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聖書箇所:創世記2718節から29節             2016-7-31礼拝

説教題:「神の名を騙り、人を欺く」

【導入】

前回は、人間の愚かな、小賢しい策略について、聖書を開いた事でしたが、イサクの策略は、せこい策略であり、イサクの好むジビエ料理、鹿肉のマタギ料理を食べさせてくれたなら、エサウを祝福しよう、と言うモノでした。

100歩譲って、イサクの好むジビエ料理を条件にするにしても、ヤコブにも同じ条件を提示し、先にマタギ料理を持って来た者を祝福しよう、と言うのなら、まだしもがな、ですが、それでも、神様の御こころではありません。

ヤコブを祝福する事は、神様の決められた事であり、条件をつけたり、競争させて決める事ではありません。

ヤコブを祝福する事が、神様の御こころなのですから、御こころの為される事をこそ、祈り願い、求めるべきであり、100歩譲って、ジビエ料理を条件にするにしても、これをもってして、御こころを今一度、お示しください、エサウを祝福すべきか、ヤコブを祝福すべきかで悩んでいます、確認させてください、御こころに適う行動が取れるように導いてください…と祈るべきでしょう。

それは、リベカとヤコブとても同じです。

イサクの眼の見えない事を悪用しての、欺きの策略は、直ぐに露見するような稚拙な策略ですが、そんな姑息な策略を立てるより、露見を恐れてビクビクするよりも、神様に祈り、神様に全面的に委ねる事こそ、神の民の取るべき行動です。

しかし、イサクも、エサウも、リベカも、ヤコブも、相手には知られていない、相手の裏をかける、相手を上手く欺けると確信し、其々の思惑を秘めて、策略を実行するのです。

【本論】

27:18 ヤコブは父のところに行き、「お父さん」と言った。イサクは、「おお、わが子よ。だれだね、おまえは」と尋ねた。

イサクの命令によって、エサウが狩に出かけ、イサクとエサウの密談を聴いたリベカが、ヤコブを呼び寄せ、策略を巡らし、子羊の肉を使って、鹿の肉と間違えるような、見事なジビエ料理、エサウが作ったと確信出来るようなマタギ料理を作るのに、然したる時間は掛らなかった事でしょう。

本来ならば、子羊と言えども、大切な財産です。頭の先から尾っぽの先まで、捨てる部位なく、全てを利用するため、丁寧に解体しますから、一匹を解体するのは大仕事であり、数人掛りで取り組む作業でしょうが、場合が場合であり、状況が状況ですから、密かに解体作業を進めつつ、悠長な事はやっておれず、無駄を覚悟で、必要な部位だけを取り分け、手早く調理し、ヤコブに持たせ、ヤコブは出来たてホヤホヤの、食欲をそそる、香も味も最高の状態の料理を、イサクの処に持って行きます。

私たちは、記された文字を読んでいるので、自然な流れに感じ、疑問に思いませんが、当時の風習、習慣と、状況を、思い浮かべなければなりません。

老いてはいても、家長は家長であり、家族とは物理的にも、精神的にも、距離を置いて生活しており、エサウもヤコブも大人であり、別のテント暮らしであり、離れて暮しているのであり、当時は、現代ほど、家族間の頻繁な交流や、行き来はありません。

それでもエサウとは、ほんの数時間前に、会話を交わしたばかりであり、エサウの声を聴いたばかりであり、エサウは狩に出かけたばかりであり、猟には時間が掛るのであり、エサウであるはずはありません。

そして、誰も呼び寄せてはいないのであり、ヤコブを呼び寄せてもいないのですから、「お父さん」との呼び掛けに訝(いぶか)り、「だれだね、おまえは」と尋ねるのは当然です。この「お父さん」と呼び掛けたのはヤコブですが、ヤコブとエサウは、性格も仕事も大きく違っていましたが、二人は、双子であり、全く異質な声ではなく、多少は似ていたのでしょうし、エサウの喋り方の特徴を掴んだ上で、声音を使ったのではないでしょうか。しかし、離れていても、然程の交流がなくても、親子であり、先ほど会話したばかりですから、声音を使ったとしても、違いは感じるのであり、違和感を覚えるのは当然です。

この違和感を大切にするのは、疑問を疑問として感じる感覚は、非常に重要な事です。何かが違う、上手く説明出来ないけれども、何かが変だ。こんな感覚を養って置く事は有益です。世の中、言葉で説明出来る事ばかりではないからです。特に、霊的な事は、霊的な感覚で察知しなければならず、霊的であるが故に、五感では感じられず、言葉では説明出来ない事も多々ある事を覚えておかなければなりません。

イサクの指摘に、ヤコブはドキッとしたのではないでしょうか。

ま、まずい…それでも、平静を装い、

27:19 ヤコブは父に、「私は長男のエサウです。私はあなたが言われたとおりにしました。さあ、起きてすわり、私の獲物を召し上がってください。ご自身で私を祝福してくださるために」と答えた。

27:20 イサクは、その子に言った。「どうして、こんなに早く見つけることができたのかね。わが子よ。」すると彼は答えた。「あなたの神、【主】が私のために、そうさせてくださったのです。」

ここには、リベカに言い含められた時の、不安を述べたヤコブの姿はありません。

策略の露見を恐れつつも、祝福を得たいがために、不承不承リベカの命令に従わざるを得なかった、消極的なヤコブの姿は微塵もありません。

むしろ、積極的に、目的を果たすために、父イサクを欺く事を恐れない、何としてでも、祝福を得たいとの、貪欲な罪人の執念が、全面的に出ており、窮地を脱出するために、あらん限りの知恵を総動員し、脳味噌をフル回転させて、この状況に相応しい、更なる疑問を起させない、ベストな回答をします。

私は長男のエサウです」と断言し、1つ目の嘘を吐き、「どうして、こんなに早く見つけることができたのかね」との質問に対しては、「あなたの神、【主】が私のために、そうさせてくださったのです」と2つ目の嘘を吐きます。新共同訳聖書は「あなたの神、主がわたしのために計らってくださったからです」と訳し、口語訳聖書は「あなたの神、主がわたしにしあわせを授けられたからです」と訳していますが、反論しようのない、疑問を挟む余地のない、模範回答、と言えるでしょう。

ヤコブは因りによって、神様の名を騙ってまでして、イサクを欺こうとするのです。

神様を信じるイサクですから、神様の名前を出されたならば、信じるしかありません。

それでも、疑いは晴れず、モヤモヤした感覚を拭い去る事が出来ません。

27:21 そこでイサクはヤコブに言った。「近くに寄ってくれ。わが子よ。私は、おまえがほんとうにわが子エサウであるかどうか、おまえにさわってみたい。」

27:22 ヤコブが父イサクに近寄ると、イサクは彼にさわり、そして言った。「声はヤコブの声だが、手はエサウの手だ。」

聴覚は、耳は、エサウではない、ヤコブだと、訴えているのであり、依然として疑いを拭い去る事は出来ませんでしたが、触覚は、ヤコブではない、エサウだ、と判断します。ここで、リベカの策略は、まんまとイサクを欺きます。

しかし、幾ら毛深いと言っても、人間の腕の毛と、羊の毛では密度も硬さも違いますし、触感、肌触りが違い、臭いが違いましょう。私たちには区別が付かない事ですが、イサクは牧畜を生業とする民であり、凡そ140年も羊、山羊、ロバ、ラクダと生活して来たのであり、「毛ソムリエ」なんて資格はありませんが、羊の毛、山羊の毛、ロバの毛、ラクダの毛の、触り別け、嗅ぎ別け、が出来たのではないでしょうか。

同じ羊でも、子羊の毛と、壮年の羊の毛と、老いた羊の毛の区別さえ、出来たのではないでしょうか。

一方のエサウですが、狩猟を生業とし、何日も野宿をするエサウであり、汗っ臭いエサウですが、それでも人間であり、羊と区別が付かないとは、俄かに信じられませんが、老いたイサクであり、触感が鈍っていたのでしょうか。リベカの思惑通り、まんまと欺かれてしまうのです。

27:23 ヤコブの手が、兄エサウの手のように毛深かったので、イサクには見分けがつかなかった。それでイサクは彼を祝福しようとしたが、

27:24 「ほんとうにおまえは、わが子エサウだね」と尋ねた。すると答えた。「私です。」

それでも、聴覚は、耳は依然として「エサウではない」と、警告を発しているのであり、再び「ほんとうにおまえは、わが子エサウだね」と尋ねずにはいられませんが、ヤコブは大胆にも、明確に、はっきりと「私です」と断言します。

「何かちょっと、違う気がするんだけどなぁ。」「何言ってるんだよ、俺だよ、俺。ボケた訳じゃないでしょ。しっかりしてよね。」何て言われると、人間って、弱い者であり、プライドがあり、多少の疑問があっても、納得出来なくても、強く断言されると受け入れてしまう者なのです。そう言う弱さを持っている事を弁える事も、重要です。間違い易いものだ、弱さを持っている、との自覚こそが、失敗や過誤を回避する秘訣なのです。

27:25 そこでイサクは言った。「私のところに持って来なさい。私自身がおまえを祝福するために、わが子の獲物を食べたいものだ。」そこでヤコブが持って来ると、イサクはそれを食べた。またぶどう酒を持って来ると、それも飲んだ。

イサクはヤコブの持って来た、リベカの作ったジビエ料理を食しますが、鹿肉のマタギ料理は、正にエサウの捌き方であり、エサウの焼き加減であり、エサウの味付けであり、味覚は、舌はエサウに違いないと判断します。

それでも、最初の疑念は、根強く残り続け、警告を発し続けます。

そこでイサクは、口付けする事で、ハグする事で、嗅覚によって、鼻によって確信を得ようとします。

27:26 父イサクはヤコブに、「わが子よ。近寄って私に口づけしてくれ」と言ったので、

27:27 ヤコブは近づいて、彼に口づけした。イサクは、ヤコブの着物のかおりをかぎ、彼を祝福して言った。「ああ、わが子のかおり。【主】が祝福された野のかおりのようだ。

ここでも、リベカの策略は、大成功であり、エサウの着物と、その香りは、ヤコブを包み込み、ヤコブを隠し、イサクをまんまと欺き、疑念を払拭し、エサウだとの、確信を与えます。

口づけ」は、最も親密な関係を現すしるしであり、信頼関係を示すしるしであり、誰も疑わないでしょうが、だからこそ、欺きの、最高のツールなのです。

代表的なのは、イエス様に対する、ユダの、ゲッセマネの園での口付けですが、最高の親愛の情の表現ツールでもって、最悪の裏切りを演出するのです。

リベカの策略は、ヤコブの咄嗟の機転と、演技力でイサクを完全に欺き、祝福を引き出し、乞い願っていた、長男が受ける祝福を我がモノとします。

27:28 神がおまえに天の露と地の肥沃、豊かな穀物と新しいぶどう酒をお与えになるように。

27:29 国々の民はおまえに仕え、国民はおまえを伏し拝み、おまえは兄弟たちの主となり、おまえの母の子らがおまえを伏し拝むように。おまえをのろう者はのろわれ、おまえを祝福する者は祝福されるように。」

乳と蜜の流れる地、と表現されるカナンの地ですが、パレスチナが、雨量が少ない処である事は事実であり、カナン、パレスチナは、春と秋に雨期がやって来ますが、年間降水量は300mm前後です。

少ない雨ですが、麦を育て、果樹などを育てるに、不足はないようです。

その他の季節は、地中海の湿った空気が、露を運び、葡萄などを育てるそうです。

だからこそ、「天の露」なのであり、天からの潤いなのであり、「天の露」があってこその「地の肥沃」なのであり、「豊かな穀物と新しいぶどう酒」なのです。

29節は、人と人との関係、主従関係、支配関係を預言しますが、世界の支配を預言し、兄弟の中での優位性、親族の中での優位性を預言し、ヤコブを「のろう者」は、神様に「のろわれ」、ヤコブを「祝福する者」は、神様に「祝福されるように」と、宣言します。

特別な祝福である事に違いはありませんが、極めて人間的です。極めて現実的であり、極めてこの世的です。神様を知らない民と、何ら変らないではありませんか。

神の民は、そうではなく、箴言2521節「もしあなたを憎む者が飢えているなら、パンを食べさせ、渇いているなら、水を飲ませよ。25:22 あなたはこうして彼の頭に燃える炭火を積むことになり、主があなたに報いてくださる。

ローマ書1217節「だれに対してでも、悪に悪を報いることをせず、すべての人が良いと思うことを図りなさい。12:18 あなたがたは、自分に関する限り、すべての人と平和を保ちなさい。12:19 愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。それは、こう書いてあるからです。「復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる。」12:20 もしあなたの敵が飢えたなら、彼に食べさせなさい。渇いたなら、飲ませなさい。そうすることによって、あなたは彼の頭に燃える炭火を積むことになるのです。12:21 悪に負けてはいけません。かえって、善をもって悪に打ち勝ちなさい。

神様に従う民は、呪う者を祝福し、仇なす者を祝福するのであり、そのために、私たちを神の民としてくださったのです。

【適応】

神の民と、そうではない人々との、思考と、行動が、同じであるはずがありませんし、

同じであってはいけません。神の民は、神様の前に正しい、神様に喜ばれる思考をし、行動をしなければなりません。この世の民と同じ思考、行動であってはなりません。

ですから、自分の好みや考えで、祝福を与えるのでは、祝福を取り次ぐのではありません。神様から与えられた使命として、祝福を宣言するのであり、神様から与えられた働きとして、祝福を取り次ぐのです。

祝福とは、イサクのような祈りではありません。エサウだけ特別に、ではなく、無病息災、家内安全、学業成就、商売繁盛、平安、平和、平等、などなどでもありません。

神様を知る事が祝福なのであり、神様に従う事が祝福なのであり、神様を喜ぶ事が祝福なのであり、人々が神様を知り、神様に従い、神様を喜ぶ、そのために祝福を祈り、宣言するのです。

礼拝の最後に、祝祷がありますが、単純な、この世的な守り、恵み、平安を宣言している訳ではありません。

神様を知り、神様に従い、神様を喜ぶために、守り、恵み、平安、キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりを宣言するのです。

神様の栄光を現すためであり、一人一人に与えられた賜物を生かすためであり、神様にあっての一致、集合と、神様にあっての違い、分散、拡散、であり、神様にあっての協力と、神様にあっての独自路線、なのです。

全ての人々が、全ての分野において、神様の御栄光を現すのであり、そのために祈り、祝福を宣言するのです。

次ぎに確認したいのは、間違っても、ヤコブのように、神様の名を騙るような事があってはならない、神様の名前を騙って、自分の計画や考えを押し付けてはならない、と言う事です。

出エジプト記207節、十戒の第3戒「あなたは、あなたの神、主の御名を、みだりに唱えてはならない。主は、御名をみだりに唱える者を、罰せずにはおかない」を厳粛に受け止めなければなりません。

ヤコブは、窮地に立たされて、咄嗟に口走ってしまったのでしょうが、窮地に立たされるような欺きを図ったのが問題であり、ヤコブの例は、論外ですが、私たちも、自分の考えを通すために、神様の名を騙っていないかどうかを、吟味しなければなりません。

教団の決定、牧師の説教についても、鵜呑みにしてはなりません。

使徒の働き1711節「非常に熱心にみことばを聞き、はたしてそのとおりかどうかと毎日聖書を調べた」でなければならず、信徒一人一人が見張らなければなりません。

一人一人の信仰が守られるためであり、神様の御名が謗(そし)られないためです。

この見張り人としての使命は、教会内、キリスト教界内に限定した使命ではありません。先に国政選挙があり、今日は、首長選挙がありますが、牧師や教会が、或いは教団が、政治に付いて語るのは、決してタブーではありません。

牧師、教会、教団、そしてクリスチャンは見張り人として立てられており、神様から統治権を与えられている為政者を監視するのは、大切な使命の一つだからです。

為政者が、神様の御こころの統治を行っているか否かをチェックし、評価しなければなりません。ですから、相応しい統治を行なっていない政党に対しては、断固「NO」を突き付けるのが使命なのです。

決して、改憲政党を支持するなとか、護憲政党を支持しろと言っている訳ではありませんので、誤解のないように。

現行憲法に問題があったとしても、立憲主義、議会制民主主義の国なのですから、現行憲法に従うべきであり、歴代の解釈を尊重すべきなのではないでしょうか。

180度違う解釈は解釈の範囲を超えています。

国民としてのみならず、キリスト者として、為政者を見張らなければなりません。

最後は、霊的感覚を研ぎ澄ます必要性についてです。

イサクは欺かれ、疑問を感じつつ、エサウと思い込んで、ヤコブを祝福してしまいましたが、似たような過ちを犯さないために、霊的感覚を研ぎ澄まさなければなりません。

教団にも、教会にも、超教派の団体にも、説教にも、キリスト教関係の本にも、間違った教えは入り込んでいます。

サタンは日夜、休む事なく、あらゆる手段を講じて攻撃しているからです。

ですから教えなどを、無条件に受け入れてはなりません。

そこで重要なのは、先に紹介した使徒の働き1711節の御ことばであり、冒頭でお話しした、違和感を大切にする事であり、疑問を疑問として感じる感覚です。

何かが違う、上手く説明出来ないけれども、何かが変だ。

こんな感覚を養って置く事は有益です。

霊的な事は、霊的な感覚で察知しなければならず、霊的であるが故に、五感では感じられず、知識では判断できず、言葉では説明出来ない事も、多々ある事を覚えておかなければなりません。

この霊的感覚は、この世の人々と同じ生活を送っていたのでは、この世の知識を幾ら積んでも培われません。

祈りと、聖書通読と、説教の蓄積でしか培われません。

祈りの備えがあってこそ、聖書通読や説教が身に付くのであり、聖書通読があってこそ、説教や教団、超教派の言っている事が、御こころか否かの判断が出来るのであり、御こころの説教、伝道が出来るのであり、説教を聴く事によって、聖書通読では得られない深い理解を得、誤解や思い込みを防ぐのです。

祈り一辺倒、聖書通読一辺倒、礼拝説教一辺倒は、片寄った信仰生活であり、健全な霊的感覚を養う事は出来ません。

サタンの攻撃、惑わしに太刀打ち出来ません。

ここに居られる皆様が、良く祈り、良く聖書を読み、礼拝を欠かす事なく、霊的感覚を養い、来る苦難の時に、間違った教えに惑わされる事なく、人を躓かせる事なく、信仰を守り通し、義の栄冠を受けられるように祈ります。

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聖書箇所:創世記271節から17節             2016-7-24礼拝

説教題:セコイ策略・周到な策略」

【導入】

前回、聖書を開き、エサウの結婚を通して、結婚についての御こころを聴いた事でしたが、エサウが結婚した時、エサウは40歳でした。

弟ヤコブの結婚は、もう少し先の事ですが、ヤコブとエサウは双子であり、ヤコブも勿論、40歳であり、創世記2526節に「イサクは彼らを産んだ時、60歳であった」と記されており、エサウが結婚した時、イサクが100歳であった事は、ハッキリしています。

イサクの一生は創世記3828節に記されている通りに180年であり、ヤコブはラバンの下で20年を過ごし、家族を引き連れて帰って来た後に、エサウと共に、イサクの葬儀を執り行っていますので、今日のテキストの出来事の、最大限の可能性は、イサク100歳から160歳の間の出来事であり、注解書によれば、イサクの年齢は、多く見積もって、137歳と考えられています。

聖書の登場人物の多くは、老齢でも壮健であり、眼も霞まず、気力も旺盛であり、判断力、指導力にも秀でており、戦にも出、強力な指導力を発揮もし、地の果てにまで出て行く者もいましたが、イサクは、歳、相応に老い、壮健ではなく、判断力にも陰りが出て来たようであり、死を目前に実感し、家長としての務めを果たす事に取り組みます。

【本論】

27:1 イサクは年をとり、視力が衰えてよく見えなくなったとき、長男のエサウを呼び寄せて彼に「息子よ」と言った。すると彼は、「はい。ここにいます」と答えた。

イサクは、視力が衰え、殆ど見えなくなった時、老いを実感し、遠からぬ死を予感したのでしょう。

思い起こせば、飢饉に遭い、神様の命令でゲラルに滞在する事になりますが、ゲラルでは、新参者、寄留者、旅人、余所者として扱われ、屈辱を味わい、執拗な嫌がらせを受け、最後にはゲラルから追い出されもしましたが、実質的な損害はなく、飢饉の中で、寄留の身でありながら、そこそこの財産、多くの家畜や、多くの使用人を持つ身とされたのであり、働き者の妻を得、多少の問題があるにしても、二人の子を授かったのであり、穏やかな、良い生涯だった、と言っても良いでしょう。

しかし、イサクは、普通の人ではありません。

アブラハムの子であり、神様の約束によって与えられた子であり、神様からアブラハムに与えられた、世界を祝福すると言う使命と働きを継承する身であり、子に、孫に、世界を祝福すると言う使命と働きを継承させなければなりません。

子どもが何人いても、全ての子が、世界を祝福すると言う使命と働きの継承者である事には違いはありませんが、イスラエル社会において、長男には、他の兄弟の、二倍の財産が、与えられます。

弟一人に対しては「一の財産」。しかし、長男には「二の財産」が与えられるのです。

財産は、土地、家畜、使用人に限定されません。

使命と働きも、財産の一部、否、財産そのものであり、使命と働きに、土地、家畜、使用人が付随する、と言った方が、正しいでしょう。

使命と働きの伴わない、土地、家畜、使用人には、意味がありません。

使命と働きを全うするために、土地、家畜、使用人が与えられるのです。

アブラハムの子、イサクの子も、この原則の通りであり、世界を祝福すると言う、特別な使命と働きが与えられ、継承されて行くのですが、エサウには、この、世界を祝福すると言う使命と働き、に対する認識がなかった、欠けていた、希薄であった、のであり、長男の権利と義務は、この世の財産、土地、家畜、使用人に限られ、才覚でどうにでもなるし、0からでも何ら問題を感じなかったのであり、だからこそ、一時の空腹を満たす、僅かな食物で、長子の権利を交換しても、痛くも痒くも感じなかったのです。

この世界を祝福すると言う使命と働きに対する認識の欠け、希薄さは、エサウだけではなく、イサクも然り、であり、リベカも然り、ヤコブも然り、でした。

世界を祝福すると言う使命と働きは、親が選んで与えるモノではなく、自分が選ぶモノでもなく、神様に選ばれて、神様が与えるモノであり、人間の策略や工作、根回しや妨害などで、何とかなるものではありません。

アブラハムの思惑に関わらず、イシュマエルではなく、イサクに、であり、イサクの思惑に関わらず、エサウではなく、ヤコブに、なのであり、イサクがどのように工作しようが、リベカやヤコブがどのように策略を巡らそうが、黙って待っていたとしても、アブラハムに与えられた、世界を祝福すると言う使命と働きはヤコブに引き継がれるのです。

しかし、長男に引き継ぐべき、と考えるイサクは、本来、全ての兄弟たちの前で宣言すべき祝福を、姑息にも、当事者のみに宣言しようとします。

創世記49章には、ヤコブの子、十二人に対する祝福が記されており、申命記33章には、イスラエル、十二部族に対する祝福が記されていますが、祝福は、個別に与えられるモノでありながら、全員の周知する処でなされなければなりません。

先に申し上げた通り、世界を祝福すると言う使命と働きは、兄弟総がかりで取り組む働きであり、兄弟全てが、其々に持ち味を生かし、賜物を生かし、協力し合い、補い合ってこそ、神様の御計画の推進に、貢献できるものとなるのです。

27:2 イサクは言った。「見なさい。私は年老いて、いつ死ぬかわからない。

27:3 だから今、おまえの道具の矢筒と弓を取って、野に出て行き、私のために獲物をしとめて来てくれないか。

27:4 そして私の好きなおいしい料理を作り、ここに持って来て私に食べさせておくれ。私が死ぬ前に、私自身が、おまえを祝福できるために。」

この依姑贔屓が、諸悪の根源です。

人間は、個々に個性があり、賜物が違いますから、皆が皆、同じ働きが期待されるはずがありません。

違いを認め合う処に、持ち味が生かされ、賜物が生かされ、協力し合い、補い合う素地が構築されるのであり、だからこそ、全員が揃う所で、其々を祝福しなければならないのです。

しかも、世界を祝福すると言う使命と働きは、人間的な判断で継承するモノではありませんから、自分の考えと違っても、納得出来なくても、皆が反対しても、誰も同意してくれなくても、神様が決められた通りを宣言しなければならず、神様が決められた通りを宣言するならば、問題は起こらず、問題が起こっても神様が解決してくださいます。

イサクは、創世記2523節に記されている、リベカに与えられた神様のご計画を聴かされていたでしょうし、創世記2529節以降に記されている、エサウがヤコブに長子の権利を譲渡した経緯も知っていた事でしょう。

それなのに、イサクは神様のご計画に対して無頓着であり、長男が祝福されるべきとの、この世の慣習と、固定観念に固執し、自分の好みで、事を進めようとします。

3節の「獲物」を口語訳聖書では「鹿の肉」と訳していますが、野生動物の肉は、独特の癖があったでしょうが、逆に、野趣溢れる肉であり、現代でも「ジビエ」と称して、愛好家が野生の鳥獣肉を賞味するそうですが、4節の「私の好きなおいしい料理」は、正に、イサクが「ジビエ」料理を好んでいたのであり、創世記2528節にも記されていますが、こんな趣向の故に、エサウを特別扱いし、神様の御こころを無視して、秘密裏にエサウを祝福するとは、策略を図るとは、言語道断な行為なのではないでしょうか。

しかも、無条件にエサウを祝福するのではなく、「私の好きなおいしい料理」を交換条件にするとは、何ともセコイ策略、安直な策略ではないでしょうか。

しかし、「天網恢恢、疎にして洩らさず」と申しますが、

隠して隠しおおせる事はありません。

エサウを呼び寄せるイサクに、イサクの下に行くエサウに、不自然な処は微塵もなかったかも知れませんが、女の感は、妻の感は、母親の感は鋭い。疑念を起した

27:5 リベカは、イサクがその子エサウに話しているのを聞いていた。それでエサウが獲物をしとめて来るために、野に出かけたとき、

27:6 リベカはその子ヤコブにこう言った。「いま私は、父上が、あなたの兄エサウにこう言っておられるのを聞きました。

27:7 『獲物をとって来て、私においしい料理を作り、私に食べさせてくれ。私が死ぬ前に、【主】の前でおまえを祝福したいのだ。』

イサクもイサクなら、リベカもリベカです。

アブラハムからイサクに継承された世界を祝福すると言う使命と働きは、神様がヤコブに与えられたのであり、エサウは弟ヤコブに仕えるのであり、この神様のご計画、宣言に従う事が、エサウにとっても、ヤコブにとっても、賜物が生かされる道なのです。

エサウにとっては屈辱であり、ヤコブにとってはやり難い事かも知れませんが、其々の賜物が最大限に生かされるのは、神様に従う時のみです。

イサクの思惑に関わらず、リベカやヤコブの心配にも関わらず、世界を祝福すると言う使命と働きはヤコブに必ず継承され、神様の導きに従う時、エサウもヤコブも、痼(しこり)なく、其々が最大限の喜びを味わいつつ、世界を祝福すると言う使命と働きが、着実、確実に前進するのです。

27:8 それで今、わが子よ。私があなたに命じることを、よく聞きなさい。

27:9 さあ、群れのところに行って、そこから最上の子やぎ二頭を私のところに取っておいで。私はそれで父上のお好きなおいしい料理を作りましょう。

27:10 あなたが父上のところに持って行けば、召し上がって、死なれる前にあなたを祝福してくださるでしょう。」

母リベカの一方的な、捲くし立てるような説得と言うか、提案と言うか、ヤコブに選択の余地を与えない、意見を挟む事を許さない、策略ですが、愛するヤコブのための、最善の策との確信から発した説得であり、神様の御意志の、実現の手助けとの確信からの提案であり、策略、との思いは、微塵もなかった事でしょうし、時と場合によっては、特に、神様のご計画を進めるためならば、神様のご計画を守るためならば、人を騙す事は許される、との変な確信があった事でしょう。

しかし、人を騙す事が、正当化される事はありません。

人を殺める事が正当化される事もありません。

騙す、誤魔化す、嘘、勘違いするように誘導する、皆、神様の嫌われる事です。

決して選んではならない方法です。

40歳を優に越しているヤコブですが、黙って聴いていたのみならず、積極的な同意の前提の上で、疑念を呈します。

27:11 しかし、ヤコブは、その母リベカに言った。「でも、兄さんのエサウは毛深い人なのに、私のはだは、なめらかです。

27:12 もしや、父上が私にさわるなら、私にからかわれたと思われるでしょう。私は祝福どころか、のろいをこの身に招くことになるでしょう。」

親でも、間違った事を教えるなら、立てられた権威でも、御こころに反する事を強要するならば、断固、反対の意を、明確に表明しなければなりません。

こんな時、空気を読んで、黙っていてはなりません。

それは賛同、同意です。

勿論、親を尊敬しつつ、立てられた権威に敬意を表明しつつ、礼儀正しく、謙りつつ、礼儀を弁えつつ、しかし、はっきりと諌めなければなりません。

然るに、ヤコブは積極的にリベカの策略を肯定し、承認したからこそ、思い付く危惧を述べたのです。

27:13 母は彼に言った。「わが子よ。あなたののろいは私が受けます。ただ私の言うことをよく聞いて、行って取って来なさい。」

ヤコブの不安を一蹴するリベカの言葉は、根拠のない確信から出た言葉なのではなく、正しい事をやっている、神様のためだ、との確信があったからなのであり、ヤコブの不安に対する、具体的な策があった訳ではないでしょうが、正しい事をやっているのだから、何とかなる、正しい事をやっているのだから、神様が何とかしてくださるとの確信があったのでしょう。

しかし、神様が何とかしてくださるとの確信は、ここでではなく、イサクとエサウの密談を聴いた時にこそ、働かせるべきであり、神様に委ねるべきです。

あなたののろいは私が受けます」との言葉も、呪いを甘んじて受ける、との覚悟の言葉ではなく、正しい事をやっている、神様のためなのだから、呪われる訳がない、との変な自信の故の言葉でしょう。

一縷の良心の呵責も感じさせない言葉です。

27:14 それでヤコブは行って、取って、母のところに来た。母は父の好むおいしい料理をこしらえた。

27:15 それからリベカは、家の中で自分の手もとにあった兄エサウの晴れ着を取って来て、それを弟ヤコブに着せてやり、

27:16 また、子やぎの毛皮を、彼の手と首のなめらかなところにかぶせてやった。

27:17 そうして、自分が作ったおいしい料理とパンを息子ヤコブの手に渡した。

ヤコブが引き連れて来た最上の子山羊を捌く間に、リベカに次々とアイデアが浮かびます。

アイデアとは「考え、思いつき、目論み」であり、哲学的には「望ましいもの、あるべきものについての最高の概念」とランダムハウス英和辞典にありましたが、人を騙す事において、アイデアが発揮されたのは、残念でなりません。

エサウの作るジビエ料理は、エサウにしか作れないマタギ料理であり、捌き方においても、焼き方においても、味付けにおいても、非常に特徴的、個性的だった事でしょうが、リベカは、エサウ独特のジビエ料理を、フェイク、偽物と解らないまでに見事に、模倣、再現したのです。

更に、手元にあったエサウの晴れ着を取り出して、ヤコブに着せてやり、捌いた子山羊の毛皮を、滑らかなヤコブの首と、腕とに被せてやり、イサクを騙そうとするのです。

イサクの盲目を利用しての悪辣な策略ですが、疑ってかかれば、ちょっと考えれば、直ぐに、容易に見抜けるような策略であり、大した細工でしかありませんが、病弱のイサクには、嗅覚、味覚、触覚、聴覚をも誤魔化せる、判断がつかないと確信していたのであり、実行に移すのです。

セコイ策略と周到な策略、どちらに軍配が上がるのでしょうか。

【適応】

さて、神の民と、そうではない人々との、思考と、行動が、同じであるはずがありませんし、同じであってはいけません。

更に、神様のご計画の一端を知っているなら、ご計画を担ってならば、なおさらです。

神の民は、神様の前に正しい、神様に喜ばれる思考をし、行動しなければなりません。

多少の犠牲や、多少苦しむ人がいても、それは大事の前の小事で、仕方がない、と割り切っては、切り捨ててはなりません。

最善のアイデアを出して、犠牲をなくし、苦しむ人をなくさなければなりません。

神様は、ご計画の遂行に際して、罪深い人を用いられ、人の争いや策略を用いられるように見える事がありますが、神様は、決して争いや策略を用いられる事はなく、争いや策略を認められる事もありません。

神様は、イサクや、リベカとヤコブの策略を、咎め立てしておられませんが、黙認された訳ではありません。

人の罪を利用されたなら、争いや策略を用いられたなら、咎める事は出来ず、裁く事も出来ませんし、正しい、義なる、聖なる神様に相応しい事ではありません。

人間社会でも、利用するだけ利用しておいて、後で、だめ、関係ない、はないでしょう。

また、熱心ならば、一途ならば、赦される訳でもありませんし、動機が良ければ、手段が多少悪くても、大目に見られる訳ではなく、動機に問題があっても、結果が良ければ、赦される訳でもありません。

しかし、人を用いられるのであり、神様の選びによって、御業がなされ、ご計画が進められるのです。

神様の前に、正しい選択をし、損になっても、神様の喜ばれる道を選び、進むなら、姑息な策略を計らず、不正な手段を講ぜず、神様が動かれるまで、神様が働かれるまで待つなら、神様は、全ての事を、善きに導いてくださいます。

策を弄してでも、エサウを祝福しようするイサクですが、神様の命令はヤコブを祝福しなければならないのであって、イサクの好みで祝福するのではありません。

イサクが勝手に、強引にエサウを祝福しようとしても、神様が介入され、阻止されるでしょうし、エサウとヤコブとを一緒に呼び出し、其々に相応しい祝福を与える事が出来るように祈るなら、エサウもヤコブも祝福され得るのです。

ルカの福音書147節「招かれた人々が上座を選んでいる様子に気づいておられたイエスは、彼らにたとえを話された。

14:8 「婚礼の披露宴に招かれたときには、上座にすわってはいけません。あなたより身分の高い人が、招かれているかもしれないし、

14:9 あなたやその人を招いた人が来て、『この人に席を譲ってください。』とあなたに言うなら、そのときあなたは恥をかいて、末席に着かなければならないでしょう。

14:10 招かれるようなことがあって、行ったなら、末席に着きなさい。そうしたら、あなたを招いた人が来て、『どうぞもっと上席にお進みください。』と言うでしょう。そのときは、満座の中で面目を施すことになります。

14:11 なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです」」であり、変な工作をしなくても、自分の考えで行動しなくても、出し抜こうとしなくても、隠れていても、神様が探し出してくださり、立ててくださり、相応しいモノを与えてくださいます。

箴言2627節「穴を掘る者は、自分がその穴に陥り、石をころがす者は、自分の上にそれをころがす」のであり、

ローマ書1217節「だれに対してでも、悪に悪を報いることをせず、すべての人が良いと思うことを図りなさい」です。

人を騙し、陥れようとするなら、その策は、巡り巡って、自分が騙され、陥れられるのです。

神様の時を待ち、神様の促しに因って行動し、神様の喜ばれる手段を講じるならば、巡り巡って、自分に帰ってきます。

どんな状況でも、謀略や策略を図ってはなりません。

更に積極的に、策略を図る者の平安を祈り、祝福すべきです。

マタイの福音書1012節「その家にはいるときには、平安を祈るあいさつをしなさい。

10:13 その家がそれにふさわしい家なら、その平安はきっとその家に来るし、もし、ふさわしい家でないなら、その平安はあなたがたのところに返って来ます

ローマ書1214節「あなたがたを迫害する者を祝福しなさい。祝福すべきであって、のろってはいけません

神様を信じる民は、用意周到な策略を図るのではなく、神様に全面的、完全に委ねるべきであり、世界を祝福すると言う使命と働きを与えられているのですから、誰に対しても、敵に対しても、平安を祈り、祝福すべきです。

そのために、召し出されたのであり、神の民とされたのです。

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聖書箇所:創世記2634節から35節             2016-7-17礼拝 

説教題:「異邦(異教)の民との結婚」

【導入】

今日は結婚と言うテーマを扱いますが、結婚と言う制度は、神様が定められた制度です。創世記218節以降に、定められた経緯が記されています。

結婚と言う制度が、神様によって定められた制度であると言う事を知るのは非常に重要です。

結婚は、単に子孫を残すためのモノではありません。性欲を解消するパートナーでも、快楽のためのパートナーでも、寂しさを紛らわすパートナーでもありません。

特定の一組の男女が、特殊な関係になった事を宣言する制度であり、その特殊な関係は、都合で解消する事は出来ませんし、上手くいかないから取り消す事も出来ませんし、同時に複数の女性を娶ったり、性的関係を持つ事は神様の定めに反する事です。

結婚は、一人の男子と、一人の女子が、一つになって、神様の造られた世界のお世話をするのであり、世界のお世話と言う働きに、精一杯取り組むための、最適、最高、最善の組み合わせが、男女の組み合わせなのであり、神様が男女をそのように造られたのです。

世界のお世話と言う働きに加えて、生物として子孫を残す働きも与えられていますが、世界のお世話と言う働きを引き継ぐための、子であり、孫なのであり、生物として、種を伝えるのが目的なのではありませんから、全ての夫婦が、子を産む訳ではありません。子を産み育てる働きを、使命として与えられた夫婦もあれば、他人の子を養育、教育する働きを、使命として与えられた夫婦もあれば、子には直接関わらない働きを、使命として与えられた夫婦もあるでしょう。

皆、同じではなく、そこに何の差もなく、上位も下位も、優劣もありません。

結婚は、神様が定められた制度であり、アダムには、神様の手によって、エバが造られ、夫婦とされました。

以降、結婚相手の選択に、神様が関わられる事はなく、自由に相手を選んで来た事でしたが、しかし、アブラハムが神様に召し出されてから、状況が、結婚相手選びが変ります。

神様の造られた世界のお世話に加えて、神様に選ばれた民となったのであり、世界を祝福する使命と働きが与えられたのであり、必然的に、結婚相手も、誰でも良い、と言う訳には行きません。

一緒に世界を祝福すると言う使命と働きを担うのであり、更なる一致と覚悟が必要だからです。

アブラハムはイサクの結婚相手を、アブラハムの親族の中から選ぶ事にしますが、それは選択肢が非常に狭くなる事を意味します。

しかし、神様の御こころであり、神様が導かれ、相応しい相手との出遭いに至ります。

アブラハムから世界を祝福すると言う使命と働きとを引き継いだイサクであり、イサクはエサウとヤコブに、世界を祝福すると言う使命と働きを引き継がねばならず、結婚相手に付いても、積極的に関わらなければなりませんでしたが、

【本論】

26:34 エサウは四十歳になって、ヘテ人ベエリの娘エフディテとヘテ人エロンの娘バセマテとを妻にめとった。

創世記1015節にノアの系図が記されていますが、「ヘテ人」は、ノアの3人の息子の一人、ノアの呪いを受けたハムの息子、カナンの息子の子孫であり、カナン先住民の一つです。

アブラハムは、ノアの3人の息子の一人、ノアの祝福を受けたセムの息子、アルパクシャデの息子の子孫でありますが、そもそもの出だしから大きく違っており、大昔に別れ、別々の道を歩み、別々の地に住み、別々の文化、社会を構築して来たのです。

ヘテ人らは、カナンの地に定着し、農耕民族として、生きて来たのであり、アブラハムらは、流浪の旅を続けながら、牧畜民族として、生きて来たのです。

農耕民族と、牧畜民族と、また、海洋民族と、狩猟民族と、山岳民族とでは、文化、習俗、宗教は大きく違います。

元々はノアの子孫であり、何処に住んでも、何を生業としても、文化にも、習俗にも、宗教にも大きな違いはなかったでしょうが、土地が違えば、生業が違えば、そして時が過ぎれば、大きな違いとなります。

カナンの地は、農耕に適した土地ではありますが、農耕は天候に大きく左右されます。

ヘテ人は、カナンの地で、農耕を生業としていましたから、天候を支配する神を、豊作をもたらす神を求めたのであり、雲に乗り、雷を手にし、天候を支配するバアル神を誕生させるに至るのです。

アブラハムはウルの地に住んでいましたが、ウルは月礼拝の盛んな所でした。

しかし、神様に召し出され、ウルの地を離れ、月礼拝を捨てたのであり、創造神を礼拝する民とされたのです。

全く違う道を歩むヘテ人と、アブラハムですが、接点が生じます。

創世記23章に、アブラハムがサラを埋葬するための墓地を購入する経緯が記されていますが、アブラハムは、私有の墓地として、ヘテ人エフロンの畑地と洞穴を購入したのであり、アブラハムの時代から「ヘテ人」とは、浅からぬ、長い付き合いが続いていたのです。

流浪の民アブラハムではありましたが、ヘテ人と交流があり、共存していたのです。

しかし、共存と同化は全く違う話しです。

共存は、別であり続けなければならず、一線を引き続け、区別し続けなければなりません。決して、混交してはならず、溶け込んではならず、融合してはなりません。

時に衝突も起こるでしょうが、出て行かざるを得ない事もありましょうが、だからこそ、流浪の民としての自覚と覚悟を忘れてはならないのです。

神の民は、この世の寄留者であり、旅人であり、余所者であり続けなければならないのです。

これは、相当の覚悟が必要であり、神様への信頼と信仰が必要です。

アブラハムとアブラハムの子孫は、神様に召され、世界を祝福すると言う、使命と働きが与えられましたが、その世界を祝福すると言う使命と働きには、神の民としての独自性、特殊性が伴い、神の民としての独自性、特殊性が維持されていなければならず、神の民としての独自性、特殊性の維持は、世界を祝福すると言う使命と働きと、切っても切り離せない関係にあるのです。

神の民にしか、世界を祝福できないのであり、世界を祝福すると言う働きの独自性、特殊性は、神の民にしか為し得ない使命であり、働きなのです。

少しでも、この世の価値観や損得勘定が入り込んではならず、この世の安定や安心を求めてもならず、孤高を貫かねばならないのです。

神様に従う時、この世と深い関わりを持っていたならば、判断が鈍り、決断に迷いが生じます。

神の民は、神の民とされたならば、この世と距離を置かなければならず、決して、積極的に近寄ってはならないのです。

しかし、エサウは、因りによって、近寄ってはならない、異邦の神、異教の神、偶像を礼拝する民の中から、伴侶を選んでしまったのです。

大切な、世界を祝福すると言う使命と働きに対する認識不足であり、また、神の民との独自性、特殊性に対する認識不足であり、霊的識別力の乏しさ、霊的判断力の欠如、寄留の民であるとの自覚の喪失の為せる業です。

先ほど朗読した34節には「ヘテ人ベエリの娘エフディテとヘテ人エロンの娘バセマテ」と記されていますが、創世記3623節には「36:2 エサウはカナンの女の中から妻をめとった。すなわちヘテ人エロンの娘アダと、ヒビ人ツィブオンの子アナの娘オホリバマ。36:3 それにイシュマエルの娘でネバヨテの妹バセマテである」と記されています。

創世記289節には「28:9 それでエサウはイシュマエルのところに行き、今ある妻たちのほかに、アブラハムの子イシュマエルの娘で、ネバヨテの妹マハラテを妻としてめとった」と記されており、名前が違っていたり、関係性が違っていたりもしていますが、異邦、異教の民から結婚相手を選んでしまった事と、異邦、異教の民から2人も結婚相手を選んでしまった事と、更に、この失敗を糊塗するために、近い親族、従姉妹からも結婚相手を選ぶ言う姑息な手段をとった事は大きな失敗である事は間違いありません

余談ですが、聖書は、違いをそのまま記載している事を評価しなければなりません。

常識的には、整合性を重要視し、聖書の権威を保つために、齟齬を無くすために、どちらかかを書き換えましょうが、聖書はそれをしません。

どちらが正しく、どちらが違っているのかを証明出来ない事は、そのままにするのが適切な処置だからです。

後日、写本が見つかり、間違いが正されるまで待つのも、信仰なのであり、救いに直接関わらない事や、救いの本質に影響しない事を、ああだ、こうだ議論するのは、聖書に対する正しい対応ではありません。

そして、こんな事で躓くならば、聖書を信じられないならば、残念な事です。

26:35 彼女たちはイサクとリベカにとって悩みの種となった

この「悩みの種となった」を、口語訳聖書では「心の痛みとなった」と訳していますが、イサクとリベカの心情を上手く表現した、的確な訳だと思います。

神の民は、神の民の中から結婚相手を探すべきであり、アブラハムは、信頼出来る僕に、息子イサクの嫁探しの働きを委ね、創世記2434節「24:3 私はあなたに、天の神、地の神である主にかけて誓わせる。私がいっしょに住んでいるカナン人の娘の中から、私の息子の妻をめとってはならない。24:4 あなたは私の生まれ故郷に行き、私の息子イサクのために妻を迎えなさい」と命じました。

イサクがリベカを妻として迎えた時、イサクは40歳でした。

自身が40歳の時に、妻を迎えたのですから、息子が40歳にならんとする時、嫁の事に配慮するのは、当然の事です。

繰り返しになりますが、結婚を通して、夫婦で、世界を祝福する使命と働きを担って行くのであり、世界を祝福する使命と働きを、子や孫に引き継いで行かなければなりません。

ですから、結婚相手は誰でも良い訳ではなく、同じ民の中から探さなければ、選ばなければ、決めなければならないのです。

そもそも、結婚は、全く違う人間が一緒になるのであり、氏も、育ちも違うのであり、文化も、価値観も、習俗も、違うのであり、何から何まで違うのです。

そんな、違う二人が一緒にやって行くには、堅固で、常に変らない、不動のモノが必要であり、それは、唯一の神様に対する信頼であり、信仰なのです。

一方の土台を岩の上に据え、もう片方の土台を砂の上に据えたならば、あっという間に傾いてしまう処か、何もしないうちに傾くであろう事は、火を見るよりも明らかです。

好きだとか、気に入った、何て言っているのは、最初だけであり、熱が冷めれば、やって行けなくなるのは必然です。

だからこそ、人を見るのではなく、相手を見るのではなく、神様を見て、神様が出遭わせてくださった人を、結婚相手として受け入れる必要があるのです。

これは、決して、条件をつけるな、とか、好き嫌いを言うな、とか、趣味嗜好の一致で決めるな、とか言っているのではありません。

これらは選びの参考にはなり得るでしょうが、最終的、最重要な決定要因にしてはならないのであり、神の民には、好むと好まざるとに関わらず、自覚すると自覚しないとに関わらず、世界を祝福すると言う使命と働きが、与えられているのであり、結婚も、この前提で、考えなければならないと言う事なのです。

世界を祝福すると言う使命と働きに殉ずるのは、選ばれた、特別な人の働きではなく、神の民は全て、この世界を祝福すると言う使命と働きに召されています。

結婚する、しないに関係ありません。

一人でも、世界を祝福する使命と働きに関わり、夫婦でも、世界を祝福する使命と働きに関わるのです。

エサウには、この自覚がなかったのであり、イサクも、アブラハムの配慮を受けながら、エサウとヤコブに対する配慮が働かなかったのは残念であり、問題を抱える事になってしまうのです。

ここで間違ってはならないのは、異邦の民が、異教の民が問題を起すと受け止めてはなりません。

選んでしまったエサウに、選ばせてしまったイサクに問題がある、と言う事です。

悩みの種となった」はエサウや嫁が問題を起した、ではなく、イサクとリベカの後悔となった、のであり、この後、ヤコブの嫁探しに影響を与える事になるのです。

【適応】神の民と、そうではない人々との、結婚相手の選び方が、同じであるはずがありませんし、同じであってはいけません。

神の民でない民は、趣味嗜好の一致や、家柄、学歴、将来性、価値観の一致、などなどが選びの基準になっているかも知れませんが、神の民は、世界を祝福すると言う使命と働きに殉ずる人を、世界を祝福すると言う使命と働きを一緒に担っていく人を、結婚相手として選ぶのであり、第2コリント614節、15節「6:14 不信者と、つり合わぬくびきをいっしょにつけてはいけません。正義と不法とに、どんなつながりがあるでしょう。光と暗やみとに、どんな交わりがあるでしょう。

6:15キリストとベリアルとに、何の調和があるでしょう。信者と不信者とに、何のかかわりがあるでしょう」です。

キリストとベリアルとに、何の調和もありません。

信者と未信者とに、何の関わりもありません。

未信者の中から、結婚相手を選んではならないし、そもそもそんな関係に発展しそうな状況は避けなければなりません。

神の民と、そうではない民は、価値観が違い、言語が違い、思考が違います。

神様を第一にし、聖書を聴き、聖書を語り、聖書の教えに従い、聖書を基準に考えます。

勿論、完全ではありませんが、完全であろうと努力し、完全に近づくために日々、自分を吟味します。日々悔い改め、日々神様との交わりを大切にします。

神の民と、そうではない民は、生物学的には同じ生き物かも知れませんが、神の民と、そうではない民は、霊的に違う生き物なのです。

同じ空気を吸い、同じ食物を食べ、同じ世界に生きていますが、神の民は、神の息吹を吸い、神の与える霊の糧を食べ、神の世界に生きています。

この世に置かれ、この世に生きていますが、違う世界の住人なのであり、地域や会社での、学校や文化クラブでの、趣味や同好の交流はともかく、夫婦は、神の民同志でなければなりません。

勿論、神の民ではない夫婦の多くが円満であり、良好な家庭を築いているでしょうし、神の民の夫婦でも離婚があり、家庭の崩壊がない訳ではありませんが、神を信じる民ならば、神の民との結婚しか考えなければならず、異邦の民との結婚は、自身にも、神の民にも、神様にも、益はもたらしません。

結婚は、人生最大の問題であり、最大の悩み処ですが、一番大事な所を妥協したなら、後の妥協は、推して知るべし、なのではないでしょうか。

そして、それを糊塗するために、奉仕に励み、祈りに励み、教会生活に励むようになる人がいるのも、少なくはないのです。

そんな奉仕や祈りや礼拝を、神様が喜ばれるはずはありませんし、自身の喜びになるはずがなく、神の民を励まし、慰める力もありはしません。

神の民は、神の民と結婚するのが、一番であり、神の民との結婚を願い続けるなら、神様が最善に導いてくださり、責任をとってくださいます。

結婚したいがために、神の民を装う事もありましょうが、そんな人は神様が裁いてくださいます。

神の民は、神の民との結婚を通して、お互いに励まし合い、お互いに助け合い、お互いに協力し合い、お互いに慰め合うので、神の民であり続けられるのであり、神の民は結婚を通して、神の民の夫婦を通して、神の栄光を現すのです。 

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聖書箇所:ヨハネの福音書91節から12節             2016-7-10礼拝

説教題:「神のわざが現れるため」

説教者:山村 諭 牧師    (説教は非掲載です

【聖書】

9:1 またイエスは道の途中で、生まれつきの盲人を見られた。
9:2 弟子たちは彼についてイエスに質問して言った。「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。」
9:3 イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです。
9:4 わたしたちは、わたしを遣わした方のわざを、昼の間に行わなければなりません。だれも働くことのできない夜が来ます。
9:5 わたしが世にいる間、わたしは世の光です。」
9:6 イエスは、こう言ってから、地面につばきをして、そのつばきで泥を作られた。そしてその泥を盲人の目に塗って言われた。
9:7 「行って、シロアム(訳して言えば、遣わされた者)の池で洗いなさい。」そこで、彼は行って、洗った。すると、見えるようになって、帰って行った。
9:8 近所の人たちや、前に彼が物ごいをしていたのを見ていた人たちが言った。「これはすわって物ごいをしていた人ではないか。」
9:9 ほかの人は、「これはその人だ」と言い、またほかの人は、「そうではない。ただその人に似ているだけだ」と言った。当人は、「私がその人です」と言った。
9:10 そこで、彼らは言った。「それでは、あなたの目はどのようにしてあいたのですか。」
9:11 彼は答えた。「イエスという方が、泥を作って、私の目に塗り、『シロアムの池に行って洗いなさい』と私に言われました。それで、行って洗うと、見えるようになりました。」
9:12 また彼らは彼に言った。「その人はどこにいるのですか。」彼は「私は知りません」と言った。

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聖書箇所:創世記2623節から33節             2016-7-3礼拝

説教題:「和解と契約のしるし」

【導入】

契約、或いは、約束と言う行為は、当事者同士の同意と合意によって初めて成り立つ行為であり、同意、合意事項を、決められた期間、決められた範囲において、忠実、誠実に守らなければなりませんが、期間が満了すれば、条件が変れば、そして当事者が死ねば、約束や契約は解消されます。

勿論、条件次第であり、当事者が亡くなっても、約束や契約の効力を失わない場合もありましょう。

神様の命令に従って、何処に行くのかも知らされない旅に出たアブラハムですが、カナンに滞在した時、神様が現れ、アブラハムにカナンの地を与えるとの約束を交わし、契約のしるしとして一族郎党は割礼を施すのです。

しかし、カナンの地をアブラハムに与えると言う約束は、子孫に対してであり、依然としてアブラハムは特定の地に定着、定住する事なく、寄留者として、その生涯を過ごします。

アブラハムの生き方と、神様との約束、契約はアブラハムの息子、イサクに引き継がれ、イサクもまた特定の地に定着、定住する事なく、寄留者として、その生涯を過ごします。

寄留者と言う生き方は、不安定な生き方であり、保護もなければ、権利もなく、寄留先からの無理難題や、一方的な要求をも、甘んじて受けなければならず、屈辱を忍び、忍耐を強いられる生き方です。

寄留者と言う生き方は、常に危険と隣り合わせの生き方であり、安全、安心、平安とは程遠い生き方です。

しかし、この何の保護もない、権利もない、安全、安心、平安の保証のない生き方だからこそ、神様の守り、導き、助けを実体験出来るのではないでしょうか。

寄留先からの無理難題や、一方的な要求も、神様が盾となり、壁となって、一方的な不利益を被る事もなく、対等、同等の権利を確保し、搾取や強奪の憂き目に合う事もなかったのです。

時に、不当とも言える扱いを受け、出て行ってくれとの、要求を突き付けられますが、それは全く離れた土地への進出であり、新しい土地への前進であり、新しい生き方への進展となったのです。

【本論】

26:23 彼はそこからベエル・シェバに上った。

イサク一行は、出て行ってくれとの、要求を突き付けられゲラルを離れ、更に、一悶着あって、ゲラルの谷間を離れた時、広い処に導かれ、増え広がる事が出来ました。

新しい事にチャレンジするのは、口で言う程、簡単な事ではありません。

人間は保守的であり、誰もが、一歩踏み出すのは、不安であり、未知の世界に対しては、多くの人が、恐怖すら覚える事でしょう。

それでも踏み出す時、未知の世界に飛び込む時、神様の祝福が待っているのであり、この世の力から、この世の影響から、離れれば離れるほど、神様に近づくのであり、神様の力を、神様の影響を受けます。

イサクは、ゲラルの住民やアビメレクとの争いを避けて、ゲラルを離れますが、結果的に、この世の保護を離れたのであり、神様の保護に入ったのであり、神様からの祝福を更に大きく受ける事になります。

ベエル・シェバ」は創世記2131節に登場した処ですが、アブラハムとアビメレクとの、和解と不可侵条約締結の場であり、7つの井戸がアブラハムに帰属する事の確認として、7頭の子羊がアビメレクに贈られた処です。

記念の場所であり、原点に戻る意味でも重要な場所と言えるでしょう。

26:24 【主】はその夜、彼に現れて仰せられた。「わたしはあなたの父アブラハムの神である。恐れてはならない。わたしがあなたとともにいる。わたしはあなたを祝福し、あなたの子孫を増し加えよう。わたしのしもべアブラハムのゆえに。」

神様がイサクに現れるのは、ここと、ゲラルに入植した時、262節だけです。

その2節と、ここ24節との間の、時間の経過を知る手掛かりは記されはおらず、ゲラルに滞在した年月は、想像するしかありません。

イサクがリベカと結婚したのが、イサク40歳の時であり、ゲラルに逃避したのは、イサク40歳以降の事であり、エサウとヤコブが産まれたのが、イサク60歳の時と考えられており、ゲラルでの一連の出来事は、エサウとヤコブ誕生前の事と考えられていますから、この20年間の、何処かの期間を、ゲラルで過ごしたのです。

その、始めと終りに、神様が現れてくださった、と言うのは、意味ある事なのではないでしょうか。

飢饉を避けるため、父アブラハムと過ごした住み慣れた処を離れ、見ず知らずのエジプトに向うと言う不安な旅の途中で、父アブラハムの信じ従う神様が現れてくださり、ゲラルに留まれとの命令を与えてくださったのですから、本当に安堵したのではないでしょうか。

ゲラルでは、新参者、寄留者、余所者として、肩身の狭い思いをしましたが、何度も何度も、嫌がらせを受けもしましたが、神様が祝福してくださったので、百倍の収穫を得、家畜も僕も多く与えられ、実力も備わって、一目置かれる、恐れられる存在になって行ったのです。

右肩上がりに、実力を付け、富みを増やして行くイサクを快く思わず、ゲラルから出て行ってくれ、との厳しい要求に対して、イサク一行は権利を主張する事なく、実力を持って、アビメレクに対抗する事を選ばず、黙って要求を呑むのです。

そこには、神様に対する信仰と従順とがあったからですが、それでも、この選択が正しいか否かは、この先行きに、悩んだのではないでしょうか。

そんな時、神様は現れてくださり、声をかけ、励ましを、希望を与えてくださるのです。神様は、人生の区切りや、重要なポイントに現れてくださり、指針と、励ましと、希望を与えて下さるのです。

神様の宣言の内容は、2節と24節とで、大きな違いはありませんが、忘れ易い、疑い易い人間にとって、繰り返しの宣言は大きな意味を持ちましょう。

疑いや迷いは吹き払われ、確信が与えられ、思い込みや勘違いは正されましょう。

そして重要なのは「わたしのしもべ」との表現です。

聖書全体では76例程ありますが、創世記中、唯一の、聖書中、最初の用例であり、アブラハムが信仰の父と呼ばれる所以(ゆえん)でもありましょう。

そして、父アブラハムの働きは、名実ともにイサクに引き継がれたのであり、

26:25 イサクはそこに祭壇を築き、【主】の御名によって祈った。彼はそこに天幕を張り、イサクのしもべらは、そこに井戸を掘った。

祭壇を築き」「祈った」は、礼拝行為であり、「神様が来てくださり、語りかけてくださった」事への応答です。

2節の時には、祭壇も築かず、祈りも献げなかったイサクでしたが、飢饉の始まりの時の逃避行から、現在までを振り返って見るならば、失ったものは何一つない事に、僅かな家畜と、数人の僕を引き連れての出発であったのに、今は羊の群れ、牛の群れ、多くの僕を従える者とされていたのであり、それは、神様の祝福が注がれてこその事であり、それに気付き、祭壇を築き、祈りを献げます。

「父アブラハムの神」から「私の神」に、認識が変えられた瞬間でしょう。

26:26 そのころ、アビメレクは友人のアフザテとその将軍ピコルと、ゲラルからイサクのところにやって来た。

友人」と訳されていますが、新共同訳聖書では「参謀」と訳しています。

アビメレクは参謀、相談役、交渉に長けた人物を引き連れ、威嚇のためでしょうか、将軍をも引き連れて、交渉にやって来た訳です。

勿論、側近二人だけではなく、何人かの家臣か兵隊を引き連れての訪問団であった事は説明するまでもない事でしょう。

ピコル」は創世記2122節でも登場しましたが、同一人物ではなさそうであり、代々引き継ぐ「称号」とも、「家族名」とも考えられています。

小国ではあっても、威儀を正した三役と、家臣、兵隊たちを引き連れての、突然の訪問は、訝りつも、恐ろしかったのではないでしょうか。

26:27 イサクは彼らに言った。「なぜ、あなたがたは私のところに来たのですか。あなたがたは私を憎んで、あなたがたのところから私を追い出したのに。」

ストレートな言葉であり、精一杯の皮肉を込めた、出迎えには相応しくない言葉であり、思ってはいても口に出さない日本人には考えられない言葉です。

文化の違い、であって、普通の会話なのでしょうか。否、神様がついておられるとの確信から、恐れるもののない自信からの言葉なのではないでしょうか。

神様を信じる者と、信じない者との違いは、事実をしっかり見ているか、状況を把握しているか、それをはっきり自覚しているか、なのではないでしょうか。

神様を信じているから、事実はどうでも良い、状況などか知らなくても良い、別に自覚してなくても良い、ではありません。

事実の認識、状況の把握、自覚が、吟味に繋がり、信仰に益するのです。

罪の自覚もなく、救いの必要性も認識せず、何を信じているかの検証もないのでは、何を信じていてもOKであり、何を犠牲にしても従う必要性はなくなります。

何の吟味、考察もなく、根拠もなく、まあ、何とかなる、はあり得ません。

人間関係も同じです。自分を知り、相手を知り、相手の立場になって考えて見る時、解決の道筋が見えてくるのではないでしょうか。

イサクの認識と、発言が100%正しいと言っているのではありません。

しかし、少なくとも、状況は把握していたのに間違いはありません。

何だか解らないけれど追い出された、のではなく、懐かしくて会いに来たのでもない、のであり、変な迎合は不必要であり、毅然とした態度が、今後の進展に影響します。

26:28 それで彼らは言った。「私たちは、【主】があなたとともにおられることを、はっきり見たのです。それで私たちは申し出をします。どうか、私たちの間で、すなわち、私たちとあなたとの間で誓いを立ててください。あなたと契約を結びたいのです。

26:29 それは、私たちがあなたに手出しをせず、ただ、あなたに良いことだけをして、平和のうちにあなたを送り出したように、あなたも私たちに害を加えないということです。あなたは今、【主】に祝福されています。」

アビメレクの申し出は、不可侵条約の締結ですが、その理由は「【主】があなたとともにおられることを、はっきり見た」からだ、と言うのです。

新参者、寄留者、余所者イサクを追い出して、清々したかと思いきや、神様に助けられているイサクを見て妬み、イサクを追い出しはしましたが、それで万事が終わった訳ではなかったのです。

そもそも、罪深い人間が、聖なる清い神様を見る事は出来ませんから、「【主】があなたとともにおられることを、はっきり見た」は比喩的表現であり、イサクと共におられたが、知られず、見えない、唯一真の神様の存在を、肌で感じるような出来事が起こったのではないでしょうか。そして、イサクに注がれていた神様の祝福も追い出す事になり、万事に齟齬が生じたのではないでしょうか。

ゲラル一帯は、決して水の豊富な所ではありません。

年間降水量は300mmほどであり、井戸も常に満々と水を湛えている訳ではありません。

イサクの掘った井戸を取り上げ、アブラハムの掘った井戸を取り上げ、多くの井戸を支配下に置きましたが、イサクが退くと共に、井戸の水も退き、井戸が枯れてしまったのではないでしょうか。

イサクの家畜が居なくなり、ゲラルの住民の家畜にたっぷり食べさせられると思いきや、神様の御手が、重く重く圧し掛かり、ゲラルの家畜や住民の間に、病気が流行したのかも知れません。

イサクを追い出しはしましたが、かえって脅威を感じたのではないでしょうか。

しかし、29節の言い様は、何とも虫の良い言い分です。

ただ、あなたに良いことだけをして」と訳されていますが、新共同訳聖書では「むしろあなたのためになるように計り」と訳しています。

「井戸を塞ぎ、井戸を横取りした」のに「手出しをせず」と言い替え、

追い出した」のに「平和のうちに…送り出した」と言い替えます。

詭弁の見本のような言葉の羅列ですが、そう思わないと、良心の咎めを感じるのであり、保身なのであり、人間の性なのです。

性だからこそ、体面を慮(おもんぱか)り、体裁を整える事ばかりに腐心するのではなく、本心はどうなのかと、自身の内側を吟味しなければならないのです。

アビメレクらの、手前勝手な提案ですが、イサクには大した得にはならない提案ですが、イサクはアビメレクらの提案を受け入れます。

26:30 そこでイサクは彼らのために宴会を催し、彼らは飲んだり、食べたりした。

26:31 翌朝早く、彼らは互いに契約を結んだ。イサクは彼らを送り出し、彼らは平和のうちに彼のところから去って行った。

和解と契約のしるしとして、宴会が催されます。

契約には、儀式が伴い、アブラハムの時には、七頭の子羊が贈られましたが、生け贄を切り裂いたりもします。

契約書などのなかった時代には、契約と共に、記憶に残る儀式を行ない、契約が確かに交わされた事を確認するのです。

契約を結んだからと言って、問題が全て、理想的に解決された訳ではありません。

外交交渉の成立に過ぎませんが、群雄割拠の世界にあって、弱肉強食の時代にあって、権謀術策が横行する中で、大きな進展ではありましょう。

26:32 ちょうどその日、イサクのしもべたちが帰って来て、彼らが掘り当てた井戸のことについて彼に告げて言った。「私どもは水を見つけました。」

26:33 そこで彼は、その井戸をシブアと呼んだ。それゆえ、その町の名は、今日に至るまで、ベエル・シェバという。

ゲラルを出て、広大な土地に寄留する事となったイサク一行ですが、水がなければ、広くても、近隣住民との摩擦がなくても、生きては行けません。

アビメレクと契約を結び、精神的な安心を手に入れた所に、井戸を掘り当てて、物質的な安心を手に入れられたのであり、これからの歩みを確実なものとする、神様からの祝福の現れなのです。

シブア」も「シェバ」も、「7」或いは「豊かな、多くの、十分な」を意味するヘブル語であり、「シブア」は男性形、「シェバ」は女性形です。

「7」は神聖な数とされ、「誓い」を意味するようになります。

この「誓い」ですが、形の上では人と人との誓いであり、人と人であるなら、裏切ってもお互い様、心変わりが前提かも知れませんが、神様を信じる者は、神様を介して人と誓うのであり、重みがまるで違います。

神様との約束に、裏切り、心変わりはあり得ません。

アビメレクが裏切っても、イサクは裏切ってはならず、それが神様を信じる者の生き方なのです。

さて、この「ベエル・シェバ」ですが、アブラハムが付けた名前であり、そこに、いみじくも、イサクも同じ名をつけたのであり、偶然ではなく、神様の摂理であり、

アブラハムの人生、イサクの人生、違う人生ですが、紆余曲折の中で、神様との契約の、新しいステージに入った事が暗示されているのです。

アブラハムの場合には、イサクを献げると言う試練に遭い、イサクの場合には、エサウ、ヤコブが産まれ、働きを引き継ぐ事になるのです。

【適応】

イサクの所に、ゲラルの王様アビメレクと、参謀アフザテと、将軍ピコルとが訪ねて来た時、イサクはどんなにか、恐れ、慄いた事でしょうか。

一国の王様が、外出の時、軍隊を引き連れて来るのは、当然であり、特別な事ではないかも知れません。

この状況は、創世記21章のアブラハムの体験と酷似し、全く同じと言っても良いでしょう。アブラハムの時は、追い出された訳ではなく、ゲラルの近くに滞在、寄留していたのですから、アビメレクとピコルの訪問は、想定され得る事でしょう。

しかし、イサクの場合には、度重なる嫌がらせを受け、追い出されたのであり、断絶、没交流が前提にあり、訪問は、想定外の事です。

それでも、同じ事が起こったのには、聖書に記されているのには意味があります。

神様のお取り扱いは一人一人に、であって、全く同じ状況が、再現される事もある、と言う事です。

アブラハムの体験は、語り伝えられる必要がありますが、イサクは語り伝えられるだけではなく、自身が体験しなければならず、イサクがアブラハムと同じ体験をしたのは、アブラハムの信仰と働きを100%引き継いだからであり、イサクに必要だったからです。同じように、私たちは、アブラハムの信仰と働きを引き継ぐ者であり、聖書から、同じ事を繰り返し、学ばなければならないのです。

創世記21章で学んだ事ですが、今一度確認しましょう。

イサクを訪問したアビメレク、参謀、将軍と軍隊。

威嚇の意味はなくても、軍隊に包囲されての交渉は、非常に不利であり、相手の言い成りに成らざるを得ず、過激な発言や、不用意な反論は命取りです。

アビメレクが二人の側近を同行させたのも、イサクに精神的な圧力をかけ、交渉を有利に進める意図があった事は否めないでしょう。

しかし、イサクは、軍隊を目の当たりにしても、全く動ぜず、何の恐れも持たずに、堂々と交渉に臨んでいるのです。

一方のアビメレクはイサクの信じる神様を、心底から、恐れていたのであり、参謀、将軍、軍隊を同行させたのも、イサクを威圧する目的よりも、自身の安全のためであったのではないでしょうか。

わざわざ遠路、出向いたのも、ゲラルに下された災害、病苦をイサクの信じる神様からの災いだと、確信したからでしょう。

アビメレクの恐れは、漠然とした恐れではなく、神様の臨在を体験した者の、明確な恐れであり、だからこそ「【主】があなたとともにおられることを、はっきり見た」と告白しているのであり、イサクの信じる神様の怒りを恐れるが故に、参謀と将軍と軍隊を同行させたのでしょう。

アビメレクとの交渉に臨むイサクですが、アブラハムとイサクとには大きな違いがあります。年齢は凡そですが、100歳と60歳。甥のロト救出の戦闘体験があり、イサクに闘いの経験はありませんから、立ち居振る舞いに、貫禄に、大きな差があった事でしょう。

それでも、神様を信じ、信頼する時、その差は問題ではありません。経験豊富でも、経験が少なくても、老齢でも、若くても、多才でも、凡人でも、神様を信じるのに、妨げとはなりませんし、神様の働きを担うに、決定的な問題とはなりません。

唯一真の神様を信じる民は、卑屈になる必要はありません。

変な遠慮をする必要もありません。

勿論、傲慢に振舞ったり、居丈高になってはいけませんが、全知全能の神様を信じ、従う者に相応しく、どんな時でも、揺らぐ事なく、平静に振舞い、神様の教えに従って、礼儀正しく、誠実に、冷静沈着、客観的な判断を下すならば、

双方にとって最善の結果をもたらす結果となる事は間違いありませんし、信頼を得る事になります。

この世では疎外され、追い出されても、イザと言う時に、助けを求められる存在になるのではないでしょうか。

唯一真の神様を信じる民とされた私たちは、唯一真の神様を知らない民との和解に関わり、平和をもたらし、唯一真の神様を世に知らしめる働きが期待されているのです。

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