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聖書個所:ヨハネ10:19                    2017-2-19礼拝

説教題:「羊の囲いのたとえ」

【導入】

天国は正しい人、それも、人間的に見て正しい人ではなく、神様の目から見て正しい人でなければ入れません。

そこでユダヤ人は何とかして神様が要求する基準に達して、天国に入ろうとして、律法を守り、祭儀を執り行います。

しかし、自分の力で、努力で、献げ物で、精進で、難行苦行で、律法を守る事では、決して神様に認められる事はなく、天国に入る事は出来ないのです。

ユダヤ人だけでなく、私たちは皆、誰も自分の努力で天国に入る事は出来ません。

自分の努力で入る事が出来ない天国ですが、招いてくれる方があれば入る事が出来ます。

この事は海外旅行をする時に、体験出来るのではないでしょうか。

行こうとする意思があり、ビザが発給されれば、希望する国に入る事が出来るのです。

私の努力ではなく、ビザを発給する側の決定に従うしかありません。

しかも、ビザの発給に際して、犯罪歴があるとビザの取得は非常に難しい事になります。

でも、身元を保証してくれる有力な組織や団体があれば、ビザは程なく発給される事でしょう。

天国にもビザが必要なのであり、そのビザに相当するのが、天国の主人、王様、イエス様の招きであり、私たちはその招きがあれば天国に入る事が出来るのです。

イエス様はこの事を、喩えを用いてお話しになられました。

聖書の各所に、天国の喩えが語られ、また、その他にも多くの事を喩えで話された事が記録されています。今日のテキストの箇所も、イエス様を門に喩えてのお話です。

イエス様が喩えで話される理由は二つあります。一つは聞く人々の日常に関る事が喩えとして用いられているので、理解し易い、と言う理由です。

もう一つの理由は謙って聞かなければ、真理を悟る事がないようにするため、真理を隠すため、と言う理由です。

理解し易いため、と言うのは納得出来ますが、隠すために喩えを用いる、と言うのは何か意地悪な感じがします。しかし、イエス様は決して意地悪で喩えを用いるのではなく、素直な心で、偏見のない心で、幼子のような柔らかな心で聴く者が理解出来るように、難しい神学ではなく、解かり易い喩えを用いるのであり、邪悪な心で、片寄った心で、石のような頑なな心で聴く者には、解からないようにするために、喩えを用いる、と言う事なのです。

前回学んだように、自分の罪深さを知り、神様の憐れみに縋るしかないと自覚し、心の目の曇り、覆いを取り除かれた者だけが、イエス様の語られる言葉から真理を悟る事が出来るのであり、それがイエス様、神様のご計画なのです。

【本論】

10:1 「まことに、まことに、あなたがたに告げます。羊の囲いに門からはいらないで、ほかの所を乗り越えて来る者は、盗人で強盗です。

10:2 しかし、門からはいる者は、その羊の牧者です。

イエス様は羊の囲いを喩えに用いてお話しを始められますが、これは目の見えない人の癒しと懸け離れた、唐突な話しの転換ではなく、心の目が見えるようにされる事の大切さを話された直後に、目が開かれ、救い主が誰であるかを悟った者に、次に聴き従う事の大切さを悟らせようとして、ユダヤ人の身近な生き物を喩えに用いて話を始められたのです。

イエス様は非常に大切な事を話されるときには「まことに、まことに」との前置きの言葉を持って話し始められます。

「まことに」と訳されている言葉は「アーメン」と言うギリシャ語であり、その意味は皆様ご存知の通り「その通りです」「真実です」と言うような意味を持つ言葉です。

ですから、イエス様が「まことに、まことに」と仰るのは「これから大切な話しを始めるよ。真実を語るから心して聴きなさい。」と言う注意喚起なのです。

さて、この羊の囲いとは、水も洩らさぬ厳重な警備体制を敷いたものではなく、イエス様の時代ののどかな、のんびりとしたものであり、羊が飛び越えられない高さ、凡そ2m位の高さに石を積み重ね、或いは材木で柵を作って囲った場所の事です。

イスラエル人にとって羊は身近な動物であり、エルサレムやそこかしこの町々、村々には、その郊外に牧草地があり、羊の囲いが点在していたのであり、誰もが知っている、思い浮かべる事の出来る場所だったのです。

羊の囲いは、羊が何処かへ行ってしまうのを防ぐと同時に、盗賊や猛獣から守るためであり、個人が個人の囲い場を所有、管理しているだけではなく、数人で幾つかの囲い場を利用したりしていたようです。

羊の囲い場には出入り口があり、門番がいて人の出入り、羊の出入りを見守っていました。

羊の持ち主には門を開き、見知らぬ人には門を通らせなかった訳です。

10:3 門番は彼のために開き、羊はその声を聞き分けます。彼は自分の羊をその名で呼んで連れ出します。

羊の持ち主は門から入り、自分の羊に声をかけ、付いて来る羊を牧草地に連れて行きます。

羊は弱く、愚かで臆病な動物であり、走るのも遅く、目も悪く、目の前しか見えないそうです。

草を食べながらどんどん前に歩いて行き、気が付くと迷子になっている、と言うのも珍しくはない事だそうです。

しかし、目が悪く、愚かでも、耳は良いそうで、人の声は聞き分けられると言うのです。

10:4 彼は、自分の羊をみな引き出すと、その先頭に立って行きます。すると羊は、彼の声を知っているので、彼について行きます。

10:5 しかし、ほかの人には決してついて行きません。かえって、その人から逃げ出します。その人たちの声を知らないからです。」

私たち羊の牧畜に携わった事がない者には、この情景自体が理解出来ない事ですが、ユダヤ人にとっては日常の生活の一こまですから、自分が羊を飼っていなくても、すんなりと理解出来た情景なのです。

羊飼いは羊の一匹一匹に名前を付ける事があるようです。何故ならば、羊は食用というよりも、生贄用であり、人間の罪を背負って身代りとなる存在だからです。それだけ、身近な動物であり、単なる家畜ではなかった訳です。

一匹一匹に名前をつけ、手塩にかけて育て、最終的には神様に献げるのです。

商売のためや、食用として飼っているのではなく、自分の罪の身代わりとして献げるために育てているのです。

勿論、時には客人をもてなす為や、祝い事の時に、食する事もあるでしょうし、乳製品を利用する事もあるでしょう。しかし、現代の私たちが食するような肉食の生活ではありません。肉食は祝い事などの特別な行事の時に饗されるであり、羊は家畜ですが、家畜以上の生き物、ペット以上の生き物、家族のような存在なのです。

ですから、その育て方には細心の注意が注がれています。

羊飼いは自分の羊の群れを導いて、美味しい草の生えている、しかも安全な場所に連れて行く。まるで、家族や我が子を連れて行くようにです。

この羊飼いが羊の群れの先頭に立って導く姿はモーセの出エジプトを彷彿とさせます。

モーセは民の先頭に立って、安全な道を選んで、民の必要を満たしながら目的地に向かって民を導いたのです。

モーセに従う限り、安全に、確実に、目的地に到達出来るのです。モーセは自分の利益の為に、民を導いたのではありません。何の利益もないのに、民から文句を言われ、民の為に神様に呪いを受けてまで民を導いたのです。

民は約束の地、カナンに入れたのにモーセはヨルダン川を目の前にして渡る事を許されず、その職務を全うして召されました。

羊飼いは羊の為に命がけでその職務を果すのです。

これは、羊飼いの心得であり、イエス様の予表でありましょう。

一方、羊は自分が何処に行くかを知ってはいませんが、羊飼いを信頼してその声に従って歩いて行くのです。

羊飼いは何処を通れば安全であるか、何処に滋味の豊富な草が生えているかを知っている。

だから羊は羊飼いの声をちゃんと聞き分けて付いて行くのであり、知らない人に付いて行く事はないのです。

10:6 イエスはこのたとえを彼らにお話しになったが、彼らは、イエスの話されたことが何のことかよくわからなかった。

極当たり前の事であり、「まことに、まことに」と話し始められたにしては、何を言いたいのだろう、何を伝えたいのだろう、と聴いていた人々が訝るのは当然のように思われます。

10:7 そこで、イエスはまた言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしは羊の門です。

10:8 わたしの前に来た者はみな、盗人で強盗です。羊は彼らの言うことを聞かなかったのです。

10:9 わたしは門です。だれでも、わたしを通ってはいるなら、救われます。また安らかに出入りし、牧草を見つけます。

羊の囲いの喩え話を理解出来ずに訝る人々に向かって、イエス様は更に詳しく、その意味を説明されます。

7節の「わたしは羊の門である。」

この宣言は、決して容易に理解出来る言葉ではありませんし、続く説明もユダヤ宗教指導者たちだけでなく、私たちにも難解な説明でしょう。

わたしを通ってはいるなら、救われます。また安らかに出入りし、牧草を見つけます

この宣言はイエス様ご自身が門であり、誰もが通れる門であり、平安と安全、が保証されている事を宣言します。

イエスと言う門を通らなければ、囲いに入り、安全に憩う事が出来ず、イエスという門を通らなければ、滋味豊かな牧草にありつく事も出来ないのです。

イエスという門を通らないで、門番の目を避け、石垣を乗り越えて入って来る者は、盗人であり、強盗であり、或いは猛獣などであって、羊の事など心にかけず、羊を食い物にし、自分の欲望を満たすだけです。

「もし神の群れに加わろうとするならば、全ての羊は例外なくわたしを通らなければならず、また、神の群れの牧者になろうとする者も例外なくわたしの許しを経て通らなければ、職務に付く事が出来ない」と言う事なのです。

この宣言はユダヤ人宗教指導者にとって、驚くべき言葉であったに違いありません。

否、私たちにとっても驚きの宣言です。

イエス様という門を通らなければ神の民に加えられず、安らかならず、牧草、つまり、命の糧を得る事が出来ないと言うのです。

ユダヤ人や私たちの多くが、イエス様と言う門を通らないでも神の群れに加われると考え、その方法を模索します。

その代表的な例が、ユダヤ社会にあっては、律法の厳守であり、祭儀の励行です。

現代では数多の宗教があり、哲学があり、幸福論などが巷に溢れています。

しかし、神の群れに加わる方法は唯一であり、イエス様という門を通らなければならず、他の如何なる方法によっても神の群れに加わる事は出来ないのです。

また、神の群れを導こうとするならば、イエス様の任職を受けなければならないと言う事なのです。

このイエス様の宣言は、ユダヤ人宗教指導者たちを否定するものであり、盗人、強盗と見なしての宣言であり、イエス様の栄光を認めず、イエス様を差し置いて他のものを優先させる者、つまり、律法を、伝統を、自分たちの権能権威を絶対のものとして、イエス様を受け入れようとしない者たちを断罪している言葉なのです。

そして、この宣言は神のメシヤ以外には誰一人、宣言する事の出来る者は居ないのであり、事実、どの預言者も使徒も、このように語った者は一人も居ないのです。

「わたしは門です」この言葉は、神の子イエス様だけが宣言出来る言葉であり、この宣言の通り、イエス様だけが神の群れに加わる事が出来る門なのです。

【適応】

イエス様はご自身を「門」と宣言されました。これは非常に重要な事ですが、それと同時に、今日のテキストの箇所全体を通じて、羊飼いの声と、それに聴き従う事が、どれ程強調されているか、と言う事に注目しなければならないでしょう。

門も大切、重要ですが、門を通るか通らないかは「声」に聴き従うか否かに掛かっているからなのです。

イエス様が神の群れに加わる為に通過しなければならない門である、と言う事を理解出来たとしても、私たちが羊飼いの声、霊的指導者の声を聞き分けず、その声に従わないならば、門を通過する事は出来ないのです。

先ほど説明したように、羊の視力は弱く、目と鼻の先しか見えません。視力は頼りにならず、聴力だけが頼りなのです。朧気にしか見えない中で、声だけが鮮明に聞える。

その声に聴き従うかどうかで、生きるか、迷うか、死ぬかが決まるのです。

羊には羊飼いの声を聞き分ける能力と、聴き従う従順が要求される訳です。

私たちも、心の目の曇りが取り除かれ、覆いが取り除かれて、イエス様が救い主である事を理解した後には、イエス様の声に聴き従う必要があるのです。

知っている事と、従う事は別問題です。知っていれば良いのではなく、従わなければなりません。知っていても従わなければ、知らないのと変わりはありません。

聴き従う時に、イエス様という門を通る事が出来るのであり、神の群れに加えられるのであり、救われ、憩い、永遠の命を頂く事が出来るのです。

聴き従わなければ、門を目の前にしても、門の存在を知る事が出来ず、門を通り抜ける事が出来ずに、神の群れに加えられる事なく、牧草にありつく事なく、滅んで行かなければならないのです。

年老いた羊でも、生まれたばかりの羊でも、オスでもメスでも、強くても、弱くても、羊飼いの声に従って付いていくなら、門を通りぬけ、神の群れとして生き、滋味豊かな牧草にありつく事が出来るのです。

信仰生活が長くても、短くても、老若男女を問わず、能力があってもなくても、聖書の教えに聴き従うならば、神の民の群れに加えられ、永遠の命を頂く事が出来るのです。

聴き従うとしても、間違った教えに聴き従ったならば、門を通り抜ける事は出来ず、神の民に加わる事は出来ません。

羊には本当の羊飼いの声を聴き分ける事と、その声に聴き従う事が求められているのです。

次に、羊飼いには、羊を導く声を発し続け、群れの全体を見守る責任がある事を自覚しなければなりません。

一匹くらい迷っても仕方がない、は通用しません。常に、群れの全体に気を配り、先頭に立ちつつも、最後尾の羊にまで配慮して導かなければなりません。

元気に付いて来る羊ばかりではありません。歩き疲れて遅れてしまう弱い羊もいるのです。

素直に付いて来る羊だけでなく、横道に逸れる羊もいるでしょう。本当の羊飼いの声に聴き従う羊ばかりではありません。よその声に惑わされる羊もいるでしょう。

それらの全ての羊に気を配り、導かなければならないのです。

聴いてくれないからと言って、黙っていたのでは職務怠慢の謗りを受けるでしょう。

聴いても聴かなくても語り続ける継続と、聴き従うまで語り続ける忍耐が要求されます。

この大切な職務を全うする時、羊は栄光の御国に入る事が出来るのであり、羊飼いは大牧者イエス様の僕として褒賞を受ける事が出来るのです。

また、私たちは羊に喩えられていますが、時には羊飼いとしての職務が与えられる時もあるでしょう。その時には大牧者であるイエス様を見習って、命がけで委ねられた羊を導かなければなりません。

教会学校の教師として、家庭にあって親として、幼い子どもたちをイエス様という門に導かなければなりません。

家族や親族、同僚、地域の人々にイエス様を紹介し、イエス様という門に導かなければなりません。

ここにおられる皆様が聖書の言葉に聴き従い、イエス様と言う門を通って神の民に加えられる幸いに生きられ、同時にイエス様を指し示す者として生きる事を願ってやみません。

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聖書個所:ヨハネ9:2641                    2017-2-12礼拝

説教題:「あなたがたの罪は残るのです」

【導入】

イエス様は数々の奇蹟を行なって来られましたが、その奇蹟は人々の注目を集め、話題となりました。

人間には出来ない事をなされたのですから、誰もが賞賛し、イエス様を歓迎し受け入れたかと言うと、そうではありませんでした。

好意的に見る人々も居れば、悪意を持って見る人々も居たのです。好意的に見る人々の多くは、一般民衆たちで、学問もなく、自分の罪の問題に悩んでいる人々でした。

朝起きてから夜寝るまで、罪と無縁で過ごせる人はいません。多かれ少なかれ、日常の生活は、律法に触れる事が多いです。細心の注意を払っても、罪を犯すかも知れない。

その事に悩み苦しんで、救い主の現れを心から待ち望んでいた人々は、イエス様の行ない、言葉を聴いて、この方こそ救い主だと信じて受け入れたのです。

一方、悪意を持って見る人々の多くは、学問があって、人々を指導する立場にある祭司、律法学者、パリサイ人たちでした。彼らは、イエス様の言動はユダヤ人宗教指導者たちの権威を脅かすもの、人々を惑わすもの、ユダヤ社会の秩序を乱すもの、と考えたのです。彼らは、自分たちは罪を犯していない、救われている、と考えていました。ですから、「世の罪を取り除く神の子羊」の必要性を感じないばかりか、自分たちとは関係ないと考えていたのです。

しかし、本当に罪を犯してない人、或いは犯した罪の精算が済んで、救われていると確信を持って言い切る事が出来る人がいるのでしょうか。

パウロはローマ書310節で「義人はいない、一人もいない」と断言していますが、旧約聖書でも、伝道者の書720節に「この地上には、善を行ない、罪を犯さない正しい人はひとりもいない」と記されているのです。誰もが罪人であり、救われていないのです。

そして、この罪人を救うためには、繰り返し献げられる生贄ではなく、完全な贖いをなす救い主が必要なのであり、その救い主は全く罪のないお方でなければならないのであり、つまり人であってはならず、神様以外にはあり得ないのです。

では、この救い主である神様をどのようにして見分ければ良いのでしょうか。

神様であるかどうかは、その行ないによって知る事が出来ます。

神様にしか出来ない事をされるなら、そのお方こそ、見かけはどうであっても救い主なのであり、受け入れなければならないのです。

イエス様は、唾で泥を作り、それを目に塗り、池に行って洗う事で、目が見えるようにして下さいましたが、唾にも、泥にも、池の水にも、癒しの力はありません。

イエス様がお持ちの力が生まれつきの盲目を癒したのであり、生まれつきの盲目を癒すのは神様だけになし得る癒しであり、生まれつきの盲目を癒されたイエス様こそ神様、救い主であると言う事の証明なのです。

しかし、皆がこの事を理解し、受け入れる訳ではありません。

律法を守る事を神様に対する最大の忠誠心、信仰心の現れと考えるユダヤ人指導者たちは、安息日の神聖を犯す者を容赦しません。

生まれつきの盲目の人を癒す力が、どんなに偉大で、不思議な事か。

その不思議な力を発揮するお方が誰なのかを、考え知ろうとする事よりも、安息日に病気を癒した、と言う事だけを取り上げて、問題としているのです。

生まれつきの盲目の人からも、その人の両親からも、イエス様を落とし入れる証言を引き出せなかったユダヤ人宗教指導者たちは、盲目であった人を呼び出し、尋問を再開します。

【本論】

9:26 そこで彼らは言った。「あの人はおまえに何をしたのか。どのようにしてその目をあけたのか。」

事の詳細を知りたいと願うのは、人の自然な欲求でしょうから、尋問を再開した事を一概に責める訳にはまいりませんが、その動機が重要です。

ユダヤ人宗教指導者たちが尋問を再開したのは、決して好意から出た、真実を知ろうとする健徳的な動機ではありません。何とかしてイエス様の行為が、反ユダヤ教的行為であるかを証明したくて躍起になっているのであり、その証拠を引き出すために同じ質問を繰り返しているのです。真理を知りたくで質問を繰り返しているのではなく、イエス様を落とし入れる証拠を掴みたくて愚問を繰り返しているのです。

盲目であった人は呆れ返って、皮肉な質問を返します。

9:27 彼は答えた。「もうお話ししたのですが、あなたがたは聞いてくれませんでした。なぜもう一度聞こうとするのです。あなたがたも、あの方の弟子になりたいのですか。」

ユダヤ人の間では、ある先生に願い事を頼む時は、その先生の弟子に仲介を頼むのが通例でした。直接先生に声をかけて、お願いするのではなく、弟子に口添えをしてもらうのです。弟子になろうとする時も同じです。先生の弟子を通じて、弟子入り志願の意を伝えてもらうのです。

盲目だった人は、ユダヤ人宗教指導者たちの執拗な、同じ質問の繰り返しに、悪意を感じてなのか、言い出しにくい問題と察してなのか「あなたがたも、あの方の弟子になりたいのですか。」と問い質します。

それに対する反応がまた見物です。ユダヤ人宗教指導者たちは、盲目だった人の応答に激怒し、罵り返して、しかも、言わずもがなの事を口走ってしまいます。

9:28 彼らは彼をののしって言った。「おまえもあの者の弟子だ。しかし私たちはモーセの弟子だ

9:29 私たちは、神がモーセにお話しになったことは知っている。しかし、あの者については、どこから来たのか知らないのだ。」

ユダヤ人宗教指導者の言う「モーセの弟子」は比喩的表現です。

モーセは預言者であり、イスラエル民族の霊的指導者でしたが、モーセの弟子と言えるのは唯一人、ヌンの子ヨシュアだけです。

ヨシュアはその使命を終えてから、エフライムの山地にあるティムナテ・セラフに隠棲し、そこでその生涯を終えました。そして、ヨシュアに弟子は居ません。

ですから、ユダヤ人指導者の「モーセの弟子」という証言は、モーセを祖とする弟子ではなく、モーセ五書を信奉している事の表明であり、また、旧約聖書全般の擁護者である事の表明です。

もし、彼らが旧約聖書の擁護者であり、信奉者であると自負するならば、モーセが書き記し、古の預言者たちが書き記した旧約聖書全般の預言に敬意を払うはずであり、

出エジプト記411節「主は彼に仰せられた。「だれが人に口をつけたのか。だれがおしにしたり、耳しいにしたり、あるいは、目をあけたり、盲目にしたりするのか。それはこのわたし、主ではないか。

詩篇1468節「主は盲人の目をあけ、主はかがんでいる者を起こされる。

また、イザヤ書3545節「「神は来て、あなたがたを救われる。」

そのとき、盲人の目は開かれ、耳しいた者の耳はあけられる。」と言う聖句も知っています。

この知識はユダヤ人宗教指導者だけのものではありません。

ユダヤ人なら誰でも知っている聖書知識であり、盲人を癒す事が出来るのは、ユダヤ人の信じる神様だけであると知っていたはずなのです。

盲人の目が開かれる時は、単に癒しの奇蹟が行なわれた、と言う単純な事なのではなく、神様が来た証拠であり、ユダヤ人の所に救いが訪れた事の明確な印しである事を預言によって知っていたはずなのです。

ましてやユダヤ人宗教指導者たちは、盲目の癒しが、預言の成就である事に関連付けて考える立場にあり、地上の何処で生まれたかなどから判断するのではなく、行なわれた業から本質を見抜き、人々に紹介しなければならない立場なのです。

ところがユダヤ人宗教指導者たちは、自分たちに与えられた尊い使命、責任を放棄し、愚かにも、苦し紛れに「知らない」と放言してしまったのです。

9:30 彼は答えて言った。「これは、驚きました。あなたがたは、あの方がどこから来られたのか、ご存じないと言う。しかし、あの方は私の目をおあけになったのです。

9:31 神は、罪人の言うことはお聞きになりません。しかし、だれでも神を敬い、そのみこころを行なうなら、神はその人の言うことを聞いてくださると、私たちは知っています。

9:32 盲目に生まれついた者の目をあけた者があるなどとは、昔から聞いたこともありません。

9:33 もしあの方が神から出ておられるのでなかったら、何もできないはずです。」

自分たちは長老だ、律法学者だ、パリサイ人だ、指導者だ、と自他共に認める存在であったのに、教える事は山ほどあっても、教えられる事など何一つない、と豪語していたのに、ユダヤ人宗教指導者たちの口からではなく、ユダヤ人宗教指導者たちが愚かだ、呪われていると蔑んでいた一般民衆の口から、神様に対する本当に謙った考え方、態度が証しされます。

神様は罪人の祈り、願いを聴き入れては下さいません。神様は、神様を敬い、その御こころを行なう人の祈り、願いを聴き入れて下さる。

これが、民衆の、宗教指導者たちが教える神様に対する確信です。

このように教え諭しているユダヤ人宗教指導者たちが、教えた事と相反する判断をイエス様に対して行なっているのですから、盲目だった人に指摘されるのは当然です。

私でさえこの事を知っているし、確信している。

それなのに、あなたたち宗教指導者は、あのお方を知らないと言う。

盲目の私の目をあけたあのお方の事を、あなたたちは何と、誰だとお考えなのですか?

自分だけの考えでなく、ユダヤ人たちが共通して持っている聖書の知識を紹介して、それを根拠に、尊敬するユダヤ人宗教指導者たちに言葉を選んでやんわりと応じます。

9:34 彼らは答えて言った。「おまえは全く罪の中に生まれていながら、私たちを教えるのか。」そして、彼を外に追い出した。

形勢不利になると、権威を盾にして、弱い立場にある者を踏み潰しにかかるとは、何て卑怯な、卑劣なやりかたでしょうか。

この論争の場にはユダヤ人宗教指導者たちは、それこそ文字通り大勢いたのです。

対して盲目の人はたった一人でこの大勢のユダヤ人宗教指導者と対峙したのです。

多勢に無勢、しかも、知識豊富な宗教指導者対一介の民衆です。少数派より多数派が、正論より伝統や地位が優位に立つのが、悲しい事に現実なのかも知れません。

しかし、今回の奇蹟に対してたった一つの可能な説明、聖書的な説明は、神様がイエス様を遣わして、あのような驚くべき奇蹟を行なわれた、と言う事に尽きるのです。

その正論に対して、お前は罪の中に生まれていながら、私たちを教えるのか、と暴論で発言を封じ、遂には「外に追い出した」、つまり会堂から追放してしまうと言う暴挙にでるのです。

この会堂からの追放は、ユダヤ社会から村八分にされた事を意味します。ユダヤ人は皆、この村八分にされる事が恐ろしくて、ユダヤ人宗教指導者たちと関るのを避けて来ました。

更に、この会堂からの追放は、天国に入れない事、天国から締め出された事をも意味します。単なる村八分ではなく、永遠の命に関る重要な事柄なのです。

つまり、会堂からの追放は、現世でも非常な不利益を被り、死後には天国に入れず、地獄に行く事を意味するのであり、ユダヤ人にとって本当に恐ろしい処罰なのです。

だから盲目だった人の両親も、会堂からの追放を恐れて、自分の意見を述べる事を躊躇し、言葉を濁してその場を取り繕ってしまったのです。

しかし、この盲目であった人は、例え村八分にされようと、正しい見解を堂々と述べたのです。これは、聖書が教える事をそのまま述べると言う事であって、言いたい事を言いなさい、とか、自分の考えを主張しなさいとの奨励ではありません。

聖書の教えを語るのに、誰にも遠慮する必要も、配慮する必要もありません。

勿論、解り易く、理解しやすいように語る努力は大切ですが、歪めたり、薄めたり、曖昧にしてはなりません。

聖書がだめと記しているなら、だめなのであり、神様が言えといわれたら何が何でも言わなければならないのです。

言う事によって関係が悪くなったり、気まずい思いをする事を恐れて避けてはなりません。

言わないで、神様との関係が悪くなったり、神様の御顔を避けるようになる事の方が恐ろしい結果を招くと肝に命じ、忘れてはなりません。

ユダヤ人宗教指導者との関係や、ユダヤ人社会との関係よりも、神様との関係を大切にし、そのために村八分を恐れず、命を投げ出す人を神様が見捨てる訳がありません。

神様はそんな忠実な人を探し出して、励まし、慰めを与えてくださいます。

9:35 イエスは、彼らが彼を追放したことを聞き、彼を見つけ出して言われた。「あなたは人の子を信じますか。」

9:36 その人は答えた。「主よ。その方はどなたでしょうか。私がその方を信じることができますように。」

9:37 イエスは彼に言われた。「あなたはその方を見たのです。あなたと話しているのがそれです。」

9:38 彼は言った。「主よ。私は信じます。」そして彼はイエスを拝した。

イエス様と始めて出会った時、この盲目の人は「イエスという方」と言っていました。

次には「預言者です」と告白し、イエス様にあけていただいた目でイエス様を見て「主よ」と告白するに至ったのです。

人は段階を踏んで成長するのであって、始めは幼い信仰からスタートし、自分の利益に関るところでまごまごしますが、成長して「主よ。私はどのような状況下にあろうとも、あなたを信じます」との告白をするに至るのです。

9:39 そこで、イエスは言われた。「わたしはさばきのためにこの世に来ました。それは、目の見えない者が見えるようになり、見える者が盲目となるためです。」

9:40 パリサイ人の中でイエスとともにいた人々が、このことを聞いて、イエスに言った。「私たちも盲目なのですか。」

9:41 イエスは彼らに言われた。「もしあなたがたが盲目であったなら、あなたがたに罪はなかったでしょう。しかし、あなたがたは今、『私たちは目が見える。』と言っています。あなたがたの罪は残るのです。」

イエス様はここで、重要な教理を教えられます。

私たちはイエス様を救い主と告白しますが、それはイエス様の一面を現しているだけです。

イエス様は救い主ですが、裁き主でもあり、その救いと裁きは表裏の関係にある、と言う事を忘れてはならないのです。

ここでイエス様は「見えない」と「見える」、「見える」と「盲目」を対比されていますが、これは勿論肉体の目の事ではありません。

霊的な目の能力の事であり、霊的な目が見えているか、霊的に盲目になっていないかが問われているのです。

霊的な目が見える人とは、イエス様のお取り扱いを受けて、霊的な目の曇り、目の覆いが取り除かれて、イエス様を神様が遣わしたお方であると信じる者の事であり、

霊的な盲目とは、イエス様のお取り扱いを否定し、自分たちの知識と伝統と権威を通してしかイエス様を見る事をせず、聖書の教えに謙虚にならず、忠告や証しを聴こうともせず、イエス様を受け入れようとしない人々を現しているのです。

40節のパリサイ人の「私たちも盲目なのですか。」との質問は、謙遜から出た、自らの状態を案じてなされた悔い改めの質問ではなく、皮肉と嘲りの応答であり、直訳は「まさか、私たちも盲目と言う事はないでしょうね」なのです。

この言葉こそが、罪の本質であり、私は大丈夫、私は問題ない、私は律法を完全に守っている、神様の基準、要求に充分応えている、と思い込んでいる事の現れなのです。

私は目が見える、つまり、律法を正しく解釈し、生活で落ち度なく実践している、と言う傲慢な態度は、神様から退けられます。

律法を完全に行ってる、との意識は、救い主の必要を否定し、罪をそのまま残す事になるのです。

逆に私は盲目である、つまり、私は律法の要求を満足させるような行動はとれない罪人です、との自覚と告白こそが、神様の喜ばれる礼拝であり、自分ではどうしようもない罪に悩んで、誰かに罪を取り除いていただく必要を痛感しているから、イエス様が手を差し伸べて下さった時に、喜んで応じる事になり、救いに与る事になるのです。

霊的な目があけられるからこそ、何が神様の前に正しい事なのか、何が神様に喜ばれる事なのかが解かるようになるのです。

霊的に盲目な状態では間違った選択しか出来ません。

それでは罪が残るどころか、罪を増やす事しか出来ないのです。

【適応】

世の中には他力救済と自力救済があります。

キリスト教は完全な他力救済です。

自力救済の部分は全く“0”です。

救いは100%イエス様のお働き、十字架の死、復活、昇天、執り成しにかかっているのです。

この事を信ぜず、0.0001%でも、何かしら自分の働きが必要であり、働きが功を奏する、神様は私の働きを必要としていると考えるならば、それは大きな間違いであり、イエス様の働き、贖いの完全性を否定する事であり、全ての罪に対する精算を自力でしなければならなくなるのです。

しかし、自力で罪の精算をする事は何人にも出来ない事なのです。

誰もが神様の前に立ち、その行なってきた事に対して申し開きをしなければならないのです。

そして、もし、弁護し、執り成して下さる方が居なかったならば、裁きの結果は想像を絶する厳しいものとなる事を覚悟しなければならないでしょう。

しかし、イエス様を信じ、自分を明け渡すならば、その人にはイエス様が弁護をして下さり、執り成して下さり、既に十字架において罪の贖いが完成している事を証言して下さるのです。

私たちの罪は完全に贖われており、全ての罪が赦され、イエス様の義が、私たちのものとされ、私たちは天国に入れるのです。

もう一度言います。イエス様を否定し、或いはイエス様の贖いの業を信じる事が出来ず、自らの行ないによって義を獲得しようとするならば、全ての罪は残るのです。

自分は罪と呼ばれるような事はしていない、自分の問題は自分で何とかする、善い事をすれば償える、と語る人がいます。

しかし、どんなに善い行ないや献げ物をしても償えません。

何故ならば、聖書が言う罪は、犯罪や法律違反だけではないからです。

一番大きな罪は、神様に、イエス様に背を向けた生き方であり、それは神様に、イエス様に向き合わなければ解決しない問題なのです。

もし、イエス様を否定するならば、それは霊的に盲目の状態で天国を目指す歩みです。

決して天国に入る事は出来ません。

イエス様の下に参りましょう。イエス様は霊的な目をあけてくださり、更に道案内までして下さいますから、道に迷う事なく、安全、確実に天国に入れます。

ここに居られる皆様が、霊的な目をあけていただいて、罪を赦された喜びに溢れた新しい人生を歩まれますように。

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聖書個所:ヨハネ9:1325                    2017-2-5礼拝

説教題:「事情聴取」

【導入】

イエス様は数々の奇蹟を行なって来られました。

前回、201611月の説教では、唾で泥を作り、それを目に塗り、池に行って洗う事で、目が見えるようにして下さった事を扱いました。

ある時には耳に指を差し入れ、またある時には舌に触り、患部に手を置き、その不自由な状態から解放して下さったのでした。

イエス様は神様ですから、言葉だけで癒す事がお出来になられます。

事実、ある百人隊長の僕は、遠く離れていて、イエス様に見てもいただかず、触りもしないで、言葉だけで癒していただきました。

しかし、多くの人が見て理解出来るように、イエス様は言葉だけでなく、何かしらの行動を伴って、癒しの奇蹟を行なわれたのです。

この行動は、人々が見て、イエス様を理解する助けになると同時に、イエス様に対して悪意を持っている者に対しては躓きとなるものだったのです。

何故ならば、イエス様が癒しを行なわれた日の多くは、安息日、つまり、ユダヤ人が働いてはならない日であったからです。

安息日は、どんな理由が有っても働いてはならず、働かせてもならない日なのです。

安息日はユダヤ人だけでなく、異邦人であっても、使用人であっても、奴隷であっても働くのが禁じられており、働くようにそそのかす事も禁じられていたのです。

これらの律法を守る事はユダヤ人の掟であり、例外は認められなかったのです。

それなのに、イエス様は敢えて、安息日を選んだかのように、癒しの奇蹟を安息日に行なったのです。

安息日に病人を治療する。これは安息日に働く事、安息日の神聖を犯す事ですから、ユダヤ人に取っては大きな関心事となりました。

律法を守る事を神様に対する最大の忠誠心、信仰心の現れと考えるユダヤ人指導者たちは、安息日の神聖を犯す者を容赦しません。

生まれつきの盲目の人の目を開く力が、どんなに偉大で、不思議な事か。

その不思議な力が、どなたから付与されたかを知る事よりも、そこから派生して、安息日をどのように理解し、過ごす事が正しい事なのかを考える事よりも、安息日に病気を癒した、と言う事だけを取り上げて、問題としているのです。

前回の学びで取り上げた奇蹟も、安息日に行なわれました。

イエス様の奇蹟を見ていた人々は、その奇蹟が行なわれたのが安息日である事に気付くと、この律法違反をそのままにしておいて良いものかと考え、ユダヤ人指導者にお伺いをたてに行くのです。

【本論】

9:13 彼らは、前に盲目であったその人を、パリサイ人たちのところに連れて行った。

9:14 ところで、イエスが泥を作って彼の目をあけられたのは、安息日であった。

9:15 こういうわけでもう一度、パリサイ人も彼に、どのようにして見えるようになったかを尋ねた。彼は言った。「あの方が私の目に泥を塗ってくださって、私が洗いました。私はいま見えるのです。」

パリサイ人、とはユダヤ人宗教指導者たちを指し示している言葉で、文脈からして盲目であった人は、ユダヤ最高議会サンヘドリンに連れて来られた事を現しています。

安息日の神聖を犯した事の次第を調べるのは、立ち話や、井戸端会議ではなく、正式なメンバーが揃っている、公的機関である必要があったのです。

目を開けていただいた、生まれつきの盲人は、イエス様に対する敵愾心を持っているユダヤ最高議会のメンバーの前に立たされても臆する事なく、誇張もなく、修飾もなく、自分の考えを織り交ぜる事もせずに、事の次第を淡々と申し述べます。

そこにはユダヤ人指導者たちに取り入ろうとか、悪く思われたくないとか、逆にイエス様を弁護しよう等という作為も見られません。

2000年前の時代に生まれた、生まれつきの盲目ですから、充分な教育を受ける事もなく、字も読めず、弁舌も立たなかった事でしょう。

常にオドオドとし、見えないながらも人の顔色を伺って生きて来た、学問もない、物乞いしか出来なかった人間が、知識も豊富で、最高の学問を修めた人々の前で、大胆にも証しをしたのです。

特別な用語を使ったのでもなく、有名な学者の言葉を引用したのでもありません。

事実と、その結果起こった事を完全、忠実に申し述べているのです。

何回同じ事を尋ねられても、何回でも同じ事を繰り返す。これが証しです。

前の証しと同じ事を話すのでは芸がない、などと考えて、創意工夫する必要はありません。

尋ねられれば何回でもオウム返しに、同じ事を述べれば良いのです。

真実の持つ強みは、何回でも同じ事を話せる、と言う事なのではないでしょうか。

話す度に、少しづつ違っていたならば、何時しか大きな違いとなってしまうでしょう。

特に体験談には尾鰭がついて、嘘とまでは言わなくても、事実と言えない部分が多くなってしまうものです。

その点で、この盲目であった人は、奇蹟が行なわれて、それを目撃した人々の興奮の渦中にあっても、偉い学者や宗教指導者たちの注目の集まる緊張の中でも、其々の考えに迎合する証しをする事なく、何度でも変わりなく、真実、事実だけを申し述べたのです。

9:16 すると、パリサイ人の中のある人々が、「その人は神から出たのではない。安息日を守らないからだ。」と言った。しかし、ほかの者は言った。「罪人である者に、どうしてこのようなしるしを行なうことができよう。」そして、彼らの間に、分裂が起こった。

イエス様に敵愾心を燃やすユダヤ人宗教指導者たちですが、彼らの意見が常に一つであった訳ではないようです。

一つのグループは、数百名からなる頑固な律法主義者たちで、イエス様を敵対視し、何時でもイエス様を捕え、もっともらしい理由を付けて、イエス様の名声に傷を付け、イエス様のご人格を損なおうとしていました。

彼らは「この人は神様に遣わされた預言者などでは決してない。安息日を守っていないからだ。彼は悪い人間である。神様から遣わされた預言者であるならば、安息日に仕事をしなかったはずである。」と考えたのです。

この主張は、もっともらしい理由付けではありますが、十戒の第4戒の間違った解釈に基づく、間違った主張です。

4戒が教える所は、過剰な労働や、飽くなき利益追求する事を禁じ、戒め、それを自他に適応したものであり、他者に対する憐れみの行動や、施しを禁じたのもではありません。

安息日は人間の休息、憩いのためにあり、癒され、慰められるためにあり、その意味でもイエス様の盲人の癒しは、盲人に真の慰めと希望を与えるものであり、第4戒の主旨に則った、正しい行動であるのです。

このイエス様の事を、充分ではなくても理解していたのが少数派の人々で、彼らは「神様から遣わされていない人間に、どうしてこのような驚くべき奇跡が行なえるのか」と言って、多数派に傾きかけている議会に、重要な問題を提起しているのです。

「安息日の神聖を論議するのも重要な事だが、盲人の目を開ける事が出来るのは神様の任命を受けている証拠ではないのか、その事お調べ、確認する事の方がより重要だ」と考えたのです。

この少数派にはニコデモやアリマタヤのヨセフ、ガマリエルのような人々が属していたに違いありません。

ニコデモはヨハネの福音書32節で「先生。私たちは、あなたが神のもとから来られた教師である事を知っています。神がともにおられるのでなければ、あなたがなさるこのようなしるしは、だれも行なう事が出来ません。」と証言していますが、これと同じ事が916節後半で証言されているのです。

教会の問題や、宗教上の問題を考えるために集まった大勢の人々の多くは、悪意ある人々たちであり、その中心に座らされ、攻撃を受け、威圧されているが、心正しく、喜んで真理を擁護しようとしている人々が必ずいると、この記事から確信をもって断言出来るのです。

私たちが、たまたま少数派に属する、と言う理由だけで、衝突を避けて、会合や会議に加わらないのは、正しい事ではありません。

また多数派だから正しい、として強硬な態度を取る事も正しい事ではありません。

ブーリンガーと言うスイスの宗教改革者は「分裂がすべて悪い訳ではないし、一致や統一が必ずしも良いとは限らない」と述べていますが、本当にそうだと思います。

多数派の断定的な意見に対して、少数派の慎重な言い回しは良い影響を及ぼし、多数派も譲歩を示し、盲目だった人からもっと聞き質す必要を認めました。

9:17 そこで彼らはもう一度、盲人に言った。「あの人が目をあけてくれたことで、あの人を何だと思っているのか。」彼は言った。「あの方は預言者です。」

この質問は、奇蹟の事実と、奇蹟を行なった人を結びつけるものとなっています。

イエス様の時代の人々の「預言者」に対する認識と、現代の私たちの考える「預言者」に対するそれには大きな違いがあります。

預言者は神様の言葉を預り、伝える者であるだけでなく、旧約の時代には更に、教え、警告し、裁き、奇蹟を行なう事が重要な職務であった事を忘れてはなりません。

イエス様が活躍される時まで、預言者が起されない空白の時代が400年近くありましたが、人々の心には、預言者は神様からの言葉を語るだけではなく、神様から奇跡を行う力を付与された、特別な存在であり、奇蹟を伴って現れると言う信仰が生き生きと、脈々と受け継がれていたのです。

その意味、その知識で、盲目であった人はイエス様を「預言者です」と呼んだのです。

この答えには、多数派も反論出来ず、と言うより、盲目であった人が「預言者」と答えたからこそ、何の抵抗もなく、すんなりと受け止める事が出来たのです。

もしも「メシヤです」と答えたならば、多数派の反発は火を見るよりも明らかでしょう。

間髪をいれず、盲目であった人を「呪われている」と断定し、議会から閉めだしてしまった事でしょう。

盲目であった人が「預言者です」と答えた事によって、尋問の矛先は盲目であった人から、その両親に移って行きます。

9:18 しかしユダヤ人たちは、目が見えるようになったこの人について、彼が盲目であったが見えるようになったということを信ぜず、ついにその両親を呼び出して、

9:19 尋ねて言った。「この人はあなたがたの息子で、生まれつき盲目だったとあなたがたが言っている人ですか。それでは、どうしていま見えるのですか。」

9:20 そこで両親は答えた。「私たちは、これが私たちの息子で、生まれつき盲目だったことを知っています。

9:21 しかし、どのようにしていま見えるのかは知りません。また、だれがあれの目をあけたのか知りません。あれに聞いてください。あれはもうおとなです。自分のことは自分で話すでしょう。

9:22 彼の両親がこう言ったのは、ユダヤ人たちを恐れたからであった。すでにユダヤ人たちは、イエスをキリストであると告白する者があれば、その者を会堂から追放すると決めていたからである。

9:23 そのために彼の両親は、「あれはもうおとなです。あれに聞いてください。」と言ったのである。

他の箇所と同様に、ここにも私たちは、ユダヤ人宗教指導者たちの驚くべき不信仰と、光に対して頑として見ようとしない思いに注目する必要があります。

証拠があれば、人は信じるのではないのです。

折伏すれば、人は信仰に入るのではないのです。

人々がイエス様を、キリスト教を信じないのは、信じるに足る理由がないからなのではなく、実に信じようとする意思の欠如による、と言う事なのです。

信じようとしない者は、どんな奇蹟を見せ付けられても、信じない理由を見つけ出す、考え出すものなのです。

イエス様の奇蹟を目の当たりにしても「ベルゼブルの力で行なっている」と評価している通りです。

信じさせるために、聖書を擁護するために、聖書に記されている数々の奇蹟を、科学的に説明、証明しようとする試みがありますが、それで信仰に入る訳ではありません。

つまり、人は奇蹟を見て、或いは納得して信仰に入るのではなく、聖霊の働きによって信仰を持たせて頂くのです。

イエス様を信じる信仰があれば、奇蹟も、様々な疑問も問題ではなくなり、信仰に入るのであり、神様やイエス様、聖書に対する知識が如何に豊富でも、それで信仰に入るのではないのです。

神学校を卒業しても、それで教師になれる訳ではありません。

教師になれないどころか、信仰で乗り越える問題を、科学、経験、理論で解決しようとし、挫折し、反キリスト者が生まれる事もあるのです。

実に、神様の人間に対する憐れみと、聖霊の導きに従う従順な心だけが、重要なのです。

さて、また、盲目であった人の両親の証言も注目に値しましょう。

盲目であった人の両親も、事実をありのままに申し述べました。

ユダヤ人の会堂から追放される恐れから、積極的な主張はされませんでしたが、過不足なく、状況を説明しました。

繰り返しになりますが、証しは見た事実、知っている事実だけを申し述べるに留まり、想像や、又聞きを、さも事実のように申し述べるのは控えなければなりません。

聴く方も、事実かどうかを見定め、偏見や思い込みは捨て去らなければなりません。

その点で、私たちは罪の奴隷であり、本当に自由にされてはいないので、片寄った見方、片寄った判断をしてしまい易い者である、と言う自覚を忘れてはならないでしょう。

中立な立場に立っていると確信していても、偏っていたり、知り得た情報が影響しているのであり、この点を常に自覚し、吟味しなければなりません。

さて、ここで、盲目であった人の両親は彼を「もうおとなです」と説明していますが、ユダヤ社会では「おとな」と見なされるのは、凡そ30歳でした。

おとなは自覚と責任が伴ってこそ、そう呼ばれる資格があります。おとなである以上、その言葉には責任があるし、いい加減な発言は慎まなければなりません。

盲目であった人の両親は、賢明にもこれ以上の関りを避けるために、「あれはもうおとなです。あれに聞いてください」と言って、話を終わらせました。

9:24 そこで彼らは、盲目であった人をもう一度呼び出して言った。「神に栄光を帰しなさい。私たちはあの人が罪人であることを知っているのだ。」

9:25 彼は答えた。「あの方が罪人かどうか、私は知りません。ただ一つのことだけ知っています。私は盲目であったのに、今は見えるということです。」

ここで「神に栄光を帰しなさい」とは、「真実を言いなさい」と言い替えられる言葉であり、命令ですが、ユダヤ人宗教指導者は、真実を知りたくて、この命令を発しているのではありません。

このユダヤ人宗教指導者の言葉は、盲目であった人の口から、イエス様を呪う言葉を発せさせるためであり、即ち「あなたは癒された事の故に神を敬い、神に栄光を帰しなさい。

神が癒しを働かれたのであって、あなたに泥を塗った人ではありません。その人には癒しを行なう力はありません。何故なら彼は安息日を破る者であり、従って罪人です。罪人にあなたを癒す事は出来ないはずです。」これに同意しなさいと迫っているのです。

何と狭量な、邪悪な意見でしょうか。

神様は人を通して働かれるのであり、栄光をお受けになられるのです。

神様は預言者を通して働かれます。

人が、神様の言葉を預り、神様に代わって教え、神様に代わって警告し、神様に代わって裁き、神様に代わって奇蹟を行なうのです。

イエス様の教え、奇蹟は、イエス様が神様から遣わされた人である事を雄弁に物語っているではありませんか。

この命令にも、盲目であった人は臆する事なく、簡潔ではありますが、事実だけを述べており、自分の意見を述べてはいません。

奇蹟は神秘的であり、説明出来ない部分や、解からない事が沢山あります。

しかし、当人は、聖霊が働かれた事を確かに知り、感じているのです。

言葉に出しつくせない、説明出来ないもどかしさの中で真実だけを申し述べているのです。

「上手く説明出来ません。しかし、これだけは言えます。盲目であったが、今は見える。」

この事実をあなた方宗教指導者はどう考えるのか。

【適応】

盲目だった人、その両親を交えた尋問、事情聴取はこの後も続きます。

ここから私たちは何を学ぶのでしょうか。

ユダヤ人宗教指導者は、自分たちが常に正統派である、正しい判断をしていると考えていました。

聖書に通じ、何でも知っている。

聖書の正しい解釈は、伝統的な知識と経験に基づいて行なうものであり、それはユダヤ人宗教指導者に与えられた、特別な権限であると考えていたのです。

そこに、イエスという出自の知られぬ教師が現れ、聖書を解き明かし出した。

しかも、数々の奇蹟まで行なっている。これは由々しき事態だ。

安定政権に風波を立てる者が、迫害されるのは古今東西変わらぬ事なのでしょうが、ユダヤ人宗教指導者は、救い主の来られるのを待ち望む者であり、メシヤの来られる道を整える者たちの群れであるはずです。

何処に生まれ、何処で育ち、どんな教育を受けて来たか解からなくても、その言葉と奇蹟を聖書に照らし合わせて見て、聖書の示す救い主、メシヤとして受け入れるように、率先して行動し、人々に模範を示すのが宗教指導者の務めです。

宗教指導者はそのために存在しているのであり、勿論、メシヤが来られるまでは細々とした律法の適応を考える事も大切ですが、来られるはずの方を見失い、見誤ってはなりません。しかし、人は皆、罪人であり、常に正しいとは限りません。

正しい判断をし、正しい選択をする時もあれば、正しいと思っていながら、間違った判断をし、間違った選択をする事もある、と言う事を忘れてはならないのです。

そのような謙虚な、謙遜な姿勢を保ちさえするなら、大きな失敗をする事はないでしょう。

自分だけは、自分たちだけは大丈夫、って言う事はないのです。

頑なな心のままで事情聴取を行なっても、真実を見出す事は出来ません。

宗教指導者たちは、謙遜になり、イエス様の言葉と奇蹟を見なければならなかったのです。

そうすれば事情聴取は有効に働き、イエス様をメシヤとして迎え入れる事が出来たでしょう。

イエス様はこのような頑なで、自分の考えに凝り固まった、弱い私たちの為に来て下さり、失敗ばかりを繰り返す私たちの為に命を捨て、私たちに永遠の命を与えるために甦られました。

それ故に、イエス様のご降誕と、イエス様の十字架の死と、イエス様の復活は、重要であり、教会はこの三つを重要事項として記念し、お祝いするのです。

ここにおられる皆様が、イエス様をお迎えするに相応しく、頑なな心を捨てて、世に対して、救い主であるイエス様を指し示し、神様の栄光をその生活、行動、考えにおいて現そうではありませんか。

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