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聖書個所:創世記29:114                 2016-11-27礼拝

説教題:「神様に守られ、導かれた旅」

【導入】

29:1 ヤコブは旅を続けて、東の人々の国へ行った。

ヤコブは住み慣れた故郷を離れ、愛する両親と離れ、竹馬(ちくば)の友人知人とも離れ、旅に出ました。目的のない旅ではありません。ヤコブの伴侶を探す旅であり、母リベカの故郷を目指す旅でした。

本来ならば、浮き浮きする気持ちの、心弾む旅でしょうが、しかし、伴侶探しは口実であり、実情は、本当のところは、逃避行であり、旅の真の目的は、兄エサウの怒り、殺意の収まるのを待つ場所、身を置く場所に向う事でした。

ベエル・シェバからハランに向う、凡そ800kmの一人旅は、暗い、陰鬱な気持ちだったのではないでしょうか。

しかし、旅を始めた直後のヤコブに転機が訪れました。神様が現れてくださり、祝福を宣言してくださったのです。アブラハムの神、イサクの神、遠い存在だった神が、私の神に変ったのです。恐れ多い存在であった神が、親しい、近しい神に変ったのです。一方通行だった神との関係が、双方向の関係に変ったのです。一人旅だと思っていたのが、神様との二人旅に変ったのであり、ヤコブの神観は激変したのでは、世界観も大きく変ったのではないでしょうか。神様と出遭う前と後とでは、見える世界は何も変らず、環境も変らず、前途多難な状況に変りはありませんが、暗雲立ち込めていた心に、神様の息吹が吹き込まれ、未来永劫に晴れる事はないと思われる厚い暗雲に切れ目が生じ、日が差し込み、希望が涌きあがり、心に大きく広がったのではないでしょうか。これは、人生のあらゆる場面でも同じです。八方塞の状況でも、神様を見上げれば希望と確信が与えられるのです。

ヤコブにとっての旅の主目的、エサウからの逃避は、隅に追いやられ、旅の二次的目的、ヤコブの伴侶探しが、主目的と入れ替えられたのです。伴侶は、お互いの働き、生涯に大きな影響を与えます。しかも、ヤコブの働きは「世界を祝福する」と言うものですから、単に主目的が変った、と言う以上の、大きな意味を持つ変化であり、新しい歩みに、稀有な働きに、大きく踏み出したのです。

800km以上の、徒歩の旅は、未知の土地へ向う旅は、想像以上の困難さを伴いますが、もう、問題ではなくなりました。神様がついてくださっているのですから、安心、安全、平安です。行った事のない目的地ですが、間違える心配もありません。程なく、ヤコブは目的地に到着します。

【本論】

29:2 ふと彼が見ると、野に一つの井戸があった。そしてその井戸のかたわらに、三つの羊の群れが伏していた。その井戸から群れに水を飲ませることになっていたからである。その井戸の口の上にある石は大きかった。

29:3 群れが全部そこに集められたとき、その石を井戸の口からころがして、羊に水を飲ませ、そうしてまた、その石を井戸の口のもとの所に戻すことになっていた。

地図もなければ、道標も、案内板もない、道と呼べるような代物ではない道を、一途に、黙々と歩き続けるヤコブの目の隅に、小さいながらも明らかな建造物が見え、目を凝らすと石造りの井戸である事が判明し、羊の群れが映り、牧童の姿も映ります。

近づくに連れ、ヤコブの耳に、羊の声と、牧童の声も届きます。

聖書の記述は詳しくはなく、井戸の形状を知る事は出来ませんが、村の貴重な共有財産であり、個人的な利用は制限され、荒らされないように、厳重に管理されていた事が伺われる記述です。

自然のオアシスならば、誰もが、動物も、何時でも、自由に使えたのでしょうが、水は非常に貴重であり、アブラハムも、イサクも、水で、井戸の所有権で苦い思いをした事が、聖書に記されていましたが、ここ、東の国でも、事情に大きな違いはなかったようです。

群れが全部揃ってから、とは、誰が決めたのかは知りませんが、変な、厳しいルールですが、水は「水モノ」であり、何時も豊富にあるとは限りません。

先に着いた者だけが得をするのを防ぐための、水を公平に分配するための方法なのであり、先人の知恵なのでしょう。しかし、この変なルールがヤコブと伴侶との出遭いのきっかけとなるのですから、不思議です。

29:4 ヤコブがその人たちに、「兄弟たちよ。あなたがたはどこの方ですか」と尋ねると、彼らは、「私たちはハランの者です」と答えた。

29:5 それでヤコブは、「あなたがたはナホルの子ラバンをご存じですか」と尋ねると、彼らは、「知っています」と答えた。

ヤコブの「兄弟たちよ」との呼びかけは、多分に媚びを含んだ呼びかけといえるでしょう。

先にも申し上げたように、地図のない時代であり、何処に誰が住んでいるかも、誰が支配者かも、敵か味方かも解らない時代です。不用意な言動で、敵対関係に入ってしまう事は、避けなければなりません。しかも、多勢に無勢ですから、余所者の、媚びを込めた卑下の辞、と見てよさそうですが、それは杞憂である事が判明します。

羊飼い等は、何と、ハランの住民であり、何と、リベカの兄弟、ラバンを知っている、と言うではありませんか。

5節の鍵カッコですが、正しくはラバンの父はベトエルであり、ベトエルの父がナホルですが、「子」には「孫、子孫」の意味があり、間違った表現ではありませんし、ナホルは一族の長(おさ)であり、ハランに長年住んで居るのですから、ナホルの方が通用すると考えて、問いかけたのでしょう。この問いかけですが、単に人名を挙げ、知っているか否かを聞いている訳ではありません。ご存じですか」の言外には、「私はナホルの知り合いです」「私はナホルの親族です」との告白の意味が込められている事は間違いないでしょう。

旅人を持て成すのが、当時のカナン、パレスチナの文化ですが、更に、ナホルの知人を冷遇する筈はなく、良い待遇を期待する意味を込めた問いかけと言えるでしょう。

更に、「知っています」は、無機質な、機械的な言葉の応答ではなく、人間味溢れる、暖かな言葉での応答であり、好意的な、親身なやり取りである事は明らかです。だからこそ、ヤコブは矢継ぎ早に問いかけ得たのです。

29:6 ヤコブはまた、彼らに尋ねた。「あの人は元気ですか。」すると彼らは、「元気です。ご覧なさい。あの人の娘ラケルが羊を連れて来ています」と言った。

この「元気ですか」は、単に肉体の面の健康、病気ではないか、を問うているのではありません。必要なモノを、何も欠いていない状態であるか否かを、損なうモノが、何もない状況であるか否かを問うており、肉体的にも、精神的にも、経済的にも、家族的にも、満たされているか否かを問うているのです。これからお世話になるのですから、経済的な面にも関心があるでしょうし、ラバンの娘の中から嫁となる女性を探すのですから、子沢山か否かも気になるところでしょう。

羊飼い等は、「元気です」、即ち「足りないモノは、何もありません」と答え、ラバンの娘ラケルがやって来る事をヤコブに教えます。

29:7 ヤコブは言った。「ご覧なさい。日はまだ高いし、群れを集める時間でもありません。羊に水を飲ませて、また行って、群れをお飼いなさい。」

ヤコブの言葉には二つの意味が込められているようです。

1は、ヤコブは羊飼いであり、経験豊富であり、時間を無駄にはしたくない思いからの、親切心から出た、言葉通りの意味、との理解です。創世記2634節の記述から、ヤコブは40歳を越していたと思われます。羊飼いは若い男性の仕事、或いは僕、雇われ人の仕事であり、ヤコブは年齢的にも、身分的にも指示出来る立場にあり、自身の経験から、多くの羊を安全に導くのは、羊を満腹にさせる餌となる草原を探すのは容易ではなく、時間を無駄には出来ない、との判断からです。

2は、ラケルと個人的に遭うために、人払いの意味を込めての意味がある、と言う事です。ラケル、即ちラバンが、どのような反応を示すかは、解りません。快く受け入れてくれるだろうか、露骨ではなくても、迷惑がられはしないだろうか、と不安で一杯であり、第3者の存在は、微妙な存在となるのであり、人払いの意味を込めた提案なのではないか、と言う事です。

29:8 すると彼らは言った。「全部の群れが集められるまでは、そうできないのです。集まったら、井戸の口から石をころがし、羊に水を飲ませるのです。」

この8節の言葉から、ナホルの知り合いであるにしても、一介の旅人であるヤコブに対して、丁寧に応じている事からも、羊飼い等が雇われ人である事がはっきりします。

雇われ人は、勝手な判断をする事が許されてはいません。命じられた事をしなければならず、前例に従わなければなりません。「何時もの通り」にしなければならず、主人の意に従わなければならないのです。ヤコブの言う通りであっても、ヤコブの言う事が理に適っていても、ヤコブの提案に同意出来ても、主人の許可、指示を受けなければならず、それまでは何も変えてはならないのです。僕は、主人に従う事だけが求められます。

ベエル・シェバでは常識でも、誰もがやっている事でも、ハランにはハランのルールがあるのであり、主人の考えがあるのであり、効果的か否か、無駄の如何、は問題ではありません。ベエル・シェバのルールを、ヤコブの考えを、ハランに持ち込んではならないのであり、この世のルールや、この世では常識であっても、教会に持ち込んではならないのです。決められた事を、決められたルールで行なう事が、最善なのです。

29:9 ヤコブがまだ彼らと話しているとき、ラケルが父の羊の群れを連れてやって来た。彼女は羊飼いであったからである。

先に申し上げたように、羊飼いは若い男性、或いは僕の仕事であり、普通、女性は就かなかったようですが、ラバンには男の子がいなかったのか、或いは、非常に幼かったのか、ラケルは羊を飼う働きに就いていました。

井戸での、運命的な出遭いは、アブラハムの僕と、イサクの伴侶となるリベカとの出遭いを彷彿とさせますが、ヤコブとラケルとの出遭いとは、大きな違いがあります。

イサクの場合には、1、非常に多くの、高価な贈り物が用意されていた、2、何の妨げも起こらず、非常に短期間に目的を達する事が出来た、3、家族の皆に、祝福されて送り出された、であり、

ヤコブの場合は、1、身一つであり、杖一本しか持っていなかった、何の贈り物もなかった、2、紆余曲折があり、非常に長期間、20年を要した。7年の患難辛苦に耐え、更に7年の苦節を味わい、自身の財産を作るために6年も働き詰なければならなかった、3、策を巡らし、こそこそと逃げ出さなければ、ベエル・シェバには戻れなかったし、ラバンはヤコブに対して敵意を持っていたのです。

これらの違いは、神様のご計画、摂理があっての事であり、軽々しく善し悪しを判断したり、決め付ける事は出来ませんが、自分の知恵と経験に頼り、策を練り、強硬突破するのではなく、神様の最善を信じ、神様に委ね、神様に従う道を選びたいものです。

29:10 ヤコブが、自分の母の兄ラバンの娘ラケルと、母の兄ラバンの羊の群れを見ると、すぐ近寄って行って、井戸の口の上の石をころがし、母の兄ラバンの羊の群れに水を飲ませた。

2節に「井戸の口の上にある石は大きかった」と記されていますが、ヤコブは何の躊躇(ちゅうちょ)もなく、戸惑いもなくあっさりと、石を転がしてしまいます。

ヤコブは異常な力持ちだったのでしょうか。否、否。華奢ではなかったでしょうが、単独で転がせるような石であるならば、誰もが勝手に転がし、勝手に飲む事になりましょうから、共有財産を守る事は出来ません。ですから、数人が協力しなければ動かせない石でなければ、意味はありません。

ヤコブは、従来の慣習に囚われない性格であり、積極的であり、指導力に富んでおり、羊飼い等を動かし、協力して蓋となっている大きな石を転がしたのでしょう。

通常ならば、もう少し、皆が集まるまで待たなければならないところだったでしょうが、今日は、早々に、羊にたっぷり水を飲ませる事になるのですが、ヤコブの率先した働きと、羊飼い等への的確な指示は、非常に効果的であり、ラケルに好印象を与えたのではないでしょうか。好印象を持ったのはラケルだけではなかったようです。ヤコブもラケルに対して好印象を持ったようであり、

29:11 そうしてヤコブはラケルに口づけし、声をあげて泣いた。

何とも派手なオーバーアクション、大袈裟とも思える感情表現ですが、親族に遭えた喜びと、ラケルの好ましさに対する感情の発露が、爆発的に現れたのであり、中近東の人々にとっては、よくある事、自然な感情表現のようです。

40過ぎのおっさんが、号泣する、っていうのは、何だかなぁ、ですが、800kmの旅は、死を覚悟しなければならず、何処に居るのかも知れない親族に、ハランに入って早々に、しかも、好ましい従姉妹に、遭えたのですから、感情が堰を切って溢れるのは、まあ、し方が無い事ではありましょう。

29:12 ヤコブが、自分は彼女の父の親類であり、リベカの子であることをラケルに告げたので、彼女は走って行って、父にそのことを告げた。

親類」を新共同訳聖書、口語訳聖書、共に「」と訳していますが、直訳は「兄弟」であり、「」の意味はありませんし、「親類」と訳しているのも問題です。ヘブル語には句読点がありませんが、句読点をつけたが故に、「兄弟」と訳すとおかしくなるので、「親族」とか「」と意訳せざるを得ないようですが、しかし、意訳をしなくても、読点を取り、「彼女の父の兄弟であるリベカの子」と訳したならば、意味も明確になりましょう。

ヤコブは、ラバンの「親類の一人のリベカ」の子なのではなく、ラバンの「数多の甥の中の一人」なのでもなく、ラバンの「兄弟のリベカ」の子、なのです。

身分、関係性は重要ですので、誤解のない訳を心掛けなければなりません。

29:13 ラバンは、妹の子ヤコブのことを聞くとすぐ、彼を迎えに走って行き、彼を抱いて、口づけした。そして彼を自分の家に連れて来た。ヤコブはラバンに、事の次第のすべてを話した。

ラケルが「走って行って」父に知らせたのは、近しい親族との、出遭いの驚きと喜びに溢れた行動であり、微笑ましくあり、何の問題もありませんが、ラバンが「迎えに走って行」ったのは、異常な光景と言えるでしょう。

上位の身分の者が、下位の者の処へ走って行くなど、あり得ない事であり、年長者が、年下の者の処へ走って行くなど、あり得ない事であり、身分の高い者は、歳を重ねた者は走りません。

精々、家の戸口で出迎える処まで、でしょう。それなのに、「迎えに走って行」ったのには、何かしらの理由がありそうですが、ラケルが羊を飼っていた事にヒントが、14節に答えがありそうです。

29:14 ラバンは彼に、「あなたはほんとうに私の骨肉です」と言った。こうしてヤコブは彼のところに一か月滞在した。

先ず、ラケルが羊を飼っていた事、ですが、その理由は、ラバンには男の子がいなかった、もしくは非常に幼かった、病弱であったのではないか、と言う事です。

現代のように、医学が発達していた時代ではありません。子どもが皆、無事に大人になる訳ではありません。信頼出来る肉親の成長した男性は、喉から手が出る程の価値ある存在である、と言う事です。

この考えを支えるのが、「あなたはほんとうに私の骨肉です」と言う表現です。日本の文化での意味は「親族」よりも強い「肉親」の意味、「家族になった」事の表明でしょうが、ユダヤの文化での意味は、もっと深い意味があり、「養子縁組の書式に登場する表現」なのです。

この時点で、両者共に、養子縁組を意識していなかったかも知れませんが、ラバンは、ヤコブを養子として受け入れる覚悟を、謀らずも表明した、と考えられるのです。

注解書によれば、13節で、ヤコブは「事の次第のすべてを話した」訳ではない、重要な点、父イサクを騙した事、エサウの祝福を横取りした事、エサウの復讐を恐れて逃げてきた事は伏せていただろう、とありますが、であるなら、「養子縁組の書式に登場する表現」を使わないのではないでしょうか。

勿論、詳細に、微に入り、細に入り語った訳ではないでしょうが、粗方を語ったのではないでしょうか。ラバンは、ヤコブは帰る所がない、と判断したからこそ、養子縁組的表現をもってしてヤコブを歓迎し、受け入れたのではないでしょうか。しかし、こんな、肉的考えは、上手く収まりはしませんし、ヤコブはハランに留まるべきではありません。

この後、ラバンに男の子たちが与えられ、順調に成長し、後継ぎの心配はなくなり、ラバンの実子との間に確執が生まれます。これは、ヤコブがベエル・シェバに帰る伏線になるのですから、神様のご計画に齟齬はなく、全てを益とされるのです。

【適応】

導入で軽く触れましたが、ベエル・シェバからハランまでの旅路は、直線距離で凡そ800kmです。800kmの旅の成功は、隊を組んでこそであり、大量の食料、金品を準備してこそです。しかし、ヤコブの旅の頼りは杖一本だけであり、着の身、着のままの旅であり、食の保証もなければ、宿の保証もありません。地図もありませんし、道標もありませんから、迂回路も判らず、道なき道を進むのですから、本当に難儀したのではないでしょうか。1日平均30km歩くとしても、27日、約1ヶ月を要します。

これは、1ヶ月あれば、行ける、到着する、と言う意味ではありません。行くならばと仮定して、1ヶ月は必要なのであり、病気、怪我、獣…の事を考えたなら、一人旅は絶望的であり、不可能、と断言しても過言ではないでしょう。

更に、地図もありませんし、道標もありませんから、目的地に到着するのは、至難の業です。しかし、ヤコブは、それをやってのけたのです。ヤコブにサバイバルの素養があったのでしょうか。GPSの無い時代ですが、方向感覚は現代人の比ではないでしょう。人間は窮地に陥ると、尋常ではない能力を発揮し、窮地を脱する事が出来るのでしょうか。

現代人は本当にひ弱であり、ヤコブの時代の人々は、自然の中で生きる術を持っており、本当にタフだった事は否めませんが、人間的な力、知恵、能力で、ハランに到着したのではありません。

291節は簡潔に記されていますが、神様の守りと導きとが凝縮されている事を見逃してはなりません。旅を続けられたのは、ハランの地に辿り着けたのは、リベカの兄ラバンの娘ラケルと出遭えたのは、ラバンが快く受け入れてくれたのは、神様の守りと導きがあってこそです。窮地に陥ると、神様が現れて、具体的に助けてくださり、迷う時にも、神様が現れて、具体的な指示を与えてくださる訳ではありません。問題が起こる前に、神様が露払いの如くに、事前に障害を取り除き、問題と出遭わないようにしてくださるのです。

敵が、山の向こう側を右(時計)回りにやって来る時、何故か、右回りの道を選び、出遭わないようにしてくださり、僅かの時間差で、すれ違い、出遭わないようにしてくださり、偶然としか思えないようなタイミングで、出遭うようにもしてくださるのです。このように、多くの場合、私たちの気付かない所で、神様は動かれているのです。

それは、良い事のみならずです。ヨブは、突然の不幸に見舞われ、理由が判らずに悩み苦しみましたが、不幸の背後には、神様とサタンの駆け引きがありました。ヨブは苦しみ、愚痴を零しもしましたが、神様のお取り扱いを受け、神様を讃美するに至りました。

私たちも、順調な時にも、逆境の時にも、神様が関わられている事を忘れてはなりません。神様が無関心でいる事はなく、最後まで見捨てる事はありません。素通りされる事は、無視される事は決してありません。有能な人、だけではありません。何も出来なくても、失敗ばかりでも、健常でなくても、障害を持っていても、あなたの存在自体を愛でてくださり、あなたと共に歩んでくださり、愛しんでくださり、守り、導いてくださるのです。

イザヤ書43章4節「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している

ここに、条件は一切ありません。

誰もが、神様の目に、高価で尊い、愛される存在なのです。

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聖書個所:ヨハネ9:112                    2016-11-20礼拝

説教題:「生まれつきの盲人のいやし」

【導入】

私たちはイエス様とはどのようなお方なのかを、イエス様とユダヤ人たちとの問答を通して学んで来ました。

私たちはイエス様を知るために、学んでいますが、イエス様に対するユダヤ人たちの質問は、イエス様を理解し、受け入れるためのものではなく、イエス様の言葉尻を掴み、イエス様を窮地に落とし入れ、イエス様を葬り去ろうとするものでした。

そのような、悪意からでた論議、問答はユダヤ人たちの頑なな心に、何の実ももたらすものとはなりませんでした。

延々と繰り返される不毛の論議に終止符を打つべく、イエス様はご自身の口で、「エゴー、エイミー」「わたしはある。」と、ご自身が神であることを宣言され、敵対する者たちとの問答を終らせようとなさいました。

この言葉は、神様がモーセに現れ、イスラエルの民に遣わす時に、ご自身を紹介するために与えられた言葉です。

ユダヤ人ならば誰もが知っている言葉であり、神聖にして犯すべからざる神様だけが、お使いになられる言葉であり、悪戯に、不用意に使ってはならない言葉です。

その、神聖な言葉を、こともあろうに、素性の知れない男が、大胆にも口にしたのです。

イエス様と問答を繰り返していたユダヤ人ですが、イエス様の口から、この宣言が発せられた時、ユダヤ人の怒りは頂点に達し、前後の見境なく、イエス様を石打にしようとします。

自分を神とすることは、神様に対する冒涜であり、聞き流したりすることは出来ません。

「聞いたか。」「聞いただろう。」「今まで色んなことを言って来たが、結局このイエスという男は自分を神だ、と言っているんだ。」

「けしからん。」「生かしておいては、ユダヤ人にどんな災いが起こるか知れたものではない。」「殺してしまえ。」

しかし、神様は、ユダヤ人の怒号と殺意の渦中から、イエス様を守ってくださり、宮から連れ出され、神様の業を現すために、一人の盲人の所に遣わされます。

【本論】

9:1 またイエスは道の途中で、生まれつきの盲人を見られた。

ここでイエス様は、何とはなしに、盲人を見られたのではありません。

たまたま、道を歩いていて、道端に座っている盲人が目に入ったのではないのです。

積極的な意味で、目を留められた、見つめられた、のです。

それは、これから弟子たちに、障害や欠陥、ハンディキャップが、罪の結果によるものではなく、偶然に与えられたのでもないことを教える切欠を提供する行動だったのです。

9:2 弟子たちは彼についてイエスに質問して言った。「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。」

イエス様の視線に気が付いた弟子たちは、イエス様に疑問を投げかけます。

ユダヤ人たちの間には、身体の障害や、現代で言う所の精神障害は、罪の結果、或いは悪魔の仕業と考えられていました。

誰かが罪を犯し、神様に呪われた結果が、身体障害であり、精神障害である。

或いは、罪を犯し、神様に見捨てられ、悪魔に支配されている結果が数々の障害になって現れると考えられていたのです。

その点で、弟子たちの質問は多くのユダヤ人たちの、障害に対する基本的な考えであり、特に、盲目で生まれる、と言うのは余程の大きな罪の結果であると考えていたのです。

因果応報と言う考え方は、世界中で取り入れられています。

何かをしたから、結果がある。

間違っている、とは言い切れませんが、全てが因果応報で説明がつく訳ではありません。

盲目に生まれついた不自由さ、不便さ、苦しみの中に置かれ、誰かのお世話にならなければ生きていけない惨めさ、辛さ。

更に、周りの人々からも、誰の所為だ、と詮索され、本人も両親も、謂れのない罪を指摘され、好奇の目に曝され、本当に辛い毎日を送っていたのではないでしょうか。

弟子たちの質問は、悪意のない質問、誰もが考えている疑問であったかも知れませんが、盲目に生まれついた人にとっては、その両親にとっては槍で心を抉られるような、辛い質問だったのではないでしょうか。

ヨブ記を読む時、ヨブの友人たちが見舞いに来て、最初は慰めの言葉をかけていても、何時しか、忠告となり、罪の結果と指摘され、罪を並べ立てられ糾弾され、3人の友人から交互に畳みかけられて、本当に辛かったのではないでしょうか。

同じような体験を、この盲目の人も、両親もずっと味わって来ていたのです。

律法学者やパリサイ人たちは、微に入り細に入り、罪を指摘し、解説して来たことでしょう。

今日もまた、人々が、自分の前で立ち止まり、また、自分を話題にしている。

今日もまたその繰り返しか。

先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。

「もういい加減にしてくれ。私が何をしたと言うのだ。」

「私の両親が何をしたと言うのだ。放っておいてくれ。」

叫び出したい衝動を押えつつ、毎日のように繰り返される問答を悲しく聞いていたに違いありません。

しかし、今日のイエス様のお答は、盲目の人は勿論のこと、弟子たちにも、周りの群衆にとっても、青天の霹靂、予想だにしない回答でした。

9:3 イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現われるためです。

イエス様のお答は、この盲目の人は罪を犯したことがない、その両親も罪を犯したことはないと宣言しているのではありません。

また、両親の罪が子どもたちに、病という形で降りかかって来ることが決してない、と宣言しているのでもありません。

また、病や苦しみの原因が罪にあることを否定しているのでもありません。

罪の結果、病や死、苦しみが世界に入ってきたのであって、イエス様はそれらを否定しているのではありません。

イエス様は、この人の場合は罪の結果ではなく、「神のわざがこの人に現われるためです。」と宣言されているのです。

この言葉の意味は、この男の人が盲目なのは、彼を癒すことによって、神様が赦され、神様の憐れみが人々に示されるためであると、宣言されているのです。

罪の結果の死であり、病ですが、神様はそれを自業自得、因果応報としてご覧になられているのではなく、その死や病を通して、神様はご自身の慈悲、恵み、憐れみを示す機会とされている、と言うことなのです。

死を恐れ、病に苦しんでいる人に慰めを与え、希望を与えるのが神様の願いです。

その慰めや希望は、一方的に与えられるのではなく、神様に縋る必要があります。

黙って待っていれば良いのではなく、その生き方を改め、神様に従順でなければならないのです。

盲目や病気または何かの障害で苦しんでいる人は、神様に従順にならなければならない。

更には健常者も、その健常ゆえに、奢り高ぶってはならず、障害で苦しんでいる人以上に健常を感謝し、神様に従順でなければならないのです。

神様に従順に生きることで、人々は神様の慈悲、恵み、憐れみを知る機会を得ることができるのであり、神様に背を向け、神様に敵対して生きている人は、決して神様の慈悲、恵み、憐れみを知ることはできないのです。

神様に従順に生きることは、神様が望んでおられることであり、一番良いこと、正しいことなのです。

神様は決して悪いことはなさいませんし、悪をもたらすこともなさいませんが、悪の存在を許し、悪魔の働きを許すことが適当であるとすることがあるのです。

悪い状態をも神様は用いられて、その悪い状態に取り扱われることで、神様に感謝する人、神様の御名を称える人に変えてくださるのです。

9:4 わたしたちは、わたしを遣わした方のわざを、昼の間に行なわなければなりません。だれも働くことのできない夜が来ます。

9:5 わたしが世にいる間、わたしは世の光です。」

イエス様を光として受け入れ、イエス様に従おうと決意した者は、イエス様が神様に従順なように、神様に従順でなければなりません。

一人一人に与えられた賜物を十二分に用いなければならないのです。

働く時間は僅かです。

「昼と夜」と言う言葉に現されているように、働ける時間には限りがあります。

制限があります。

働きたくても、時間切れになることがあるのですから、働きたくなくても、働かなければならないのです。

時間はあると思ってのんびりし、たかを括っていては、後悔することになりかねません。

後悔しても遅いのですから、後悔しないように、光の在るうちに働くことが求められているのです。

神であり、私たちの主であるイエス様が模範を示されて働かれたのですから、私たちも喜んで働かなければならないのです。

地上でのイエス様の働きは非常に短かった。

私たちの生涯も決して長いものではありません。

地上での短い働きの期間中に、イエス様は良い業をするあらゆる機会を捕らえて行かなければならないことを弟子たちに、私たちに示しておられるのです。

健常者は健常者として、障害を持つ者は、その障害をも用いて神様から与えられた使命を果たさなければならないのです。

障害を理由に、何の働きもしないのではなく、障害を抱えながらも、障害の中で、与えられた働きに取り組んで行かなければならないのです。

神様の与えられた働きに必要ならば、障害は取り除かれるでしょうし、パウロのように障害を持ちつつ、働くことも神様のご計画の内にあることなのです。

9:6 イエスは、こう言ってから、地面につばきをして、そのつばきで泥を作られた。そしてその泥を盲人の目に塗って言われた。

9:7 「行って、シロアム(訳して言えば、遣わされた者)の池で洗いなさい。」そこで、彼は行って、洗った。すると、見えるようになって、帰って行った。

盲目の人が癒され、目が見えるようになりましたが、つばきに癒しの力があるのではありません。

泥に癒しの力があるのでもありません。

シロアムの池の水で洗うことで癒しの力が現れるのでもありません。

イエス様の言葉を信じて「行って洗った」から癒されたのです。

行かなければ、洗わなければ癒されることはなく、目が見えることもなかったのです。

イエス様にはつばきをしなくても、泥を塗らなくても、シロアムの池で洗わなくても、目を開く力がありましたが、この場面では、イエス様は命令に応答することを願い、応答した者が癒されることをご計画されたのです。

イエス様や神様の業は一様ではありません。

人を癒される方法も千差万別であり、決して一つの方法に縛られません。

肉体を癒される方法にも、時と場所によって、様々な方法が取られ、また、魂の救いにおいても、人其々で、多様性を見出す事が出来るのです。

盲人の癒しのために取られた不思議な方法は、神様は私たちに、神様が適当と思われれば、ありふれた物に、本来備わっていない効能を与えることがおできになる、と言うことを教えようとされていることを見出すことができるのです。

唾にも泥にも水にも癒しの力はありませんが、それらを用いて癒しをなさることがあるのです。

さて、洗礼式や聖餐式に用いられる水、パン、葡萄ジュースは、普通の水であり、普通のパンであり、普通の葡萄ジュースです。

市販の物と同じであり、その組成も効能にも違いはありません。

しかし、決してないがしろにしてはならず、聖礼典を正しく、相応しく、信仰を持って行なう時に、そこに与る人々に、力を与え、喜びを与え、祝福を与える物となるのです。

そしてそこには「ことば」があり、そのことばに応答し、従う時に、神様の業が現れ、人を癒し、人を救い、人を悔い改めに導く働きをする物となるのです。

勿論、唾も泥も、シロアムの池の水も、礼拝の対象としてはならないように、洗礼の水も、聖餐のパンも葡萄ジュースも礼拝の対象としてはならないことは言うまでもありません。

人を癒し、救い、正しい道に導くのは、神様のことばだけであり、それに従うことだけなのです。

そして、従った者だけが神様の慈悲、恵み、憐れみを我がものとすることができるのです。

9:8 近所の人たちや、前に彼がこじきをしていたのを見ていた人たちが言った。「これはすわって物ごいをしていた人ではないか。」

9:9 ほかの人は、「これはその人だ。」と言い、またほかの人は、「そうではない。ただその人に似ているだけだ。」と言った。当人は、「私がその人です。」と言った。

「目」はその人の印象に強い影響を与えます。

写真の目の部分を黒く帯状に塗りつぶすと、特徴は薄れ、人物を特定できなくなってしまうことは、皆様よくご存知のことと思います。

盲目の人の年齢は記されていませんが、21節で「あれはもうおとなです。」と両親が答えていますので、20歳位になっていたでしょうか。

目が見えないのですから、焦点は合わず、視線も定まらず、空ろな眼差しであったのを20年も見なれた人々にとっては、今は力強く見開き、きりっとした視線で辺りを見回し、力強く立ち佇む青年が同一人物とはどうしても思えなかったのです。

現代の非常に発達した医療技術でも盲目の人の視力を回復するのは、大変困難なことです。

ましてやイエス様の時代、盲目は癒すのが絶対不可能と断言できる病状です。

その癒しが人々の大きな関心事になるのは当然の成り行きです

喧々囂々と意見が交わされる中で、当人は「私がその人です。」と断言します。

9:10 そこで、彼らは言った。「それでは、あなたの目はどのようにしてあいたのですか。」

誰もが知りたがる、当然の質問です

9:11 彼は答えた。「イエスという方が、泥を作って、私の目に塗り、『シロアムの池に行って洗いなさい。』と私に言われました。それで、行って洗うと、見えるようになりました。」

ここに「証し」の原点があります。

誇張もなく、ありのままを、癒しの事実だけを説明しています。

人は説明を求められると、真実味を出そうと、装飾を施し、尾鰭をつけて話したがります。

あながち嘘とは言わなくても、真実の持つ強みは薄れてしまうでしょう。

事実は小説よりも単純、明快なのです。

神様が私たちに求めているのは、ドラマチックな話にするための効果的な脚色ではなく、真実、事実をそのまま語ることなのです。

人が聞こうが聞くまいが、真実だけを話す事に、証し人の使命があることを忘れてはなりません。

9:12 また彼らは彼に言った。「その人はどこにいるのですか。」

この素晴らしい奇蹟を行なったお方を見たいと思うのは当然の欲求でありましょうが、全ての人がイエス様のなされた業に好意的なのではなく、批判的、懐疑的な人々も多くいたのです。

彼らは、イエス様のなされた癒しの奇蹟が「安息日」であったことを忘れてはいません。

この「その人はどこにいるのですか。」と言う質問は奇蹟をなされたイエス様を一目でも見たいという好意的な欲求ではなく、イエス様を捕まえてサンヘドリンの指導者たちに引き渡してやろう、と言う良からぬ動機の持ち主であったことが、次の13節、14節に記されている言葉からも明かです。それは次回確認する事に致します。

【適応】

イエス様について、その属性を学び、前回はイエス様の本質、イエス様は神様であることを学びました。

イエス様が神様であることが宣言され、その直ぐ後で、神様にしかできない盲人の癒しの奇蹟が行われました。

旧約聖書に盲人の癒しの奇蹟は記されていませんが、これができるのは神様だけであることが記されています。

出エジプト記411節「主は彼に仰せられた。「だれが人に口をつけたのか。だれがおしにしたり、耳しいにしたり、あるいは、目をあけたり、盲目にしたりするのか。それはこのわたし、主ではないか。

詩篇1468節「主は盲人の目をあけ、主はかがんでいる者を起こされる。

ユダヤ人はモーセ五書を熟読しています。

詩篇は大人から子どもまで広く愛唱されています。

ユダヤ人は盲人を癒すことができるのは、主なるユダヤ人の神様だけであると知っていたのに、また、イザヤ書3545節には「「神は来て、あなたがたを救われる。」

そのとき、盲人の目は開かれ、耳しいた者の耳はあけられる。」と言う聖句も知っています。

盲人の目が開かれる時は、単に癒しの奇蹟が行なわれた、と言う単純なことなのではなく、神様が来た証拠であり、あなたがたに救いが訪れたことの明確な印しなのです。

待ちに待った日であり、恋焦がれていた日なのに、頑ななユダヤ人たちは、その奇蹟を行なわれたお方、イエス様を神様として受け入れることをせず、安息日の神聖を犯す者と断定したのです。

聖書に明確に記されているにも関らず、ユダヤ人の偏見は、それを黙殺し、イエス様を悪魔、神様を冒涜する者との烙印を押し、抹殺してしまうのです。

偏見は非常に恐ろしい結果をもたらします。

正しいことを見えなくし、間違った方向に邁進させるだけでなく、人々を滅びに誘うだけでなく、人々に罪を犯させてしまうのです。

イエス様を信じられなくても、聖書が預言しているその通りが行なわれたなら、聖書を唯一の拠り所とし、それを信じ、それを標榜しているのですから、イエス様を救い主、神様として受け入れ、それを広く世に知らしめるのがユダヤ人に課せたれた勤めであり、そうしなければならないのです。

私たちキリスト者も同じような使命が与えられています。

私たちは、聖書を信じ、聖書の示された救い主イエス様を受け入れ、それを世にあまねく言い広める使命が与えられている者です。

ここに居られるお一人お一人が、イエス様の「わたしはある」との宣言の言葉を信じ、

更に盲人を癒すことができるのは神様だけであるとの聖書の言葉を信じて、

イエス様を私の神様、私の救い主であると告白し、神様の与えて下さる祝福に与ろうではありませんか。

更に、この福音を造られた全ての人々にお伝えし、人々がイエス様を知り、信じ、受け入れ救いの恵みに入ることができますように執り成していこうではありませんか。

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聖書個所:詩篇73:1~3、28                 2016-11-13礼拝

説教題:「信仰者の悩み」

説教者:朝岡満喜子師 (説教は非掲載です)

【聖書】

73:1 まことに神は、イスラエルに、心のきよい人たちに、いつくしみ深い。
73:2 しかし、私自身は、この足がたわみそうで、私の歩みは、すべるばかりだった。
73:3 それは、私が誇り高ぶる者をねたみ、悪者の栄えるのを見たからである。

73:28 しかし私にとっては、神の近くにいることが、しあわせなのです。私は、神なる主を私の避け所とし、あなたのすべてのみわざを語り告げましょう。

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聖書個所:創世記28:1022                 2016-11-6礼拝

説教題:「ヤコブに現れた神。ヤコブの誓い」

【導入】

神様を信じる者と、神様を信じない者との違いは何でしょうか。

神様を信じていても、病気になるし、事故に遭うし、事業の失敗や、色々な問題は山積です。

一方、神様を信じていなくても、病気になるし、事故に遭うし、事業の失敗や、色々な問題は山積であり、悪い事だけでなく、良い事もそこそこ起こり、両者に大きな違いはなさそうです。

でも、本当に大きな違いはない、と言えるのでしょうか。

確かに、見える処や、起こる幸不幸に、その数に、大きな違いはないかも知れませんが、見えない処、幸不幸の奥には、大きな違いがあるのです。

ヤコブの現実。

表面的には、家族問題が昂じて、家族分裂したのであり、不幸の渦中、と映った事でしょう。

しかし、出来事の背後には神様が働かれているのであり、信仰者はそれを見なければなりません。

故郷を後にするヤコブの心の中は、色々な思いが去来していたのではないでしょうか。

しかし、ヤコブの旅は、目的のない旅、流浪の旅ではなく、ひっそり逃げ出した訳でもありません。

父イサクから大きな祝福、この祝福は私的な祝福ではありません。

神様を根源とする祝福を受けて、父母に見送られて、神様からの祝福を伴って、旅立ったのであり、旅の先には、伴侶を探す、と言う目的があり、希望がありました。

とは言え、一人ぼっちであり、孤独をひしひしと感じ、神様の祝福が伴う旅、との実感はなかったでしょう。

夜になり、寂しさ、孤独感は、より一層強く、重く、圧し掛かって来たのではないでしょうか。

そんな時に転機が訪れます。

転機と言うのは、誰にでも訪れますが、反応は大きく違いましょう。

神様を信じる者は、神様の導きを感じ取り、神様の臨在を確信し、神様からの祝福を掴みます。

一方、神様を信じない者は、偶然とか、不思議な事として見過ごし、神様との出遭いを見逃し、祝福も逃してしまうのです。

転機は、日常の出来事を通して与えられる事があり、非日常の出来事、夢や幻で与えられる事もあります。

どちらも、凡庸に過ごしていたなら見逃してしまうでしょうから、神様に対するアンテナを常に研ぎ澄ましておかなければなりません。

色々と人間的な面が際立って、問題行動を取ってしまうヤコブですが、神様の臨在にどのような反応、行動を見せるのでしょうか。

【本論】

28:10 ヤコブはベエル・シェバを立って、ハランへと旅立った。

旅立った」と訳されているヘブル語は「行動を開始した」の意味を持つヘブル語です。

旅の目的は、伴侶を探す事と、エサウの怒りの静まるのを待つ事ですが、それは表面的な目的であり、本当の目的は別にあります。

何が目的か、と言えば「世界を祝福する」であり、そのための行動をヤコブは開始したのです。

先ずは、両親、家族と離れ、一人にならなければならないのであり、神様からのお取り扱いを受け、その後で、伴侶と出遭い、子孫を設け、ベエル・シェバに戻り、エサウとの和解の後に、世界を祝福するのです。

この項目と、順番は、非常に重要です。

プロセスが重要であり、目的さえ達せば良い訳ではありません。

世界を祝福すると言う働きは、永続的な働きであり、持続的な働きです。

神様と一対一の関係を構築しなければならず、相応しい伴侶を得、相応しい子孫を残さなければならず、しかも、充分な数でなければなりません。

邪魔や、妨げとなるモノがあってはならず、エサウとの和解は必須です。

その、稀有な働き、貴重な働き、誰にも替われない働きに、着手した、と言う事なのです。

28:11 ある所に着いたとき、ちょうど日が沈んだので、そこで一夜を明かすことにした。彼はその所の石の一つを取り、それを枕にして、その場所で横になった。

ある所に着いた」が、目的地に到着した、の意味でない事は、説明するまでもありません。

ヘブル語自体に、特別な意味はなく「偶然立ち寄った」程度の意味のヘブル語であり、ヤコブとしては「偶然立ち寄った」のでしょうが、決して偶然ではありません。

19節で明らかにされますが、神様の導きで「ある所に着いた」のであり、「ちょうど日が沈んだ」のも、偶然ではなく、神様の導きです。

何処でも良い訳ではなく、意味ある場所でなければならず、通過地点であってはならず、一息付く程度の休息の場であってはならないのです。

深い眠りに陥らなければならず、充分な時間、留まらなければならないのです。

神様のお取り扱いを受けるに、ちょいの間、は有り得ません。

神様のお取り扱いを受けるためには、準備段階が必要であり、この世の喧騒を離れ、この世の忙しさ、この世の生活から離れなければなりません。

時間的には連続ですが、聖別し、分離しなければなりません。

神様と出遭うためには、先ず、この世から離れなければならず、静まらなければなりません。

父母と離れ、この世の柵(しがらみ)から離れ、一人にならなければなりません。

そのために「ある所に着」く必要があり、一時的ではありましょうが、この世の悩み、思い煩いからも離れなければならず、そのために「一夜を明かす」必要があったのです。

皆さんの、神様との出遭いは、如何でしょうか。

ある所に着いた」は勿論、教会でしょうが、「一夜を明かす」覚悟が必要なのではないでしょうか。

勿論、本当に教会で「一夜を明かす」事を奨励する気はありませんが、現代人は、忙し過ぎます。

終わる時間を気にして、時計をチラチラ見る、と言うのは如何な事でしょうか。

神様の語り掛けを待つのであり、語られるまで待つのであり、語り終えられるまで待つのではないでしょうか。

常に「神様、お語りください。僕は聴きます」なのではないのでしょうか。

神様との出遭いを求めて教会に来るのですから、挨拶などは極、最低限で済ませ、5分、10分前には着席し、静まらなければならないはずであり、遅刻や世間話などは、論外です。

静まるところから、神様との出遭いは始まっているのであり、静まる時間に比例して、神様との出遭いの深さが決まる、と言っても過言ではありません。

礼拝の中心は、説教ではありません。

礼拝の中心は、神の前に静まる事と、聖書に聴く事です。

聖書に聴く事の助け、補助手段が説教であり、基本は聖書に聴き、聖書に学ぶ、です。

もし、恵まれない礼拝であるならば、備えの時間を吟味、確認する必要がありましょう。

28:12 そのうちに、彼は夢を見た。見よ。一つのはしごが地に向けて立てられている。その頂は天に届き、見よ、神の使いたちが、そのはしごを上り下りしている。

ヤコブは夢を見ます。

誰もが、こんな夢を見ようなどと思って床に就く訳ではありませんが、ヤコブにとっても同じであり、不意を討つような形で、不思議な夢を見ます。

神様は、求めなくても現れて下さるのであり、惜しみなく与えて下さいます。

一方的に、神様の方から近づいて来られたのであり、ヤコブに遭うために出て来られたのです。

それを強調する表現が「見よ。一つのはしごが地に向けて立てられている」です。

天から地に向けられているのであり、この方向性は重要です。

即ち、神様の方からの接近である事が明らか、確実な表現だからです。

はしご」を、新共同訳聖書は「階段」と訳していますが、語源は「うず高く積み上げること」であり、高速道路の出入り口のような、傾斜した道をイメージすると原意に近いかも知れません。

その頂は天に届き」との記述から、バベルの塔を想起しました。

英知を結集して建てたバベルの塔ですが、天に達するかの如くは錯覚であり、地に土台を据えたものであり、小さく、低く、お粗末なモノでしかありませんでした。

一方、神様の造られた「はしご」「階段」様のものは、天そのものから延びて来たモノであり、地上からもはっきり見える、偉大なモノだったのです。

28:13 そして、見よ。【主】が彼のかたわらに立っておられた。そして仰せられた。「わたしはあなたの父アブラハムの神、イサクの神、【主】である。わたしはあなたが横たわっているこの地を、あなたとあなたの子孫とに与える。

28:14 あなたの子孫は地のちりのように多くなり、あなたは、西、東、北、南へと広がり、地上のすべての民族は、あなたとあなたの子孫によって祝福される。

1314節の神様の御ことばは、アブラハム、イサクへの祝福と約束の言葉の繰り返しですが、アブラハムを召し出し、アブラハムへの約束と祝福をイサクに引き継がせた契約の当事者の神様である事を教えつつ、アブラハム、イサクとヤコブとは別個であり、ヤコブと個別に交わす祝福と約束である事に注目しなければなりません。

或いは、アブラハムとの約束と祝福がイサクに移り、イサクとの約束と祝福がヤコブに移った事を、明確に宣言する言葉である、と言う事です。

アブラハムの子孫はイサクだけではありませんが、イサクに引き継がれたのであり、イサクの子孫はヤコブだけではありませんが、ヤコブに引き継がれるのです。

神様がアブラハムに示した「この地」は、シェケムの場モレの樫の樹の処や、ベテルでした。

神様がイサクに示した「この地」は、ゲラルでしたが、ヤコブに示した「この地」は、19節に記されている通りに、ベテルですが、ピンポイント、限定された狭い土地ではありません。

広く、ネゲブの地一帯やカナンの地一帯を与えると約束、宣言しておられるのでもなく、「西、東、北、南」と全方向への広がりを示唆し、全地、全世界を与えると約束しておられるのです。

その支配、祝福は「地上のすべての民族」が対象であり、ユダヤ民族に限定されるモノではありません。

13節、14節は、多少の言葉の違いはありますが、アブラハム、イサクと交わした約束と祝福と、大差ありませんが、15節は新たな約束、追加の宣言の言葉です。

28:15 見よ。わたしはあなたとともにあり、あなたがどこへ行っても、あなたを守り、あなたをこの地に連れ戻そう。わたしは、あなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない。」

13節、14節の約束と祝福は、それはそれで大切であり、重要な事ですが、罪ある人間は、この約束と祝福を受けるに相応しい者ではありません。

御こころに適う形で遂行する事も出来ません。

間違った方向に進み、間違った手段を採用し、御こころを哀しませる事しか出来ません。

しかし、15節の約束が加わった事によって、正しく、御こころに適う形で13節、14節を遂行出来るのです。

究極的には、救いの完成を暗示、示唆する約束、宣言となっています。

この地」は19節に記されている「ベテル」のことですが、「ベテル」とは「神の家」を意味するのであり、間違った方向に進んでも、失敗しても、「神の家」に「連れ戻」して下さるのであり、「連れ戻」しを「成し遂げるまで、決してあなたを捨てない」のです。

何と言う、大きな慰め、希望でしょうか。

単なる希望ではなく、出エジプトの歴史として現実に起こるのであり、イエス様、再臨の時の、救いの完成の予表となっているのです。

28:16 ヤコブは眠りからさめて、「まことに【主】がこの所におられるのに、私はそれを知らなかった」と言った。

28:17 彼は恐れおののいて、また言った。「この場所は、なんとおそれおおいことだろう。こここそ神の家にほかならない。ここは天の門だ。」

野宿を決めた時、ヤコブは、何と辺鄙な、何と殺伐とした、何と荒涼とした地だろうと思った事でしょう。

しかし、そこは「神の家…天の門」だったのです。

肉の目には見えませんでしたが、夢の中で、霊の眼で、ヤコブは「神の家、天の門」を見させて頂いたのです。

ヤコブの、この体験は、神臨在信仰の出発点となった事でしょう。

概念的な信仰から、実在的な信仰に入ったのです。

アブラハムの神、イサクの神、離れて存在する神から、私の神、私と伴われる神に変ったのです。

神様との出遭いは、神様との人格的な交わりの体験は、人を変えます。

きく変えます、変わらざるを得ません。

神様と出遭って、何も変らない、と言う事は有り得ません。

勿論、罪の抵抗は激しく、強力、持続的でしょうが、其れ故に、表面的には変ったようには見えなくても、内側では激しい攻めぎ遭いが起こっているのであり、この戦いには終わりがありませんが、神様が勝利を「成し遂げるまで、決してあなたを捨てない」のですから、時間の問題であり、勝った、と宣言、確信を持つ事が出来るのです。

その、勝利宣言、神様との出遭いの記念、新たな契約、祝福、誓いの印としての儀式が、28:18 翌朝早く、ヤコブは自分が枕にした石を取り、それを石の柱として立て、その上に油をそそいだ。

石の柱」は、記念の印であり、「油をそそ」ぐ行為は、聖別の印です。

何か神秘的、呪術的な意味合いはなく、アブラハム契約の引継ぎを記念する碑であり、象徴的、儀式に過ぎません。

重要なのは、この儀式、云々にあるのではなく、神様との新しい関係に入った事にあります。

儀式を行なっても、儀式が終わった途端に、神様の事をすっかり忘れてしまうならば、儀式に意味はありません。

儀式は、自己吟味が伴い、儀式以降の意識が変り、生き方が変らなければなりません。

教会では聖餐式が行われますが、「パンと葡萄酒」は象徴であり、食べ、飲む事で救われるのではありません。

聖餐を受けるに当って、信仰を吟味し、神様との関係を修正し、神様の喜ばれる生き方に変らなければならず、其れを期待しての聖餐式であるのと同じです。

28:19 そして、その場所の名をベテルと呼んだ。しかし、その町の名は、以前はルズであった。

先に説明してしまいましたが「ベテル」は「神の家」の意味であり、創世記128節で、アブラハムが祭壇を築いた所と同じ地名であり、133節にも登場します。

アブラハムが神様と出遭った場所と同じ場所と考えられますが、違うと言う説もありますが、場所の問題を云々するよりも、期せずして、アブラハムもヤコブも、同じ名を口にするのであり、この一致に、神様の導き、摂理、業を見る事が出来るのではないでしょうか。

全く違う状況下でありながら、同じ神様と出遭う信仰者は、同じ応答をする不思議さに、神様を頂点とする横並びの信仰者の姿を垣間見る思いです。

このような経緯があって「ベテル」と命名されましたが、以前は「ルズ」であり、「アーモンドの木」の意味であり、「アーモンド」には「見張る」の意味がありますから、「見張る」場が「神の家」になったのであり、何を「見張る」のかと言えば、あなたが歩くのも座るのも、出るのも入るのも、起きるのも寝るのも、働くのも休むのも見ているのであり、監視しているかの如くに思われる場所ですが、実は「神の家」「その入り口」だったのであり、監視、と言う負のイメージよりも、見守っている、と言う理解が最適であり、何とも祝福な改名なのではないでしょうか。

28:20 それからヤコブは誓願を立てて言った。「神が私とともにおられ、私が行くこの旅路を守り、食べるパンと着る着物を賜り、

28:21 無事に父の家に帰らせてくださり、こうして【主】が私の神となられるなら、

28:22 石の柱として立てたこの石は神の家となり、すべてあなたが私に賜る物の十分の一を必ずささげます。」

20節から23節の解釈は、諸説ありますが、取り引きや条件の提示ではありません。

21節の最後の「私の神となられるなら、」は、「私の神となられる。ならば、」と訳す事が可能であり、神様が無条件で選び、無条件で召し、無条件で与えて下さる恵み、祝福が先行して、溢れる感謝の自発で応じるのであり、取り引きや条件でない事は明確になります。

十分の一」は全くの自発であり、律法の規定と同じ率でありながら、意味するところは全く違います。

ささげます」はお礼ではない事が明白です。

律法の規定は義務ですが、義務と同じ率でありながら、感謝で献げるので、律法を凌駕してしまうのです。

献げモノは、多寡の問題ではなく、心の問題であり、喜んで献げるか、嫌々ながら献げるか、なのです。

神様の無条件の選び、無条件の召し、無条件の恵みと祝福に、最大限の応答を献げたいものです。

【適応】

ヤコブの自発の「すべてあなたが私に賜る物の十分の一」には、神様と出遭った者の喜びと感謝が込められていますから、最大限の喜びと感謝を込めながら、最大限、目一杯を献げるのであり、それは同時に、最低限でもあります。

ヤコブは、穀物類の収穫、家畜の収穫の、すべての十分の一を神様に献げると約束しました。

収穫の全てには、来年蒔く種も含み、租税や貢も含みます。

100kgの収穫を得たならば、10kgを神様に献げます。

残りの90kgから、来年蒔く分を残し、租税や貢を納めます。

決して、来年蒔く分や、租税や貢を差し引いた、残りの十分の一ではありません。

本業から得る収穫のみならず、臨時の収穫、副業の収入に対しても十分の一を神様に献げます。

当時は、自給自足が基本でしたから、単純であり、明快でしたが、現代は、社会全体が複雑になっていますので、すべての十分の一は、単純な話しではなくなってきました。

しかし、基本は、すべての十分の一、であり、あらゆる手段、名目で得た収入が対象であり、何も差し引きしていない収入の、十分の一を神様に献げます。

サラリーマンであるならば、基本給、扶養手当、諸手当、残業給などの合計の十分の一であり、ボーナスも、何も差し引いてない額の十分の一を献げます。

自営業であるならば、企業活動部分と、給料部分を明確に別ける必要があるでしょう。

企業活動は、立替部分が大きく、借金で操業していますから、それを含んでしまっては実情に合わない事になってしまいます。

後は、サラリーマンと同じです。

年金の扱いも単純ではありません。

自身で積みたてた部分があり、互助の部分があるからですが、十分の一を献げられたならば、何より神様が喜ばれるのではないでしょうか。

神様に信頼する者を、神様が見捨てる訳はありません。

ここで、間違えてならないのは、すべての十分の一を献げる行為は、自発であると同時に、義務である事と、感謝が出発点である、すべての十分の一を献げる事は、祝福を受ける基である、と言う事です。

すべての十分の一を献げる事は、簡単な事ではありません。

余裕がある訳ではないし、苦しい家計を遣り繰りしているのであり、あれば献げますよ、かも知れませんが、罪を赦され、義と見做され、救われ、天に招かれた特権を覚えるなら、ヤコブのように応答せざるを得ないのではないでしょうか。

また、この世のモノを握り締めていたならば、天来の祝福を掴む事が出来ないのではないでしょうか。

この世のモノを手放してこそ、天来の祝福を掴む事が出来るのです。

天来の祝福は、概念的なモノではありません。

天で祝福を受け、この世でも祝福を受けます。

金銭的な祝福の場合もありましょうし、金銭的でない祝福もありますが、天来の祝福を受ける秘訣は、地上のモノを手放す事です。

地上のモノに執着していては、天来のモノを見逃し、手に入れ事は出来ません。

最後に、十分の一は、教会活動を支えるための目的で献げるモノではありません。

具体的には、牧師を支え、教会を維持するために献げるのではありません。

この考えは逆であり、危険です。

結果として教会の活動を支え、牧師の生活を支え、教会維持のためですが、教会の必要で献げるのではなく、必要であろうとなかろうと献げるのであり、まあまあ、教会会計は厳しくないから、今は生活が厳しいから、少なめにしてもいいかな、必要な時に献げればいいかな、ではありません。

自発であり、義務であり、感謝であり、喜んですべての十分の一を献げるのです。

献身の現れとして、すべての十分の一を献げるのです。

神様は試しておられ、見ておられます。

教会会計に余裕がある時、皆さんがどんな思いで、十分の一やその他の献金を献げているか。

教会会計が厳しい時、皆さんがどんな思いで、十分の一やその他の献金を献げているか。

家計に余裕がある時、皆さんがどんな思いで、十分の一やその他の献金を献げているか。

家計が厳しい時、皆さんがどんな思いで、十分の一やその他の献金を献げているか。

十分の一やその他の献金は、信仰のバロメーターであり、何に重きを置いているかがはっきりします。

神様の祝福に与った者として、喜んで、出来る限りの献げモノが出来るようにお祈り致します。

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