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聖書個所:創世記3222節~32節               2017-5-28礼拝

説教題:「「神の人」との格闘。あなたの名はイスラエルだ」

【導入】

ヤコブは伯父ラバンとの和解を経て、故郷への旅を続け、兄エサウへの挨拶のために、使いを派遣しますが、戻って来た使いの報告は、兄エサウの様子は、ヤコブの不安を掻き立てるものでした。

兄エサウは弟ヤコブの使いに対して無言であり、何の伝言も与えず、400人もの部下を引き連れてやって来る、と言うのですから、兄エサウの怒りは、まだまだ薄らいではいない、と判断し、恐れるのは当然でしょう。

そこでヤコブは、兄エサウの怒りを治めるために、和解のために、厳選した、最高の家畜を、550頭も用意しました。破格の贈り物ですが、しかし、赦してくれるとは、忘れてくれるとは、和解を保障してくれるとは断言できません。

そこで550頭の家畜を九つの群れに分け、其々に使いを付け、言うべき挨拶の言葉を添えて、先に行かせました。

母リベカからの音信が来ないのに、神様の言葉に従って、故郷に帰る事を決意したヤコブですが、神様に従うからと言って、不安や恐れが起こらない訳ではありません。神様を信じていても、不安になるし、恐れが心を占め、空腹にもなるし、怪我や病気にもなります。

上手く行かない事があり、失敗があり、挫折し、意気消沈する事も日常茶飯事です。

しかし、神様を信じる者は、神様の見えない手によって立ち上がらせて頂けるのであり、神様の導き、助けによって歩み続ける事が出来るのです。

大きな不安がヤコブの心を占め、ヤコブを押し潰しそうな状況ですが、時に、神様は直接ご介入され、不安を取り除き、勇気と希望を与え、立ち上がり、進み続ける力を与えてくださいます。

すべき事をしたヤコブですが、次にすべき事は何でしょうか。「果報は寝て待て」と申しますが、神様を信じる者は「果報は祈って待て」なのではないでしょうか。

【本論】

32:22 しかし、彼はその夜のうちに起きて、ふたりの妻と、ふたりの女奴隷と、十一人の子どもたちを連れて、ヤボクの渡しを渡った。

32:23 彼らを連れて流れを渡らせ、自分の持ち物も渡らせた。

為すべき事を為したヤコブであり、550頭の群れを送り出し、日も暮れて、後は「果報は寝て待て」かも知れませんが、心配性でなくても、こんな状況で、眠れはしないでしょう。

色々な状況を想定し、最悪の事態を想定し、対策、対処に付いて、思い巡らしていたのではないでしょうか。

この「ヤボクの渡し」は、現在の「ゼルカ」と考えられます。ヨルダン川の中流に注ぎ込む支流の一つ、東から西に流れるヤボク川沿いの土地です。深い渓谷の地を流れるヤボク川であり、流れは急ですが、ここ「ゼルカ」は浅瀬であり、流れも緩く、渡るのに絶好の場所だそうですが、渡河には危険が付き纏います。

足元に注意を集中しなければならず、無防備になるのであり、見通しの利かない夜の渡河は非常に危険です。しかし、敢えて、夜陰に紛れて渡河を敢行したのには、訳がありそうです。

1に、兄エサウを迎える準備のため、一刻も早く、ヤボク川を渡っておきたかった。

2に、無防備になる渡河中に、兄エサウに攻撃されるのを恐れたため、などが考えられますが、3つ目の目的がありそうです。

32:24 ヤコブはひとりだけ、あとに残った。すると、ある人が夜明けまで彼と格闘した。

後戻りは出来ない状況であり、進むしかありませんが、進む先には困難が待ち受けているのですから、進むのも簡単な事ではありません。

神様を信じてカランを出立し、旅を続け、兄エサウへの贈り物を用意し、丁寧な挨拶の言葉と共に送り出しはしましたが、大きな不安は払拭出来ません。

重大な局面に立たされた時、それは、その人の真価が試される時でもあります。

不安の中に置かれた時、人は一人で居る事に耐えられません。一人では不安がつのります。

何の助けにもならず、解決にもならなくても、家族に囲まれ、僕に囲まれ、家畜に囲まれ、気を紛らし、根拠のない安心に浸ろうとするのではないでしょうか。

しかし、ヤコブは、一人になる事を選びました。人は、重大な局面に立たされた時、自分と向き合う時間、他の何にも煩わされない時間を持つ事が必要なのです。

自分と向き合う時間は、必然的に神様と向きあう時間と言う事が出来るでしょう。

兄エサウと、不釣合いな取引をした事、父イサクを騙した事、伯父ラバンや、従兄弟たちとの諍(いさか)い等の、神様を信じる者として相応しくない行動の数々。

方や、ベテルで神様と出会った事、伯父ラバンの下で、神様の祝福を存分に受けた事、神様が不思議な夢を見せてくださり、ヤコブの財産を増やして下さった事、神様が夢に現れて、生まれ故郷に帰りなさい、と命じられた事、伯父ラバンの夢に現れて、ヤコブに危害を加えないように命じられた事等の、神様が与えて下さった恵みの記憶の数々。

ヤコブは、自分の人生は、自分の知恵と力で切り開いて来たかのように思っていたでしょうし、事実、その通りだったのですが、背後では神様が働かれていたのであり、それを朧げには知ってはいましたが、朧げでは充分ではありません。

何故ならば、これからは、自分の知恵と力、肉の力で進むのではありません。

神様のご計画の、新しい段階に入ったのであり、神様の力を知る必要があり、一人っきりになって、神様の力、霊的な力を味わい、体験する必要があったのです。

ある人」とは「神の使い」であり、「神様」と同義と考えて良いでしょうが、ヤコブは神様と「格闘し」なければならないのです。

昨年20166月に「祈りのちから」と言う映画が公開されましたが、原題は「War Room」であり、「戦う部屋」です。

神様への祈りは、霊的な戦いですが、力を込め、汗を流し、長時間に渡る、肉体の疲労を伴う、命がけの戦いなのです。

ヤコブは死力を尽くして、「神の使い」と霊的に、肉的に戦ったのです。

32:25 ところが、その人は、ヤコブに勝てないのを見てとって、ヤコブのもものつがいを打ったので、その人と格闘しているうちに、ヤコブのもものつがいがはずれた。

ヤコブに勝てないのを見てとって」は、文字通り、ヤコブと「神の使い」が互角に戦い、決着が付かなかった、と理解して間違いありませんが、それは表面的な事であり、真実を見なければなりません。

決して「神の使い」が弱かった、ヤコブが強かった、と理解してはなりません。

「神の使い」とは言え、人の姿を取っているため、限界があったのであり、「神の使い」の目的は、ヤコブを打ち負かす事ではなく、ヤコブの自覚、即ち、ヤコブが肉の限界を知り、肉の努力を止めるのを待っていたので、手加減していたからでしょう。

しかし、ヤコブは肉の努力を止めようとはしません。自己主張が強く、一歩譲る、引く、をしません。最後まで自分の力に頼り続けるのであり、悪足掻きを続けるのです。

「神の使い」の手加減を見抜けず、肉の限界、肉の努力の空しさを悟ろうともしないヤコブであり、それでは、これからのヤコブの使命に支障を来たします。

そこで「神の使い」は、ヤコブの「もものつがい」、即ち、腿の関節を打ち、決着を付け、肉の限界、努力の限界、人の力の限界を知らしめます。

32:26 するとその人は言った。「わたしを去らせよ。夜が明けるから。」しかし、ヤコブは答えた。「私はあなたを去らせません。私を祝福してくださらなければ。」

「神の使い」は、決着を付けた理由を語られますが、「夜が明ける」は「神の使い」の弱点ではありません。夜しか活動出来ない訳ではなく、日の光を浴びると、焼け尽きてしまう訳でもありません。

出エジプト記3320節「あなたはわたしの顔を見ることはできない。人はわたしを見て、なお生きていることはできないからである」と記されている通りの、人に対する警告の故であり、ヤコブが朝日の中で「神の使い」を見て、死ぬ事がないようにとの、配慮の故なのです。腿の番(つがい)を打たれて、戦闘不能に陥ってしまったヤコブですが、両腕は問題なく、自由なのであり格闘相手にしがみ付いて離れようとはしません。

そして格闘相手が「神の使い」である事を悟ったヤコブは、このチャンスを逃さず、「私を祝福してください」と、嘆願しますが、これが祈りの究極の目的でしょう。

自分の祝福を求めるなどとは、自己中心な願いのようであり、相応しからぬように思えますが、そうではありません。神様に祝福される事こそ、一番大きな、一番重要な願いなのです。この世の富、栄誉、長寿、名誉、力、権威など、廃れるものではなく、永遠の神様の与える祝福こそ、この世の富、栄誉、長寿、名誉、力、権威を凌駕するものであり、何にも勝っており、求めるべきものなのです。

32:27 その人は言った。「あなたの名は何というのか。」彼は答えた。「ヤコブです。」

32:28 その人は言った。「あなたの名は、もうヤコブとは呼ばれない。イスラエルだ。あなたは神と戦い、人と戦って、勝ったからだ。」

ヤコブ」の意味は「押しのける者」であり、「名は体を現す」と申しますが、ヤコブの生き方そのものでした。生まれる時に、兄の踵(かかと)を掴み、兄の空腹の弱みに付け込んで、長男の受けるべき権利を手に入れ、父を騙して、長男が受けるべき祝福を横取りしました。狡賢い人であり、人を騙し、出し抜くのが生き様となっていました。

「神の使い」が、ヤコブに名を尋ねたのは、知らなかったからではありません。

ヤコブの自覚を促すためであり、自己の姿を、生き様を認識させるためであり、告白させるためです。

名前は、単なる識別記号ではありません。最初は意味のない、文字の羅列、組み合わせであったとしても、生きて行く中で、名前は意味を持ち、その人を現すものとなって行くのです。ヤコブは、「ヤコブ」と名乗り、「ヤコブ」と呼ばれる度に、「押しのける者」を意識せざるを得ないのであり、時には、屈辱を味わったのではないでしょうか。

しかし、この瞬間、ヤコブは、「ヤコブ」と言う古い肉を脱ぎ捨てて、「イスラエル」と言う新しい名前を与えられました。「イスラエル」は「イスラ」と「エル」の合成語であり、「イスラ」は「戦う」、「エル」は「神」であり、「神は、戦う」即ち「神は、彼のために戦う」のです。

これは、最大最高の祝福なのではないでしょうか。神様に敵対出来る者は存在しません。神様の守りは完璧な守りであり、神様の与える安全は完全な安全です。神様の与える祝福こそ、最大の恵みであり、最高の栄誉です。

ヤコブは祝福を求めましたが、ヤコブに新しい名前を与える事により、神様が常にヤコブに付き纏っている事を自覚させ、また、神様と歩調を合わせた生き様となる事が期待されての命名でもあるのです。

32:29 ヤコブが、「どうかあなたの名を教えてください」と尋ねると、その人は、「いったい、なぜ、あなたはわたしの名を尋ねるのか」と言って、その場で彼を祝福した。

「神の使い」は重要な働きを担って遣わされましたが、あくまで、神様の代理に過ぎません。名前のない存在であり、働きにこそ、注目しなければならず、それ以外ではないのです。「人は死んで名を残す」と申しますが、信仰者は、信仰の足跡、信仰の生き様、を残すべきであり、この罪の世に祝福をもたらすのが使命です。

名前が崇められたり、残した建物などが、誉めそやされてはなりません。

素晴らしい人だった、優しい人だった、ではなく、人を悔い改めに導き、霊的に生かし、霊的に養う説教だった。義なる神様を教え、イエス様を指し示す説教だった、証だった、であり、神様に従う生き方、神様に感謝する生き方、生き様でなければなりません。

人を祝福する事こそ使命であり、「神の使い」は名を名乗りませんが、祝福する事によって、名前を教えている、と言えるのではないでしょうか。

罪ある人間には、本当の祝福は出来ません。人を、真の意味で祝福出来るのは神様だけであり、神様に遣わされた働き人だけなのであり、神様に遣わされた事が重要であり、名は無くて良いのです。

32:30 そこでヤコブは、その所の名をペヌエルと呼んだ。「私は顔と顔とを合わせて神を見たのに、私のいのちは救われた」という意味である。

ペヌエル」の意味は「神の顔」であり、ヤコブは「神の使い」の顔を、はっきりとは見定めてはいませんが、夜明け前の薄暗がりの中で、朧げに見させていただいたのです。

先に、出エジプト記3320節「あなたはわたしの顔を見ることはできない。人はわたしを見て、なお生きていることはできないからである」を紹介しましたが、これは、罪を持つ身でありながら、聖なる神様の顔を見る事は許されないのであり、興味本位、野次馬根性で、聖なるものに接する事を禁じているのであり、人に対する警告です。

しかし、神様は、「神の使い」を見る事を許される事もあり、その場合でも死ぬ、ではありません。アブラハムは神の使いと数時間を過ごしていますし、その後に、イサクをもうけます。ギデオンも神の使いと会話をしており、その後に、大きな働きをしています。

サムソンの両親、マノア夫妻も神の使いと会話をしており、その後に、サムソンを産みます。必要ならば、見る事があり、必要でなければ、願っても、頼み込んでも、見る事は出来ません。

そしてヤコブが「神の使い」の顔を見させて頂いた事には大きな意味があります。

ヤコブは兄エサウを恐れていますが、兄エサウの顔を見る事を恐れている、と言い換える事が出来ます。しかし、ヤコブは兄エサウとは比較にならない、恐ろしいモノ、偉大なモノ、畏れ多いモノ、見る事を許されてはいないモノを見たのであり、人に対する恐れと、神様に対する畏れの、質の違い、意味の違いを学び、恐れる必要のないものを恐れず、畏れるべきものを畏れる事を学んだのです。

これは決して、人に対して不遜になれ、と言う意味ではありません。礼節を弁え、謙遜に振舞わなければなりませんが、人を恐れる必要はないのです。

32:31 彼がペヌエルを通り過ぎたころ、太陽は彼の上に上ったが、彼はそのもものために足を引きずっていた。

「神の使い」が去り、夜が明け、ヤコブは新しい名前を与えられ、新しく生きる者とされ、新しい光の中で、新しい出発の時を迎えたのです。

「神の使い」に打たれた腿は、後遺症、肉体に棘(とげ)として残り、歩くのに不自由となっていましたが、実際に格闘した事の証拠であり格闘が夢でも、幻でもなかった事の証拠となり、長く続く、鮮明な記憶となりました。肉の限界、努力の限界、人の力の限界を身体に記憶させたのです。

ヤコブは、手加減していたとは言え、「神の使い」と互角に戦う強さ、賜物を持っていましたが、賜物に頼り過ぎるのは危険であり、引き時を弁えなければ、致命的打撃を受け、滅びるのです。

賜物を個性、特長、長所短所、得手不得手、能力と言い換えても良いかもしれません。賜物は、与えられたモノ、持っているモノだけではありません。与えられてないモノ、或いは、取り去られたモノが、賜物と言う事もあり得るのです。力強さも賜物ですが、肉体の棘が賜物って事もあるのです。弱さを持っている事は欠点ではなく、弱さを知っている事が大切であり、弱さは賜物になり得るのです。

パウロは、肉体の弱さが取り去られる事を願い祈りましたが、神様の答えは「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである」でした(第二コリント129)

ヨブ記に記されているヨブの言葉「主は与え、主は取られる」であり、健康も、財産も、能力も、弱ささえも、全てこの通りなのです。

ヤコブは、自分の能力に頼り過ぎた結果を背負って、新しい歩みを踏み出しました。

32:32 それゆえ、イスラエル人は、今日まで、もものつがいの上の腰の筋肉を食べない。あの人がヤコブのもものつがい、腰の筋肉を打ったからである。

これは、食物に関する禁忌規定ですが、律法には記されていません。

明文化はされていませんが、口伝で伝承されて、ユダヤ人の拠り所となったようです。

肉の限界、知恵の限界、努力の限界、人間の限界を覚えるための、忘れないための、しるしなのです。

これを機に、ヤコブの一族はイスラエル民族として扱われ、新しい民族としての、新しい歩みが始まるのです。

【適応

先に、名は体を現す、と申しましたが、ヤコブは、イスラエルとなり、イスラエルは、「神様が戦われる」集団となったので、神様を頭と仰ぐ集団として扱われる事になります。

神様が先頭を切って闘ってくださる集団であり、神様を旗印とする民、神様を先頭にする民、神様に従う民、神様が守ってくださる民、神様が導いてくださる民、神様が助けてくださる民、神様が養ってくださる民、神様が祝福してくださる民、として扱われるのです。

この後、エジプトと言う、当時最大、最強の国、最先端の文化を持つ国で、守られ、養われ、膨大な数にまで増やしていただき、40年の荒野での流浪の旅でも守られ、養われ、乳と蜜が流れると形容されるカナンの地を、鉄の武器を持つ強国を絶滅させつつ、占領し、広大な帝国を建設するに至るのです。

神様の祝福の結果です。

神様の祝福は、実質の伴うものです。

名札が付け替えられただけではありません。

名目だけが変わった訳でもありません。

神様の所有になったのであり、神様の名代(みょうだい)になったのですから、その自覚が必要であり、自覚に伴う行動が求められましょう。

神様が戦ってくださる、付いておられるからといって、高慢になってはいけません。

優れていると思ってはなりません。

世界に神様の素晴らしさ、神様に従う事の素晴らしさ、神様から頂く祝福の素晴らしさを伝え、広めて行く使命と共に生きる事になったのを自覚し、行動しなければなりません。

この事は、そのまま、クリスチャンと呼ばれる者に与えられた使命であり、生き方です。

イエス様を信じた時、イエス様に従って生きようと決心した時、自然と、何となく、何の抵抗も葛藤もなく決断をした訳でも、洗礼を受けた訳でもではないでしょう。

親の反対や、友人の忠告があり、不安や恐れ、迷い、躊躇い、があり、公私に、雑多な問題が起こったのではないでしょうか。

それらを乗り越えて、洗礼を受けたのであり、新しい名を与えられたのです。

「あなたの名はクリスチャンだ」「あなたは、キリスト者だ」、「あなたは、イエス様を信じる者だ」「あなたは、イエス様に従う者だ」。

何と素晴らしい宣言であり、何と喜ばしい名前を与えられた事でしょうか。

しかし、いつの間にか、肉の限界、知恵の限界、努力の限界、人間の限界を忘れてしまい、再び、肉の努力、知恵を得る事に、血眼になってしまう事のないように注意しなければなりません。

だからこそ、新しい名前が与えられた事を、しっかり受け止め、明確に記憶しなければならないのです。

ここにおられる皆様が、新しい名前をつけられ、神様の民との宣言を受けた事を忘れないように。

その意味でも、聖餐のパンとぶどう酒をしるしとして、眼で見て、手で取って、味わって確認し続け、神の民とされた自覚を保ち続け、神様の恵みの中に、留まり続けられるよう願うものです。

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聖書個所:創世記321節~21節               2017-5-21礼拝

説教題:「兄エサウへの宥めの贈り物」

【導入】

ヤコブは伯父ラバンとの和解を経て、故郷への旅を続けますが、大きな不安がヤコブの心を占めています。

そもそも、ラバンの下に身を寄せたのは、兄エサウの怒りを逃れるためであり、母リベカの指示です。

そして、帰るタイミングは、創世記2745節に、「兄さんの怒りがおさまり、あなたが兄さんにしたことを兄さんが忘れるようになったとき、私は使いをやり、あなたをそこから呼び戻しましょう。」と記されているように、兄エサウの怒りが治まってからであり、母リベカからの使いがあってからです。

しかし、母リベカからは、何の知らせも届いてはいないのであり、即ち、兄エサウの怒りは治まってはいないのですから、帰るのは非常に危険です。

しかし、神様の指示があり、ラバンとの約束が交わされ、ラバンの下に戻る訳にも行かないのであり、進退窮まるような状況に陥ってしまったヤコブですが、進むしかないのです。

そして進む決意をする時に、進み出す時に、神様がご介入され、事態を解決に導いて下さるのです。

【本論】

32:1 さてヤコブが旅を続けていると、神の使いたちが彼に現れた。

旅を続けていると」の直訳は「彼の道に進んだ時」です。

ヤコブは、神様から、「生まれた国に帰りなさい」との命令を受けたのですが、従うか、否かは、ヤコブが決める事です。

決めた以上、仕方なく旅を続けるのではなく、意識的に、積極的に、歩むべき道を歩み続けるべきです。

そして、歩むべき道に、導きの道を歩み続ける事は、神様からのお取り扱いを受ける前提となるのです。

立ち止まる事は、後戻りする事は、神様の命令を拒否する事です。

立ち止まる事は、現状維持ではなく、後退であり、後戻りは、反逆と同義語です。

神様に聴き従わない者を、導きようがありませんし、助けようがありません。

神様を信頼して、立ち止まらず、進む時、道は開かれるのです。

さて、ヤコブは、「神の使いたち」を見ましたが、これは、偶然ではなく、神様の配慮であり、不安に陥るヤコブに励ましを与え、慰めるためです。

兄エサウの怒りを逃れるために家族の下を離れ、野宿をした時、行く先の不安に苛まれている、その時に、神の使いを見させていただき、励ましを受けた事を、ありありと思い出したのではないでしょうか。

32:2 ヤコブは彼らを見たとき、「ここは神の陣営だ」と言って、その所の名をマハナイムと呼んだ。

ヤコブの集団は、一族郎党を引き連れた、大きな集団ではありますが、民間人であり、夥しい数ではありますが、家畜中心の集団であり、戦う術を持ってはいません。

襲われたなら、ひとたまりもありません。

そこで神様は、夥しい数の「神の使いたち」をヤコブに見せ、常にヤコブを守っている事を、常にヤコブに寄り添っている事を教えて下さったのです。

陣営」と訳されているヘブル語は「マハネ」ですが、「マハネ」の双数が「マハナイム」なのであり、ヤコブの集団と、「神の使いたち」が、二つ並び、大集団を成している様子を、ヤコブの集団を守るように「神の使いたち」が寄り添っている様子を、ヤコブは感動的に表現したのです。

32:3 ヤコブはセイルの地、エドムの野にいる兄のエサウに、前もって使者を送った。

32:4 そして彼らに命じてこう言った。「あなたがたは私の主人エサウにこう伝えなさい。『あなたのしもべヤコブはこう申しました。私はラバンのもとに寄留し、今までとどまっていました。

32:5 私は牛、ろば、羊、男女の奴隷を持っています。それでご主人にお知らせして、あなたのご好意を得ようと使いを送ったのです。』」

伯父ラバンとの確執、苦闘から解放されたヤコブですが、兄エサウとの確執は解消されていないのであり、兄エサウとの苦闘が待ち受けています。

そもそも、伯父との確執は、兄との確執が原因、元となって起こったのであり、兄との問題は、避けては通れません。

否、兄との問題を解決しない限り、何処に行っても、一時しのぎであり、本当の平安はなく、問題の先送りや、表面を繕う策を採るのではなく、本当の和解を得るために問題に立ち向かい、霊的に戦わなくてはならないのです。

その、霊の戦いに、神様は助けを送り、神の使いたちが加わったのですが、ヤコブの策士振りは、相変わらずです。

私の主人エサウ」「あなたのしもべヤコブ」「ご主人にお知らせして」と、謙遜の限りをつくした言葉を並べ、低姿勢をアピールしますが、これらの表現は、ヤコブに限った表現ではありません。

上位の人に対する、儀礼上の表現であり、一般的な表現ではありますが、エサウを喜ばせようとする、エサウの心に入り込もうとする思いからの言葉です。

決して卑屈になって、心にもない事を言ったのではありません。

ヤコブの本心からの言葉であり、真実さを込めた、真剣な言葉なのです。

ヤコブはエサウの「好意を得ようと使いを送った」のですが、ヤコブの思惑通りには行かなかったようです。

32:6 使者はヤコブのもとに帰って言った。「私たちはあなたの兄上エサウのもとに行って来ました。あの方も、あなたを迎えに四百人を引き連れてやって来られます。」

ヤコブの丁寧な、心を込めた伝言に対して、エサウが沈黙し、何も応じないのは不気味であり、ヤコブの不安を煽ります。

しかも、400人もの屈強の部下を引き連れてやって来ると聞いては、緊張し、警戒せざるを得ません。しかし、見方を変えて、エサウの立場に立ったなら、状況は違って見えるのではないでしょうか。

ヤコブの使いは、エサウの様子を窺うための斥候、スパイであり、伝言も、エサウを油断させるための方便であり、エサウを騙し討ちにしようとの策なのかも知れません。

何しろ、ヤコブはズル賢い男なのですから、そう思われても仕方がありません。

双方が疑心暗鬼になってしまった訳です。

激昂しているかもしれないエサウを恐れたヤコブは策を立てます。

32:7 そこでヤコブは非常に恐れ、心配した。それで彼はいっしょにいる人々や、羊や牛やらくだを二つの宿営に分けて、

32:8 「たといエサウが来て、一つの宿営を打っても、残りの一つの宿営はのがれられよう」と言った。

14節以降に、エサウへの贈り物のリストが記されています。

総計550頭であり、大盤振る舞いですが、これはヤコブの全財産でも、大半でもありません。ほんの一部、一割か二割なのではないでしょうか。

エサウは400人を引き連れてやって来るのであり、ヤコブの家畜を奪うにしても、殺すにしても、400人が持て余す数でなければ、「二つの宿営に分け」る意味がありません。

400人に襲われても、混乱の最中に逃げ出せるために、二つに分けるのでありヤコブの財産の豊かさが窺える箇所なのです。

策を弄しながらも、ヤコブは神様を忘れはしません。

9節から12節は、窮地に陥った者の、神様への祈りの模範と呼べる箇所です。

32:9 そうしてヤコブは言った。「私の父アブラハムの神、私の父イサクの神よ。かつて私に『あなたの生まれ故郷に帰れ。わたしはあなたをしあわせにする』と仰せられた【主】よ。

ヤコブの言葉、9節の前半は、明確な神、唯一の神、契約の神を告白する言葉です。

ヤコブが祈る対象は、八百万の神ではなく、「私の父アブラハムの神、私の父イサクの神」であり、アブラハムやイサクと契約を結ばれた神様です。

そして9節後半、「生まれ故郷に帰れ」と、明確な命令を下す神様であり、「あなたをしあわせにする」と、明確な約束を宣言される神様なのです。

神様に曖昧な部分や、難解な部分はありません。

単純明快であり、従うなら祝福を、従わないなら呪いを、なのです。

続いて、自己吟味、自分を客観的に見る事、自覚が告白されます。

32:10 私はあなたがしもべに賜ったすべての恵みとまことを受けるに足りない者です。私は自分の杖一本だけを持って、このヨルダンを渡りましたが、今は、二つの宿営を持つようになったのです。

10節前半の、「足りない者です」との、自己認識の告白であり、10節後半の、現状認識であり、神様からの一方的な祝福だ、と言う事を正しく認識している事の告白です。

失敗もあるけれど、そこそこ良い事だってやっている・・・あの人よりまし・・・私が祝福されるのは、私が優れているからだ・・・とんでもない間違いです。

義人は一人もいないのであり、全ての人が罪人であり、呪いの中にあるのですが、神様の憐れみによって、裁きの延期によって、滅ぼされないだけなのであり、受ける資格も権利もないのに、神様から一方的に祝福されているだけなのです。

これらの告白と認識の上に、嘆願が続きます。

32:11 どうか私の兄、エサウの手から私を救い出してください。彼が来て、私をはじめ母や子どもたちまでも打ちはしないかと、私は彼を恐れているのです。

32:12 あなたはかつて『わたしは必ずあなたをしあわせにし、あなたの子孫を多くて数えきれない海の砂のようにする』と仰せられました。」

何をして欲しいのか、何を恐れているか、が明確である事は重要です。

漠然とした祈りが悪い、と言っているのではなく、心の内を曝け出す事が重要なのです。

神様の前で、取り繕う必要はありません。全てご存知だからです。

だからと言って、言わなくても良い訳ではなく、罪を告白し、弱さを告白し、恥ずかしい事をも、神様に告白しなければなりません。

誤魔化したり、少なめにしたり、小さめにしたり、ではなく、真実を、ありのままに、全て告白しなければなりません。

勿論、一気に、ではなく、気持ちの整理をつけながら、心の葛藤を克服しながら、何回かに分けて、と言う事もあるでしょうが、隠し事があってはなりません。

そして、個人的な祈りと、公の祈りを区別する事において注意、配慮が必要です。

神様との一対一の祈りにおいては、全てを告白しなければなりませんが、公の場では、個人的な内容や、特にプライベートな内容、他人の秘密は控えるべきです。

それは「然るべき場」でなければなりません。

最後の12節は、神様への念押し、ではなく、自身への確認でしょう。

神様は忘れる事がなく、約束は完全に果たされます。

しかし、私たちは疑い易く、不安に陥り易い生き物ですから、不安を払拭するために、疑いの雲を吹き払うために、言葉にする事で、神様の約束を確認するのであり、口に出す事で、神様への信頼を維持させるのです。

32:13 その夜をそこで過ごしてから、彼は手もとの物から兄エサウへの贈り物を選んだ。

32:14 すなわち雌やぎ二百頭、雄やぎ二十頭、雌羊二百頭、雄羊二十頭、

32:15 乳らくだ三十頭とその子、雌牛四十頭、雄牛十頭、雌ろば二十頭、雄ろば十頭。

総計550頭であり、8節で、これはヤコブの全財産でも、大半でもありません。

ほんの一部、一割か二割なのではないでしょうか。と申し上げました。

確かに、数の上では一割、二割かも知れませんが、ヤコブは、非常に多くの家畜の中から、「手もとの物」即ち、手許に置き、手塩に掛けて育てた家畜の中から、さらに選りすぐりの良い物を選び出し、贈り物としたのです。

量でも、けち臭い数ではなく、そこまでしなくても、と思うような数を贈り物としたのであり、品質でも最高の物を選んで、贈り物としたのです。

ヤコブがそれでも困らない程に富んでいた事の証拠でもありますが、エサウの好意を、どうしても得たいとの、切実さの現れでしょう。

そして、エサウの性質、即ち、物に対する欲、無形の物より、有形な物に重きを置く気質を知るが故に、確かな効果を確信して、贈り物を用意したのでしょう。

更に効果を高めるための、周到な策を講じます。

32:16 彼は、一群れずつをそれぞれしもべたちの手に渡し、しもべたちに言った。「私の先に進め。群れと群れとの間には距離をおけ。」

群れは九つ、或いは、五つとも考えられますが、200頭の群れを贈り物として受け取ると、間もなく、20頭の群れを贈り物として受け取るのであり、更に、200頭の群れを贈り物として受け取ると、間もなく、20頭の群れを贈り物として受け取るのです。

ヤコブは、贈り物の波状攻撃を仕掛けたのです。

山羊の雌雄の頭数、羊の雌雄の頭数などは、群れとして纏めるために、最適な数であったかも知れませんが、心理的な効果を狙っての策である事に、疑いの余地はありません。

更に、贈り物の効果を高める策を付け加える事を忘れません。

32:17 また先頭の者には次のように命じた。「もし私の兄エサウがあなたに会い、『あなたはだれのものか。どこへ行くのか。あなたの前のこれらのものはだれのものか』と言って尋ねたら、

32:18 『あなたのしもべヤコブのものです。私のご主人エサウに贈る贈り物です。彼もまた、私たちのうしろにおります』と答えなければならない。」

32:19 彼は第二の者にも、第三の者にも、また群れ群れについて行くすべての者にも命じて言った。「あなたがたがエサウに出会ったときには、これと同じことを告げ、

32:20 そしてまた、『あなたのしもべヤコブは、私たちのうしろにおります』と言え。」ヤコブは、私より先に行く贈り物によって彼をなだめ、そうして後、彼の顔を見よう。もしや、彼は私を快く受け入れてくれるかもわからない、と思ったからである。

ここでも、ヤコブは、使者を遣わした時と、同じ言葉を授けます。

あなたのしもべヤコブ」「私のご主人エサウ」と言う表現は、最大限の謙りであり、最高の賛辞です。

誉め言葉は割り引いて聴くべきであり、そのまま受け止め、調子に乗ってはならず、諫言(かんげん)は心して受け止め、言い難い事を言ってくれた事に感謝しなければなりませんが、誉められて悪い気はしないものであり、贈り物との相乗効果で、和解に一歩、近づくのではないでしょうか。

20節の「贈り物によって彼をなだめ」の直訳は「贈り物によって、彼の顔を覆い」です。

「贈り物によって、加害の事実を覆い隠す」のであり、「加害の事実を覆い隠す」即ち「償う」のです。

そして「なだめ」は「贖い」を現す律法用語に繋がります。

弁解や言い訳ではなく、与えた苦痛に対する償いは、宥めの贈り物なのであり、犯した罪に対する償いは、宥めの献げ物なのです。

しかし、果たして、贈り物は解決の手段になり得るのでしょうか。

ヤコブの、エサウへの近づき方、方法は、非常に人間的です。

箴言1816節「人の贈り物はその人のために道を開き、高貴な人の前にも彼を導く。

これはそのまま、異教徒の、異教の神への近づき方です。

しかし、「贈り物」は、動物であれ、作物であれ、神様から人へ与えた贈り物であり、神様の物です。

献金も、奉仕も含めて、人は、何も神様に献げ得ないのであり、何かを献げた、と思っているなら、それは大きな間違いです。

それでも、真心を込めて、最高の物を、大きな痛みを伴う物を、喜んで献げるならば、神様は受け入れてくださいます。

人への謝罪を込めた贈り物も、同じでしょう。

神様へは勿論の事、人に対しても、誠実に、詫びる気持ちを込めて、見返りを期待せずに送るなら、誠意は届くのではないでしょうか。

しかし、逆に、不躾な贈り物は、逆効果しかもたらさないでしょう。

贈り物、献げ物に、心を込めなければ、何の意味もありませんし、害を為すに至るでしょう。

32:21 それで贈り物は彼より先を通って行き、彼は宿営地でその夜を過ごした。

すべき事をした達成感からか、ヤコブは一安心したようですが、これで終わりではありません。「人事を尽くして天命を待つ」と申しますが、逆です。

神様の約束を信じて、最善を尽くすのですが、人は、往々にして逆を行なってしまいます。

この後、ヤコブは神様のお取り扱いを受ける事になりますが、イスラエル民族としての、新しい歩みが始まるのです。

【適応

ヤコブは、エサウを宥めるために贈り物を用意しました。

その贈り物は、選りすぐりの家畜であり、夥しい数でした。

ここまでして、エサウとの関係を修復しなくても、エサウと離れて暮らしても良さそうにも思いましょうが、それは間違った選択です。

ヤコブは、カナンの地で生きなければならず、ヤコブは、エサウを従えなければならず、将来、カナンの地を支配し、世界を支配しなければなりません。

これが、神様のご計画です。

ヤコブは、伯父ラバンとの和解、エサウとの関係修復という体験を通して、神様との和解を学び、神様との関係修復を学ぶのです。

ラバンと和解しなくても、エサウと関係修復しなくても、ヤコブは生きていけるでしょうが、ラバンを恐れ、エサウに怯える生活は、永く続けられる生活でしょうか。

神様のご計画の進捗に、大きな支障を来たすのは、確実です。

何をさて置いても、和解しなければならず、関係修復しなければならないのです。

そして、人間同士の和解、関係修復以上に、神様との和解、関係修復が重要です。

人間は、神様との和解、関係修復なしに、存在意味はありません。

人間が、神様によって存在しているからです。

人間は、神様との和解と関係修復に、最大限の努力と、工夫と、犠牲を払わなければなりません。人間の罪を、覆い隠す必要があり、罪のための宥めの献げ物、贖いの献げ物が必要なのです。

しかし、何を献げても、それは神様の物であり、宥めにならず、贖いになりませんが、心底から和解と関係修復を願い、真心から献げるなら、神様は受け入れてくださり、和解と関係修復に必要な手段を、神様が講じてくださいます。

それが、イエス様の十字架であり、人間の罪の贖いとなり、宥めの献げ物となり、神様との完全な和解、完全な関係修復を成し遂げてくださったのです。

人間は、不完全な献げ物しか出来ず、不完全な礼拝しか献げられず、不完全な奉仕しか出来ませんが、神様の御子イエス様が人となられ、謙り、ご自身を献げ、完全な生贄を献げ、神様との関係を修復してくださり、和解を成し遂げて下さいました。

神様は、イエス様を通す事によって、私たちの献げ物、礼拝、奉仕を、完全な献げ物、完全な礼拝、完全な奉仕としてくださるのです。

勿論、いい加減、適当で良いのではありません。

最善を尽くし、最大限の犠牲を払った礼拝、祈り、献げ物、奉仕を、神様は喜んで下さるのです。ヤコブは神様に委ねつつ、最大限に謙り、最高の贈り物をしました。

イエス様は神様に従順になられ、最大限に謙り、最高の献げ物となられました。

私たちは、神様との和解と関係修復のために犠牲となられたイエス様に対して、最大限に謙り、最大限の犠牲を払った礼拝と祈り、献げ物と奉仕を献げようではありませんか。

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聖書個所:ヨハネの手紙第一3:11~18                 2017-5-14礼拝

説教題:「互いに生かし合う関係を

説教者:河野優牧師 (説教は非掲載です)

【聖書】

3:11 互いに愛し合うべきであるということは、あなたがたが初めから聞いている教えです。
 3:12 カインのようであってはいけません。彼は悪い者から出た者で、兄弟を殺しました。なぜ兄弟を殺したのでしょう。自分の行いは悪く、兄弟の行いは正しかったからです。
 3:13 兄弟たち。世があなたがたを憎んでも、驚いてはいけません。
 3:14 私たちは、自分が死からいのちに移ったことを知っています。それは、兄弟を愛しているからです。愛さない者は、死のうちにとどまっているのです。
 3:15 兄弟を憎む者はみな、人殺しです。いうまでもなく、だれでも人を殺す者のうちに、永遠のいのちがとどまっていることはないのです。
 3:16 キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。ですから私たちは、兄弟のために、いのちを捨てるべきです。
 3:17 世の富を持ちながら、兄弟が困っているのを見ても、あわれみの心を閉ざすような者に、どうして神の愛がとどまっているでしょう。
 3:18 子どもたちよ。私たちは、ことばや口先だけで愛することをせず、行いと真実をもって愛そうではありませんか。

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聖書個所:ヨハネ10:3142                  2017-5-7礼拝

説教題:「イエスの示されたわざを信じる」

【導入】

「わたしと父とは一つです。」

「わたし」とはイエス様のことであり、「父」とは創造主なる神様のことであることは説明するまでもないことでしょう。

そして、この宣言には、イエス様と神様のお考えの基本的一致が込められており、人間を救うご計画の推進、実行において、神様のお考えと、イエス様のお考えは一つであり、人類に提供された救いの方法が一つであることの宣言なのです。

これは前回学んだ通りです。

しかし、この真理、教理は全ての人が理解できる訳ではなく、誤解する人々もいたのです。

誤解した人々は、この言葉だけを誤解したのではありません。

イエス様の存在をうとみ、その言動に脅威を覚え、イエス様の言動の全て、言葉尻を掴んで、イエス様を窮地に落とし入れ、あわよくば葬り去ろう、ユダヤ社会から抹殺しようと考える人々でした。

これらの人々は、イエス様に対して、決して好意的になることはありませんでした。

常に批判的に見、聴き、その言葉や行動に隠された意味を知ろうとも、教えて頂こうとも考えませんでした。

人は謙虚にならなければなりません。

当時のエリート階級、知識層であった、祭司、長老、律法学者、パリサイ人であっても、全てを完全に知っている訳ではありません。

人は知っていること以上に、知らないことが多いのです。

知っていることですら、間違っていることだってあり得るし、変っていくことだってあり得るのです。

ですから、常に誰からでも教えを乞う姿勢を保っていなければならないのではないでしょうか。

どんな意図があっての発言なのか、本当は何を言いたいのかを聞き取る謙った謙虚な心が必要なのです。

しかし、悪意というフィルターを通してイエス様の言葉を聴く人々には、解り易く語ったとしても、心に届くことはありません。

イエス様の「わたしと父とは一つです。」との宣言は、誰もが理解できる言葉ではないのですから、素直に、隠された意味の教えを乞えば良いのに、プライドが邪魔をし、偏見が障害となって、反発を惹起し、殺意にまでエスカレートしてしまうのでした。

【本論】

10:31 ユダヤ人たちは、イエスを石打ちにしようとして、また石を取り上げた。

10:32 イエスは彼らに答えられた。「わたしは、父から出た多くの良いわざを、あなたがたに示しました。そのうちのどのわざのために、わたしを石打ちにしようとするのですか。」

10:33 ユダヤ人たちはイエスに答えた。「良いわざのためにあなたを石打ちにするのではありません。冒涜のためです。あなたは人間でありながら、自分を神とするからです。」

ユダヤ人たちがイエス様を石打ちにしようとした律法的根拠はレビ記に記されている教えです。

レビ記2416節には、次のように記されています。

即ち「主の御名を冒涜する者は必ず殺されなければならない。全会衆は必ずその者に石を投げて殺さなければならない。在留異国人でも、この国に生まれた者でも、御名を冒涜するなら、殺される。」です。

この教えが示されたのは喧嘩が原因でした。

24:10 さて、イスラエルの女を母とし、エジプト人を父とする者が、イスラエル人のうちに出たが、このイスラエルの女の息子と、あるイスラエル人とが宿営の中で争った。

24:11 そのとき、イスラエルの女の息子が、御名を冒涜してのろったので、人々はこの者をモーセのところに連れて来た。その母の名はシェロミテで、ダンの部族のディブリの娘であった。

24:12 人々は主の命令をまって彼らにはっきりと示すため、この者を監禁しておいた。

24:13 そこで、主はモーセに告げて仰せられた。

24:14 「あの、のろった者を宿営の外に連れ出し、それを聞いた者はすべてその者の頭の上に手を置き、全会衆はその者に石を投げて殺せ。

24:15 あなたはイスラエル人に告げて言え。自分の神をのろう者はだれでも、その罪の罰を受ける。

争いなんて、最初は些細なことから始ったのでしょう。

意見の違いが相手を全面否定することになり、罵り合い、掴み合いになって、激情に駆られて、その憎い相手の信じる主の御名までを冒涜してしまい、呪いを口走ってしまったのではないでしょうか。

売り言葉に買い言葉であって、その時の勢いであって、本心ではなかったかも知れません。

しかし、かりそめにも主の御名を冒涜したのならば、どんな理由があっても、石で打ち殺さなければなりませんでした。

そこには地位も、身分も、男も女も、成人も子どもも、ユダヤ人も外国人の区別もありません。

本論に戻って、「わたしと父とは一つです。」

この言葉の真意が「人類の救いのご計画」にあったとしても、表面的には「わたしを神と等しくする」宣言とも受け止められかねません。

ユダヤ人は私たちの想像を超えて非常に聖書を良く知っており、聖書を基準、聖書と考え合わせて思考する民族です。

言葉も行動も、聖書、律法に反してないか、神様を冒涜することに繋がっていないかを常に考える習性を持っています。

但し、悲しいことに、その聖書と関連付けて考える習性は、律法の逸脱を恐れる否定的な、消極的な、後退的な思考でした。

言動を聖書に照らし合わせる習性を持っていても、イエス様の言動にはその習性が好意的には働かず、「神を冒涜している」との断定を下すのでした。

ユダヤ人は、イエス様に対して「自分を神とするから」石打にしようとするのだといいますが、しかし、イエス様に対する、律法の適応は正しいものと言えるのでしょうか。

10:34 イエスは彼らに答えられた。「あなたがたの律法に、『わたしは言った、あなたがたは神である。』と書いてはありませんか。

聖書を熟知するユダヤ人ですから、イエス様から指摘されるまでもなく、詩篇の言葉は知っていたはずです。

この「わたしは言った、あなたがたは神である。」は詩篇826節に記されている言葉からの引用です。

わたしは言った。「おまえたちは神々だ。おまえたちはみな、いと高き方の子らだ。」

ヨハネの福音書で言う「あなたがた」や詩篇で言う「おまえたち」は、ユダヤ人一般を指して言っているのではなく、神様から任命を受けて立てられた、預言者、王様などを指して言っている言葉です。

神様に選ばれ、油を注がれた預言者や王様は、人格や素行に問題があろうがなかろうが、神様が立てられた者として、ユダヤ人の尊敬を受け、神様と同じように絶対的な存在として敬われていたのです。

遊女に入り浸るサムソンであっても、勝手な生贄を献げるサウルであっても、神様は子として扱って下さり、神々と呼んで下さるのです。

勿論、神の子と呼ばれる王様や預言者であっても、人ですから失敗もするでしょう。

失敗をすれば、神様は新たな預言者を遣わして、その過ちを指摘なさいます。

悔い改めれば、再び王様として、預言者として立てて下さいますが、悔い改めなければ、退け、神様に聴き従う新しい王様や預言者を立てられるのです。

これがイスラエルの歴史に刻まれた、王様の、預言者の立場、働きでした。

地上の王様や預言者たちは完全ではありません。

神様は、神様のご意志に完全忠実な預言者、王様だけを「神々」と呼ばれるのではありません。

神様の御意志を、失敗しながら、迷いながら、逃げ隠れしながら遂行し、遅々として進まないような状況にあったとしても、「神々」と呼んで下さるのです。

10:35 もし、神のことばを受けた人々を、神と呼んだとすれば、聖書は廃棄されるものではないから、

10:36 『わたしは神の子である。』とわたしが言ったからといって、どうしてあなたがたは、父が、聖であることを示して世に遣わした者について、『神を冒涜している。』と言うのですか。

35節の「聖書は」は旧約聖書全般を指して言っているのではなく、詩篇826節の言葉を指して言っているのです。

レビ記を根拠に、神様を冒涜していると言うならば、詩篇を根拠に、論駁しておられるのです。

神様は多くの場合、人を遣わして油を注ぎ、王様として、預言者として使命を与えます。

しかし、イエス様の場合は違います。

御霊が鳩のように天から下って、この方の上にとどまられるのを私は見ました。」とヨハネの福音書132節に記されているように、神様が直接イエス様に聖霊を注ぎ、預言者、王、祭司として召し出されたのです。

バプテスマのヨハネは、イエス様が神の子であるとも、世はこの方によって造られたとも証言しています。

マタイもマルコもルカも、イエス様は神様が遣わされた神の子であると証言しているのです。

勿論、福音書としてまとめられたのは、イエス様が活躍されていた時からずっと後のことではありますが、人々はイエス様のなされる奇蹟を目撃し、イエス様の語られる喩え、教えを聴いて、神様が遣わされたお方であると確信を持って信じていたのです。

一方、イエス様のなされた奇蹟が、安息日に行なわれたことを根拠として、神から出たものではないと結論付ける人々がいたことも事実です。

イエス様の評価が二分するのは事実ですが、反対派の根拠は正しいとは言えません。

失敗を繰り返し、神様の命令、御心を100%行なえない王様、預言者でさえも、神々、と呼ばれ得るならば、人間には絶対にできない、神様にしかできない、生まれつきの盲目を癒す奇蹟を行なってきたのですから、「わたしは神の子である。」と宣言して何の問題があると言うのでしょうか。

10:37 もしわたしが、わたしの父のみわざを行なっていないのなら、わたしを信じないでいなさい。

10:38 しかし、もし行なっているなら、たといわたしの言うことが信じられなくても、わざを信用しなさい。それは、父がわたしにおられ、わたしが父にいることを、あなたがたが悟り、また知るためです。」

イエス様のなされた奇蹟は、人にはできないことばかりです。

イエス様の癒しの奇蹟は、加持祈祷の類ではなく、世界を造られた「ことば」そのものの持つ力の結果です。

ことばによって足を造られたお方が、足の癒しを宣言されたのであり、ことばによって手を造られたお方が、手の癒しを宣言されたのです。

ことばによって耳を造られたお方が、耳の機能の回復を宣言されたのであり、ことばによって目を造られたお方が、目の機能の回復を宣言され、その通りになったのです。

しかも、イエス様には言葉と行ないの不一致はありません。

神を愛し、人を愛することを言葉によって教え、行動によって示してこられたのです。

私たちは言葉と行動が一致しないことが度々起こってしまいます。

思いと行動にズレが生じて、悩み苦しみます。

偽善だと罵られたり、自分自身でも不甲斐なさに情けなくなったしまうこともあるでしょう。

しかし、イエス様にはそんなことはありません。

新しい教えであり、律法を覆すように思える教えですから、イエス様の教えに、素直に同意できなくても、行ないから、奇蹟の事実から、判断することが求められているのです。

その行動は人にはできないことであり、神様にしかできないことばかりなのです。

自白が得られなくとも、疑いようのない証拠、確たる証拠があれば、有罪と認められるのです。

イエス様の言葉が信じられなくても、受け入れられない教えであったとしても、人にはできない奇蹟、神様の創造のわざに匹敵するしるしを行なわれたのですから、イエス様を信じるしかないのではないでしょうか。

イエス様を信じるのは敗北ではありません。

疑う心を乗り越えて信じる、勇気がなければ出来ないことなのではないでしょうか。

人は信じる勇気がないから、拒絶し、排除しようとするのです。

ユダヤ宗教指導者たちも、心の奥底では、イエス様に対して神様に感じるような畏敬の念があったのではないでしょうか。

それが証拠に、問答無用で逮捕しようとしたのではなく、イエス様に対してある意味、敬意を払っている箇所がそこ彼処に記されています。

ですから、こじ付けであったとしても、逮捕、有罪とする理由が欲しかったのです。

誰から与えられたか解からない力で行なう不思議な奇蹟を信じるより、律法違反、或いは冒涜と言う明確な証拠で排除しようとしたのです。

10:39 そこで、彼らはまたイエスを捕えようとした。しかし、イエスは彼らの手からのがれられた。

イエス様が十字架以外で死ぬことはありません。

十字架は神様のご計画であり、イエス様の進まれる道です。

イエス様を葬り去ろうとする悪の勢力から、神様は不思議な方法で逃れさせて下さいました。

10:40 そして、イエスはまたヨルダンを渡って、ヨハネが初めにバプテスマを授けていた所に行かれ、そこに滞在された。

10:41 多くの人々がイエスのところに来た。彼らは、「ヨハネは何一つしるしを行なわなかったけれども、彼がこの方について話したことはみな真実であった。」と言った。

10:42 そして、その地方で多くの人々がイエスを信じた。

この時点で、バプテスマのヨハネはヘロデ王によって殺されており、この世にはいませんが、その教えは連綿と語り継がれておりました。

バプテスマのヨハネの教えは、ユダヤ宗教指導者たちには受け入れられない教えであったことでしょう。

バプテスマのヨハネは、ユダヤ教宗教指導者たちからは気違い呼ばわりされていましたし、何の奇蹟も癒しも行ないませんでしたが、イエス様について語ったことには、一つの間違いもなかったのです。

イエス様はユダヤ宗教指導者たちにとって蛇蝎の存在であったのです。

そのイエス様のことを大胆に語り続け、イエス様のことを人々に紹介し続けたのです。

その大切な働きの最中に殺されてしまいましたが、語ったことは無駄にはならず、イエス様のなされた奇跡を見て、多くの人がイエス様を信じるに至ったのです。

働きの実は、働いている最中に実ることは稀でしょう。

多くの場合、死んでから、引退してから、実を結ぶものなのです。

それは、人が栄誉を受けないためであり、神様が褒め称えられるためであるからなのです。

【適応】

わたしたちはイエス様の示されたわざを見ることはできませんが、聖書を読むことで、イエス様のなされた奇蹟を、癒しを知ることができます。

聖書に記されていることは、非科学的なことであり、お伽噺、フィクションなのでしょうか。

荒唐無稽な作り話であり、人生を委ねる価値、必要のない創作物、著書の一つなのでしょうか。

イエス様を拒絶したユダヤ宗教指導者ですが、彼らは聖書、ここでは旧約聖書のことですが、聖書を文字通りに信じていました。

彼らの聖書に対する態度は、私たちの聖書に対する態度とは雲泥の差です。

一字一句を神様の言葉として信じ、そこから逸脱することを極端に恐れていました。

その現れが、イエス様に対する迫害となってしまったのですから、思い込みと、自分の考えを聖書に投影する過ちを犯さないように、聖書を正しく理解することが何より大切なのです。

聖書の読み方には注意をしなければなりません。

自分の考え、理想を聖書に当て嵌めるのではなく、聖書の教えに自分を従わせなければならないのです。

ユダヤ人、ユダヤ宗教指導者たちには、彼らの考えるメシヤ像、キリスト像がありました。

それは、政治的な解放者、この世的な王でした。

しかし、聖書の示すメシヤ像、キリスト像は罪からの贖いであり、仕える者としての生き方を示すものです。

イエス様の地上でのご生涯は正にこの通りのご生涯でした。

王様として弟子を仕えさせたのではなく、弟子の足を洗い、病人を癒し、悲しんでいる人々に希望を与えました。

最終的には十字架に掛かり、私たちの罪の贖いを成し遂げて下さったのです。

私たちは直接にイエス様の示されたわざを目撃できませんが、旧約聖書に記された予言と、新約聖書、特に福音書に記された贖罪のわざを通して、イエス様がメシヤ、キリストであることを知ることができます

後は、信じるか否かです。

あなたは聖書の記述を信じて、イエス様の贖いを受け入れますか。

それとも、信じられずに、ユダヤ宗教指導者たちのようにイエス様を拒否しますか。

信じるのは勇気のいることです。

この勇気は蛮勇ではありません

聖書の知識に基づく、信仰の勇気です。

ここに居られる皆様が、聖書の言葉を信じて、イエス様の完成して下さった贖罪のわざを受け入れ、永遠の喜び、福音に生きられますように。

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