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聖書個所:イザヤ書9:17                   2016-12-25礼拝

説教題:「預言者イザヤの見たリアルな幻」

【導入】

クリスマス、おめでとうございます。

主イエス様のご降誕を記念して、共に礼拝を献げられる事を感謝し、主の御名を讃美致します。

「クリスマス」と言うのは「キリスト」と「ミサ」の合成語であり、「キリスト」は言わずもがな、イエス様の事であり、「ミサ」と言うのは、礼拝の事です。

ですから、クリスマスイブ、そしてクリスマスは、イエス様を礼拝するのが、真の目的でなければなりません。

午後の祝会は、おまけであり、プレゼントも、おまけであり、あっても良いけれども、無くてならないモノではありません。

イエス様のお誕生をお祝いするクリスマスイブ、クリスマスですが、何故、イエス様のお誕生がそんなにおめでたい事なのでしょうか。

それはイエス様が神様でありながら、罪深い私たちのためにこの世に来てくださったからであり、一緒に居てくださったからなのです。

さて、皆様は死んだ後、どうなるかを考えた事があるでしょうか。

人間は「死んでお終い」ではありません。

死んだ後、全ての人は、神様の前に立たされて、その生涯に行なってきた事、喋った事について、申し開きをしなければなりません。

神様に背き、自分勝手な行ないをして来た者は、永遠に燃えつづける火の中に投げ込まれるのですが、神様に背き、自分勝手な行ないをしている者とは、他でもない私たち自身なのです。

この言葉を聴くと、大方の方は「そんなに悪い事をした覚えはないなぁ」と考えられると思いますが、本当に今まで、何一つ悪い事はして無い、相応しくない思いを抱いた事も無いと言い切れるでしょうか。

この事を考える前に、確認したい事があります。

天国にはどうしたら入れるか、です。

世の中の多くの仕組みは加点方式か、減点方式であり、宗教にも、その考え方が浸透しています。

何か良い事をすると1点2点と加算されて行き、何か悪い事をすると12点と減点されます。

ですから良いと言われる事を熱心に行なうのですが、自分が今、何点なのかは判りませんから、示されていませんから安心出来ません。

キリスト教のもとであるユダヤ教や、イスラム教も同じであり、律法を守る事に、非常に熱心であり、涙ぐましい努力をしていますが、これでOKと言う安心が得られる事はありません。

100点満点で天国に入れるのですが、この100点満点を「義」と言うのですが、天国は「義」である人しか入れないのです。

先ほど「自分はそんなに悪い事をした覚えはないなぁ」と考えられた方も、何点かは減点されそうな事をした覚えがある事を否定できないでしょう。

この減点を埋め合わせるにはどうしたらよいのでしょうか。

生贄、献げ物、良い行い・・・ets

でも、埋め合わせのタイミングを逃せば、天国には入れません。

加点方式でも、減点方式でも、安心出来る訳ではない、となれば夢も希望も無くなりますが、現代でも、イザヤの活躍した紀元前700年も、それは変らない様です。

イザヤと言う人物はユダヤ人です。

イザヤの活躍した時代の遥か前に、ユダヤは北イスラエル王国と南ユダ王国に分裂していました。

神様に背いて偶像礼拝をし、自分勝手な事をしてきた裁きなのですが、ユダヤ人は真の意味で悔い改める事をしませんでした。

その結果、北イスラエル王国はアッシリア帝国によって滅亡させられる事になります。

南ユダ王国も風前の灯火となり、貢を納めたり、ご機嫌伺いをしながら、辛うじて滅ぼされるのを免れてはいますが、滅びは確実。

神様は何人もの預言者を送って、悔い改めを迫るのですが、誰も神様の遣わした預言者の言葉に耳を傾ける事をせず、悔い改める事をせず、自分たちの知恵と力で滅びから免れ様としている。

即ち、良い行ないによって「義」を得ようと涙ぐましい努力をし、安心を得られず、ますます、規則を増やし、言い伝えを守る事に血眼になっている。

そんな状況の中で、イザヤは北イスラエル王国の滅亡と共に、希望である光、救い主の誕生を預言するのです。

【本論】

9:1 しかし、苦しみのあった所に、やみがなくなる。先にはゼブルンの地とナフタリの地は、はずかしめを受けたが、後には海沿いの道、ヨルダン川のかなた、異邦人のガリラヤは光栄を受けた。

この預言が語られた時点で、北イスラエル王国は、アッシリア帝国から非常な脅威を受けてはいたでしょうが、まだ滅ぼされてはいません。

攻め込まれてもいませんでしたが、蹂躙され、民が捕囚となる事を預言しているのです。

ゼブルンの地」とは地中海に接し、シャロンの平野に接し、ナフタリの南西に位置している土地であり、「ナフタリの地」とはレバノンの麓から、ガリラヤ湖の北、北ヨルダンに及ぶ広大な地であり、北イスラエル王国を象徴する土地であり、アッシリア帝国から見たならば、「ゼブルンの地」「ナフタリの地」は、西の果てであり、非常に遠い土地であり、ここまでは攻めては来ないだろうとの安心や油断があった。

しかし、そんな予想を裏切る事が起こるのであり、攻め込まれ、滅ぼされ、支配され、捕囚の憂き目を味わう事になると、断定的な預言をするのです。

まだ起こってはいない事なのに、既に起こった事のように過去形を使用して、確信的表現法でもって、明確に預言をします。

しかし、この屈辱も、支配も、永遠に続く事ではなく、終わりが来るのであり、回復がある事を、これも、まだ起こってはいない事なのに、既に起こった事のように過去形を使用して、確信的表現法でもって、明確に預言をします。

海沿いの道、ヨルダン川のかなた、異邦人のガリラヤ」は、「ドル、ギルアデ、メギド」と考えられ、ゼブルンの南に点在する都市、地域であり、アッシリア帝国直轄の地域となり、

ゼブルン、ナフタリの住民は、この3つの都市、地域に移住させられます。

屈辱と塗炭の苦しみを味わい、夢も希望もない日々を送る事を確定的に預言しますが、同時に、「光栄を受け」る事になる事も、確定的に預言します。

9:2 やみの中を歩んでいた民は、大きな光を見た。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光を見た。

やみの中」「死の陰の地」との表現は、アッシリア帝国に占領された後の、悲惨な状況を現しています。

アッシリア帝国のティグラテ・ピレセル王の冷酷さ、無慈悲な支配、泣く子も黙る恐ろしさはゼブルンの地、ナフタリの地にも伝わっていたのでしょう。

これが、杞憂ではなく、確実にやって来ると、イザヤは確定的に預言するのですが、しかし、同時に「光を見た」のであり、更には、

9:3 あなたはその国民をふやし、その喜びを増し加えられた。彼らは刈り入れ時に喜ぶように、分捕り物を分けるときに楽しむように、あなたの御前で喜んだ。

この「増し加えられた」「喜んだ」は完了形で表現されており、確信の強さをイザヤは語ります。

イザヤの見た幻は、ぼんやりとしたモノではなく、希望的予想でもなく、はっきりと見たのであり、見間違いようのない確実な事である事を表現しているのです。

4節、5節、6節の先頭には「キー」と言う接続詞、多くは「何故ならば、~なので」と訳される接続詞があり、4節、5節、6節が、3節に繋がっている事、3節の「喜んだ」説明、理由である事を読者に教えています。

何故喜んだのか。何故ならば、

9:4 あなたが彼の重荷のくびきと、肩のむち、彼をしいたげる者の杖を、ミデヤンの日になされたように粉々に砕かれたからだ。

9:5 戦場ではいたすべてのくつ、血にまみれた着物は、焼かれて、火のえじきとなる。

神様が、アッシリア帝国の支配から開放してくださるのであり、ティグラテ・ピレセルの圧制が取り除かれるのは、ティグラテ・ピレセルの温情、恩赦でもなければ、アッシリア帝国の崩壊でもなく、神様の業である事を示し、告白しているのです。

ミデヤンの日」とは、ユダヤ人ならば、誰もが思い描く事の出来る史実であり、士師記7章に記されている史実です。

要約するならば、若いギデオンが32000人の内から、300人を選び、ミデヤンの兵士135000人を撃破した日の事です。

ギデオンの選んだ300人は、一騎当千の強者ではありません。

寄せ集めの、素人集団であり、壷を割り、松明(たいまつ)を掲げ、雄叫びを挙げただけです。

ギデオンに、人間の知恵と力に頼ってはならない事を教え、神様のことばを信じるなら、神様の力により頼むなら、勝利を得る事が出来る事を教えられました。

支配、圧制からの開放と言うものは、神様の業であり、悪しき支配者、圧制者への裁きもまた、神様の業であり、神様の裁きの器として用いられたアッシリアも、ティグラテ・ピレセルも、分を弁えず、過酷な支配、圧制を強いるなら、神様の裁きがある事を教える逸話です。

ここまでは、偶像礼拝の結果、虐げを受ける事の預言と、神様の憐れみによって、支配と圧制から回復する事の預言です。

これはこれで、素晴らしい事なのですが、ここで終わらないのが、ここに留まらないのが、神様の恵みの大きさ、神様の素晴らしさです。

9:6 ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。

生まれる」「与えられる」「肩にあり」「呼ばれる」は将来起こる事を預言する言葉として読めますが、

全て完了形が使われており、「生まれた」「与えられた」「肩にあった」「呼ばれた」であり、確実性を示すと同時に、神様の主権で行なわれる事、神様のご計画である事を暗示します。

5節までに述べた、闇から光へ移される事は、争いから平和へ招き入れられる事は、神様の一方的な働きであり、それが「ひとりのみどりご」「ひとりの男の子」によって、もたらされるとイザヤは断言するのです。

「名は、体を現す」と申しますが、「ひとりのみどりご」「ひとりの男の子」の特筆すべき特徴が語られます。

不思議な助言者」を、新共同訳聖書は「驚くべき指導者」と訳し、口語訳聖書は「霊妙なる議士」と訳します。

どんなに優秀な王様、有能な主権者でも、助言者、参謀が必要であり、助言をし、苦言を呈し、正しい政治が行なわれるようにするブレーンが必要です。

しかし、「ひとりのみどりご」「ひとりの男の子」は優秀な王様であり、有能な主権者であり、一切の助言者、参謀を必要とはしませんが、ご自身が優秀な助言者、有能な参謀でもあり、ご自身で自身をサポート出来るし、助けを必要とする者に、即ち、私たち罪人に、最適なサポートをする事が出来るお方だ、と宣言するのです。

力ある神」は、「ひとりのみどりご」「ひとりの男の子」が神である事を宣言しますが、「神」を現す単語、言葉は幾つかあります。

「ヤァウェ」「アドーナーイ」「エローヒーム」などであり、其々「」「主、神、主人」「神」などと訳出しますが、ここでは「エール」であり、「イスラエル」「サムエル」「ダニエル」などの「エル」に該当し、一般的な「エローヒームの神」ではなく、「エールの神」である事を宣言します。

八百万の神を、「神」の一言で纏めてしまう文化の日本では区別し難い概念ですが、ユダヤ人には、歴然とした明確な違いがあり、細心の注意を払って、使い分けています。

永遠の父」の「永遠」は、時間の無限の延長を指し、歴史を超え、終末をも含み込む、父権の永続性を宣言します。

平和の君」の「平和」は「シャローム」であり、単に争いがない状態に限定せず、健康、平安、健全、安全、欠けるところのない十全性を示しています。

現代風に言い替えるならば、健康的で、人権が守られ、搾取されず、差別されず、個が尊重される状態と言えるでしょう。

その「平和」を成立させるのが「ひとりのみどりご」「ひとりの男の子」だと言うのです。

ひとりのみどりご」「ひとりの男の子」がこの世に来られると、神様との間に「平和、シャローム」が成立します。

すると、人と人との間に「平和、シャローム」が成立し、人を恐れる必要がなくなり、人と人との間に争い、競争、戦い、主権争いがなくなります。

個々人の生活に「平和、シャローム」が成立し、個人の内に、妬(ねた)み、恨(うら)みがなくなり、自己を肯定的に見る事が出来、これで良いんだ、このままで良いんだ、誰とも比べなくて良いんだ、と自分を受け入れる事になります。

現実を見たならば、その延長線上に、このような平和を描く事は難しい事であり、人間の努力での実現は難しい事ですが、神様が「平和、シャローム」をもたらし、神様のイニシチアブで、同時進行的に人と人との間に、個々人の内に「平和、シャローム」が浸透して行くのです。

9:7 その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に着いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これをささえる。今より、とこしえまで。万軍の【主】の熱心がこれを成し遂げる。

熱心」は通常「妬(ねた)み」と訳されますが、人間に対する関心の現れの最上級、最強調の表現と理解すると良いでしょう。

決して、人間的な、どろどろした、陰湿な妬みを連想してはなりません。

そんな感情は、神様に相応しくありませんし、神様がそんな感情を持たれる事はありません。

神様は「妬」む程に、人間を愛し、愛しんでおられるのであり、恋焦がれている、と言っても良いのかも知れません。

「熱心」の反対は「無関心」でしょうが、人間がどんなに堕落しても、偶像に走っても、争いが絶えなくても、無関心ではいられないのであり、滅びて行くのを眺めてはいられないのであり、関心を持たずには、手を差し伸べずにはいられないのです。

何とかして救おうと手立てを考え、歴史の出来事を通して、神様の存在を知らせ、神様が人間に関心を持っており、関わり続けている事を知らせ続けているのであり、イザヤを通して、現代の私たちにも教えて下さっているのです。

【適応】

イザヤはリアルな幻を目撃し、それを記録し、私たちはイザヤの証言によって、神様のご計画の全貌を知る事が出来ました。

神様が私たち人間に関心を持ち、イエス様をこの世に送り、直接関わってくださった。

平和が実現し、希望に溢れる世界が到来した………はずですが、しかし、私たちの廻りを見回せば、イザヤの時代のように、近隣諸国との緊張は高まり、領土問題に進展の気配はなく、解決の糸口さえも見えないような状態であり、富みや権力は一極化し、貧富は極端な偏りを見せ、格差は広がり、世界中でテロや紛争が起こり、絶え間のない争いが続いて、民衆の間には閉塞感、絶望が蔓延している。

原発事故に終息の兆しは全く見えない。当然、故郷に帰る時期も不明、生活再建の目処も立たない。

私たち自身を見ても、雇用問題も、老後の問題も、社会保障も、お寒い限りであり、大人の閉塞感が、子どもに影響し、暗い陰を落としている、

将来に不安は山済みであり、希望を持てない社会ですが、神の御子、イエス様が来られた事で、大きく変わりました。


神様が、この世をご覧になり、心を痛め、この世を憐れまれ、大切な御子をこの世に送られたのです。

イザヤが見た幻が実現した世界に、私たちは生かされているのです。

現実に、苦しみはなくならず、闇は取り除かれず、辱めも取り除かれず、死も打ち破られてはいませんが、神様に見捨てられてはいないのです、神様が大きな関心を持ち続けておられるのです。

凡そ2700年前に、イザヤが見た幻は、凡そ2000年前に現実となり、イエス様が来られ、幻の一部が実現しました。

更に、将来、イエス様が再臨され、完全な神の国の到来と、イエス様が支配される世界の様子をイザヤに見せたのであり、イザヤは証言し、私たちに伝えているのです。

一度、光りが来られ、天に昇られましたが、神の国の完成が頓挫したのでも、延期されたのでもありません。

イエス様が来られた事で、神の国は、私たちの内に造られたのであり、委ねられたのでありそして、今、刻一刻と、イエス様、再臨の日が近づき、神の国の完成が近づいているのです。

再び、光が来、光が留まり、光に満たされ、光に包まれる日が来るのです。

その日は、遠くありません。

ここに居られる皆様は、神の国を内に宿す器とされているのですから、イザヤが困難や苦しみの中でも、イエス様の幻を見て確信し、喜んだように、私たちも、困難や苦しみの中でも、聖書に記された、再臨を確信して喜び、イエス様の再臨を待ち望み、神様を誉め称え、与えられた使命に取り組み、平安と慰めを世に届ける者、救いの私信を届ける者として歩もうではありませんか。

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聖書個所 マタイ1116                   2016-12-18礼拝

説教題「救い主の系図」

【導入】

聖書には系図が出て来ます。系図という物は、ユダヤ人に取って重要な物であり、特に祭司の系図は重要視されて来ました。

それは、神様に仕える働きが特別な働きであり、アロンの子孫にしか許されてはいない働きだったからです。

また、パレスチナはイスラエル人に分割されていますが、土地は神様からイスラエル12部族に委ねられている物であるため、12部族の系図に載っている事が重要であったからでもあるのです。

新約聖書ではマタイの福音書とルカの福音書にイエス・キリストの系図が出て来ます。

旧約聖書にも多くの系図が出て来ますが、その特徴はルカによる福音書と同じく、男性中心である、と言う事です。

つい最近まで、ほとんどの世界は男性を中心としていました。

ユダヤ社会も例外ではありません。

そのユダヤ人男性中心社会の中で、ユダヤ人を読み手として書かれたとされる、マタイの福音書のイエス・キリストの系図に、4人の女性が登場すると言う事は特異な事なのです。

しかも、登場する女性はちょっとした、いや、かなり大きな問題を抱えた女性たちなのです。

今日は、聖書に登場し、しかも重要な位置を占める4人の女性から、神様が何を私たちに伝えたいのかを学びたいと思います。

【本論】

1:1 アブラハムの子孫、ダビデの子孫、イエス・キリストの系図。

1:2 アブラハムにイサクが生まれ、イサクにヤコブが生まれ、ヤコブにユダとその兄弟たちが生まれ、

1:3 ユダに、タマルによってパレスとザラが生まれ、パレスにエスロンが生まれ、エスロンにアラムが生まれ、

最初に登場するのが、3節に出て来るタマルです。タマルは創世記38章で登場します。

アブラハムの子イサク、イサクの子ヤコブには12人の息子があり、その一人であるユダには三人の息子がありました。エルとオナンとシェラです。

この長男エルに迎えた嫁がタマルなのですが、エルは何をしたのかは判りませんがが、神様を怒らせたので、エルは神様に殺されてしまいます。

ユダヤ社会では長男が子ども、子どもと言っても男性社会ですから「男の子」の事ですが、「男の子」を残さないで死ぬと、神様から委ねられた土地を管理する者が絶える事を意味しますので、弟たちは長男の名前と血筋を残す為に兄嫁と結婚しなければなりませんでした。これを、「レビラート婚」と言いモーセの律法の一節にある教えです。

申命記255節から10節に記されています。

25:5 兄弟がいっしょに住んでいて、そのうちのひとりが死に、彼に子がない場合、死んだ者の妻は、家族以外のよそ者にとついではならない。その夫の兄弟がその女のところに、はいり、これをめとって妻とし、夫の兄弟としての義務を果たさなければならない。

25:6 そして彼女が産む初めの男の子に、死んだ兄弟の名を継がせ、その名がイスラエルから消し去られないようにしなければならない。

ユダヤ人に与えられた命令ですが、どうしても従いたくない時には、逃れの手段もあるのですが、それは屈辱的な決まりであり、それを甘んじて受けなければなりませんでした。

25:7 しかし、もしその人が兄弟の、やもめになった妻をめとりたくない場合は、その兄弟のやもめになった妻は、町の門の長老たちのところに行って言わなければならない。「私の夫の兄弟は、自分の兄弟のためにその名をイスラエルのうちに残そうとはせず、夫の兄弟としての義務を私に果たそうとしません。」

25:8 町の長老たちは彼を呼び寄せ、彼に告げなさい。もし、彼が、「私は彼女をめとりたくない。」と言い張るなら、

25:9 その兄弟のやもめになった妻は、長老たちの目の前で、彼に近寄り、彼の足からくつを脱がせ、彼の顔につばきして、彼に答えて言わなければならない。「兄弟の家を立てない男は、このようにされる。」

25:10 彼の名は、イスラエルの中で、「くつを脱がされた者の家」と呼ばれる。

次男のオナンはこの「レビラート婚」の教えに従わず、兄嫁と形だけは結婚しましたが、夫婦の務めを間違った形で否定した為、神様の怒りを引き起こし、結果、次男のオナンも神様に殺されてしまいます。

大切な跡取り息子を二人も殺されてしまったユダは、三男のシェラまで殺されてはたまらないと考え、シェラが幼いのを幸いに、シェラが成人するまでと、言い含めて、嫁のタマルを実家に帰してしまいます。

月日が流れ、シェラは成長し、結婚する年齢に達しても、一向にタマルをシェラの嫁に迎える気配がない事を知ったタマルは一計を案じて、遊女の身なりをして、ユダを誘惑して、ユダの子を身ごもる事になるのです。

詳しい事は創世記の38章を読んで頂きたいのですが、このユダと、義理の娘タマルとが関係を持って生まれた子どもが、パレスとザラであり、イエス・キリストの系図に記録されている訳なのです。

1:4 アラムにアミナダブが生まれ、アミナダブにナアソンが生まれ、ナアソンにサルモンが生まれ、

1:5 サルモンに、ラハブによってボアズが生まれ、ボアズに、ルツによってオベデが 生まれ、オベデにエッサイが生まれ、

次ぎに出て来るのが、5節で登場するラハブとルツです。

ラハブはヨシュア記2章で登場します。エリコに住むカナン人、言い方を変えると異邦人であり、神様の命令によって滅ぼさなければならない人でした。

しかも、その職業は売春婦であり、神様の忌み嫌う職業であったのですが、ヨシュアのエリコ攻略を助けて、交換条件で自分たちの命を助けてもらい、ユダヤ人の中に住む事を許されました。そして、ユダヤ人の社会に加わり、ユダヤ人と結婚してボアズを生む事になります。このボアズはルツ記に出て来る、あのボアズです。

そして、5節のルツはこのルツ記の主人公ルツなのです。

ルツはモアブ人であると、ルツ記に記されていますが、このモアブ人と言うのがまた曰くのある民なのです。

モアブ人が登場するのは創世記1937節です。

19:31 そうこうするうちに、姉は妹に言った。「お父さんは年をとっています。この地には、この世のならわしのように、私たちのところに来る男の人などいません。

19:32 さあ、お父さんに酒を飲ませ、いっしょに寝て、お父さんによって子孫を残しましょう。」

19:33 その夜、彼女たちは父親に酒を飲ませ、姉がはいって行き、父と寝た。ロトは彼女が寝たのも、起きたのも知らなかった。

19:34 その翌日、姉は妹に言った。「ご覧。私は昨夜、お父さんと寝ました。今夜もまた、お父さんに酒を飲ませましょう。そして、あなたが行って、いっしょに寝なさい。そうして、私たちはお父さんによって、子孫を残しましょう。」

19:35 その夜もまた、彼女たちは父に酒を飲ませ、妹が行って、いっしょに寝た。ロトは彼女が寝たのも、起きたのも知らなかった。

19:36 こうして、ロトのふたりの娘は、父によってみごもった。

19:37 姉は男の子を産んで、その子をモアブと名づけた。彼は今日のモアブ人の先祖である。

モアブと言うのは、アブラハムの甥のロトと、ロトの実の娘との間に生まれた子どもなのです。

更に、申命記233節には「アモン人とモアブ人は主の集会に加わってはならない。その十代目の子孫さえ、決して、主の集会に、はいることはできない。」と規定されています。

このモアブの子孫がルツであり、このルツが、イエス・キリストの系図に記録されているのです。

最後が6節に登場するウリヤの妻です。

1:6 エッサイにダビデ王が生まれた。ダビデに、ウリヤの妻によってソロモンが生まれ、

1:7 ソロモンにレハベアムが生まれ、レハベアムにアビヤが生まれ、アビヤにアサが生まれ、

と、イエス様がダビデの子孫としてお生まれになった事が綴られます。

ウリヤの妻と言ってもピンと来ないかも知れませんが、バテ・シェバと言えば、ああ、と思い出されるでしょう。

第二サムエル11章に登場します。

11:1 年が改まり、王たちが出陣するころ、ダビデは、ヨアブと自分の家来たちとイスラエルの全軍とを戦いに出した。彼らはアモン人を滅ぼし、ラバを包囲した。しかしダビデはエルサレムにとどまっていた。

11:2 ある夕暮れ時、ダビデは床から起き上がり、王宮の屋上を歩いていると、ひとりの女が、からだを洗っているのが屋上から見えた。その女は非常に美しかった。

11:3 ダビデは人をやって、その女について調べたところ、「あれはヘテ人ウリヤの妻で、エリアムの娘バテ・シェバではありませんか。」との報告を受けた。

11:4 ダビデは使いの者をやって、その女を召し入れた。女が彼のところに来たので、彼はその女と寝た。・・その女は月のものの汚れをきよめていた。・・それから女は自分の家へ帰った。

11:5 女はみごもったので、ダビデに人をやって、告げて言った。「私はみごもりました。」

ダビデはバテ・シェバを見初め、人妻と知らされたのに、敢えて召し入れてしまいます

妊娠した事が判ると、計略を持って、夫のウリヤを殺してしまいます。

11:14 朝になって、ダビデはヨアブに手紙を書き、ウリヤに持たせた。

11:15 その手紙にはこう書かれてあった。「ウリヤを激戦の真正面に出し、彼を残してあなたがたは退き、彼が打たれて死ぬようにせよ。」

言い訳し様の無い、姦淫と、計画的殺人が行われたのです。

普通考えるならば、由緒正しい、清廉潔白な家系図を残したいところです。

それなのに、義理の娘との近親相姦。異邦人の売春婦との結婚。本当の親子の間での、近親相姦で生まれた子孫との結婚。そして、人妻との姦淫によって産まれた、と記されているのです。

儒教の影響を強く受けている、韓国や日本で無くとも、忌まわしい系図と言えるでしょう。日本では家系図は重要視されていませんが、韓国では結婚を前提としたお付き合いが始ると、まず、双方の家系図を確認し、親戚関係にない事を確認するそうですから、この辺の感覚は、韓国の方のほうが良く理解出来るのではないでしょうか。

非の打ち所のない系図を残し、伝えたい、と思うのが人情なのではないでしょうか。

ましてや救い主の系図なのですから。

それなのに、神の御子イエス・キリストの系図に、これらの忌まわしいとも言える歴史が記されているのです。

【適応】

4人の女性の名前は、神の御子イエス・キリストの系図には相応しくない、とも言えますが、この系図は、私たち罪人の人生の縮図とも言え、私たち罪人にこそ相応しい系図と言えるのではないでしょうか。誇れない生い立ち、隠しておきたい過去。

比べて神の子を紹介する系図に、忌まわしい歴史と過去が記されている。

その意味は何でしょうか。

聖い神の御子が、汚れに満ちた、忌まわしい家系に生まれて下さったのは、救い主が、純粋なユダヤ人だけでなく、罪人にも異邦人にも、

即ち、罪に汚れた私たちの中に入って下さった事、関りを持って下さった事を現しています。

この系図は私たちに希望と慰めを与えてくれます。

神様はアブラハムとの契約で、アブラハムを世界の祝福の基とされました。

「地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」と言う約束です。

この契約がアブラハムの純粋で正統な血統、正しく生きて来た者だけに適用されるのでしたら、私たちに祝福が及ぶ余地はなかったでしょう。

しかし、イエス・キリストの系図はアブラハムの子孫のみならず、罪人、異邦人をその系図の中に取り込んで、罪人、異邦人に祝福を与える事を示しているのです。

聖霊によって処女(おとめ)マリヤからお生まれになった神の御子が、ユダヤ人のみならず、罪人、異邦人を招き入れた事を明確に現しているのです。

系図と訳されている言葉は、ギリシャ語で「 Bivblo" genevsew" ビブロス・ゲネセオース」と言い、「創造の経緯・記録」を意味する言葉です。

「ゲネセオース(属格)」の主格は「ゲネシス」で、創世記のタイトルになっています。

つまり、マタイの福音書の書き出しは、創造の経緯を現す事から始っており、イエス・キリストの誕生は、天と地の創造に匹敵する、新しい創造である事を物語っているのです。

イエス・キリストの誕生は、新しい創造、新しい歴史の始まりなのです。

罪と汚れの歴史の中に、神様のご介入があって、罪と汚れの問題を解決した新しい歴史が始ったのです。

イエス・キリストによって新しい世界が始まりました。

イエス様は、ヨハネ1930節に記されているように「完了した。」と言われて、霊をお渡しになったのですが、イエス・キリストの死によって、神様のご計画は完了・完成したのです。

神様のご計画はイエス・キリストの死によって私たちの罪を赦すというものです。

ですから、罪を赦された私たちは、罪も汚れもない新しい世界に入れられているのです。

現実を見渡すと、相変わらず罪も犯してしまうし、とても聖い生活とは言えません。

悪が蔓延り、神の国はどこにあるのかと考えざるを得ません。

しかし、イエス様は「神の国は『そら、ここにある。』とか、『あそこにある。』とか言えるようなものではありません。いいですか。神の国は、あなたがたのただ中にあるのです。」と、ルカの福音書1721節で教えておられます。

神の国は私たちのただ中にある、と言うのです。

神の国はこことか、あそこなどと限定されるのもではありません。

神の御心が行なわれているところが神の国なのです。

イエス様は天に昇り、聖霊様を私たちの内に送って下さいました。

私たちは聖霊の住む宮になっているのです。

そして私たちが神様の御心を行なう事が出来るように助けてくださるのです。

神の国は私たちの内にあって、私たちが神様の御心を行なって、神の国を実現して行くのです。

神様の「アブラハムによって地上のすべての民族を祝福する」と言うご計画は、どのような罪深い事が起っても、変更される事なく、イエス・キリストが誕生する事によって成就しました。

私たちに対する聖霊を送ると言う約束も、イエス様が天に昇られて、実現しました。

マタイの福音書の最後のことばは「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」と言うものですが、

イエス様から聖霊を頂いた私たちは、いつもイエス様と共にいて、霊とまことをもって、父なる神を礼拝し続ける事が出来るのです。

イエス様のご降誕を待ち望んだのはユダヤ人の一部かも知れませんが、イエス様は全ての人の為に来られたのであり、神様は全ての人を救う為にイエス様をこの世に送られたのです。

救い主の系図は、異邦人、罪人が招かれ組み入れられている事の確証、保証を与える系図です。

私たちの名前が直接記されてはいませんが、タマルは、ラハブは、ルツは、ウリヤの妻は私たちの事であり、神様の救いのご計画に私たちも招かれ組み入れられている事を教えているのです。

どうぞ、この招きに応答して、神様の祝福を受け取って下さい。

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聖書個所:創世記29:3135                   2016-12-11礼拝

説教題:「困難、苦しみを経て、神様を誉め称える者へ」

【導入】

牧畜と言う仕事は、一見、長閑(のどか)に見えますが、実は相当過酷な仕事のようです。

何しろ、相手が動物ですから、飼い主の命令通りに動いてはくれません。

特に羊は目が悪いそうで、草を食み続ける事しか出来ず、周囲に気を廻す事が出来ず、周囲の状況に無頓着で、自分が何処に居るのかさえも判らなくなるそうです。

身を守る角もなく、鋭い爪も、牙もなく、足は遅く、臆病で、野獣に襲われたならば一たまりもありませんから、四六時中見守ってあげなければなりません。

そんな手間暇の掛る羊を草原に連れて行き、泉に連れて行き、休ませるに相応しい安全な場所を探すのは、並大抵の苦労ではありません。

ヤコブは、そんな過酷な重労働を買って出て、七年も我慢して、やっとラケルを手に入れ、夫婦となったかと思ったならば、何と、ラケルではなくレアであり、叔父のラバンにまんまと騙された事に気付くのですが、婚礼を始めたからには、レアを妻としてしまったからには、取り消す訳にも行かず、ラバンの提案を受け入れるしかなく、更に七年の重労働と引き換えにラケルを妻とする事を得たのでした。

29:30 ヤコブはこうして、ラケルのところにも入った。ヤコブはレアよりも、実はラケルを愛していた。それで、もう七年間ラバンに仕えた。

愛するラケルを妻とする事が出来たのは、幸いですが、一つの家庭に、妻が二人も居る、と言うのは、不自然な事であり、不自然と言うだけではなく、何より、神様の喜ばれる事ではありません。

神様の決められた、夫婦の在り様は、創世記224節に記されている通りに、

2:24 それゆえ、男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となるのである」です。

レアと結婚した事は、ヤコブの本意ではなかったにしても、レアと一体になってしまったのであり、そこにラケルを加える事は、神様を哀しませる事であり、関係者は、ヤコブも、レアも、ラケルも、そしてラバンも、其々に、神様のお取り扱いを受け、整えられて、神様を知る者、神様を恐れる者、神様を敬う者、神様を誉め称える者へと変えられて行くのです。

ラバンはヤコブを少しでも長く、自分の手元に置き、自分に仕えさせ、働かせるために、先ず、レアと結婚させ、それからラケルを与えたのです。

レアはラバンの策略の犠牲と言えるのですが、神様のご計画は、救い主に繋がる系図はレアに始まる事が明らかにされて行くのが、今日のテキストの個所なのです。

【本論】

29:31 【主】はレアがきらわれているのをご覧になって、彼女の胎を開かれた。しかしラケルは不妊の女であった。

きらわれている」とは、穏やかな訳ではありませんが、原語のヘブル語の意味は「憎まれている」であり、新共同訳聖書では「疎んじられている」と訳しています。

ヤコブの立場に立って考えたならば、状況を考えたならば、全く求めていなかった、意中の人ではなかったレアを与えられたが故に、ヤコブの鬱屈した心情、冷ややかな態度をとってしまった状況を現してはおりましょうが、積極的な「憎しみ」ではなく、「疎んじられ」が適切な状況表現であり、訳と言えるでしょう。

レアの悲しみ、ラケルのように愛されない苦しみを現しており、ラバンの策略故の、レアの協力故の結果であり、自業自得と言えないでもありませんが、神様はこの状況をどのように「ご覧にな」られたのでしょうか。思われたのでしょうか。

ヤコブとレア、ヤコブとラケル、レアとラケルとの状況をご覧になられ、レアの置かれた状況を憐れみ、子を宿し、子を産む事で慰めを与えられ、励ましを与え、神様に覚えられている存在である事を悟らせられます。

一方の、ヤコブに愛されているラケルに対して、神様は「不妊」と言う形でラケルに訓練を与えられます。

不妊の女であった」はとても断定的、確定的な言葉であり、妊娠の可能性を否定する言葉であり、女性に対して、配慮の無さ過ぎる言葉ですが、

背後で神様が働かれている事を暗示させる、新共同訳聖書の「子どもができなかった」、口語訳聖書の「みごもらなかった」との訳し方の方が適当かと思います。

29:32 レアはみごもって、男の子を産み、その子をルベンと名づけた。それは彼女が、「【主】が私の悩みをご覧になった。今こそ夫は私を愛するであろう」と言ったからである。

鍵カッコのレアの独白「【主】が私の悩みをご覧になった」を、新共同訳聖書は「主はわたしの苦しみを顧みてくださった」と訳しています。

この「主が…ご覧になった」、「主は…顧みてくださった」は重要です。

誰の注目も浴びない存在でしかない、誰からも顧みられない存在でしかない、無視される存在でしかない、疎まれる存在でしかない、利用される存在でしかない、レアの場合、夫から顧みられない存在でしかない、とは、何と悲しい、苦しい事でしょうか。

こんな状況に置かれたならば、辛くて苦しくて、居ても立ってもおれないのでは無いでしょうか。

しかし、「ご覧になられるお方がおられる」、「顧みてくださるお方がおられる」事を知った喜びは、しかも、それが「」である事を知った驚きは、筆舌に尽くしがたい喜びなのではないでしょうか。

「息子」を産むと言う事は、「後継ぎ、相続者」を産むと言う事であり、ヤコブの思惑はどうあれ、ヤコブの働きを引き継ぐ者を産んだ、と言うのは一大事であり、レアは、ラケルに対する勝利を実感した事でしょう。

ルベン」の意味は「子を見よ!」であり、「見よ!息子だ!」であり、何とも、勝ち誇ったレアの顔が、ありありと浮かぶ命名ではありませんか。

29:33 彼女はまたみごもって、男の子を産み、「【主】は私がきらわれているのを聞かれて、この子をも私に授けてくださった」と言って、その子をシメオンと名づけた。

きらわれているのを聞かれて」を、新共同訳聖書では「疎んじられているのを耳にされ」と訳しています。

レアの、神様に対する感覚の変化、遠くから見ておられる神様から、近くに寄って聞いておられる神様への変化、祈りを聞いて下さるお方、神様をリアルに実感した事を告白する独白ですが、まだまだ神様との関係は親密とは言えず、一方通行であり、自己中心である事に変わりはありません。

レアの「聞かれて」との独白には「状況を知られて」の意味と共に、「祈りを聞かれて」の意味も込められているようですが、レアの「祈り」は、非常に未熟な、人間的な祈りであった事でしょう。

ラケルとのライバル意識剥き出しの祈りであり、ヤコブを振り向かせ、寵愛を受けたいがための祈りであり、人間性剥き出しの祈りであった事でしょうが、そんな幼い祈りも、神様は無下にはなさらず、聞いて下さるのです。

但し、「聞いてくださる」と「聞き入れてくださる」とを混同してはなりません。

神様は、どんな祈り、願いも、聞いてくださいますが、御こころに適う、祈り、願いかどうかとは、聞き入れ、願った通りにしてくださるかどうかとは別です。

祈り、願った方向に進んでいるから、障害がないから、順調だから、即ち、御こころ、とは限りません。

障害が起こる、順調でない、即ち、御こころではない、とも断言出来ません。

目指す方向が、やり方が、御こころか否か、を常に吟味しなければなりません。

自分のしたい事、やりたい事を祈り、願うのではなく、神様に喜ばれる事が実現するように、神様の御こころに従えるように祈り、願うのです。

ラケルより優位に立つことや、ヤコブの寵愛を得る事を祈り、願うのではなく、神を愛し、人を愛せる状況になるように祈り、願うのです。

ちょっとずれている、レアの祈りですが、神様に聞かれている事を確信したレアは、産まれた子に「シメオン」と名付けます。

シメオン」は、「聞く」と訳されているヘブル語「シャマ」の語路合せです。

29:34 彼女はまたみごもって、男の子を産み、「今度こそ、夫は私に結びつくだろう。私が彼に三人の子を産んだのだから」と言った。それゆえ、その子はレビと呼ばれた。

ヤコブたちの生きた時代は、過酷な時代であり、医療の発達していない時代ですから、子どもが無事に産まれる事が、大きく成長する事が、普通では、当たり前ではなかった時代です。

そんな時代にあってレアは三人も、元気な男の子を生んだのであり、ヤコブ家の後継ぎの心配は、相続者の心配は無くなったのであり、ヤコブ家の安泰は、保証された、と言っても過言ではなくなりました。

レアは、ヤコブに対して絶大な貢献をしたのであり、ヤコブの心は私に結び付いてくれるだろう、尊んでくれるだろう、愛してくれるだろう、と大きな期待を持ったのであり、それが、子どもの命名となりました。

レビ」は、「結び付く」と訳されるヘブル語「ラベ」の語路合せです。

レアの、34節の独白は「夫との結び付き」ですが、「神様との結び付き」の重要性を暗示させる独白であり、神様との関係は、ここを起点として、大きな進展を見せる事になる訳です。

神様と結びつく事ほど、大きな進展、変化はないのではないでしょうか。

この世で成功を収め、名声を得、家族に恵まれ、子どもに囲まれ、長寿を全うしても、神様から離れた生涯であったならば、神様に背を向けた生涯であったならば、

何の意味があると言うのでしょうか。

神様に造られた人間ですから、神様の存在に気付き、神様との関係が修復され、神様をより身近に感ずるようになる事ほど重要な事はありません。

この「レビ」の子孫は将来、祭司、レビ人の家系になりますが、祭司、レビ人の働きは、神様と罪人とを結び合わせる重要な働きであり、十二部族中、一位二位を争う、重要な職責を担う事になるのですが、その意味でも「レビ」との命名は、単なる「ラベ」「結び付く」の語呂合わせではなく、神様との結び付きを証しする、預言的な命名と言えるのです。

29:35 彼女はまたみごもって、男の子を産み、「今度は【主】をほめたたえよう」と言った。それゆえ、その子を彼女はユダと名づけた。それから彼女は子を産まなくなった。

それから彼女は子を産まなくなった」と記されていますが、新共同訳聖書が「しばらく、彼女は子を産まなくなった」と訳しているように、この後、レアは、ヤコブに二人の男の子と、一人の女の子を産みます。

九男の「イッサカル」と、十男の「ゼブルン」と、「ディナ」です。

聖書に記されているレアの子は六男一女ですが、他にも居たかも知れません。

しかし、重要なのは四男の「ユダ」です。

ユダ」は、「ほめたたえよう」と訳されるヘブル語「ヤダ」の語路合せです。

この、レアの心境の変化は、四人も男の子を産んで、ラケルに対して、絶対的優位に立ち、ヤコブも一目を置かざるを得なくなり、顧みられるようになり、精神的にも安定し、落ち着きが与えられたからなのでしょうか。

そうではないでしょう。

実の妹のラケルが子を産めないで、悩み、哀しんでいるのを見て、優位に立っているからと言って見下しているのは、気持ちの良い事ではありませんし、本当の安定を与えるものではありません。

ラケルが子を産まないにも関わらず、ヤコブに愛されているように、子の居る居ないに関わらず、ヤコブに愛されたいのであり、子が鎹(かすがい)なのでは、本当の喜びではないでしょう。

子を産んでも、ラケルに対して優位に立っても、ヤコブに愛されない満たされない思いが、神様に向い、見上げるべきお方を見出す事が出来た結果、精神的に安定し、平安を得たので、「ユダ」「ヤダ」「ほめたたえよう」と、なったのではないでしょうか。

レアの信仰の、成長の印とも言える命名です。

この「ユダ」の子孫は将来、ダビデ王家になり、救い主イエス様の先祖となるのですが、王の働きは、神様に替わって、地を治めるために、人々を支配する、重要な働きであり、人々を、神様を誉め称える民とする、と言う意味でも、重要な働きなのであり、十二部族中、一位二位を争う、「レビ」に勝るとも劣らない、重要な職責を担う事になるのです。

その意味でも「ユダ」との命名は、単なる「ヤダ」「ほめたたえよう」の語呂合わせではなく、神様との関係性を現し、支配者、救い主の誕生を証しする、預言的な命名と言えるのです。

レアは祭司の家系「レビ」と、王の家系、救い主の家系「ユダ」を産む事になりましたが、これこそ、神様のご計画であり、ヤコブの、ラケルと結婚したい気持ちがつのり、眼をくらませ、神様のご計画を見えなくさせたのであり、混乱を起こしてしまいましたが、決して、ヤコブもレアも、ラケルも不幸な結婚をしたのではありません。

我を通すのは、禁物です。

常に、神様の御こころを考えなければなりません。

【適応】

人間は皆、苦しみがあり、悲しみがあり、満たされない思いがあり、解決出来ない無力感に苛まれます。

そして、心の平安、救いや、慰めなどを求めて宗教に走り、のめり込みますが、宗教に走っても、戒律を守っても、本当の平安を得られはしませんし、中々救いの確信が持てず、更に空しさがつのり、悪循環に陥ってしまう事も少なくないようです。

更に、宗教を利用して、人の弱みにつけ込んで、悪を企む輩(やから)が居り、餌食になってしまい、平安や慰めを得る、救いの確信を得る、と言う目的から大きく逸れる事にもなりかねません。

宗教として、神様を求めるのではなく、平安や慰め、救いを得る手段として、神様を求めるのではなく、人間を造られたお方を見出し、そのお方に従う時、即ち、収まるべき所に収まる、あるべき姿になる、本来の形になる、神様が造られた目的に従って生きる、そこから得られるのが、本当の平安なのであり、神様を誉め称えるために造られた人間が、神様を誉め称える時、本当の平安と、救いの確信を得られるのです。

神様の造られた世界のお世話をするために造られた人間が、神様の御こころにそって世界のお世話をする時、本物の平安や慰め、生きる目的を持てるのです。

勿論、それで全てが解決し、苦しみも、悩みも、悲しみも、不安もなくなる訳ではありませんが、この世界を造られたお方がおられる事、この世界は神様の支配下にある事、人間には理解出来ない事がある事、人間には知り得ない不思議がある事、何でも、願った通りには行かない事、思った通りにはならない事、人間は絶対者ではない事、主権者ではない事、支配者ではない事、などなどを知る時、人間は本当に小さな、取るに足りない者でしかないが、神様に似せて造られた特別な存在である事、人間は有限で、弱い存在で、役には立たない者でしかないが、神様に愛される特別な存在である事を知る時、神様を誉め称えずにはいられなくなるのであり、神様を誉め称える時、本物の、永続的で、変らない、平安と慰めと、救いの確信を頂けるのです。

何か、特別な事をする必要も、何か特別なモノを献げる必要もありません。

神様が誉め称えられるべきお方だから、神様を誉め称える時、本物の、永続的で、変らない、平安と慰めと、救いの確信を頂けるのです。

そして、誉め称える、とは、言葉だけ、口先の問題ではありません。

生き方、考え方、行動になって現れなければならず、神様を第一とする生き方にならざるを得ず、神様の教えに従って生きざるを得ず、神様と人とを愛せずにはいられなくなるのであり、喜んで教会に仕える事になるのです。

順番が大切です。

平安や慰め、救いの確信は、神様を誉め称える時、与えられるのです。

神様を誉め称える器であるからこそ、平安や慰め、救いの確信が付随するのです。

ここに居られる皆様が、困難や苦しみの中でも、神様を誉め称える器となり、困難や苦しみを経て、神様を誉め称える器とされ、平安と慰め、救いの確信を得られますように。

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聖書個所:創世記29:15~20                 2016-12-4礼拝

説教題:「人を騙す者は、自分も騙される」

【導入】

29:14 ラバンは彼に、「あなたはほんとうに私の骨肉です」と言った。こうしてヤコブは彼のところに一か月滞在した。

ヤコブは住み慣れた故郷ベエル・シェバを離れ、愛する両親と離れ、竹馬(ちくば)の友人知人とも離れ、一人、旅に出ました。

ハランまでの800kmの旅は、現代の800kmではありません。

地図のない時代であり、頻繁に行き来があった訳でもなく、治安も良いとは言えません。

基本的には、助け合いの風習の強い地域ですが、悪人が、強盗がいない訳ではありません。

死を覚悟しなければならない、困難を極める旅ですが、ヤコブには、神様がついておられ、神様に守られ、神様に導かれ、大きな災難にも遭わずに、無事、目的地ハランに到着しました。無事に、目的地に着いただけではありません。

神様の導きで、ハランの住民と、友好的な接触をする事が出来、更に、ヤコブの母、リベカの兄、ラバンの娘、ラケルとの出逢いまでもが備えられており、ヤコブは、ラバンの大歓迎を受ける事を得たのです。

遥々、やって来たヤコブに、ラバンは妹リベカの面影を見たのではないでしょうか。

懐かしさと、新しい親族との出逢いに、ラバン一家はヤコブを大歓迎したのであり、リベカの様子、遭った事のないイサクの事、などなど。

更には、娯楽のない時代ですから、行った事のないベエル・シェバの事、旅の出来事、通って来た町の様子などなど、興味は尽きず、聞きたい事、知りたい事だらけで、興奮冷め遣らず、話しに花を咲かせる日々が続いたのではないでしょうか。

ひとしきりの興奮も冷めて、ヤコブの扱いを考えなければならない時期が来ました。

信頼出来る男手(おとこで)を必要としていたラバンは、ヤコブに話しを持ちかけます。

【本論】

29:15 そのとき、ラバンはヤコブに言った。「あなたが私の親類だからといって、ただで私に仕えることもなかろう。どういう報酬がほしいか、言ってください。」

ラバンはヤコブを大歓迎したとは言え、日がな、話しに聞き入っていた訳ではありません。

ラバンは羊飼いであり、山羊も飼っていたのであり、その世話をしない訳には、いい加減にする訳にはまいりません。

日中は羊や山羊の世話をし、日が落ちてから、食卓を囲み、話しに聞き入っていたのでしょうが、ヤコブは羊飼いであり、日中はラバンを手伝い、ラケルを手伝っていたのではないでしょうか。

その働き振りは、瞠目に値し、誠実であり、有能であり、ラバンはヤコブを非常に高く評価したのではないでしょうか。

また、ヤコブの、ラケルに対する恋心にも気付いていたのではないでしょうか。

そこで一計を案じます。

先日、14節の「あなたはほんとうに私の骨肉です」の意味は、養子縁組の時の常套句である、とお話ししましたが、ラバンは、ヤコブを正式に養子にした訳では、家族に加えた訳ではありません。

ヤコブは、家族でもなく、雇い人でもなく、ましてや、奴隷でもない。

寄留の身、寄食の身であり、何時かは出て行くのでり、準家族と言うような中途半端な身分です。

手伝ってくれるにしても、家族としての責任はなく、家族ではないのですから、将来、財産を与える必要はありませんが、それ故に、身を入れての働きは期待出来ません。

計算高いラバンにとって、期限もなく寄食されるのは、良い気分な事ではありませんが、「あなたはほんとうに私の骨肉です」、と大歓迎した手前、働けとも、命ぜられません。

通常、家族、親族、身内に報酬を与える事はしませんが、ラバンは利益のために、ヤコブを上手く利用しようと考え、ヤコブに報酬を払う事で、雇い人としての身分を与え、雇い人として扱い、ヤコブの能力、才覚、労力を最大限に利用しようとするのです。

そして、15節に記されているような、含みのある、誘導的な言葉を投げかけるのです。

ヤコブのラケルに対する思いを利用した、狡賢い、非常に計算高い提案ですが、ヤコブとエサウとのやり取りに通ずるものがありそうです。

お互いの需要と供給、利害の一致、と見える提案ですが、このチャンスを利用しよう、自分の益に誘導しようとの思いがあるのは、娘さえも、利益のために利用するとは、何とも残念な事なのではないでしょうか。

29:16 ラバンにはふたりの娘があった。姉の名はレア、妹の名はラケルであった。

レア」の意味は「牝牛」、「ラケル」の意味は「牝羊」との事のようですが、牧畜を生業としている故の命名でしょうか。

問題は、

29:17 レアの目は弱々しかったが、ラケルは姿も顔だちも美しかった。

ですが、「弱々しかった」と訳しているヘブル語に、病弱の意味はなく、「柔らかい」「優しい」の意味合いを持つヘブル語です。

決して眼病であった訳でも、空ろな眼をしていた訳でもなく、新共同訳聖書のように「優しい目をしていた」と訳すのが良いのではないかと思います。

続くラケルに付いて、新共同訳聖書は「顔も美しく、容姿も優れていた」と訳し、口語訳聖書は「美しく、愛らしかった」と訳していますが、レアに比べて、ちょっと贔屓の過ぎた訳ではないでしょうか。

レアとラケルとの比較、対比で、際立たせる訳し方をし、ヤコブが好意を寄せた理由の解説となっていますが、今日の聖書個所の後半で、レアとラケルを間違えるヤコブですが、そんな事ってあるでしょうか。

しかし、本当に間違えたのですから、レアも充分魅力的であった、ラケルと良く似た姉妹だったのではないかと思うのです。

さて、15節のラバンの提案に対して、ヤコブは条件を提示します。

29:18 ヤコブはラケルを愛していた。それで、「私はあなたの下の娘ラケルのために七年間あなたに仕えましょう」と言った。

現代とでは、賃金や物価を単純に比較出来ないので、何とも言えませんが、「七年間あなたに仕えましょう」は、随分と気前の良い、思い切った提案なのではないでしょうか。

出エジプト記212節に、同胞の奴隷売買に関する教えがあります。

あなたがヘブル人の奴隷を買う場合、彼は六年間、仕え、七年目には自由の身として無償で去ることができる。

勿論、ヤコブの生きた時代よりも、遥か未来での決め事ですが、参考にはなりましょう。

奴隷であっても、六年間働く事で自由の身になれるのです。

まして、嫁は奴隷ではなく、人身売買でもありませんから、対価として三~四年で充分と思います。

ヤコブの、ラケルに対する思いが込められた提案であり、七年は破格の提案であり、強欲なラバンが断わりはしないであろうと思われる提案をした訳です。

否、甥っ子に嫁がせるのだから、三年で良いよ、四年で良いよ、を期待していたのではないでしょうか。

29:19 するとラバンは、「娘を他人にやるよりは、あなたにあげるほうが良い。私のところにとどまっていなさい」と言った。

ラバンは、ヤコブの提案に快く応じたかに聞こえましょうが、同意したかに聞こえましょうが、ラバンは、自分の意見を述べたに、感想を述べたに過ぎません。

ラバンの応えは「娘を」であり、「ラケルを」と約束した訳でも、「他人にやるよりは、あなたにあげるほうが良い」であり、「ヤコブよ、あなたにあげる」と約束した訳でも、「七年」で了解した訳ではなく、「私のところにとどまっていなさい」と言っただけです。

19節は「なぁる程、そりゃそうだなぁ。まあ、考えておくから、暫く働いてみたら」程度の曖昧な言い方であり、ヤコブをまんまと騙すのですが、本当に狡賢い応答です。

この「曖昧な言い方」「含みのある言い方」には気をつけなければなりません。

自分の都合の良いように解釈してはなりません。

言葉尻を掴むような、重箱の隅を突つくような、揚げ足を取るような事は、慎まなければなりませんが、「七年間働くなら、ラケルを、ヤコブにあげます」との、確約を取らなければなりません。

ラバンの考えと、ヤコブの考えを、確認しなければならず、合意事項を明確にしなければなりません。後日のトラブルを避けると同時に、双方が、約束を誠実に履行するためにも必要な手続きです。親戚同士なのだから、そこまで事細かに決めなくても、とか、お互いに信頼しているのだから、まあ、良いじゃあないか、ではありません。

契約は、確認する事が重要です。何時、何処で、誰が、何を、どうする…は、記録に残す云々の問題ではなく、意識し、癖にしなければなりません。

適当に、問題が起こった時に考えれば言い、その時はその時、が考え方、生き方の基本であってはなりません。曖昧は、全てが曖昧になります。

はっきり決めるからこそ、目標もハッキリし、進む方向がハッキリし、ズレもはっきりし、対策もはっきりするのです。

救いに関しても同様です。

罪の自覚や告白が曖昧だと、救いの必要性も曖昧になり、

神様の義や裁きが曖昧だと、神様の愛も曖昧になります。

勿論、曖昧にしておく事も、はっきりさせない事も、生きて行く上で必要な場合があり、摩擦を起こさない知恵でもありますが、事、約束に関してはハッキリさせておくべきではないでしょうか。

意識的ではないにしても、結果として騙されたなら、凝(しこり)が残り、恨みが残ります。

損になっても、約束は果たさなければならず、約束は、双方の合意がなければ、変えてはならないのです。

29:20 ヤコブはラケルのために七年間仕えた。ヤコブは彼女を愛していたので、それもほんの数日のように思われた。

長く思われた七年ですが、期間がはっきりしているのですから頑張り甲斐があり、辛さにも耐えられたのではないでしょうか。

更には、大切な働きを共に担って行く、大切な助け手、パートナーを得るためなのですから、一時の感情で決めるのではなく、猶予期間、冷静に見詰める時間が必要なのであり、生涯を連れそう伴侶を一時の感情で決めてはなりません。

充分な時間をかけて、見定めなければなりません。

ラバンの同意を得るための提案でしたが、実はヤコブにとっても、七年間は必要な時間だったのです。

レアとラケルの長所、短所も見極めたのではないでしょうか。

労力と時間を犠牲にはしましたが、何も失ってはいないのですから、得るモノの方が大きいのですから、ささやかな犠牲だった、と言えるのではないでしょうか。

たった七年の犠牲で、掛け替えのない、生涯の伴侶を得られるのです。

神様の用意してくださったモノって、皆、そうです。

小さな犠牲で、大きなモノを得るのです。

人間の側の小さな犠牲に対して、神様は大きな犠牲を払ってくださり、人間の犠牲の何十倍、何百倍、比較にならない良いモノを与えてくださるのです。

29:21 ヤコブはラバンに申し出た。「私の妻を下さい。期間も満了したのですから。私は彼女のところに入りたいのです。」

ここで、ヤコブは「妻を下さい」と申し出ていますが、これではラバンの思う壺です。

ヤコブの中では「」イコール「ラケル」でしょうが、ラバンは19節で「」を約束しているのであり、「ラケル」ではなくても問題なく「レア」でも約束に反してはいないのです。

しかし、ラバンは、この事には敢えて触れようとはせず、

29:22 そこでラバンは、その所の人々をみな集めて祝宴を催した。

祝宴」は、婚姻の正式な手続きであり、この結婚が公式なモノと認めさせる意味で行なわれます。単なるお祝い、披露宴ではありません。

現代のように、戸籍がある訳ではなく、婚姻届がある訳でもなく、男女が夫婦と認められるのは、公式に祝宴が行なわれた事に因るのです。

この男性と、この女性は正式な夫婦であると、宣言する場、周知する場が、祝宴なのです。

一組の夫婦の誕生は、子孫を残す事であり、土地を守る事であり、家業を継続、発展させる事であり、一家の発展のみならず、一族の発展、氏族の発展、部族の発展、村の発展、地域の発展に寄与、貢献する重要な問題であり、村総出で祝うのです。

29:23 夕方になって、ラバンはその娘レアをとり、彼女をヤコブのところに行かせたので、ヤコブは彼女のところに入った。

ラバンの策略でしょうか、ハランの地の、当時の慣習でしょうか、ラバンは「夕方になって」「娘レア」を「ヤコブのところに行かせ」ます。

季節も定かではなく、時間も定かではありませんが、夕暮れの「黄昏時」、これこそ、ラバンの策略であり、狙った時間帯だったようです。

お酒が入り、酔いが廻り、陽気になり、気が緩み、油断したところへ、なのです。

ヤコブは慎重派であり、先を読む事には長けているのですが、まさか叔父が、自分を騙すとは、露ほどにも思ってはいなかったのでしょう。

薄暗がりで、見定められぬ中で、酔い心地の中で、レアはベールを被っていたと思われますが、それらがラバン、レアに味方して、ヤコブは、迂闊にも、まんまと騙されてしまします。

そして、ここに、レアの協力があった事を見逃してはならないでしょう。

レアは、ヤコブに好意を寄せていたのではないでしょうか。

レアは、何かに付けてラケルと比較され、辛い思い、悔しい思いをして来たのではないでしょうか。

ラケルに対する嫉妬があり、妬みがあり、ラバンに協力する形になったのでしょうが、レアとラケルは別人であり、暗闇とは言え、酔っているとは言え、間違えるのは腑に落ちません。

普通なら判りそうなところですが、レアとラケルが姉妹であり、声や体つきが似ていて、ヤコブを騙せると見込んでの作戦だったのではないでしょうか。

イサクの眼の弱っている事に付け込んで、声音を使い、山羊の毛皮を首や手首に巻き付け、エサウの上着を着込んで、イサクを騙した過去を思い出せば、ラバンやレアを責める事も出来ません。

ここで、この出来事から、人間のずる賢さ、人間の迂闊さを見るべきであり、神様の助けがあった、と見るべきではありません。

神様が、悪に加担する事はありません。

神様が、悪を利用する事もありません。

聖なる神様は、悪と関わりを持たれる事は決してありません。

逆に、後始末を付けてくださっている、益に変えてくださっている、と理解しなければなりません。

29:24 ラバンはまた、娘のレアに自分の女奴隷ジルパを彼女の女奴隷として与えた。

これは、レアもラケルも、お嬢様、お姫様のようであって、何も出来ないので、奴隷が与えられたのではなく、ラケルは羊飼いであり、労働にも従事していましたが、レアも家事を手伝い、水汲みなどの重労働を担っていた事でしょう。

奴隷を与えるのは、ハランの地の、当時の慣習なのでしょう。

この時には大きな意味はなく、慣習として奴隷を与えただけ、だったのでしょうが、後日、レアの奴隷ジルパは、ヤコブによって「七男、ガド」と「八男、アシェル」を生み、ラケルの奴隷ビルハは、ヤコブによって「五男、ダン」と「六男、ナフタリ」を生み、十二部族を構成すると言う大切な働きを担います。

本論に戻って、

29:25 朝になって、見ると、それはレアであった。それで彼はラバンに言った。「何ということを私になさったのですか。私があなたに仕えたのは、ラケルのためではなかったのですか。なぜ、私をだましたのですか。」

ラバンの策略は、直ぐに露見し、予想通り、トラブルに発展します。

ラケルとの結婚を夢見、ラバンの気が変らないように、気を使い、約束が保護にならないように、無理に無理を重ね、七年も頑張って来ただけに、期待が大きかっただけに、失望は、ショックは、非常に大きかった事でしょうし、怒りも大きかった事でしょう。

しかし、ヤコブの反応は、ラバンにとって想定内の事であり、対応策は用意されていました。

29:26 ラバンは答えた。「われわれのところでは、長女より先に下の娘をとつがせるようなことはしないのです。

これは本当の事で、ハランの地での、当時の慣習であったのかも知れませんが、本来ならば、18節でヤコブが申し出た時に確認すべき事であり、伏せていたのは狡い、騙した、と非難されてもし方がない事です。

こうしてまで、ヤコブを手元に置き、働いて貰いたかった理由は何でしょうか。

ラバンは、ヤコブが来てからの一ヶ月程で、大きな変化があった事を見逃してはいなかったようです。

ヤコブが来る前と、後とでは、何かに付けて、違うのです。

ヤコブよってもたらされた祝福を実感し、ヤコブの働き振りを見て、ヤコブを利用しようと考えた上での、策であったのではないでしょうか。

29:27 それで、この婚礼の週を過ごしなさい。そうすれば、あの娘もあなたにあげましょう。その代わり、あなたはもう七年間、私に仕えなければなりません。」

当時、婚礼の祝宴は、一週間続いたそうです。

先に申し上げたように、結婚は、当人のみならず、一家の、一族の、村の、地域の重大関心事であり、総出で祝うのです。

その重要な席を、混乱させたり、中断させる訳には行きません。

不名誉な事であるだけでなく、恥であり、レアに対する重大な侮辱であり、祝宴に集まった人たちの怒りを買う事になります。

これらの責任をヤコブが負うのであり、ラバンの提案は、ヤコブに心理的圧力をかけ、従わざるを得ないように仕向ける、巧妙な策と言えるでしょう。

29:28 ヤコブはそのようにした。すなわち、その婚礼の週を過ごした。それでラバンはその娘ラケルを彼に妻として与えた。

29:29 ラバンは娘ラケルに、自分の女奴隷ビルハを彼女の女奴隷として与えた。

29:30 ヤコブはこうして、ラケルのところにも入った。ヤコブはレアよりも、実はラケルを愛していた。それで、もう七年間ラバンに仕えた。

結果として、ヤコブはレアを得るために七年を費やし、ラケルを得るために更に七年を費やしました。

ラバンは、働き手としてヤコブを留め置くために、策を弄したのであり、聖書の登場人物の中でも、際立つ策士であり、ヤコブとリベカの策など、霞んでしまうような、策士と言えるでしょう。

しかし、ラバンを弁護するなら、こうまでしないと生き残れない時代であった、と言う事でしょう。

衛生管理の整った現代でも、口蹄疫、鳥インフルエンザなどが蔓延するのです。

医学の発達した現代でも、生き残るのは容易な事ではありません。

有能な人材は希少であり、貴重です。

特に、ヤコブは何をしても上手くやるのですから、ヤコブがいるだけで、事が順調に進み、問題も起こらず、収穫も多く、交渉も有利に展開するのを、目の当たりにして来たのですから、何としてでも、どんな理由をつけても、仮に憎しみを買っても、手元に置いておきたかったのです。

レアとラケルを得るために十四年をラバンに捧げ、更に六年を捧げ、ラバンはヤコブのお陰で、ハランの地で有数の資産家になった事でしょう。

【適応】

しかし、ラバンはこの後、歴史から消えてしまいます。

ラバンの息子たちも、登場しはしません。

しかし、レアとラケルは、ジルパとビルハは、イスラエル十二部族を生み、神様による救いの系図に組み込まれ、現代まで聖書を通して語り続けられているのです。

自分の利益のために人を騙す者は、一時は隆盛を誇り、飛ぶ鳥を落とす勢力を持っても、結局、滅んでしまい、歴史から消え去り、跡形もなくなってしまうのです。

地上に蓄えたモノは、必ずなくなります、朽ち果てます、錆びついて使い物にはならなくなります。

特に、人を騙して得たモノは、後に、持ち主に害を与える厄介な存在になるのです。

伝道者の書「5:13 私は日の下に、痛ましいことがあるのを見た。所有者に守られている富が、その人に害を加えることだ。

5:14 その富は不幸な出来事で失われ、子どもが生まれても、自分の手もとには何もない。

5:15 母の胎から出て来たときのように、また裸でもとの所に帰る。彼は、自分の労苦によって得たものを、何一つ手に携えて行くことができない。

 

エレミヤ書「17:11 しゃこが自分で産まなかった卵を抱くように、公義によらないで富を得る者がある。彼の一生の半ばで、富が彼を置き去りにし、そのすえはしれ者となる。

 

箴言「20:17 だまし取ったパンはうまい。しかし、後にはその口はじゃりでいっぱいになる。

私利私欲に奔走したラバンですが、その末路は推して知るべしでしょう。

ラバンとの比較でのヤコブですが、ヤコブの動機は、エサウの権利を不当に奪おうとして、エサウの弱みにつけ込み、或いは、父を騙した訳ではなく、神様のご計画を知らされたが故の義務感、使命感、などであり、神様のご計画に関わる者の焦り、無力感、などであり、神様のご計画を進めるためであったから、と多少、弁護しないでもありませんが、神様のご計画は、全て、神様の主権で進めるべきであり、人が主体的に動き、進めるべきではありません。特に、嘘で騙すような行為と、先走りは慎むべきです。

結果良ければ、ではありません。

ヤコブは焦りから、父や兄を騙してしまいましたが、義務感や使命感から、嘘を正当化し、罪悪感を封じ込め、良心の呵責を感じずに済まそうとしましたが、神様はラバンを立てて、嘘を吐かれた者の苦しみを教え、騙された者の悲しみを体験させられ、神の時を待つ事を教えられたのです。

騙されるから、騙さないようにしよう、ではありません。

騙されても、我慢しようでもありません。

神様が悪に加担する事なく、悪を利用する事がないように、

神様に仕え、神様のご計画に関わる者も、人を騙してはならず、嘘を吐いてはなりません。

懲らしめるため、などの理由で、嘘を吐き、騙してもなりません。

そして、それらを正当化してはなりません。

神の前で「公明正大」な生き方こそ、「嘘、偽り」を忌み嫌う生き方こそ、私たちの取るべき生き方であり、神様の栄光を現す生き方なのです。

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