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聖書箇所:創世記2612節から22節             2016-6-26礼拝

説教題:「祝福への妬み」

【導入】

鬱陶しい、梅雨の最中であり、連日の激しい雨脚に、土砂災害が現実の脅威となっている地域があり、片や、貯水ダムの貯水量が減少し、日々最低記録を更新している地域もあり、取水制限や、供給制限が目前の昨今です。

雨は地域、時間、ともに集中して降れば、災害をもたらす、厄介な現象でありますが、逆に、長期に渡って降らなくても、広範囲に降らなくても、旱魃をもたらす、困った現象です。

適度な量が、万遍なく降ってくれるなら、恵みをもたらすのであり、大歓迎ですが、そう都合良くは行かないようであり、だからこそ、人間は貯水池を作ったり、ダムを作ったり、堤防を作ったり、用水路を作って、飲用水を確保し、灌漑用水を確保しつつ、災害を防ぐのですが、貯水池やダム、堤防や用水路を作るようになるのは、土木技術の発展するまで待たなければなりません。

ですから人々は、自然に涌き出る泉を探し、底を掘り広げ、整備し、また、井戸を掘って、飲用水を確保するのですが、水は貴重な資源でもあり、争奪戦になる事も、珍しい事ではありません。

今日はイサクのエピソードから、御こころを聞いてみましょう。

【本論】

26:12 イサクはその地に種を蒔き、その年に百倍の収穫を見た。【主】が彼を祝福してくださったのである。

イサクの判断、即ち、ゲラルに住む人々は、性的に乱れた人々であり、欲望を満たすためには人殺しも辞さない乱暴な人々だ、との判断は思い込みであり、結果として杞憂に終わったのですが、背後に神様の備えと守りとが在ったのであり、ゲラルの王アビメレクの強力な保護を得て、安心してゲラルに滞在する事を得たイサクであり、神様、王様、二重の保護を得て安心して生活する事が出来、農業の面において「百倍の収穫を見」る事になります。

しかし、これは当然の結果ではありません。

ゲラルの年間降水量は300mm程度であり、しかも、不安定であり、井戸への依存の度合いは大変大きい。

因みに、日本の降水量ですが、2014年の統計では、最上位が高知県の3659mm、最下位が長野県の902mm、全国平均は1757mmです。

最下位の長野県でもゲラルの3倍ですから、ゲラルは決して水に恵まれた地ではないのであり、ゲラルで「百倍の収穫を見」るのが、当たり前なのではない事を、神様の守りと祝福があってこそである事を、覚えて頂きたいのです。

神様の守りと祝福の結果である事は、当時の農耕の仕組みを知る事で、更に明らかになりましょう。

当時の農耕の仕組みは、本格的な、近代的な農耕、即ち、「多くの収穫を期待して、注意深く世話をしていた」のではなく、種を入れた袋をロバに背負わせ、袋に穴を開けて歩かせ、ポロポロと、零れ落ちる事で種蒔きとする、或いは、適当にブワッ、ブワッと、撒き散らす事で種蒔きとする、何とも計画性の無い、いい加減、適当な方法であり、肥料をやるでもなく、間引くでもなく、特別な世話をするでもなく、自然が育てるに任せるのであり、種蒔きから数ヶ月後、収穫の時期になると、種を蒔いた所に行って、結果を見る、程度の農業形態だったのですから、聖書に記されている通り「百倍の収穫を見た」のであり、神様の守り、神様の恵み、神様の祝福なのです。

26:13 こうして、この人は富み、ますます栄えて、非常に裕福になった。

26:14 彼が羊の群れや、牛の群れ、それに多くのしもべたちを持つようになったので、ペリシテ人は彼をねたんだ。

収穫した穀物の運搬、脱穀には家畜が必要不可欠であり、家畜を養う牧草も多く得られた結果、「羊の群れや、牛の群れ」を持つに至り、「羊の群れや、牛の群れ」の世話をするために「多くのしもべたちを持つようになったので」す。

その「多くのしもべたち」ですが、ゲラルの住民の労力に依存する部分もあったのではないでしょうか。

新参者に雇われる、余所者、寄留者に使われるのは屈辱であり、正当な対価を受け取っていても、余計惨めさを感じるであろう事は、鬱屈した感情を持つであろう事は、簡単に想像出来るのではないでしょうか。

妻を妹だ、などと嘘を吐いたけれども、その理由が、ゲラルの住民が性的にふしだらだ、暴力的だ、と決め付けていたからだとは、聞き捨てならない事であり、怒り心頭だったのではないでしょうか。

しかも、アブラハムの出来事は語り伝えられていたのであり、イサクの出来事と重なり、新たな苦々しい記憶となり、強力無比な神様が付いている事を知ったのですから、あからさまな手出しも出来ず、煮えたぎる敵意が「妬み」に変化し、そして15節、

26:15 それでペリシテ人は、イサクの父アブラハムの時代に、父のしもべたちが掘ったすべての井戸に土を満たしてこれをふさいだ。

創世記2122節以降に、アブラハムが苦労して掘った井戸の所有権の確認について記されていますが、アブラハムとアビメレクとの間に不可侵条約が締結され、アブラハムのしもべたちとゲラルの住民たちとの間に和解が成立し、井戸の所有権がアブラハムにある事が確認された事でしたが、ゲラルの住民は、嫌がらせに、腹いせに、自分たちにとっても価値のある井戸を塞ぐと言う暴挙に出るのです。

同一の地域に住んでいながら、似たような農耕技術でありながら、イサクとゲラルの住民とでは、穀物の収穫において、家畜の育成において、明らかな差があったのであり、大きな差があったのであり、イサクに注がれる神様の祝福に対する羨望は、妬みに変わり、嫌がらせを仕掛けるに至るのです。

井戸の所有権、即ち一帯の所有権はアブラハムにあると確認されているので、使えなくするのが、一番の選択肢だったのであり、移動せざるを得ない状況を作った上で、

26:16 そうしてアビメレクはイサクに言った。「あなたは、われわれよりはるかに強くなったから、われわれのところから出て行ってくれ。」

創世記20章の、アブラハムの妻サラのエピソード、創世記21章の、井戸の所有権についてのエピソード、そして、今回のエピソードに、アビメレクとゲラルの住民は、非常な脅威を感じたのではないでしょうか。

アブラハムの時代、自然災害にも、飢饉にも、豊作にも、病気にも、死にも、癒しにも、不妊にも、出産にも、神秘的な力を感じたのであり、イサクに注がれる祝福の大きさは、裏返せば、ゲラルに対する祝福の少なさであり、イサクさえ居なくなれば、再びゲラルに祝福は注がれるだろうとの期待があったのではないでしょうか。

有限に生きる人間の、当然の考えですが、無限の神様は、イサクに大きな祝福を注ぎつつも、ゲラルにも大きな祝福を注げるのであり、カナンにも大きな祝福を注げるのです。

神様の与える祝福は、イサクを祝福したから、ゲラルの住民への祝福は残っていません、もう祝福出来ません、何てちっぽけなものではないのです。

神様の祝福は、地域を越えて注がれ、時代を越えて注がれます。

文化を越えて注がれ、老いと若きの区別なく注がれ、男と女の区別なく注がれます。

但し、神様の祝福を軽んじない限り、拒否しない限りにおいてである事を忘れてはなりません。

エサウが祝福を得られなかったのは、神様の定められた霊的祝福を鼻であしらい、軽んじ、肉の欲と交換したからであり、祝福を受ける権利を放棄したからであり、祝福を受けるに相応しくない言動を改めなかったからです。

マタイの福音書1521節以降に記されているスロ・フェニキアの女のエピソードを知っておられると思いますが、信じて必至に願い続けるなら、異邦人にも祝福は与えられるのであり、パン屑のような小さな祝福でも、病気を癒し、健やかに出来るのです。

ゲラルは、現テルアルシャリアと思われますが、ベエルシェバとガザに隣接し、エジプトへの中継地として繁栄、発展していたのですから、現在までゲラルとして残っていてもよさそうなものですが、ゲラルとして残る事が出来ず、消滅してしまいます。

ゲラルの住民は、イサクを追い出す事によって、大きな祝福を逃してしまったのです。

アブラハムの子孫の名前は、地名となってパレスチナやカナンに多く残されたのですが、神様に背き、祝福を受ける事が出来ず、その殆どは消滅してしまった訳ですが、同じ理由によるものでしょう。

26:17 イサクはそこを去って、ゲラルの谷間に天幕を張り、そこに住んだ。

イサクは、父アブラハムがアビメレク、ゲラルの住民と交わした契約に触れず、権利を主張せず、一言も反論せず、全く争わず、アビメレク、ゲラルの住民の要求に応じ、退去します。

その理由は、寄留者、旅人の自覚を失わなかったからであり、神様の導きと守りに信頼していたからでしょう。

それでも、荒地に出て行くのは困難を覚えたのでしょう。

ゲラルの町からそう遠くない「ゲラルの谷間に天幕を張り、そこに住」みます。

この「ゲラルの谷間」とは、雨期には一帯に降り注いだ雨が集合し、激流となりますが、乾期には川床を曝け出し、一滴の水も流れない石ころだらけの荒地です。

しかし、地勢的には地下水脈が隠れており、地下水が期待出来る所ですが、それでも、水の乏しい土地への退避は、神様への信頼と信仰がなくては、出来る事ではありません。

26:18 イサクは、彼の父アブラハムの時代に掘ってあった井戸を、再び掘った。それらはペリシテ人がアブラハムの死後、ふさいでいたものである。イサクは、父がそれらにつけていた名と同じ名をそれらにつけた。

26:19 イサクのしもべたちが谷間を掘っているとき、そこに湧き水の出る井戸を見つけた。

アブラハム、イサクの時代、否、現代でも地下水脈を見つけるのは簡単な事ではありません。

日本のように、良質な水が豊富にあるのは、世界的に見ても稀有な事であり、大陸においては、折角水を見つけても、飲用には適していない水も、数多く存在するのです。

枯れてしまったが故に、埋め戻された井戸は、掘っても無駄でしょうが、使っていた井戸に土を満たしたのならば、地下水脈は枯れていないのであり、掘り戻せば水の涌き出る可能性は大です。

思惑通り、掘り戻した井戸には、滾々と水が涌き、ゲラルの谷間でも、新しい井戸を得る事が出来ましたが、何処でも掘れば水が出る訳ではありません。

掘っても掘っても、水脈に当たらない事の方が多いのであり、井戸掘りは、相当の忍耐と労力が必要な作業です。

ここにも、神様の祝福があり、水脈を探し当て、井戸を得る事が出来たのです。

水は命を支えるものであり、乾燥したパレスチナでは何より大切、貴重なものであり、誰もが欲しがるものであり、だからこそ、分け合えれば良いのですが、

26:20 ところが、ゲラルの羊飼いたちは「この水はわれわれのものだ」と言って、イサクの羊飼いたちと争った。それで、イサクはその井戸の名をエセクと呼んだ。それは彼らがイサクと争ったからである。

妬み、敵意の涌き出る所に、分け合える水はありません。

争い」と訳されているヘブル語は「アーサク」であり、「アーサク」をもじって「エセク」と呼ばれるようになったのですが、「エセク」が「イサク」との語路合せでもある事は明白です。

そして「イサク」の意味は「彼は笑う」でしたが、イサクは井戸の所有権争いを「苦笑いで」受け流したのであり、イサクの寛容な心の現れ、余裕の現れなのです。

神様に委ねる信仰は、客観的に自分を見る余裕を与えたのであり、客観的に争いを見る余裕を与えたのであり、平和的な判断と決断をさせ得たのです。

渦中に置かれれば、冷静沈着、客観的な判断、決断をする事は、難しい事ですが、常に、客観的な見方をする訓練と、言動を吟味する習慣を、身に付けて置きたいものです。

更に加えるなら、相手の立場で考える習慣も身に付けたいものです。

自分は、こうされると嬉しい。だから相手も同じだと思うのは間違いです。

何時も同じだと考えるのも間違いです。

適度な物理的、精神的距離を保ちつつ、応じる準備、心配りをし、待つ事、待ち続ける事が大切なのではないでしょうか。

イサクはゲラルの住民と物理的な距離を置き、離れて暮し、摩擦、衝突を避けますが、生活圏が交錯しているのですから、しばしば衝突も起こってしまったようです。

26:21 しもべたちは、もう一つの井戸を掘った。ところが、それについても彼らが争ったので、その名をシテナと呼んだ。

イサクのしもべらが、苦労して掘った自前の井戸ですが、新参者、余所者、寄留者の弱みでしょうか、強気には出られず、小人数なのですから、権利を主張し、徹底抗戦を選ぶ訳にも行きませんが、ゲラルの住民は、そんな弱みにつけ込んで、敵意剥き出しの一方的な、交渉の隙も与えない強引さで、苦労の末に得た井戸を取り上げてしまうのです。

26:22 イサクはそこから移って、ほかの井戸を掘った。その井戸については争いがなかったので、その名をレホボテと呼んだ。

そして彼は言った。「今や、【主】は私たちに広い所を与えて、私たちがこの地でふえるようにしてくださった。」

度重なる不条理な出来事ですが、イサクは徹底して、譲歩します。

譲歩、後退、撤退を負けと見たなら、屈辱でしょうが、神様への徹底した従順からであるならば、胸を張って譲歩、後退、撤退出来るのであり、イサクはそれをしたのです。

イサクは、自分に対する敵意は、祝福をもたらす神様に対する敵意だ、と考え、一切を神様に委ね、譲歩、後退、撤退しますが、それは全く離れた土地への進出であり、新しい土地への前進であり、新しい生き方への進展なのです。

ゲラルから離れた、と言っても、そう遠くはなかったゲラルの谷間でしたが、名実ともに、ゲラルから離れたのであり、物理的に、精神的に離れたのであり、完全に離れた時に、広々とした処が与えられ、開かれた処が与えられ、争いからも開放され、敵意からも離れる事が出来たのです。

ゲラルの影響、干渉、を受けない距離であり、神様の祝福を受けるに相応しい処なのです。

神の民として増える処であり、神の民として訓練を受ける処でもあります。

旧約の世界における、「広い処に置かれる」は、「囲みを解かれる」は、救いの基本的概念の、具体的現れです。

この世の力から、干渉を受けない処であり、神様と深い交わりを持つ処なのです。

もう、イサクに注がれる、神様の祝福を邪魔する者はいません。

イサクは存分に神様の祝福を受けられるのであり、ヤコブに繋がるイスラエル民族の基礎を固める事になるのです。

【適応】人間と言う生きものは、思っている程、寛容ではありません。

人間と言う生きものは、想像以上に、自己中心的な生きものなのであり、自然と、無意識に主観的に考えるのであり、客観的に考えるのが苦手です。

特に、当事者となると尚更です。

今日のテキストで、心情が綴られているのは、ゲラルの住人と、アビメレクですが、新参者のイサクが百倍の収穫を得、多くの羊や牛、家畜や僕たちを持つようになったので、ゲラルの住民は妬み、寄留者のイサクが強くなったので、アビメレクは出て行ってくれと要求し、余所者のイサクが井戸を掘ったので、ゲラルの住民はそれを取り上げましたが、自分に無いものを相手が持つ事に、人間は耐えられないのです。

特に、新参者、寄留者、余所者に対して、古参、定住者、先住者は特殊な意識を持っています。

行動に出るか否かは、関係性や、社会、時代、文化、その人の持つ気性によりましょうが、人間は比べて生きる生きものであり、違いを喜び、違いを妬む生きものなのです。

同等程度であるならば、妬みを押さえるまでもなく、妬みは涌きあがってこないでしょうが、歴然とした差ではなくても、僅差に対しても、それが持ち物であろうとも、強さであろうとも、能力であろうとも、人望、人気であろうと、立ち居振る舞いに対しても、妬むのです。

そして、多くの場合、意識せずして妬むのであり、妬んでいる事に気付きもしません。

そこには、相手に対してであるよりも、自身の根底にある、人間、誰しもが持っている罪から来ているのは、間違いないでしょう。

ゲラルを例えるなら、カナンに住んでいるのであり、カナンの影響を受けているであろう事は、自然、当然であり、イサクの思い描くような部分、罪を少なからず自覚していたのでしょう。

そんな心情を、保身のために嘘をつくようなイサクに指摘され、且、富み栄え、強くなり、何をやっても上手く行くのを見たなら、穏やかでいられなくなるのは当然でしょう。

小さな、原因と言えないようなモノも、幾つもあると、複雑に影響し合い、増幅させ、妬みとなって現れるのです。

そして、テキストに記されており、人間に必要な、本当に大切なモノ、それは神様からの祝福であり、言い替えれば、神様の愛ですが、保身のために嘘をつくようなイサクが、神様に愛され、祝福されたのです。

ゲラルの住民は、カナンの地の神々を礼拝しているのであり、イサクの信じる神に対する思いは、数多の神の一つ、程度の認識だったでしょうが、特別扱いを受けている、愛されている、祝福されている、守られている、と言う意識はあったと思います。

保身のために嘘をつくようなイサクが、特別扱いを受けているからこそ、妬んだのです。

大した差、大きな違いはない、それなのに、特別に扱われる事に耐えられないのです。

別に、損をしている訳でもなく、不当に扱われた訳ではなくても、蔑ろにされた訳でもない、しかし、妬んでしまうのです。

それは、比べるからです。主観的になっているからです。

別の言い方をするなら、神様との関係において自立してない人間、即ち、霊的な大人になっていない人間が妬むのです。

神様との関係にのみ、目を向け、自立している人間は、客観的に考え、客観的に吟味します。

そうすれば、相当の問題は解決しますし、そもそも、問題は起こりません。

様々な問題は、人間の主観から起こり、比較で起こります。

説得、時に有効ですが、絶対ではありません。

ですから解決は、離れるしか、距離を置くしかないのですが、現代社会では、そう簡単な事ではありません。

しかし、極力、精神的、物理的な距離を置く必要を忘れてはならず、霊的大人としての対応をするなら、余計な思い煩いからも開放され、神様と深い、親しい交わりに置かれ、神様からの祝福を、更に、豊かに受けられるのです。

ここにおられる皆様が、神様との信仰に中に生き、霊的大人とされて、神様の祝福を豊かに受けられますように。

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聖書箇所:創世記261節から11節             2016-6-19礼拝

説教題:「これは私の妹です…保身のための嘘パート3

【導入】

昨今、新聞やテレビを賑わせている話題は、首長の地位にしがみつき、何としてでもその地位を手放さないとの、強い執着と、保身のための見苦しい言い訳、滑稽な辻褄合わせに躍起になっている立ち振る舞いでしょう。

この醜態は、辞職と言う形で、決着しそうですが、最後まで潔さがなかったのは残念です。しかし、これは「対岸の火事」ではなく、高みの見物を決め込めるような出来事ではありません。人間、切羽詰ると、形振り構わず、保身に躍起になるのが常なのではないでしょうか。5000万円に見立てた紙包みを用意し、滝のような汗を流して状況を説明していた首長の姿は、他人事ではありません。号泣し、喚きながら質問に答えない地方議員の姿も、他人事ではありません。

嘘の多くは、瞬間的に、思いがけなく、口走ってしまうのでしょうが、用意周到に、計画的に、も少なくはなく、その背後には、何かしらのヒントになる経験や体験があるのではないでしょうか。或いは、事態の進展を想定して、対策として「嘘」を準備しておく、と言う事もあるでしょう。辻褄合わせ、口裏合わせ、根回しは、古今東西、変らない人間の罪の為せる性なのかも知れません。

今日はイサクのエピソードから、御こころを聞いてみましょう。

【本論】26:1 さて、アブラハムの時代にあった先のききんとは別に、この国にまたききんがあった。それでイサクはゲラルのペリシテ人の王アビメレクのところへ行った。

何回か、聖書の記述の特徴に付いてお話しさせていただきました。聖書の記述は、出来事の起こった順ではない事、時系列に沿ってではない事をお話しさせていただきました。前後が逆になっている事や、重複なのに、読みようによっては別のエピソードのように記録されている事も珍しい事ではないのであり、今回扱うエピソードも、エサウ、ヤコブ誕生に先行するエピソードと思われます。

何故ならば、263節、4節に、神様の約束、宣言が記されているからであり、子が与えられていない時に宣言されるからこそ、意味ある宣言であるからです。

神様を信じると言う事は、容易な事ではありません。現実に見ている事は、起こっている事は、信じるまでもありませんが、見ていない事、将来の事は、信仰がなければ信じる事は出来ません。信仰者の代表、アブラハムは、見ずして信じたのであり、見ずして信じ続けたのであり、老いて、常識では子を持てない年代になっても信じ続けたのです。少しでも可能性のあるところでは、信仰は必要ありません。

不可能、絶望と思える状況の中でこそ、信仰が試されるのであり、子がない状況の中で、飢饉と言う更なる試練が与えられ、信仰が試されるのです。

そして、この飢饉ですが、アブラハムの時代に起こった飢饉とは別である事が明記されています。即ち、重複ではない事が、明確に語られているのです。

研究によれば、アブラハムの死後の出来事であり、アブラハムが経験した飢饉から、100年程、後に起こった飢饉と考えられています。

聖書の読者が間違えないための、聖書記者の配慮でしょう。

アブラハムが経験した飢饉の時にも、アブラハムにイサクは与えられていませんでしたが、イサクもアブラハムと同じように、エサウ、ヤコブは与えられていない情況で、飢饉に遭い、避難するのであり、信仰継承のプロセスの中で、体験した試練を伝え、神様も、似たような状況の試練を追体験させられるのでしょう。

信仰の試練は、個人的なものであり、個々人によって扱われ方は、試練は千差万別でしょうが、父の試練を聴く事は、自身の試練の時の参考になり、励まし、希望となる事でしょう。自分だけが厳しい試練に遭うのではなく、父も、皆も、似たような試練に遭っている事を知るのは益です。

ゲラル」も「アビメレク」も、創世記20章に登場しましたが、「アビメレク」とは「王は私の父」と言う意味であり、称号と考えられています。或いは、地位と共に、名前を継承するのかも知れません。ですから、20章に登場する「アビメレク」とこの「アビメレク」とは別人です。

イサクは飢饉を避ける旅の途中「ゲラル」に立ち寄りますが、ここで神様がご介入されます。

26:2 【主】はイサクに現れて仰せられた。「エジプトへは下るな。わたしがあなたに示す地に住みなさい。

エジプト」は、聖書の中では豊穣の地として、常緑の地として、農耕にも、牧畜にも最適の地として描かれています。「砂漠の地」「灼熱の地」のイメージは、現代の姿であり、アブラハムの時代、「エジプト」はナイル川の水で潤い、人を、植物を、動物を育む、命を育む地であったのであり、飢饉とは無縁の地でしたから、誰もが迷わず避難先として選ぶ地であり、イサクもエジプトを目指して旅を続けていましたが、神様がご介入され、エジプト行きを禁じられます。

思い起こせば、アブラハムは飢饉に際して、エジプトに避難しましたが、その時、神様はご介入されず、禁じられもしませんでした。何故でしょう。

神様の導きは、その時、その人の最善が与えられるからです。

何時でも、誰でも同じ、ではないのです。昨日と今日、今日と明日とでは違う扱いなのであり、あの人と私では違う試練であり、この人と私とでは違う扱いなのです。

イサクはイサクとしてお取り扱いを受けますが、その予兆は、創世記24章に記されています。24章は、イサクの嫁探しの経緯が記されているところですが、アブラハムは、イサクをアブラハムの故郷に連れて行ってはならないと厳命しており、イサクはその一生をカナンで、死海の西の広い地で過ごす事が定められているからなのです。

カナンを離れる事は、嫁探しのためであろうと、飢饉を避けるためであろうと禁じられているのであり、神様のご介入があり、「ゲラル」に留まり、住む事が命じられます。カナンの地は、アブラハムに与えると約束した地であり、カナンを離れず、カナンに留まり、カナンに住むと言う事は、カナンの地を継ぐ者である事を強く印象付ける、神様のご配慮なのです。苦しくでも逃げ出す訳には行きません。

カナンが終の住みかであり、命懸けで見守り、引き継がなければならないのです。

神様は命令と共に、約束も与えられます。

26:3 あなたはこの地に、滞在しなさい。わたしはあなたとともにいて、あなたを祝福しよう。それはわたしが、これらの国々をすべて、あなたとあなたの子孫に与えるからだ。こうしてわたしは、あなたの父アブラハムに誓った誓いを果たすのだ。

この地」とは直接的には「ゲラル」の事ですが、カナンの地全域を意味します。

滞在しなさい」は、2節「住みなさい」の再確認の意味であり、共に命令形です。

ゲラル」は先に説明した「エジプト」とは比較にならない土地です。

小さな都市であり、飢饉に際しては余所者を養う、受け入れる余裕などない所ですが、神様は「この地に、滞在しなさい」と命じられます。

それは、神様の養いを意味し、神様に信頼するようにとのお勧めなのです。

神様への信頼は、祝福が伴います。

神様の祝福の、具体的な面が語られ、祝福を与える根拠が語られます。

約束、その1、イサクと共に居る、と言う事であり、約束、その2、イサクを祝福する、と言う事であり、約束、その3、イサクとイサクの子孫に、ゲラルを始めとする、カナンの全ての国々、カナン人を与える、と言う事であり、約束の根拠は「あなたの父アブラハムに誓った誓いを果たす」からだ、と宣言されるのです。

ここで、イサクは神様と出合い、神様から言葉を掛けられますが、イサクへの直接の語りかけは、ここが始めてです。

神様のアブラハムへの語りかけは、聖書に記されているのは、ハランを皮切りに、七回ですが、イサクへの語りかけは、ここ262節と、2624節だけです。

この差は大きい。しかし、アブラハムは初代であり、イサクは二代目であり、父の信仰の歩みを見ているのであり、父から教えられているのであり、神様の父への語りかけを聴いているのであり、決して、決定的な差、とは言えないでしょう。

前例のないアブラハムに対しての扱いと、アブラハムと言う前例があり、お手本がおり、指導者がいるイサクの場合の扱いが違うのは当然です。

これは、現代の私たちに対する、扱いになってもいましょう。

直接、神様の語りかけを聴く事は稀有な事ですが、信仰の先達がおり、聖書があり、教会があり、御ことばの説教があるのですから、それで充分なのです。

神様のアブラハムとの約束故に、

26:4 そしてわたしは、あなたの子孫を空の星のように増し加え、あなたの子孫に、これらの国々をみな与えよう。こうして地のすべての国々は、あなたの子孫によって祝福される。

4節の神様の宣言は、アブラハムに語られた宣言と、略、同じであり、偉大な国民とする事、世界を祝福する使命と働きの確認ですが、この時、イサクに子はなく、エサウもヤコブも産まれてはいません。

神様のお約束、宣言は、状況が整ってからではなく、あり得ない状況の時に、宣言されるのであり、そこに、信仰の応答が求められるのです。信じるか、否か、です。

この時、リベカは不妊の状態にあり、イサクが子どもを得る望みはありませんでした。

不妊は医学の発達した現代でも難題の一つです。

そんな状況の時に、「あなたの子孫を空の星のように増し加え」ると、言われても、俄かに信じられることではありません。

容易ではないからこそ、信仰が試されるのであり、父アブラハムへの約束は、機械的、自動的に進められるのではなく、アブラハムの信仰による応答があり、イサクの信仰による応答が必要であり、神様も其々の信仰に応えられ、神様のご計画は進んで行くのです。

26:5 これはアブラハムがわたしの声に聞き従い、わたしの戒めと命令とおきてとおしえを守ったからである。」

このように、イサクよ、あなたも、「わたしの戒めと命令とおきてとおしえを守」りなさい、なのです。

信仰は、神様を信じる事ですが、信じる事の現れが、「わたしの戒めと命令とおきてとおしえを守」る事です。

「信じる」と「従う」は表裏一体の関係にあり、離れてあるものではありません。

但し、「救い」と「行ない」の関係と混同してはなりません。「行ない」によって「救い」が与えられるのではありませんが、信仰には行ないが伴います。

ヤコブの手紙217節に「行いのない信仰は死んでいる」と記されています。

神様に聴き従わないでいて、神様を信じているなんて、相反する事なのであり、神様を信じる具体的な現われが、神様に聴き従おうとする行動になるのです。

神様の声を聴きたい、従いたいと思い、行動する事が求められているのであり、完全が求められ、失敗や間違いを否定しているのではありません。

神様は、人間的、人格的応答を求められておられるのであり、生きた信仰を期待され、態度、行動となって現れる事を期待されているのです。

26:6 イサクがゲラルに住んでいるとき、

26:7 その土地の人々が彼の妻のことを尋ねた。すると彼は、「あれは私の妻です」と言うのを恐れて、「あれは私の妹です」と答えた。リベカが美しかったので、リベカのことでこの土地の人々が自分を殺しはしないかと思ったからである。

先に、父や誰かの、信仰の試練の体験を聴く事は益だ、と申しましたが、必ずしも、益になるとは限りません。人間には知恵が与えられていますが、知恵に頼ってしまう傾向があり、知恵は、信仰の邪魔になる事があるからです。

イサクの父アブラハムは、二度も妻を妹だと騙り、エジプト王を、ゲラルの王を騙しましたが、同じ事をイサクもやってしまうのです。

父アブラハムの弱さを引き継いでしまったが故の失敗なのでしょうか。

それとも、イサクは父アブラハムの二度の失敗を知っていたのでしょうか。

もしも、父の失敗を知っていたとするならば、問題は大きく、より罪深い行動と言えるでしょう。何故ならば、ゲラルが、思う程、道徳的に淫らな土地ではない事を、暴力的な土地ではない事も知っていた筈だからです。

そして、父アブラハムに対して「何のお咎めもなし」は、神様の憐れみ、赦しを感謝する事よりも、神様を侮る方向に働いてしまったようですが、少し、イサクを弁護するなら、創世記1213節を扱った時の内容を、もう一度引用しましょう。

古来、妻の立場と言うモノは非常に弱い立場であり、夫の庇護があってこその妻の座であり、夫の庇護がなくなれば、未亡人になれば路頭に迷うのは必至です。

そこで、妻を守る意味から「妹」の身分を与える事が行なわれていたようです。

養子縁組が行なわれる、と言う事です。

「妻」でありながら「妹」であり、血縁のない者が、一族に組み入れられるのであり、夫が亡くなっても、一族の庇護の下で守られるのです。

この意味で「妹」としても真っ赤な嘘ではないのですが、これが当時の慣習であるなら、妹と言っても妻の可能性があるのですから、殺されない保証はありません。

ですから、イサクは、正真正銘の妹だ、決して妻ではないと宣言したのであり、根底にあるのは保身であり、明らかに人を欺く意味で使われている事は明白です。

26:8 イサクがそこに滞在して、かなりたったある日、ペリシテ人の王アビメレクが窓から見おろしていると、なんと、イサクがその妻のリベカを愛撫しているのが見えた。

8節のキーワードは「かなりたったある日」です。

イサクは妻故に、殺されるのではないか、と恐れましたが、ゲラルの人々は「かなりたっ」ても、リベカに関して何のアクションも起しはしなかったのです。

嫁に欲しいとの申し出もなく、二人の関係が詮索される事もなく、平穏無事な日々を、何の緊張もない日々を過ごしていたのです。

心の余裕、安心があってこそ、廻りの眼を気にせず、妻を「愛撫」出来たのでしょうが、それを目撃されてしまいます。この「愛撫」と訳されているヘブル語は「遊ぶ、戯れる、いちゃつく、ふざける」などとも訳せるヘブル語であり、「イサク」の意味は「彼は笑う」であると、過去の説教で説明しましたが、「イサク」の分詞形を「愛撫」と訳したのであり、同一のヘブル語なのであり、語路合せ、なのです。

聖書は堅苦しい書物のようですが、そこ彼処にユーモアがあり、親しみ易い書物である事がお分かりいただけるのではないでしょうか。

26:9 それでアビメレクはイサクを呼び寄せて言った。「確かに、あの女はあなたの妻だ。なぜあなたは『あれは私の妹です』と言ったのだ。」それでイサクは、「彼女のことで殺されはしないかと思ったからです」と答えた。

26:10 アビメレクは言った。「何ということをしてくれたのだ。もう少しで、民のひとりがあなたの妻と寝て、あなたはわれわれに罪を負わせるところだった。」

26:11 そこでアビメレクはすべての民に命じて言った。「この人と、この人の妻に触れる者は、必ず殺される。」

この一連の会話から、アビメレクの、ゲラルの住民の、道徳的高潔さを、道徳的敏感さを推測するのは困難な事ではありません。更には、凡そ100年も、道徳的高潔さが維持され続けて来ている事を証言しているのであり、驚くべき事なのではないでしょうか。

その背景には、アブラハムの出来事が、警告として継承されているからなのではないでしょうか。以前は性に対して奔放な所があった。しかし、アブラハムの出来事を通して、創造主、命の賦与者、唯一の神様の存在を知り、性の尊厳を教えられ、性は弄ぶモノではない事を教えられ、性に対して保守的な文化が定着して行ったのではないでしょうか。

この神様の備えがあったからこそ、飢饉に際して、神様は、イサクに、ゲラルに滞在する事を命じられたのではないでしょうか。

【適応】私たちは、同じような状況に置かれると、過去の経験を生かして、対処しようとしますが、それは、必ずしも正しいとは限りません。

時も、場所も、関係者も同一ではないからです。

何より、神様が関わっておられるからであり、直接の当事者も、同じではないからです。

昨日の私と、今日の私は、厳密な意味で同一人物ではありません。昨日までの経験が積み重ねられ、生かされた、今日の私だからです。「男子三日会わざれば刮目して見よ」ではありませんが、日々、神様のお取り扱いを受けて、変わって行く事が期待されています。十数分のデボーションと、20分程度の聖書通読で、週一回の礼拝説教で、格段の差は生じない、と考えましょうが、塵も積もれば山となるのであり、御ことばが蓄えられるのであり、神様と共に過ごす時間が、無為な訳がありません。神様のお取り扱いを受けた者が、変わらない訳がありません。勿論、自覚、吟味が必要な事は言うまでもありません。

無自覚、無批判な生き方は、悪い方に、神様と疎遠な方に変わって行くでしょうが、自覚と、吟味に生きるなら、より神様と親しい関係になりましょう。

イサクの生き方は、アブラハムの信仰を、生かしたものとはなっていなかったようであり、親がクリスチャンだから、何となく信じている程度の、信仰とは言えないような信仰だったようであり、この世的な策を弄し、異邦人に諌められるような醜態を見せてしまいましたが、異邦人は、過去の経験を生かし、100年経っても、道徳的高潔さを保持していたのです。

この二人の特徴は、神認識の違いでしょう。イサクの神認識は、漠然としたものであり、神様の命令には、助けや守りがある事を体験していなかった。言葉では聴いても、実感がなかったから、策をろうするに至るのです。

一方のアビメレクは、神様の裁き、厳しさは知っていたが、赦される事、愛されている事、神様に従う喜びは知らなかった。

どちらも不幸な事ですが、そのまま、現代の私たちにも、当て嵌まります。

わたしの戒めと命令とおきてとおしえ」を縛るものと捉えるか。罪から守るものと捉えるかは大きな違いです。更に、「わたしの戒めと命令とおきてとおしえ」には祝福が付随している事を忘れてはいないでしょうか。

神様に従うのは、楽な事ではありませんし、楽しい事ばかりではありません。

時には厳しい、苦しい選択をしなければなりませんが、神様の守りがあり、何より喜びがあります。

規則に縛られているのではなく、罪を縛って、罪に近寄らないようにしているのです。

保身に走らずとも、神様が守って下さるのであり、嘘など付く必要はありません。

現に、100年前からゲラルは変えられていたのであり、滞在するに一番安全な所だったのです。アビメレクは、神様を恐れて、戦々恐々とし、自身と民の保身のために、民に命じて、殺すと脅しましたが、そこまで恐れる必要はありません。

神様は、決して祟る事はなく、無意味な試練や苦難を与える事はありません。

わたしの戒めと命令とおきてとおしえ」は、神様から離れないためにあり、罪に近づかないためにあり、試練や苦難は、神様に近づくためにあり、神様に頼る事を学ぶためにあります。

わたしの戒めと命令とおきてとおしえ」を言い替えるなら、「神を愛し、人を愛する」事ですから、保身のために嘘を付き、人を騙す、欺くなど以ての外でしょう。

愛は律法を全うするのであり、愛はお互いの関係を守るのです。

自分の権利や利益を優先し、保身に血眼になっている現代ですが、保身のつもりが、逆にお互いを窮地に追い詰めてしまうのです。

本当に必要なのは「わたしの戒めと命令とおきてとおしえ」であり、「神を愛し、人を愛する」なら、保身に走らずとも、神様が先行して備えてくださり、守ってくださり、平安と憩いを与えてくださいます。 

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聖書箇所:創世記2527節から34節             2016-6-12礼拝

説教題:「長子の権利譲渡」

【導入】

社会関係、人間関係、家族関係は、時代によって、地域によって、文化によって大きく違います。

現代は、世の中の様々な仕組みが、非常に複雑になって来ていますので、社会関係も、人間関係も、家族関係も非常に複雑になって来ています。

しかし、社会関係、人間関係、家族関係は、過去が単純で、現代が複雑怪奇だ、と単純に決め付ける訳には参りません。

何れも、現代とは違った環境、状況にあり、其々に現代とは違った面の複雑さがあります。

それらの問題を解決、調停するために、時代や文化に応じた法律や制度が整備されて行ったのでしょう。

本日のテキストで取り扱う、長子の権利の問題も、アブラハムの時代と、一夫一婦制が基本形態の現代とでは、基本的人権が確立された現代とでは大きく違います。

現代日本において、子どもは、生まれた順番には関係なく、正妻の子か否かにも関係なく、何番目の妻の子であろうと関係なく、男女の性別にも関係なく、裁判で争い、確認するまでもなく、等しく同等の権利を有しています。

しかし、アブラハムの時代、遺産相続は、男の子に限られ、女の子には財産が与えられませんでした。

出エジプト以降、子どもが女の子しかいない場合には、女の子に分配される事が決められましたが、それは例外です。

男の子であっても、長子には2倍が与えられますが、次男以降は「1」であり、正妻の子に限られ、奴隷の子には基本的には何も与えられません。

更にざっくり言えば、家長の一存で全てが決まる、と言っても過言ではありません。

ヤコブは長子の権利を2番目の妻ラケルの子、全体で11番目に生まれたヨセフに与え、正妻レアの子、名実ともに長子であるルベンには与えませんでした。

ダビデは長子の権利を何人もいる妻の一人バテ・シェバの子ソロモンに与え、長子のアムノンには与えませんでした。

長子の権利は、絶対的な権利ではなく、慣例程度のモノでしかなかった、が実情と言えるのです。

しかし、全く家長の気の向くまま、意のままで決まるのではありません。

慣習の面もありますが、単純に慣習で決まるのでもありません。

長子の権利は、背後で働かれる神様の選びと導きとで決まる、決められるのであり、それは、使命と働きに大きく関わっているからであり、多く与えられた者には、多くの働きも与えられ、期待されもしているのです。

今日はイサクの子、エサウとヤコブのエピソードから、御こころを聞いてみましょう。

【本論】

25:27 この子どもたちが成長したとき、エサウは巧みな猟師、野の人となり、ヤコブは穏やかな人となり、天幕に住んでいた。

イサクの子は双子であり、エサウとヤコブである事は、前回確認したところです。

世の中、似ている双子もいますし、似ていない双子もいますが、イサクの子は似ていないどころか、全く正反対の性格、タイプだったようです。

エサウについて、聖書は「巧みな猟師」と訳していますが、直訳するならば「猟によって自らを現す人」の意味であり、猟においては非凡なる才覚を発揮したでしょうが、反面、猟でしか能力を発揮出来なかったのであり、認められるような働きが出来なかったのです。

野の人」、即ち、着の身着のままで、何日も山に篭るのであり、野宿の連続を苦痛と思わず、孤高を好む人であり、野生そのものの人だったのです。

社会関係には疎く、人間関係が下手で、粗野、粗雑、がさつな人柄であり、現代風に言うならば「空気を読めない人」だったのでしょう。

一方のヤコブについて聖書は「穏やかな人」と訳していますが、「完全な、欠けのない、汚れのない」の意味を持つ言葉から派生した言葉の訳であり、「物静か、穏やか」を意味し、「健全、堅実」等とも訳されます。

転じて「神の前でも、人の前でも、心の定まった人、安定した人」を意味するようになり、「天幕に住んでいた」を、新共同約聖書では「天幕の周りで働くのを常とした」と訳していますが、人との関係性を重視する人であり、現代風に言うならば「空気を読める人」であり、良好な人間関係を維持出来る人だったようです。

どちらも個性であり、賜物であり、優劣を論じるつもりはありませんし、個性や賜物に優劣を付けてはなりません。

神様が与えられた個性であり、賜物だからです。

25:28 イサクはエサウを愛していた。それは彼が猟の獲物を好んでいたからである。リベカはヤコブを愛していた。

最初の「愛していた」ですが、動詞の時制から「愛するようになった」と訳すのが適切です。

エサウの性格は、先に説明したような性格であり、万人に受け入れられる性格ではなかったようですが、「猟の獲物」を、口語訳聖書は「鹿の肉」と訳しており、エサウの働きの実である「猟の獲物」「鹿の肉」は、特にイサクのお気に入りとなったようであり、好んでいた」の直訳は「口の中に」であり、エサウの働きの実を、そして、エサウの帰りを心待ちするようになったのでしょう。

一方のヤコブはリベカに、特別な理由なく、愛されていたようです。

と言うよりも、エサウの仕事柄、家族との交わりは希薄であり、エサウとは段々と疎遠になった、何時も傍にいるヤゴブに愛情を注いだ、と言うのが真実なのかも知れません。

しかしながら、イサクもリベカも、共に、感覚的な愛であり、明確な理由があった上で、選択的、差別的な愛情を注いでいた訳でも、溺愛していた訳でもなさそうです。

25:29 さて、ヤコブが煮物を煮ているとき、エサウが飢え疲れて野から帰って来た。

25:30 エサウはヤコブに言った。「どうか、その赤いのを、そこの赤い物を私に食べさせてくれ。私は飢え疲れているのだから。」それゆえ、彼の名はエドムと呼ばれた。

赤いの」と訳されているヘブル語は「アドム」であり、「アドム」と「エドム」とが語呂合わせである事が、「エドム」と呼ばれるようになった経緯が記されています。

しかし、唯、単に、名前の経緯が記されているのではありません。

30節のヤコブの台詞ですが、文字に起すと、緊迫感、と言うか、切迫感が失われてしまいますが、せっかちに、早口で喋る様子を想像しながら読んで見てください。

心配をしているであろう家族の下に、暫く振りに帰って来たと言うのに、「ただいま。心配かけたね。」「無事に帰って来たよ。」などの挨拶もなく、唐突に30節の台詞です。

しかも、「食べさせてくれ」は命令形であり、「腹減った、何か食わせろ」「掻っ込ませろ」と、何とも荒っぽく、粗野な言葉であり、品の欠片もありません。

今回のエサウの、狩猟の期間が何日間であったのか、何処まで行ったのかは分かりませんが、持っていった食料が底を突いても、獲物には出合えなかったようであり、木の実や涌き水で飢え渇きを凌いでも、小動物の一匹も仕留められなかったようです。

空腹の絶頂、疲労困ぱい、クッタクタになって帰って来たのでしょうから、多少は同情しないでもありませんが、もう少し、人間味のある、礼儀を弁えた言い方ってものがあるのではないでしょうか。

売り言葉に、買い言葉でしょうか、

25:31 するとヤコブは、「今すぐ、あなたの長子の権利を私に売りなさい」と言った。

エサウもエサウなら、ヤコブもヤコブです。

エサウの弱みにつけ込んで、ずる賢く、狡猾に、立ち振る舞います。

長子の権利」は、先に説明したように、父親、家長から譲り受けるモノであり、父親、家長の知らぬところで取り引きする類のモノではありません。

長子の権利」は単に財産のみならず、「特権と責任」を含むモノであり、神様の前に聖別されるべきモノです。

長子」は父親、家長に次ぐ存在であり、一族郎党を守る存在であり、家系を絶やさず、遺産を継ぐ存在です。

使命と働きを引き継ぐ存在であり、「長子の権利」は簡単に売り買いするモノではありません。

長子の権利」と「一杯の煮物」との交換では、とても比較にならない価値の差があり、とんでもない話ではありますが、交渉自体は正当であり、不正ではありません。

明確に「長子の権利」を要求しているのであり、騙しているのでも、誤魔化しているのでもありません。

解り難い、回りくどい言い方をしているのでも、取りようで、どうにでも取れるような曖昧な言い方をしているのでもありません。

当時の記録に、「長子の権利」を「羊三頭」で交換した記録が残っているそうですから、価値観の問題であり、この一件でヤコブを狡賢い人、人を騙す人、と決め付けてはなりません。

エサウが食べてしまってから、申し出たのでもなく、ハッキリと条件を出したのですから、心情的、道義的にはともかく、手続き的、法的に問題はありませんが、「今すぐ」と考える間を与えず、「売りなさい」が命令形なのも、魂胆丸出し、見え見えなのではないでしょうか。

家族なのですから、兄弟なのですから、双子なのですから、何の条件も付けずに、喜んで、惜しみなく与えたいものです。

25:32 エサウは、「見てくれ。死にそうなのだ。長子の権利など、今の私に何になろう」と言った。

死にそうなのだ」とは、何とも大袈裟、大仰な言い方ですが、「今の私に何になろう」と合わせて、エサウの性格が見て取れましょう。

エサウは、物事を深く考えない人なのであり、短絡的であり、刹那的に生きている人なのでしょう。

「今」を生きている人なのであり、明日の心配など考えない人なのでしょう。

そうでなければ狩猟に従事する事は出来ないかも知れません。

素直、単純、純朴、かも知れませんが、物事、出来事に無頓着であり、物質的な執着の希薄な人なのでしょう。

そんな生き方は、重要な事に対しても、即ち、神様の祝福に関わりの深い事柄、長子の権利についても重要には考えず、その影響の深さ、大きさに思いを馳せず、一時の空腹の満たしのために、手放してしまうのです。

25:33 それでヤコブは、「まず、私に誓いなさい」と言ったので、エサウはヤコブに誓った。こうして彼の長子の権利をヤコブに売った。

この「誓いなさい」も命令形であり、双子の兄弟の会話にしては、何とも味気ないと言うか、殺伐としていると言うか、暖かさも、仄々としたものも、微塵も感じられません。

エサウの軽率さと、ヤコブの強引さが、描かれていますが、二人の性格の違いが「長子の権利」に対する認識に現されており、「長子の権利」を軽んじる、神様の祝福に頼らない生き方、自力で生きる者、神様とも人とも離れて生きる者と、「長子の権利」に執着する、神様の祝福を何より渇望し、神様を頼って生きる者、神様と人から離れずに生きる者の違いなのです。

決して強引な生き方、考え方を推奨しているのではありませんが、祝福に対する理解度の違いが、行動になって現れるのであり、エサウとヤコブの持つ、欠点が際立つ逸話ですが、両者の欠点を越えて、祝福に対する認識の違いを通して、本当に大切、重要、掛け替えのないものを見分ける眼の必要性を、何としてでも得ようとする積極性を教えているのです。

25:34 ヤコブはエサウにパンとレンズ豆の煮物を与えたので、エサウは食べたり、飲んだりして、立ち去った。こうしてエサウは長子の権利を軽蔑したのである。

エサウの人柄が集約された、纏めの言葉ですが、「長子の権利」の霊的な面に気付かないのは、霊的な眼が塞がれているからであり、霊的感受性の乏しさ、霊的無関心の為せる業であり、自立した人ほど、陥り易い事柄なのです。

この逸話で注意しなければならない事は、ヤコブのエサウに対する優位性は、神様の定めによるものであり、ヤコブの努力によるものでも、エサウの無関心によるものでもない、と言う事です。

勿論、努力の有用性や、自立を否定する意図もなく、無関心や、狡賢い立ちまわりを奨励する意図もありません。

努力が報いられる訳でも、怠けていると臍を噛む事になるのでもありません。

しかし、常日頃の考え方、生き方が、影響するのであり、大切なモノを見誤らない考え方が身に付くのであり、生き方となるのですが、

【適応】

エサウとヤコブの考え方、生き方は、両極端な考え方、生き方と言えるでしょうし、非常に人間的な考え方です。

アブラハム、イサクから引き継ぐ「長子の権利」は、世の中一般の「長子の権利」ではありません。

世界の祝福の基となる、使命と働きを伴った権利であり、比類のない権利です。

比類なきが故に、本来であるならば、人間に委ねられる働きではあり得ません。

罪ある人間は、世界に祝福をもたらすどころか、世界に呪いをもらたす存在でしかありません。

それでも神様から委ねられているのですから、最大限の努力を払い、工夫を凝らして取り組まなければならず、自分を棄てて取り組まなければなりませんが、神様の選びである事を、片時も忘れてはなりません。

能力、人徳、ではなく、神様の一方的な選びである事を忘れてはならず、神様の時を待つ事に、痺れを切らしてはなりません。

どんなに切迫していても、見ておれない状況でも、放っておいたならとんでもない事態に進展しそうでも、神様が動かれるまで待たなければなりません。

エサウの自由奔放な生き方は、家族、一族郎党の行く末を顧みないエサウの生き方は、長子としてふさわしくはない、だれの目にもそう映るでしょう。

ヤコブはエサウの生き方を見て、憂い、悩み、何とかしなければ、と奮い立ち、この時をチャンス到来と考えて、「長子の権利」を手に入れようとしたのではないでしょうか。

ひょっとしたら、ヤコブは、リベカから、神様から与えられた預言を聴いていたかも知れません。

兄を治めるのが、私の使命だ、神様から与えられた使命だ、と確信していたからこそ、兄を騙す事に躊躇がなかったのでしょう。

これは、人間の陥り易い間違いです。

正しい事なら手段の良し悪しは許される、大事なのは結果だ、と考えますが、使命遂行のためならば、多少の犠牲や駆け引きはし方がない、と考えますが、世界を祝福すると言う使命と働きは、終始、正しい動機と正しい手段、正しい経緯とで取り組み、行なわなければなりません。

世界を祝福すると言う使命と働きは、正義感、ヒューマニズム、が動機であってはなりません。

神様から直接、受ける使命と働きであり、股聞きであったり、思い込みであってはなりません。

動機と手段、経緯を吟味し、御こころとズレがないかを検証しなければなりません。

障害も問題も,神様に委ね、神様の導きを求める時、障害は取り除かれ、問題は解決するでしょうし、その時、神様の御栄光が現れるのです。

モーセは正義感でイスラエル人を救おうとしましたが、同胞から拒否拒絶され、エジプトに追われてしまい、逃げるしかなくなってしまい、不名誉と挫折を味わっただけでした。

しかし、神様の召命で働きに就いた時、問題は起こりましたが、使命を達成し、成功を味わえたのであり、神様の御栄光が現されました。

世界を祝福すると言う使命と働きは、神様の業であり、その事が終始、確認されなければなりません。

独り善がりであってはならず、先走ってはならず、人間中心であってはならず、です。

神様が選ばれたのですから、神様の時を待たねばならず、神様の導きに従わなければなりません。

人間の眼には障害のように思えても、人間の感覚では遅いように思えても、人間の経験では無駄のように、遠回りのように思えても、神様のなさる事は全て、時に適って美しいのです。

秩序があり、調和が取れ、齟齬がなく、不協和音は発生しません。

アブラハムに与えられ、イサクに継承された「長子の権利」は、神様の選びによって、神様から賦与されるものであり、譲渡される性質のものでも、売買、交換される性質のものでもありません。

神様に関わるものと、この世のものとは、似て非なるものであり、混同しては、同列に扱ってはなりません。

「長子の権利」の意味合いの違いのように、キリスト教の礼拝行為と、この世の宗教の礼拝行為とは、似て非なるものです。

キリスト教の奉仕も、献金も、この世の奉仕や献金とは、似て非なるものです。

時間の余裕があるから、時間の都合がつくから、礼拝するのでも奉仕するのでもなく、お金の余裕があるから、献金するのでもありません。

唯一の神は仕えられる必要はなく、礼拝によって生き方を教えられ、生き方を吟味し、生き方を正す場であり、時なのであり、決して御利益を、無病息災、家内安全、商売繁盛、満願成就を祈願する場ではありません。

奉仕はボランティア活動の延長、ヒューマニズム実践の場ではありません。

時間と労力を献げる事によって、時間と労力の使い方や賜物の使い方を吟味するのであり、献金はお布施、喜捨ではなく、寄付でもなく、教会維持でもなく、十分の九の使い方を吟味し、神様に喜ばれるお金の使い方を教えられるのです。

ここにおられる皆様が、神様からの使命と働きを、聖書の逸話を通して確認し、神様の喜ばれる、神様の御栄光を現す生涯を送られますように。

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聖書箇所:創世記2519節から26節             2016-6-5礼拝

説教題:「アブラハムの子イサクの歴史…ぶつかり合い」 

【導入】

人間関係には適度な、微妙な、精神的、物理的距離が必要であり、近づき過ぎても、離れ過ぎても、問題が起こります。

兄弟でも、親族でも同じであり、ましてや、他人であるなら尚更でしょう。

干渉し過ぎるのは、口出しし過ぎるのは、近づき過ぎるのは問題です。

しかし、無関心、我れ関せず、知らん振り、離れ過ぎ、と言うのも問題であり、中々頭を悩ます問題ですが、18節に記されている「それぞれ自分のすべての兄弟たちに敵対して住んだ」を字義通りに解釈して、敵対する者は平和の障害だ、正義のためにも取り除かなければならない、殲滅すべきだ、等と、短絡的、独善的な行動を取ってはなりません。

主義主張の違いを認めない社会は、健全ではありませんし、「敵対して」と訳されている言葉は「~の前で」とか、「~に従って」「~に対抗して」「ばらばらに」と訳せると説明しましたが、イシュマエルの子孫は「敵対して住んだ」のではなく、「適度な距離を置いて住んだ」のであり、「付かず離れず住んだ」と解釈し、現代に適応する事を奨励しました。

我れ関せず、ではなく、違いを認めないのでもなく、相手の存在と考え方を尊重し合う関係、社会であらねばならず、そのためには、神様との関係において、自己を確立する事が重要です。

神様と言う、揺るぎ無い基準、土台があるからこそ、自己が確立、安定するのであり、自己が確立、安定するからこそ、対人関係においても、正しい判断が出来るのであり、悩む事が少なくなるのです。

神様との関係においての、自己の確立とは、罪人であるとの自覚と、神様に愛され、罪を赦された存在であるとの認識です。

この自覚と認識は、自然に培われるモノではなく、助け手、指導者が必要です。

幼い時には両親から、家庭での礼拝を通して成長してからは、教会で、教師や年長者に助け、導いてもらう事になるでしょうから、良い指導者との出会いが非常に重要です。

しかし、生まれ持っている個性が大きく影響する事を見落としてはなりません。

指導も重要ですが、個々の資質、生まれ持ったモノが大きく左右します。

今日はイサクの歴史、イサクの系図から、御こころを聞いてみましょう。

【本論】

25:19 これはアブラハムの子イサクの歴史である。アブラハムはイサクを生んだ。

アブラハムがイサクを産んだ時、アブラハムは100歳でした。

アブラハムはこの後75年も生きるのですから、一生涯の折り返し点あたりで子を得た訳です。しかし、単なる子ではなく、神様から与えられた使命、世界を祝福する、と言う大切な使命を引き継がせるのであり、育てる事において、配慮をし、神様の事を教える事において、模範を示し、更に、結婚相手を探す事においても、並々ならぬ配慮をし、神様の導きによって、イサクに相応しい結婚相手と出合わせさせて下さるのです。

アブラハムの信頼するしもべを導き、しもべの祈りに答えて下さり、しもべが迷う事のないように、しもべの祈りの通りの展開を見させて下さいました。

更に、神様はリベカの両親や兄ラバンにも働きかけて、リベカを嫁がせる事に同意させて下さり、リベカにも働きかけて、リベカが逡巡する事なく嫁ぐ事を決意させて下さいました。

神様のご計画は、機械的に進むのではなく、関わる全ての人々に働きかけて、積極的な応答を促し、関わる全ての人々に神様の栄光を拝させて下さるのです。

25:20 イサクが、パダン・アラムのアラム人ベトエルの娘で、アラム人ラバンの妹であるリベカを妻にめとったときは、四十歳であった。

イサクの妻リベカの生い立ちが簡潔に記されています。

パダン・アラム」とは「アラムの平坦な地」の意味であり、メソポタミヤ北部に広がる広大な地域です。

ベトエル」はイサクの従兄弟であり、イサクは従兄弟の子を娶った訳です。

その時、イサクは40歳でした。

現代でも晩婚の部類に入るでしょうが、当時でも晩婚と言えるでしょう。

現代のように、医療は発展しておらず、住環境も、食糧事情も、生きるには、生き延びるには過酷な時代です。

生まれた子どもが、皆、大人になれる時代ではありません。

早く結婚して、沢山子を生まなければならない時代にあって、40歳は遅過ぎでしょうが、これもまた、神様のご計画です。

神様のご計画の中で、重要な役割を与えられた人物は、押し並べて、皆、待たされます。神様に選ばれた事の自覚、器とされている事の自覚のためには、ある程度の時間が必要です。

選びと使命を与えられても、それで直ぐに納得する訳では、取り組める訳ではありません。

逡巡があり、悩み、尻込みがあり、励まし、導きがあって、確信と平安に至り、取り組めるのであり、進んで行けるのです。

更に、本人の自覚に加えて、周囲の人々の同意と承認が必要です。

本人だけが頑張れば良い働きではありません。本人だけが知っていれば上手く行く働きでもありません。

周囲の理解と協力を得るための、少なくとも批判と反対とが起こらないための周知の時間が必要です。

これらの備えがないと、上手く行かず、空回りし、誤解を招き、人間的な思いが先行しかねませんから、焦りは禁物です。

25:21 イサクは自分の妻のために【主】に祈願した。彼女が不妊の女であったからである。【主】は彼の祈りに答えられた。それで彼の妻リベカはみごもった。

19節で、神様のご計画は機械的に進むモノではない事を確認し、20節で、神様のご計画の推進には本人の自覚と、周囲の人々の承認が必要である事とを確認しました。

即ち、イサクだけが使命と働きを知っていれば良いのではなく、イサクの妻、リベカもイサクの使命を知り、理解し、同意し、協力者として備えられなければならないのです。

夫婦は、同じ目標に向って歩んで行くのであり、同じ歩調で進んでいくのであり、同じ障害に、困難に、二人で立ち向かうのであり、二人で乗り越えて行くのです。

これは、同時にとか、同じ方法でとか、寸分違わず、を勧めているのではありません。

一人一人賜物が違うのであり、考え方が違うのであり、男女差があるのであり、年齢差があるのであり、それを上手く調和させる時、過不足を補完し合う時、均衡の取れた働きが出来るのであり、神様のご計画が進んで行くのです

使命を共有し、使命を理解し、働きを共有し、働きのための賜物を確認する事が重要、必須です。

これは、夫婦に限らず、人間関係全般に言える事でしょう。

特に、神様からの使命、働きは、今日会って、直ぐに取り組める代物ではありません。

相互理解が構築されなければならず、使命、働きに対する共通認識がなされなければならず、そのためには、時間が必要なのです。

イサクがリベカを知るために、リベカがイサクを知るために、神様への祈願が必要であり、長い時間が必要であり、リベカが不妊である事が必要だったのです。

最初の内は、単に、子どもが産まれない事に対する祈り願いであった事でしょう。

イスラエル社会では、子どもの数は、神様の祝福の大きさの指標と考えられており、子沢山イコール大きな祝福を受けている、であり、子どもが産まれないイコール祝福を受けていない、呪われている、と考えましたから、呪われてはいない事、祝福を受けている事を確認するために、子どもを願っていた事でしょう。

しかし、イサクへの使命と働きに思いを馳せる時、子どもは使命と働きの継承者であり、私に子どもを与えて下さい、と言う表面的、抽象的な祈りから、使命と働きの後継者を与えて下さい、と言う実質的、具体的な祈りに変わって行ったのではないでしょうか。

この使命と働きですが、イサクだけの使命と働きでも、二代目までの使命と働きでもありません。十代、百代、千代にも続く使命と働きであり、続かせなければならない使命と働きです。

この使命、働きを継承する家系を維持して下さい、絶やさないで下さい、との祈りへと変わって行ったのではないでしょうか。

使命と働きの担い手であるイサクは勿論の事、イサクの祈りは、リベカも聞く事となり、リベカも整えられ、備えられて行くのです。

聖書に登場する人物の内、特別に重要な働きを担う人物の母親は、不妊であった事が特徴的に記されています。ヤコブの母、然り、ヨセフの母、然り、サムソンの母、然り、サムエルの母、然り、バプテスマのヨハネの母、然りです。

神様から与えられる使命と働きは、本人が知るのみではなく、両親も関わり、両親の献身に関わります。

具体的記述はサムエル記第一110節に記されています。

1:10 ハンナの心は痛んでいた。彼女は主に祈って、激しく泣いた。

1:11 そして誓願を立てて言った。「万軍の主よ。もし、あなたが、はしための悩みを顧みて、私を心に留め、このはしためを忘れず、このはしために男の子を授けてくださいますなら、私はその子の一生を主におささげします。そして、その子の頭に、かみそりを当てません。」

この祈りが神様に届いて、サムエルが産まれるのであり、サムエルの働きに先んじて、祈りの備えがなされているのです。

働き人の誕生には、母親の、長い不妊の苦しみと、篤い祈りがあるのであり、この苦しみと祈りの後に子を宿すのです。

勿論、不妊が全て、神様の干渉によると考えてはなりませんし、様々な病気や困難や問題の全てが、神様の干渉によって起こると考えてはなりません。

また、運命論的な考えに陥るのも危険ですし、自己責任で片付けるのも危険です。

病気になるのも、困難や問題が起こるのも、決まっている訳ではありませんし、病気や困難、問題は、不摂生や生き方だけが原因なのではありません。

病気や困難、問題が次々に起こったとしても、決して呪いや祟りなどではありません。

しかし、病気や困難、問題を通して、生きる目的や命について考えるチャンスとなり、神様と言う絶対者、創造者に思いを馳せるきっかけとなる事は、明言出来るのではないでしょうか。

しかし、多くの人は深く考える事をせず、神様との出会いの、折角のチャンスを逃しているのは残念な事です。

多くの人が、神様の存在を否定し、神様の語り掛けを無視する中で、神様を信じるアブラハムの子イサクと結婚したリベカは、不妊に悩むリベカのために、イサクの執り成しの祈りを経験し、子を宿したリベカは、本当に頼れる存在を知ったのであり、問題が起こる時、不安に陥る時、頼るべきお方が誰であるかを心得たのです。

25:22 子どもたちが彼女の腹の中でぶつかり合うようになったとき、彼女は、「こんなことでは、いったいどうなるのでしょう。私は」と言った。そして【主】のみこころを求めに行った。

22節の前半の状況説明は、後日談であり、双子である事はリベカに知られてはいません。始めての妊娠であり、日毎に大きくなっていく胎児と、迫り出してくるお腹。

胎児の動きも含めて、全てが未経験ですから、不安になるのは当然です。

激しい胎児の動きは、異常なのか、こんなものなのか、と不安は収まりません。

しかし、頼れる神様がおられるのですから、命を握っておられる神様の前に、聞きに行くのは当然な姿でしょう。

ぶつかり合う」と訳されているヘブル語は「押し潰す、圧迫する」と言う意味の言葉であり、新共同訳聖書、口語訳聖書とも「押し合う」と訳しています。

ぶつかり合う」はラグビーのタックルを想像し、「押し合う」は押しくら饅頭を想像しますが、不安に駆られた位なのですから、相当激しい「押し合い」だったのでしょう。

リベカは「神様のみこころを求めに」出かけますが、明確な礼拝の対象を知っていた事と、特定の礼拝の場所を持っていた事を暗示させる記述であり、異教的な託宣を求める事と、はっきり区別する記述です。

不安に駆られると、何にでも縋りたくなるものであり、馴染みの深い故郷「パダン・アラム」の神々に託宣を求めそうな場面ですが、イサクから色々聞かされ、不妊を通し、祈りを通し、身篭りを通し、祈りの答えを体験し、祝福を味わい、唯一の神様への信仰が芽生えま、その神様に寄り縋るまでの信仰になっていたのです。

勿論、まだまだ未熟な信仰であり、祝福されているのに「子どもたちが彼女の腹の中でぶつかり合う」矛盾と出合い、祝福されているのに「こんなことでは、いったいどうなるのでしょう。私は」と言う不安に駆られる矛盾に悩んだ事は想像に難くありません。

不安を持つ事は不信仰ではありません。その不安をどう処理するかが問題です。

悩み続けるか、気を紛らわせるか、人に頼るか、唯一真の神様に頼るか。

神様は寄り縋る者に寄り添っている事を教えて下さり、悩み苦しみ不安に陥る者に、平安を与えて下さいます。

25:23 すると【主】は彼女に仰せられた。「二つの国があなたの胎内にあり、二つの国民があなたから分かれ出る。一つの国民は他の国民より強く、兄が弟に仕える。」

リベカは理由を知って、平安に満たされた事でしょう。

 

理由の隠された困難や、苦しみから来る不安は、非常な苦痛ですが、理由が解れば、困難は耐え易くなり、不安は解消されるのではないでしょうか。

リベカの胎児の異常な動きの説明がなされ、リベカは安心した事でしょうが、リベカのお腹の異常な動きは、双子がいるからであり、その双子が、互いに優位争いをしているからだ、と言うのですから驚きです。

しかも、その優位争いは、弟が勝者となり、兄は弟に仕える事になるのであり、其々が国民と呼ばれるレベルにまで増大しても、その関係が保持される、と断言されているのですから驚きです。

兄、弟と言っても、双子ですから、厳密な意味での兄、弟の違いはありません。

子宮の中で激しく動き回り、位置が入れ替わっているのであり、兄、弟の区別は生まれる瞬間まで差はありません。

兄になるか、弟になるかは五分五分であり、僅差であり、兄になるか、弟と呼ばれるかは偶然のようですが、神様の眼にはハッキリとした違いがあるのであり、どちらが先に生まれるか、どちらが後に生まれるかが、ハッキリと決められているのであり、偶然ではないのです。

この腹の中でのぶつかり合い、押し合い、優位争いは、誕生の時にも起こり、成長の過程でも起こり、繰り返されます。

兄が優位であり、弟は兄に従うのが鉄則ではありません。

一般的にはこの原則が当て嵌まりましょうが、神様の選び、使命と働きとなると、世の原則は当て嵌まりません。

ヨセフは十人の兄を従える地位に付き、一族を窮地の中で保護し、モーセは兄と姉を従えて、六十万の民を引き連れてエジプトを脱出し、ダビデは七人の兄を押さえて、油を注がれて、イスラエルの王とされました。

一方ではサムソンや、バプテスマのヨハネは第一子であり、ヨセフや、サムエルは初産の子ですが、神様に選ばれ、使命と働きが与えられました。

出生順が選びの基準ではなく、能力の有無や優劣が選びの基準でもありません。

神様が選ぶ者に、使命と働きが与えられ、必要な能力も与えられるのです。

25:24 出産の時が満ちると、見よ、ふたごが胎内にいた。

25:25 最初に出て来た子は、赤くて、全身毛衣のようであった。それでその子をエサウと名づけた。

兄の命名の経緯が記されています。「赤くて、全身毛衣のようであった」から「エサウ」と名付けたと記されていますが、「赤くて」と訳されているヘブル語は「アドモーニー」であり、「毛衣のよう」と訳されているヘブル語は「セーアールー」であり、語路合せにしても、韻を踏むにしても、どちらもちょっと無理があるように感じるのはヘブル語を知らないからでしょう。

イスラエル人には何か、連想させるものがあるのでしょう。

続いて、弟の命名の経緯が記されています。

25:26 そのあとで弟が出て来たが、その手はエサウのかかとをつかんでいた。それでその子をヤコブと名づけた。イサクは彼らを生んだとき、六十歳であった。

かかと」と訳されているヘブル語は「アケブ」であり、語路合わせである事が解ります。

ヤコブ」と言う名前と、類型の名前は、古代東方で珍しくない名前であり、今でも見受けられる名前です。

かかとをつかむ」の本来の意味は「彼がかかとの所に居て下さるように」であり、「神様が彼を守って下さるように」の意味を持つようになったようです。

しかし、「出し抜く」と言うような、敵対的な意味にもなり得る言葉であり、ヤコブの将来を予言して記されてもいるのでしょう。

エサウとヤコブを産んだ時、イサクは60歳でした。イサクの一生は180歳ですから、生涯の1/3の時点で子を得た訳です。

120年間、エサウとヤコブの成長と共に、確執も目撃する事になるのですが、それらについては、折々に学んで行きましょう

【適応】

今日の中心にある出来事は、お腹の中での胎児のぶつかり合いです。

母親にとっては、自身の内側で起こっている出来事ですが、手足を出せず、口も出せず、仲介も、干渉も出来ません。原因も解らず、解ったとしても何も出来ない事に変わりはありません。

まあ、お腹を擦る位でしょうが、気休めでしかない事は明らかです。

では、何が出来るでしょうか、何をしなければならないのでしょうか。

神様の前に出る事であり、祈る事であり、聴く事です。これが全てです。

消極的なようですが、実は積極的であり、信仰がなければ出来ない事です。

そして、神様の前に出て、祈り、聴いたなら、後は委ねるべきであり、委ねるしかないのです。

兄弟の間のイザコザも、夫婦の間のイザコザも、家庭の中のイザコザも、教会の中のイザコザも、社会のイザコザも、全て、先ず、神様の前に出て、祈り、聴くべきです。

対処を考える前に、対処する前に、対処のし様がない問題でも、です。

そうすれば、解決は与えられなくても、原因が示されましょう。

原因が示されたならば、それで解決の道筋も見えてきましょうし、例え、相変わらず原因も解らず、道筋が見えなくても、委ねる事が出来るのではないでしょか。

原因も何も解らなくては、委ねる事は出来ない。確かに私たちの信仰はそんなに強くはないでしょう。

しかし、神様が知っておられ、神様が決めておられる事を知ったなら、それ以上の心配は不要です。

私たちの生涯には、解決出来る事もたくさんありますが、それ以上に、原因の解らない事、解決出来ない事、解決の難しい事がたくさんあります。

どうしようもない事がたくさんあります。

しかし、神様が知っておられる、神様が決めておられる、という事を知る事の益は計り知れません。

悩み苦しむ事が、全くなくなりはしないでしょうが、必要以上に悩み苦しむ事は少なくなるからです。

何故ならば、神様が、私の悩み苦しみをも知っておられるからであり、悩み苦しみを和らげて下さるからであり、慰め励ましを与えて下さるからです。

ぶつかり合いを見る事は、ぶつかり合いに巻き込まれる事は悲しい事、辛い事ですが、神様が知っておられ、神様の許しの中で起こっている、と知るならば、神様が解決も備えておられると確信出来るのであり、信仰を持って、見守る事が出来るのであり、確信を持って委ねる事が出来るのです。

悩み、苦しみを神様の前に持っていきましょう。

神様は平安を与え、慰め、励ましを与えて下さいます。

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