、ユダヤ社会から追放されたユダヤ人は、異邦人社会の中で生活するしかなく、当時の世界各地に、追放されたユダヤ人が多くいた事を示唆しているのです。

これはディアスポラと呼ばれていた捕囚時代からの離散のユダヤ人を含む人々であり、ユダヤ教から追放された教師、異端とか、ギリシャ文化に影響を受けて追放された教師が、離散のユダヤ人にその教えを広めていた様子を教える記述です。

ユダヤ宗教指導者はイエス様をそのような教師として見ていた事を伺わせる記述です。

【適応】

イエスとは誰なのか。イエス様は律法の完成者であり、安息日の主です。

神の民となり、天国に入るための、永遠のいのちを得るための、唯一の道なのです。

このご計画はイエス様が考え出したり、弟子たちがイエス様の考えをまとめたものではありません。

神様がご計画された事であり、イエス様は神様のご計画によって遣わされたお方なのです。

イエス様は決してユダヤ教の教師でもなければ、ユダヤ教とギリシャ文化の融合を図った、新興宗教の教祖でもありません。

でもなければ、偉でもありません。

人ではなく神であり、神様が遣わされた人類の救い主なのです。

人間の推薦や、組織の権威による認証が必要なお方ではなく、神様が神様の権威で遣わされたお方なのです。

人間の推薦や組織の権威によるものならば、何時かは廃れますが、変わる事のない神様に遣わされたお方ですから、その使命も、機能も、権能も変わる事がなく、救いの道も変わる事がないのです。

神様がご計画された、人類に示された唯一の救いの道であり、永遠のいのちに至る道、それがイエス様なのです。

イエス様は罪にもがき苦しむ私たちを救うために地上に来られ、十字架に掛かって私たちの罪の贖いをして下さいました。

イエス様によって罪を贖われた者だけが天国に行く事が出来るのです。

これは見方によっては不公平な事のように見えますが、決してそうではありません。

イエス様による救いのご計画は、公平無比な神様によって立てられたご計画であり、そこには不公平も片寄りもありません。

イエス様による救いは万民に提示されており、イエス様と出会った人はイエス様を信じるか、拒否するかの選択を迫られるのです。

聖書を熟知し、神殿で神様に仕えているから救いに与るのではなく、イエス様を、神様が遣わした方と信じる者が救いに与るのです。

あなたにとってイエス様は歴史上の偉人の一人ですか。

クリスマスの主人公、キリスト教の教祖ですか。

聖書を何回通読しても、それで救われるのではありません。

勿論、通読は大切であり、信仰生活の大きな力、励ましになりますが、一度も通読していなくても救いとは関係はありません。

救われるのはイエス様を神様が遣わして下さった私の救い主、私の罪の贖い主と、告白する事なのです。

ここにおられるお一人お一人がイエス様を神様が遣わして下さった、私の罪の贖い主と告白しましょう。

そうすれば、イエス様を見つけ出す事が出来、イエス様はあなたと共にいて下さり、天国に招き入れて下さるのです。

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聖書箇所:創世記23120                 2016-3-6礼拝

説教題:「妻サラの死、墓地購入」

【導入】

人間の死は、誰もが、決して避けては通れない、非常に悲しい現実であり、恐ろしくも感じましょうが、悲しい、恐ろしいと感じるのは、この世との別れであり、親しい方との別離であり、死後の世界を知らない不安からであり、未知への漠然とした恐れ等が、交じり合った複雑な感情でしょうが、死は終りの時ではなく、新しい始まりの時、切り替えの時でもあります。

死んだ人間にとっては、人間を造られた創造者なる神様との対面の時であり、この世で為した全てと、為さざる全てについて、告白し、裁きが行なわれます。

義人と見做されて、苦しみ、悲しみの全く無い、喜びに溢れた天国に迎え入れられるか、罪人と判定されて、絶え間無く、永遠に続く苦しみ、悲しみの世界に落とされるか。

この事については、別の時に学びたいと思いますが、残された家族、関係者にとっても、人間を造られた創造者なる神様を想う時であり、死後の世界、裁き、赦し、天国、地獄について、想いを馳せる時であり、この世で何を為すか、為さざるか、生き方を吟味する貴重なチャンスと言えるでしょうから、悲しんでばかりはいられません。

また、現実の問題として、家族は死者を葬らなければならず、葬儀によっても、神様の栄光を現さなければなりません。

葬儀の中心は、神様を礼拝する事であり、残された家族に、希望と慰め、励ましを与える事が目的であって、死者を奉(たてまつ)ったり、称えたり、霊を慰めたり、祟りを祓うのが目的ではありません。

魂は神様にお返しし、亡骸は土に還さなければなりませんから、墓地は必要不可欠です。

【本論】

23:1 サラの一生、サラが生きた年数は百二十七年であった。

23:2 サラはカナンの地のキルヤテ・アルバ、すなわちヘブロンで死んだ。アブラハムは来てサラのために嘆き、泣いた。

聖書は、サラの生涯を、非常に簡潔に紹介しています。

重要な関わりを持った人物であり、生まれは、創世記の何処にも記されていませんから、他の聖書個所にであっても、一言あってもよさそうなモノですが、聖書66巻の、何処にも記されてはいません。

しかし、どのように生きたかは、記されており、ペテロの手紙第1、36節「3:6 たとえばサラも、アブラハムを主と呼んで彼に従いました。あなたがたも、どんなことをも恐れないで善を行なえば、サラの子となるのです。

神様の言葉を信じられなかったサラであり、人間的な知恵で、奴隷女によって後継ぎを得ようと画策したサラであって、奴隷女ハガルに対して辛く当ったりしたサラであり、相当の期間、我が子として愛しんだイシュマエルを追い出したサラでしたが、サラの「アブラハムを主と呼んで彼に従」う生き方が「」と評価され、手本とするように紹介され、奨励されているのであり、これ以上付け加える事は、付け加える必要は何もありません。

成功談も失敗談も不要であり、功績も成果も不要であり、地上の夫に従う生き方は、従順を学ぶのであり、見えない神様に従う生き方と見做されるのであり、義人と見做され、義人の受ける報いを受けるのです。

夫に従う生き方は、アブラハムの時代だけの事ではありません。

個々人の、神様に従う生き方、神様との関係が重要であり、最優先すべきですが、現代に至って、夫との関係の重要性や、夫に対して従順であるべき事が、否定された訳ではありません。

夫に従う事で、或いは親に従う事で、神様に従う事を学ぶのであり、夫や親に従う生き方で、従順と服従を学ぶのです。

ローマ書131節「13:1 人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられたものです」と記されていますから、基本は夫や親に従うベきであり、聖書に反する事、聖書の禁ずる事を強要される以外は、従うべきでしょう。

もしも、聖書に反する事、聖書の禁ずる事を強要された時は、はっきりと、聖書に反する事、聖書の禁ずる事である事を伝え、明確に否定の意思表示をしなければなりません。

聖書は、従順を教えますが、意識的な従順であり、積極的な従順であり、協力的な従順であり、何も考えないで従うのではなく、考えるのが面倒くさいから従うのでもなく、従っておけば問題無いだろうと言う態度は、従順とは言えません。

良きパートナーたる従順で、お互いを高め合い、神様の栄光を現して行くのです。

アブラハムの良きパートナー、不可欠なパートナー、長年連れ添ったパートナー、サラを失った悲しみは、如何に大きかった、深かった、強かった事でしょうか。

23:3 それからアブラハムは、その死者のそばから立ち上がり、ヘテ人たちに告げて言った。

23:4 「私はあなたがたの中に居留している異国人ですが、あなたがたのところで私有の墓地を私に譲っていただきたい。そうすれば私のところから移して、死んだ者を葬ることができるのです。」

ヘテ人たち」の直訳は「ヘテの子たち」であり、「ヘテの子」とは、創世記10章に記されている、ノアの系図、ノアの子、セム、ハム、ヤペテの内、ハムの息子ヘテの子孫の事であり、カナン先住民の一つです。

譲っていただきたい」は「売ってください」の意味であり、欲しい土地は明確だし、持ち主も知っているけれども、個人的な交渉から入るのではなく、町の長老、代表者たち、重鎮に対して、話しを持ち掛けます。

外国人、特に寄留者、遊牧民が土地を入手するのは非常に困難な時代であり、取り引きを確実、公、周知のものとするための知恵です。

23:5 ヘテ人たちはアブラハムに答えて言った。

23:6 「ご主人。私たちの言うことを聞き入れてください。あなたは私たちの間にあって、神のつかさです。私たちの最上の墓地に、なくなられた方を葬ってください。私たちの中で、だれひとり、なくなられた方を葬る墓地を拒む者はおりません。」

アブラハムの申し出に対するヘテ人の回答は、決して好意的な回答ではありません。

私たちの中で、だれひとり、なくなられた方を葬る墓地を拒む者はおりません」は、土地を売る事を承諾した訳ではなく、

私たちの最上の墓地に、なくなられた方を葬ってください」が回答の要点であり、

私たちの」が回答の真意であり、アブラハムの土地の所有を、暗に拒否しているのです。

しかし、創世記14章に記されている、北の5大列強国連合軍との戦いの事や、創世記20章に記されている、ゲラルの王アビメレクとの関係を知っており、アブラハムの実力の程は周知の事であり、また、創世記13章に記されているように、アブラハムは非常に富んでいたので、無下に断るのは得策では無いと判断し、「あなたは私たちの間にあって、神のつかさです」と最大限のお世辞を言って、摩擦や争いに発展する事を避け、交渉の余地がある風を装いつつも、拒否の意思を明確に表明しているのです。

ヘテ人たちの礼儀正しい回答に対して、アブラハムも礼儀正しく、低姿勢を崩さず、交渉を進めます。

23:7 そこでアブラハムは立って、その土地の人々、ヘテ人にていねいにおじぎをして、

23:8 彼らに告げて言った。「死んだ者を私のところから移して葬ることが、あなたがたのおこころであれば、私の言うことを聞いて、ツォハルの子エフロンに交渉して、

23:9 彼の畑地の端にある彼の所有のマクペラのほら穴を私に譲ってくれるようにしてください。彼があなたがたの間でその畑地に十分な価をつけて、私に私有の墓地として譲ってくれるようにしてください。」

23:10 エフロンはヘテ人たちの間にすわっていた。ヘテ人のエフロンは、その町の門に入って来たヘテ人たちみなが聞いているところで、アブラハムに答えて言った。

町の入り口には広場が設けられ、集会の場として、会議の場として、共同体の問題を扱い、重要な話し合いがなされ、重要な取り決めがなされ、時に裁判や調停、和解勧告がなされます。

情報伝達の場でもあり、ここでの決定事項には、絶対服従が強いられます。

やんわりとした拒否に対して、アブラハムは冷静に、しかし、具体的な話しを持ち出し、土地と土地の持ち主の名を明らかにします。

土地の持ち主エフロンは、アブラハムの申し出を受け、交渉の場に登場します。

23:11 「ご主人。どうか、私の言うことを聞き入れてください。畑地をあなたに差し上げます。そこにあるほら穴も、差し上げます。私の国の人々の前で、それをあなたに差し上げます。なくなられた方を、葬ってください。」

エフロンの申し出は、町の長老たちの意を汲んだものであり、或いは、大した価値の無い土地であって、売る事に躊躇がなかったのかも知れません。

畑地をあなたに差し上げます」との申し出は、無償譲渡の申し出ではなく、「差し上げます」は「譲ります」と同じヘブル語であり、アブラハムの丁重な申し出に対する、丁重な応答の言葉なのです。

23:12 アブラハムは、その土地の人々におじぎをし、

23:13 その土地の人々の聞いているところで、エフロンに告げて言った。「もしあなたが許してくださるなら、私の言うことを聞き入れてください。私は畑地の代価をお払いします。どうか私から受け取ってください。そうすれば、死んだ者をそこに葬ることができます。」

この一連のアブラハムの申し出は「どうしても欲しい、得たい」との強い意思表示であり、相当の金額を支払う用意がある事を暗示します。

23:14 エフロンはアブラハムに答えて言った。

23:15 「ではご主人。私の言うことを聞いてください。銀四百シェケルの土地、それなら私とあなたとの間では、何ほどのこともないでしょう。どうぞ、なくなられた方を葬ってください。」

銀四百シェケルの土地」広さや地味、土地が肥えているか、潤っているか、その他の条件が示されていないので、何とも言えませんが、比較のために、土地取り引き売買の記録を聖書の中から見てみると、サムエル記第22424節「24:24 しかし王はアラウナに言った。「いいえ、私はどうしても、代金を払って、あなたから買いたいのです。費用もかけずに、私の神、主に、全焼のいけにえをささげたくありません。」そしてダビデは、打ち場と牛とを銀五十シェケルで買った。

この土地は、ダビデが神罰を終息させるために祭壇を築く土地であり、生け贄も含まれますから、妥当な金額と考えられましょう。

同じと考えられる土地が、歴代誌第12125節にも記載されていますが、そこでは「21:25 そしてダビデは、その地所代として、金のシェケルで重さ六百シェケルに当たるものを、オルナンに与えた。」と記されており、「50シェケル」と「600シェケル」の整合性、時代考証の問題がありますが、サムエル記と歴代誌は、同一の土地での出来事の記録ではなく、サムエル記の記述は「打ち場」のみ、歴代誌の記述は、将来神殿を建てる土地、隣接地を含む記録なのかも知れません。

これは、あくまで、私の想像であり、研究の余地がある差異です。

もう一箇所、土地取り引き売買の記録を聖書の中から見てみると、エレミヤ書329節「32:9 そこで私は、おじの子ハナムエルから、アナトテにある畑を買い取り、彼に銀十七シェケルを払った。」と記されており、エフロンの言い値が、驚くべき金額と考えて間違いなさそうです。

その根拠は、断念させるのが根底にあっての申し出だったのかと、考えられますし、この際、吹っかけてやろうとの魂胆があったのかも知れません。

手入れの甲斐がない荒地であり、売るに売れない土地であって、渡りに船、だったのかも知れません。

23:16 アブラハムはエフロンの申し出を聞き入れ、エフロンがヘテ人たちの聞いているところでつけた代価、通り相場で銀四百シェケルを計ってエフロンに渡した。

言い値をそのまま、値引き交渉もなく承諾するのは、商売の常套ではありません。

言い値は、値引き交渉を前提としており、駆け引きがあって、落ち着き所を探す訳ですが、今回の土地交渉は、通常の交渉ではありません。

外国人には「土地は売らない」のが原則、慣例であり、常識外れの高値は、交渉が進まなくなる事を、そして、交渉決裂こそ、真の目標だったのではないでしょうか。

売るのではなく、貸す、が目標だったのかも知れません。

しかも、貸し借りは、貸し手に有利です。

この事については【適応】で詳しくお話ししますので、先に進みましょう。

注解書などによれば、エフロンの言い値は、相場の10倍近いとありました。

広さ、土地の豊かさ、家屋建物、樹木等の量と質に拠りますが、当時、村一つが100シェケルから1000シェケルで取り引きされていたそうですから、エフロンの言い値は、常識外れの高価格ですが、アブラハムはエフロンの言い値通りに、「通り相場」即ち「商人の通用銀」で一括支払いを済ませます。

これは、後々問題を起さないための知恵であり、長老たち皆の前で即決し、長老たちの見守る中で、決済し、後顧のないようにしたのです。

23:17 こうして、マムレに面するマクペラにあるエフロンの畑地、すなわちその畑地とその畑地にあるほら穴、それと、畑地の回りの境界線の中にあるどの木も、

23:18 その町の門に入って来たすべてのヘテ人たちの目の前で、アブラハムの所有となった。

古代中近東の、土地売買では、樹木、家屋建物にも言及され、含まれる事を確認したようです。

23:19 こうして後、アブラハムは自分の妻サラを、カナンの地にある、マムレすなわち今日のヘブロンに面するマクペラの畑地のほら穴に葬った。

23:20 こうして、この畑地と、その中にあるほら穴は、ヘテ人たちから離れてアブラハムの私有の墓地として彼の所有となった。

当時、土地の売買は手続きだけでなく、実際の使用が所有権移転の最終的な確認になったそうですから、アブラハムは時を移さず、サラを埋葬します。

このマクペラの墓地には、サラのみならず、創世記4931節に記されていますが、アブラハムが、イサクが、イサクの妻リベカが、ヤコブの妻レアが、そしてヤコブが葬られます。

神様に従って生きた者たちが葬られているのであり、死んで後も、雄弁に信仰を物語っているのであり、墓地の存在は決して小さくはありません。

20節は1718節と重複する内容ですが、この一連の出来事の重要性を示しており、この世の問題を扱っていますが、信仰の歩みはこの世との関わりの中にあるのであり、信仰者の行き方、態度、知恵に付いて、大きな、重要な示唆を与えます。

【適応】

その第1は、必要に対して出し惜しみをしない、と言う事でしょう。

世知辛いこの世ですが、神様を信じる者までもが、世知辛くなってはなりません。

世の中の常識、相場、この世を渡る知恵、エトセトラを知っていても、大盤振る舞いをし、出すものは惜しみなく出し、吹っ掛けられていると知りつつも、敢えて、問題にはしない、騙し易い、お人好し、と思われる位でも、良いのではないでしょうか。

神様を信じる者が、計算高く、ちょっとの損を大仰に騒ぎ立て、僅かな出費を出し惜しみするのでは、信仰を持っていない人々と同じではありませんか。

騙す人が絶える事はなく、不正を行なう人が絶える事もありません。

狡賢く立ち回る人が絶える事はなく、隙を窺う人が絶える事もありません。

騙されないに越した事はありませんが、聖書は騙される事を奨励している個所がある事を、ご存知でしょうか。コリント人への手紙第167節「6:7 そもそも、互いに訴え合うことが、すでにあなたがたの敗北です。なぜ、むしろ不正をも甘んじて受けないのですか。なぜ、むしろだまされていないのですか。

善きにつけ、悪しきにつけ、神様が知っておられ、神様のお取り扱いを受けます。

積極的に騙されるのは、悪を助成する事に繋がる危険性がありますから、注意しなければなりませんが、騙されないように、も行き過ぎると、人を疑う生き方が身に付いてしまいます。

神様を信じる群れが、人を疑う集団であって良いのでしょうか。

「この値段は、この見積もりは、この請求は、この詳細は、何処に出しても疚しいものではないですね?」位の確認で充分過ぎるのではないでしょうか。

2は、支払いは速やかに行なう、と言う事でしょう。

経緯は様々であり、そこに思惑が絡み、不正や不当が内在したとしても、アブラハムは間髪を入れずに、支払ったのです。

取り決めた以上、双方が合意した以上、速やかに遅滞なく支払わなければなりません。

そうしなければ、ヤコブへの手紙54節「5:4 見なさい。あなたがたの畑の刈り入れをした労働者への未払い賃金が、叫び声をあげています。そして、取り入れをした人たちの叫び声は、万軍の主の耳に届いています。

口を持たない「賃金」が、「未払い金」「代金」が叫び声をあげるのであり、神様が裁きを下される時、何と言い訳をするのでしょうか。

裕福だから、余裕があるから遅滞なく支払い、貧しいから、余裕がないから支払わなくても、遅らせても良い訳ではありません。

支払うべきを速やかに支払う時、神様からの祝福も速やかに注がれるのです。

3は、借りるのではなく、買う、所有する、と言う事でしょう。

借りているものは、土地であろうと、物品であろうと、真の所有者は貸主です。

所有者の都合に従うしかありません。

返してくださいと言われたならば、返さなくてはなりません。

期限の取り決めがなく、未来永劫に使い続けても良いとの、取り決めが交わされていても、こっちに移動してください、少しずれてください、と言われたならばあそこと替わってください、と言われたならば、従うしかありません。

これと交換してください、明日返しますから、と言われても、従うしかないでしょう。

勿論、交渉の余地はあるでしょうが、持ち主ではないのですから、持ち主の意向に沿うしかありません。

憂いを残さないためにも、無理をしてでも、買う、所有権を移す、名実ともに、確実に、我が物にすべきです。

墓は、この世での信仰の歩みを記録、証しする物であり、先に、創世記4931節を紹介しましたが、イエス様が葬られた時にも、墓の持ち主、葬られた経緯が詳細に記されており、聖書が、墓を重要視している事は明らかです。

一人の人間の生涯に比べたならば、墓の存在は比較にならないくらい長期です。

生きて信仰の証しをし、死んで墓を通して信仰を証しするのであり、墓は終りではなく、新しい働きの出発なのです。

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