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聖書個所:創世記34章1節~12節 2017-6-25礼拝
説教題:「恥ずべき事」
【導入】
私たちの人生の決断、決め事において、往々にして中途半端、と言う事があるのではないでしょうか。
やる、と決めたのに、三日と経ずして、止めてしまったり、やらない、と決めたのに、一週間もしないうちに、元に戻ってしまったり。
弁護するなら、意思の強さだけの問題ではなく、環境や状況が影響するからですが、決めた事を維持、継続し続けるには、別の要素、即ち、助けが必要である事を自覚し、助けを求める事が重要です。
自分の力には限界がありますし、人間は誘惑に弱い存在なのですから、助けを求める事は恥ずかしい事ではありません。
寧ろ、弱さを隠し、強がる方が、恥ずかしい事と心得なければなりません。
誰の助けも得ずして、決めた事を続けられるなら、それはそれで素晴らしい事かも知れませんが、喜びがなければ、空しく、苦しいなら、感謝はなく、無理しているなら、平安はないのではないでしょうか。
喜び、感謝に溢れ、平安の内に頑張っている姿は、模範になり得ますが、喜びなく、感謝なく、平安もなく、愚痴を零しているようでは、人々の躓きにもなり得ますから、周りに与える影響にも配慮しなければならないのではないでしょうか。
喜んで、感謝して、平安に出来るように、祈り、これからどうするか、続けるか否か、を決めればよいのです。
中途半端にならないように、決めた事を続ける努力を惜しんではなりませんが、決めた事であっても、状況が変わり、環境が影響しますから、変更と言う形があって然るべきであり、中途半端とは、区別して考えなければなりません。
さて、ヤコブに与えられた神様の命令は、「生まれ故郷」へ帰る事であり、生まれ故郷はベエル・シェバですから、ベエル・シェバに到着して始めて、神様の命令に従った、と言えるのではないでしょうか。しかし、ヤコブはカナンの端っこに到着した事に安堵したのか、スコテに「家と小屋」を建て、暫らく滞在し、シェケムでも、暫し滞在し、その期間は、合わせて10年前後と考えられます。
神様から、変更の指示は出ていませんし、神様に相談した様子は伺えません。
ヤコブは勝手に行き先を変更し、シェケムに滞在したのですが、シェケムは、交易上の要衝であり、地の利を得て、生活基盤を据え、足がかりとしたかった思いを判らなくはありませんが、中途半端、の謗りを受けて然るべきであり、神様への不従順の結果、余計な試練、大きな悲劇を引き起こす事になってしまいます。
【本論】
34:1 レアがヤコブに産んだ娘ディナがその土地の娘たちを訪ねようとして出かけた。
この時「娘ディナ」の年齢は、15歳前後と考えられ、当時の結婚適齢期と言える年齢です。
そして、この状況の記述に、現代の私たちは何の違和感も覚えないでしょうが、妙齢の、結婚適齢期の女性が、家人を連れずに、即ち、警護なしで、一人で、宿営を離れるのは、普通ではないのです。
密かに外出した、黙って抜け出した、のではないか、と言う事なのです。
「訪ねようとして」の直訳は、「見ようとして」であり、何を見ようとしたのかと言えば、ファッションであり、化粧であり、異文化などだったのではないでしょうか。
好奇心・・・程度を弁えるならば、向上に繋がりましょうが、高じたならば覗き見趣味、野次馬根性と揶揄されてしまい、品格を疑われてしまうのではないでしょうか。
興味を持ち、知りたい気持ちは抑えがたいでしょうが、自制する事はもっと大切であり、必要な徳目、美徳です。
自制出来ず、「土地の娘たち」との交流を求めた事が、父ヤコブの許しを得ずしての行動が、事の発端になってしまったのですが、そもそもは、ヤコブがシェケムに留まった事が原因です。
ボタンの掛け違いは、次々に問題を引き起こし、余計な試練、大きな悲劇を生み出してしまうのです。
34:2 すると、その土地の族長のヒビ人ハモルの子シェケムは彼女を見て、これを捕らえ、これと寝てはずかしめた。
「族長」と記されていますが、創世記34章20節の記事から、支配者ではなく、有力者の一人であった事が伺えます。
「ヒビ人」とは、パレスチナの原住民を示す表現で、土着民族のひとつであり、土着の宗教を信じ、放牧と農耕と、交易を生業としていたようです。
その、有力者のひとりが「ハモル」であり、息子の「シェケム」がディナを見初めた事が事の発端となってしまうのですが、単純な悲劇ではすまされない、大事になってしまいます。
「捕らえ」を、口語訳聖書は「引き入れ」と訳していますが、このヘブル語は、「取る」とも「受け入れる」とも訳せるので、無理やり、誘拐、拉致のニュアンスの強い「捕らえ」ではなく、合意を暗示させる「引き入れ」が適当かも知れませんが、微妙な状況である事には違いありません。
更に「はずかしめた」と訳されたヘブル語の原意は、「道徳的、社会的腐敗がもたらした行為によって、少女が正式な結婚をする期待、機会を奪われる事」であり、単純に強姦された、の意味合いではなさそうです。
当時のユダヤ人の結婚のプロセスは、親同士の合意に始まり、贈り物が交わされ、状況を整えた上で、なのであり、好きだから、直ぐに一緒になる、のではないのです。
現代でも、パレスチナの地での結婚は、こんな手順を踏むようです。
ヤコブの結婚の経緯、イサクの結婚の経緯を思い起こしていただければ、また、ダビデの息子のアムノンと、異母姉妹タマルとの出来事でも、父に話してくださいと嘆願しています(サムエル記第2、13章)。
「はずかしめた」は、慣習に則っていない事、一連の手続きを経ていない事に対する憤り、非難を表現した言葉なのでしょう。
現代の貞操観、結婚観、恋愛観の意味ではなく、出逢って、意気投合し、或いは、一夏の思い出、旅のアバンチュールで、を否定しているのは明白です。
さて、ディナの状況、当初は監禁状態であったかも知れませんが、
34:3 彼はヤコブの娘ディナに心をひかれ、この娘を愛し、ねんごろにこの娘に語った。
34:4 シェケムは父のハモルに願って言った。「この女の人を私の妻にもらってください。」
シェケムの行動を容認、弁護する気は毛頭ありませんが、シェケムは、ディナと良好な、継続的な関係を構築しようとしているところから、一時的な欲望で思いを遂げたのではなさそうであり、真面目であり、ディナに対する思いが本物、真剣であった事は、疑い得ないでしょう。
そして、シェケムを評価するもう一点は、順番が逆ではありますが、正式な結婚の申し出をしようとしたのであり、父親同士の話し合いを企画した事です。
既成事実となってはいますが、だからと言って手続きに意味がなくなる訳ではありません。
既成事実があるのだから、しょうがないと有耶無耶にするのではなく、事後承諾は、ないに越した事はありませんが、後からでも、可能な限り、手続きを踏む事は重要です。
誰にでも失敗はあり、常に冷静ではなく、想定外の事に見舞われ、緊急に対処しなければならない事態に遭遇しましょうが、
時を延ばさず、間違いを認める事、手続きを踏まなかった事を謝罪する事、理由を申し述べる事、そして、正式なものに近づける事です。
それは、その人の生き方となるからであり、考え方となるからです。
何より、秩序を重んじられる神様に相応しい事だからです。
34:5 ヤコブも、彼が自分の娘ディナを汚したことを聞いた。息子たちはそのとき、家畜といっしょに野にいた。ヤコブは彼らが帰って来るまで黙っていた。
遊牧は、時に数ヶ月も家を留守にしますから、また、連絡方法の限られた時代にあって、緊急な要件でも伝える事は叶わず、帰って来るのを唯、待つだけしかなかったのであり、誰に相談出来る案件でもなく、黙っているしかなかったのでしょう。
否、重要な案件は、騒ぎ立ててはならず、軽々しく吹聴する事ではなく、黙して語らず、であり、家長として、全面的に背負わなければならず、責任をもって対処しなければならないのです。
これは、決して、一人で対処しなければならない、と言う事ではなく、責任を持って考え、判断し、決定し、実行するのは家長の務めであり、適切な人を選んで相談をし、限定された関係者で対応しないと、混乱を引き起こしかねないからです。
それは、シェケムの父親も同じであり、家長として息子の不始末を詫びる責任があるのです。
そこで、
34:6 シェケムの父ハモルは、ヤコブと話し合うために出て来た。
のですが、「話し合うために出て来た」のであり、息子の不始末、恥ずべき事を行った事への謝罪や釈明が、第一の目的でない事は、文化の違い、道徳観の違い、社会習俗の違いを考えても、残念です。
シェケム地方周辺は、誘拐まがいな事が、強姦まがいな事が、監禁状態に置く事が、異常と感じられない社会であったのです。
本音と建前の使い分けは、好ましい事ではありませんが、罪人の営む社会ですから、本音と建前が共存するのは仕方のない事でしょう。
しかし、日陰の存在が、昼日中を、大手を振って闊歩している、と言うのは如何なものでしょうか。
誘拐、強姦、監禁は、肯定すべき事ではありません。
拉致や監禁などは、犯罪に対する刑罰とか、患者保護のためなどの、特殊な状況下でのみ、許される事であり、誘拐や強姦などは、弁護する余地は全くなく、全面的に、完全に否定されなければなりません。
そして「話し合い」と「謝罪」は似て非なるものです。
「話し合い」は少なくとも同等か、対等の関係の下で行なわれます。
地位の差や、力の差が大きい時には、十分な配慮と工夫が必要です。
「合意」や「妥協点」を見つけるために、行なわれるのですが、物別れに終わる事も、合意に至らない事もあるでしょう。
一方「謝罪」は赦してもらうために行なわれるのであり、一方的にならざるを得ません。
先ずは「徹底した謝罪」であり、次に、今後について「折り合いを付ける」のであり、「合意点」や「妥協点」を模索します。
それが手順であり、筋なのではないでしょうか。
それでも、スムーズに進む事が保障されている訳ではありません。
逆をやれば、怒りを買うのは、反発を受けるのは当然です。
ディナとの事は「謝罪」が先決であり、シェケムの希望、結婚の申し出は後回しであるべきではないでしょうか。
34:7 ヤコブの息子たちが、野から帰って来て、これを聞いた。人々は心を痛め、ひどく怒った。シェケムがヤコブの娘と寝て、イスラエルの中で恥ずべきことを行ったからである。このようなことは許せないことである。
「恥ずべきこと」とは、非常識な行動であり、人間としての正常な感覚を欠く事を意味しますが、唯一の神様に対する意味で使われている訳ではありません。
まだまだ、神様への信仰に基づく考え、と言い切る事は出来ません。
イスラエル民族としての自覚もなく、確立した存在でもありませんが、神の民、との自覚は芽生えており、神の民と言う共同体の中での基準、神の民とは何ぞや、と言う基準、神の民としての倫理的基準が、確立しつつある事を示唆していることが窺える記述です。
イスラエル民族の中で、普遍的な基準が、神様の前で「恥ずべきこと」の基準が確立しつつあった事を示しているのです。
34:8 ハモルは彼らに話して言った。「私の息子シェケムは心からあなたがたの娘を恋い慕っております。どうか彼女を息子の嫁にしてください。
34:9 私たちは互いに縁を結びましょう。あなたがたの娘を私たちのところにとつがせ、私たちの娘をあなたがたがめとってください。
34:10 そうすれば、あなたがたは私たちとともに住み、この土地はあなたがたの前に開放されているのです。ここに住み、自由に行き来し、ここに土地を得てください。」
「謝罪」なしの、結婚を前提とした申し出であり、問題を含んでいますが、ヤコブ一族にとって、市民権の確保、生活の安定、財産の確保、と言う、この世的な、非常に魅力的な提案であり、誘惑です。
同時に、神様の約束の地に、この世的な足がかりを得る事でもあり、願ってもない事ですが、しかし、混血と同化の勧めであり、神の民への脅威なのではないでしょうか。
異邦の民との混血を憂う、と言うよりも、異教の民と同化する事を憂うのです。
神様の力は比類のないものであり、神様の約束は疑い得ないものですが、神の民の力や信仰は、比類のないものでも、不動のものでもありません。
神の民といえども、人は皆、罪の性質を持っていますから、この世の影響を受け易く、この世の力に抗(あらが)い得ず、この世に染まり易いのです。
ましてや、夫婦になり、深い縁を結んだならば、この世の影響を強く受けるのは火を見るよりも明らかです。
何故ならば、二人は一心同体になるからです。
この世から影響を受け、配偶者から影響を受けるからです。
見掛けは、自他共に認める神の民、しかし、実体はこの世の民、と言う事が、無きにしも非ず、なのです。
辛うじて、神の民で居続けていても、この世の影響、配偶者からの影響は侮れず、名ばかりの神の民になってしまっているかもしれません。
ソロモン然りであり、イスラエル民族の歴史が、その事を雄弁に物語っているではありませんか。
だから、未信者との交際には、並々ならぬ注意が必要なのです。
勿論、逆もあり得る訳であり、信者の配偶者からの影響を侮ってはならず、未信者の配偶者が神の民になる事を期待して、神様を信じて、日々のデボーション、聖書通読、祈りにより一層励むなら、神様はその祈りに応えてくださるのは確かであり、疑い得ない事です。
基本、異邦人との結婚は、異教徒との結婚は、血縁を持つ事は、何としても避けなければなりません。
キリストとべリアルとに何の関わりがあるでしょう、です。
そして、目指すのは、求めるのは、この世の市民権ではなく、天の御国の市民権であり、この世では寄留者である事を覚悟しなければなりません。
この世に財産を積み上げるのではなく、天の御国に財産を積み上げなければなりません。
土地は、神様から頂くのであり、先住民から買うのでも、貰うのでも、奪い取るのでもありません。
神様が与えて下さるまで、待つのであり、待ち続けるのです。
34:11 シェケムも彼女の父や兄弟たちに言った。「私はあなたがたのご好意にあずかりたいのです。あなたがたが私におっしゃる物を何でも差し上げます。
34:12 どんなに高い花嫁料と贈り物を私に求められても、あなたがたがおっしゃるとおりに差し上げますから、どうか、あの人を私の妻に下さい。」
シェケムの言葉は、若者らしい性急さであり、積極的であり、直接的です。
言葉も丁寧であり、誠実さのようなものを感じられますが、シェケムも、シェケムの父ハモルも、言葉は丁寧ですが、嫌を言わせぬ言いようなのであり、誘拐まがい、強姦まがい、監禁まがいな事を行った事に対する謝罪が、一言も語られていないのは残念です。
しかも、娘のディナは人質状態なのですから、断れない状況での話し合いであり、著しく公平性を欠く話し合いです。
しかし、こんな状況を招いたのは、ヤコブがシェケムに留まったからであり、ディナの好奇心、覗き見趣味、油断なのではないでしょうか。
【適応】
勿論、「恥ずべき事」をしたのは、シェケムであり、シェケムを弁護する気はなく、断罪されて然るべきであり、シェケムの町の、道徳的低さ、社会的腐敗を容認するものではありませんが、「朱に交われば紅くなる」のであり、神の民は、異邦人と、異教徒と、距離を保つべきであり、近づき過ぎてはならないのです。
否、もっと積極的に、意識的に距離を確保し、必要時以外は離れなければならないのです。
一切の交わりを断絶出来れば幸いですが、非現実的です。
今の社会は、単純な社会ではなく、複雑に絡み合い、思わぬところで関係していますから、孤高を貫く事は出来ません。
関係を持つしかないのですが、だからこそ「恥ずべきこと」に対しての感覚を研ぎ澄まし、「蛇のように敏く」していなければならないのです。
気を抜いたならば、あっという間に同化してしまいます。
そして、「恥ずべきこと」に対する感覚は鈍り、「恥ずべきこと」を平気で、何の抵抗もなく、当たり前の事のようにするに至るのです。
そして、益々「恥ずべきこと」に落ち込んで、滅びの民となって行くのです。
神の民は「恥ずべきこと」を知っている民であり、「恥ずべきこと」とは、「神様を愛し、人を愛する」に反する事と、置き換える事が出来ましょう。
誘拐、拉致、強姦、監禁は、人を苦しめる事であり、人を苦しめる事は、神様を悲しませる事です。
目的地を前にして、立ち止まり、逗留するのは、神様への反逆です。
私たちが持つ罪の性質ゆえに、この世に魅力を感じるのは、仕方のない事ですが、この世に近づき、神様を離れては、神様が悲しまれます。
罪は魅力的な世界を作り上げ、強い吸引力を持っています。
この世の魅力に引き込まれては、この世を愛しては、神様を悲しませてしまいます。
この世の魅力を振り捨てて、神様を愛する事、神様に従う事こそ、神の民の使命なのです。
その点で、ヤコブはシェケムの町の魅力と引き換えに、神様の命令に従わなかったのであり、「恥ずべきこと」と言って然るべきなのではないでしょうか。
ディナは、好奇心を抑える事が出来ずに、ヤコブに内緒で、勝手な行動を取ってしまったのであり、単なる反抗期、好奇心の強い娘で・・・で片付けられる事ではありません。
家長は、神様が立てられた権威であり、家長を蔑ろにするのは神様を蔑ろにすることであり、これもまた「恥ずべきこと」と言って然るべきなのではないでしょうか。
誘拐、拉致、強姦、監禁など、反社会的行為だけが、戒律や道徳に反する事だけが「恥ずべきこと」なのではなく、神様を悲しませる事、神様に喜ばれない事が「恥ずべきこと」なのです。
神様に従わない事、神様の立てられた権威に従わない事が「恥ずべきこと」なのです。
少し言い変える必要がありましょう。
何故なら、完璧に守れる、行なえる人間は一人もいないからです。
神様を悲しませる事、神様が喜ばれない事を、仕方がないと考える事、呵責の思いに眼を瞑って行える事、この位なら大目に見てもらえるだろうと考える事、が「恥ずべきこと」なのです。
神様に従わない事を、神様の立てられた権威に従わない事を、仕方がなかった、時代に合わない、選択肢の一つと考える事、が「恥ずべきこと」なのです。
更に付け加えるなら、悔い改めない事が「恥ずべきこと」なのであり、何食わぬ顔で神様の前に出る事が「恥ずべきこと」なのです。
私たち人間は、神様を悲しませ、人を苦しめる事しか出来ない罪深い存在です。
この自覚と、そのためにイエス様が必要だ、との告白が、神の民の生き方、考え方の基本です。
ここにおられる皆様が、「恥ずべきこと」から離れ、神様との深い、親しい交わりに入られ事を願うものです。
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聖書個所 ヨハネの福音書11:1~16 2017・6・18礼拝
説教題 「病と死」
【導入】
病と死というものは特別な事柄ではなく、極、身近な日常的な事柄です。
特別な人にのみに当て嵌まり、訪れる出来事ではなく、その訪れに早い遅いはありましょうが誰にでも訪れます。
死に至る大病、事故に、大人や子どもの区別はなく、誰にでも訪れます。
突然の訃報に接して、驚かされる事は、決して珍しい事ではありません。
病気、事故、そして死。避けたいものの代表的な事柄ですが、決して避ける事は出来ないのです。
避ける事の出来ない、誰も逃れる事の出来ない病気や死であり、人間はこの病気や死に対してなす術を知らず、唯、受け止め、じっとしているしかないのでしょうか。
小さくなってやり過ごさなければならないのでしょうか。
いいえ、私たちには死に打ち勝ち、死に勝利した方がついておられます。
それは神であられる御子イエス様です。
イエス様は病気を追い出し、死から救い出して下さいます。
そのエピソードの一つが今日の聖書の箇所に記されています。
ここから何を学べば良いのでしょうか。ご一緒に聖書を見て行きましょう。
【本論】
11:1 さて、ある人が病気にかかっていた。ラザロといって、マリヤとその姉妹マルタとの村の出で、ベタニヤの人であった。
このラザロと言う名前はヘブル語「エレアザル」のギリシャ音訳で、その意味は「神は助けられた」です。
親は子の成長を願い、健康を願い、平安な生涯を願って、名前を付けるものですが、ラザロはその名前とは裏腹に、神様から見放されたかのような大病を患い、床に伏せっていたのです。
ラザロには姉妹がいて、一番上のマルタを筆頭にマリヤ、ラザロの3人が仲良くベタニヤで暮らしていた様です。
このベタニヤはエルサレムの東3km程の所にあり、エリコとエルサレムを結ぶ主要道路に面していますので、イエス様は度々立ち寄られ、この兄弟姉妹ととても親しい交わりを持たれていた様です。
その親交の深さを現すエピソードの一つが、ルカの福音書10章に記されているマルタがイエス様をもてなすのに気が急いて、イエス様のお話に聞き入るマリヤを非難する場面です。
11:2 このマリヤは、主に香油を塗り、髪の毛でその足をぬぐったマリヤであって、との解説がありますが、それはヨハネの福音書12章に記されているイエス様に高価な香油を注いだ場面の事なのです。
聖書は時間の流れにそって記されてはいませんので、読む時には注意が必要です。
2節と同じような逸話に、ルカの福音書7章36節の話がありますが、2節のマリヤはルカの福音書の記事の女性ではありませんのでご注意下さい。
聖書が記された時には、当事者、関係者が生きていて、簡単な説明ですみ、また説明がなくても混同する心配がなかったでしょう。
聖書には6人のマリヤが登場します。
イエスの母マリヤ。
マルコ16:9、ルカ8:2に登場するマグダラのマリヤ。
使徒12:12に登場するマルコと呼ばれているヨハネの母マリヤ。
マタイ27:56に登場するヤコブとヨセフの母マリヤ。
ローマ16:6に登場するパウロの友のマリヤ。
そして今日のベタニヤのマリヤです。
この様にマリヤと言う名前は珍しい名前ではなく、また、ラザロと言う名前も珍しい名前ではなく、ラザロを紹介するに当って、他の人と混同しないように、周知の事を記して、読者の助けとしているのですが、今、聖書を読む私たちは注意深く前後関係、関連個所を合わせ読まなければなりません。
その主に香油を塗り、髪の毛でその足をぬぐったマリヤの、
彼女の兄弟ラザロが病んでいたのである。
11:3 そこで姉妹たちは、イエスのところに使いを送って、言った。「主よ。ご覧ください。あなたが愛しておられる者が病気です。」
イエス様に対して「あなたが愛しておられる者」とは何とも大胆な表現ですが、この表現こそ、私たちの拠り所、揺ぎ無い真理なのです。
普通、イエス様に向かって「あなたを愛している者が」と紹介し、何事かのお願いを申し述べるのが一般的な表現ではないでしょうか。
しかし、マリヤは願い事を一切申し述べず、「あなたが愛しておられる者」とだけ申し上げたのです。
私たちは自分とイエス様の関係を申し述べますが、それは殆どの場合、私が主体、私たちが主人公です。
そして、そのイエス様を愛している、イエス様に従っている事の見返りとして、何かを期待するのです。
しかし、私たちは変り易く、裏切り易い者である事を忘れてはいないでしょうか。
イエス様を愛すると宣言し、イエス様に従うと誓っても、私たちは移ろい易く、その決意を生涯持ち続けるのは、簡単な事ではないのです。
「あなたを愛している者」であり続けたいと願ってはいても、妨げる力は強く、引き離す力にあらがい切れないのが人間なのです。
しかし、「あなたが愛しておられる者」との表現は、イエス様の主権を告白している言葉なのであり、イエス様は神であり、決して変らないお方ですから、私たちの状態に関りなく愛し続けて下さる事、全てを益として下さる事の確信と信頼を込めた告白の言葉なのです。
ですから、イエス様に対して何かを、私たちの希望を伝える必要などなく、あなたが愛しておられる者が病気であるとの事実を伝えるだけで充分であり、イエス様の主権において決めて頂きたい、決めて下さいと、マリヤは告白しているのです。
11:4 イエスはこれを聞いて、言われた。「この病気は死で終わるだけのものではなく、神の栄光のためのものです。神の子がそれによって栄光を受けるためです。」
イエス様はここで、病気が癒される、と仰られてはいません。
死ぬ事はない、とも仰られてはいません。
「死で終るだけのものではない」と死を肯定している事が分かります。
病気や死を肯定したのは、病気や死は、終わりではなく、その結果が神の栄光に繋がるのであり、イエス様の栄光の始まりである事の宣言なのです。
私たちには親族があり、友人知人があり、その病床、臨終に立ち合う事がありましょう。
それは悲しい事ですが、避けたい事ですが、自他共に避けてはならず、受け止めなければならない事なのです。
その受け止め方に、イエス様は注文を付けられたのであり、私たちは病気や死を通して、神様の栄光を現し、イエス様に栄光を与えなければならないのです。
具体的には死に方と、死んだ後の処し方でしょう。
まず、死に方ですが、死を恐れるのは自然な感情でしょう。
何故ならば、誰もが未経験の世界であり、想像でしか知り得ない世界だからです。
しかし、私たちには聖書が与えられており、そこにはイエス様を信じる信仰により「義」とされ、罪を赦され「天国」に入れられる事が記されています。
不安を追い払い、打ち消すような希望と喜びが与えられているのであり、それを死の床で表現、証しする事。
即ち、人間は死んで終わりではない事、永遠の命が与えられる事、裁きがある事を、語り続け、死を恐れず迎え入れるのです。
神様のご計画を信じ、受け入れる事は、神様の栄光を現す事であり、どんな時にも、どんな状況でも、イエス様に感謝する事がイエス様の栄光を現す事であり、そんな生き方が求められているのです。
死んだ後の処し方も重要です。
死んだら後はどうしようもないし、残った人に任せるしかないと考えますが、決してそうではありません。
葬儀の仕方、何処に葬られるかは重要です。
クリスチャンでも家族が仏教だから、先祖代々の菩提寺だからと、多少の抵抗感は在っても、仏式の葬儀、お寺の墓地に葬られる事が少なくありません。
しかし、死んだ時にも、大きな証しが出来るのであり、死んでからもずっと証しが出来るのです。
キリスト教式の葬儀は、仏教式と大きく違います。
良い、悪いを言っているのではなく、キリスト教の葬儀は、確信のない慰めではなく、死を忌み嫌うものでもなく、故人の魂を慰めるものでもなく、祟りを取り除くものでもありません。
故人は神様の下にあり、故人を導き、祝福された神様の栄光を称えるのであり、再び会えると言う将来の約束を確認する時であり、地上の分かれに悲しむご遺族を慰め、希望を伝える時なのだと言う事なのです。
お墓も適当で良い訳ではありません。
聖書の教えに生きた者として、記念され、埋葬する事が重要です。
勿論、諸般の事情でキリスト教式葬儀を行なえない事があり、寺院に埋葬される事もありましょうが、生前から遺言して置く事が重要です。
はっきりとキリスト教で葬儀をし、教会墓地に埋葬して欲しい、と言い残して置く事が重要です。
結果は希望の通りにならなくても、神様に胸を張ってキリスト者として生きて来たと報告する事が出来るのではないでしょうか。
終わり良ければ全て良し、ではありませんが、有終の美を飾るか否かは、普段の生活と備えに掛かっている事を肝に命じておく必要があるでしょう。
何故ならば冒頭で申し上げた様に、死や病は突然やって来るからであり、伝言のチャンス、意志を表明するチャンスがあるとは限らないからです。
臓器移植の意志表示カードと言う物がありますが、同じではないにしても、葬儀を行ない、埋葬をする家族には、意志を明確に伝えておく必要が、異教の日本では重要です。
普段の生き方で神様を称え、死んだ時にも、死んで後も神様を証しし、称えるのがキリスト者の使命であり、責任でもあるのです。
11:5 イエスはマルタとその姉妹とラザロとを愛しておられた。
11:6 そのようなわけで、イエスは、ラザロが病んでいることを聞かれたときも、そのおられた所になお二日とどまられた。
愛している者の要請に直ぐには応じないで、二日も間を置かれるなんて、イエス様の行動に違和感を覚えるのは私だけでしょうか。
しかし、ここにもイエス様の深いお考えがあります。
聖書には死んだ者を生き返らされた記事が、他にも記されています。
マルコの福音書5章22節に記されている会堂管理者ヤイロの娘の死と、ルカの福音書7章11節に記されているナインの町の、寡婦の一人息子の死です。
どちらも死んで直ぐに命を取り戻して頂いたのであり、実は死んではおらず、仮死状態にあったに過ぎないと、誤った解釈の可能性を残す出来事であり、反対者が攻撃する余地を含む出来事ですが、
ラザロの場合は都合4日も間があったのであり、39節に記されている様に腐敗が進んでいる状態まで待たれ、死が確実であり、反対反論の余地がない状況をイエス様は備えられたのです。
11:7 その後、イエスは、「もう一度ユダヤに行こう。」と弟子たちに言われた。
11:8 弟子たちはイエスに言った。「先生。たった今ユダヤ人たちが、あなたを石打ちにしようとしていたのに、またそこにおいでになるのですか。」
11:9 イエスは答えられた。「昼間は十二時間あるでしょう。だれでも、昼間歩けば、つまずくことはありません。この世の光を見ているからです。」
11:10 しかし、夜歩けばつまずきます。光がその人のうちにないからです。」
昼間と夜、対称的なこの二つの時間帯は、生き方の違いを現している言葉です。
光の中では、物をはっきりと見る事が出来ます。
何が妨げか、何か危険がないか、安全かも明白です。躓く事はありません。
また、自分がはっきり見ているように、周りからもはっきり見られていますから、自制するには好都合でしょう。
しかし、暗闇、薄明かりではぼんやりとしか見えませんし、危険か安全かも曖昧です。
躓くのが当然であり、躓かない方が不思議なのではないでしょうか。
見られてはいない安心感から、自制が緩み、甘い判断となるのが闇の効果と言えるでしょう。
そして決定的な違いは、神様は光の中を歩む者を助け守られると言う事です。
光の中を歩んでいても、長く歩けば、重い荷を負っていれば、疲れて足許がおぼつかなくなり、小さな突起、泥濘(ぬかるみ)に足を取られる事もあるでしょうが、神様が支えて下さり、守って下さるので、躓き倒れる事はなく、滑って転ぶ事もないのです。
神様が共にいて下さるなら、そこは安全であり、本当の憩いがあります。
しかし、神様がおられないなら、安全ではなく、平安はないのです。
神様と共に歩むイエス様には迷いもなく、不安もなく、恐れもなく、敵対する者が居るエルサレムに近づく事に躊躇はなかったのです。
11:11 イエスは、このように話され、それから、弟子たちに言われた。「わたしたちの友ラザロは眠っています。しかし、わたしは彼を眠りからさましに行くのです。」
11:12 そこで弟子たちはイエスに言った。「主よ。眠っているのなら、彼は助かるでしょう。」
11:13 しかし、イエスは、ラザロの死のことを言われたのである。だが、彼らは眠った状態のことを言われたものと思った。
11:14 そこで、イエスはそのとき、はっきりと彼らに言われた。「ラザロは死んだのです。
11:15 わたしは、あなたがたのため、すなわちあなたがたが信じるためには、わたしがその場に居合わせなかったことを喜んでいます。さあ、彼のところへ行きましょう。」
死と眠り、私たちにとっては大きな違いですが、神様にとっては死も眠りも、病気も健康も大差はありません。
死も眠りも、病気も健康も、神様の身手の内にあるからであり、神様の御支配の下にあるからです。
神様にあっての死であるならば、神様無視の生に勝る事であり、神様にあっての病であるならば、神様不在の健康に勝るからです。
更には死と生の問題は、人間の生活の全てを象徴しており、病と健康、不安と平安、
危険と安全、貧困と裕福、無能と有能、その他あるゆる比較の内に、見る事が出来るものであり、全て神様との関りで考えなければならないのです。
人間にとっての究極の問題が死と生であり、人間にはどうしようもない問題が死と生ですが、そこにイエス様は関りを持たれる、関心を持っておられる、即ち人間の生活の全てに関心を持っておられる、解決を与えられる、と言う事なのです。
元を質せば、死は人間が自ら招いた物であり、病気も、貧困も、危険も、不安も罪の結果です。
神様に縋る権利もないし、お願い出来る筋ではないのです。
しかし、神様は、イエス様は、人間の願いを聞いて下さり、足を運んで下さり、必要に応じて下さるのです。
このイエス様の愛が、神様の憐れみが、私たちに注がれている事を覚えたいのです。
11節の「眠りからさます」は神様との関係に目が開かれる事であり、ラザロの甦りと共に、弟子たちの信仰的な眠りから、神様に対する、イエス様に対する信仰の覚醒を暗示している言葉なのではないでしょうか。
弟子たちは、イエス様を見てはいても、偉大な預言者、不思議をなされる稀有な存在と見ていたのであり、神様とは見ていなかったのです。
その弟子たちの目を覚まし、弟子としての自覚を促し、世に遣わされるための備えが、ラザロの、完全な死からの甦りであり、その目撃者となる事だったのです。
死と生を司るお方の下で、弟子として働くのであり、決して人間的な決意とか思い込みで弟子となる事は出来ないのです。
この完全な死からの復活の目撃者となって神様に、イエス様に仕える事が、神様の栄光の為であり、イエス様の栄光を現す事であり、弟子たる者の務めなのです。
11:16 そこで、デドモと呼ばれるトマスが、弟子の仲間に言った。「私たちも行って、主といっしょに死のうではないか。」
デドモの決意は素晴らしいものですが、「私たちも」「主といっしょに」と、まだまだ人間的であり、人間が主体の宣言である事は残念です。
この「主といっしょに」と言う言葉は、自己犠牲の意味、「主のために」と解釈する事が出来ますが、
犠牲を払われたのはイエス様です。
イエス様は弟子のために、私たちのために、犠牲となられたのです。
イエス様の犠牲があって、私たちは、イエス様の弟子になれるのであり、弟子は訓練を受けて、試練を通して成長するのです。
この後、デドモはイエス様の復活を信じる事が出来ず、弟子たちと口論しますが、イエス様はデドモに現れて、その疑いを晴らし、弟子として成長させて下さるのです。
そしてデドモは死を恐れない弟子とされ、インドにまで伝道したと伝えられています。
【適応】
4節「この病気は死で終わるだけのものではなく、神の栄光のためのものです。神の子がそれによって栄光を受けるためです」
これは病気や死だけを扱っている言葉ではありません。
先に申し上げた様に、生活の全てを現しているのであり、コリント第一10章31節の御言葉「こういうわけで、あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現わすためにしなさい。」と意味は同じです。
食べるにも飲むにも、に込められた、日常の生活の全ての場面で、病も死も、に込められた、人の生涯の全ての場面で、神の栄光を現す事が人に、弟子に求められているのです。
それは何か大きな事をするとか、しなければならないとかと言う事ではなく、神様と共に歩むと言う事であり、イエス様を見上げて歩むと言う事なのです。
何かを出来れば、それは素晴らしい事ですが、何も出来なくても良いのです。
神様と共に、イエス様と一緒に、が大切です。
今日のテキストに登場するラザロについて、聖書は何の働きも記していません。
生き返らされる根拠も、必要性も記されていません。
しかし、「あなたが愛しておられる者」、と言う表現、これこそが重要であり、イエス様に愛される存在であるが故に、甦らされる価値が、必要があったのです。
イエス様が主体であって、ラザロに注目に値する働きが期待されているのではないのです。
ですから、自分が頑張る必要もないし、自身を叱咤激励し、成果を残す必要もありません。
あなたがイエス様に従う、神様と共に歩む、それだけで良いのです。
そうすれば喜びの溢れる、感謝の溢れる生活に繋がるでしょうし、そんな姿を見た人が、私もイエス様に従いたい、神様と共に歩みたい、喜びの溢れる、感謝の溢れる生活をしてみたいと、思われるのではないでしょうか。
強制しても人は付いて来ません。
興味があれば人は付いて来ます。
デドモの「私たちも行って、主といっしょに死のうではないか」と言う言葉も、弟子としての自覚の出来ている人には不必要な言葉であり、弟子の自覚のない人には何の意味も無い言葉でしかありません。
一人一人の自覚が大切であり、自覚した者の、神様の栄光の為に生きる姿が、イエス様に栄光を帰す生き方が、人に影響を与えるのではないでしょうか。
天に召された人々の多くは、特別な働きをした人々ばかりではありません。
礼拝を守っただけ、と言う方が殆どでしょう。
それはそれで、人の手本となる働きであり、励ましとなりますが、しかし、その人の価値、評価は働きにではなく、イエス様が愛したもう所にあるのです。
そして、もう一つ重要なのが、罪の結果としての、刑罰としての死からの開放を暗示している、と言う事です。
「死」は終着点ではありません。
全ての人が生き返らされ、行なって来た事に付いて、裁きを受けなければなりません。
そして、全ての人が神様の前に「有罪」であり、永遠の刑罰に服さなければなりませんが、イエス様を信じる者は、その信仰によって「義」と見做され、罪の刑罰に服す事なく、天の御国に招き入れられ、天国で、再び、神様の栄光を現す働きが待っているのです。
地上での生涯は有限ですが、天国で無限の働き、神様とイエス様を褒め称える働きが待っているのです。
神様、イエス様の支配される国に、神様、イエス様を愛し、信じ、従う者を招き入れる事が、神様の栄光を現す事であり、神様、イエス様の支配される国で、神様、イエス様を愛し、信じ、従う者が、神様の栄光を現す事が、神様のご計画なのです。
ここにおられる皆様もイエス様に愛され、天の御国に招かれているのですから、神様の栄光の為に生き、イエス様に栄光を帰する信仰者として神様に従い、イエス様と共に歩まれる事を願うものです。
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聖書個所:創世記33章12節~20節 2017-6-11礼拝
説教題:「ヤコブの帰郷・・・祭壇の意味」
【導入】
ヤコブ、即ち、イスラエルの歴史を紐解いて来ました。
弟ヤコブと兄エサウは長子の権利と祝福を巡って不仲になり、離れ離れになり、遠く離れ、長きに亘って音信不通の状態にありました。しかし、神様がヤコブに現れ、帰郷を促し、兄エサウと逢う事を恐れるヤコブに現れ、ヤコブは神の使いとの格闘を通して、力や知恵に頼る限界を知り、自分の弱さを知りました。
ヤコブは新しい名前を与えられ、神様が共にいてくださる事、神様が戦ってくださる事を知りました。
神様が味方なのですから人を恐れる必要はありませんし、神様に委ねる事が出来るので心配や恐れが著しく低減するのです。そもそも人を恐れるのは関係性が悪いからですが、神様との関係が変化すると必然的に人との関係も変化します。自分中心ではなくなり神様を頂点とした三角関係に入ります。相手を下や上に見るのではなく、恐れるのではなく、相手を尊重する事が出来るようになり、謙る事が出来るようになります。プライドを捨てる事が出来るようになり、心からの謝罪をする事が出来るようになります。相手の立場で考える事が出来るようになり、自分を吟味する事が出来るようになります。状況を客観的に見る事が出来るようになります。相手の欠点や失敗を問題にせず、相手を変える事に腐心するのではなく、自分を変える事に取り組むようになります。
勿論、一朝一夕には参りませんが、自分が変われば相手も変わらざるを得ません。
兄エサウは弟ヤコブの変わり様に、瞠目したのではないでしょうか。
エサウは、最初は、選りすぐりの家畜、550頭もの贈り物を弟ヤコブの策略と見ていたのではないでしょうか。しかし、遠くから、7回も地にひれ伏してお辞儀をする弟ヤコブを見て、ヤコブとの会話を通して、ヤコブの本心を知り、エサウの疑念は晴れ、ヤコブからの贈り物を受け取った事で、二人の和解は完成し、恒久的なものとなるのです。
【本論】
33:12 エサウが、「さあ、旅を続けて行こう。私はあなたのすぐ前に立って行こう」と言うと、
弟ヤコブへの和解の応答、兄エサウが現し得る善意の応答として、同道と、先導と、警護の提案を申し出ます。エサウの申し出はエサウの心情がよく現されていて、本当に微笑ましい情景なのではないでしょうか。
この時、エサウはセイルに住んでおり、弟ヤコブをセイルに連れて行こうと考えたようですが、盛大な歓迎、盛大な持て成しを計画したのではないでしょうか。
20年以上音信不通だったのですから、積もる話しをしたかったのではないでしょうか。聞きたい事も山ほどあったのではないでしょうか。逸(はや)る気持ちは解らなくはありませんが、お互い、20年ものブランクがあるのですから、気持ちを抑えて、時間を置く事、距離を置く事も知恵なのではないでしょうか。
そもそもの発端は、弱みに付け込んだ取引であり、騙し騙された事であり、思い出したくもない事です。宴席では、どうしても、そこに触れる事になりましょうし、直接触れなくても、思い出す事にはなりましょう。苦々しい思い出であり、触れたくない過去です。暫くは距離を置き、時間を置き、静観するのが賢明であり、大人の対応です。
33:13 ヤコブは彼に言った。「あなたもご存じのように、子どもたちは弱く、乳を飲ませている羊や牛は私が世話をしています。一日でも、ひどく追い立てると、この群れは全部、死んでしまいます。
33:14 あなたは、しもべよりずっと先に進んで行ってください。私は、私の前に行く家畜や子どもたちの歩みに合わせて、ゆっくり旅を続け、あなたのところ、セイルへまいります。」
兄エサウの申し出に対しての、弟ヤコブの返答は口実のようにも聞こえましょうが、決して単なる口実、逃げ口上ではではありません。
伯父ラバンとの駆け引きがあり、兄エサウへの心労があり、神の使いとの格闘があったのであり、800km以上の長旅の果てですから、疲労困ぱいであり、この辺りで一休みしたかったのが本音なのではないでしょうか。また、子ども連れ、子羊、子牛などを連れての旅ですから、ペースを落としたかったのではないでしょうか。
決して、兄エサウへの不審や、和解が長続きしないのではないか、との恐れからではありません。兄エサウと弟ヤコブとの和解の真実性は、疑い得ない事です。何故ならば、和解には神様が関わっておられるからであり、神様が仲介しておられるからです。
人間同士の横の関係ではなく、有限な関係、変わり得る関係の和解ではなく、神様との縦の関係で、無限の存在、変わらないお方を仲介者として、人間が和解したのです。
破綻する事を前提とした和解ではなく、破綻しない前提での和解をこそ目指すべきであり、弟ヤコブは神の前で、兄エサウと和解したのであり、兄エサウを裏切る事は神様に対しての真実さを問われる事になりますから、ヤコブの真実性は疑い得ない事と言えるのです。
33:15 それでエサウは言った。「では、私が連れている者の幾人かを、あなたに使ってもらうことにしよう。」ヤコブは言った。「どうしてそんなことまで。私はあなたのご好意に十分あずかっております。」
弟ヤコブは兄エサウの二回に亘る申し出を丁重に断りました。今後の兄エサウとの関係性の進展を考えたならば、二つ目の申し出くらいは受けても良さそうですが、断るのが賢明な判断と言えるでしょう。
断る理由、一つは、知らない者、新しい者が加わると言う事です。今まで阿吽の呼吸で意思伝達して来た中に異分子が加わるのであり、齟齬が生じ、混乱に発展しかねません。旅と言う非日常の中では、長い時間を掛けて構築した関係者だけで取り組む事が重要なのです。
二つは、共通の価値観でない者が加わると言う事です。共通の価値観で行動する、と言う事はとても大切です。この世の価値観と神の民の価値観は似て非なるものです。見かけは同じでも、土台となる考え方が違います。家畜の世話一つを比較してみても、一方は、利益のため、将来のため、に世話をするのであり、片方は、神様から預かった物、神様から委ねられた物として世話をするのです。有能であっても、秀でていても、神の働きに、加えるべきではありません。
三つは、支配関係、命令系統が違うと言う事です。エサウの僕はエサウに忠誠を誓っているエサウの所有物であり、エサウの支配下にありエサウの命令系統に属しています。ヤコブに忠誠を誓っている訳ではなく、ヤコブの所有物でもなく、ヤコブやヤコブの家族、ヤコブの家畜を命がけで守る義務も責任もないのです。
しかし、形の上ではヤコブの支配下にあると言う、問題を含んだ存在なのです。
危急の時に混乱を招き、時と場合によっては手枷足枷(てかせあしかせ)になりかねないのです。
四つは、以上の理由から、扱いに苦慮し、お荷物であると言う事です。
一時的に、あると便利、助かる、程度の理由で、安直に受け入れるのは考えものなのです。一緒に、一つとなって、一丸となって、一糸乱れずに、神様に仕えて行くのであり、加える者は、加える物は、神様に相応しいか否かを吟味し、取捨選択、選別しなければならないのです。
33:16 エサウは、その日、セイルへ帰って行った。
弟ヤコブの婉曲(えんきょく)な断りを、兄エサウは気を悪くした様子もなく受け入れ、400人の部下を引き連れ引き上げて行きます。弟ヤコブの言う事ももっともだし、落ち着いたなら会いに来るだろうと、考えたのでしょうか。
親切の押し付けは、困りものですが、多くの場合、親切を押し付けている事に気が付かない事が多いのではないでしょうか。
クリスチャンは「自分にしてもらいたい事をする」をモットーとしていますが、「自分にしてもらいたい事をする」のではなく、相手の立場になって「して欲しくない事をしない」のであり、「してもらいたい事をさせていただく」のです。助けを必要とする時に、近づき、手を差し伸べるのです。「自分だったら嬉しい事」が、相手も嬉しいとは限りません。相手の立場、考え方、嗜好を、その時にしてもらいたい事、を忖度しなければなりません。時には、そっとしておいて欲しい時だってあるでしょうし、近づく事だけが、声を掛ける事だけが、正解ではなく、静観する事が、距離と時間を置く事が、見守っている事が正解、って事も多いのです。
和解は、何もかも一緒、ではなく、一緒に住む事でも、共存でもありません。子どもは「仲良くする」イコール「一緒に遊ぶ」と考えますが、大人は、助けを必要とする時を見逃さず、状況を見て判断し、適宜な援助をする、でしょう。タイミングを外しては意味がありませんし、過剰な援助や、焼け石に水、であっては困ります。
「元気?大丈夫?」などと、声を掛けたり、電話をしたり、手紙を書く事が、気配りなのではなく、相談を受けた時に、親身になって聞き、適切な援助をするのが大人の対応でしょう。
その意味で、エサウは大人になっていたのであり、弟は今、助けを必要とはしていないのであり、弟を見守る事が弟にとって必要な事と受け止め、帰って行ったのです。
33:17 ヤコブはスコテへ移って行き、そこで自分のために家を建て、家畜のためには小屋を作った。それゆえ、その所の名はスコテと呼ばれた。
ここで、地理、位置関係を確認しておきましょう。
巻末の地図、「12部族に分割されたカナン」をご参考になされると、より解りやすいでしょう
先ずは「塩の海」を探してください。
「塩の海」の南端に注ぎ込む「ゼレデ川」の上流、地図右下に広がる地域が「セイル」であり、「塩の海」の北、ヨルダン川の中流、東側、ヤボク川を10km程遡ったところに「スコテ」があり、「スコテ」の西30km程のところに「シェケム」があります。
「神の使い」と格闘したのは「ペヌエル」ですが、「スコテ」の東5km程のところにあります。
ヤコブ一行は、「ペヌエル」から南下して、「セイル」に向かっている道中で、兄エサウに出逢い、和解の一幕があったのです。
ヤコブは、兄エサウと分かれてから、北上し、「スコテ」に行き、そこに「家を建て」、「小屋を作」ります。
「家を建て」、「小屋を作った」のですから、暫く、滞在した訳です。
これは、神様の命令に対する、明らかな背反行為ですが、長旅に疲れている家族や、家畜の休養のため、また、ヤコブは神の使いに腰を打たれて、歩くのに困難を覚えるようになりましたから、暫しの静養を必要としたと考えるなら、仕方のないところなのかも知れません。
「スコテ」での滞在は、数年に及んだのではないかと考えられます。
33:18 こうしてヤコブは、パダン・アラムからの帰途、カナンの地にあるシェケムの町に無事に着き、その町の手前で宿営した。
「シェケム」は、創世記12章6節から7節に記されていますが、アブラハムがカナンに入った時、神様から「あなたの子孫に、わたしはこの地を与える」との約束を頂いた記念の場所であり、「アブラムは自分に現われてくださった主のために、そこに祭壇を築いた」と記されているように、非常に重要な場所なのです。
「シェケム」は神様の約束、カナンの地を与えるとの約束の足がかりとなる重要な、記念の場所であり、アブラハム一族の、祝福のルーツは「シェケム」にあるのであり、ヤコブは感慨無量だったのではないでしょうか。勿論、「シェケム」は目的地点ではありませんが、広い意味で目的地に辿り着いた事には違いなく、長らく滞在した「スコテ」を発し、「シェケム」に着いて、目的を達したと安堵したのではないでしょうか。
33:19 そして彼が天幕を張った野の一部を、シェケムの父ハモルの子らの手から百ケシタで買い取った。
「百ケシタ」の価値、「野の一部」の広さが如何程かは、はっきりしません。
「買い取った」理由を、聖書は記録していませんが、
一に、約束の地への帰還の記念のため、
二に、約束の地を手に入れた確証のため、
三に、これからの活動の拠点のため、
四に、先住民に受け入れてもらうため、などが考えられます。
しかし、どれも人間的な理由であり、「買い取り」は、神様が命じられた事ではなさそうです。そもそも、ヤコブはカナンの地を神様から恵みとして受け取るのであって、足の裏が踏むだけの土地であっても買うべきではありません。足がかりを残しておきたい気持ちは解らなくもありませんが、小細工は問題を引き起こします。
カナンの地は神様が先住民から取り上げ、ヤコブの子らに与えるのであり、先住民の罪咎が満ちるまで待たなければならないのであり、神様が裁かれるまで待たなければならないのです。少しずつ買い増しして行くのでも、どさくさに紛れて搾取するのでもありません。ヤコブは神様の指示がないのに、土地を買った事に後ろめたさを感じたのか、
33:20 彼はそこに祭壇を築き、それをエル・エロヘ・イスラエルと名づけた。
祭壇を築く事は素晴らしい事ですが、人間的な理由であるならば、即ち、自己顕示であるなら、自己満足であるなら、意味はなく、呪われるべきものでしかありません。
礼拝も、奉仕も、献金も、考え方においては同じです。
礼拝を献げ、奉仕をし、献金を献げる事が、信仰生活を送っている事だと考え、安堵するなら、大きな間違いです。礼拝も、奉仕も、献金も、義務でもなければ、責務でもありません。クリスチャンになる条件、教会員になる条件でもありません。人に見せ、賞賛されるために教会に行くのでは、奉仕を行い、献金を献げるのではないのです。神様との深い交わり、神様への感謝、喜び、がなければ、形だけであり、意味はありません。
人々を感動させるような、説教、司会、奏楽、にも意味はありません。
人々に神様の義と愛、裁きと赦し、を指し示すのが説教であり、罪を指摘するのが説教であり、悔い改めに導くのが説教であり、生き方を変えるのが説教であり、慰めを与え、希望を与え、励ましを与えるのが説教です。例話も必要ですが、体験談や、自慢話に終始するようでは問題です。
会衆の意識を神様に集中させるのが司会の務めであり、開会の宣言、祈りは簡潔に、気候の挨拶、風物の紹介、音信などは不要であり、招詞、交読、聖書朗読は流れる如く、であり、そのために祈り備えて、立たなければなりません。司会当日に聖書箇所や讃美歌番号を確認するようでは問題です。
奏楽は会衆の賛美をリードし、助け、補助するのであって、主旋律を忠実に、間違いなく奏楽する事が務めです。礼拝奏楽と一般的な演奏は別物です。会衆の技量に合わせて、半音上げるとか、下げるとか、テンポを遅くする、とかの工夫と配慮を心がけるのが務めです。会衆置き去りの奏楽、会衆に聞かせる奏楽、ではありません。目立つのは問題です。奏楽を意識させない奏楽、会衆の声に溶け込む奏楽が理想でしょう。
会衆賛美もこの世的な、歌の好きな者の集まりの合唱団ではありません。目立つ必要はなく、人が目立ってはならず、信仰を基として、まるで一つであるかのようになって、神様を賛美するのであって、演歌のように小節を利かせる必要も、ビブラートを利かせる必要もありません。自己陶酔していては神様への賛美と言えません。
さて、本文に戻って、「エル・エロヘ・イスラエル」の意味は「神はイスラエルの神」であり、カナンの地での、神様と共なる、神様に守られた、平穏な生活を望んでの命名でしょうが、ペヌエルで「神の使い」と格闘し、「イスラエル」と命名され、神様との新しい関係、神様との新しい歩みに入った事を確認し、自覚し、記念する事として、意味ある事です。しかし、実情は、カナンの地の端っこに留まってしまったのです。スコテでの滞在を合わせ、14~5年の時を、過ごしてしまったようです。帰郷と宣言する訳には行かないのではないでしょうか。
【適応】
私たち人間は、神様との関係の構築と維持こそ、最重要課題として取り組まなければなりません。
神様から離れた生活は、どんなに富み栄えても、高い地位に付き、栄誉を得ても、意味ありません。一文無しになっても、苦労をしても、神様の許に帰らなければなりません。どんなに多くの犠牲を払っても、恥を忍んでも、神様の許に行かなければなりません。神様の許に行くために、プライドを捨て、謙らなければなりません。
しかも、形だけであってもなりません。教会の外まで来て、立ち止まっていたならば、残念な事です。教会の中には入ったけれども、明日の仕事の事、午後の予定、この世の様々な事が心を占めていては、神様の下に帰った、礼拝を献げた、と言えるでしょうか。洗礼を受けても、この世の人々と変わらない生活をしていたならば、この世の価値観を基準に行動していたならば、果たしてクリスチャンと言えるのでしょうか。洗礼を受け、教会に所属して、それで安心していてはなりません。
ヤコブは、カナンの入り口、シェケムに付いた時に、神様の許に帰った、生まれ故郷に帰った、と思ったでしょうが、神様が示されたヤコブの行く先は、父、母の住む「ベエル・シェバ」であり、シェケムの120kmも南です。800kmの旅路と比べたら僅かかも知れませんが、道半ば、なのであり、安心しては、油断してはならないのではないでしょうか。
そして、この安心が、油断が、問題、危険なのです。
片足は神様、もう一本はこの世、では、サタンに足元を掬われてしまいます。神の民は、両足ともに、神様のところにおかなければならないのです。
ヤコブはこの後、シェケムの住民とのトラブルに巻き込まれ、大きな禍根、汚点を残す事になってしまいます。
シェケムに到着した事で安心してはならず、ベエル・シェバに行かなければなりません。ベエル・シェバにいる父に、会わせる顔がないかも知れませんが、ばつが悪くても、行かなければならないのです。ヤコブの帰郷は、本当の意味での、新しいスタートは、完全にベエル・シェバに戻る事からなのです。
皆様は、洗礼を受けられ、何処かの教会に所属していますが、それで安心してはなりません。神様の許に帰った、と自他共に認め得る、言い切れる生活になっているでしょうか。
決して、礼拝を一回も休まない、遅刻しない、奉仕も献金も滞ってない、ではありません。罪を犯さない、十戒を完全に守っている、でもありません。
クリスチャンである事、教会員である事、名目を問うているのではなく、神様の下に、神様の懐に、神様の翼の影に飛び込んでいるか、実質が問われているのです。
日曜日だけのクリスチャンが、悪いといっているのではなく、それでは、本当の喜びも、感謝も、感動も、味わえないし、勿体無いのです。忙しくても、疲れていても、神様との静かな時間をたっぷり取る事が、喜びになり、厳しくても、大変でも、神様に惜しみなく献げる事が、感謝になるのです。
ここにおられる皆様が、本当の意味で神様の許に帰り、神様との深い、親しい交わりに入られ事を願うものです。
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聖書個所:創世記33章1節~11節 2017-6-4礼拝
説教題:「ヤコブと兄エサウ、再会と和解」
【導入】
前回、ヤコブと、神の使いとの格闘の事を、お話させて頂ましたが、それは、祈りを象徴していると申し上げました。
汗を流し、格闘した後のような疲労感を覚えるような祈りでないと、神様に届かない、と言う意味ではありませんが、通り一遍の、形ばかりが整った、美辞麗句の寄せ集めのような祈りに、誰が興味を示すでしょうか。
そんなお手本のような祈りよりも、時間を忘れるような真剣さが込められた祈りが、呻くような、心の奥底から湧き上がる、熱意が込められた祈りが、神様に伝わらない訳がありません。
自分の力と知恵で、世渡りをして来たヤコブであり、今までは、それで何とか上手くやって行けたのですが、兄エサウとの件については、流石のヤコブもどうしようもなかったのです。
神様の命令ですから、故郷に帰らない訳には行きません。
しかし、故郷には、兄エサウが待っているのであり、怒りは治まっていないかも知れない、否、怒っているに違いないのです。
そこで、常識外れの数と、品質の贈り物を用意し、丁寧な挨拶の言葉を添えて先に行かせはしましたが、それで、怒りを治めてくれるとの保障はありません。
兄エサウの顔を見るのを恐れたヤコブですが、ヤコブは神の使いと戦い、神の使いの顔を見させて頂く事によって、本当に恐れなければならないお方を知り、人を恐れる弱さから開放されたのです。
しかし、人を恐れない、と言う事と、傲慢に振舞う、不遜な態度を取る、高飛車に振舞う、とは全く違います。
礼節を重んじ、謙遜さを忘れてはなりませんが、恐れ、怯える必要はないのです。
神の使いによって、新しい名前を与えられたヤコブであり、「イスラエル」と名乗る事になります。
それは、神様との関係が正された、新しくされた、と言う事であり、新しい歩みに入った、と言う事でもあります。
それは、そのまま、人間関係にも強く、深く、広く影響し、人との関係も正される事となり、新しくされる事となるのです。
ペヌエルでの、神の使いとの出会いで、古い自我から脱却され始めた、新しくされたヤコブ、イスラエルの眼に、兄エサウはどのように映ったのでしょうか。
【本論】
33:1 ヤコブが目を上げて見ると、見よ、エサウが四百人の者を引き連れてやって来ていた。ヤコブは子どもたちをそれぞれレアとラケルとふたりの女奴隷とに分け、
33:2 女奴隷たちとその子どもたちを先頭に、レアとその子どもたちをそのあとに、ラケルとヨセフを最後に置いた。
ヤコブは、遠目にも、非常に大勢と分かる集団が、こちらに向かって来るのを見て、兄エサウの一団と確信します。
もう、逃げる事も出来ず、隠れる事も叶いません。
ヤコブは、非常に緊張した事でしょうが、神様のお取り扱いを受けた直後の事であり、余韻、冷めやらず、であり、恐れを抱きはしなかったようであり、動揺もせず、冷静にすべき事を行います。
隊列を整え、母子関係毎に整列させて、兄エサウに挨拶する準備を整えます。
ヤコブの緊張は、家族にも伝わったでしょうが、ヤコブが落ち着き払って、的確に指示を出す様に、家族は頼もしさを覚え、不安と緊張は著しく軽減したのではないでしょうか。
重大な場面では、人の真価が問われます。
冷静沈着に、的確な対応を取る者もいれば、慌てふためいて、支離滅裂に騒ぎ立てる者もいます。
指示を待ち、指示に速やかに従う者もいれば、指示を聞かず、騒ぎ立て、右往左往し、混乱に拍車を掛ける者もいます。
知恵を出し合い、協議の上で、行動を決めるような、時間的余裕はないのですから、リーダーである、ヤコブの指示に従うのが、最善です。
例え、時間的余裕があったとしても決断するのはリーダーであり、リーダーの判断、決断、指示に従うのが、群れたる家族の取るべき態度であり、義務です。
この時、リーダーの指示に従わないのは、群れ全体を危険に曝す事になります。
リーダーには、群れの全体の安全と益を考える責任があり、群れには、リーダーの指示に従う、義務があるのです。
群れの一人一人に、考えがあるでしょうし、意見があるでしょうが、緊急事態では、時間的余裕がない時には、自分の考えや意見を述べるべきではありません。
リーダーに従うのが、群れの義務なのです。
また、時には、緊急ではなく、時間的な余裕がある時には、自分の考えを表明し、意見を述べる機会が与えられるでしょうから、その時には、はっきりと自分の考えを表明し、意見を述べなければなりません。
考えを表明せず、意見を述べないならば、自分の考え、意見を放棄したのであり、後でとやかく言うべきではありません。
どこの組織にも、教会にさえ、ご意見番的存在、名主的存在、自称守り人、がおり、こそこそ話を、大っぴらにしますが、そんな事は、混乱をもたらすだけで、何の益ももたらしません。
従う義務あるのみです。
ヤコブは、隊列を整え、家族を整列させると、
33:3 ヤコブ自身は、彼らの先に立って進んだ。彼は、兄に近づくまで、七回も地に伏しておじぎをした。
ペヌエルでの経験が、ヤコブを大きく成長させたようです。
勿論、欠点がなくなった訳ではなく、相変わらず、人間的な部分を残し持ってはいますが、人は徐々に変えられて行くのであり、急激な変化は歪みを残しかねません。
山から切り出された樹木は、直ぐには使われません。
数ヶ月、時には何年も寝かせ、油分を抜き、木材に加工してからも、暫くは、寝かせるのです。
それを怠ると、組み立ててから、反りが起こり、歪みが生じ、隙間が出来、立て付けの悪い家に、家具になってしまうのですが、それに、似ているのではないでしょうか。
人間的なモノに拠り頼み、慣れ親しんで生きて来た人間が、ある瞬間から、人間的なモノから完全に離れ、神様に拠り頼む生活に切り替える。
理想的かもしれませんが、人間は、機械ではありませんから、無理であり、徐々になのです。
勿論、例外もありましょうが、劇的変化は、時別な神様のご計画の時に限られましょう。
さて、神様のお取り扱いを受けたヤコブは、策略ではなく、誠実に、兄エサウへの謝罪の心を、本心から現している事が伝わるように、兄エサウとの和解を、本心から求めている事が伝わるように行動します。
これまでのヤコブの、作為的な行動とは、隔絶の差でしょう。
「七回」の「七」はユダヤ社会では完全数であり、象徴的意味を持っていますから、正確に「七回」だったのではなく、形ばかりの挨拶ではない事が伝わる回数の挨拶を、見せ掛けの挨拶ではない事が伝わる回数の挨拶をした、と言う事なのです。
「地に伏しておじぎを」するのは、完全な服従を意味する行動ですが、中々簡単に出来る事ではありません。
そんなお辞儀ですが、2~3回なら、恥を忍んで出来ない事もないでしょうが、6回、7回となったら、本心を隠して出来る事ではありません。
「おじぎ」は「ひれ伏す、屈む、礼拝する」を意味するヘブル語です。
最高の礼であり、古代中近東の文献に「臣下の礼」として記されています。
主君に対して、恭順の意を現す姿勢ですが、手には武器の類を持ってない事が明らかであり、首を差し出し、命を差し出す無防備な姿勢です。
ヤコブは、そんな、最上級の礼を、謝罪の姿勢を、七回も繰り返します。
兄エサウの疑念は払拭され、
33:4 エサウは彼を迎えに走って来て、彼をいだき、首に抱きついて口づけし、ふたりは泣いた。
感動的なシーンですが、エサウとヤコブの心の内には、過去の記憶が蘇っていたのではないでしょうか。
創世記25章23節、「兄が弟に仕える」とリベカに告げられ、同じく27章29節、「おまえは兄弟たちの主となる」とヤコブに告げられ、同じく40節「おまえは・・・おまえの弟に仕えることになる」とエサウに告げられているのです。
しかし、皮肉にも、世の常のように、弟が兄に平身低頭し、恭順の姿勢をとっているのです。
神様の預言、告知と矛盾しているのでしょうか。
そうではありません。
前出の預言は、二人の人間関係、上下関係、支配関係を述べているのではありません。
神様の選びに関わる事であり、神様のご計画に関わる事であり、与えられた働きに関わる事に於いてなのです。
働きとは無関係に、ヤコブは兄エサウを、兄として敬い、兄として接遇しなければならず、上位に君臨するような意識を持ってはならないのです。
エサウは弟ヤコブを、普通に弟として接し、肉親として接遇すればよいのであり、奴隷のように扱ってはならず、逆に、卑屈になる必要もないのです。
しかし、神様の働きに於ける主導権は、弟のヤコブにあり、兄であっても弟に従わなければならず、弟だからと言って、兄に対して遠慮してはならず、立ち振る舞わなければならないのです。
教会でも同じでしょう。
牧師は、信徒を導く責務を与えられているのであり、支配者として立てられているのではない事を弁えなければなりません。
信徒は、牧師の年齢や経験に関わらず、神様が立てられた器として接遇しなければならず、軽く見たりしてはならず、批判するなどは控えなければなりません。
その上で、牧師は、神様から委ねられた魂として愛し、教え、導くのであり、時に厳しい事も語らなければならないのですが、それは信徒を滅びに陥らせないために限る事です。
信徒は、意見の相違があっても、牧師に聞き従うのであり、それは、サタンに隙を与えないためであり、神の教会に混乱を起こさせないためなのです。
調和の取れた関係の構築があってこそ、教会は、信徒は、牧師は神様の栄光を現す事が出来るのです。
エサウとヤコブ。
過去の苦々しい記憶は、神様のご計画を、人間の思いで進めようとした結果であり、神様のお取り扱いを受けたヤコブが悔い改め、悔い改めの実として、兄エサウに心からの謝罪を込めた挨拶をしたので、エサウも弟ヤコブを赦す事が出来たのです。
他人の心を変える前に、自分の心が変わる事が先であり、大切です。
自分が変われば、相手も対応が変わらざるを得ないのであり、神様は、このような麗しい結果に、和解に至らしめて下さったのです。
33:5 エサウは目を上げ、女たちや子どもたちを見て、「この人たちは、あなたの何なのか」と尋ねた。ヤコブは、「神があなたのしもべに恵んでくださった子どもたちです」と答えた。
エサウは、支配地の巡回の最中に、偶然、弟ヤコブの率いる一団に出会ったのではありません。
弟ヤコブの使いの伝言を聞いて、遠路、駆けつけたのであり、400人を引き連れて出迎えたのです。
そもそも、弟ヤコブは嫁を娶るためにハダン・アラムに住む伯父のところに旅立ったのであり、弟ヤコブの率いる集団が、ヤコブの家族である事、ヤコブの所有の家畜や奴隷である事を知っているのであり、尋ねるまでもない事です。
しかし、敢えて尋ねたのは、具体的な関係を知りたくて、でしょう。
神様の教えは、一夫一妻ですが、現実は一夫多妻であり、ユダヤ人は、押し並べて子沢山であるからです。
ヤコブの返答の「あなた」は、「私の主人」を意味するヘブル語の訳であり、同じ言葉が、この後の13節で一回、14節で二回、15節で一回、使われています。
「しもべ」は、「彼の奴隷」を意味するヘブル語が使われています。
「あなたのしもべ」と言う表現は、「私の主人、その奴隷」を意味するのであり、最上級の賛辞であり、究極の謙卑なのです。
ヤコブの言動は、ちょっと謙(へりくだ)り過ぎではないか、とも思いましょうが、兄エサウに逢った途端に、掌(てのひら)を返したように、平伏した訳ではありません。
兄エサウに使いを送った時から、終始一貫しています。
最上級の挨拶の言葉を送り、最上級の贈り物を贈り、最上級の態度を示したのです。
しかも、心の底から、嘘偽りなく、です。
言葉巧みでなくても、言葉数が少なくても、稚拙でも、心情は伝わるものです。
ヤコブの思いは、家族にも伝わります。
33:6 それから女奴隷とその子どもたちは進み出て、おじぎをした。
33:7 次にレアもその子どもたちと進み出て、おじぎをした。最後に、ヨセフとラケルが進み出て、ていねいにおじぎをした。
ヤコブに倣って、家族全員が、丁寧な挨拶、「おじぎ」をしますが、3節の「おじぎ」と同じ言葉が使われており、家族全員が、エサウに対して「ひれ伏す、屈む、礼拝する」をしたのです。
もしも、ヤコブが表と裏とを、使い分けていたならば、即ち、兄エサウに逢うまでは、兄に対して悪態をついていたならば、家族の態度に滲み出るのではないでしょうか
多感な子どもたちの態度に現れるのではないでしょうか。
しかし、皆が皆、エサウに対して、最高の礼を尽くした挨拶をしたのです。
ヤコブの家族の挨拶を受けて、ヤコブの挨拶、謝罪が本物である事を、エサウは更に確信した事でしょう。
33:8 それからエサウは、「私が出会ったこの一団はみな、いったい、どういうものなのか」と尋ねた。するとヤコブは、「あなたのご好意を得るためです」と答えた。
エサウの問いかけは、先んじて贈られた550頭の家畜、選りすぐりの贈り物の事である事は明白です。
それに対するヤコブの答えは、訳ではちょっと真意が表し切れていません。
直訳すると「主の目の中で、恵み(好意)を手に入れるためです」。
意訳するなら「心の奥底から赦してもらいたいのです。それが眼に現れるようにしたいのです。それを心底、願っての贈り物なのです」ではないでしょうか。
口元は笑っていても、眼が怒っている、などと言う事がありますが、その逆です。
ヤコブの心からの願いは、慈愛に満ちた目の兄、エサウと再会したい、との告白なのです。
逢ってから、怒りを和らげるのではなく、逢う前に、怒りを解消して起きたかったのです。
また、しこりを作る事がないようにしたい。
あの一件で、こりごりだ。兄と仲違いするのはもう御免だ。
家族がバラバラになり、不必要な苦労と、苦しみを味わったのであり、その解消のためなら、どんな犠牲も惜しくはない、との告白なのです。
そして、見えるモノに執着の強い兄エサウなら、効果的、との算段があった事は否めないでしょうが、
エサウの反応は、意外と言えるものでした。
33:9 エサウは、「弟よ。私はたくさんに持っている。あなたのものは、あなたのものにしておきなさい」と言った。
「弟よ」の直訳は、「わたしの弟よ」であり、親愛の情の溢れる、慈愛の込められた呼びかけです。
エサウの言葉は、遠慮でもなく、今後の駆け引きのためでもなく、勿論、誇張でもなく、ヤコブのものを、もらいたくない気持ちからでもありません。
エサウは、財産を増やす事に熱心になっていない人であり、足るを知る人、あるもので満足出来る人、与えられたものに感謝出来る人、だと言う事です。
伯父のラバン、従兄弟たちとは雲泥の差、です。
支払うべきものを惜しみ、ごまかし、不都合は隠す、利に敏い人の行きつく先は困窮であり、疑心暗鬼でありましょう。
しかし、支払うべきものは支払い、揺すり入れ、相手の立場に立って考え、相手の損にならない配慮をするなら、双方が祝福され、麗しい関係が構築される事でしょう。
物やお金は大切で、便利で、益をもたらすものですが、拘ると、執着すると、牙を剥き、大きな害を為すのです。
物やお金を支配しなければならず、物やお金に支配されてはならないのです。
33:10 ヤコブは答えた。「いいえ。もしお気に召したら、どうか私の手から私の贈り物を受け取ってください。私はあなたの顔を、神の御顔を見るように見ています。あなたが私を快く受け入れてくださいましたから。
ヤコブの言葉、「あなたの顔を、神の御顔を見るように見ています」はお世辞でも、兄エサウの歓心を買うための方便でもありません。
ヤコブは、兄エサウは怒っていると信じ、疑わなかったのですが、贈り物の如何によらず、兄エサウは弟ヤコブを許していたのであり、唯、ヤコブの本心を図りかねて、400人を引き連れて、やった来ただけだったのです。
ヤコブは、兄エサウが贈り物をすんなり受け取るものと思っていたのであり、ヤコブに対して文句の一つや二つ、嫌味の三つや四つ、嫌がらせ位は、当然と思っていた事でしょう。
一発殴らせろ、それで水に流してやる、位は覚悟していたでしょうが、それらが全くなかったのであり、贈り物を断るとは想定外であり、兄エサウの予想外の反応に、神様の御手の働きを感じたのであり、兄エサウの背後に、神様をリアルに感じたのであり、最大限の謝辞を呈したのです。
決して人間を、神様と同格に置いたり、神様を引き合いにして、人の歓心を買おうとの魂胆からではありません。
ヤコブは、本当に嬉しかったのです。
嫌いな人間とは会わなければいい。別に困らないし。
それも、一つの生き方かもしれませんが、本当にそうでしょうか。
「和解」って、チャンスがあれば、してもいいけれど、苦労してまで、負担を背負ってまでする必要はない、でしょうか。
兄弟は、所詮、そんな関係なのでしょうか。
否。
赦しと、和解の確認は、どんな犠牲を払っても、行なうべきです。
エサウは弟ヤコブを心底から憎み、殺そうと決意したのであり、ヤコブは兄エサウを心底、恐れたのであり、兄エサウの手の届かないところまで逃げ、怯えながら暮らしたのです。
こんな関係は、どんな犠牲を払っても、解消すべきです。
謝罪と、贖いの品物をもってして。
必要があるなしではなく、負担があるなしでもなく、
贖いの品物は必要なのです。
33:11 どうか、私が持って来たこの祝いの品を受け取ってください。神が私を恵んでくださったので、私はたくさん持っていますから。」ヤコブがしきりに勧めたので、エサウは受け取った。
こうして、ヤコブとエサウ、二人の関係は、修復されました。
世の中によくある、ちょっとした兄弟喧嘩からの縺(もつ)れの解消ではありません。
尋常ではない兄弟喧嘩であり、修復は絶対不可能と、誰もが信じて疑わない関係が、神様が介在する事で、解消したのです。
しかも、神様は両者に、其々働きかけて、解消のお膳立てをしたのではありません。
ヤコブだけに現れて、ヤコブを励まし、ヤコブを変える事によって、エサウとの和解を成し遂げてくださったのです。
【適応】
私たち人間は、神様との約束を破り、神様の怒りを受け、神様の顔を見る事を恐れ、神様との関係は破綻し、神様から遠く離れて暮らしています。
しかし、神様に対する憧れは持っているために、空しい、まがい物、偶像を作り出し、神ならぬ偶像に仕える事で、大切な時間を浪費しています。
そんな人間を神様は哀れみ、和解の道を用意して下さいました。
神様は、イエス様の十字架の犠牲により、人間の罪を贖い、赦しているのです。
しかし、それを知らず、信じられず、再会を拒み、遠く離れて暮らしている。
そんな頑なな人間に、神様は、御使いを遣わし、神様のところに帰る事を促します。
後は、それに応じるだけです。
しかし、神様のところに帰るのは、恐ろしい事であり、中々前には進めないかも知れませんが、聖書を通し、説教を通し、書物を通し、信者の体験談などを通して、赦されている事を教えてくださっています。
神様が待っている事を教えてくださいます。
待っている神様に近づき、挨拶すればよいのです。
罪を告白し、赦しを請うなら、即座に、神様に受け入れられ、神様との関係は回復し、神の家族となるのです。
そして、赦された事に感謝し、最高の贈り物を献げるのです。
赦されるために、怒りを和らげるために、忘れてもらう事との交換条件で、贈り物を贈るのではありません。
赦された喜びで、感謝で、贈り物を贈るのです。
神様は、献げ物を必要とされませんが、赦された事の大きさや喜びを現す事を禁じ、また、献げ物を否定しているのでもありません。
贈り物の受け取りを拒否、拒絶しているのでもありません。
世界は全て、神様のものですから、何かに不足する事もなく、誰かに仕えられなければならない訳でもありません。
しかし、喜んで、真心から、精一杯、献げたら困るのではないか、と心配になる位の献げ物、贈り物を、何より喜ばれるのではないでしょうか。
数においても、品質においても最高の物は、感謝の大きさ、喜びの大きさその物です。
但し、神様の必要のために、献げるのではありません。
神様を養っている、助けている意識であるなら、神様に対してこんな失礼な事はないでしょう。
神様に献げ物、贈り物をするのは、唯一無二の神様だからであり、献げ物を献げるのに相応しいお方だからであり独り子イエス様の命を犠牲にして、罪びとである私に愛を注いでくださったからであり、過去の罪も、現在の罪も、未来の罪も赦してくださるからであり、こんな汚れきった罪びとである、私を無条件で受け入れてくださったからであり、献げるのが、恵みだからなのです。
そして、和解の贈り物を受け取ってくださる事も、善なる神様に相応しい事、恵みなのです。
神様は、足りてるし、困ってないからいりません、ではなく、喜んで、微笑んで贈り物を受け取ってくださるのであり、美しい、麗しい関係が創られるのであり、贈り物をするのも恵みであり、受け取って下さる事も恵みなのです。
ここにおられる皆様が、神様との和解を得、喜びと感謝に溢れた献げる恵みに預かるものとなる事を願うものです。
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