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聖書個所:ヨハネ8:4859                    2016-10-30礼拝

説教題:「アブラハムより偉大なお方」

【導入】

イエス様とはどのようなお方なのかを何回かに分けて学んで来ましたが、今回はイエス様の本質が明かにされる場面です。

イエス様が光であるとか、キリストであるとか、上から来られたお方であるとか、と言っても、それはイエス様の属性のある一部分を現しており、イエス様のある面を解説しているに過ぎません。

どれも大切な事柄であり、学び、知っておく必要がある事柄ですが、全ての属性を教えられても、イエス様を完全に知る事は出来ません。

仮に「イエス様は光である」と言うことば一つを取って見ても、経験と想像でしか考えられない人間に、神の子のイエス様の光としての働き、力、その意味を完全に知る事は出来ない事だからです。

ですから、数々の属性を教えるより、本質を教える事が、より重要と言えるでしょう。

勿論、イエス様を現す属性の数々は私たちに身近なことばで表現されているので、親しみ易く、馴染み易くあり、理解の助けになり、私たちを慰め、励ましてくれますが、ことばは文化や社会の影響を受けていますので、時には誤解や間違った適応をしてしまう事もあるでしょう。

ですから属性だけでなく、本質を学び、確認して置く事がより重要なのです。

一連の、イエス様と群集、時には律法学者やパリサイ人を交えた論争の流れの中で、今日のテキストの箇所は、そのクライマックスとも言うべき場面であり、イエス様の数々の属性を踏まえた上で、本質が明かにされる場面なのです。

【本論】

8:48 ユダヤ人たちは答えて、イエスに言った。「私たちが、あなたはサマリヤ人で、悪霊につかれていると言うのは当然ではありませんか。」

このユダヤ人たちのことばは、個人攻撃的罵倒と冒涜的中傷のことばであり、自己弁護以外には何も含んではおりません。

前回学んだように、「サマリヤ人」と言う表現は侮蔑の意味の、人種差別的表現であり、更には「悪霊につかれている」と最大限の悪意ある言葉を意識して使っている所により一層、ユダヤ人たちの邪悪さが滲み出ていましょう。

イエス様の冷静で聖書に基づいた的確な教えに対して、ユダヤ人たちは答える事が出来ず、平静を失い、無分別な罵りと悪口に訴えたのです。

ユダヤ人たちが、アブラハムの子孫であると言うならば、アブラハムのように語られることばに耳を傾けるべきであり、何処に行くかは分からなくても旅立ったように、愛するイサクを殺せと言われても従ったように、先ずは語られることばに耳を傾け、理解出来なくても、そのことばに従う謙虚さが必要なのです。

聴いて、その教え、命令が神様から出たことばと信じて従うのが、アブラハムの霊的子孫の姿であり、特徴といえるでしょう。

神様のことばだから聴くのではなく、聴き従う事によって、それが神のことばかどうかが解かるのです。

先ず聴く事が先決です。

聴かなくては、それが神様のことばかどうかも解かりません。

アブラハムは、何の予備知識もなく、突然現れたお方を神様と信じて、そのことばに聴き従いました。

ユダヤ人はこのアブラハムの信仰と、聖書が与えられ、予備知識と霊的遺産を受け継いでいるのです。

その上に、イエス様の数々の奇蹟を見、聖書に基づいた教えを聴いているのですから、イエス様の教えやことばが神様から出たものかどうかは、見間違う事はないはずなのです。

謙虚さを忘れ、自分たちの考えや伝統に合わないことばや教えを語る人を、サマリヤ人だ、悪霊に憑かれている、と言って拒絶するならば、そんな人々に神様のことばは全く受け入れられる事はないでしょう。

8:49 イエスは答えられた。「わたしは悪霊につかれてはいません。わたしは父を敬っています。しかしあなたがたは、わたしを卑しめています。

敵対するユダヤ人たちの、粗野な悪意ある罵りに対して、イエス様は冷静にお答になられます。

冒涜的、侮辱的非難に対して、イエス様はそれを厳かに否定し、父なる神を敬っていると宣言なされます。

ユダヤ人たちのイエス様に対する侮辱的ことばは、神様に対する侮辱でもあります。

何故ならば、遣わされた者を侮辱するのは、遣わした者を侮辱する事であり、遣わした者の権威や尊厳を踏みにじる行為だからです。

イエス様は神様を敬っていると宣言なさいますが、それはイエス様の言動に現れています。

神様から預ったことばを寸分違わず正しく語っている事が、そのまま神様を敬っている事の現われなのです。

その、神様に従って、神様のことばを正しく語っているイエス様を卑しめている行為は、神様に対する敵対行為であり、イエス様はユダヤ人たちこそ悪魔を父としていると指摘なさっておられるのです。

悪霊に憑かれた者は、自身の栄誉を求めます。

その地位を誇り、その働きを誇り、その成果を誇ります。

その血縁を誇り、その民族を誇り、その帰属先を誇ります。

しかし、本当に神様に属する者、或いは仕える者は、神様に属する者とされている事に、或いは仕える者とされている事に感謝し、栄誉は神様にお返しします。

ことばと行ないの全ては、神様の栄光のためであり、自分が誉められるために行ない、語るのではありません。

ユダヤ人たちは、口では神様を称えていましょうが、結局のところ、自分たちの血統を誇り、アブラハムの子孫である事を誇りとして、神様の栄光を現す生き方はしてこなかったのです。

初めはそうでなかったとしても、時が経つにつれて、目に見えるところに拠り所を求めて、神様に従うと言う生き方からは少しずつ離れて行ってしまったのです。

自分の栄誉を求める者は、自分の栄誉に関する事に非常に敏感です。

罵られれば罵り返し、侮辱されれば、侮辱し返します。

直接非難出来ない時は、陰で非難し、弱い立場の者を見つけ出して攻撃します。

しかし、イエス様は終始変らず、静かに否定するに留め、悪口に対して悪口で返す事はなさらずに、神様に委ねて来ました。

それが50節の宣言に現れています。

8:50 しかし、わたしはわたしの栄誉を求めません。それをお求めになり、さばきをなさる方がおられます。

自分の立てた計画であり、自分の判断に基づく行動ならば、否定され、侮辱されたならば、反発し、弁解したくなるでしょうが、神様の指示に従っての計画であり、行動であるならば、神様が責任を取り、神様が評価して下さいます。

人に理解されず、酷評を受けても、人の評価も同意も気にする必要はなくなって来ます。

結果も問題ではなくなります。

神様の命令に従って来たか否かが問題であって、神様はそれを求めておられるのです。

イエス様は正に、神様のことば、命令に従って来たのであり、神様に結果も評価も委ねて来たのです。

8:51 まことに、まことに、あなたがたに告げます。だれでもわたしのことばを守るならば、その人は決して死を見ることがありません。」

イエス様は大切な事、重要な事を宣言される時「まことに、まことに」との前置きをなさいます。

この51節は非常に重要な真理が語られています。

しかしまた、この真理は非常に理解しにくいことばでもあります。

事実、永遠の命についての知識のあるユダヤ人たちも、このイエス様のことばを理解出来ず、とんでもない応答をする事になります。

ここでイエス様は、死なないとか、死んで葬られる事がないと仰っているのではありません。

「死を見ることがない」と言うイエス様のことばには次の三つのメッセージが込められているでしょう。

第一に、その人は有罪判決と言う、霊的な意味での死、神様との断絶から救われる、と言う意味です。

第二に、その人は肉体の死のとげから救われ、病気や怪我によって衰え死ぬ事はあっても、死の最悪の要素がその人を損なう事はない、と言う事です。

第三に、その人は第二の死から救われ、地獄に落ちて永遠に燃える火の刑罰を免れる、と言う事です。

この約束の広大さと重大さは、実に瞠目に価する事柄です。

アダムの堕落以降、全ての人間は神様と断絶し、死の恐怖に怯え、永遠の刑罰に怯えて生きて来たのです。

そこから逃れるために、律法を守り、あらゆる祭儀を執り行って来たのです。

真の神様を知らない人々は、彼らなりの救済論を考え出し、そこに救いを求めて来ました。

しかし、今、イエス様の宣言により、神様との関係が修復され、死からの完全な救いが与えられ、刑罰に服する事がなくなったのです。

人間にとって、これ以上の宣言があるでしょうか。また、必要でしょうか。

どんなに努力しても得られなかったものが、今、目の前に用意されているのです。

そして、この宣言をなし得るのは、神様を置いて他にはない事が理解出来るならば、イエス様こそ神であり、来るべきメシヤだと、結論付ける事が出来るのです。

そのための、予備知識であり、前段階でもある、イエス様との数々の論議だった訳ですが、それらの論議も、祖先から受け継いできた聖書知識も役には立たず、イエス様の仰られる「死」を肉体の死としてしか理解する事が出来ず、イエス様をメシヤとして受け入れる事はなかったのです。

そして、彼らの出した結論は、

8:52 ユダヤ人たちはイエスに言った。「あなたが悪霊につかれていることが、今こそわかりました。アブラハムは死に、預言者たちも死にました。しかし、あなたは、『だれでもわたしのことばを守るならば、その人は決して死を味わうことがない。』と言うのです。

8:53 あなたは、私たちの父アブラハムよりも偉大なのですか。そのアブラハムは死んだのです。預言者たちもまた死にました。あなたは、自分自身をだれだと言うのですか。」

と言うものでした。

ユダヤ人たちはイエス様のことばを正確に引用していません。

イエス様は「死を見ることがありません」と仰られたのに、ユダヤ人たちは「死を味わうことがない」と言い返しています。

意図的なのか、誤解なのかは分かりませんが、ユダヤ人たちが徹底してイエス様に反対した事は間違いありません。

悪魔は神様のことばを歪曲し、曲解して、霊的なことばを、無意味なことばに置換えます。

イエス様は肉体の死の後に来る霊的な死の事を語られたのに、ユダヤ人たちは肉体の死の意味だけに限定して反論しているのです。

表面的なことば尻を捕まえて、ことばの奥に隠されている真理を見失うのは、ユダヤ人たちだけの特質ではありません。

誰もが陥りやすい、ことばの持つ力の限界、と言えるでしょう。

ちょっとした言い間違いや、誤解を招くようなことばを使わないに越した事はありませんが、しかし、ことばだけでは充分伝わらなくても、普段の言動や、神様に対する従順を重ね合わせて見れば、ことばに込められた真意、ことばに隠された真理が見えて来て、自ずと結論が導き出されるのではないでしょうか。

また、イエス様は喩えを用いて、真理を隠し、謙虚に素直に聴こうとする人だけに語られた、と言う事を忘れてはなりません。

聞く耳のある人だけが聞き、真理を理解するのであって、聞く気のない人には真理は隠され続けるのが、イエス様や神様の御心なのです。

しかし、イエス様は決して切り捨てたり、見捨てたりはなさいません。

あくまで冷静に、かつ熱心にユダヤ人たちが理解出来るように、語り続けられます。

8:54 イエスは答えられた。「わたしがもし自分自身に栄光を帰するなら、わたしの栄光はむなしいものです。わたしに栄光を与える方は、わたしの父です。この方のことを、あなたがたは『私たちの神である。』と言っています。

8:55 けれどもあなたがたはこの方を知ってはいません。しかし、わたしは知っています。もしわたしがこの方を知らないと言うなら、わたしはあなたがたと同様に偽り者となるでしょう。しかし、わたしはこの方を知っており、そのみことばを守っています。

8:56 あなたがたの父アブラハムは、わたしの日を見ることを思って大いに喜びました。彼はそれを見て、喜んだのです。」

イエス様は繰り返し、イエス様の働きが、神様のお考え、ご計画に従順である事を力説なさいます。

イエス様が神様の思いを完全に理解し、完全に行なわれるから、神様の栄光の為に従順に働かれるから、神様はイエス様に栄光を与えられるのです。

自分から求めた栄光や、自分で被った冠は、時が経てば古びて、簡単に剥奪されてしまいます。

しかし、神様から与えられた栄光の冠は誰にも奪われる事もなく、朽ちる事もなく、燦然と輝き続けるのです。

イエス様は神様を完全に知っていて、その思いを完全に行なっておられます。

もし、ユダヤ人が神様を知っている、アブラハムと同じ信仰を受け継いでいる、と言うならば、イエス様の事を知らなくても、その行われている事が神様の御心そのものである事が解かるはずであり、ユダヤ人が慕うアブラハムが救い主の現れの日を思って喜んだようにイエス様を喜ぶはずだ、と言うのです。

それが56節の意味です。

アブラハムは信仰の父と呼ばれていますが、アブラハムは信仰によって、救い主の現れの日を思い描いて、喜んだのです。

アブラハムはイエス様を見て喜んだのではなく、救い主の現れの日を思い描いて、喜んだのです。

信仰は現実になった事を喜ぶのではなく、まだ起こっていない未来の事を、現実に起こった事として受け止め、喜ぶのです。

未来に起こる事を、過去の事のように喜ぶ。

これは信仰がなくては出来ない事です。

アブラハムは現実には子どもがいない状態であった、夫婦ともに年を取っており、とても子を産める状態ではなかった、にも関らず、神様の約束を信じたのです。

それが信仰であり、千代に及ぶ祝福を頂きました。

そのアブラハムの信仰を受け継いでいるならば、アブラハムがまだ見ぬ私の日を思って喜んだように、あなた方ユダヤ人こそ、誰よりも、私の現れを喜ぶはずなのではないか、と語り掛けているのです。

ここでもユダヤ人たちはイエス様のことばを誤解して、アブラハムは肉体の目でイエス様を見たのかと理解してしまうのです。

8:57 そこで、ユダヤ人たちはイエスに向かって言った。「あなたはまだ五十歳になっていないのにアブラハムを見たのですか。」

ここで「50歳」と言うのは年齢そのものではなく、ユダヤ人一般で言う「中年」のことです。

分別を心得、客観的に判断出来る年齢を現しており、自己中心でしか考えられない子どもではない事を現すのが「50歳」なのです。

イエス様が公生涯に入られたのは30歳といわれていますが、このユダヤ人たちの言葉は、公生涯の20年目の出来事として記録されているのではなく、

50歳にも満たないのにアブラハムを見たのかと、反論している事に注目しなければなりません。

ユダヤ人たちはイエス様の言葉を正しく聞いていません。

52節でも「死を味わうことがない」を間違って引用しましたが、ここでも、同じ間違いを犯しているのです。

悪意があると何でも、間違って受け止められる事を教えています。

しかし、神様はこのユダヤ人の悪意ある反論を用いて、真理を明かになさいます。

8:58 イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。アブラハムが生まれる前から、わたしはいるのです。」

8:59 すると彼らは石を取ってイエスに投げつけようとした。しかし、イエスは身を隠して、宮から出て行かれた。

この「わたしはいるのです」は非常に有名な言葉であり、ギリシャ語で「エゴー・エイミー」であり、直訳は「わたしはある」であり、神様がご自身をモーセに現された時、ご自身を紹介した言葉と全く同じなのです。

この言葉は出エジプト記314節に記されています。

即ち、神様がご自身を現された言葉であり、イエス様がこの言葉を語られたのは、ご自身を神と宣言された事となるのです。

「わたしはある」

簡潔ですが、重要な真理が込められています。

神は唯一であり、不変であり、永遠であり、無限であり、何にも依存しない、独立の存在なのです。

この言葉は聞き漏らしたり、聞き違えたりする言葉ではありません。

ユダヤ人たちは、神様がご自身を現した言葉を、イエス様が語った事に激怒し、激情に駆られて、イエス様を石打にして、殺そうとします。

しかし、イエス様は「身を隠して」宮を出て行かれました。

この「身を隠して」の直訳は「隠されて」です。

即ち、イエス様はご自身で身を隠して宮を出て行かれたのではなく、どなたかかによって「隠されて」宮を後にしたのです。

ここにも神様の守りを見る事が出来ます。

神様のご計画の時でなければ、十字架以外の方法でイエス様が死なれる事はないのです。

ご自分の住まいを追い出される悲しみは計り知れないものがあったでしょうが、ここでもイエス様は神様に従順であり、神様の取り扱われるように従い、神様の導きで宮を出て行かれたのです。

【適応】

数回に分けて、イエス様の属性について学んで来ましたが、今日イエス様の本質について学びました。

イエス様は神様そのものである、と言う事です。

「わたしはある」「エゴー・エイミー」との宣言は、何より重要です。

イエス様の本質を直接、正確に表現しているからです。

素晴らしい預言者であり、神に従う生き方のお手本でもあり、お祈りの執り成し手でもあり、アブラハムより偉大なお方でもありますが、それが重要なのではありません。

神様がイスラエルの民をエジプトから救い出した時、ご自身を知らせるのに用いられたそのお名前を、イエス様が名乗られたから重要なのです。

イエス様は、イエス様のことばを信じて従う者を罪から救い出し、永遠の命を与えて下さると言う、救済史の歴史に着手なさったその時に、ご自身を「わたしはある」と紹介されたのです。

イエス様の語られ、約束された事は、全てここに掛かっているのです。

イエス様が神様であるからこそ、私たちはその語られた事を信ずる事が出来るのです。

イエス様は単に神様の私信を伝えたのではなく、神様として来られ、その約束の確かな事、間違いのない事を宣言されたのです。

だれでもわたしのことばを守るならば、その人は決して死を味わうことがない。」のです。

肉体的な死は誰にでも訪れますが、イエス様のことばを信じて、従うならば、霊的な死を味わう事がないのです。

神様との関係が正され、死後に裁きを受ける事がなく、新しい身体が与えられ、死もなく病もなく、苦しみも、悲しみもない世界に置かれ、永遠に神様と親しく交わり、憩う事が出来るのです。

私たちはその世界に招かれているのです。

ここに居られるお一人お一人が、イエス様の「わたしはある」との宣言の言葉を信じて、神様の祝福に与ることができますようにお祈り致します。

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聖書個所:ヨハネ8:3747                    2016-10-23礼拝

説教題:「神のことばに聞き従う者とは?」

【導入】イエス様とはどのようなお方なのかを何回かに分けて学んで来ましたが、イエス様がどのようなお方なのかを知る、と言っても、私たちはイエス様の全てを完全に知ることはできません。

有限な存在である人間に、無限である神の子イエス様の全てを知ることは無理な相談ですから、そこには、理解できない点や、疑問が数多く存在することでしょう。

私たちの多くは、その理解できない点や、疑問が解消されないとイエス様を信じられない、と言うことになりますが、全てが解明されたなら信じるでは、それは信仰の世界ではなくなってしまします。

事実とか、目に見える現実世界のことは信仰の世界のことではありません。

目の前にある机や椅子。或いは皆さんお一人お一人。

これは信仰によって存在している、などと考える人が居るでしょうか。

しかし、神様が存在するとか、イエス様に救いがあるとかは信仰の問題なのです。

私たちには理解できないことや、隠されていることを認め、それを受け入れるのが信仰であり、神様に対する正しい態度と言えるでしょう。

その点で、ユダヤ人は頑なであり、自分たちの理解できることだけを信じ、受け入れ、理解を越えたことを拒絶し、自分たちの伝統にそぐわないことを受け入れず、イエス様を排除してしまったのでした。

目の前に真実であるお方、真理であるお方が人となって現れ、語られ、行なわれたのに、それを受け入れず、葬り去ろうとしている。

これは、罪のなせる業の結果ではありますが、罪があるから私たちは何も知ることができないし、全ての神様からの働きかけが無意味なのではありません。

罪があっても聖霊が働く時、人は謙虚になり、謙遜になって、イエス様の言葉を聴き、受け入れることが可能になって来るのです。

そうでなければ、信仰に入れる人は一人も居ないことになってしまします。

聖霊は誰の所にも来て下さり、入って下さり、助けて下さるのです。

そして、徐々に神の言葉を行なう者に変えて行って下さるのです。

一朝一夕にとは参りませんが、イエス様の働きによって罪の束縛から解放されて自由にされた者は、神様の御心に適う、神様の喜ばれることを行う者に変えられて行くのです。

しかし、ユダヤ人の多くは、イエス様の与えて下さる自由を拒否し、古い伝統と律法の束縛には本当の自由が存在しないことを理解できず、その中から出ようとも思わないのです。

井戸の中の蛙のように、見える世界だけを全てと考えて、そこに安住し、井戸の外には、もっと広い、もっと豊かな、想像もできない世界が広がっていることを露程にも考えもしないで居るのです。

人となってこられた神の子を見ようともしないユダヤ人に向かって、イエス様はあなたたちは過去の栄光にその根拠を置いているけれども、そんなものには何の価値もないことを、更に豊かな世界があり、それを神様が用意して下さっていることを悟らせらようと語りかけられます。

【本論】8:37 わたしは、あなたがたがアブラハムの子孫であることを知っています。しかしあなたがたはわたしを殺そうとしています。わたしのことばが、あなたがたのうちにはいっていないからです。

イエス様はユダヤ人が誇りとしている「アブラハムの子孫」と言うことをまず認めます。

確かに、ユダヤ人の祖先はアブラハムであり、その子イサクに続き、ヤコブに続き、ヤコブから12部族に増え広がり、神様がアブラハムと交わされたアブラハムの子孫に祝福を与えるとの約束は連綿と続いて行きます。

しかし、その祝福の約束は無条件の契約ではなく、神様の選びと、神様の言葉に従うと言う条件付であることを忘れてはなりません。

単に血が繋がっている、血縁の関係にあるから、アブラハムの祝福を受けられるのではありません。

アブラハムの子はイサクだけではありません。

サラの女奴隷ハガルの産んだ子イシュマエルもアブラハムの子であり、サラの死後にアブラハムが娶ったケトラの産んだ子ジムラン、ヨクシャン、メダン、ミデヤン、イシュバク、シュアハ等もアブラハムの子ですが、神様とアブラハムの契約は約束の子イサクに、そしてイサクの子であってもエサウではなくヤコブを選び、ヤコブに続く子孫に与えられた約束なのです。

神様の約束、契約は機械的に続き、自動的に継承されるのではなく、神様に選ばれ、選ばれた者として応答し、神様の言葉に従い続けるならば、その子孫に祝福を与えると言うものであり、その祝福とは、罪と律法の束縛から解放し、真の自由と、そこから来る永遠の命を授ける、と言うものだったのです。

そして、このアブラハムの待ち望んだ、神様からの祝福はイエス様の現れによって現実となり、完成に向かっているのに、ユダヤ人たちはアブラハムの待ち望んだお方を殺そうとしていると指摘なさったのです。

アブラハムの子孫であると自認し、それを声高に表明しているなら、聖書が証ししているキリスト、メシヤ、救い主がイエス様であること、アブラハムが待ち望んだお方がイエス様であることを理解できるはずであり、また、イエス様の言葉と業は、神様の約束の成就であることが理解できるはずなのです。

しかし、アブラハムの血縁と言うことに安住し、律法さえ守っていれば安心と考えて、それが、色眼鏡となって、正しい判断を阻害し、イエス様の言葉を受け入れなくさせてしまった。

その結果がイエス様を排除しよう、殺してしまおう、と言う行動となって現れてしまったのです。

8:38 わたしは父のもとで見たことを話しています。ところが、あなたがたは、あなたがたの父から示されたことを行なうのです。」

イエス様の語られたことばはイエス様のお考えではありません。

このことは、先に学び、確認したことです。

イエス様の語られていることばは、イエス様の考えではなく、神様から預ったことばであり、伝言ゲームのような間違いや、抜け、付け足し、誇張は一切ありません。

イエス様は神様から語るようにと預ったことばを寸分の違いもなく、正しく語られたのですから、聞いた人は、神のことばとして聴かなければならず、更に、従うか従わないかを選択し、決断しなければなりません。

アブラハムの子孫、神の民であると言うならば、聴く責任と、従う責任があるのです。

そして、その人が何を聴き、何に従っているかは、その行動を見れば分かります。

イエス様の語られたことばを神様のことばとして聴いた人は、それを行い、それによって、神様に属していることが分かります。

もしも、神様のことばに聴き従わないならば、その人は神様には属しておらず、神様に敵対する者に属しているのであり、神様に敵対する者とは悪魔に他ありません。

悪魔に属する者は、悪魔の考えを行なっているのであり、悪魔の考えとは自己中心であり、自己の栄光を求める生き方なのです。

何度も言いますが、聖書や律法に反対する者だけが悪魔なのではありません。

悪魔に属する者は、聖書や律法の理解も解釈も適応も自己中心的であり、自分の都合に合わせた解釈をし、自分のできる範囲での適応を考え出すのが特徴と言えるでしょう。

神様の御心である、神様を愛し人を愛する所から少し離れているのが神様に属していない者の特徴なのです。

大っぴらに違っていれば皆が警戒してしまい、誰も近寄らないでしょう。

少しだけ違うから、何となく安心し、近寄り、餌食になってしまうのです。

悪魔に対する対処法の一番は戦いではなく、逃げることです。

対峙するのではなく、避けることです。

悪魔は巧妙であり、弱さを突き、功名心、自尊心をくすぐります。

君子危うきに近寄らず、が最も賢明な、悪魔に対する対処法なのです。

神様に従い、神様のことばだけを語るイエス様。

ところが、ユダヤ人はイエス様のことばを神様のことばとして受け入れず、自分たちの信じるところ、従うところの父である悪魔のことばに従って行動しているのです。

神様を信じて、神様のことばに従い、独り子のイサクを献げたアブラハムの信仰とは懸け離れた状態です。

このイエス様の指摘に対して、ユダヤ人は再度自分たちの出自を繰り返します。

8:39 彼らは答えて言った。「私たちの父はアブラハムです。」イエスは彼らに言われた。「あなたがたがアブラハムの子どもなら、アブラハムのわざを行ないなさい。

イエス様はここで何を伝えようとしておられるのでしょうか。

ここでイエス様は、肉によればアブラハムの子でありながら、霊によればアブラハムの子ではない、と言うことがあり得ることを示しているのです。

もしも、あなた方が本当にアブラハムの霊的子孫であるならば、アブラハムが行なったような行動をとるはずである。

アブラハムの子孫であるかどうかは、告白によるのではなく、行動で現しなさい、と仰っているのです。

信仰と行ないは切っても切れない関係にあります。

信仰は行ないに現れるし、行ないで信仰があるかないかがわかってしまうのです。

アブラハムはイサクを献げることで信仰を現し、その行ないが義と認められたのです。

もしも、アブラハムの子孫であると言うならば、口先ではなく、行ないによって示しなさい。

アブラハムが取ったであろう行動を取るか取らないかで、信仰があるかないかが分かると仰っているのです。

イエス様がここで話されたことは、私たちも留意すべき非常に大切なこととして銘記しなければならないでしょう。

即ち、肉的な血縁、或いは形式的・外見的継承は何の役にも立たないのであり、親の信仰が、何の課題もなく子に継承されるのでもなく、教会においても、伝統的な福音的教会に属している、使徒から直系の福音的信仰の継承者であると主張しても、もし行ないが伴っていないなら、何の役にも立たないのです。

これは行ないで義と認められる、救われると言っているのではなく、信仰が行ないに現れるのであり、アブラハムの信仰と行ないの生涯を決して忘れてはならず、信仰による行ないの重要性を過小評価してはならないのです。

行ないは私たちを義とはしません。

最善の行ないでも不完全さに満ちています。

しかし、行ないは重要であって、有用であって、信仰の証拠となり、私たちがどんな人間であり、私たちの信仰が何に根拠するかを示すのに役立つのであります。

善を行なっていれば、善なる方に所属していることが明らかであり、罪を行なっていれば、罪の奴隷であることが明かだ、と言うことなのです。

そして、信仰に伴う行ないは、多くの人に影響を与えると言う事実も見逃してはならない事柄なのです。

アブラハムの行ないが、イサクに継承されたのであり、歴史上の信仰者の行ないが、人々に影響を与え、2000年の歴史の中で絶えることなく、変質することもなく、民族を越え、地域を越えて継承されて、現代の私たちにも伝えられて来ているのです。

私たちもまた、アブラハムのわざを行なって行く使命と責任があることを覚えておかなければならないでしょう。

8:40 ところが今あなたがたは、神から聞いた真理をあなたがたに話しているこのわたしを、殺そうとしています。アブラハムはそのようなことはしなかったのです。

8:41 あなたがたは、あなたがたの父のわざを行なっています。」彼らは言った。「私たちは不品行によって生まれた者ではありません。私たちにはひとりの父、神があります。」

8:42 イエスは言われた。「神がもしあなたがたの父であるなら、あなたがたはわたしを愛するはずです。なぜなら、わたしは神から出て来てここにいるからです。わたしは自分で来たのではなく、神がわたしを遣わしたのです。

8:43 あなたがたは、なぜわたしの話していることがわからないのでしょう。それは、あなたがたがわたしのことばに耳を傾けることができないからです。

8:44 あなたがたは、あなたがたの父である悪魔から出た者であって、あなたがたの父の欲望を成し遂げたいと願っているのです。悪魔は初めから人殺しであり、真理に立ってはいません。彼のうちには真理がないからです。彼が偽りを言うときは、自分にふさわしい話し方をしているのです。なぜなら彼は偽り者であり、また偽りの父であるからです。

8:45 しかし、このわたしは真理を話しているために、あなたがたはわたしを信じません。

8:46 あなたがたのうちだれか、わたしに罪があると責める者がいますか。わたしが真理を話しているなら、なぜわたしを信じないのですか。

8:47 神から出た者は、神のことばに聞き従います。ですから、あなたがたが聞き従わないのは、あなたがたが神から出た者でないからです。」

40節以降は、39節以前の繰り返しであり、ユダヤ人たちに対する非難の追認です。

イエス様はユダヤ人たちを繰り返し非難しておられます。

ユダヤ人たち、つまり悪魔に属する者たちは、肉においてはアブラハムの子孫であり、アブラハムの血統にあるが、アブラハムの霊的、信仰の継承者ではないのです。

ユダヤ人たちはイエス様を非難し、殺そうとしていますが、それは何かの犯罪の故ではなく、イエス様が神様からの私信を語ったからであり、神様のみこころを行なったからなのです。

イエス様が神様から与えられた権限、分を越えて語り、行なっていたならば、非難されても仕方がないかもしれませんが、イエス様は神様から遣わされて来たことを自覚し、表明しています。

語ることばも神様からのメッセージであり、父なる神様から聞いたことだけを語っているのです。

それはアブラハムが聞きたいと願っていたことであり、アブラハムの霊的子孫ならば聞き分けられるはずなのです。

それを聞き分けられず、理解できないのは、アブラハムの霊的子孫でないことの証拠であり、悪魔から出た者であり、神様から出た者でないことの証明なのです。

41節で「私たちは不品行によって生まれた者ではありません。」とユダヤ人たちが反論していますが、これは民族的な誇りから出た言葉であり、ユダヤ人の一部がサマリヤ人を代表とする土着の住民と雑婚をし、ユダヤ人の純潔を汚したことや、伝統的なエルサレム神殿での礼拝を離れ、土着の宗教との混交があった事を非難して言っているのです。

しかし、本当に雑婚もなかった、宗教混交もなかったと言い切れるのでしょうか。

先に紹介したように、アブラハムの妻、サラの女奴隷の子イシュマエルや、サラの死後に娶ったケトラの子はユダヤ人に組み入れられては居ないかも知れませんが、ユダヤの歴史は男社会の歴史であり、女性の地位は低く、血統と言っても男の血統であり、女性の血筋は問題にされません。

その顕著な例がイエス様の系図に良く現れています。

マタイの福音書1章や、ルカの福音書3章にイエス様の系図が記録されています。

マタイの福音書の系図には3人の女性の名前が記されていますが、ラハブはエリコの町の住民であり、カナン人でありユダヤ人ではありません。

ルツもモアブの女性であり、ユダヤ人から見るならば雑婚のそしりを受ける結婚です。

イエス様お一人の系図にも、少なくとも2人の異邦人の女性の血が入っているのであり、他のユダヤ人の系図も推して知るべし、と言うことではないでしょうか。

宗教的にもユダヤ教は純粋であり、儀式の、様式の全てがユダヤ教オリジナルか、と言えば決してそうではありません。

偶像を造らない、偶像を礼拝しない、と言う点では特異かも知れませんが、神殿の造営のそこかしこに、エジプトの建築物や宗教的影響、オリエント、カナンの宗教の影響を受けており、決して純粋と誇れるものではないのです。

そして同じく41節で「私たちにはひとりの父、神があります。」と反論していますが、父なる神とユダヤ民族の関係は、そのまま個々人と神様の関係ではありません。

確かに、ユダヤ民族は神様の祝福に与る約束がありますが、ユダヤ民族の全てが神様の祝福に与るのではありません。

ユダヤ民族でも偶像礼拝をすれば石打の刑に処せられるのであり、律法に違反すればその祝福から洩れることになります。

このユダヤ人たちは、民族的に子であることや、契約上の子であることは、霊的に子であることを抜きにしては何の意味もないこと、価値のないことであることを悟っていなかったのです。

【適応】このことは現代の私たちクリスチャンと呼ばれる人々にも適応される真理です。

多くの人は洗礼が私たちを神の息子、娘にすると考え、洗礼を受けた人々はすべて神の子と呼ばれ、名実ともに神の祝福を受けると考えますが、これは今日の聖書箇所に登場したユダヤ人たちのことば、考え方と重ね合わせて考えなければならないものです。

受洗した人がイエス様を愛し、そのことばに従うのでなければ、彼らは神様を父と呼ぶ権利はないし、彼らは神の子ではないのです。

当然、神様からの祝福も頂けはしないでしょう。

自分の好き勝手なことをし、自分の都合に神様を合わせるような生き方、考え方がイエス様を愛している、イエス様のことばに従っている、と言えるでしょうか。

もしも、本当にイエス様を愛しているならば、自分の都合、理由、言い訳をせず、イエス様のことばに従うはずです。

自分の考えを捨てて、イエス様に従うからこそ、神の子としての身分を与えられ、神様から祝福を頂けるのです。

この霊的に神の子となっているかどうかが大切、重要なのです。

霊的に子となっていなければ、神様の祝福は頂けないのです。

霊的に子となっているかどうかは、洗礼、聖餐などの儀式によるのではなく、何処ぞの教会に所属している、礼拝に出席している、と言うことによるのでもなく、イエス様の教えに聴き従っているかどうかにかかっているのです。

勿論洗礼も、聖餐も、礼拝出席も大切です。

決して不必要だと言っているのではありません。

霊的に神の子になっていなければ、洗礼は水浴びと変わらず、聖餐はパンと葡萄ジュースでしかないのです。礼拝もカルチャースクールと変わりありません。

霊的に神の子になってこそ、洗礼も聖餐も礼拝も意味があるのであり、洗礼も聖餐も、新しい生き方の表明であり、再確認であり、指針となるのです。

信仰は見えません。見えないから、儀式、伝統などに頼りたくなりますが、イエス様が教えられたように、アブラハムの血肉の子孫が律法を守っているからユダヤ人として神様の祝福に与るのではなく、神のことばを行なっている霊的なアブラハムの子孫が神様の祝福に与ることができるのです。

ここに居られるお一人お一人が、イエス様のことばに聴き従って、霊的に神の子とされ、神様の祝福に与ることができますようにお祈り致します。

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聖書箇所:エペソ人への手紙 1章1節から14節            2016-10-16礼拝

説教題:「ただ恩寵のみ」

説教者:結城 晋次 牧師 (説教は非掲載です)

【聖書】

1:1 神のみこころによるキリスト・イエスの使徒パウロから、キリスト・イエスにある忠実なエペソの聖徒たちへ。
1:2 私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安があなたがたの上にありますように。
1:3 私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神はキリストにあって、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。
1:4 すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前から彼にあって選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。
1:5 神は、みむねとみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。
1:6 それは、神がその愛する方にあって私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられるためです。
1:7 この方にあって私たちは、その血による贖い、罪の赦しを受けています。これは神の豊かな恵みによることです。
1:8 この恵みを、神は私たちの上にあふれさせ、あらゆる知恵と思慮深さをもって、
1:9 みこころの奥義を私たちに知らせてくださいました。それは、この方にあって神があらかじめお立てになったみむねによることであり、
1:10 時がついに満ちて、実現します。いっさいのものがキリストにあって、天にあるもの地にあるものがこの方にあって、一つに集められるのです。
1:11 この方にあって私たちは御国を受け継ぐ者ともなりました。みこころによりご計画のままをみな行う方の目的に従って、私たちはあらかじめこのように定められていたのです。
1:12 それは、前からキリストに望みを置いていた私たちが、神の栄光をほめたたえるためです。
1:13 この方にあってあなたがたもまた、真理のことば、あなたがたの救いの福音を聞き、またそれを信じたことにより、約束の聖霊をもって証印を押されました。
1:14 聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証です。これは神の民の贖いのためであり、神の栄光がほめたたえられるためです。

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聖書箇所:創世記286節から9節              2016-10-9礼拝

説教題:「エサウ、三人目の妻を娶る」

【導入】

前回は「旅立ち」と言う題で、御ことばを取り次ぎましたが、誰にでも、旅立ちは必要です。

物理的な旅立ち、精神的な旅立ち、経済的な旅立ち、信仰的な旅立ちの必要性をお話しさせて頂きました。

誰かに依存しない生き方への旅立ちであり、誰からも依存されない生き方への旅立ちです。

依存されない生き方、これには注釈が必要でしょう。

と言うのは、人は依存される時、そこに自分の存在意義を見出し、価値を見出し、励みとしやすい生き物だからなのです。

具体例が、「空(カラ)の巣症候群」でしょう。

40代から50代の、子育てを終えた女性に多く見られる、抑うつ症状を現す言葉ですが、子どもを育て上げる事だけが生き甲斐になっていて、子どもが巣立つと、生きる目的を見失い、抑うつ状態になってしまうのです。

他にも、年老いて、段々出来る事が少なくなり、或いは障害を持ってしまい、役に立てなくなった時に、存在意義を失い、価値の無い者だと思い込み、抑うつ状態に陥る事は珍しい事ではありません。

自分が確立していないと、人の影響を強く受ける事になりますから、人から、親から、兄弟から、物理的に、精神的に、経済的に、信仰的に、旅立ちが必要なのです。

今までの生き方、考え方、価値観、を見直さなければなりませんが、最も大切、必要なのは、罪との決別であり、古い悪しき自分との決別であり、罪からの、古き悪しき自分からの旅立ちです。

必要でありながら先延ばしにし勝なのが、自覚していながら出来ないのが人間です。

ヤコブは、殆ど強制的に旅立たされてしまい、親と、兄弟と、故郷と、物理的に、精神的に、経済的に、信仰的に、旅立ち、必要な訓練を受ける事になりますが、エサウは親の下に留まり、故郷に留まり、旧態依然の生活を続ける事になります。

時に、留まる事も必要ですが、留まる中でも、自分を吟味しなければならず、ある人には物理的な、ある人には精神的な、ある人には経済的な、ある人には信仰的な、旅立ちが必要なのであり、そして、全ての人には、罪からの、悪しき習慣からの、旅立ちが必要なのです。

【本論】

28:6 エサウは、イサクがヤコブを祝福し、彼をパダン・アラムに送り出して、そこから妻をめとるように、彼を祝福して彼に命じ、カナンの娘たちから妻をめとってはならないと言ったこと、

28:7 またヤコブが、父と母の言うことに聞き従ってパダン・アラムへ行ったことに気づいた。

7節、8節の「気づいた」の直訳は「そして彼は見た、知った」です。

彼、エサウは、何を見、知ったのでしょうか。

父イサクが弟ヤコブを祝福し、送り出した事を見たのであり、知ったのです。

弟ヤコブが父イサクや母リベカの命令に従って、パダン・アラムに旅立ったのを見たのであり、知ったのです。

弟ヤコブが、父イサクから受けた「祝福」は、兄であるエサウが何よりも欲していたモノです。

単にエサウが欲深かったのではなく、エサウには「祝福」は長男が受けるべきモノ、との自覚があり、父イサクも、周囲の人々も、兄に与えるのが、エサウが受けるべきが当然、と考えていたのです。

そのために画策し、秘密裏に事を進め、いよいよ祝福を与える、と言う時に、兄エサウが受ける寸前に、弟ヤコブが父から祝福を受けてしまったのであり、エサウは、臍(ホゾ)を噛む思いだったのではないでしょうか。

エサウの悔しさが、殺意に変るのに時間は掛りません。

エサウの殺意が漏れ、母リベカに伝わり、弟ヤコブは母リベカの気転の利いた誘導で、リベカの故郷、実家に逃避する事になり、父イサクの祝福を受けて、旅立ったのを、母リベカに見送られて、旅立ったのを、エサウは見、エサウは知ったのです。

弟ヤコブが父イサクから祝福を受ける。

それは、父イサクの寵愛が、弟ヤコブに移った事を、痛感させる出来事であり、父イサクの寵愛を一身に受けていたエサウにとって、耐えがたい屈辱です。

エサウの心の中を想像するに、悔しさが満ち溢れているのは当然ですが、エサウは、何故、祝福を得られないのだろう、と悩んだのではないでしょうか。

父から祝福を得られない理由は何だろう。

何故、ヤコブが祝福を受けたのだろう。

父イサクの心変わりに、疑問を持ち、悩み、苦しんだのではないでしょうか。

エサウが至った答えは、6節後半「カナンの娘たちから妻をめとってはならないと言ったこと」であり、

28:8 エサウはまた、カナンの娘たちが父イサクの気に入らないのに気づいた。

です。

6節後半と8節に記されている考えは、元々はリベカの考えであり、リベカに誘導されてのイサクの発言ですが、エサウはリベカの気持ちなど、全く顧慮していません。

父イサクの寵愛を受ける事だけが、エサウの関心ごとであり、ここにもエサウの片寄った心が現れています。

エサウは自己中心な人物であり、何でも思う通りにやって来たし、父の言う事にさえ、従わない事も、珍しい事ではなかったのではないでしょうか。

それを父イサクは許して来たのでしょう。

だからこそ、父イサクや母リベカの指示に従って、何の反論もなく、不平不満もなく、黙ってパダン・アラムに旅立ったヤコブを「見て、知って」エサウは驚いたのではないでしょうか。

自分には無いものを、ヤコブは持っている。

即ち、父や母への従順。

そして、父イサクが嫌うモノを、私は持っている。

即ち、カナンの地の、ヘテ人の娘を妻としている事。

エサウは、父イサクから祝福を得られなかったのは、ヘテ人の娘との結婚が原因であり、父イサクは、ヘテ人の娘との結婚を喜んではいない、否、喜んでいないどころか、祝福を受ける障害、妨げになっている、と考えるに至ったのです。

エサウの考え違いですが、この原因はイサクにあります。

イサクは、この事件が起こるまで、エサウの嫁たちについての気持ちを、考えをエサウには伝えて居なかったのであり、イサクの愛情の現し方の失敗です。

愛すればこそ、叱責も必要であり、間違っている事は間違っていると、言わなければならず、止めさせ、止まらせなければなりません。

イサクはエサウ可愛さに、すべき事を怠ったのであり、イサクをも、エサウをも不幸にしてしまったのです

28:9 それでエサウはイシュマエルのところに行き、今ある妻たちのほかに、アブラハムの子イシュマエルの娘で、ネバヨテの妹マハラテを妻としてめとった。

エサウは、父イサクの気に入るように、父イサクの愛情を取り戻すための工作をします。

エサウの考え得る最良の策であり、確かに、カナンの地のヘテ人の娘ではありませんが、エサウの立場は変りません。

何人(なにじん)の娘を娶るか、が問題なのではなく、この安易さ、安直さが問題なのです。

エサウには、アブラハム、イサクの働きを引き継ぐ、と言う自覚も責任もなかったので、安直に手に入る、ヘテ人の娘を妻としましたが、エサウの生き方、考え方、全てが、安直であり、自己中心であり、その場凌ぎです。

何かの失敗や、欠点を糊塗するために、次ぎから次ぎへと何かを加えるやり方ですが、悔い改めを欠きながらの改善や、行動、努力に、何の意味もありません。

悔い改めが全てに優先しなければならず、悔い改めが全て、と言っても過言ではありません。

聖書には、エサウの判断の、結末が記されていませんが、それは何の効果も、意味もなかった事の証拠です。

原因を取り除かなければ、上辺を繕うだけでは何にも変りません。

本質が変らなければ、何も変りません。

本質の影響を受けるのですから、本質を変えない限り、影響は受け続けます。

勿論、誤魔化す事は出来るでしょうが、何時までも隠し通せるものでは、誤魔化し切れるものではありません。

家長の権限が絶対であった時代ですが、ヘテ人の二人の娘の影響を受け、イシュマエルの娘の影響を受け、自身の影響が加わるのであり、家庭が、家族が、子どもたちが、その影響を受けて、エサウの家庭が混乱の極みに達するのは、火を見るよりも明らかでしょう。

大きく共通、共感する部分があったとしても、この世の価値観や人生観、文化、慣習などなどであるならば、時の流れと共に変ります。

更には、其々に微妙に違います。

そして、その微妙な違いは、時に、譲れない違いとなり、混乱に拍車をかける事になるでしょう。

勿論、神様を信ずる民でも、価値観が違い、人生観が違い、文化や慣習が違います。

しかし、複数の土俵、価値観と言う土俵、人生観と言う土俵、文化と言う土俵、慣習と言う土俵などの上に立つのではなく、一つの土俵、神様と言う土台の上に、其々の価値観、人生観、文化、慣習が乗っかるので、歩み寄りが可能になり、譲歩も、妥協も可能なのであり、何より、土台は一つですので安定しますし、神様が土台として、仲介してくださり、調整してくださいます。

罪人の結婚だからこそ、同じ神様を信じる者同士の結婚でなければならないのです。

【適応】

エサウは「今ある妻たちのほかに、アブラハムの子イシュマエルの娘で、ネバヨテの妹マハラテを妻としてめと」りましたが、エサウの間違いは、表面を繕うとするだけのものであり、表面を繕っても、上薬を塗っても、ペンキを塗っても、鍍金(メッキ)を施しても、役には立ちません。

地金が問題であり、素材の状態が問題です。

錆びた上に何をしても無駄です。

腐っている土台に、何を建てても、無駄なだけです。

腐れを取り除いてこそ、錆びを落としてこそです。

土台が腐らないようにするのが、錆びないようにするのが、一番なのですが、どうしても腐ってしまい、錆びてしまいますから、腐ったところを取り除くのが、錆びを落とすのが最優先されるべき課題なのです。

私たちの信仰生活において、腐れや錆びを抱えたままにしてはいないでしょうか。

腐れや錆びに触れるのを、避けてはいないでしょうか。

腐れや錆びを、し方がないと思ってはいないでしょうか。

腐れや錆びを、見ないようにしてはいないでしょうか。

そして、腐れの上に、上薬を塗り、ペンキを塗ってはいないでしょうか。

錆びの上に鍍金を施してはいないでしょうか。

腐れや錆びを取り除かなければならず、腐れや錆びを取り除くには、大きな痛みが伴い、大きな犠牲を払わなければなりません。

身を裂き、血を流さなければなりません。

時間が掛るでしょうし、何度も何度も身を裂き、血を流さなければならない事もあるでしょう。

苦しくても、辛くても、非難されても、罵られても、ヘテ人の娘を追い出さなければなりません。

ヘテ人の娘の意味するところは、罪であり、悪しき習慣であり、古い性質です。

決して、離婚を奨励している訳ではありません。

エサウには、アブラハム、イサクに続く、大切な働きを妻と共に担っていくと言う自覚がなかったので、平気で、ヘテ人と結婚してしまった訳であり、ヘテ人との結婚自体が間違っているのであり、間違った事に気が付いた時点で、正さなければなりません。

その間違いを正さない限り、何をやっても、無駄になってしまうのです。

エサウはイサクに愛されたくて、イサクの愛を取り戻したくて、イシュマエルの娘を娶りましたが、ヘテ人の娘をそのままにしていては何の進展も解決もありません。

これは正に、神様と私の関係です。

神様に愛されている事を知り、その愛に応えたくて、洗礼を受けても、教会に通っても、奉仕をしても、献金を献げても、

罪や悪しき習慣や、古い性質をそのままにしていては、神様との関係は進展しません。

罪や悪しき習慣や、古い性質をそのままにしていては、洗礼を受けても、礼拝を守っても、奉仕や献金を献げても、意味はない、と言う事です。

否、意味がないどころの話しではなく、罪と悪を撒き散らす厄介な存在、教会を破壊する存在になってしまいます。

表面を繕う似非(えせ)クリスチャンが、大手を振って闊歩し、もてはやされているなら、その教会は神様の教会ではありません。

また、罪滅ぼしで、洗礼を受けるのでも、礼拝を守るのでも、奉仕や献金を献げるのでもありません。

罪を告白し、罪や悪しき習慣と縁を断たねばなりません。

ここで、罪や悪しき習慣と言っているのは、ガラテヤ書519節以下に記されている「不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のもの」と言った具体的な事柄だけではありません

これらとともに、我が強いなら、批判的であったり、自己吟味がなされていないなら、日々、神様の前に静まる習慣がないなら、聖書を開く習慣がないなら、神様とあなたとの間の、高く、厚い壁が崩れる事はないでしょう。

神様とあなたとの間の壁は、鶴嘴(つるはし)や槌(つち)で破壊する事は出来ません。

洗礼、礼拝出席、奉仕、献金で、破壊する事は出来ません。

しかし、どんなに堅固と思われる壁も、神様と共に歩む時、エリコの城壁の如くに人手に拠らずに、崩れ去る事でしょう。

神様の愛を受けるには、何かを付け加えるのではなく、罪や悪しき習慣や、古い性質を取り除かなければならないのです。

神様とあなたとの関係の改善、神様とあなたとを妨げているモノを取り除かなければならないのです。

その意味で、エサウには、ヘテ人の妻との関係性からの「旅立ち」が必要であり、三人目の妻を娶るより先に、ヘテ人の妻との関係を考えなければならなかったのです。

あなたは、罪や悪しき習慣、古い性質を大切に残したままにしていないでしょうか。

大丈夫だろう、何とかなる、と放置していないでしょうか。

罪や悪しき習慣をそのままにして、礼拝を献げ、奉仕や献金を献げていないでしょうか。

しなければならない事は、今、自身を吟味する事であり、罪や悪しき習慣を神様に告白し、神様のお取り扱いに委ねる事です。

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聖書箇所:創世記2746節から285節           2016-10-2礼拝

説教題:「ヤコブの旅立ち」

【導入】

本日の説教題の「旅立ち」ですが、「いい日、旅立ち」と言う題名の歌謡曲がありました。

谷村新司さん作詞作曲、山口百恵さんの24番目のシングルとして1978年にリリースされた歌謡曲であり、当時の国鉄の、旅行キャンペーンとしてもお馴染みのキャッチコピーです。

「旅立ち」と言う言葉は、夢と希望をイメージする言葉ですが、現実は悲喜こもごもであり、失意と絶望の旅立ちもあれば、不安と逃避の旅立ちもあります。

ヤコブの旅立ちは、決して夢と希望に満ち溢れた旅立ちではなく、不安と逃避、逃亡の旅立ちでしたが、その原因は、何回かに別けて、イサクのセコイ策略と、リベカとヤコブの用意周到な策略の経緯を見て来ましたが、そこに記されていた通りです。

この経緯で際立つのは、リベカの状況把握力と想像力であり、そして判断力と、創意工夫であり、対応力、対処力、決断力ですが、その根底にあるのは、冷静さと、理路整然とした思考であり、それは、ヤコブへの指示、創世記2742節から45節に明瞭に現れています。

リベカはヤコブに、現状を悟らせ、希望を持たせ、罪の自覚を促しました。

闇雲な、感情的な、支離滅裂な話しは理解出来ませんから、付いて行けませんし、反発さえ生じさせてしまうのではないでしょうか。

しかし、冷静な、理路整然とした話しは、理解の大きな助けになりますから、同意に持って行くのは、難しい事ではないでしょう。

しかも、ヤコブはリベカの子どもですから、親の権威と相まって、すんなりと従わせるに至ります。

しかし、誰にでも、同じ方法が有効であるとは限りません。

年老いて、頼りなくなっても親は親であり、不甲斐なくても、年長者は年長者であり、優柔不断であっても、神様が立てられた権威、序列には敬意を現し、それなりの接し方をしなければなりません。

息子ヤコブへの接し方と、夫イサクへの接し方が同じであるはずはなく、リベカは、エサウの殺意、それに対する不安など、全く匂わせもせず、イサクに対して、全く別のアプローチを仕掛けます。

ここにもリベカの非凡な能力が遺憾なく発揮されているのを見る事が出来ます。

【本論】

27:46 リベカはイサクに言った。「私はヘテ人の娘たちのことで、生きているのがいやになりました。もしヤコブが、この地の娘たちで、このようなヘテ人の娘たちのうちから妻をめとったなら、私は何のために生きることになるのでしょう。」

生きているのがいやにな」った、とは、穏やかな言葉ではありませんが、イサクの家族間の対立、敵対から生じる、どんよりとした雰囲気、エサウから滲み出る、殺意が漂う殺伐とした空気が、精神衛生を害するのは明らかです。

ましてや、リベカにとっては我が子に関する事であり、ヤコブが殺されようとしているのを黙って見過ごす訳には行かず、エサウの殺人計画を、指を咥えて見ている訳にも行きませんから、気を揉み、悩みつつも、当事者ですから、直接にこの事に触れるのは憚られ、悶々とした日々を過ごしていたのではないでしょうか。

更には、エサウの結婚のもたらした結果は、好ましいモノではなく、エサウの結婚は、聖さを保たなければならない神の家族の中に、異質なモノを持ち込んだのであり、神の家族の中で不協和音が、そこ彼処で鳴り響くような家庭を作ってしまったのです。

アブラハムの、イサクの嫁探しに見られた慎重さは、決して杞憂ではありません。

結婚は、神様に従う民の基礎となる重要な課題であり、最大限の知恵と時間を掛けて、慎重に考えなければならない課題であり、息子、娘の結婚相手は誰でも良い訳ではなく、神様に祈り、神様の導きに従う性質のモノであるべきです。

どのような経緯で、エサウがカナンの地の、ヘテ人の娘を娶る事になったのかを聖書は記していませんが、容姿や相性、好みなどで、安易に結婚相手を決めてはなりません。

リベカは見た事も、聞いた事もないイサクの処へ、逡巡なく嫁いだのですが、アブラハムの僕の言葉を信じたのであり、神様の導きを確信したのであり、信仰の決断をしたので、神の家族に加えられる祝福に至ったのです。

イサクも、アブラハムの僕が連れて来たリベカを、逡巡なく受け入れ、妻としましたが、ここにも神様の導きを確信したのであり、信仰の決断をしたので、神の家族を作る祝福に至ったのです。

然るに、エサウは、勝手にカナンの地の、ヘテ人の娘を見初め、交際を始め、創世記2634節に記されているように、ヘテ人の娘を、二人も娶ってしまったのです。

イサクは、エサウが可愛くても、エサウの作る鹿肉料理が好きでも、結婚について、結婚相手について教えなければならず、間違った選択をしそうな時は、忠告をしなければならず、間違った選択をした時は、叱責し、止めなければなりません。

一人目はともかく、二人目を娶った時の、イサクの対応、責任は重大です。

一度目の失敗は、し方がなかったと、大目に見る事があるにしても、親としての責任を果たし、忠告せねばならず、それを怠ったが故に、二度目の失敗を起してしまったのであり、イサクの責任は重く、大きく、厳しく追求されるべきでしょう。

リベカの言葉の裏には、このイサクの責任に言及していると同時に、イサクに、問題点を気付かせ、ヤコブまでもが、異郷の地の、異教の民を娶ってしまう事にならないように行動する事を促す目的を持っているのは、明らかです。

この点で、リベカの人間観察力、夫操縦術は何と見事なのか、と感嘆の限りです。

リベカは愚痴を零したように装いつつ、思惑を秘めた誘導的提案をしたのであり、イサクはリベカの願った通りの行動を起します。

28:1 イサクはヤコブを呼び寄せ、彼を祝福し、そして彼に命じて言った。「カナンの娘たちの中から妻をめとってはならない。

28:2 さあ、立って、パダン・アラムの、おまえの母の父ベトエルの家に行き、そこで母の兄ラバンの娘たちの中から妻をめとりなさい。

アブラハムは、イサクの嫁探しに、僕を送り出しましたが、今回イサクは、ヤコブ本人を送り出します。

その理由を想像するに、イサクはエサウの殺意を知っていたのではないか、と言う事です。

狭い家族の中、密な関係の中です。

エサウの計画は周知の事となり、何とかしなければ、と思いつつ、誰もが納得する案を、反対をしない案を、特にヤコブを愛し、決して手放しはしないであろうリベカを説得する案を模索していたであろうイサクにとって、リベカの愚痴は、誘導的な提案であり、リベカの愚痴は、渡りに船であった事でしょう。

リベカが承知するならば、ヤコブを旅立たせる唯一最大の障害はなくなります。

パダン・アラム」は、イサクたちの住む「ベエル・シェバ」の北、直線距離で凡そ800kmの処にあります。

気軽に、簡単に、行き来、出来る距離ではありません。

命を懸けなければならない距離であり、危険が待ち受けている旅であり、躊躇する事、必至であり、だからこそ、エサウの殺意が削がれるのであり、そのために最適、必要な距離なのです。

近ければエサウは躊躇なく、ヤコブを追跡するでしょう。

遠ければ、エサウは断念するでしょうが、ヤコブの命は失せたも同然です。

エサウが断念し、ヤコブの安全が見込める、最適な場所、しかも、親族が居て、ヤコブの結婚相手を選べる場所、それが「パダン・アラム」なのです。

物理的な距離は、精神的な距離に影響し、一つの断念は、関連する事柄に影響を与えます。

800kmの距離は、憎しみ、殺意に影響し、追跡の断念は、殺意の断念に繋がります。

この後、20年の歳月を経てエサウとヤコブは再会しますが、時間の経過は、憎しみ、殺意を薄めます。

エサウ、ヤコブの和解に必要な要素であり、ラバンの下での苦労は、ヤコブにとって必要な時間であり、理不尽な仕打ちを通して、ヤコブに忍耐と謙遜を学ばせ、イスラエル民族としての基礎を作るのです。

リベカの兄ラバンの娘は、ヤコブにとっては従姉妹に当りますが、関係の濃さは、これからの働きに大きく影響する事でしょう。

人間は、家族意識の強い生きモノであり、そこに親族であるとの意識が加われば、拠り一層、仲間意識は強く働き、深く影響する事でしょう。

その仲間意識、民族意識は、イスラエルと言う神の民としての働きに必要不可欠であり、親族との、従姉妹との結婚を前提として、3節以降の言葉に繋がるのです。

28:3 全能の神がおまえを祝福し、多くの子どもを与え、おまえをふえさせてくださるように。そして、おまえが多くの民のつどいとなるように。

多くの民のつどい」の「」は、複数形であり、部族の意味と理解しても良いでしょう。

続く「おまえをふえさせてくださるように」「おまえが多くの民のつどいとなるように」が、単に数だけの事を預言しているのではなく、集団としての性格を預言しているのであり、特に、「全能の神」との関係において、「神の民」としての、宗教的なつどい、宗教的な集団となる事を暗示し、集団としての結束と、この世との混交を避け、聖さを堅持しつつも、この世に関わり、この世に祝福を取り次ぐ、特別な働きを暗示します。

この特別な働きは、特別故に、誰にでも出来る働きではなく、選ばれた者のみが為し得る、稀有な働きを暗示し、その特殊、稀有な働きにヤコブとヤコブの親族が召された事、稀有な働きが与えられた事を預言しているのです。

28:4 神はアブラハムの祝福を、おまえと、おまえとともにいるおまえの子孫とに授け、神がアブラハムに下さった地、おまえがいま寄留しているこの地を継がせてくださるように。」

アブラハムにとっても、イサクにとっても、ヤコブにとっても、カナンの地は寄留の地であり、カナンの地を所有、支配しませんでしたが、ヤコブの子孫が、カナンの地を所有、支配する事になります。

ヤコブの子孫が、カナンの地を所有、支配するのであり、他の民族でもなく、カナン以外の地でもありません。

ヤコブの子孫と、カナンの地は、切り離せない関係にありますが、これは、神様が決められた事であり、イサクは、今回の事件を通して、改めて、神様のご計画を確認し、追認したのであり、イサクは、ヤコブをアブラハム、イサクの正式な後継ぎ、世継ぎとして認め、祝福するのです。

先の、エサウと思い込んでの祝福とは大違いです。

ヤコブをヤコブとして祝福するのであり、イサクの気持ちの変化の現れであり、神様がヤコブを選ばれた事を、はっきりと認めた故の宣言であり、イサク自身が、客観的な立場に立ち、神様のご計画に反する計画を立てた事に対する、真摯な敗北宣言であり、家庭の混乱を誘発させた事を自覚する、切実な告白宣言でもあるのです。

更に、このイサクの、ヤコブを祝福する宣言は、エサウの敗北をも宣言しており、イサクは、エサウに対して、ヤコブには手を出すな、と暗に言っているのであり、エサウに対する、暗黙の牽制となっている事を、見落としてはなりません。

先に、800kmの距離は、エサウの憎しみ、殺意を軽減させると申しましたが、イサクの宣言が影響している事は、紛れもない事実です。

エサウに限らず、憎しみ、恨みは、簡単に解消する感情ではありません。

幾つもの要素が、複合的に影響して、即ち、800kmの物理的距離が、旅と言う困難さが、追跡を躊躇させ、イサクの宣言が、決定的に働いて、追跡を断念させ、20年の歳月が、和解に至らせる事になるのです。

28:5 こうしてイサクはヤコブを送り出した。彼はパダン・アラムへ行って、ヤコブとエサウの母リベカの兄、アラム人ベトエルの子ラバンのところに行った。

イサクは、家族を纏められなかった敗北を味わいつつ、ヤコブ祝福し、送り出す事になり、エサウも、妬みと憎しみを味わいつつ、ヤコブを見送る事になり、リベカも、別れの悲しみを味わいつつ、ヤコブを手放す事になり、ヤコブも、仕出かした事の大きさを味わいつつ、リベカと今生の別れをする事になったのです。

人間の小賢しい権謀術策は、関わる人に敗北と屈辱を与えます。

しかし、この愚かな人間の争いの中で、神様は着々とご計画を進められるのであり、神様のご計画に信仰を持って従う者に、勝利と栄光を与えられるのです。

そして、神様の祝福を受けるには、今居る所から、旅立たなければなりません。

【適応】

そもそも、旅には危険が伴いますから、皆に、暖かく見送られたいものですが、励まされて旅立ちたいものですが、ヤコブの「旅立ち」は、強制的な旅立ちであり、悲しみや憎しみの交じり合う旅立ちであり、残念な旅立ちでした。

しかし、家族に見捨てられたような旅立ちでも、この旅立ちは神様のご計画のうちにある旅立ちであり、ヤコブは野宿の夜の、夢の中で、神様との出合いを体験し、神様の臨在を味わい、神様が伴って下さる事を確信するのです。

誰でも、広い意味で、旅立ちが必要です。

物理的に離れなければならない旅立ちもあれば、精神的に離れなければならない旅立ちもありましょう。

経済的に離れなければならない旅立ちもあれば、信仰的に離れなければならない旅立ちもありましょう。

少子化で、両親べったり、祖父母までもべったりでは、自立は見込めません。

常に、ライン、ツイッターなどのSNSで繋がっていないと不安になるようでは、大問題です。

神様に従う道は、ある意味、本当に孤独であり、単独で進んでいかなければならず、困難にも、一人で立ち向かい、取り組まなければなりません。

勿論、つどい、集団、で立ち向かい、戦い、進んでいく事もありますが、大原則、基本は「神様と私」だけであり、「神様と私」とで立ち向かい、取り組んで、行くのです。

隣の人の意見を参考にし、隣の人の助けを受ける事も、逆もあるでしょうが、「あなたは、わたしに従いなさい」なのであり、人の意見に左右されず、助けの如何で、好き嫌い、得手不得手で決めてもなりません。

そのためには、離れなければならないのです。

旅立たなければならないのです。

両親、兄弟と、物理的に、精神的に、経済的に離れなければなりません。

神様と私の関係性のみで、考え、判断し、決断し、行動しなければなりません。

出来る、出来ないではなく、好き嫌いでもなく、得手不得手でもなく、神様の御こころに従う私でなければならず、そのためには、物理的に、精神的に、経済的に離れなければなりません。

依存してはならず、依存されてもならないのです。

これは、一切の関係を断てとか、世捨て人になれ、援助を求めるな、援助するな、を奨励しているのではありません。

人間関係が密であればある程、神様との関係が疎になるからであり、神様との関係の疎密が、信仰にとって一番重要な課題だからなのです。

あなたの信仰は神様との関係性のみで構築、維持されていますか。

良きにつけ、悪しきにつけ、人の影響を受けていないでしょうか。

あなたの信仰は、住みなれた故郷を離れて、神様に近づく旅立ちをされましたか。

神様に近づく旅は、困難があり、新しい体験があり、今までの経験や知識では対応出来ない事ばかりでしょうが、だからこそ、人に頼らず、神様に頼らなければならず、ますます、神様に近づき、神様の影響を受け、神様の喜ばれる者へと変えられて行きます。

そして、それこそが祝福なのです。

この世で安穏に生きるのが、無病息災、事業の成功、学業成就が、祝福なのではなく、

クリスチャンの人数が増え、仲良く一緒にお喋りしたり、食卓を囲み、お茶するのが祝福なのでもありません。

神様とあなたとの関係の改善、神様に近づく事こそが祝福なのです。

「旅立ち」は、前途多難の保証付きですが、

「旅立ち」には、神様が与える比類無き大きな祝福が伴っているのも、絶対、確実です。

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