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聖書箇所:創世記2428節から51節                 2016-4-24礼拝

説教題:「主から出た事に良し悪しを言う事は出来ない」

【導入】

アブラハムの時代、父親は、子どもの結婚に対して積極的に関わり、結婚相手を探し、与えなければなりませんでしたし、息子、娘に意中の人がいたとしても、決定権は父親にあり、父親の承諾がなければ結婚は出来ませんでした。

現代に生きる親の思いは、好きな人と一緒になり、幸せな結婚生活を送って欲しい、仲睦まじい夫婦生活を送って欲しい、でしょうが、当時の結婚観は、何人も子どもを産み、血筋を絶やさない事、家名を、財産や地位を伝え残す事が、最優先事項であり、この事は、親も子も充分承知であり、何の疑問も持たずに受け入れられていた事でした。

結婚相手に求められるのは、極めて健康である事、陰日向なく働く者である事、子どもを産める身体である事、などです。

結婚は、子孫を残す事と同時に、働き手を生産する事であり、働き手を確保する事です。

アブラハムがしもべに与えた、イサクの嫁を探すと言う使命に対して、しもべは、結婚相手に求められる資質は、親切である事、働き者である事、健康である事、そして広く、深い的確な配慮が出来る事、と判断し、それを見抜くに最適な方法を考え、その方法を、アブラハムの信じる神様に祈り、委ねます。

神様は、間髪入れずに、しもべに、しもべの願った通り、しもべの祈った通りの展開を見せてくださいますが、当のリベカ本人の気持ちの問題があり、何より、リベカの父親の承諾を得なければなりません。

これから重大な交渉しなければならず、大きな困難が予想されますが、しもべは神様に委ねたのであり、全く動ずる様子を見せずに、こらからの展開を、神様の最善に委ねます。

【本論】

24:28 その娘は走って行って、自分の母の家の者に、これらのことを告げた。

見ず知らずの人から、突然、水を所望された事は大した事ではなかったでしょう。

泉の側での出来事であり、旅人がラクダと共に佇んでいたのですから「水をください」との声を掛けられるのは、当然と言えば当然であり、素性を聴かれ、宿を所望されたところまでは、よくある事であったかも知れませんが、名前を名乗った途端に、創世記2426節、27節、

24:26 そこでその人は、ひざまずき、主を礼拝して、

24:27 言った。「私の主人アブラハムの神、主がほめたたえられますように。主は私の主人に対する恵みとまこととをお捨てにならなかった。主はこの私をも途中つつがなく、私の主人の兄弟の家に導かれた。」」との祈りを聴き、高価な金の装飾品を付けられるとは、想像だにしていなかった事でしょう。

先の説教では、説明を省きましたが、鼻の飾り輪は、重さ一ベカ、約6gであり、腕輪は十シェケル、約114g、二つで約228gであり、合計234g

金相場は、説教を準備した時点で、1g4600円でしたから、なな何と、1076400円ものプレゼントをされたのですから、驚くのも当然でしょうし、何より、水を所望したしもべが、親族アブラハムの使いであった事は驚きであり、

しもべの祈りから、この出会いが偶然ではなく、神様の導きであったと知った事は、ショックであり、自分にとって以上に、親にとって、家族にとって重大なニュースになるであろうと確信し、家族に知らせに走るに至るのです。

24:29 リベカにはひとりの兄があって、その名をラバンと言った。ラバンは外へ出て泉のところにいるその人のもとへ走って行った。

24:30 彼は鼻の飾り輪と妹の腕にある腕輪を見、また、「あの人がこう私に言われました」と言った妹リベカのことばを聞くとすぐ、その人のところに行った。すると見よ。その人は泉のほとり、らくだのそばに立っていた。

リベカの興奮は、リベカの兄ラバンにも伝わり、ラバンもまた走って泉のほとりに駆け付けます。

24章には「走って」とか「急いで」とかの言葉が多用されていますが、臨場感と共に、登場人物の優しさや誠実さと共に、神様の導きに応答する人間の、素直さ、微笑ましさが、強く迫って来る表現ではないでしょうか。

24:31 そこで彼は言った。「どうぞおいでください。【主】に祝福された方。どうして外に立っておられるのですか。私は家と、らくだのための場所を用意しております。」

【主】に祝福された方」とのラバンの言葉が、アブラハムの信じる唯一の神様を、同じように信じている者の言葉なのか、偶像をも礼拝する者の、社交辞令の言葉なのかは不明ですが、少なくとも、唯一の神様の存在を知っている者の言葉である事は間違いないでしょう。

何故ならば、アブラハムに注がれる神様の恵み祝福は、親族にも及んでいるのであり、影響を与えている事に疑いの余地はないからです。

信仰は、個人的な応答ですが、関係者に必ず影響するのであり、影響しない事は絶対にありません。

勿論、良い影響ばかりでなく、反発、拒絶と言う反応もあるでしょうが、人間に埋め込まれた、神様の座に関する事、神様を求める思いに関する事なので、無関心ではいられないのです。

24:32 それでその人は家の中に入った。らくだの荷は解かれ、らくだにはわらと飼料が与えられ、彼の足と、その従者たちの足を洗う水も与えられた。

ラクダ十頭分の荷物は大量であり、降ろすのは大変な作業ですが、ラクダを休ませるためには不可欠な作業です。

ラクダの寝床となる藁の量も、飼料の量も、十頭となると大変な量であり、しもべと従者の足を洗う桶は、軽いアルミニュームやプラスティックの洗面器ではなく、水も、水道の栓を捻れば出て来る訳ではありません。

ラバンは、遠来の旅人に対して、親族の使いに対して、最大の持て成しを怠らなかったのです。

単なる親切心ではなく、リベカから聴かされた経緯と、リベカへのプレゼントから予想され得る、これからの展開に対する大きな興味があった事は確かでしょう。

24:33 それから、彼の前に食事が出されたが、彼は言った。「私の用向きを話すまでは食事をいただきません。」「お話しください」と言われて、

24:34 彼は言った。「私はアブラハムのしもべです

流石はアブラハムの信任を得ているしもべです。

しもべは、自分の道中の疲れを癒す事よりも、旅の緊張を解(ほぐ)す事よりも、空腹を満たす事よりも、アブラハムからの命令、任務、使命を優先させます。

しかし、しもべの申し出は、ラバンの持て成しに対して、失礼に成りかねない、際どいニュアンスの微妙な発言です。

ラバンは、しもべの真剣な眼差しに、深刻な話である事を読み取り、話し続ける事を促します。

しもべは無駄な前置き、旅の苦労話しなどは全てカットし、極々簡単に自己紹介をした後、直ちに本題に入ります。

24:35 【主】は私の主人を大いに祝福されましたので、主人は富んでおります。主は羊や牛、銀や金、男女の奴隷、らくだやろばをお与えになりました。

24:36 私の主人の妻サラは、年をとってから、ひとりの男の子を主人に産み、主人はこの子に自分の全財産を譲っておられます。

24:37 私の主人は私に誓わせて、こう申しました。『私が住んでいるこの土地のカナン人の娘を私の息子の妻にめとってはならない。

24:38 あなたは私の父の家、私の親族のところへ行って、私の息子のために妻を迎えなくてはならない。』

24:39 そこで私は主人に申しました。『もしかすると、その女の人は私について来ないかもしれません。』

24:40 すると主人は答えました。『私は主の前を歩んできた。その【主】が御使いをあなたといっしょに遣わし、あなたの旅を成功させてくださる。あなたは、私の親族、私の父の家族から、私の息子のために妻を迎えなければならない。

24:41 次のようなときは、あなたは私の誓いから解かれる。あなたが私の親族のところに行き、もしも彼らがあなたに娘を与えない場合、そのとき、あなたは私の誓いから解かれる。』

しもべは旅立つ事になった経緯を語ります。

簡潔ですが、明瞭故に、真実味が伝わって来ます。

アブラハムの信頼を得ているのですから、誠心誠意、誠実な人柄なのでしょう。

その人が、事実のみを淡々と語るのであり、誇張も創作もない静かな語り口調に、真実のみが持つ重みが、相手に強く、深く伝わる事になるでしょう。

聖書を読む私たちにとっては、繰り返しであり、重複ですが、古代の語り方であり、ヘブルの語り方の特徴でもあります。

クライマックスに至る描写であり、効果的な描写法であり、読者は繰り返し読む事によって、想像力を働かせ、臨場感を味わうのです。

40節に記されているアブラハムの言葉には、神様の業である事が強調され、神様が働かれ、神様が責任を持たれ、神様の望む結末になる事を預言します。

しもべの信仰を励まし、旅の安全と、使命の成功を預言しますが、万が一の時の対応に付いての確認、指示も怠りません。

即ち「娘を与えない場合」は「私の誓いから解かれる」と言う事です。

ややもすると、人間は、期待に応えようとして、余計な事までしてしまいます。

頼まれていないにも関わらず、善意からかも知れませんし、正義感からかも知れませんが、頼まれた事、以上の事は、越権行為であり、僭越であり、出しゃばりです。

親族が反対する可能性、本人が拒否する可能性は、誰でもが想定出来る事です。

翻意させるために、打開させるために、譲歩や提案を画策しましょうが、アブラハムは、交渉や代替案は一切不要だ、と念を押すのです。

折角、一ヶ月の旅をし、苦労をしたのだし、骨折り損にしたくないし、期待されているのだから、親戚ではなくても、敬虔な女性を探し出して、アブラハムの期待に応えようとし、新たな贈り物を加える事で、翻意させようとするのではないでしょうか。

しかし、「アブラハムの親族」からが条件であり、「十頭のラクダ」に運ばせた「貴重な品々」で充分なのであり、この二つの条件から外れる如何なる交渉も、禁じられている、と同時に、しもべには何の責任も問わないとの保障でもあるのです。

成功を期待しつつも、交渉決裂もまた神様の御こころであるとの信仰から発せられた言葉であるのです。

更に、リベカに対しても、リベカの家族に対しても、負担にならない配慮の言葉となっています。

何の負担も、関係もない他人からの申し出なら、遠慮なく断れても、鼻輪と腕輪をもらってしまった以上、叔父からの申し出である以上、経緯を聞いてしまった以上、断るのは簡単ではありません。

しかし、しもべが咎めを受ける事もないのですから、遠慮なく、断れるのであり、何の呵責も、負担も与えないがための配慮となっているのです。

24:42 きょう、私は泉のところに来て申しました。『私の主人アブラハムの神、【主】よ。私がここまで来た旅を、もしあなたが成功させてくださるのなら、

24:43 ご覧ください。私は泉のほとりに立っています。おとめが水を汲みに出て来たなら、私は、あなたの水がめから少し水を飲ませてください、と言います。

24:44 その人が私に、「どうぞお飲みください。私はあなたのらくだにも水を汲んであげましょう」と言ったなら、その人こそ、【主】が私の主人の息子のために定められた妻でありますように。』

24:45 私が心の中で話し終わらないうちに、どうです、リベカさんが水がめを肩に載せて出て来て、泉のところに降りて行き、水を汲みました。それで私が『どうか水を飲ませてください』と言うと、

24:46 急いで水がめを降ろし、『お飲みください。あなたのらくだにも水を飲ませましょう』と言われたので、私は飲みました。らくだにも水を飲ませてくださいました。

24:47 私が尋ねて、『あなたはどなたの娘さんですか』と言いますと、『ミルカがナホルに産んだ子ベトエルの娘です』と答えられました。そこで私は彼女の鼻に飾り輪をつけ、彼女の腕に腕輪をはめました。

24:48 そうして私はひざまずき、【主】を礼拝し、私の主人アブラハムの神、【主】を賛美しました。主は私の主人の兄弟の娘を、主人の息子にめとるために、私を正しい道に導いてくださったのです。

しもべはリベカとの出会いの経緯を淡々と語りますが、「主は私の主人の兄弟の娘を、主人の息子にめとるために、正しい道に導いてくださった」と念を押す事を忘れません。

たまたま、偶然、アブラハムの親族と出会ったのではなく、祈りの結果である事、神様の摂理である事の、明確な理解による、強い確信から発せられた言葉なのです。

そんな信仰から発せられた告白が、相手に届かないはずがありませんし、

神様が信仰に応えて下さらない筈はありません。

24:49 それで今、あなたがたが私の主人に、恵みとまこととを施してくださるのなら、私にそう言ってください。そうでなければ、そうでないと私に言ってください。それによって、私は右か左に向かうことになるでしょう。」

アブラハムのしもべは、誠心誠意、誠実な人格の持ち主です。

アブラハムの信仰の影響を受けてこそであり、信頼に足る、人物であり、アブラハムがそこにいるかのような、アブラハムの如くのような、アブラハムになり代わっての言葉を発します。

そこには気負いもなく、変な期待もなく、しかし、諦めている訳でもありません。

右か左に向かうことになる」は「別の未婚女性を探す」の意味ではありません。

神様の明確な導きを体験したしもべは、肯定的な答えを確信しつつも、否定的な答えに対しても、御こころとして受け止める信仰があったのであり、それ故に、あくまでも礼儀に適った言葉でもって、ラバンに接し、ラバンの答えを促します。

24:50 するとラバンとベトエルは答えて言った。「このことは【主】から出たことですから、私たちはあなたによしあしを言うことはできません。

24:51 ご覧ください。リベカはあなたの前にいます。どうか連れて行ってください。【主】が仰せられたとおり、あなたの主人のご子息の妻となりますように。」

ここに来て、やっとリベカとラバンの父ベトエルが登場します。

ラバンが先に記され、ラバンが主導的に振舞って来ていますので、実務はラバンに引き渡されていたのかも知れません。

しかし、最終的な決断には、父親も加わって判断したのでしょう。

二人は、アブラハムのしもべの言葉を、衝撃的に受け止めたのではないでしょうか。

しもべの言葉の中に、神様の導きを感じ、神様の臨在を確信し、忘れかけていた、生ける神の臨在を、強烈に感じたのではないでしょうか。

生ける神に対する恐れを抱いたのではないでしょうか。

決して安易な応諾ではなく、唯一の神様への信仰を覚醒させられ、50節の告白に導かれ、恐れ、困惑しつつも、一言も付け加えられないし、何一つ変える事も出来ないと、実感した故に、51節の受諾の宣言に導かれるのです。

【適応】

本日の説教題「主から出た事に良し悪しを言う事は出来ない」は50節の御ことばですが、決して否定的な意味に受け止めてはなりません。

問答無用で従う事を強要しているのではありません。

神様は、そんな言いなりになる人間を求めてはいませんし、只々従順なだけの、ロボットのような人間を求めているのでもありません。

自分なりの考えを持たないのは、正しい事ではありません。

従順は美徳と思われましょうが、無条件の、機械的な従順は美徳ではなく、悪徳です。

「命令されたから従ったまでの事」、何んて事であってはならないからです。

理由が解らないままで従っても、苦痛しかもたらしません。

意味のない事に、人間は耐えられません。

従う以上は、積極的に、能動的に、主体的に、でなければなりませんが、理由も,意味も隠されていたならば、懐疑的にならざるを得ません。

結果、消極的にならざるを得ませんし、受動的にならざるを得ませんし、従属的にならざるを得ません。

理由と意味とを理解してこそ、苦痛にも、困難にも耐えられ、障害を、迫害を乗り越えて行けるのではないでしょうか。

ですから、50節の御ことば「主から出た事に良し悪しを言う事は出来ない」は、意味と理由を問う事を禁じているのではなく、「主から出た事を批判してはならない、否定してはならない、拒否してはならない」「主から出た事には、良し悪しを言わずに、従う前提で考えよう」と理解し、受け止めるのが良いのではないでしょうか。

聖書の御ことばの多くは、また、説教で語られる言葉の中にも、適応の難しい事が、従うに困難な事が多くあります。

聖書の御言葉は素晴らしいけれども、時代遅れだ、時代錯誤だ、現代には合わない、牧師の言う事、説教の言わんとする事は解るけれど、世間を知らないから言えるんだ、と考える方がいらっしゃいますが、従うために、工夫したのでしょうか、調整したのでしょうか、努力したのでしょうか、祈ったのでしょうか。

鼻から「そりゃあ無理だわ」では、進みようがありませんし、信仰は何処にあるのでしょうか。

「難しい、しかし、従ってみよう。神様の助けを信じよう」なのではないでしょうか。

リベカの家族は、アブラハムからの願いであったからと言って、何の疑念も持たず、心配も持たず、躊躇がなかった訳ではありません。

隣町に嫁ぐのではなく、この後、二度と会えないかも知れない、イサクの人柄も知らされてはいないし、嫁ぐ先はどんな土地かも知らないのです。

しかし、アブラハムのしもべの言葉を聴き、神様のご計画である事を知らされ、知った以上、反対も、異議も、口にする事は憚られ、従う事が最善であると判断したのです。

神様のご計画の全貌を知る事は出来ないし、知らされない部分が大きくありましょうが、神様のご計画であるなら、従うべきであり、従う前提で、疑問や不安、躊躇を解消すべく祈りを献げるのが、信仰者の歩みでしょう。

神様は、疑問や不安を持つ事、躊躇する事を、不信仰だとして裁く事はありません。

疑問や不安、躊躇を取り除くようにしてくださいます。

そして、従った時に、神様の恵みを体験出来るのです。

主イエス様のお名前によってお祈り致します。 アーメン。 

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聖書箇所:創世記2410節から27節                 2016-4-17礼拝

説教題:「使命に対する祈りに応えてくださる神」

【導入】アブラハムの時代、子どもの結婚に対して、父親は積極的な関わりがあり、結婚相手を探し、与えなければなりませんでした。

その背景には、父権社会であった事、小さなコミュニティーの中で充足し、その地域から出る必要がない社会構造だったからです。

必要は村の中で満たされるので、他の地域との交流は少なく、結婚適齢期の男女の出会いも少なく、必然的に、家長の働きに負うところが大きくなる訳です。

家長は村の長老に相談、依頼し、長老は他の村の長老に相談、依頼して、結婚相手を探すのです。

この状況、展開からも、結婚相手は好みの問題で選ぶのではなくなる事は必至であり、結婚相手に求められるのは、子孫を残し、一族の名を伝え残し、嗣業の地を守らせる事であり、個人的な事でありながらも、家族、一族の問題であり、村の存亡に関わる事であり、村の命運に関わる事なのです。

とは言え、唯一の神様に従う民は、結婚相手を異教の民、偶像礼拝の民の中から選ぶ訳にはいきません。

アブラハムは、カナンの地の長老に相談する事も出来ず、アブラハム自らが動いて、結婚相手を探さなければなりませんが、アブラハム自らが出向く訳にも行かず、信頼出来るしもべに、重大な使命を託す事になる訳です。

その経緯は前回確認した通りです。

しもべは重大な使命である事を重々承知してはいても、結婚相手を探す働きは初めてであり、経験も、伝(つて)もある訳ではありません。

しかし、ぐずぐずしている訳にもいきません。

【本論】24:10 しもべは主人のらくだの中から十頭のらくだを取り、そして出かけた。また主人のあらゆる貴重な品々を持って行った。彼は立ってアラム・ナハライムのナホルの町へ行った。

当時、ラクダは貴重な家畜であり、富の象徴だったそうです。

ラクダは砂漠のような荒地での、長距離の移動用の乗り物であり、ロバや牛などの家畜とはその用途、利用度がまるで違います。

言い替えるなら、オフロード専用車のようであり、日常ではあまり使わないのですから、まあ勿体無い存在なのです。

その、富の象徴、貴重なラクダの中から、十頭を取り出します。

この「ラクダを取り」の「取り」を、新共同訳聖書では「選び」と訳しています。

これから非常に長い、困難な旅に出かけるのですから、「」ぶのは当然な作業ですが、この何気ない作業の中にも、しもべの、使命に取り組む姿勢、意気込みを読み取る事が出来ましょう。

何としてでも成功させる意思の現われが、慎重なラクダ選びに現れているのです。

「始め良ければ、終り良し」であり、準備の段階からの慎重な行動が、計画全体の方向性を決定付けるのです。

貴重な品々」とは、先ずはアブラハムの富に相応しい「結納品となる品々」であり、また、長旅の往復の費用でしょう。

しもべ一人と、ラクダ十頭の旅ではありません。

ラクダの世話係もいたでしょうし、ラクダの餌もある程度は持参しなければならず、しもべにも付き人がいた事でしょうし、貴重な品々の警護の人々も引き連れての長旅ですから、相応の旅費を持参していた事でしょう。

凡そ1ヶ月の時を経て、目的地「アラム・ナハライムのナホルの町」に到着します。

が、到着するのが目的ではありません。

しもべは、次ぎに取るべき行動を思案します。

24:11 彼は夕暮れ時、女たちが水を汲みに出て来るころ、町の外の井戸のところに、らくだを伏させた。

夕暮れ時」と「水を汲みに出て来るころ」は同じ時間帯を現しており、重複ではありますが、印象付ける表現であり、読者の理解の助けとなっていましょう。

水汲み」は女性の仕事、責任ですが、非常な重労働であり、比較的若い女性の仕事とされていたようですから、しもべの目的を達成するに最適な時間帯、場所、と言えるでしょう。

24:12 そうして言った。「私の主人アブラハムの神、【主】よ。きょう、私のためにどうか取り計らってください。私の主人アブラハムに恵みを施してください。

そうして言った」を新共同訳聖書は「祈った」と訳していますが、人間的な営みであっても、祈る事は重要です。

「食べるにも、飲むにも、何をするにも、神の栄光のため」であり、祈りは、奉仕の時、教会の働きの時、などに限定されるべきではありません。

何をするにも「祈り」で始まり、途中経過の折々に「祈り」、最後にも「祈る」のです。

取り計らってください」は「御こころが現れるようにしてください」、「起こるべき事が起こってください」の意味であり、神様の最善の導きを信じ、神様のご意志を確認し、御こころの実現を願う祈りなのです。

24:13 ご覧ください。私は泉のほとりに立っています。この町の人々の娘たちが、水を汲みに出てまいりましょう。

24:14 私が娘に『どうかあなたの水がめを傾けて私に飲ませてください』と言い、

その娘が『お飲みください。私はあなたのらくだにも水を飲ませましょう』と言ったなら、その娘こそ、あなたがしもべイサクのために定めておられたのです。このことで私は、あなたが私の主人に恵みを施されたことを知ることができますように。」

しもべの祈りには、注目すべき点が2つあります。

1つは、アブラハムから与えられた命令の意味するところは「私の親族の中から」でしたが、その実現の祈りがない、と言う事です。

しもべは、アブラハムの命令を忘れてしまったのでしょか。

否、12節の祈りの中に「私の親族の中から」は含められていると考えるべきであり、血縁も大事だが、見えない血縁の問題は神様の導きに委ね、イサクに相応しい妻、女性の資質の現れを、見せてください、との願いなのであり、しもべの経験や体験から考えられ得る、具体的な資質が14節に記されている祈りである事が、注目すべき点の2つ目なのです。

(えん)も縁(ゆかり)もない、見ず知らずの旅人の必要に対しての、親切で行き届いた対応は、アブラハムの全世界に祝福を与える働き、そのものであり、アブラハム一族が当然持ち合わせなければならない資質と言えるでしょう。

 

更に加えて、ラクダの必要をも見逃さない配慮は、親切な生き方が身に付いていなければ出来ない事です。

頼まれた事を誠実に行なう…大切な事ですが、それだけでは不充分です。

1を頼んだら、1のみならず、2にも、3にも配慮出来る人物こそ、これからの、アブラハムの世界を祝福すると言う、大切な働きに加わる人物なのであり、それを見定めるのが、しのべの祈りなのです。

24:15 こうして彼がまだ言い終わらないうちに、見よ、リベカが水がめを肩に載せて出て来た。リベカはアブラハムの兄弟ナホルの妻ミルカの子ベトエルの娘であった。

しもべの祈りは、神様に聴かれ、しもべが祈り終えないうちに、しもべの祈りの通りの展開を見せます。

人間には見定めようのない問題は、神様に委ねるべきであり、委ねるなら、神様はクリアしてくださり、アブラハムの兄弟ナホルの妻ミルカの子ベトエルの娘と出会わせて下さるのです。

ミルカは、アブラハムの兄弟ハランの娘であり、近親結婚です。

アブラハムの妻サラは、アブラハムの母違いの妹であり、これも近親結婚です。

イサクとリベカは、親族ではありますが、適度に離れており、神様のご計画、備えなのでしょう。

24:16 この娘は非常に美しく、処女で、男が触れたことがなかった。彼女は泉に降りて行き、水がめに水を満たし、そして上がって来た。

処女で、男が触れたことがなかった」は、完全な未婚の女性である事を現す表現であり、「美しく」は、「良い、好ましい、楽しい、より良くなる、うれしくなる、正しい、善」等の意味を合わせ持つ言葉であり、単なる美醜を表現しているのではありません。

内なる資質を表現し、また、内なる資質が外見にも良い影響を及ぼしていた事を表現しているのです。

」と訳されている言葉は、「泉」の他に「目、心の目、源」の意味を持つ言葉であり、単純に日本の豊かな涌き水を想像してはなりません。

地の割れ目、深くに湧き出ている泉であり、地中深くまで掘った階段を降りなければ、水を汲む事は出来ませんから、危険であり、且、重労働です。

24:17 しもべは彼女に会いに走って行き、そして言った。「どうか、あなたの水がめから、少し水を飲ませてください。」

24:18 すると彼女は、「どうぞ、お飲みください。だんなさま」と言って、すばやく、その手に水がめを取り降ろし、彼に飲ませた。

苦労して、岩土剥き出しの階段を上がって来たところでの、唐突な申し出は、人物を知るには絶好の機会となりました。

嫌な顔一つせず、「だんなさま」と親しみのある呼び方をし、「すばやく」苦労して運んだ水を提供するのです。

しかも、急かす事なくであり、「その手に水がめを取り降ろし」の意味は「肩に載せていた水瓶を降ろして、手に抱え」であり、水瓶を傾け、水を注ぎ出し、しもべが手を洗い清め、口を漱ぎ、喉を潤すまで、その姿勢を保ち続けたのであり、相当の肉体的負担を強いられた事となったでしょう。

そして、

24:19 彼に水を飲ませ終わると、彼女は、「あなたのらくだのためにも、それが飲み終わるまで、水を汲んで差し上げましょう」と言った。

24:20 彼女は急いで水がめの水を水ぶねにあけ、水を汲むためにまた井戸のところまで走って行き、その全部のらくだのために水を汲んだ。

ここでも「急いで」「走って」と記され、素早い動きであった事が、労を惜しまない者の健康的な敏捷さが記されています。

ラクダ十頭が満足する水の量が如何程なのか。

ネットで調べたところ、ラクダは一度に80リットル、最高で136リットル飲むそうです。

その10倍ですから、800リットルから1360リットル。

一度に汲める量、桶の重さを想像するのが難しいので何とも言えませんが、軽いポリバケツがなかった事と、桶自体が重かった事は確かですから、一度に汲める量は僅かです。

根拠のない量ですが、20リットル汲めたとしても、40回以上です。

気が遠くなるような作業である事は確かでしょう。

24:21 この人は、【主】が自分の旅を成功させてくださったかどうかを知ろうと、黙って彼女を見つめていた。

自分の旅の成功は、アブラハムへの祝福の現れであり、

担っている責任は重く、大きいけれども、神の民への祝福に繋がっている事の自覚があり、真剣にならざるを得なかった事でしょう。

24:22 らくだが水を飲み終わったとき、その人は、重さ一ベカの金の飾り輪と、彼女の腕のために、重さ十シェケルの二つの金の腕輪を取り、

24:23 尋ねた。「あなたは、どなたの娘さんですか。どうか私に言ってください。あなたの父上の家には、私どもが泊めていただく場所があるでしょうか。」

あなたは、どなたの娘さんですか

神様は祈りに応えてくださるお方であり、神様は期待以上の事をしてくださるお方と信じている者の、確認の言葉であり、不信仰故に、確かめずにはいられなかった、のではありません。

神様は、不信仰に陥り易い私たちを責める事なく、励まし、確信を与えるために、確認する事を許してくださいます。

24:24 彼女が答えた。「私はナホルの妻ミルカの子ベトエルの娘です。」

24:25 そして言った。「私たちのところには、わらも、飼料もたくさんあります。それにまたお泊まりになる場所もあります。」

ここでも、リベカは問われた事、以上の回答をします。

即ち「わらも、飼料もたくさんあります」です。

しもべたちの宿泊場所を提供するだけではなく、それでも、しもべ一人ではなく、数人なのですから大変な事ですが、更に、ラクダの飼料や、ラクダを休ませる場所まで提供しようと申し出るのですから驚きです。

常識的に考えたならば、男性社会であり、家長に絶対の権限があり、何の権限も持たない娘が、家長の許しもなく、確定的に申し出を受けるなど出来る訳もありませんが、25節の対応の背景には、このような事が稀有な事ではなかったからであり、親の対応を見て来たからであり、経験があったからなのではないでしょうか。

見ず知らずの旅人であっても持て成すのが、当時の社会の文化であり、受け継がれていたのであり、それは、親であっても、娘であっても、なのです。

しかし、万人が皆、同じではありません。

そんなに大勢では困ります。

人間はともかく、家畜までは…。

勿論、其々に状況は様々であり、既に誰かを受け入れているかも知れません。

しかし、受け入れると決めたなら、丸抱えであり、受け入れた以上は、徹底的に持て成すのです。

それこそ、一番良い物で、命懸けで、大切なお客様として持て成すのです。

24:26 そこでその人は、ひざまずき、【主】を礼拝して、

24:27 言った。「私の主人アブラハムの神、【主】がほめたたえられますように。主は私の主人に対する恵みとまこととをお捨てにならなかった。【主】はこの私をも途中つつがなく、私の主人の兄弟の家に導かれた。」

しもべの旅は、祈りで始まり、祈りで締め括られました。

途中つつがなく」は、道中の安全も然る事ながら、間違いなく方向づけられた事、願い通りに親族との出会いが与えられた事、神様の働きに付くに相応しい女性との出会いが与えられた事、この後の交渉も、必ず良い結果であろう事を確信する告白であり、祈りなのです。

【適応】本日の説教題ですが、当初は「祈りに応えてくださる神」だったのですが、祈れば、どのような事でも、何でも応えて下さるとの誤解を生じかねないので、「使命に対する祈りに応えてくださる神」としました。

私たちは、無病息災、家内安全、学業成就、商売繁盛、世界平和、などなどを祈りますが、何のために祈るのでしょうか。

先のような祈りが悪いと言っているのではなく、何の目的で祈っているかが問題なのです。

まあまあ、ましなのは世界平和でしょうが、それでさえも人類愛や、正義感などが根底にあるなら、また、漠然としたものであるなら、疑問です。

人間は、神様のご計画によって産まれさせられたのであり、神様のご計画である以上、一人一人に使命があり、賜物が与えられています。

その使命に気付けるように、使命に進めるように、使命に打ち込めるように、使命遂行、完遂のために、賜物が与えられるように、賜物が生かされるように、更に賜物が与えられるように、祈るのです。

そして使命も賜物も、祈りも神様のご栄光を現すためであり、無病息災、家内安全、学業成就、商売繁盛、世界平和、などなどの祈りも、神様のご栄光を現す事に繋がってこそ、意味ある祈りとなるのです。

登場したしもべは、自分の満足や、プライド、アブラハムに誉めてもらうために、祈ったのではありません。

使命の達成を通して、12節「アブラハムに恵みを施してください」即ち、「神様が、アブラハムを世界の祝福の基としてくださるように」であり、14節「このことで私は、あなたが私の主人に恵みを施されたことを知ることができますように」即ち、「私が、あなたが恵みの神である事を知る事が出来ますように」であり、常にしもべの心の中にあったのが、「アブラハムの神、【主】がほめたたえられますように」であった事が解るのです。

使命達成のために祈り、使命達成の妨げが取り除かれるように祈り、妨げや不都合の中でも、使命が達成されるように祈り、使命達成の助けを、使命に対する不安が取り除かれ、確信が与えられる事を祈るなら、神様は応えてくださり、想像もつかない結果を用意してくださるのです。

その使命の崇高、最高、最大のものは、神様を愛する事と、隣人を愛する事であり、さらに具体的には、神様が制定された結婚制度を重んじ、クリスチャンホームを造る事、維持する事、信仰継承する事です。

家庭を守るために祈るのであり、サタンの暗躍、働きを阻止するために祈るのです。

全世界が、神様を知り、神様を信じ、神様が崇められるために祈る、

それが、神の民、キリストのしもべに託された使命なのです。

最後にイエス様の祈りを確認して終わりましょう。

ルカの福音書2242

22:42 「父よ。みこころならば、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください。」

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聖書箇所:コリント人への手紙第一15章58節              2016-4-10礼拝

説教題:「いつも主のわざに励みなさい」

説教者:河野 優 牧師 (説教は非掲載です

聖書:15:58 ですから、私の愛する兄弟たちよ。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを知っているのですから。

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聖書箇所:創世記241節から9節                   2016-4-3礼拝

説教題:「イサクの嫁を探す使命」

【導入】

結婚事情、結婚に至る手続き、即ち、出会いから始まり、お付き合いの期間、結婚の申し出、その受諾、結婚式、披露宴に至るまで、また、出会いそのものも、昔と今では、随分と様変わりした観があります。

今でこそ、出会いの場は多種多様であり、恋愛結婚が主流でしょうが、ほんのちょっと前までは、見合いの席での出会いであり、そこで結婚が決まる、が主流であり、更に遡れば、親の決めた相手と、否応無しで結婚するのが、させられるのが普通の事でした。

親同士が話し合い、顔も見た事もなければ、言葉を交わした事もない人と結婚させられる。

随分と理不尽な話しであり、人権無視な話しですが、当時は普通の事であり、疑問視する事も、問題視する事もありませんでした。

現代では通用しない話しと思いましょうが、しかし、アラブ、パレスチナ社会では、今でも似たような結婚事情だそうです。

厳格なイスラム教社会では、結婚適齢期の男女が出会う場は極少なく、限られており、結婚適齢期の男女は、長老の介添えや、親同士の話し合いで出会い、結婚に至るそうです。

親は子どもの結婚をプロデュースする責任があり、単に責任の問題ではなく、子孫を残し、一族の名を伝え残し、嗣業の地を守らせなければならず、特に父親にはその責任が重く圧し掛かり、大きな権限が与えられているのです。

【本論】

24:1 アブラハムは年を重ねて、老人になっていた。【主】は、あらゆる面でアブラハムを祝福しておられた。

創世記2520節に、

25:20 イサクが、パダン・アラムのアラム人ベトエルの娘で、アラム人ラバンの妹であるリベカを妻にめとったときは、四十歳であった。」と記されており、アブラハムが100歳の時、イサクが産まれているところから、この時点で、アブラハムの年齢は凡そ140歳と推測されます。

何とも長寿でありますが、単なる長寿ではなく、健康な長寿者であり、頭脳もしっかりしている長寿者です。

アブラハムはこの後、30数年を生き長らえさせていただきますが、心身ともに健康的なだけではなく、祝福された生涯であり、「あらゆる面で」祝福されており、内的にも、外的にも祝福されており、長寿であり、イサクとイシュマエルが与えられ、多くの財産を与えられ、あらゆる外敵から守られ、大国をも打ち破る実力を与えられ、名誉と尊厳をも与えられていたのです。

寄留者、旅人でありながら、カナン、パレスチナで一目置かれた存在でありましたが、長寿ではあっても、死は必ず訪れるのであり、身動き出来なくなる前に、的確な判断、決断が出来る内に、なすべき事をしなければなりません。

それは、イサクに嫁を迎える事であり、子孫を残すようにする事です。

24:2 そのころ、アブラハムは、自分の全財産を管理している家の最年長のしもべに、こう言った。「あなたの手を私のももの下に入れてくれ。

全財産を管理している家の最年長のしもべ」とは、単に「忠実無比なしもべ」「馬鹿が付く位、真面目なしもべ」「優秀なしもべ」「長い間仕えて来たしもべ」「最古参のしもべ」「執事長」などの意味ではありません。

勿論、その意味もありましょうが、「本当に、ホントウに信頼出来るしもべ」であり、アブラハムの考えを汲み取り、アブラハムのように考え、アブラハムのように判断、決断し、アブラハムのように行動出来るしもべの事です。

家族、親族以上に信頼していたのであり、しもべ冥利に尽きるのではないでしょうか。

こんな信頼を得られるような人物になりたいものです。

手をももの下に入れ」る行為の、元々の意味は不明ですが、「もも」は、ユダヤでは「子孫、性器」を暗示する言葉であり、腿の下に手を入れる事は、子孫の存亡に関わる事を暗示し、性器、即ち性交は、全人的な交わり、一体となる事を意味しますが、それと同等の意味を持たせているのではないかと考えられます。

誓いの儀式であり、命懸けの誓いである事を、双方が、言葉と行為とによって確認する儀式なのです。

24:3 私はあなたに、天の神、地の神である【主】にかけて誓わせる。私がいっしょに住んでいるカナン人の娘の中から、私の息子の妻をめとってはならない。

アブラハムは、カナンの地で良き住民として生活して来ました。

丁寧であり、謙遜であり、良き隣人として接し、カナンの住民の信頼を得、尊敬も受け、一目置かれる存在となっていました。

物理的にも、精神的にも「いっしょ」と思える程に、近しい、親しい関係を構築して来た。

しかし、信仰的には混交もなく、妥協もなく、一線を引いて、決して同化、妥協はしなかったのであり、今後も、決してあってはならないのであり、異教の民、偶像礼拝の民カナン人を娶ってはならないのです。

また、「私がいっしょに住んでいるカナン人」の中に、ルツのような、ラハブのような神様に選ばれ得る女性がいなかったからでもありましょう。

神に選ばれた民である事を忘れさせるような、神様から離れさせるような、カナン人との深い交流は、親交は避けなければなりません。

アブラハムに与えられた働きの妨げになり、鉾先が鈍るからです。

神の民は、カナンの悪と交わる事があってはならず、神の民は、神の民との結婚だけを考えなければならず、神の民では無い者との結婚は禁じられているのです。

これが旧約、新約を通しての、聖書の教えであり、大原則です。

人間的には素晴らしい人であっても、道徳的にも高潔な人であっても、誠実でも、非の打ち所がなくても、信仰の面での一致がなければ、結婚は諦めなくてはなりません。

現代において、男女の出会いの場は無数にあり、日常的にあり、非常に盛んですが、だからと言って、結婚適齢の、未婚者が皆、結婚候補である訳ではありません。

未信者を結婚相手に考えてはなりません。

更に踏み込んで言うならば、未信者と結婚に発展しそうな付き合いをしてはなりません。

何かのきっかけで、付き合い出してしまったならば、早い時点でクリスチャンである事を告白し、教会に誘い、牧師に引き合わせ、信仰を持つように祈りましょう。

教会に行く事を条件にする結婚は、そもそもの出だしが間違っています。

結婚は、男女共同で神様に仕え、神の民を産み、神の民として育て、信仰を継承する働きです。

片方が神の民でないならば、この働きは出来ませんし、遅かれ早かれ、教会には行かなくなるでしょうし、自身の信仰も怪しくなる事は必至です。

信者と未信者、神の民とそうでない民とには、何の関わりもありません。

24:4 あなたは私の生まれ故郷に行き、私の息子イサクのために妻を迎えなさい。」

私の生まれ故郷に」の直訳は「私の国、私の親族に」であり、「ウル」とも「ハラン」とも考えられますが、どちらも今住んでいるカナンからは、直線距離で800km以上離れており、1日に40km歩くとしても、単純計算で20日は掛る距離であり、大雑把に見積もっても1ヶ月は必要な、大変な困難を伴う旅である事は間違いありません。

そこから、イサクのために妻を迎えるようにとの指示ですが、ここに、イサクの意思は、全く問題にされていません。

父の役割だけに、父の責任だけに、焦点が当てられていますが、これも、聖書の教える原則でしょう。

現代は、恋愛自由の時代であり、結婚の自由は憲法で保障されている事ですが、結婚相手の選択に、両親は深く関わり、適切な助言を与えなければなりません。

結婚生活にも、適宜に相談に乗り、適切な助言を与え、結婚生活を維持させるよう見守り、手助けしなければなりません。

最終的な責任は本人が負ところですが、親の監督責任を免れるものではありません。

特に、アブラハムの時代に、結婚相手を探すのは父親の最大の働き、役割、責任であり、アブラハムはその責任を果たすべく、信頼するしもべにイサクの嫁探しを託すのです。

ここで、ウル、もしくはハランの親族から結婚相手を探すのは、純血を守るためではありません。

ウル、もしくはハランにいる親族も、アブラハムの故に、神様の顧みの中にある人々であり、神の民として召されているのです。

アブラハムに、親族も神の民と見做されているとの、明確な認識はなかったでしょうし、親族にも神の民との自覚はなかったでしょうが、アブラハムの故に親族も神の民と見做され、神様はアブラハムの働きの助け手を備えてくださっているのであり、アブラハムが、神の契約の民として歩むための、神様の配慮なのです。

24:5 しもべは彼に言った。「もしかして、その女の人が、私についてこの国へ来ようとしない場合、お子を、あなたの出身地へ連れ戻さなければなりませんか。」

親しい家族からの別離は、住み慣れた土地を離れる事は、大問題に感じましょうし、結婚相手を見た事もないのですから、確かに大きな問題でしょうが、それは、結婚を、それに伴う別離や移動を人間的な営みと考えるからです。

結婚は、神様の結び合わせであり、結び合わせには別離も、移動も必然であり、親と別れ、家族と別れ、親しい人々と別れ、新しい地で、新しい環境で、新しい家族を作り、新しい人間関係を作っていく事なのです。

結婚は、神様の業であり、神様の業に直接関わる事であり、光栄を拝する事なのであり、否定的な考えは排除しなければなりません。

それでも、危惧するしもべは、その危惧を口にし、一つの提案をします

当事者同士を引き合わせるなら、相手は安心するでしょうし、家族も安心するでしょう。

暫く一緒に住み、お互いの人となりを知ってから、頃合を見計らって、カナンに戻る。

中々な提案ですが、人間的な配慮の産物であり、神様の御こころではありません。

24:6 アブラハムは彼に言った。「私の息子をあそこへ連れ帰らないように気をつけなさい。

アブラハムは、神様の命令で、指示で、御ことばによってウルを出立し、ハランを出立したのであり、親族がいる土地であっても、大事な用件があろうが、苦境に立たされようが、御ことばの指示がない限り、勝手に戻る訳には行きません。

未練たらしく懐かしんだり、チャンスと考えて戻ったりしてはなりません。

そして、神様の命令は、アブラハムだけに、ではなく、アブラハムの子孫にも適応される命令であり、イサクも理由の如何を問わず、ウルやハランに戻す訳には行きません。

アブラハムの信仰は本物の信仰であり、状況に惑わされず、的確な判断をし、しもべに指示を与えます。

24:7 私を、私の父の家、私の生まれ故郷から連れ出し、私に誓って、『あなたの子孫にこの地を与える』と約束して仰せられた天の神、【主】は、御使いをあなたの前に遣わされる。あなたは、あそこで私の息子のために妻を迎えなさい。

アブラハムの信仰は、紆余曲折あり、失敗もあり、醜態を晒しもしましたが、神様のお取り扱いを受け、神様への揺るぎない確信を持つものとなり、どんな困難な状況に置かれても平安を損なう事はなく、威厳と英知を持って、しもべに指示を与えるものとなっていたのです。

しもべの使命は必ず果たされるとの信仰、確信を持ちながらも、

24:8 もし、その女があなたについて来ようとしないなら、あなたはこの私との誓いから解かれる。

もし、その女があなたについて来ようとしないなら」それは、神様の定められた人ではない、との確信であり、決して不信仰から出たことばではありません。

人間は、期待されると、何としてでも期待に答えようとしてしまいます。

神様に導かれるよりも、神様の導きに従うよりも、人間的な考えを優先させようとします。

何とか、1ヶ月もの苦労の日々が無駄足とならないように、期待を裏切り、がっかりさせないように、人間的な策を弄し、頑張ってしまうものですが、そんな人間的な配慮を排除する、的確な指示であり、しもべに与えた使命は、アブラハムの命令ではなく、アブラハムを通して、神様から与えられた命令であり、それ故に、神様の助けがある事を明確に示し、神様の助けが得られないなら、御こころではないと判断しなさい、

成果が得られなくても、帰って来なさい、との指示を与えるのです。

24:9 それでしもべは、その手を主人であるアブラハムのももの下に入れ、このことについて彼に誓った。

【適応】

世の中、晩婚であり、少子化は一向に改善の見込みはなさそうです。

晩婚、少子化は、個人の考えを尊重する時代や文化を反映しての結果であり、決して子育てに良い環境、経済状況ではないのですから、一概に是非を論じる訳には行きませんが、

クリスチャン人口の少ない日本では、晩婚傾向、少子化を深刻な問題として受け止める必要はあるでしょう。

しかし、早く結婚しなさい、と言っているのでも、クリスチャンとでなくても結婚して良い、結婚してからクリスチャンにすれば良い、と言っているでもありません。

今日のテーマは、親の責任であり、親は、子のために、神の民の中から結婚相手を探さなければならないし、そのためには、非常な労苦と犠牲が伴いましょうが、神様が御使いを遣わしてくださる、と言う事です。

子どもの結婚について、産まれたら直ぐに、祈り始めなければなりません。

結婚適齢期になってから祈るようでは、遅すぎます。

20年、30年前から祈らなければなりません。

個人主義の社会であり、信仰を持つのも、持たぬのも、結婚相手を探し、選ぶのも、子どもの自由なのでしょうか。

子どもが自然に産まれたものであるならば、そうかもしれませんが、クリスチャン家庭の子どもは、教会に行こうが行くまいが、紛れもない神の民であり、信仰告白をしようがしまいが、紛れもない神の民であり洗礼を受けようが受けまいが、紛れもない神の民です。

子どもは神様から託されたものであり、紛れもない神の民です。

ですから、神の民として育て、教え、導き、守らなければなりません。

教会に行くように、信仰告白に至るように、養育しなければなりません。

勿論、子どもといえども人格があり、基本的人権は最大限に尊重されなければなりませんが、神の民として養育する責任は厳然として存在します。

幼いうちは、一緒に教会にも行くでしょうし、親の期待を感じて洗礼も受けるでしょうが、自我が確立するころになると、教会から離れる事も、信仰を捨てたかのように振舞う事も、珍しい事ではありません。

しかし、親は、どんな子どもでも、子どものために祈り続けなければならず、折にふれて、援助し、忠告し、また、生き様を見せ続けなければならないのです。

個人主義の時代ですから、親が子の結婚相手を決められはしませんが、祈るなら、祈りに答えて下さるのが、神様なのですから、祈ろうではありませんか。

教会が世の中の影響を受け、個人主義を尊重し過ぎてはなりません。

個人に任せてしまってはなりません。

子どもも、異性を意識するようになったなら、将来の結婚のために祈らなければなりません。

実感もなく、漠然とした祈りになるでしょうが、早過ぎる事はありません。

出会ってから祈ったのでは、遅すぎます。

教会も、クリスチャンホームが造られるように、クリスチャンホームの子どものために、将来の結婚相手のために祈らなければなりません。

それは、神の民、キリストのしもべに託された使命だからです。

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