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聖書箇所:創世記2512節から18節             2016-5-29礼拝

説教題:「アブラハムの子イシュマエルの歴史…敵対?」

【導入】

世の中は様々で、仲の良い兄弟もいれば、悲しい事に、仲違いしている兄弟もいます。

幼い時ほど、歳が近ければ近いほど、我慢が出来なかったり、譲れなかったり、何かの誤解から、兄弟喧嘩もしましょうが、それは社会の縮図であり、兄弟が何人かいると、何となくグループを作る事になりましょうが、グループを通して協力を学び、結束を学び、対抗し合う事を通して、闘争の仕方を学び、妥協への道筋を学びます。

ですから、仲の良い兄弟だと、歳の離れた兄弟だと、喧嘩もしない替わりに、色々な事を学ぶチャンス、悔しい思いや悲しい思いを体験するチャンスを逃す事になりましょう。

一生涯、喧嘩などしないのが理想でしょうが、喧嘩の経験はそれなりに貴重です。

叩かれた痛さを知り、叩く程度を経験する事が出来ますから、やり過ぎを防げます。

度を越した苛め、歯止めの利かない暴力沙汰なども、兄弟の少なさが一因、遠因かも知れません。

幼い頃に体験した事は、良い事も悪い事も無駄ではなく、経験していないと対処法を知りませんから、ちょっとした事がもとで拗れてしまい、中々解決が難しくなる事もあるようです。

(決して兄弟が多いのが良いとか、兄弟喧嘩を奨励している訳ではありません。

一人っ子もよいし、喧嘩しないにこした事はありません。

人間(兄弟)関係構築の難しさは、人間の罪に原因がありましょう。)

それでも、一族存亡の危機に際しては、一致団結協力しもするでしょうが、それは束の間の事であり、一度拗れた関係を修復する事の難しさは、古今東西変わらないようです。

アブラハムの子の内、イシュマエルの子も、イサクの子も、聖書に記されている通りに、其々に仲は良くなかったようです。

イサクの子、エサウとヤコブは神様の約束の子、契約の子でありながら、仲違いをし、イシュマエルは神様の約束を、人間的な方法で得た子であり、当初から問題を含んでいましたが、その影響からか、イシュマエルの子らも仲違いをするのです。

神様の約束に関わりを持つ子らが不仲なのは、対して、神様の約束に、全く関わらないケトラの子らが、まあまあ良好な関係を維持しているのは不思議です。

サタンは神様との関わりが深い者こそ、執拗に攻撃する事なのではないでしょうか。

今日はイシュマエルの歴史、イシュマエルの系図から、御こころを聞いてみましょう。

【本論】

25:12 これはサラの女奴隷エジプト人ハガルがアブラハムに産んだアブラハムの子イシュマエルの歴史である。

以前にもお話しさせていただきましたが、聖書は、重要な順に記述されているのではなく、時間経過順に記述されているのでもありません。

神様の主権で記されているのであり、人間が筆記者として用いられているのであり、当時の文化、当時の常識、当時の手法の影響を受けています。

しかも、日記のように数日の内に記したのでもなく、報告書のように検証しながら記録したのでもありません。

文字がなく、口から口に伝えられたのであり、それをモーセの時代以降に、文字におこしたのであり、捕囚時代に纏められました。

出来事が前後したり、抜けたりし、重複したりもしますが、神様がよしとされているのであり、意味があります。

系図で言えば、傍系の系図が、直接の契約の子の系図に先行しているのも、当時のユダヤ社会の一般的な手法であり、文化ですが、神様の契約の民、以外の人たちも、神様は決して無視されはしない事、見捨ててはいない事の現れであり、神様と無関係ではない事、神様との契約と無関係ではない事を教えています。

神様の業は、契約の民だけに限定されて起こり、記されるものなのではなく、全ての民、異邦の民のためである事が、このような記録の中に示され、現されているのです。

そして「イシュマエル」の意味は「神は聞いてくださる」ですが、人間の側の願いであると共に、神様のスタンスを現してもいますから、神様と人間との関係の永続性と堅持性、不変性を現しているのであり、何時でも、どんな状況でも、誰にでも、希望があり、慰めがあり、平安に繋がるのです。

25:13 すなわちイシュマエルの子の名は、その生まれた順の名によれば、イシュマエルの長子ネバヨテ、ケダル、アデベエル、ミブサム、

25:14 ミシュマ、ドマ、マサ

25:15 ハダデ、テマ、エトル、ナフィシュ、ケデマである。

25:16 これらがイシュマエルの子孫で、それらは彼らの村落と宿営につけられた名であって、十二人の、それぞれの氏族の長である。

13節から15節に、12人の名前が記されていますが、将来12の部族になる人々の名前です。

ユダヤ人社会において、イスラエル世界において「12」と言う数には意味があります。

神様の祝福の現れの、具体的な数であり、「7」と共に、完全、完成を表し、意味する数です。

旧約聖書ではヤコブ、イスラエルの12部族然りであり、ヨブ記3832節に「十二宮」と言う言葉が記されていますが、宇宙の全てを現す数として使われています。

新約聖書では12使徒があげられていますが、福音宣教に働きに携わるべき数、働きに必要な数を示しています。

他にも聖書では「7」や「12」の倍数が、意味ある数として記されています。

更に、イシュマエルの12部族は、イサクの子、ヤコブの子、12部族に対応する数となっています。

神様の契約の子と対立、対抗する部族なのか、協力、援助する部族なのかの判断は難しい所ですが、現時点での歴史は、対立、対抗する部族として記録、証言しているようです。

しかし、イエス様の十字架の和解が及ばない所、関係はないのですから、何時しか、イスラエル人とアラブ人の和解が実現し、世界平和に大きく貢献、寄与する事、イスラエル人とアラブ人が一致協力、援助し合い、神の国建設が大きく前進する事でしょう。

イシュマエルの子12人の名前は、そのまま部族の名前となり、アラビヤ西北部全体に大きく広がり、住み、支配し、地名となったようです。

ネバヨテ」は多くの羊を飼う部族と、「ケダル」は有力な部族と、「ドマ」はダマスコの南西、シリア砂漠にあるオアシスに関連し、「テマ」は西北アラビヤの著名なオアシスに関連していると考えられています。

地名は部族、氏族、個人の名前と関連しており、

単なる地名ではなく、広がり、支配し、生活していた人間の歴史の記録なのであり、聖書理解の助けになりますが、地名が必ずしも人物を特定している訳ではなく、似ている名前もありますから注意が必要です。

村落」は城壁のない集落であり、「宿営」は野宿をした場所であり、「ここ」と特定するのは難しく、「ドマ」と「テマ」だけが辛うじて特定できるようです。

25:17 以上はイシュマエルの生涯で、百三十七年であった。彼は息絶えて死に、その民に加えられた。

イシュマエルは、アブラハムの死後48年生き長らえ、137歳の寿命を全うしました。

この17節の表現と、先に学んだ8節のアブラハムに対する表現とでは、多少の違いがありますが、「息絶えて死に」と「民に加えられた」との表現は同じであり、この世での働きを終えて、死ぬべくして死んだのであり、神様に召されて死んだのであり、死んで朽ち果て、消滅してしまったのではなく、次なる段階、新しい世界のメンバーに「加えられた」事が明らかにされています。

先に、聖書記者の事に触れましたが、同じ文化、同じ社会だから、同じ表現が採用されたのではありません。

アブラハムの妻サラの葬りが創世記2319節に、デボラの葬りが創世記358節に、ラケルの葬りが創世記3519節に、リベカとレアの葬りが創世記4931節に記されていますが、単に「葬られた」と記されているだけです。

また、創世記1515節にアブラハムに対しての神様の預言が記されていますが、「あなた自身は、平安のうちに、あなたの先祖のもとに行き、長寿を全うして葬られよう」と記されており、「民に加えられよう」とは記されていませんから、男性と女性の扱いの違いではない事は明らかであり、また、イサクの葬りが創世記3529節に、ヤコブの葬りが創世記4933節に記されていますが、「息が絶えて」「自分の民に加えられた」と記されていますから、特定の個人に対しての宣言である事は明らかです。

民に加えられる」と言う表現が、如何に重要か、意味のある事かが明らかです。

イシュマエルが死んだ時、イサクは123歳です。

色々ありましたが、離れ離れに生活する事になってしまいましたが、一緒に父アブラハムを葬ったのであり、助け合って来たイシュマエルの死は、イサクにとって感慨深い思いがあったのではないでしょうか。

25:18 イシュマエルの子孫は、ハビラから、エジプトに近い、アシュルへの道にあるシュルにわたって、住みつき、それぞれ自分のすべての兄弟たちに敵対して住んだ。

ハビラ」はアラビヤの東南端であり、「シュル」はアラビヤの西南端と考えられています。

東の端から、西の端を表現しており、中東に住む者には、苦もなく理解出来る表現であり、北はユーフラテス川までの、広大な地域であり、広い範囲を活動領域としていた事を伺わせる記述なのです。

敵対して」を口語訳聖書では「」と訳し「すべての兄弟の東に住んだ」と訳しています。

このヘブル語は「~の前で」と訳される事が多いのですが、前置詞か、名詞かで、多様な訳の可能性があり、「~に従って」とも、「~に対抗して」とも訳せます。

何故「敵対して」と訳したかと言えば、創世記1612節に、「16:12 彼は野生のろばのような人となり、その手は、すべての人に逆らい、すべての人の手も、彼に逆らう。彼はすべての兄弟に敵対して住もう」との預言があり、

口語訳聖書も1612節は「敵して」と訳しているので、

18節も「敵対」と訳すのが、文脈にそった、整合性の取れた訳と言えるでしょう。

【適応】

しかし、「敵対」と言う言葉の持つイメージは、非常に強く、しかも険悪な意味の言葉なのではないでしょうか。

確かに、対立し、時に険悪な時期も度々あった事でしょうが、常に角突き合わせていた訳では、出遭えば喧嘩をしていた訳ではないでしょうし、そもそも、とてつもなく広大な地に、小さな群れが、分散、拡散していたのですから、衝突のしようがなかったのではないでしょうか。

先に、ヘブル語の意味を説明しましたが、元々の意味は「~の前で」とか、「~に従って」とか、「~に対抗して」等であり、「敵対」と言い切るまで強く、悪い意味はなさそうです。

それで、副題を「敵対?(クエッション)」とした訳です。

因みに、TEV(Today’s English Version)聖書では「ばらばらに」と訳し、NKJV(New King James Version)聖書では「~の前に」と訳しています。

日本語に訳した時点での、訳した方々の努力の結果ですから、完全否定はしませんが、「今の中東情勢の問題は、この敵対関係が原因だ」と断定するなら、それは短絡的過ぎであり、間違いであり、訳の責任は大きいと言わなければなりません。

遠因の一つになっているかも知れませんが、人間に内在する罪が原因であり、罪ある限り、過去も現在も、非常に良好な関係を維持して来たとしても、未来は判りません。

人間関係の良し悪しは、永続的ではなく、安定的でもありません。

「昨日の敵は今日の友」であり「今日の友は明日の敵」でないと、誰が保証出来るのでしょうか。

しかし、否定的に考え、捉えるところに、進展、希望はありません。

肯定的、楽観的に捉えるところに、進展、希望があるのではないでしょうか。

イシュマエルの子孫は「敵対して住んだ」のではなく、「適度な距離を置いて住んだ」のであり、「付かず離れず住んだ」と理解し、現代に適応するのが良いのではないでしょうか。

アブラハムの時代、土地は広く、町と町、村と村、集落と集落は、其々に離れており、家と家も隣接してはいませんでした。

密集するのは相当に後の時代になってからの事です。

人と人との関係も、精神的にも、物理的にも、密な部分もありながら、適度な距離を保っていたのであり、過度な緊張や、過干渉に陥らなかったのではないでしょうか。

「仲良き事は麗しき哉」を金科玉条にし、相手の心情を考慮せず、ずかずかと踏み込むようであってはなりません。

イシュマエルの子孫の生き方は、人を寄せ付けない、一戦交える事を躊躇しない、誰彼かまわず噛み付く狂犬のような、過激な生き方ではなく、聖書は、そんな否定的な生き方の例を紹介しているのではありません。

逆に、何時も何処でも何でも皆で一緒、を奨励しているのでもありません。

過密な現代、精神的にも、空間的にも、時間的にも余裕がない時代だからこそ、精神的にも、空間的にも、適度な距離を置いた、相手に過干渉しない、時間の余裕を持った生活を勧める御言葉として受け止めては如何でしょうか。

勿論「野生のろばのような人となり、その手は、すべての人に逆らい、すべての人の手も、彼に逆らう」べきではありませんが。人は人であり、同じように生きなければ、行動しなければならない訳ではありません。

違いを認め合う、違う生き方を受け入れ合う、違う考え方を尊重し合うべきであり、また、過密なスケジュールだからこそ、緊張を強いられる現代だからこそ、日曜日には、神様の前に出て、静まり、ゆっくりとした時間を過ごし、自身を見つめ、吟味すべきであり、緊張から開放される必要があるのです。

イシュマエルの子孫の生き方は、敵対の生き方、孤高の生き方、断絶の生き方ではなく、過度な人間関係から開放されて、神様との関係を重視する、神様との関係を密にする、神様との関係を吟味する生き方の奨励なのではないでしょうか。

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聖書箇所:創世記251節から11節             2016-5-22礼拝

説教題:「アブラハムの歴史…相続」

【導入】

「兄弟は他人の始まり」と申しまして、幼い頃には玩具や本の奪い合いをし、お菓子が多いの少ないので兄弟喧嘩をするのは、何処でも見られる兄弟の姿でしょうが、長じては助け合い、励ましあって、一族の命運のために協力し合うのも、何処でも見られる兄弟の姿であり、家族の姿であり、親族の姿でしょう。

しかし、普段は仲の良い兄弟でも、家族でも、親族でも、遺産相続となると、其々が権利を主張し、揉め事に発展するのは珍しい事ではなく、裁判沙汰になるケースも稀ではないそうです。

少子化が進んだ現代の、一人っ子が多数を占める日本でも、団塊世代の人々は兄弟が多く、高度成長時代の恩恵を受け、多少の資産を蓄えた親の死後の遺産相続は、現実の大きな問題となっているそうです。

財産と言うモノは、残したならば問題を起しかねないし、何も残さないのも親として不甲斐なさを感じる面倒なものでしょうが、それは親への依存の度合いに、子への依存の度合いに、そして個々人の自立の問題とも深く関わっている事なのでしょう。

欧米的な文化の思想では、親は親、子は子であり、残してくれたら助かるけれども、当てにはしてない社会のようです。

勿論、何処にでも例外はありますが。ユダヤ人は多産であり、兄弟の多かったアブラハムの時代、遺産相続は、そして、働きの相続はどう処理されたのでしょうか。

【本論】

25:1 アブラハムは、もうひとりの妻をめとった。その名はケトラといった。

アブラハムの正妻は「サラ」であり、サラに子が与えられなかったために、子を得るための、苦肉の策としてエジプト人の女奴隷「ハガル」を側めとして娶りましたが、更にもう一人、「ケトラ」を側めとして娶ります。

サラが生きている時か、サラの死後か、イサク誕生の前か、後か、意見、見解の分れるところですが、文脈や状況、アブラハムの年齢などを考えあわせると、サラ生存中、イサク誕生後、との見解が有力なようです。

「ケトラ」の意味は「香(こう)、かおり」だそうですが、命名は、現在の私たちの慣習とは、多少の違いがあります。

親は子の命名に際して、色々な願いを込めます。

ユダヤ人でも、多くの場合はその通りでしょうが、時に、聖書に登場する人物の名前には、不可解な名前が付けられている事があります。

ルツ記に登場するエリメレクの息子の名前はマフロンとキルヨンですが、その意味は其々、病める者、消え失せる者、であり

サムエル記第一25章に登場するナバルですが、その意味は、愚か者です。

こんな聖書の記述から、「名前ありき」ではなく、「…と、呼ばれるようになった」と言うケースもあったのではないでしょうか。

ケトラの名前も、その可能性がありそうで、子どもたちの生業に関連しているようです。

25:2 彼女は彼に、ジムラン、ヨクシャン、メダン、ミデヤン、イシュバク、シュアハを産んだ。

ケトラはアブラハムに6人の子を産みますが、アラビア地方を中心に、アラビア西北部、シナイ半島東部にかけて、広く分布して生活していたようです。

ケトラの子は、主に香料の取り引きに携わっていた人々、部族と考えられており、そこから「ケトラ」と呼ばれるようになったのではないでしょうか。

ケトラの子、子孫は、ハガルの子イシュマエルやイシュマエルの子孫と、心情的にも、即ち、側めの子であり、血統的にも、即ち、アブラハムの子であり、非常に近い関係にあり、地理的にも重なる地域で生活していたようです。

どの程度の関係性を持っていたのでしょうか。

創世記2518節には「25:18 イシュマエルの子孫は、ハビラから、エジプトに近い、アシュルへの道にあるシュルにわたって、住みつき、それぞれ自分のすべての兄弟たちに敵対して住んだ。」と記されています。

自分のすべての兄弟たち」の意味するところで、大きく違ってしまいますが、当初から敵対関係だったのか、ある時点から、何かを契機に敵対関係になったのかは不明ですが、女奴隷ハガルの子も、正妻サラの子も、側めケトラの子も、アブラハムの子、子孫であり、世界の祝福の基としての働きを委ねられている身分でありながら、血縁の中でさえ友好関係を築けなかったのは残念です。

友好関係を築けなかっただけでなく、敵対関係になってしまったのであり、それが現在にまで続き、中東の政情不安に繋がっているのですから、何とも言いがたい、残念なところです。

それでも、アブラハムが「多くの国民の父となる」と言う約束が具体化し始めたのは確かであり、祝福であり、敵対関係は、神様のお働きよって、必ず解決しますから、和解しますから、子孫が増える事は好ましい事であり、希望に繋がる事なのであり、喜ばしい事でありましょう。

25:3 ヨクシャンはシェバとデダンを生んだ。デダンの子孫はアシュル人とレトシム人とレウミム人であった。

25:4 ミデヤンの子は、エファ、エフェル、エノク、アビダ、エルダアであって、これらはみな、ケトラの子孫であった。

シェバ」は紅海沿岸で活躍したアラブ商人の部族であり、「デダン」も同じ地域で、遊牧による交易に関わっていた部族であり、ケトラの子や子孫同士は、そこそこの良好な関係を保っていたようです。

25:5 アブラハムは自分の全財産をイサクに与えた。

ここで、アブラハムの全財産の相続について記されていますが、「イサク」だけが正当な子であり、正式な跡取であり、相続の権利があり、ハガルの子は、奴隷の子であり、ケトラの子は、側めの子であり、正当な跡取ではなく、相続の権利はありません。

父が認めない限り、相続財産の分配に与れませんが、父が死ねば、自由の身分になるのであり、それが大きな恩恵と言えるでしょう。

25:6 しかしアブラハムのそばめたちの子らには、アブラハムは贈り物を与え、彼の生存中に、彼らを東のほう、東方の国にやって、自分の子イサクから遠ざけた。

アブラハムは、ハガルの子ら、ケトラの子らに、自由の身分を与えるだけではなく、自立、自活のための配慮を怠らず、過分な贈り物を与えます。

それは、イサクに対する妬みを起させないための配慮であり、イサクとは、相当の遠距離の所に住まわせます。

それは、イサクの地位に混乱が起きないための配慮であり、イサクと生活圏が交わる事から生じる、牧草地争い、泉争いなどを避けるための配慮でしょう。

しかし、受ける資格の無い者が、恵みによって過分な贈り物を受けたのであり、神様の祝福の基としての働きは、既に始まっているのです。

神様の約束の子、アブラハムに与えられる契約の子は、イサク一人であり、アブラハムの子ら、ではない事を明らかにする、アブラハム自身の自覚の現れからの行動でもありましょう。

約束の子が与えられるまでに、紆余曲折ありましたが、約束の子はイサク、唯、一人であり、異母兄弟と分ける事が、離れさせる事が必要であると判断しての行動なのです。

兄弟は、協力も得られ易い反面、反感も買い易い、微妙な存在です。

適度な精神的距離、物理的距離を置く事は大切であり、後顧の憂いとならないようにしておくのが、賢明な策と言えるでしょう。

何故ならば、相続は財産だけでなく、働きも相続するのであり、神様から与えられた働きは、誰と協力しても良い働きではなく、誰の助けを得ても良い働きでもありません。

神様に召された者だけの働きであり、神様だけに拠り縋らなければならない働きだからです。

神様と関わりを持たない者との協力は、一線を引くべきであり、安易、安直な協力を求めてはならず、もし、受け入れとしても、慎重であらねばなりません。

25:7 以上は、アブラハムの一生の年で、百七十五年であった。

この時点で、イシュマエルは89歳、

イサクは75歳であり、イサクの子エサウとヤコブは15歳になるまで成長していたのであり、アブラハムは働きを引き継ぐ正当な子、孫を得て、安心して、死を迎えるのです。

25:8 アブラハムは平安な老年を迎え、長寿を全うして息絶えて死に、自分の民に加えられた。

この8節を、

新共同訳聖書では「アブラハムは長寿を全うして息を引き取り、満ち足りて死に、先祖の列に加えられた。」と訳し、

口語訳聖書では「アブラハムは高齢に達し、老人となり、年が満ちて息絶え、死んでその民に加えられた。」と訳してます。

単語に微妙なニュアンスの違いがありましょうが、意味に大きな違いはなく、異口同音に表現するところは、単に長寿だったとか、寿命が来て死んだのではなく、

神様が、アブラハムのために計画された事の成就として、結果として、完成として、死を迎えた、否、死を与えられた、と言う事なのです。

死は、命の付与者、命の主権者である神様から与えられるものなのであり、自然に迎えるものでもなく、決して選ぶものではありません。

死ぬ時は、神様が決められるのです。

勝手に死んではならないし、勿論、殺してもなりません。

アブラハムは75歳の時に、神様の命令によってハランを出立し、その生涯は流浪の旅、波乱万丈の生涯でしたが、100年目に死を与えられたのであり、しかも、終わりの時も、神様のご計画で、平安の内に死を与えられました。

生物として死を与えられましたが、「自分の民に加えられた」のであり、死は終りではなく、次なる段階に入った事を暗示しているのです。

人の一生は、死で終わるものではありません。

この世での働き、活動は終わり、肉体は朽ちるでしょうが、この世とは違う世界があるのであり、そこに置かれるのであり、先祖、父祖に加えられるのであり、違う世界に、肉の眼では見えない世界に、死者が存在し続けている事を指し示しているのです。

新しい身体が与えられ、新しい働き、活動、新しい使命がある事を指し示しているのであり、この世での働きは、イサクに引き継がれ、アブラハムは退かされるのです。

25:9 彼の子らイサクとイシュマエルは、彼をマクペラのほら穴に葬った。このほら穴は、マムレに面するヘテ人ツォハルの子エフロンの畑地の中にあった。

25:10 この畑地はアブラハムがヘテ人たちから買ったもので、そこにアブラハムと妻サラとが葬られたのである。

死者を葬る事は、死者との決別であり、特に、親との死別と埋葬は、自立の確認であり、働きの継承を確認する大切な儀式と言えるでしょう。

埋葬を通して、父アブラハムの働きの終りを確認し、働きの継承を確認するのです。

補佐役は何人いてもかまいませんが、頭は一人でなければならず、全責任を負って、一族を導き、働きを継承し、世界を祝福しなければならないのです。

イシュマエルの子孫が、全ての兄弟たちと敵対するようになるのは、まだまだ先の事であり、イサクとイシュマエルは協力し、父アブラハムを埋葬しますが、ここに、ケトラの子らは登場しません。

神様の約束の子イサクと、約束を人間的な考え、手段で得た子イシュマエルとは、大きな違いがありますが、それでも、神様の約束には深く関わっています。

しかし、ケトラの子は、残念な事ですが、神様の約束とはかけ離れています。

その意味で、神様との約束には関われず、アブラハムの埋葬にも関われないのではないでしょうか。

イサクこそがアブラハムの働きの、正当な継承者であり、イシュマエルや、ケトラの子は、其々に区別されるのでしょう。

しかし、アブラハムの子である事に変わりはなく、多くの国民となる祝福に与れるのです。

25:11 アブラハムの死後、神は彼の子イサクを祝福された。イサクはベエル・ラハイ・ロイの近くに住みついた。

アブラハムへの祝福が、イサクに引き継がれた事を現す記述ですが、同時に、アブラハムの働きが、世界を祝福する働きが、イサクに継承された事を暗示する記述です。

祝福と働きは不可分の関係です。

祝福を受けると同時に、祝福を与えるのであり、祝福の執り成し手となるのであり、祝福を受けるのみで、祝福を与えないのは神様の御こころではありません。

多く受けた者は、多く与えなければならず、多く与えた者には、多くの祝福が与えられるのです。

イサクの住む、ベエル・ラハイ・ロイは、塩の海の西50kmほどの所にありますが、遊牧民であるイサクは、塩の海を何度も訪れ、何度も眺めたのではないでしょうか。

本来、湖と言う存在は、命を育む存在ですが、塩の海が受けるのみで、注ぎ出す事をしないがために、死の海となった事に符合するのではないでしょうか。

【適応】

今日のテーマは相続であり、神様の祝福がアブラハムからイサクに相続された事、世界を祝福すると言う働きが、アブラハムからイサクに相続された事です。

アブラハムとイサクとの関係においては、アブラハムの死によって、祝福と働きが明確に、完全にイサクに引き継がれました。

アブラハムとイシュマエル、ケトラの子らとの関係においては、彼らを遠ざける事によってイサクと区別された事が明らかです。

働きは継続、継承されるものですが、完全な引継ぎと、引継ぐべき者と、引き継がざる者との区別が大事であり、更に、両者を分離させる事が大切である事を教えられます。

心配でも、頼りなくても、引き継いだ以上、委ねた以上、以降は関わってはならず、頼られてもなりません。

その意味でも、死と言う、厳然たる事実は、後戻り出来ないのであり、手出しも、口出しも出来ませんから、委ねるしかありません。

別の言い方をするならば、引き継いだ以上は、関わってはならず、終止符を打たなければならない、関係を切らなければならない、と言う事なのです。

神様の主権によって引き継ぎながらも、勝手に後見人になったり、ご意見番になったり、補佐役に廻ったり、は神様の御こころではありません。

神様から与えられた働きは、其々の働きであり、其々に与えられた賜物を用いる働きです。

真似をする必要はないし、同じようにやらせる必要もありません。

神様がイサクに相続させた働きですから、イサクはアブラハムにお伺いを立てる必要はないし、常に神様との関係で働き続ければよいのです。

そして、イシュマエルが年長でも、ケトラの子たちが有能でも、神様からイサクに相続させた働きですから、関わりはないのです。

そのためにも、明確な一線を引く事、距離を置く事は重要です。

親族の情や友情は、それはそれで大切なものですが、事、神様から与えられた働きに関しては、手出し、口出し、無用です。

ここで、注意しなければならないのは、誰とも協力してはならない、一切の関係を持ってはならない、と言う事ではありません。

働きの「相続」に関してであり、働きはアブラハムからイサクに相続されるのであり、イシュマエルも、ケトラの子らも、相続者ではない、相続に関しては関係ない、と言う事です。

神様がアブラハムに与えた、世界を祝福すると言う働きは、稀有な働きであり、特殊な働きであり、神様に選ばれた者だけがなし得る働きです。

「神様に選ばれた者」か否かが重要であり、有能か無能か、善人か悪人か、欠点があるか否か、等は関係ありません。

アブラハムもイサクも大きな欠点を持っていますが、神様に選ばれて、神様の憐れみによって祝福を受け、神様の選びによって世界に祝福を取り次ぐのです。

ここにおられる皆様は、初代の立場の方もいらっしゃれば、二代目、三代目の立場の方もいらっしゃいましょうが、祝福の相続人なのであり、神様に選ばれ、憐れみと祝福を受け、世界を祝福し、その働きを、次ぎの世代に相続させる事が期待されているのです。

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聖書箇所:創世記2452節から67節             2016-5-15礼拝

説教題:「主から出た事に直ぐに従う」

【導入】

親には、子どもの結婚に関して大きな責任がある事、相応しい結婚相手を探さなければならない事を確認して来ました。

それは、子孫を残す事であり、子孫によって働きを継承する事であり、子孫に信仰を継承する事です。

子孫については、実子である必要も、血縁である必要もなく、霊的な子、霊的な子孫を産み、育て、残す事も含まれるでしょう。

パウロには、実子が居たと言う記録がありませんが、テモテを「我が子」と呼び、信仰を継承し、牧会の働きや、伝道の働きを継承したのであり、それが現在にまで引き継がれ、継承されているのです。

アブラハムに与えられた、神様からの使命は、世界に祝福をもたらす事です。

その働きのために、子孫が与えられるのですから、子孫を与えられる段階から、神様のご介入があり、導きがあるのは当然であり、必然です。

アブラハムの息子イサクの嫁を探すと言う、非常に重要な使命を与えられたしもべですが、神様の助けがあって、800km以上、一ヶ月近い過酷な旅路が守られたのであり、神様の導きがあって、アブラハムの親族の、結婚適齢期の女性と出会え得たのです。

親戚とは言え、大事な娘を、可愛い妹を、二度と会えないであろう、遠方の地に嫁がせるのは、並々ならぬ決心が必要であり、逡巡があり、葛藤があった事でしょうが、神様のご介入があって、創世記2425

24:50 するとラバンとベトエルは答えて言った。「このことは【主】から出たことですから、私たちはあなたによしあしを言うことはできません。

24:51 ご覧ください。リベカはあなたの前にいます。どうか連れて行ってください。【主】が仰せられたとおり、あなたの主人のご子息の妻となりますように。」

との告白になったのです。

一件落着、目出度し目出度し、大団円を迎えるかに思われますが、リベカの気持ちや考えは如何でしょうか。

アブラハムの時代、女性の地位は思うほどに低くはなく、女性の意見が無視される事はなかったようです。

アブラハムに子どもが与えられなかった時に、サラが、サラの女奴隷ハガルをアブラハムに与えますが、サラが言い出した事であり、色々な状況下において、サラに主権があり、サラの意見や考えが尊重されていました。

結婚の受諾に関しても、父や兄の承諾が必要であると同時に、本人の同意が必要不可欠の条件であり、最終的には本人次第なのです。

しかし、父や兄の承諾を得た事は、大きな山を越えた事は事実であり、24:51 ご覧ください。リベカはあなたの前にいます。と記されている通り、同席し、全ての経緯を知っているリベカですが、リベカの拒否が記されていないのですから、同意を得たと言う事であり、この結婚話は一件落着、目出度し目出度し、大団円となったのです。

【本論】

24:52 アブラハムのしもべは、彼らのことばを聞くやいなや、地にひれ伏して【主】を礼拝した。

アブラハムのしもべの祈りは、これで3度目ですが、私たちに、祈りの必要性と、タイミングを教えていましょう。

物事に取り組む前に祈るのは当然であり、全てが終わって、一息付いてからでも遅くはありませんが、「聞くやいなや」祈る事は大切、重要、必要です。

祈りには幾つかの効用があります。先ずは、神様の栄光のためにであり、自分自身のためにである、と言う事です。一日の終りに、思い出して、数え上げ、感謝するのも非常に有益な事ですが、感謝は篤いうちに献げるのが、生きた信仰の発露であり、信仰はリアルタイムなのではないでしょうか。

そして、関わる人のためにである、と言う事です。関わる人が信仰者であろうと、未信者であろうと、異教の信者であろうと、関わる人に、唯一真の神様を礼拝する姿を、唯一真の神様に祈る姿を見せる事は有益であり、信仰者ならば、励ましになるでしょうし、手本、教育になります。未信者、異教の信者であるならば、自然な伝道、証しになります。

しもべの祈りは、神様が全てであり、神様が中心である事を、関わる人々、ラバンに、ベトエルに、リベカに強く印象付けた事でしょう。

24:53 そうして、このしもべは、銀や金の品物や衣装を取り出してリベカに与えた。また、彼女の兄や母にも貴重な品々を贈った。

銀や金の品物や衣装」や「貴重な品々」は結納の品々でしょうが、アブラハムの資産に相応しい金品であり、アブラハムの使命、即ち「世界の祝福の基」としての、物心両面においての祝福であり、霊的にも、現実的にも祝福される事が示されているのです。

24:54 それから、このしもべと、その従者たちとは飲み食いして、そこに泊まった。朝になって、彼らが起きると、そのしもべは「私の主人のところへ帰してください」と言った。

盛大な持て成しを受け、夜も更けるまで祝宴が続いた事でしょうが、翌日に影響するような飲食はしなかったようであり、ここにもアブラハムのもべの誠実さ、品格が滲み出ていましょう。

長旅の疲れを解消するために暫しの休息を取りたくなるのは、重要な使命を滞りなく果たした安堵から、ほっと気の緩むのは当然の成り行きであり、羽目を外す飲食に陥り易い状況でしょうが、日の出と共に起きたのであり、帰りの旅のために、暫らくの静養を取りたくなるのは当然の欲求でありましょうが、アブラハムから与えられた使命は、「イサクの嫁を連れ帰る」事であり、まだまだ使命の途上であり、使命は完了していません。

のんびりと過ごす訳には行かず、アブラハムの下に帰らせてくださいと申し出ます。

24:55 すると彼女の兄と母は、「娘をしばらく、十日間ほど、私たちといっしょにとどめておき、それから後、行かせたいのですが」と言った。

ラバンたちの申し出は、親しい家族との別れに際しての当然起こり得る要求であり、リベカ自身の心の整理、身支度、結婚の準備、親しい友人との別れなどなど、どれも大切であり、疎かにしては、いい加減にしてはならない事ではありますが、常に、必ず、何処でも、何を犠牲にしても、優先させるべき、との考えに固執してはなりません。取捨選択が必要であり、優先順位を付けなければならず、時に大きな犠牲を甘んじて受ける決断をしなければならない時がある事を、日頃から意識しておく事が大切でしょう。

イザと言う時に慌てないように、冷静な判断、的確な決断が出来るようにしておかなければなりません。そんな非常時、緊急時を想定した生き方、考え方は、当事者、双方に当て嵌まる事です。

ラバンたちの要求は、決して不当な要求でも、過度な要求でも、無理難題でもありませんから、そのまま受諾する事はなくても、「では四~五日後に帰らせてください」との譲歩案が提示される場面でしょうが、しもべははっきり、きっぱり、

24:56 しもべは彼らに、「私が遅れないようにしてください。【主】が私の旅を成功させてくださったのですから。私が主人のところへ行けるように私を帰らせてください」と言った。

しもべはアブラハムの信任を得た人物であり、相当の裁量が、或いは権限が、与えられている事でしょう。

ここで、人間が犯しやすい、裁量に関しての勘違いに言及したいと思いますが、信頼されていても、自由裁量が許されている訳ではない、と言う事です。

裁量の制限が無い事が、明確に示されているなら別ですが、裁量の範疇を超えた事に対しては、勝手な判断をしてはならず、妥協も譲歩もしてはならず、指示された事以外は、些細な事か否かの判断も含めて、主人の指示を仰がなければなりません。

常に、与えられた裁量、権限よりも、主人の意向が絶対である事を意識し、与えられた裁量、権限の中であっても、主人の意向を尊重しなければならず、背後で働き、助け、導き、ご介入して下さった神様の主権を尊重しなければならず、明確な、毅然とした態度と、言葉こそが、事態を正しい道に、解決に導くのです。

24:57 彼らは答えた。「娘を呼び寄せて、娘の言うことを聞いてみましょう。」

娘や妹の結婚に対して、大きな権限を持つ父や兄であり、両親や兄が、娘や妹の結婚に対して責任を持ち、結婚を取り仕切っていましたが、同時に、本人の同意が必要不可欠の条件であり、最終的には本人次第なのであり、リベカの自由意思を奪っていない事、リベカの判断に委ねている事に注目しなければなりません。

24:58 それで彼らはリベカを呼び寄せて、「この人といっしょに行くか」と尋ねた。すると彼女は、「はい。まいります」と答えた。

リベカの資質は、アブラハムのしもべとの出会いや、しもべの依頼の時に、遺憾なく発揮されましたが、ここでも、別な面の資質が発揮され、悩む事なく、逡巡する事なく、はっきりと受諾の意を述べます。

【導入】の最後でふれましたが、リベカは言葉には出していませんが、イサクとの結婚を受諾しているのであり、一晩の時間の経過の中で、家族たちとアブラハムのしもべらの宴席を、漫然と眺めていたのではなく、無為に過ごしたのではなく、リベカ自身の心の整理、身支度、結婚の準備、親しい友人との別れなどなどに、対処していたのではないでしょうか。

否、何時でも嫁げるように、常から準備を怠っていなかったからこその、決断、応答だったのではないでしょうか。

準備OK、と言いながら、その場になるとあたふたするのが人間であり、まだまだ先の事だと思うのが、人間の性かも知れませんが、切羽詰らないと真剣にならないのが、人間の弱さなのかも知れませんが、リベカは備えをしていたのであり、備えが出来ていたのであり、だからこそ、神様に選ばれ「世界の祝福の基」としての働きに召し出されるのです。

24:59 そこで彼らは、妹リベカとそのうばを、アブラハムのしもべとその従者たちといっしょに送り出した。

リベカの乳母とは、デボラの事であり、創世記358節に記されていますが、ベテルで天に召されるまで、イサクやヤコブに仕える事になります。

24:60 彼らはリベカを祝福して言った。「われらの妹よ。あなたは幾千万にもふえるように。そして、あなたの子孫は敵の門を勝ち取るように。」

この祝福の言葉は、驚くべき言葉であり、創世記2217節に記されている、主の使いの言葉と、非常に似た言葉であり、主の使いと同じ事を、アブラハムの親族が宣ベている事です。

前半は、多産と子孫繁栄の祈りであり、後半は、勝利の祈りです。

娘や妹を嫁がせる時の、常套句かも知れませんが、普遍的には、クリスチャンが増え広がる事と、キリストの勝利の宣言です。

アブラハムは、モリヤの山でイサクを献げた時に、御使いから、多産と子孫繁栄と、勝利の宣言の言葉を聴いたのであり、イサクが結婚するに際して、しもべの報告として、同じ祝福を聴く事になりますが、この符合に、約束の確実性と、不変性とを、強く確信した事でしょう。

24:61 リベカとその侍女たちは立ち上がり、らくだに乗って、その人のあとについて行った。こうして、しもべはリベカを連れて出かけた。

聖書は簡潔に、たった一行で述べていますが、800km以上、通常でも一ヶ月近くを必要とする旅であり、帰路は女性を伴っての旅ですから強行軍と言う訳には行かず、何事も起こらなかった訳ではないでしょう。

きっと、数々の苦労があった事でしょうが、神様の守りがあり、無事に、帰郷する事になるのです。

24:62 そのとき、イサクは、ベエル・ラハイ・ロイ地方から帰って来ていた。彼はネゲブの地に住んでいたのである。

地理関係を確認しましょう。巻末の地図「12部族に分割されたカナン」の下の方に、赤い字で「シメオン」と記されていますが、「ン」の字の上に「ベエル・シェバ」が在り、「ベエル・シェバ」の近くに「ベエル・ラハイ・ロイ」が在ったようですが、現在では特定出来ないようです。「ネゲブの地」は「シメオン」と「ユダ」を含む広い地域であり、イサクは遊牧民として、広大な地を住みかとし、一時的な滞在地から帰って来ていたのでしょう。

24:63 イサクは夕暮れ近く、野に散歩に出かけた。彼がふと目を上げ、見ると、らくだが近づいて来た。

24:64 リベカも目を上げ、イサクを見ると、らくだから降り、

24:65 そして、しもべに尋ねた。「野を歩いてこちらのほうに、私たちを迎えに来るあの人はだれですか。」しもべは答えた。「あの方が私の主人です。」そこでリベカはベールを取って身をおおった。

しもべの身分は、今も変わらずアブラハムのしもべですが、しもべは、創世記2436節で、アブラハムはイサクに全財産を譲っていると、明言しており、それを前提、根拠として、イサクを紹介しているのであり、アブラハムの死を暗示しているのではありません。

ベール」は未来の夫の前で、顔を被うための物です。「婚約と結婚のしるし」であり「あなたと婚約しています、将来あなたと結婚します」との意思表示の意味があるようで、現在のムスリムの服装規定、髪を被うスカーフ等や、全身を被うアバヤとはかなり意味が違うようです。

24:66 しもべは自分がしてきたことを残らずイサクに告げた。

報告は、しもべとしての当然の義務であると共に、これからのイサクの歩み、働きのために必要な情報を告げるのです。

結婚への神様のご介入、導き、助けがあった事を知ってもらわなければならず、リベカの人柄、真実さを知ってもらわなければならず、結婚に際しての、神様との関係、即ち、神様の主権を認めなければならず、結婚相手との関係、結婚相手に求めるものは、神様の導きに対する応答性であり、神様の主権に対する尊重であり、この一致が最重要なのであり、結婚と言う、重大な決断のプロセスを知り、体験する事は非常に重要であり、結婚に限定されず、全生活、全生涯、信仰生活の一致に繋がるプロセスなのであり、神様と共に生きる事に繋がるプロセスなのです。

しもべの報告は、この事ゆえに、重要なのです。

24:67 イサクは、その母サラの天幕にリベカを連れて行き、リベカをめとり、彼女は彼の妻となった。彼は彼女を愛した。イサクは、母のなきあと、慰めを得た。

サラの使っていた天幕は、サラの死後、主、不在でしたが、サラの使っていた天幕にリベカが入った事により、サラの後を継いだ事、一族の女の主人になった事を名実ともに示す事になるのです。

一族全体の主人、女を纏める女主人、しもべらを纏めるしもべの頭が揃い、アブラハム一族は繁栄の緒に就く事になるのです。

67節から、結婚のプロセスについての重要な点を確認したいと思います。

現代の結婚の順番は、好きになって結婚、が略(ほぼ)100%でしょうが、67節の教える所は、イサクとリベカの結婚の経緯の総括であり、「めとり」「愛した」なのであり、この順番が重要です。神様の主権によって出遭わせられた人と結婚し、愛し、愛を育んで行くのです。更に解説を付け加えるならば、「めとり」も「愛した」も継続の動詞であり「めとり続け」「愛し続け」なければならないのです。

又、「めとり」は受動態の動詞であり、「めとれら」るのであり、「めとった」ではなく「めとってもらった」の意識を持ち続けるべきなのです。こんな私をめとってくれた、の意識は、こんな私を救ってくださった、赦してくださった、に繋がりますから、救いや赦しの本質に深く関わる事なのです。そして、結婚生活を維持するために、不断の自制と、謙遜が必要である事を教えている一節なのです。「結婚」を維持し、「愛し」続けなければならず、極端な言い方をしますが、何を犠牲にしても結婚を永続させ、愛さなければならないのです。意見の相違や、喧嘩もするでしょうが、結婚維持のための努力と犠牲を惜しんではならず、結婚生活と夫婦愛のためには何を犠牲にしても良いし、犠牲にすべきなのです。夫婦に取って替わるものは、この世に存在しないからです。

【適応】

本日の説教題「主から出た事に直ぐに従う」事は、簡単な事では在りません。

口では簡単に言えますが、実際となると簡単な事では在りません。

人とのしがらみがあり、社会とのしがらみがあります。自分自身との問題もあります。

多分、自分自身の問題が一番大きく、一番強く、一番厄介なのではないでしょうか。

家族の反対もなく、友人の反対もなく、信頼する人の反対もなく、皆が賛同してくれても、結局の所、本人の決断が中々なのであり、難題なのです。

このことは【主】から出たことですから、私たちはあなたによしあしを言うことはできません。」前回は家族、関係者についてを扱いましたが、関係者は勿論の事、家族であっても、所詮は他人であり、他人事だからこそ、神様の前に、正しい判断、決断が出来るのであり、逡巡も、葛藤もないのですが、自分自身の事となると、解っていても出来ないし、従えないのではないでしょうか。

何も情報がなければ尚更ですが、リベカの場合には、アブラハムのしもべとの出遭いがあり、家族の同意が得られ、アブラハムのしもべの告白から、この結婚話が、神様の主権の中にあると確信出来たのであり、且、神様の眼に止まり、アブラハムに委ねられた使命の、大きな働きを担うために召されるような、資質があった事を見逃してはならないでしょう。その資質は、昨日今日出来たような、付け焼刃的な資質では在りません。

旅人を助ける資質、しかも、快く、犠牲を惜しまず仕えたのであり、隅々にまで行き届いた配慮があり、旅人のみならず、家畜の必要にまで行き届いた配慮が、自然に出来るのであり、宿を提供し、家畜の寝床、餌にまで配慮出来るのは、教えられて出来る事ではなく、しっかりと身に付いていてこそです。

重要なのは普段の生活で培われる資質であり、現実には人に仕え、人を持て成しますが、背後におられ、見ておられる神様を意識した生活を送って来ているからこそ、誰彼の区別なく仕え、損得などなく持て成す行き方が身に付いていたからこそ、神様の召し、結婚と言う未知の召しに、即応出来たのです。

リベカの普段の生き方が、結実したからこそ、神様から出た事に直ぐに従う事が出来たのです。

生活の営みの全てが、神様から出た事と決め付けるのは如何なものかと思いますが、常に、神様との関係を考えるのは大切な事であり、唯一の神様を信じる者の、必須の資質の一つでしょう。

神様の召しに気付かず、見逃す失態をしてはなりませんが、見逃さない秘訣は、常日頃の神様との関係の深さ、広さ、大きさにあるのです。

事象は突然やって来るかも知れませんが、普段が事象に正しく対処する秘訣です。

神様の召しに応じる備えとしての生活を送っているでしょうか。

人間の力や努力、知恵では限界があり、続けるのは難しいでしょう。

しかし、私たちにはペンテコステ以来の、聖霊様の助けがあります。

聖霊様に留まっていただき、神様の召しに応じる、幸いな人生を歩もうではありませんか。

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聖書箇所:エペソ人への手紙61節から9              2016-5-8礼拝

説教題:「主にある関係の祝福」

説教者:河野 優 牧師 (説教は非掲載です

【聖書】

6:1 子どもたちよ。主にあって両親に従いなさい。これは正しいことだからです。
6:2 「あなたの父と母を敬え。」これは第一の戒めであり、約束を伴ったものです。すなわち、
6:3 「そうしたら、あなたはしあわせになり、地上で長生きする」という約束です。
6:4 父たちよ。あなたがたも、子どもをおこらせてはいけません。かえって、主の教育と訓戒によって育てなさい。
6:5 奴隷たちよ。あなたがたは、キリストに従うように、恐れおののいて真心から地上の主人に従いなさい。
6:6 人のごきげんとりのような、うわべだけの仕え方でなく、キリストのしもべとして、心から神のみこころを行い、
6:7 人にではなく、主に仕えるように、善意をもって仕えなさい。
6:8 良いことを行えば、奴隷であっても自由人であっても、それぞれその報いを主から受けることをあなたがたは知っています。
6:9 主人たちよ。あなたがたも、奴隷に対して同じようにふるまいなさい。おどすことはやめなさい。あなたがたは、彼らとあなたがたとの主が天におられ、主は人を差別されることがないことを知っているのですから。

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聖書箇所:マルコの福音書1112節から14節、19節から21       2016-5-1礼拝

説教題:「イエスに呪われたイチジクの木」

説教者:野寺 恵美 牧師 (説教は非掲載です

【聖書】

11:12 翌日、彼らがベタニヤを出たとき、イエスは空腹を覚えられた。
11:13 葉の茂ったいちじくの木が遠くに見えたので、それに何かありはしないかと見に行かれたが、そこに来ると、葉のほかは何もないのに気づかれた。いちじくのなる季節ではなかったからである。
11:14 イエスは、その木に向かって言われた。「今後、いつまでも、だれもおまえの実を食べることのないように。」弟子たちはこれを聞いていた。

 

11:19 夕方になると、イエスとその弟子たちは、いつも都から外に出た。
11:20 朝早く、通りがかりに見ると、いちじくの木が根まで枯れていた。
11:21 ペテロは思い出して、イエスに言った。「先生。ご覧なさい。あなたののろわれたいちじくの木が枯れました。」

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