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聖書個所:創世記311節~21節               2017-3-26礼拝

説教題:「逃げ出したヤコブ一家」

【導入】

ヤコブは、兄エサウとの確執から逃れて、パダン・アラムに住む、ヤコブの母リベカの兄、ラバンの許に身を寄せ、14年の労働と引き換えに、ラバンの娘、レアとラケルを妻としました。

14年の約束の期間を満了し、レアとラケルの花嫁料を完済したのですから、ラバンに仕える必要はなくなりました。

14年が過ぎたのですから、兄エサウの怒りも治まった事でしょう。

14年が過ぎたのですから、故郷の父母が懐かしくもなったのでしょう。

そこで、ヤコブはラバンに、ヤコブの故郷、父母や兄の住むカナンへ帰らせてくれるように頼むのですが、紆余曲折あって、レアの女奴隷ジルパを、ラケルの女奴隷ビルハをも妻とし、合計十一人の子をもうけていました。

この女奴隷と、女奴隷の産んだ子どもたちの所有権については、特段の取り決めがなされませんでした。

現代の我々の感覚では、考え難い事ですが、奴隷も、奴隷の産んだ子どもも、一種の財産であり、基本的には、この場合ではジルパとビルハは、そしてジルパとビルハの産んだ四人の子どもは、ラバンの所有物なのです。

そこでヤコブは、帰郷の申し出と同時に、女奴隷と女奴隷の産んだ子どもたちの所有権の放棄を、譲渡を願い出ます。

狡猾なラバンは、話を逸らせ、明確な放棄、譲渡の言葉を口に出さず、幾ばくかの報酬を与える事を約束し、引き続きヤコブを働かせる事を得るのです。

しかも、その約束は、非常に不公正な約束であり、正当な報酬、支払いとは言えないような約束でしたが、ヤコブからの申し出であり、ヤコブとしては報酬や財産よりも、家族を手放したくはない思いの表れからの、遠慮した申し出だったのです。

しかし、ラバンはヤコブの働き、ヤコブに注がれる神様の祝福によって、予想を遥かに上回る、多くの家畜や多くの奴隷を得たのであり、契約や約束に拘束される事なく、働きに見合う追加報酬を支払うべきなのです。

取り決めは最低限であり、大盤振る舞いの追加報酬をするのが、神様の祝福を受けた者の、神様の祝福を知っている者の、ラバンの、伯父のすべき事なのではないでしょうか。

現代の日本で言うならば、月給や賞与は最低限の取り決めであり、業績に応じて、働きに応じて上乗せするのではないでしょうか。

ラバンはヤコブの働きに対して、最低限以下の報酬しか支払っていなかったのであり、この機会は、正当な報酬を支払う、絶好の機会であったのに、神様に対しても、汚名返上、名誉回復の絶好の機会であったのに、強欲が禍して正当な報酬を出し惜しんでしまったのです。

このラバンの姿は、息子たちにも悪い影響を及ぼしました。

【本論】

31:1 さてヤコブはラバンの息子たちが、「ヤコブはわれわれの父の物をみな取った。父の物でこのすべての富をものにしたのだ」と言っているのを聞いた。

ヤコブへの正当な報酬を惜しんだ時から、明らかにラバンの家庭に悪しき変化が生まれました。

ラバンは非常に富んでいるのですから、ラバンの息子たちの言葉は、ヤコブの働き、果たした役割を無視する言葉であり、明らかな誇張であり、妬みです。

ラバンの考え、態度が、ラバンの息子たちに伝染した結果、ヤコブに対する妬みが生まれ、蔓延し、疑心暗鬼が横行したのです。

今は「妬み」はヤコブに向けられていますが、生まれた「妬み」は、ヤコブがいなくなったならどうなるのでしょうか。

ヤコブがいなくなったなら、妬みは消えるのでしょうか。

否、一度生まれた妬みは消える事はなく、燻り続け、機会を見付けて、再び炎を上げるのです。

親に対してかも知れませんし、兄弟に対してかも知れません。

地域の人々に対してかも知れません。

いずれにしても、関係を悪化させ、自滅の道を進む事になるでしょう。

これこそ、サタンの思う壺ですから、相手を正当に評価し、尊重する事を習い性とし、評価を倍するような待遇をしなければなりません。

31:2 ヤコブもまた、彼に対するラバンの態度が、以前のようではないのに気づいた。

ラバンは大人だけに、伯父であるだけに、妬みを直接口にはしなかったようですが、心中は息子たちと同じであり、心にあるものが滲み出て来るのであり、態度に表れて来るのです。

そんな、ラバンの心が、態度の変化が、ラバンの息子たちに伝わらない訳がなく、息子たちの1節の言葉となったのです。

そんな時に、

31:3 【主】はヤコブに仰せられた。「あなたが生まれた、あなたの先祖の国に帰りなさい。わたしはあなたとともにいる。」

そもそも、ヤコブがパダン・アラムに滞在したのは伯父を助けるためではなく、出稼ぎのためでもありません。

兄エサウの怒りが治まるのを待つためであり、14年の歳月は、充分ではないかも知れませんが、そこそこの効果は見込めましょう。

また、伴侶を得るためであり、四人の妻と、十一人の子どもを得ましたから、目的は達しました。

パダン・アラムに滞在する理由はありませんが、状況だけで判断するのは早計です。

判断、決断には、外的要因と、内的要因を考慮する必要あり、両者を合わせて判断しなければなりません。

外的召命と、内的召命と言い換える事も出来ましょう。

全ての事柄に対して、状況や流れ、思い込みや独断で判断、決断してはなりません。

特に、信仰的な事柄に対する判断、決断の場合には、状況や現状のみならず、啓示が必要です。

自分がしたい事を進めるのは、周りの期待に応えるのは大切ですが、全ての事柄は、信仰の眼で見なければならず、自身に迷いがなく、周囲も同意し、協力的でも、信仰に関する事柄については、神様からの啓示がなければ進めてはなりません。

ヤコブの身に起こった事は、聖書に記されている事は、他人事ではなく、私たち信仰者への神様からの指針であり、自身の事として受け止めなければなりません。

故郷が懐かしくなり、帰りたくなっても、信仰者は、そこに神様のご意思を、ご計画を、摂理を確認しなければならないのです。

ヤコブは神様への祈りもなく、ラバンに申し出て、帰郷を進めようとしました。

機は熟していても、着手には信仰的な裏付けが必要なのです。

神様は、ヤコブに啓示を与えられ、この帰郷を神様が承認しておられる事を、神様が共にいて下さる事を宣言し、障害を取り除かれる事を暗示します。

勇気を得たヤコブは即座に、しかし、慎重に段取りを進めます。

31:4 そこでヤコブは使いをやって、ラケルとレアを自分の群れのいる野に呼び寄せ、

31:5 彼女たちに言った。「私はあなたがたの父の態度が以前のようではないのに気がついている。しかし私の父の神は私とともにおられるのだ。

神様が共にいてくださるからといって、無防備、無計画であってはなりません。

かと言って、慎重になり過ぎるのも、配慮し過ぎるのも、世的な画策に走るのも不信仰です。

神様を信じて、最善を尽くすのであり、第三者への、計画の漏洩を防ぐための配慮を欠かさないのは、大切な事でしょう。

教会の中で、個人情報が「公然の秘密」のような扱いになりがちですが、慎重な注意と配慮が必要です。

洩らしてはならず、聞き出す事も、詮索する事も、控えるべきです。

図らずも話題に上ってしまった時は、早々に切り上げ、牧師に委ねましょう、で終わらせ、噂話となって広がるのを、防がなければなりません。

テモテへの手紙第一513節に「噂話やお節介をして、話してはいけないことまで話します」と記されていますが、こんな者にならないように注意しなければなりません。

4節で「自分の群れのいる野に呼び寄せ」と記されていますが、ヤコブの群れは、ラバンの息子たちの手に託されていたはずです。

しかし、7節以降に記されている通りに、ラバンは約束を度々変えたのであり、ラバンの羊や山羊の群れが、次々とヤコブのものになる黒い羊を産み、ブチやまだらの山羊を産み、その度に息子たちの手に託す事を倦み、ヤコブの物も、ラバンの物も、ヤコブの手に託すようになっていたのでしょう。

逆に、ラバンの羊や山羊の中で、比較的強いものを分離、隔離し、息子たちの手に託すようになっていたのかも知れません。

31:6 あなたがたが知っているように、私はあなたがたの父に、力を尽くして仕えた。

56節のヤコブの言葉は、弁明や弁解であるよりも、事実の強調であり、同調への訴え、神様の命令に、共に従うようにとの勧めなのです。

レアとラケルにとって、ラバンは実の父であり、ラバンの息子たちは実の兄弟ですから、頭で理解出来ても、感情的に納得、同意するのは難しい事であり、簡単に決心出来る事ではないのです。

父系社会であり、父が実権、全権を握っており、父の許しが絶対条件の社会に生きていますから、父には、どんな形でも逆らう訳には、裏切る訳には、勝手な行動を取る訳には行きません。

ヤコブの弁は、レアとラケルの感情への語りかけであり、熱を帯びた、切実な訴えだったのではないでしょうか。

ヤコブの弁は続きます。

31:7 それなのに、あなたがたの父は、私を欺き、私の報酬を幾度も変えた。しかし神は、彼が私に害を加えるようにされなかった。

31:8 彼が、『ぶち毛のものはあなたの報酬になる』と言えば、すべての群れがぶち毛のものを産んだ。また、『しま毛のものはあなたの報酬になる』と言えば、すべての群れが、しま毛のものを産んだ。

31:9 こうして神が、あなたがたの父の家畜を取り上げて、私に下さったのだ。

ラバンは、ヤコブとの約束を何度も違えた事が、78節に記されています。

当初のラバンとヤコブの交わした約束は、ブチやまだらの山羊はヤコブのモノとする、でした。

しかし、ラバンは、ある時には「ぶち毛」のものに限定し、また、ある時には「しま毛」のものに変更しました。

一方的な変更ですが、ヤコブの立場は弱いものであり、ラバンの命令に従うしかありません。

しかし、変更する度に、変更した種類が産まれるようになり、ヤコブの群れは絶え間なく増え続けたのです。

それは、神様の干渉の故であり、神様の守りの故であり、神様の祝福が途切れなかった故なのです。

31:10 群れにさかりがついたとき、私が夢の中で目を上げて見ると、群れにかかっている雄やぎは、しま毛のもの、ぶち毛のもの、また、まだら毛のものであった。

31:11 そして神の使いが夢の中で私に言われた。『ヤコブよ。』私は『はい』と答えた。

31:12 すると御使いは言われた。『目を上げて見よ。群れにかかっている雄やぎはみな、しま毛のもの、ぶち毛のもの、まだら毛のものである。ラバンがあなたにしてきたことはみな、わたしが見た。

神様は、ラバンの一方的な約束の変更を見ておられたのですが、これは、二十年前のラケルとの結婚に遡る事であり、最後の六年間の報酬の変更の事でもありましょう。

10節に、ヤコブの見た夢が記されていますが、特別な夢を見せられた訳では、不思議な夢を見せられた訳ではありません。

牧畜業に携わっている者なら、家畜の交尾は日常の一齣であり、「しま毛のもの、ぶち毛のもの、また、まだら毛のもの」ばかりと言うのは、ちょっと変わっているけれども、何気なく、見逃してしまうような光景ではないでしょうか。

見逃してしまうような光景と共に、12節の、神様からの言葉、示唆を含んだ言葉が付け加えられている事にも、注意しなければなりません。

変な夢を見たなぁ、で済ませ、忘れてしまっていたならば、神様の言葉を、凡庸に聞き流していたならば、ヤコブとラバンの報酬の交渉は、極一般的な交渉となっていたのではないでしょうか。

雄羊何頭、雌羊何頭。雄山羊何頭、雌山羊何頭。

或いは雄羊何割、雌羊何割。雄山羊何割、雌山羊何割。

しかし、六年後に雄羊が何頭いるか分からず、雌羊が何頭いるか分からないのですから、こんな分母が分からない不利な条件を、ラバンが同意する訳がありません。

けちなラバンだからこそ、ラバンが納得、同意するような提案を、即ち、希少種のしま毛の山羊、ブチ毛の山羊、まだら毛の山羊を報酬とするようにと、神様が夢で教えてくださったのであり、神様が示唆してくださったのであり、こんな、不思議な夢を、示唆を、ヤコブは見逃さず、神様の導きと信じて、ラバンとの交渉に臨んだのであり、約束を交わしたのです。

注意力が問われる場面であり、聖書の読み方、聖書に記されている出来事から何を汲み取るかが問われる場面ではないでしょうか。

31:13 わたしはベテルの神。あなたはそこで、石の柱に油をそそぎ、わたしに誓願を立てたのだ。さあ、立って、この土地を出て、あなたの生まれた国に帰りなさい。』」

ヤコブがヤコブの故郷カナンに帰る事は、ヤコブの願いであるよりも、神様の命令である事が強調されています。

創世記2815節「見よ。わたしはあなたとともにあり、あなたがどこへ行っても、あなたを守り、あなたをこの地に連れ戻そう。わたしは、あなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない。」との神様の約束が原点です。

この神様の宣言に対して、創世記2818節「ヤコブは自分が枕にした石を取り、それを石の柱として立て、その上に油をそそいだ」のであり、同じく22節「すべてあなたが私に賜る物の十分の一を必ずささげます」と誓約したのです。

先ず、神様の選びがあるのであり、約束があるのです。

そして、人間の応答に関わらず、神様は約束に対して誠実であり、約束を履行されます。

更に、人間の思いに先んじて、神様は事を進められるのです。

この原則を忘れてはならず、誤解してはなりません。

良い人間が選ばれるのではなく、従う時、約束の通りになるのではなく、人間の願った通りになるのでもありません。

全ては神から発し、神様のご計画、御こころが成されるのです。

31:14 ラケルとレアは答えて言った。「私たちの父の家に、相続財産で私たちの受けるべき分がまだあるのでしょうか。

31:15 私たちは父に、よそ者と見なされているのではないでしょうか。彼は私たちを売り、私たちの代金を食いつぶしたのですから。

31:16 また神が私たちの父から取り上げた富は、すべて私たちのもの、また子どもたちのものですから。さあ、神があなたにお告げになったすべてのことをしてください。」

ヤコブがラバンに支払った花嫁料はラバンのものであると共に、その一部をレアとラケルのために取り分けておくのが当時の慣習でした。

花嫁料は十四年の労働でしたから、その労働から得た羊、山羊の一部をレアとラケルに与えなければならなかったのです。

それは、寡になった時のため、離縁された時のためであり、それ相応の物を持たせるのですが、ラバンはそれを一切しなかったのであり、全部自分の物、或いは息子たちのものとしたのです。

それは、娘と見做されていない事の証拠であり、他人、奴隷のような存在でしかないと確信するに充分であり、ヤコブの労働によって、父の支配から完全に離れたのであり、もう、父に従う必要はない、父に義理立てする必要もないとの告白になったのです。

ラバンは実の娘の信用を失い、見限られ、縁を切られてしまったのです。

レアとラケルは、明確に、私たちに遠慮する事はありません。私たちはあなたに、あなたの信じる神様に従います。と告白し、羊や山羊を連れて行くのは、当然の権利だ、と主張するのです。

レアとラケルの賛同を得て、

31:17 そこでヤコブは立って、彼の子たち、妻たちをらくだに乗せ、

31:18 また、すべての家畜と、彼が得たすべての財産、彼がパダン・アラムで自分自身のものとした家畜を追って、カナンの地にいる父イサクのところへ出かけた。

家畜を追って」は「家畜を駆り立てて」「家畜と大急ぎで」と訳す事が出来ますが、ヤコブ一家の、緊迫感が伝わってくる場面ではないでしょうか。

神様の命令を聞いた上に、妻の同意を得たのですから、悠長にしているのは問題であり、ヤコブは即座に行動に移しました。

この点も、見習うべきでしょう。

家族と家畜を連れての、800km以上の旅は、困難であり、危険ですが、ヤコブは、神様の言葉を信じ、守りを信じて旅立ったのです。

折りしも、

31:19 そのとき、ラバンは自分の羊の毛を刈るために出ていたので、ラケルは父の所有のテラフィムを盗み出した。

ラバンは自分の羊の毛を刈るために出ていた」と記されていますが、羊の毛の刈取りは、祝いの席でもあったようです。

サムエル記第一、252節に、盛大な祝いが催された様子が記されています。

この通りではなかったにしても、収穫は一家の喜びであり、娯楽のなかった時代にあって、慰労を兼ねてご馳走を食べたのですが、この重要とも言える席に、ヤコブも、レアもラケルも招かれていなかったのです。

しかし、これが幸いして、ラバンの許を脱する事が出来たのですが、ここにも、神様の導きがあったのであり、13節の神様の命令は、絶妙なタイミングで発せられた訳です。

逃げ出すに際して、ラケルは、父が信じ、大切にしていた「テラフィムを盗み出し」ます。

偶像の類ですが、ラケルがこの偶像を信じていた、と言う訳ではなさそうです。

当時は、殆どのモノが手作りであり、夫々に特徴があり、持ち主を特定する事が出来ました。

ラバンの「テラフィム」は、ラバンを象徴し、父のモノを持つ事によって、相続権を持つ者との記しとしたかったのではないでしょうか。

31:20 またヤコブは、アラム人ラバンにないしょにして、自分の逃げるのを彼に知らせなかった。

31:21 彼は自分の持ち物全部を持って逃げた。彼は旅立って、ユーフラテス川を渡り、ギルアデの山地へ向かった。

ないしょにして」逃げ出すのに「知らせ」る訳がありません。

知らせなかった」は「悟られないようにした」と訳せるので、ヤコブの慎重さを知る事が出来る一方、「自分の持ち物全部を持って」と記されています。

急ぐ時、今回のように逃げ出す時には、細々とした物は置いて行く、残して行ってしまうものですが、ヤコブは、全ては神様から与えられた物、との認識があり、塵一つも、残しはしなかったのです。

ヤコブがカナンを出立した時、ヤコブは杖一本しか持っていませんでしたから、全てはパダン・アラムで得たのであり、全ては神様から与えられたモノなのです。

神様から与えられたモノに、不要なモノ、無駄なモノはありません。

この世では欠点とか、障害と呼ばれるようなモノも、神様から与えられたモノであり、賜物です。

不要なモノ、捨てて良いモノなど、一つもないのです。

神様から与えられたモノを大切にし、無駄にはしないのです。

それは「立つ鳥、後を濁さず」の知恵でもありましょう。

綺麗さっぱり、は、未練を残さない知恵であり、出て行く者にとっても幸いですが、跡形もなく立ち去ったならば、ヤコブやレア、ラケルを連想させるモノがないのですから、記憶が薄れるのも早いのではないでしょうか。

【適応】

本日の説教のタイトルを「逃げ出したヤコブ一家」としましたが、ヤコブは、神様の命令に従ったのであり、逃げ出した訳ではありません。

カナンを出立し、パダン・アラムに向かった時は確かに、兄エサウの怒りから逃げ出したのであり、嫁探しは口実でしかありませんでした。

しかし、今回の出立は、ラバンの仕打ちからの逃避でもなければ、ラバンの息子たちの妬みからの逃避でもありません。

厳しい労働を強いられ、嫌がらせを受けたから、耐え切れなくなって逃げ出したのではありません。

状況をご覧になられた神様が「カナンに帰りなさい」と命じられたからであり、「あなたと共にいる」と約束されたので、出立したのです。

ヤコブの都合や、計画ではなく、神様のご計画に、ヤコブは従ったのであり、レアやラケルは、父に見捨てられたから、居所がなくなったから、渋々、ヤコブに従ったのではなく、ヤコブの信じる神様に従ったのです。

父に見捨てられ、居場所がなくなったのも、父と離れる助けになったのであり、神様との新しい関係に入る備えなのです。

神様は個人的に啓示を与えられます。

世間は、他人は、それを知る由がありませんから、勝手な想像をし、勝手な評価を下すでしょう。

神様に従う道は、世間の理解や評価を得る道ではありません。

時に過酷であり、時に孤独です。

しかし、何をさておき、神様の命令であるなら、命令に従うのが最善の選択であり神様に従うなら、神様が責任を取ってくださるでしょう。

加えて、何にも勝って、神様が共にいて下るのであり、神様が必要と思われるなら、僅かながらでも理解者や協力者が与えられます。

また、困難な中にも、神様が働かれ、障害は取り除かれ、道は切り開かれ、扉は開けられるのです。

ヤコブのカナン行きに、これからのヤコブの歴史に、レアとラケルは必要であり、必要な者や物は、神様が備えて下さいます。

また、必死になって説得しなくても、神様が働いてくださり、同意と同行を申し出てくれるのです。

祝宴に招かれないのは、無視されるのは、悲しい事ではなく、距離を置く事であり、出立のチャンスであり、喜びなのです。

この世に見捨てられても、神様が見捨てられる事はありません。

この世に居場所がなくても、神様の下に居場所は用意されています。

神様に従う時、神様に従うに必要なモノは全て与えられます。

ここにおられる皆様が、神様の命令に従って、旅立ち、神様から与えられた賜物は手放さず、活用し、祝福された信仰生活を送られる事を願ってやみません。

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聖書個所:創世記3037節~43節               2017-3-19礼拝

説教題:「水ぶねに挿された枝・・・何の意味?」

【導入】

ヤコブとラバンの確執は、火花を散らすような、激しい確執ではありませんでしたが、ヤコブは執着が強く、手に入れるためには手段を選ばない性質の持ち主だったようです。

ラバンは貪欲、強欲で、約束を違える事を何とも思わない性質の持ち主だったようであり、こんな二人が、本当の意味で仲良く出来る訳がありません。

仲の良さそうな夫婦や、親子も、何の問題もない訳ではありません。

どんな夫婦にも、親子にも、組織にも、集まりにも、教会にも必ず問題はあります。

問題は、問題があるか、ないかではなく、問題がないと思っている事が問題であり、問題を見つけない事、問題を見ようとしない事が問題なのです。

小さな問題でも、問題である事に変わりはなく、無視してもなくなりはしません。

小さな問題でも、積もり積もって、溜まり溜まって、大きく噴出するのです。

そして、解決困難な状況に陥ってしまうのですが、これこそサタンの思う壺です。

そうならないために、常に吟味する事が必要、大切なのであり、然るべき時に、然るべき場で、然るべき人に話さなければなりません。

意見や希望があれば、然るべき場、例えば、家族会議であったり、役員会であったり、運営委員会であったり、教会総会で意見や希望を述べ、話し合う事が必要です。

仲間内のグチのようなものは「百害あって、一利なし」と心得なければなりません。

お父さんに言うべき事は、お父さんに言わなければならず、役員会や、各会の代表者に話すのも、組織の保全と、健全な運営とのために欠かせません。

くれぐれも、サタンに利用されるような言動は慎まなければなりません。

更には、自分の希望や意見を押し通すのではなく、自分の考え方や意見が与える影響や変化にも考慮しなければならず、相手の立場や考え方、意見を最大限尊重しなければならない事は、言うまでもありません。

自分に都合の良い解釈をしてはならず、何時もやっている、皆もやっている、安直な選択は危険です。

特に、教会では、クリスチャンは、相手の立場に配慮し、双方が満足、納得する結果となるような案を模索しなければなりません。

その案は、教会の徳を高め、神様の栄光を現す案でなければなりません。

否、教会の徳を高め、神様の栄光を現す案であるならば、必然の帰着として全員が満足、納得する結果に行き着くのです。

ヤコブは、ラバンとの確執で、信仰を試されます。

ヤコブは、この世の影響を受け、信仰者として相応しくない言動をしますが、指針となる聖書もなく、御心を知る説教もなく、信仰者として、まだまだ未熟であり、それ故に、神様はヤコブの行動を許され、今回も、家畜を増やす愚策に走る事を見逃してくださいます。

【本論】

30:37 ヤコブは、ポプラや、アーモンドや、すずかけの木の若枝を取り、それの白い筋の皮をはいで、その若枝の白いところをむき出しにし、

30:38 その皮をはいだ枝を、群れが水を飲みに来る水ため、すなわち水ぶねの中に、群れに差し向かいに置いた。それで群れは水を飲みに来るときに、さかりがついた。

ラバンとヤコブが交わした約束は、白い羊はラバンの所有であり、黒い羊はヤコブの所有である、とする約束でした。

黒い山羊はラバンの所有であり、ブチやまだらの山羊はヤコブの所有である、とする約束でした。

この約束は、前回お話したように、大きく偏った約束であり、ヤコブに非常に不利な、ラバンに途轍もなく有利な約束でしたが、ヤコブから申し出た約束であり、ラバンに依存はありませんでした。

しかし、ラバンは一計を案じます。

ラバンの所有する家畜と、ヤコブの所有する家畜とを一緒にして、同じ場所で、皆で世話をするのではなく、ヤコブの所有する家畜は、ラバンの息子たちが世話をする事にし、ラバンの所有する家畜は、ヤコブが世話をするという、何とも歪な形を押し付けたのです。

羊も山羊も、自然に増えていく訳ではありません。

適当な世話であるならば、増える事があるかも知れませんが、自然は厳しく、全滅する可能性もあります。

徹底した世話をしなければ、創意工夫をしなければ、家畜は継続的には増えないのです。

その点、ヤコブは有能であり、更には神様の祝福を受けているのですから、それを存分に利用しない手はありません。

ヤコブの能力と、ヤコブに注がれる祝福を、ラバンは独り占めしたかったのであり、そのために、分離したのでしょう。

そして、もしも、ラバンの家畜が減ったなら、ヤコブの怠慢として、更に働かせる事が出来ると踏んだのではないでしょうか。

そんなラバンの思惑に対抗して、ヤコブも一計を案じます。

それが、38節の、不思議な行動ですが、古代社会では、家畜は、出産前の色彩や、模様の影響を受け、見た物に似た仔を産む、と考えられていたのです。

一種の「胎教」でしょうが、俗信であり、何の根拠もなく、一考だにもされず、否定される考えですが、古代社会ではかなり広く、信じられていました。

30:39 こうして、群れは枝の前でさかりがついて、しま毛のもの、ぶち毛のもの、まだら毛のものを産んだ。

38節、39節を読むと、「皮をはいだ枝」の影響で「さかり」が付いたように読めますが、調べた限り、この三種の樹木に、樹皮に、樹液に、或いは葉や実、根に、特別な発情効果はなさそうです。

「ポプラ」は品種が非常に多く、分類、区分、選別に悩まされるそうです。

「アーモンド」は、地域によって種類が異なり、「すずかけの木」、別名、プラタナスは、樹皮の堅い種類と、柔らかい種類があるそうです。

これらの全てに、発情効果はないと断言出来ませんが、古代社会では発情効果があると、信じられ、言い伝えられていたのでしょう。

ヤコブはそれを知っていて、言い伝えを試したのかも知れませんが、自然の環境では、羊や山羊は、年に二回、発情期、出産期があるそうです。

ヤコブはその時期を熟知していて、その時期に合わせて、「皮をはいだ枝」を「水ぶね」に挿し、黒い羊、ブチやまだらの山羊の出産を促そうと目論んだのです。

38節、39節に記されている「群れ」は、羊、山羊、どちらをも含みますから、ヤコブは、黒い羊が産まれるように、ブチやまだらの山羊が産まれるように工作した訳ですが、更に羊のためには念を入れた工作をいたします。

30:40 ヤコブは羊を分けておき、その群れを、ラバンの群れのしま毛のものと、真っ黒いものとに向けておいた。こうして彼は自分自身のために、自分だけの群れをつくって、ラバンの群れといっしょにしなかった。

ヤコブは、白い羊に、黒い山羊を見せる事で、黒い羊を産ませようとしたのです。

しかし、ラバンは当初、黒い羊とブチやまだらの山羊を分離、隔離したのであり、ラバンの羊の群れの中に、黒い羊はいなかったはずであり、ラバンの山羊の群れの中に、ブチやまだらの山羊はいなかったはずですから、分離、隔離以降に黒い羊とブチやまだらの山羊が産まれた、それを見せた、と言う事なのでしょう。

30:41 そのうえ、強いものの群れがさかりがついたときには、いつもヤコブは群れの目の前に向けて、枝を水ぶねの中に置き、枝のところでつがわせた。

30:42 しかし、群れが弱いときにはそれを置かなかった。こうして弱いのはラバンのものとなり、強いのはヤコブのものとなった。

先程、羊や山羊は年に二回発情期、出産期があると申しましたが、注解書の記述によれば、秋に産まれるものが強く、丈夫に育つ、との事です。

理由は記されていませんでしたが、春から夏にかけて、たっぷり栄養を蓄えた、豊富な牧草を食べて、出産に臨むからなのでしょう。

しかし、夏は伝染病などが猛威を振るう季節でもあり、決して強く丈夫が保証されている訳ではありません。

何より、神様への信仰が大前提であって、神様は幼い信仰にも、素朴な信仰にも、応えてくださるのであり、神様のご摂理によるご加護があっての結果である事を忘れてはなりません。

決して、水ぶねに挿された枝が効を奏したのでもなければ、丈夫な羊、山羊から、丈夫な仔が産まれるのを期待しての策が効を奏したのでもありません。

寧ろ、不信仰を責められても仕方のないところですが、神様は、ヤコブの幼い、素朴な信仰を愛で、また、神様の誠実さの故に、アブラハム、イサク、ヤコブに与えた祝福の約束の故に、ヤコブを富ませてくださったのです。

30:43 それで、この人は大いに富み、多くの群れと、男女の奴隷、およびらくだと、ろばとを持つようになった。

今回取り扱っている37節から43節は、ヤコブの二十年のパダン・アラムでの生活の、最後の六年間の要約であり、神様から受けたの祝福の総括です。

たった六年で、主に秋の出産だけで、「大いに富み、多くの群れ」となったのであり、羊の群れ、山羊の群れの世話のために、「男女の奴隷、およびらくだと、ろばとを持つようになった」のです。

らくだと、ろば」は複数形であり、「らくだの群れ、ろばの群れ」を持つようになったのです。

しかも、当初、黒い羊や、ブチやまだらの山羊は、ラバンの手によって分離、隔離されたのであり、ヤコブの手元には、黒い羊は“0”だった事、ブチやまだらの山羊も“0”だった事を思い出すなら、たった六年で、ここまで富むのは奇跡としか言いようがありません。

この六年の間にも、ラバンの不当な介入があったのではないでしょうか。

ラバンは、ヤコブに預けた群れの中に、黒い羊、ブチやまだらの山羊が産まれると、直ぐに分離、隔離し、ヤコブから遠ざけたのではないでしょうか。

しかし、神様がヤコブを祝福しておられるので、ヤコブは何も失わず、遠く離されたヤコブの家畜も増え続け、ラバンの家畜の中にも黒い羊、ブチやまだらの山羊が増え続けたのであり、ラバンの策は、何の意味もなさなかった、ヤコブに有利に働いた、としか言いようがないのではないでしょうか。

【適応

「果報は寝て待て」と申し、「人事を尽くして天命を待つ」とも申しますが、「信仰のみ」を掲げて、祈るだけで具体的な行動は何もしない、唯々待つ、と言うのは信仰者の取る態度ではありません。

かと言って、あらん限りの努力、工夫をし、東奔西走し、根回しをし、手を尽くし、これだけやったのだから、神様も応えて下さるだろう、と言うのも信仰者の態度として如何なものでしょうか。

信仰者は「神様を信じて、人事を尽くす」なのではないでしょうか。

ヤコブには、神様への信仰があり、神様の約束を信じ、神様の祝福を肌身で感じる生活を送っていました。

そして、裏表なく、ラバンのために汗を流し、寸暇を惜しんで働いて来たのです。

しかし、汗を流して働けど、寸暇を惜しんで働けど、ヤコブの懐には一銭も、子羊一匹も入っては来なかったのです。

今回、ラバンとの交渉で、自分の家畜を得る事が出来ましたが、非常にアンバランスな提案であり、著しく公平性を欠いた結果です。

極僅かな羊と山羊ですが、手に入れる事は出来ました。

しかし、自分の物でありながら、自分で世話をする事が出来ないのです。

ラバンの息子たちに、微に入り細に入った、手厚い世話は期待できません。

更に、ラバンの性格を考えたなら、手間賃を要求されかねません。

神様に委ねるしかありませんが、その上で、自分の責任範囲に全力を注ぎ、自分の責任を全うすべきであり、最善を尽くし、創意工夫をするのです。

黒い羊とブチやまだらの山羊は、ラバンの息子に委ねたのではなく、神様に委ねたのであり、神様に委ねた羊や山羊の心配をする必要はありません。

否、心配してはならないのです。

心配する事は、神様を疑う事であり、それは不信仰です。

ヤコブの為すべき事は、目の前のラバンの羊と山羊の世話をする事であり、神様が与えた働きとして、誠実に取り組む事なのです。

その点で、ヤコブの行動は、ラバンの群れの中から、自分の群れを積極的に生み出そうとする行動であり、褒められた事ではありません。

お気に入りの人の為には精一杯、好ましからぬ人の時にはいい加減に、であってはならないのです。

自分にとって益となる人の為には精一杯、

自分にとって不利益になる人の時にはいい加減、不利益となるのを見過ごしてはならないのです。

好むと好まざるとに関わらず、益、不利益に関わらず、神様に接する如くに、誠実に、精一杯、お仕えしなければならないのです。

誰に対しても、神様に対するように接しなければならないのです。

そして、この世的な策を講じるのも、よく考え、取捨選択をしなければなりません。

選択した策に、異教的な意味が在りや、無しやを、吟味しなければなりません。

規則に反していないかを、逸脱していないかを、吟味しなければなりません。

そして、社会的に認知され、習俗とされていても、信仰的に、聖書的に、問題がないかを吟味しなければなりません。

行動のみならず、言葉にも注意を払わなければなりません。

普通に使われており、特別な疑問も持たせず、深い意味も意識せず使っているからといって、問題がないとは言い切れません。

例えば、「正月」とは、本来、その歳の豊穣を司る歳神様をお迎えする行事を意味します。

「元旦」の「旦」の字は地平(水平)線と太陽を意味する指事文字であり、太陽礼拝と深く関わっています。

「元日」の国民の祝日としての扱いも、もともとは「四方拝(四方節)」という皇室行事に起因した祭事に関係しています。

「祭日」の「祭」の字は、肉(生贄)と右手、肉を載せる台を意味する文字であり、魂、霊、御霊を慰める、崇りを払う行事であり、皇室の祭典に起因して、国民の祝日となっているのです。

和暦は言うまでもなく、天皇制の象徴です。

漢字や言葉の成り立ちまで調べて使うのは現実的ではありませんが、日本の習俗に馴染んでいる言葉だからと、違和感もなく使うのは、問題であり、

止むを得ず使うのと、何の疑問もなく使うのは別です。

何気ない言動が、意識せずとも、唯一の神様を否定していたならば、神様を悲しませていたならば、それは残念な事なのではないでしょうか。

それでも、知らずにした事は赦されますが、知った時には悔い改めの告白が必要である事は言うまでもありません。

このように意識する事は、神様と自分との関係を正しく保つ事に有益であると同時に、迷信を信じ、りを恐れ、縁起を担ぎ、ジンクスを気にする人々に、それが無意味な事、愚かな事、り等ないのだ、と知らせる事に繋がります。

多くの人は、本気で迷信やりを信じている訳ではなく、縁起やジンクスを何となく気にしているだけなのかも知れません。

しかし、意味も無い事に縛られる事ほど、無駄な事はありません。

迷信やり、縁起やジンクスを気にしない人が現れたなら、興味を持つのではないでしょうか。

しかし、言動を監視し、正す役割を与えられている、と誤解してはなりません。

唯一の神様を知る者の、押し付けでは無い、自然な立ち振る舞い、言動が、自然に受け入れられ、届くのではないでしょうか。

ここに居られる皆様の中に、聖書通読を忘れると、お祈りを忘れると、悪い事が起こる、と漠然と思っている人がいないでしょうか。

また周りの人々の中に、因習に囚われ、迷信に縛られ、りをおそれ、縁起やジンクスを気にされるお方がおられたならば、そんな呪縛、束縛から解放するためにも、イエス様は来られた事を知ってください。

伝えてください。

サタンは恐れる必要のないモノに眼を向けさせ、恐れなければならないお方から眼を逸らせようと暗躍しているのです。

サタンの惑わしに引っかからないで下さい。

意味もないモノに振り回されず、揺るがないお方に従って、揺るがない人生を歩もうではありませんか。

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聖書個所:マルコの福音書13:28~37                  2017-3-12礼拝

説教題:「目を覚ましていなさい

説教者:河野優牧師 (説教は非掲載です)

【聖書】

13:28 いちじくの木から、たとえを学びなさい。枝が柔らかになって、葉が出て来ると、夏の近いことがわかります。
 13:29 そのように、これらのことが起こるのを見たら、人の子が戸口まで近づいていると知りなさい。
 13:30 まことに、あなたがたに告げます。これらのことが全部起こってしまうまでは、この時代は過ぎ去りません。
 13:31 この天地は滅びます。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません。
 13:32 ただし、その日、その時がいつであるかは、だれも知りません。天の御使いたちも子も知りません。ただ父だけが知っておられます。
 13:33 気をつけなさい。目をさまし、注意していなさい。その定めの時がいつだか、あなたがたは知らないからです。
 13:34 それはちょうど、旅に立つ人が、出がけに、しもべたちにはそれぞれ仕事を割り当てて責任を持たせ、門番には目をさましているように言いつけるようなものです。
 13:35 だから、目をさましていなさい。家の主人がいつ帰って来るか、夕方か、夜中か、鶏の鳴くころか、明け方か、わからないからです。
 13:36 主人が不意に帰って来たとき眠っているのを見られないようにしなさい。
 13:37 わたしがあなたがたに話していることは、すべての人に言っているのです。目をさましていなさい。」

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聖書個所:創世記3025節~36節               2017-3-5礼拝

説教題:「帰郷の条件」

【導入】

肉親の確執は、思う以上に深刻です。

小さな食い違いは、積もり積もって、溜まり溜まって、大きな亀裂を生じさせます。

そして、理不尽とも言える、一方的な憎しみを買ってしまう事も、決して稀な事ではありません。

話し合いの場を設け、説得を試み、許しを請う事も必要ですが、時期にも配慮しなければならず、先ずは逃げ、冷却期間を置く事が必要な場合もありましょう。

ヤコブはエサウの憎しみを買い、遠く離れたパダン・アラムに住む伯父ラバンの所に身を寄せます。

そこで、ラバンの娘を見初め、ラケルと結婚するために、七年の労働契約を結びます。

期間が満了し、晴れてラケルと夫婦になった・・・かと思いきや、ラバンに騙されて、ラケルの姉レアと結婚させられてしまったのでした。

ヤコブはラバンに猛烈な抗議をいたしますが、強(したた)かなラバンは、取り繕ったとしか思えない理由を盾に、この結婚の正当性を主張し、ラケルと結婚したいならばと、新たな条件を提示し、更に七年間の労働契約を結ばせます。これが、二人の妻を得た経緯です。

紆余曲折があり、レアには六人の子が生まれ、ラケルの女奴隷ビルハに二人の子が生まれ、レアの女奴隷ジルパに二人の子が生まれ、最愛のラケルに待望のヨセフが生まれた時に、ヤコブは大きな決断をする事になります。

【本論】

30:25 ラケルがヨセフを産んで後、ヤコブはラバンに言った。「私を去らせ、私の故郷の地へ帰らせてください。

私を去らせ」・・・原語では、かなり強い表現であり、相当の逡巡があり、悩んだ挙句、思い切って口にした様子が伺えます。

ヤコブとラバンの関係は、決して悪くはなかったでしょうが、ヤコブは損得や権利に敏感であり、常に将来の事を考え、先手先手を打つ人間です。

ラバンは人の弱みに付け込む事を恥と思わない強(したた)かな、不利になる事は口にしない狡賢い人物のようです。

ヤコブとラバン、相手の腹の内を探るような、尻尾を掴ませないような、緊張感漂う場面であり、ヤコブは思い付きで、重要な事を口にしたのではなく、ラバンの反応を想定して、対応を考え抜いて、この場に臨んだのでしょう。

30:26 私の妻たちや子どもたちを私に与えて行かせてください。私は彼らのためにあなたに仕えてきたのです。あなたに仕えた私の働きはよくご存じです。」

レアとラケルは、ヤコブが十四年働いて、その花嫁料とし、報酬として得たのですから、間違いなく、問題なくヤコブの所有なのですが、レアとラケルの子どもたちは、ビルハとジルパ、そしてその子どもたちは、となると、微妙な問題なのです。

ヤコブの身分が奴隷なら、妻も子も、主人、即ちラバンの所有であり、ヤコブは身一つで出て行かなければなりません。

しかし、ヤコブは奴隷ではありませんし、レアもラケルも、花嫁料を支払っているのですから、問題ないとしても、子どもについては取り決めていないので、所有権が問題になるのです。

そして、ビルハとジルパはラバンの所有する奴隷であり、ヤコブの所有物ではありません。

通常、奴隷の子は主人の所有物なのですが、ヤコブが奴隷ではないので、所有権が微妙になるのです。

これは、人権無視の、不条理な考え方ですが、当時の考え方であり、これを基に対応を考えなければならなかったのです。

ヤコブの申し出は、レアとラケルの子どもたちの所有権を認めてください、ビルハとジルパ、及び、ビルハとジルパの子どもたちの所有権を放棄してくださいとの申し出であり、簡単な申し出ではない事がお解かり頂けたでしょうか。

この申し出の根拠となるのが、ヤコブの言葉「私の働き」であり、この言葉は、奴隷ではない事を暗示させ、ラバンの親族である事を思い出させ、同時に、奴隷以上の働きをして来た事を配慮して欲しい、考慮してください、との願いを込めた言葉なのではないでしょうか。

30:27 ラバンは彼に言った。「もしあなたが私の願いをかなえてくれるのなら……。私はあなたのおかげで、【主】が私を祝福してくださったことを、まじないで知っている。」

先に、ラバンは人の弱みに付け込む事を恥と思わない強(したた)かな、不利になる事は口にしない狡賢い人物のようだ、と紹介しましたが、加えてラバンは、ケチとも、ガメツイいとも思われたくはなく、しかし、損は絶対にしたくはない人物だったようであり、「もしあなたが私の願いをかなえてくれるのなら……。」と言いつつも自分からは具体的な提案は一切せず、ヤコブの申し出を待ちます。

この鍵括弧の箇所を、新共同訳聖書は「もっといてほしいのだが」と訳し、口語訳聖書は「とどまってください」と訳していますが、これが本心、本音でしょう。

ヤコブを手放したくはない、しかし、奴隷ではないのですから留めて置く事も命ぜられない。

そして、ヤコブを手放せない理由、ヤコブの申し出を無下に断れない、本心を洩らします。

ヤコブの神の存在を確信し、ヤコブの神の祝福が、自分にも及んでいる事を認めるのですが、ラバンの信仰告白ではありません。

利用できる物は何でも利用する、強欲な気質の持ち主ではありますが、しかし、神を恐れない不遜な人物ではなく、ヤコブを不当に扱うなら、ヤコブの神の祟りが確実である事を認める人物でもあるのです。

考えてみれば、伯父と甥の関係なのですから、ヤコブへ注がれる神様の祝福のお零れを、十四年以上も受けて来たのですから、大盤振る舞いをして、送り出しても良さそうなところですが、ヤコブを手放す事は、祝福を捨てる事であり、そんな事は出来ません。

しかし、ヤコブの申し出を拒否する事は、ヤコブの神に敵対する事であり、それも出来ません。27節は、ラバンの葛藤の滲んだ告白であり、色々な要素が混合した、複雑な心境を表現した告白なのです。

30:28 さらに言った。「あなたの望む報酬を申し出てくれ。私はそれを払おう。」

それを払おう」を新共同訳聖書は「必ず支払うから」と訳しています。

ラバンの気質を考える時、かなり疑問であり、27節で、自分の具体的な要求は伏せて置き、先にヤコブの要求を聞き出そうとするのは、狡猾な交渉のテクニックと言えるのではないでしょうか。

ヤコブの要求は、自分を去らせる事と、レアとラケルの子の所有権を得る事、ビルハとジルパの所有権と、ビルハとジルパの子の所有権を得る事ですが、ラバンは言葉巧みに、誘導し、話を逸らして行きます。

労働力は最大の財産であり、ヤコブはともかく、レアを含む十五人を去らせるのは大きな損失であり、簡単な決断ではありません。

レアを含む十五人の事は棚上げにし、ヤコブを少しでも長く、手元に留まらせるための最大限の知恵を絞った交渉の言葉であり、ヤコブが出て行くのを遅らせ、対策を考えるための、策略の言葉なのでしょう。

そして、甥を甥らしく扱わず、奴隷のように扱ってきた事への、幾らかかの反省、後悔の念も含む言葉なのではないでしょうか。

ラバンらしからぬ発言を、好機と見たヤコブは長年仕舞っていた鬱憤を吐露します。

30:29 ヤコブは彼に言った。「私がどのようにあなたに仕え、また私がどのようにあなたの家畜を飼ったかは、あなたがよくご存じです。

30:30 私が来る前には、わずかだったのが、ふえて多くなりました。それは、私の行く先で【主】があなたを祝福されたからです。いったい、いつになったら私も自分自身の家を持つことができましょう。」

確かにお世話にはなったけれども、十分過ぎる貢献をして来たのであり、親戚として、協力者としての処遇を受けるに、何の遠慮があるでしょうか、との自負の言葉であり、ヤコブの働き、忠実さ、誠実さを知っているはずであり、どのように報いるかは聞くまでもない事でしょう、私に聞くのですか、との憤慨の言葉でもありましょう。

ヤコブの働き、主張は認めざるを得ず、それでも、ラバンは、自分からは何も提案せず、言い出さず、ヤコブの出方を伺う、狡賢い駆け引きを続けます。

30:31 彼は言った。「何をあなたにあげようか。」

ヤコブは言った。「何も下さるには及びません。もし次のことを私にしてくださるなら、私は再びあなたの羊の群れを飼って、守りましょう。

何も下さるには及びません」との言葉は、ラバンへの不信感と警戒心の表れではないでしょうか。

ヤコブの要求は、当初から一貫してレアとラケルの子の所有権を得る事であり、ビルハとジルパの所有権、ビルハとジルパの子の所有権を得る事であり、何がしかの財産をもらう事ではありません。

しかし、ラバンは言葉巧みに誘導し、レアを含む十五人の交渉の話を逸らし続けます。

業を煮やしたヤコブは、ある決断をし、それは心の奥底に仕舞い込み、ラバンの提案に応じます。

ある決断とは、ラバンの許可を得る事を断念し、創世記31章に記されている逃避行を選んだ事です。この時点で逃避行を決断したのではなかったでしょうが、交渉の余地はないと確信し、強行手段に出るしかない、と判断し、ラバンが更に硬化しないように、ラバンの提案を受ける振りをしたのでしょう。

30:32 私はきょう、あなたの群れをみな見回りましょう。その中から、ぶち毛とまだら毛のもの全部、羊の中では黒毛のもの全部、やぎの中ではまだら毛とぶち毛のものを、取り出してください。そしてそれらを私の報酬としてください。

30:33 後になってあなたが、私の報酬を見に来られたとき、私の正しさがあなたに証明されますように。やぎの中に、ぶち毛やまだら毛でないものや、羊の中で、黒毛でないものがあれば、それはみな、私が盗んだものとなるのです。」

羊も山羊も多くの品種があり、各地で様々な品種が繁殖していますが、ラバン一族の住むパダン・アラム一帯では、羊と言えば白であり、山羊といえば黒が常識でした。

羊の黒いのと、山羊のブチ、マダラは例外であり、希少種であり、明確に区別出来ます。

遠くからでも、難なく見分けられる利点があり、所有権が明確に出来、混乱を防ぐ事が出来る利点がありますが、それ以上にラバンにとって損失は極少なく、これ以上はあり得ない、ささやかな、遠慮した要求と感じたのではないでしょうか。

ヤコブの要求は願ってもない要求であり、ラバンは内心、ホットしたのではないでしょうか。

30:34 するとラバンは言った。「そうか。あなたの言うとおりになればいいな。」

新改訳聖書では、ラバンの返事は、明確な同意ではないように訳されていますが、新共同訳聖書では「よろしい、お前の言うとおりにしよう」と訳し、口語訳聖書では「よろしい、あなたの言われるとおりにしましょう」と訳しています。

双方の合意が得られはしましたが、何年働くかは明確にされてはいません。

ラバンの目論見の通りの結果に行き着き、ラバンは心底安堵したのではないでしょうか。

これからも当分の間、ヤコブを働かせる事が出来るのでありヤコブに注がれる神様の祝福を受けられるのですから、その益の大きさは計り知れず、損失は、と言うと、僅かな数の羊と山羊なのですから、笑いが止まらなかったのではないでしょか。

30:35 ラバンはその日、しま毛とまだら毛のある雄やぎと、ぶち毛とまだら毛の雌やぎ、いずれも身に白いところのあるもの、それに、羊の真っ黒のものを取り出して、自分の息子たちの手に渡した。

ヤコブに帰属する羊と山羊の群れを、ラバンは自分の息子たちの手に委ねます。

その理由を幾つか考えて見ました。

一つは、ヤコブが自分の羊と山羊の世話に集中し、ラバンの羊と山羊の世話がいい加減になるのではないか、と言う懸念でしょう。誰でもが、とは言いませんが、自分の物を大切にし、優先するのが人情ですから、ラバンの心配は強(あなが)ち、杞憂とは言い切れませんが、今日までのヤコブの働きを見たならば、心配不要は確実でしょう。

二つは、雑種が増えるのを嫌った、と言う事ではないでしょうか。白い羊と、黒い羊が交われば、黒い羊も生まれるのであり、黒い羊が増える事になります。黒い山羊と、ブチの山羊とが交われば、ブチの山羊も生まれるのであり、ブチの山羊が増える事になります。ヤコブの報酬である、黒い羊と、ブチの山羊を分けておく事で、多少でも増えるのを抑えようとの算段が合ったのではないでしょうか。

三つは、大切な自分の羊と山羊は、頼りない、信用薄い自分の息子には預けられなかったのではないか、と言う事です。ラバンは、ヤコブのお陰で裕福になったのであり、甘やかされて育った息子たちは、牧畜には適していなかったのではないでしょうか。

そして、最後の理由は、36節にヒントがありそうです。

30:36 そして、自分とヤコブとの間に三日の道のりの距離をおいた。ヤコブはラバンの残りの群れを飼っていた。

三日の道のりが何kmなのかは大きな問題です。一時間で4km歩くとして、一日八時間歩くとして32km、三日で96km、凡そ100km。簡単に行き来出来る距離ではなく、決して群れが交じり合う事がないと言い切れる距離ですが、実際に100km前後離れているのではなく、簡単には行き来出来ない距離を現した表現ではないかと思われますが、それにしても、大げさ過ぎる距離なのではないでしょうか。

つまり、別の意味がありそうだ、と言う事です。即ち、今居る黒い羊と、ブチの山羊はヤコブへの報酬の対象外であり、これから生まれる黒い羊と、ブチの山羊を、これからのヤコブの働きに対する報酬とする、と言う意思表示なのではないか、なのです。

ラバンの考えは、ヤコブとラケルの結婚の事を考えたならば、導き出される答えなのではないでしょうか。

約束通りにしないのは、報酬を変えるのは、ラバンの常套手段です。自分に都合の良い解釈をし、理由付けをし、言い訳をします。

ヤコブの申し出には、一つも明確な答えを与えていないのであり、帰郷の許可も与えておらず、レアとラケルの子どもたちの所有権も明確には答えておらず、ビルハとジルパの所有権も、ビルハとジルパの子どもたちの所有権も明確に答えていないのです。

はぐらかし、すり替え、全く誠実とは言えませんが、罪を持つ身であり、私たちも無縁ではありません。

【適応

ヤコブの帰郷は、ヤコブとラバンの間の交渉の結果、条件の合意によって決まるのではありません。

きっかけは、ヤコブの言い出しにありましょうが、ヤコブの意思で決まる事ではありません。

ラバンの許諾によるものでもありません。

そもそも、ラバンには、ヤコブを手放す気は、全くないのですから、利用するだけ利用すると言う考え方なのであり、ヤコブの幸せなどには、微塵の興味もなく、娘たちの幸せにも、我、関せずであり、娘さえも利用する人物だった事は、創世記3114節以降に、娘たちの口から告白されている通りです。

ヤコブの帰郷は、人間的な工作や、交渉、或いは譲歩や妥協で行われる事ではありません。

ヤコブが父母の許を離れた時、神様が現れて旅路を祝福し、滞在地での祝福を宣言されました。

のみならず、連れ戻す事も約束されているのです。

この事は創世記2813章以降に記されている通りです。

人間が関わりますので、人間的な動きに注目が集まりますが、ヤコブのパダン・アラム行きも、カナンへの帰郷も、全て神様のご計画であり、神様の主権で行われている事です。

工作しても、交渉しても、強行しても、神様の時に至らなければ、頓挫し、中断し、失敗に終わるでしょう。

しかし、神様の時に至ったならば、障害は取り除かれます。

エジプト脱出の時のように、海は分けられ、河は堰き止められ、エリコ攻略の時のように、難攻不落の城壁は、人手に因らずに崩れ去るのです。

神様の約束は、カナンの地を、アブラハム、イサク、ヤコブが引き継ぐのであり、ヤコブがパダン・アラムに骨を埋める事はなく、必ずカナンの地に帰り、カナンの地を受け継ぎ、カナンの地を治めるのです。

ヤコブ帰郷の条件は、ヤコブとラバンの出し合う条件の一致ではなく、神様のご計画に一致した時なのです。

いろいろな働きや計画の、存続や遂行は、或いは停止や断念は、条件の一致や意見の一致で、ではありません。

駆け引きや、相手の出方を伺いつつ、でもありません。

ラバンのような、駆け引きや、相手の出方を伺うような生き方は、正当な支払いを惜しみ、相手の譲歩を待つような生き方は、神様の前に喜ばれる生き方ではありません。

ヤコブが裕福か、貧しいか、余裕があるか、苦しいかは関係ありません。

ラバンはヤコブの働きに対して、正当な支払いをしなければならず、遅らせてはならず、誤魔化しても、変更してもならないのです。

明確な取り組めがなされていなくても、標準的な報酬を支払わなければならず、ヤコブが言い出すまでもなく、ラバンは常識的な、正当な報酬を提示し、支払わなければならないのです。

例え、ラバンが苦しくても、ヤコブに差し迫った必要がなくても、ヤコブが裕福であったとしても、報酬の支払いを遅らせたり、減額したりしてはならないのです。

これは普遍的な神様の考えであり、試練として与えられる課題でもあります。

苦しくても正当な支払いをする時、神様が天の窓を開いてくださるのではないでしょうか。

策を弄するなら、天の窓は開きません。

見える状況、現状によるのではなく、信仰を持って、正当な報酬を支払わなければならないのです。

否、ヤコブが驚く位の報酬を提示し、支払う位でなければならないのです。

微妙だったラバンとヤコブの関係は大きく好転するのではないでしょうか。

しかし、ラバンのこの態度は、ラバンの息子たちに影響し、

創世記311節に記されている通りに「ヤコブはわれわれの父の物をみな取った。父の物でこのすべての富をものにしたのだ」と言わしめるに至るのです。

出し渋りは、何も良い結果をもたらしません。

否、悪化の一途を辿るのみだ、と知らなければなりません。

そして、問題の解決は、神様の時に至ったか否かなのです。

待つ事には限界があり、耐える事にも限度があるでしょうが、

神様は耐える力も与えてくださいます。

事態は好転します。

ここに居られる皆様にも、神様のご計画があり、必要な力は全て与えてくださいますから、日々、神様の主権を第一とし、神様の時を何より優先し、待つ者、待ち続ける者として、神様の栄光を見る者とされる事を願ってやみません。

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