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聖書個所:ヨハネ8:21~30 2016-8-28礼拝
説教題:「イエスは誰なのか・・・上から来られたお方」
【導入】
イエス様は誰なのか。
今日はその6回目の学びです。
前回の学びで、イエス様は光そのものであり、太陽のように誰彼の区別なく、私たち人類全てを照らし、私たちを包み込み、私たちを永遠のいのちに導くお方である事を確認しました。
イエス様の光としてのご性質、影響力は限定された地域、社会、時間、時代だけでなく、地域を越えて世界に、時間を超えてあらゆる時代に広がり、恵みを注いでいるのです。
イエス様は太陽の如く昇られて、光といのちと平和と救いとを、闇の世界に満ち渡らすために来られたのです
このイエス様を光として受け入れるならば、私たちの歩みが道を間違う事も、躓き倒れる事もありません。
人間が考え出した教えや方法であるならば、間違いや、時代に合わなくなる部分があるでしょうが、イエス様の行動や語られている事柄はイエス様の考えではありません。
イエス様の言葉や行動は、天におられる神様から与えられた言葉であり、神様から与えられた使命を果しているのに過ぎないのです。
しかも、普通の預言者のように、ラジオや電話のように、天国にいる神様の言葉を、地上で受け取り、受信して、オウム返しに語っているのではなく、天そのものにおられた方が、神様の私信を預かって、天から下って来られて、神様の私信を語っている、その事が証しされているのが今日のテキストの内容なのです。
【本論】
8:21 イエスはまた彼らに言われた。「わたしは去って行きます。あなたがたはわたしを捜すけれども、自分の罪の中で死にます。わたしが行く所に、あなたがたは来ることができません。」
通常の会話で「わたしは去って行きます」と言ったならば、それは、その場を離れる事であり、或いは予言的に死ぬ事を現しているでしょう。
しかし、ここで、イエス様が語られたのは、別の場所に行くとか、死んで会えなくなると言うような事ではありません。
23節で仰っているように、また導入で説明したように、イエス様は天から下って来られたのであり、去っていく場所、帰って行かれる場所は天国なのです。
イエス様は地上での使命を終えられたならば、天国に帰って行かれます。
その天国は、神様の目で見て正しい行ないをした人、義人だけが入れるところです。
少しでも罪があるなら、事の大小、軽重に関らず、決して入る事が出来ないのです。
罪を犯した代償として、何を捧げても、償いをしても、善行を積んだとしても、詫びても、決して赦される事はなく、天国に入る事が出来ず、地獄に落ちなければなりません。
そして、「あなたがたはわたしを捜すけれども、自分の罪の中で死にます。わたしが行く所に、あなたがたは来ることができません。」とは、イエス様が天に帰られてから、イエス様を探し、イエス様がメシヤであると気が付いても、遅いのだと言うことを宣言しておられる言葉なのです。
この教理は非常に厳しいものを含んでいます。
天国に入れるかどうかが決まる、タイミングがあると言う事です。
イエス様の言葉を聞き、行ないを見た者は、間接的に神様を見たのであり、神様の声を聞いたのです。
神様の言葉を聞いた者は、受け入れるか、拒否するかの選択を迫られます。
そして多くの者は、前回の聖書箇所、8章19節「あなたがたは、わたしをも、わたしの父をも知りません。もし、あなたがたがわたしを知っていたなら、わたしの父をも知っていたでしょう。」と宣言されているように、イエス様も神様も知らない人々であり、イエス様を受け入れない者は、神様を受け入れない者であり、そのような者が天国に入る事はないのです。
これは現代の私たちに向けても語られている言葉です。
イエス様を受け入れるのに、遅過ぎる事はありませんが、あくまでイエス様を拒み続けるならば、そのような者が天国に入る事はないと言う事です。
イエス様を救い主と信じる以外に天国に入る方法は、人間には用意されていないのですから、当然の事なのですが、イエス様以外に救いを求めても救いはないのであり、死んでからでは遅いのです。
家族がどんなに執り成し、祈ろうが、善行に励もうが、遅いのであり、日本仏教のように、読経をあげようが、供物を捧げようが、遅いのであり、神道のように、祝詞をあげようが、玉串を供えようが、遅いのであり、本人が生きている間に、本人が決めなければならないのです。
私たちの命は死んでお終いではありません。
死んで肉体は朽ち、土に帰っても、魂は残り、イエス様の前に集められます。
そこで、やっとイエス様は神様が遣わされた救い主であると気が付いても、イエス様を拒み、神様の用意された救いを拒んだ者は、永遠の裁きに服さなければならず、決して天国に入る事は出来ないのです。
この重要な教理が語られているのに、人々はそれと気が付かず、イエス様の言葉を曲解して、
8:22 そこで、ユダヤ人たちは言った。「あの人は『わたしが行く所に、あなたがたは来ることができない。』と言うが、自殺するつもりなのか。」
ユダヤの律法では他人の命を奪う事は勿論の事、自分の命を殺める事も禁じております。
自殺者は律法の違反者であり、天国に入れず、地獄に落ちると信じられていました。
ユダヤ人は律法を守る事に安住して、自分たちは間違いなく天国に入れると思い込んでいました。
ユダヤ人が天国に行くのは確実な事であり、イエス様が、あなたがたは来る事が出来ないと仰るのであれば、それは天国の事ではなく、地獄の事であり、故に、イエス様は自殺するつもりなのかと言った訳なのです。
自分たちの伝統、律法を守る事に何の疑いも持たず、自分の行動を吟味する事を忘れてしまうと、こんな愚かな判断をしてしまう事もあるのです。
殺人だけが天国に入れず、地獄に行く罪ではありません。
人に対する憎しみ、軽蔑、差別も神様の目から見たならば、人を殺めるのと変りのない事なのです。
誰でも、律法のどれでも犯したならば天国には入れず、地獄に行くしかありません。
律法は確かに大切な教えであり、おろそかにしてはなりませんが、律法で全てが解決する、律法さえ守っていれば安心、と言う考えは危険です。
同じように、洗礼を受け、聖餐を受け、礼拝を守り、献金を献げ、熱心に奉仕をしていれば、安心なのではありません。
これは間違いなく、律法主義、戒律主義です。
洗礼を受け、聖餐に与る事は大切ですが、洗礼そのものは、水に沈む事であり、水泳や入浴と何ら変りはありません。
聖餐も普通のパンと普通の葡萄液であり、食事と何ら変りはありません。
洗礼もパンと葡萄液も、そのもの自体には救う力はありません。
イエス様を信じる告白と、その本質である、神様との交わり、関係の回復が重要なのです。
洗礼も聖餐も神様との関係回復の象徴であり、洗礼を受け、聖餐に預っても、悔い改めがないならば、単なる儀式でしかなく、そこには魂を救う力はありません。
逆に洗礼を受けていなくても、聖餐に与っていなくても、イエス様を信じる信仰が明白であり、悔い改めの告白があるなら、その人は確実に天国に入る人と言えるのです。
ですから、イエス様にしか救いはないとの信仰と、その告白、悔い改めがあってこそ、洗礼にも聖餐にも意味が生じるのです。
だからと言って、律法が無意味な訳ではありません。
律法は、律法を守る事の限界を悟り、律法では完全な義には至らず、神様の憐れみに縋るしかない事を悟るためのものなのに、律法を完全に守っていると思い込んで、天国に行けると信じ込んでいるユダヤ人に向かって、イエス様は、その間違いを指摘します。
8:23 それでイエスは彼らに言われた。「あなたがたが来たのは下からであり、わたしが来たのは上からです。あなたがたはこの世の者であり、わたしはこの世の者ではありません。
8:24 それでわたしは、あなたがたが自分の罪の中で死ぬと、あなたがたに言ったのです。もしあなたがたが、わたしのことを信じなければ、あなたがたは自分の罪の中で死ぬのです。」
「下から」と「上から」と言う言葉は非常に象徴的です。
下から、つまり律法によっては決して天国には行けないのであり、天の事を知る事も出来ず、この世でもがき、あがき、他人を蹴落として、自分も蹴落とされて滅んで行くしかないのです。
或いは律法を守っていると思い込んで、慢心し、油断し、滅びに向かっている事に気が付きもしないのです。
下の事柄、つまり律法を知っている、行なっていると豪語しても、それは自己満足の範疇であり、決して神様の基準に達し得ない事を露ほどにも知ってはいないのです。
しかし、イエス様は上から来られた方であり、神様のご意志を現し、救いの道を示し、間違いなく天国に導いて下さるのです。
下からはどんなに手を伸ばし、努力しても上に行く事は出来ません。
上は遥か彼方であり、掴み所がなく、足掛かりもありません。
しかし、上からイエス様が手を伸ばされたなら、それを掴むのは容易な事なのです。
自分で努力しなくても、手を離さなければ、イエス様が引き上げて下さいます。
頑張って昇らなくても、ぶら下がっていれば、何時かは天国に到着するのです。
そして、この世の者は、この世の事は良く知っているかも知れないが、上の事、神様のご計画、お考えについては全く無知であり、神様の御心のほんの少しも知る事が出来ない存在なのです。
8:25 そこで、彼らはイエスに言った。「あなたはだれですか。」
この群集の質問は何回も繰り返された質問ですが、決して本心からの質問ではありません。
群集は、イエス様が何を語られ、何を主張なさったかを充分に聴いていました。
それなのに、また同じ質問を繰り返したのは、イエス様から何か新しい宣言を引き出して、それを捕まえて告訴の根拠にしようとたくらんだからに違いありません。
イエスは言われた。「それは初めからわたしがあなたがたに話そうとしていることです。
このイエス様の「話そうとしていることです。」には別訳があります。
「話して来たとおりのものです。」と訳せます。
イエス様は、そのお働きの初めから、ご自分について語って来られました。
つまり、「新しく言うべき事は何もない。」と宣言し、今まで話して来た事どもを思い出す事を促しているのです。
さらに、
8:26 わたしには、あなたがたについて言うべきこと、さばくべきことがたくさんあります。しかし、わたしを遣わした方は真実であって、わたしはその方から聞いたことをそのまま世に告げるのです。」
イエス様がそのお働きの初めから語っている事は、ご自分の考えではなく、神様から聴いた言葉を、そのまま語っていると宣言されるのです。
この事は、全てのキリスト者、特に説教者に対する模範の言葉です。
私たちがイエス様について証しをする時、自分の体験談や、自分のキリスト理解を話すのではなく、聖書に示された神の言葉を語らなければならない、と言う事を教えています。
聖書は神様の言葉ですから、それに付け加えても、削り取ってもなりません。
聖書から聴き、聖書を語るのです。
聖書を離れた説教、奨励は、どんなに感動的であり、人々の心を打っても、何の意味もありません。
それは、良いお話かも知れませんが、キリスト教の説教でも、奨励でもありません。
イエス様は人々を感動させる話しをするために来られたのではありません。
人々が悔い改め、永遠の命を得るために来られ、その事を語られたのです。
私たちも聖書から、聖書の語る神について、聖書の語る裁きについて、聖書の語る救いについて語らなければならないのです。
そこに、変な調味料や、遠慮、配慮はいりません。
第1コリント1章18節「十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です」。
第2テモテ3章16節「聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です」。
聖書、十字架の言葉だけが、私たちに必要、有益なのであって、それ以外は不必要なのであって、時にはキリストを見失う有害なものとなり得るのです。
イエス様の模範にならって、聖書から証しし続ける事が重要なのです。
8:27 彼らは、イエスが父のことを語っておられたことを悟らなかった。
イエス様の言葉を聴いた者の反応は、何時も同じではありません。
誰も悟る事がない時もあれば、時には信じる者が多く起されもするのです。
しかし多くの場合は、誰も悟らず、帰って行く。
これは悲しむべき姿ですが、これが現実なのです。
現実がどうであれ、キリスト者は語り続けなければならず、沈黙は罪です。
8:28 イエスは言われた。「あなたがたが人の子を上げてしまうと、その時、あなたがたは、わたしが何であるか、また、わたしがわたし自身からは何事もせず、ただ父がわたしに教えられたとおりに、これらのことを話していることを、知るようになります。
8:29 わたしを遣わした方はわたしとともにおられます。わたしをひとり残されることはありません。わたしがいつも、そのみこころにかなうことを行なうからです。」
28節、29節は預言的な言葉です。
「あなたがたが人の子を上げてしまうと、」これは十字架の出来事を示しています。
イエス様が十字架に掛けられた時、人々はイエス様がメシヤであり、イエス様のなさった事は全て、ご自分の権威やお考えで行なったのではなく、父なる神様から委ねられた事を行なっただけであり、父なる神が教え、語るようにと命じられた事柄だけを世に向かって語られたのだ、と言う事を理解するであろうと預言したのです。
そして、父なる神様の願い通りに行なうならば、父なる神がイエス様を離れる事はない、と宣言しておられるのです。
イエス様の言葉と行動は、父なる神のお考えと寸分の違いもありません。
三位一体の、第一位格である神と、第二位格であるイエス・キリストの完全な一致を宣言している言葉です。
そして、この宣言は、イエス様を信じる私たちにも語られている言葉であると理解する必要があります。
即ち、イエス様のような完全には到達できなくても、不完全ながらであってもいつも神様の御心に適う事を行なうように心がけ、それを目標として生きる事とで、父なる神様が私たちとともにおられる、と言う事がわかるようになり、一人残される事は決してないようにされるのだ、と言う事です。
例え全世界が神様の教えに反対しても、なお私たちは一人ではないのですから、恐れる事はなく、この世に屈服してはならないのです。
8:30 イエスがこれらのことを話しておられると、多くの者がイエスを信じた。
「多くの者がイエスを信じた。」と記されていますが、その信仰は長く続くものではありませんでした。
彼らの信仰は表面的なものでしかなかったのです。
人はある程度までは知的に信仰の真理を悟り、自分のなすべき事を知りますが、知っているのと、行うのは全く違います。
知っても行なわなければ、その心は新しくされず、罪の中にあり続けるのです。
道に蒔かれた種、岩地に蒔かれた種、藪に蒔かれた種、良い地に蒔かれた種の喩えが教える通りです。
【適応】
私たちは神様に喜ばれるような者ではありません。
失敗を繰り返し、神様を悲しませる事や、人を傷つける事しかできません。
どんなに律法を守り、善行をし、修行、精進をしても、それで救われる事はありません。
返って、罪の意識が生じ、自分に絶望するしかないでしょう。
しかし、上を見上げるなら、そこには確実な救いがあるのです。
私のなす何かによってではなく、イエス様のなした義によって、私も義と見做され、永遠の命を頂く事が出来るのです。
地上には希望がなくても、上には希望が、確実な救いがあるのです。
上から来られたお方は、私たちのために来られ、救いを完成して上に帰られました。
この上から来られたお方に従う限り、救いに漏れる事はありません。
地上のものは何時かほころび、朽ち、使い物にならなくなります。
しかし、上からのものはほころぶ事も、朽ちる事も、使い物にならなくなる事もありません。
何時も変らず、完全であり続けているからです。
上のものだから信頼出来るのであり、他に代るものがないのです。
地上には救いはありません。
上におられるお方にだけ、人間を救う力と赦しを宣言する権威があるのです。
ここにおられる皆様が、上から来られたお方を信じ、信じ続け、天国に入り、永遠のいのちを受けられますように。
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聖書個所:ヨハネ8章12節~20節 2016-8-21礼拝
説教題:「イエスは誰なのか・・・わたしは世の光です。」
【導入】
イエス様は誰なのか。
今日はその5回目の学びです。
イエス様に対する人々の評価は、判断は、まちまちであり、「この方はキリストだ」と評価する人もいれば、「惑わしているだけだ」との判断を下す人々もいました。
否定的な判断を下す人々は、イエス様に対して「私たちはこの人がどこから来たのか知っている」「まさか、キリストはガリラヤからは出ないだろう」と証言していますが、その証言は不充分な知識から導き出された、間違った判断であって、イエス様がキリストである事を認めず、受け入れる事はしませんでした。
否定派が、保守右派が大多数を占める議会のメンバーの中から、イエス様を弁護する者が起され、大胆な証しがされた事も学びました。
イエス様はメシヤ、キリスト、即ち「油注がれた者」であるのか、偉大な預言者の一人に過ぎないのか。
人々も、祭司長、律法学者、パリサイ人たちも、その意見が二分する中で、敵対者はイエス様を言葉の罠にかけ、葬り去ろうと、執拗な攻撃をしかけて来るのです。
イエス様は彼らの質問に直接答える事をせず、逆に質問する事を通して、真理を悟らせようとなさいます。
前回の学びでは姦淫の罪を犯した一人の女性を人々の真中に連れ出し、イエス様に「あなたは何と言われますか。」と詰め寄る中で、「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」とお答えになり、自身の罪の問題に目を向けさせ、赦しの教理を教えられたのでした。
イエス様を言葉の罠にかけようとして意気揚揚として集まって来た人々が、恥じ入り、三々五々と帰っていった後で、イエス様は、朝早くイエス様の言葉を聴きたくて集まって来ていた人々に話しを再開されます。
【本論】
人々が集まり、イエス様がお話をされた場所は、8章20節に「イエスは宮で教えられたとき、献金箱のある所でこのことを話された。」と記されているとおり、宮の中の、献金箱の側です。
この献金箱のある場所とは、神殿の中の「婦人の庭」と呼ばれる場所を指し示しています。
この婦人の庭には大きな4つの金の燭台があって、夕方に火がともされ、その明かりはエルサレムの町をも照らしていたそうです。
イエス様が宮で語られ始めたのは、日が昇り切らぬ、薄暗い中であり、その時には金の燭台は煌煌と輝き、辺りを明るく照らしていた事でしょう。
しかし、律法学者、パリサイ人らが女を引き釣り出して、問答が終った時には、薄暗く白白としていた空もすっかり明けてしまっていました。
太陽が昇り、新しい、圧倒的な光の中では、あれだけ煌煌と光を放っていた金の燭台は、何の役にも立たなくなっていた。
当たり前の、毎日繰り返される光景ですが、人間の作り出す、薄暗い光と、神様が造られた、圧倒的な光りの対比の中で、語られたのが今日のテキストの場面なのです。
8:12 イエスはまた彼らに語って言われた。「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」
イエス様が語られる時、多くの場合、喩えを用いられましたが、今日のテキストの場面でも、喩えを用いられました。
今、正に太陽が昇り、荘厳な光を辺りに撒き散らし、神秘的とも、幽玄とも思えた神殿の明かりは、色褪せてしまっている。
その現実の目の前に展開される情景のなかで、イエス様は「わたしは、世の光です。」と宣言されたのです。
神殿に灯された金の燭台は人工的な光であり、太陽が昇れば役に立たなくなる光です。
神殿は礼拝を献げ、生贄を献げる場所です。
その象徴とも言うべき、金の燭台の光です。
神殿に灯された光を目当てにすれば、間違いなく神殿に来る事が出来ますが、その光は足元まで照らしてくれる訳ではありません。
燭台の直ぐそば近くまでくれば、足元を照らしてくれるでしょうが、少し離れれば、足元は暗く、何に躓くか分かりません。
しかし、太陽が昇れば、雲が厚く空を覆っていても、窓を閉め切った部屋でもない限り、奥深い洞窟にでもいない限り、何処にいても周りを照らして状況を教え、足元を照らして安全を教え、身に危険が及ぶ事はありません。
大きな建物の影であっても、部屋の中であっても、太陽が昇っていれば、行動するに不自由する事はありません。
その太陽が昇り、辺りを明るく照らす、そのタイミングに合わせて、イエス様は「わたしは、世の光です。」と宣言されたのです。
神殿に灯された限界のある光に対比させて、世界を照らす太陽の光が昇る情景に合わせて、この宣言をされたのです。
この輝かしい表現で、イエス様は、ご自分は預言者たちの語った約束のメシヤ、即ち、救い主である、と宣言されたのです。
群集はイザヤ書49章6節の言葉「わたしはあなたを諸国の民の光とし」を思い出し、同じくイザヤ書42章6節の言葉「国々の光とする。」を思い出した事でしょう。
イエス様の宣言により、群集は、預言者の預言の成就を確信したのではないでしょうか。
更にイエス様は「わたしに従う者は」と続けます。
これは、弟子、しもべ、兵士、或いは羊として「従う」と言う意味です。
弟子が先生に対して、しもべが主人に対して、兵士が上官対して、羊が羊飼いに対して、従順、絶対服従であるように、キリスト者も、イエス様に対して従順、絶対服従であるべきなのです。
従うと言う事は信じると同じ事です。
そして、従うとはマタイの福音書16章24節「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」であり、マタイの福音書19章21節「もし、あなたが完全になりたいなら、帰って、あなたの持ち物を売り払って貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積む事になります。そのうえで、わたしについて来なさい。」であり、ヨハネの福音書10章27節「わたしの羊はわたしの声を聞き分けます。またわたしは彼らを知っています。そして彼らはわたしについて来ます。」であり、ヨハネの福音書12章26節「わたしに仕えるというのなら、その人はわたしについて来なさい。わたしがいる所に、わたしに仕える者もいるべきです。」と言う生き方なのです。
従うというのは概念ではなく、実践であり、キリストに従わなければ、キリストが世の光であられる事はキリスト者に何の益ももたらさないのです。
イエス様が光である事を認める事や、賞賛する事に意味があるのではなく、光であるイエス様に信仰を持って従う事が重要なのです。
そうすれば、「決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」
新約聖書における「やみ」と言う表現は、ある時はヨハネの手紙第1、1章6節のように、罪を指し示し、また、テサロニケ人への手紙第1、5章4節のように無知や不信仰を指し示します。
今日のテキスト8章の前半、姦淫の女の罪との関係で理解するならば、このイエス様の言葉の意味は次のようになるでしょう。
即ち「わたしに従い、わたしの弟子となる者は、闇の力から救い出され、あなたがたが今耳にしたような罪を犯すことは決してなくなるであろう。」となります。
また、姦淫の女の罪に限定せず、人間の精神の知的暗闇と無知とに言及された、と理解するならば、このイエス様の言葉の意味は次のようになるでしょう。
即ち「わたしの弟子として、わたしに従う者は、その魂についての無知と闇のうちを生きることが決してないであろう。」
この宣言は、イエス様に対するユダヤ人の無知、誤解、偏見に対するものであり、無知や誤解、偏見が真理を阻み、真理に近づく事も、真理を見出す事もなく、闇の中を歩きつづける事を示唆しているのです。
信仰によってイエス様を受け入れるならば、その人は、どんな燭台の光よりも、太陽の光よりも、はるかに優る霊的光を持つ事になるのです。
それはちょうど、サマリヤの女に差し出された生ける水がヤコブの井戸に優っているようにです。
イエス様の与える霊的光は、時間や空間に影響を受ける事なく、病気や死でさえも揺らぐ事なく、永遠に輝き続けて、消える事があり得ないものなのです。
この光を持つ者は、その精神、心、良心に光が強く働き続け、その行ないと、生き方と、言葉において、イエス様に似た者となるのです。
この世は道徳的に、霊的な闇の状態にあります。
当然、人は神について、聖について、天国について、自分自身の状態について正しくは何も知ってはいないのです。
だから私たちは光を必要としているのです。
そこで、神様はイエス様を世に遣わしました。
イエス様はご自分を「世の光」であると宣言されました。
昇る太陽を見つめながら「わたしは世の光」であると宣言され、特定の人のためではなく、全世界の人々に漏れなく光となり得る事を宣言されたのです。
しかし、この約束、宣言は「わたしに従う者」に向けられている事を忘れてはなりません。
イエス様を光と信じて従った時、イエス様は私たちを確実に天国へと導いて下さるのです。
人は自分の力で天国に行く事も、入る事もできません。
唯、光に従うほかはないのです。
光を信じて従うならば、闇から救い出され、光を持つ者とされるのです。
これこそが、キリスト教が信じる者にもたらすもの、福音なのです。
この人類にもたらされた大いなる恵み、福音を理解しようとしない人々は、ユダヤの律法を持って、イエス様にイエス様の宣言は無効であると宣告します。
8:13 そこでパリサイ人はイエスに言った。「あなたは自分のことを自分で証言しています。だから、あなたの証言は真実ではありません。」
この意見、宣告はイエス様の宣言に対するもっともな応答です。
イエス様ご自身もヨハネの福音書5章31節で「もしわたしだけが自分のことを証言するのなら、わたしの証言は真実ではありません。」と仰っています。
イエス様の時代でも現代でも、自分の事についての、自分の証言はどちらかと言えば価値のないものだという事は、人々の間で認められている原則と言えるでしょう。
証言は第3者の証言であってこそ尊重され、採用されます。
しかし、イエス様の証言は、一般の預言者やありふれた証言者ではなく、光として、真理として、神の子として、神に遣わされた者としての発言、証言である事を認めなければならないのです。
8:14 イエスは答えて、彼らに言われた。「もしこのわたしが自分のことを証言するなら、その証言は真実です。わたしは、わたしがどこから来たか、また、どこへ行くかを知っているからです。しかしあなたがたは、わたしがどこから来たのか、またどこへ行くのか知りません。
人々はイエス様の出生地を知っているとし、その親の事も、兄弟の事も知っていると豪語しますが、
イエス様の本性、光りそのものである事、神の子である事。
神のご計画によって天の御国から来られ、人々の罪の贖いを成し遂げられ、天の御国に帰って行く事などを知らないでいるのです。
比べて、イエス様は神ご自身であられ、全てを知っておられます。
光は全てを明るみに出します。
隠されているものは一つもありません。
光には暗い部分、嘘、偽りはありません。
光である方、神的起源を持ち、神から派遣されたイエス様が語るのですから、反対者が聞こうが聞くまいが、イエス様の語られた言葉は信頼に値する言葉なのです。
8:15 あなたがたは肉によってさばきます。わたしはだれをもさばきません。
新約聖書において「肉」は罪の性質を現します。
或いは霊に対する反対語として用いられています。
わたしたちは、知り得た証拠や世的な原理に基づいて判断し決定していますが、それは罪のなせる業であって、正しいものではありません。
証拠と言っても、極限られた一部分であり、見えないところ、知り得ない事がたくさんあるのに、まるで全てを知っているかのごとくに裁きを下しますが、それは正しい事ではないと、宣言しておられるのです。
続いて、イエス様は神として、全てを知り得る立場にあり、全てを知る事が出来、裁く事が出来るのに、今はそうしない事を宣言しておられるのです。
将来の、イエス様の再臨の時には裁き主として立ち振る舞うでしょうが、今は、世を裁くためではなく、世を救うために来たのだ、と言う事を宣言しておられるのです。
8:16 しかし、もしわたしがさばくなら、そのさばきは正しいのです。なぜなら、わたしひとりではなく、わたしとわたしを遣わした方とがさばくのだからです。
8:17 あなたがたの律法にも、ふたりの証言は真実であると書かれています。
8:18 わたしが自分の証人であり、また、わたしを遣わした父が、わたしについてあかしされます。」
この16節から18節は、15節の宣言に対する補足説明と言えるでしょう。
イエス様が15節で「わたしはだれをもさばきません。」と仰るのは、その資格がないからではなく、16節以降で説明しているように、充分な資格がある、さらには、間違いようのない証言者がいて、イエス様とともに証言者となり、裁く事が出来る。
しかし、裁くのは今ではない、今は裁くために来たのではない、と宣言されるのです。
8:19 すると、彼らはイエスに言った。「あなたの父はどこにいるのですか。」
「あなたの父はだれですか。」と聞こうとせず、「あなたの父はどこにいるのですか。」との、嘲りを込めた言葉は、イエス様も、イエス様の父の権威をも認めようとはしない心理の現れでしょう。
証言者は何処にいるかが問題なのではなく、誰であるかが問題であるべきです。
反対者たちの質問も、イエス様の証言者としての資格があるかないかが問題だったはずです。
それなのに、何処にいるかを問題にするのは、明らかに問題のすり替えであり、まじめに、本当に知りたいと願っての質問ではなかったのです。
イエスは答えられた。「あなたがたは、わたしをも、わたしの父をも知りません。もし、あなたがたがわたしを知っていたなら、わたしの父をも知っていたでしょう。」
イエス様が反対者たちに告げておられるのは、反対者たちがイエス様についても、父なる神についても無知である、と言う事です。
聖書の知識においては一流であり、高い学識は尊敬に値する事ですが、その聖書が指し示す救い主についても、聖書に込められた神様の愛についても、反対者は何も知らず、知らされても受け入れようとはしなかったのです。
旧約聖書の預言をよく知っていた。
けれども、神をもキリストをも知らなかったのです。
「議員とかパリサイ人のうちで、だれかイエスを信じた者があったか。」
「律法を知らないこの群衆は、のろわれている。」
聖書を熟知している事と、霊的な目が開かれている事とは全く関係ない、と言えるのです。
また、このイエス様の言葉はキリストについての無知と神についての無知とは分かちがたく結びついていると言う事を、はっきりと宣言しています。
キリストについて無知でありながら、神について何事かを正しく知っていると思う人は、全く思い違いをしているのです。
その人が知っているとする神は、聖書の神ではなく、彼自身の創作の産物なる神であり、不完全な神概念しか持ち得ず、神の完全な聖、義、愛、純粋性について僅かな観念しか持ち得ないのです。
また、このイエス様の宣言の言葉は、キリストが道であり、私たちはキリストを通して神を知るに至るべきであるという事を教えています。
キリストにおいて、キリストを通して、キリストによって、私たちは大胆に父なる神の前に出て、神を仰ぎ見る事ができるのです。
【適応】
わたしは世の光です。
この「世」と訳されている言葉は「コスモウ」と言うギリシャ語であり、これは「世、世界、宇宙」と訳せる言葉です。
イエス様の光としてのご性質、影響力は限定された地域、世界、時間、時代だけでなく、地域を越えて世界に、時間を超えてあらゆる時代に広がり、支配し、恵みを注いでいるのです。
イエス様がおられなければ、この世、この世界、この宇宙に光はなく、当然、闇の状態にある事になります。
道徳的、霊的観点からそうなのです。
そして、古代においても、近代においても、現代においても、イエス様を認めない世界においては、自分の魂の価値や、神様のまことの本性や、死後の世界の裁きと刑罰について、知る事も理解する事もできないでいるのです。
科学の発展や、数々の思想は、人々を平安や幸福に導くものとはならず益々混迷の一途を辿っているのです。
「闇が地を覆い、暗闇が諸国の民を覆っている。」とのイザヤ書60章2節の言葉は、2700年前の古代世界の状態ではなく、現代世界の状態でもあるのです。
このような状況に対して、イエス様は、ご自分こそが唯一の解決である事を宣言されたのです。
イエス様は太陽の如く昇られて、光といのちと平和と救いとを、闇の世界のただ中に満ちわたらせられたのです
このイエス様を光として受け入れるならば、私たちの歩みが道を間違う事も、躓き倒れる事もありません。
世の中には多くの「偽の光」が蔓延しています。
理性、哲学、占い、あまたの宗教。
これらの擁護者は、これこそが真理だ、真実だ、と声高に叫んでいますが、数年も経てば、新しい哲学、新しい占い、新しい宗教に入れ替わっているのです。
罪人を救うためにこの世に来られ、私たちの身代りに十字架に死なれ、私たちの友として、神の右に座しておられるイエス様、ただお一人だけが、まことの光なのです。
ここにおられるお一人お一人がイエス様を光として信じ、従い、御国に入られますように。
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聖書個所:ヨハネ8:1~11 2016-8-14礼拝
説教題:「あなたを罪に定める者はいない」
【導入】
イエス様は誰なのか。
過去に「神が遣わされたお方」と題して学び、「この方はキリストだ」と題して学び、また、「議会にて」と題して、敵対者の集団の中から、イエス様を弁護する者が起され、大胆な証しがされた事を学びました。
イエス様がメシヤ、キリストである事が明らかにされて行く中で、敵対者はイエス様を言葉の罠にかけ、葬り去ろうと、執拗な攻撃をしかけて来るのです。
イエス様は彼らの言葉の罠に直接答える事をせず、逆に質問する事を通して、真理を悟らせようとなさいます。
税金を納めるべきか否かの質問に対して、カイザルのものはカイザルに、神のものは神にと、社会的責任と神様に対する責任を果すように諭されました。
今日のテキストでは姦淫と言う罪に対して、言葉の罠にかけようとする人々に対して、他人の罪に眼を向けるのではなく、自身の罪の問題に眼を向けさせ、赦しの教理を教えてくださいます。
【本論】
8:1 イエスはオリーブ山に行かれた。
8:2 そして、朝早く、イエスはもう一度宮にはいられた。民衆はみな、みもとに寄って来た。イエスはすわって、彼らに教え始められた。
仮庵の祭りが終わり、エルサレムに集まって来た参拝者はそれぞれの故郷に、家に帰って行き、最高議会では議論が交わされ、結論も、対策も出ないままで、自然解散となり、祭司長、律法学者、パリサイ人らも家路に就いていった中で、イエス様はオリーブ山に退かれ、一時の休息を取られました。
オリーブ山のふもとにはゲッセマネの園があり、イエス様が夜は何時もここで過ごされた事は、ルカの福音書21章37節に記されている通りです。
しかし、イエス様の地上での働きは期限付きの働きであり、のんびりしている訳にも行かず、働き手は少なく、反対者が多勢いる中で、朝早くから活動を開始なさいます。
朝日が射し出すと同時に、光であるイエス様も活動を開始されるのです。
イエス様は光のあるうちに働きなさいと教えておられますが、その言葉の通りにご自身も光として人々を照らすために朝日と供に活動を始められるのです。
すると不思議な事に、人々は何処からともなく集まって来ます。
光の子は光に集まり、闇の子は闇に集まるのです。
光に集まった光の子は、光そのものであるイエス様から教えを受け、益々光りに近づくのです。
8:3 すると、律法学者とパリサイ人が、姦淫の場で捕えられたひとりの女を連れて来て、真中に置いてから、
8:4 イエスに言った。「先生。この女は姦淫の現場でつかまえられたのです。
8:5 モーセは律法の中で、こういう女を石打ちにするように命じています。ところで、あなたは何と言われますか。」
光であるイエス様を中心として光の子が集まる中で、闇の子が光を葬り去ろうとの悪意を持ってやって来ます。
律法学者とパリサイ人は一人の女を連れて来ます。
この女は「姦淫の現場」で捕まえられた女だと言うのです。
そして、イエス様を言葉の罠にかけようとして、答えを促します。
モーセの律法には、姦淫をした者は石打の刑にする事が命じられています。
レビ記20章10節「人がもし、他人の妻と姦通するなら、すなわちその隣人の妻と姦通するなら、姦通した男も女も必ず殺されなければならない。」
申命記22章22節「夫のある女と寝ている男が見つかった場合は、その女と寝ていた男もその女も、ふたりとも死ななければならない。あなたはイスラエルのうちから悪を除き去りなさい。」
24節「あなたがたは、そのふたりをその町の門のところに連れ出し、石で彼らを打たなければならない。彼らは死ななければならない。」
現行犯ですから、イエス様に伺うまでもなく、モーセの教えの通りに、石打にすればよいのですが、何故イエス様に相談を持ちかけたのでしょうか。
8:6 彼らはイエスをためしてこう言ったのである。それは、イエスを告発する理由を得るためであった。しかし、イエスは身をかがめて、指で地面に書いておられた。
律法学者、パリサイ人はイエス様をためして、イエス様を言葉の罠にかけようとして、このような質問を投げかけたと言うのです。
そもそもイエス様はユダヤ最高議会のメンバーではありません。
律法学者パリサイ人から相談を受ける立場にも、判決を言い渡す立場にもありません。
しかし、人々に愛を説き、赦しを説いているイエス様から、不法な言葉や、思慮のない言葉を言わせ、そうしてイエス様に対して有利な立場に立ち、イエス様を糾弾し、イエス様を葬り去ろうと画策したのです。
その不法な言葉とか、思慮のない言葉とは次の二つにまとめられましょう。
一つは赦しなさいと言った場合です。これは明らかにモーセの教えに反する回答です。
ユダヤ人はモーセの律法を守るために、様々な規定を設けています。
十戒そのものを犯さないようにするのみならず、不用意にであっても、遠まわしであっても律法に抵触しないように、あらゆる行動を想定して細かく規定を設けています。
モーセの律法に反する者はユダヤ社会から追放されます。
モーセの律法に反する事を教える者もユダヤ社会から追放されます。
ユダヤ社会からの追放は、神様の恵みからの追放であり、天国に入れず、滅びる事を意味します。
これは絶対に避けなければならない事です。
だから、律法学者が存在し、人々が罪を犯さないように注意を払っていたのです。
律法学者はそのために存在していると言い切って良い程に、微に入り、細に入り、こと細かく律法に反していないかを調べ、それを人々に教える立場にあったのです。
律法学者の存在は人々を罪から守るため、罪を犯さないようにするためであったのに、その律法学者自らが、律法を悪用し、律法に反する者としてイエス様を罪に落とし入れようとする計画であったのです。
二つ目は、石打の刑を執行しなさいと言った場合です。
ユダヤ人に与えられたモーセの律法では、姦淫の罪は石打の刑と決まってはいますが、犯罪者を処刑する権限はユダヤ人にはありません。
何故ならばユダヤはローマ帝国の支配下にあるからです。
ローマ帝国が持っている犯罪者処刑の権限を差し置いて、死刑を宣言するならば、ローマ帝国の権限を侵すものとしてローマ帝国に告訴してイエス様を葬り去ろうとしたのです。
ヨハネの福音書18章31節に「私たちには、だれを死刑にすることも許されてはいません。」と記されている通りです。
死刑を宣告出来ないのに、イエス様に死刑の宣告をさせ、その言葉を持ってローマ帝国に訴え出て、イエス様を葬り去ろうと言う計画だったのです。
更には、これはイエス様の「赦しなさい」と言う教え、言葉と矛盾します。
イエス様が一方では収税人や遊女には救いを差し出しながら、姦淫の女には死刑を宣告するならば、その一貫性のなさを糾弾し、至る所で言い広める事でしょう。
人々はイエス様に失望し、イエス様はユダヤ人から見向きもされなくなるでしょう。
このように、質問された者が、どう答えても明らかなジレンマや難局に陥ってしまうように計画された巧妙な質問の罠がイエス様に投げかけられたのです。
赦しを宣言しても、死刑を宣言しても、イエス様を葬り去る事が出来るのであり、自分たちの存在を脅かす者も居なくなり、ユダヤ社会は元に戻るのです。
この巧妙な策略に対して、イエス様は沈黙を貫きます。
イエス様は提出された質問に答えるのを拒否なさったのです。
それは、ある点では、質問者の悪意ある動機をご存知だったからであり、また、ある点では、イエス様がこの世にやって来られたのは人々の「裁判官や調停者」になるためではない事を無言の内に伝えるためであったのです。
イエス様が地面に何かを書いておられた姿が記されていますが、これは何かを暗示する行為ではなく、手持ち無沙汰に、持っているペンくるくる回したり、意味もなく紙の上にペンを走らせるような意味のない行動であって、答える意思のない事、このような問題に耳を傾けるつもりも、口出しするつもりもない事を示されただけなのです。
カルバンは「キリストは、何もなさらない事によって、彼らが如何に聞くに価しない人々であるかを示そうとなさったのである。それはちょうどある人が、人から話しかけられている時に、壁に線を引いたり背中を向けたり、その他の仕草をしたりして、話されている事に耳を傾けていない事を示すようなものである」と指摘している通りです。
この無言のイエス様に対し、律法学者やパリサイ人らは、イエス様が答えに窮したものと考えて、ここぞとばかりに、問い続けます。
8:7 けれども、彼らが問い続けてやめなかったので、イエスは身を起こして言われた。「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」
イエス様は姦淫の女の罪を指摘するのではなく、訴え出た者の罪を指摘します。
「あなたがたのうちで罪のない者が」の「罪のない者」とは、原文では「この罪がない者が」の意味であり、問題となっている「姦淫の罪」を示している事が明らかです。
イエス様は姦淫の罪を指摘する律法学者、パリサイ人らに、罪一般の有無を指摘したのではなく、「あなたたちのなかで姦淫の罪を犯した事が無いと言える者が最初に」石を投げなさいと命じられたのです。
イエス様は心の中までご覧になられるお方です。
実際に姦淫の罪を犯した人だけでなく、心で犯した姦淫にも言及され、そのような人にはこの女を裁く資格が無い、と言われているのです。
また、モーセの律法によれば「死刑に処するには、まず証人たちが手を下し」と申命記17章7節に記されている事をイエス様は指摘されました。
証人が死刑執行人となる事がユダヤの掟なのです。
証人の発言には、それだけの重さと責任がある事をイエス様は指摘なさったのです。
律法学者パリサイ人だけでなく、私たちの誰が人の罪を指摘出来るほどに聖く正しいのでしょうか。
イエス様は「この女がどのような刑に当るとしても、あなたがたは彼女に責むべきものを宣告出来るような人々であるのか」と指摘しているのです。
イエス様の言葉は、姦淫の女を断罪もしていないし、罪なしともしていません。
しかし、このイエス様の言葉はモーセの律法に対する尊敬の念を豊かに表わしています。
ある罪を指摘出来るのは、その罪を犯した事がない者だけであり、その者だけが証人となり、刑を執行すべきであると言う事です。
8:8 そしてイエスは、もう一度身をかがめて、地面に書かれた。
8:9 彼らはそれを聞くと、年長者たちから始めて、ひとりひとり出て行き、イエスがひとり残された。女はそのままそこにいた。
朝早く集まって来て、イエス様の話しを聞いていた人々と姦淫の女だけが残され、イエス様を落とし入れようと意気込んでやって来た律法学者、パリサイ人は一人残らず立ち去ってしまったのです。
これは律法学者やパリサイ人が皆姦淫の罪を犯していたと言う事の証明ではなく、姦淫の罪の指摘によって、心の内に宿る良心が呼び覚まされ、心の中で犯した悪い考え、姦淫の罪以外の、諸々の罪が思い出され、恥じ入り、立ち去ったと言う事なのです。
神様のお取り扱いを受けた人間は100%悪人にはなれず、1%でも2%でも良心は残っており、その良心が恥じ入る事を、悔い改めに導く事を教えているのです。
良心と言う言葉は聖霊を意味していると考えても良いでしょう。
100%聖霊に支配して頂くのが理想ですが、人は罪の性質を持っているので100%自由にはなれません。
それでも数%でも聖霊が働く余地があれば、人は悔い改める事が出来るし、その生き方を変えられ得るのです。
8:10 イエスは身を起こして、その女に言われた。「婦人よ。あの人たちは今どこにいますか。あなたを罪に定める者はなかったのですか。」
そもそも、この裁判は最初からおかしな所があります。
姦淫の女はその現場で捕まった現行犯ですから、相手の男がいたはずです。
その男を取り逃がした事も問題です。
最初に姦淫の罪について解説しましたが、男も女も石打にするのがユダヤの掟です。
それなのに女だけが引き釣り出され、男が不問に付されて居る事に何かしらの作為を感じます。
それは別の機会に学ぶ事にして、本題に戻りましょう。
姦淫の現場の証拠、姦淫の当事者は女しかいない。これでは証拠不充分です。
証言者が一人もいないのでは、これ以上詮索する事は出来ず、それゆえ、判決も言い渡す事が出来ないし、その必要もないのです。
何故ならば、証言者のいない裁判はユダヤ社会ではあり得ないからです。
8:11 彼女は言った。「だれもいません。」そこで、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。」〕
このイエス様の宣言は姦淫を是認されたのではありません。
イエス様は、裁く事や判決を言い渡す事は、私の領分や職分ではないのだと宣言されているのであり、イエス様は姦淫の罪を見逃したり、有耶無耶にされたのではなく、また、イエス様は、只、立ち去っても良いと言われたのでもありません。
その反対に、イエス様は女が姦淫の罪に対して有罪である事をほのめかし、「今からは決して罪を犯してはなりません」と釘を刺しているのです。
ここでの「罪」は特定の罪を示してはいません。
先ほど、7節で律法学者たちに向かって「あなたがたのうちで罪のない者が」と言われたときは姦淫を指し示していると申しましたが、11節で女に言われた罪は罪一般を指し示しています。
ある罪を赦された者は、その罪だけでなく、あらゆる罪から離れ去る生き方が求められているのです。
【適応】
今日のテキストでは姦淫の罪が取り上げられましたが、イエス様は姦淫の問題だけでなく、すべての罪について、その罪を裁き、判決を下すために来られたのではありません。
罪を是認もせず、有耶無耶にもせず、見逃しもしませんが、罪から離れる事を強く命じておられるのです。
何故ならば、罪から離れる事は、神様に近づく事であり、祝福を豊かに受ける事だからです。
罪に近づく事、罪を繰り返す事は、神様から離れる事であり、呪いを受ける事だからです。
イエス様は私たちがどんな罪を犯しても、「わたしもあなたを罪に定めない。」と宣言して下さいますが、罪から離れる事を命じられるのです。
そして、神様との関係が正され、神様の祝福を豊かに享受するために、その命を十字架にかけて下さったのです。
イエス様は、有罪の私を罪に定めないと宣言され、私の罪の身代わりとして、罪の刑罰を受けて下ったのです。
イエス様は過去の罪も、現在の罪も、将来の罪をも、罪に定めないと宣言し、その罪の刑罰を受けて下さり、そして、現在の罪から、将来も罪から離れる事を命じておられるのです。
「わたしもあなたを罪に定めない。」この宣言に込められた、イエス様の愛を受け止めて下さい。
ここにおられる皆様が、イエス様の赦し、愛の中に生きられ、罪から離れ、永遠の祝福を受けられますように。
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聖書箇所:創世記27章30節から40節 2016-8-7礼拝
説教題:「長子の権利を売ったエサウのために残された祝福は?」
【導入】
イサクのセコイ策略を聴いたエサウは、起死回生のチャンスと捉えて同意し、猟に出かけます。
比べて、大胆不敵、用意周到なリベカの策略と、ヤコブの何処から生まれたかと思うような度胸と、機転の利いた対応でイサクを欺き、騙し、まんまと長男が受けるべき祝福を我が物にしたヤコブです。
古今東西、人を欺く、騙す行為は連綿と続いています。
ヤコブに欺かれ、騙された形になってしまったイサクですが、イサクは保身のためにリベカを「妹だ」と偽り、ゲラルの王アビメレクを欺いたのであり、アブラハムは保身のためにサラを「妹だ」と偽り、エジプトの王パロを欺いたのであり、暫くの後に、再びゲラルの王アビメレクを欺いたのです。
そもそもはサタンがエバを欺き、決して食べてはならない「知識の木の実」を食べさせた所に端を発しますが、欺き、騙しはサタンの得意技であり、常套手段であり特徴です。
欺き、騙しは、善意、誠実、正直、真実を特徴とする神様と相反する行為であり、真実な神様に召し出され従う民に相応しい行為ではなく、選択してはならない行為です。
神様が決められた事は必ず成就します。
人間の眼には遅いと思われ、違う方向に進みそうに思えても、結果として絶妙のタイミングでご計画の完成を見るのであり、紆余曲折も人間には知らされていない神様のご計画であり、思わぬ効果を発揮し、広範囲に影響を及ぼし、多方面に関係し、神様の御栄光が世に現されるのです。
焦りは禁物であり、人間的な考えや経験を優先させるのは神様の主権を侵害する事であり厳禁ですが、往々にして人間は待つ事が苦手で、策に走り易い傾向をもっている生き物なのです。
人間の特徴であり仕方がない反面、こんな特徴を持っているとの自覚、欠点として認識している事は重要です。
同じ失敗を繰り返さないで済むからであり、御こころに反する方法を選んでしまわないためです。
とは言え、欺きや騙しと無縁ではなく、起してしまった事の事後に起こる様々な問題には対処しなければなりません。
今回は、イサクとエサウに付いて聖書から聴きますが、欺かれたとは言っても一方的な被害者ではなく、発端はイサクとエサウにあるのであり、欺きを仕掛けた結果どうなったか、と言う視点で聖書から聴きましょう。
【本論】
27:30 イサクがヤコブを祝福し終わり、ヤコブが父イサクの前から出て行くか行かないうちに、兄のエサウが猟から帰って来た。
「出て行くか行かないうちに」を新共同訳聖書では「立ち去るとすぐ」と訳し、口語訳聖書では「出て行くとすぐ」と訳していますが、本当に、間一髪だったのであり、ドラマならばイサクの住む土地に向う、鹿を担ぎ歩くエサウの姿をカメラが追いかけ、イサクのテントの中で神妙に祝福を待つヤコブの佇む姿をカメラが押さえている。
黙々とジビエ料理を作るエサウと、早く食べ終わって祝福してくれ、と焦るヤコブ。
動と静の対比、鉢合わせするのではないか、とのハラハラドキドキの瞬間ですが、同じ空間に居ながらお互いに気が付かずに、すれ違うのであり理解し合えず、憎み合う二人を、二人の人生の歩む方向の違いや、生き様の違いを象徴するような、この後のヤコブの将来を暗示するような描写となっています。
猟から獲物を仕留めて帰って来たエサウは、早々とイサクの好むジビエ料理を作り上げ、意気揚揚とテントの中に居るイサクに声を掛けます。
27:31 彼もまた、おいしい料理をこしらえて、父のところに持って来た。そして父に言った。「お父さんは起きて、子どもの獲物を召し上がることができます。あなたご自身が私を祝福してくださるために。」
このエサウの台詞は19節のヤコブの台詞と概ね同じです。
ヤコブは、エサウの特徴を真似た声音でもって、エサウの特徴を真似た言い回しをしたのであり、イサクはまんまとヤコブに欺かれてしまったのですが、19節のヤコブの台詞と31節のエサウの台詞には大きな違いが隠されています。
ヤコブは欺く立場であり、失敗を許されない非常な緊張感を味わいつつ、であり、エサウは順調に事が運んでいる安心と、自信が漲り祝福を期待する者の喜びに満ちた落ち着きがある、と言う事です。
ここでは明暗の対比、自信と不安の対比が描かれています。
エサウの、イサクに対する呼び掛けに、予想だにしなかった答えが返って来ます。
27:32 すると父イサクは彼に尋ねた。「おまえはだれだ。」彼は答えた。「私はあなたの子、長男のエサウです。」
18節でもイサクが「だれだね、お前は」と尋ね、ヤコブは「私は長男のエサウです」と答えましたが、同じ状況が繰り返されます。
尋ねる言葉にも、答える言葉にも、微妙な原語の違いがあり、状況を加味した訳の違いはありますが大きな違いではありません。
しかし、イサクの心中の驚きは、そしてエサウの心中の驚きは複雑な驚きであり、理解し難い驚きであった事でしょう。
イサクは、エサウのジビエ料理を食しているのであり、エサウが来たと信じ込んでいるのであり、確信を持ってエサウを祝福したのであり、再びエサウがジビエ料理を持ってくるなどとは、祝福を要求されるなどとはあり得ない事であり、非常な驚きであった事でしょう。
一方のエサウも、ジビエ料理を待ち焦がれていた筈のイサクから、間の抜けた反応が返ってきたのであり、訝り、何が起こっているのかが理解出来ない、状況を把握出来ない不安の中に置かれた者の驚きでしょう。
いち早く状況を把握したのはイサクでしたが、それは激しい身震いを伴う驚きでした。
27:33 イサクは激しく身震いして言った。「では、いったい、あれはだれだったのか。獲物をしとめて、私のところに持って来たのは。おまえが来る前に、私はみな食べて、彼を祝福してしまった。それゆえ、彼は祝福されよう。」
「激しく身震いして」の直訳は、「大きな慄(おのの)きを、非常に慄き」であり、ヘブル語の表現法ではありますが、珍しい程の、最大限の表現を使って、イサクの受けた衝撃の大きさを表しています。
聴覚は、耳は「エサウではない、ヤコブだ」と警告を発していた。
しかし、文字通り警告に耳を塞いで、エサウだと決め付けてヤコブを祝福してしまった。
「いったい、あれはだれだったのか」。
自問しつつも、答えは明らかです。
今、見えない眼の前に居るのがエサウであり、声も雰囲気も確かにエサウである事を確信する故の驚きであり、取り返しの付かない重大な過ちを犯した事を自覚した故の驚きです。
加えてエサウを祝福する事は、神様の定めに反する事であり、神様に逆らう行為であった事を自覚したが故の強烈な驚きであり、イサクは敗北を認めざるを得ず、それ故に激しく身震いせずにはいられなかったのです。
祝福は、神様の恵みにより、神様から委ねられた父としての権威によって与えるモノであり、祝福は人間の都合で宣言するモノ、与えるモノではありません。
民数記22章以下に、祝福と呪いの実例が記されていますが、イスラエルを呪ってくれと懇願するモアブの王バラクに対して、預言者バラムは22章38節「神が私の口に置かれることば、それを私は語らなければなりません」と語り、23章8節「神がのろわない者を、私がどうしてのろえようか。主が滅びを宣言されない者に、私がどうして滅びを宣言できようか」と語り、23章20節「見よ。祝福せよ、との命を私は受けた。神は祝福される。私はそれをくつがえすことはできない」と語ります。
祝福は人間の意思に左右されません。
祝福を与えたくても祝福を与える事が出来ず、祝福を与えたくなくても祝福を与えてしまうのです。
呪いも同じです。
呪いを与えたくても呪いを与える事が出来ず、呪いを与えたくなくても呪いを与えてしまうのです。
そして、一度与えた祝福は、宣言した祝福は人間の都合で取り消す事も、取り戻す事も出来ないのです。
27:34 エサウは父のことばを聞くと、大声で泣き叫び、ひどく痛み悲しんで父に言った。「私を、お父さん、私も祝福してください。」
「大声で泣き叫び」と「ひどく痛み悲しんで」も、ヘブル語の表現法であり、同じ意味の言葉を重ねる事で強調しているのですが、単に表現法の問題ではなく、感情に支配されたエサウの性格の現れであり、後先構わず空腹を満たすために大仰に食べ物を乞う姿と重なりましょう。
人間は感情を持っており感情の影響を強く、長く、深く受けますが、感情は支配しなければならず制御しなければなりません。
感情の波に乗っかってしまってはならず、大きく浮き沈みしてはなりません。
制御を失った感情は自身にも、廻りにも悪い影響を与えます。
嬉しくても、狂喜してはなりません。
喜びの陰には、哀しむ人が居るからであり、怒っても、激昂してはなりません。
怒りの陰には、サタンが眼を光らせているからであり、哀しくても、打ちひしがれてはなりません。
哀しみの陰には、喜ぶ人が居るからであり、楽しくても、有頂天になってはなりません。
楽しみの陰には、哀しむ人が居るからです。
感情の起伏の激しさは時に罪となり、身を滅ぼしかねません。
エペソ人への手紙4章26節
「怒っても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで憤ったままでいてはいけません。
4:27 悪魔に機会を与えないようにしなさい」です。
感情に翻弄されているエサウの前で、イサクはまるで自分には非がないかのように、エサウの感情を煽るように、火に油を注ぐような発言をします。
27:35 父は言った。「おまえの弟が来て、だましたのだ。そしておまえの祝福を横取りしてしまったのだ。」
自分の責任はひた隠し、指一本触れようとはしないイサクの精一杯の弁明であり、騙された悔しさのありったけを込めた発言です。
しかし、責任転嫁は何の意味もなく問題を拗らせ、解決を難しくするだけです。
イサクの発言は非常に人間的であり、神様に召し出され祝福をもたらす使命と働きに付いている者とは思えない発言です。
神様に召し出された者はなだめるべきであり、執り成すべきであり、一緒に神様の御こころを聴くべきであり、一緒に自分の行動を点検すべきです。
決して不安を煽ったり、怒りを助長すべきではありません。
27:36 エサウは言った。「彼の名がヤコブというのも、このためか。二度までも私を押しのけてしまって。私の長子の権利を奪い取り、今また、私の祝福を奪い取ってしまった。」また言った。「あなたは私のために祝福を残してはおかれなかったのですか。」
「押しのけてしまって」を、新共同訳聖書は「足を引っ張り」と訳していますが、ヘブル語では「アーカブ」と発音しますので、「ヤコブ」と「アーカブ」であり、語呂合わせである事が解ります。
「押しのけてしまって」も、「足を引っ張り」も事実には違いありませんが、「二度までも」は一方的な思い込みです。
エサウは自身の判断で「長子の権利」をヤコブの「煮物」と交換したのであり、合意の上であり、売ったのであり、誓ったのであり、強制も、欺きも、騙しもありませんでしたからエサウの責任です。
しかし、ヤコブがイサクを欺いた事は事実であり、祝福を横取りされたと、感じるのは無理からぬ事です。
とは言え、エサウの発言を全面的に支持する事は出来ません。
イサクの責任には触れておらず、自身の責任にも触れて居ないからであり、エサウの発言がイサクの発言に誘発されてであろう事は明白であり、イサクの責任は非常に大きい、と言わざるを得ません。
勿論、エサウの感情的性格故の、物質偏重故の、祝福の重みや意味を軽んじたが故の、霊的感受性の乏しさ故の結果であり、エサウの責任を減ずる事は出来ませんが、感情的にヤコブを非難するのは、神に召し出された民の言動ではありません。
罪を誘発するような発言は、厳に慎まなければなりません。
人の徳を立てるような言動と、神様の栄光を現す言動を意識しなければなりません。
「長子の権利」と訳されているヘブル語は「ベコーラー bkrh」であり、「祝福」と訳されているヘブル語は「ベラーカー brk」であり、語呂合わせですが、長子の権利は、特別な権利であり、比類のない権利であり、長子の権利を受ける事は祝福そのものなのです。
更に言えば、長子と言う身分が祝福なのであり、特別な存在なのです。
だからこそ、長子の権利を尊重し、権利に見合った生き方をしなければならないのです。
それなのに、長子の権利を軽蔑し売ってしまったエサウが、長子の祝福を得られないのは当然の帰結と言えるのではないでしょうか。
27:37 イサクは答えてエサウに言った。「ああ、私は彼をおまえの主とし、彼のすべての兄弟を、しもべとして彼に与えた。また穀物と新しいぶどう酒で彼を養うようにした。それで、わが子よ。おまえのために、私はいったい何ができようか。」
悲観的なイサクの発言ですが、決してエサウの権利や生存を否定している訳ではありません。
しかし、この世的な恵みにばかり眼が向けられ語られており、霊的な面に眼が向けられていないのが残念です。
主従関係や支配関係、食物や財産も重要であり必要ですが、神の民は時間と共に変る地位や支配や力関係にばかり気を取られ、減り、無くなり、朽ちるモノに血眼になってはならず、変り行く物を永遠の神様の祝福と同列に置いてはなりません。
27:38 エサウは父に言った。「お父さん。祝福は一つしかないのですか。お父さん。私を、私をも祝福してください。」エサウは声をあげて泣いた。
エサウの思い描く祝福は物質的祝福であり、この世的な祝福ですが、その点ではヤコブと変りません。
イサクも同じであり、もっと高度な、高貴な、貴重な、掛け替えのない神様からの霊的祝福を求めないのは何とも残念です。
この世で富んでも、多くを支配しても、死んで苦しみの世界に置かれたならば、この世の富や地位に何の意味があると言うのでしょうか。
この世的な祝福を乞い願い続けるエサウに、
27:39 父イサクは答えて彼に言った。「見よ。おまえの住む所では、地は肥えることなく、上から天の露もない。
新共同訳聖書は「地の産み出す豊かなものから遠く離れた所/この後お前はそこに住む/天の露からも遠く隔てられて」と訳しますが、祝福が与えられない、祝福と無縁である、と言う理解よりも、祝福から離れている、祝福のもたらす豊穣から離れている、と言う意味であり、神様から離れている事を暗に示しているのです。
エサウはエドムの地に住む事になりますが、エドムの地は、降水量が少なく、農耕に適さず、牧草も乏しく、牧畜に適しているとは言えない土地です。
自給自足の生活は難しく、搾取と簒奪によって生き延びる道を歩む事になるのであり、それが、
27:40 おまえはおのれの剣によって生き、おまえの弟に仕えることになる。おまえが奮い立つならば、おまえは彼のくびきを自分の首から解き捨てるであろう。」
です。
本来ならば鍬(くわ)や鋤(すき)で土地を耕すのが、神様に喜ばれる生き方ですが、エサウは鍬や鋤を打ちなおして剣にし、武力によって生きるのであり、戦いに明け暮れ継続的な紛争に巻き込まれる将来を予言し、宣言しているのです。
しかし、この状態が未来永劫に続く訳ではありません。
「奮い立つ」は「反抗する、さ迷う、放浪する」などの意味を持つへブル語ですが、このヘブル語は、ここにしか使われてなく、他に用例がなく、訳すに難しい単語であり、文節です。
37節以降の預言は、非常に厳しい預言ですが、せめてもの親心で希望を与えたのではないでしょうか。
自分たちが蒔いた種であり、招いた結果ですから甘んじて受けるしかありませんが、それでも、神様の憐れみによって開放される希望があり、くびきを解き捨てる希望を教えているのではないでしょうか。
エサウであっても、神様の憐れみを受け得るのです。
【適応】
喉から手が出る程に欲しかった長子の祝福ですが、策を弄して得られるモノではありません。
結果として、ヤコブが長子の権利、祝福を受け、エサウが呪いを受ける事になってしまいました。
全て人間の責任であり、人間の小賢しさが招いた結果です。
エサウは祝福どころか呪いを受けてしまいましたが、神様はエサウを呪ってはおられません。
イサクが勝手にヤコブを祝福し、エサウを呪ったのであり、イサクが神様のご計画を無視してしまった結果です。
神様のご計画は、創世記25章23節「二つの国があなたの胎内にあり、二つの国民があなたから分かれ出る。一つの国民は他の国民より強く、兄が弟に仕える」であり、「兄が弟に仕える」事で其々の賜物が生かされるのであり、神の民としての歩みに益し神様のご計画が推進するのです。
この前提には、人々の神様への服従、神様のご計画への従順が必要です。
弟に仕えるのではなく神様のご計画に従うのであり、神様に仕える如き喜びを持って弟に仕えるのです。
兄を支配するのではなく神様のご計画に従うのであり、神様のご計画を兄に取り次ぐのであり兄の賜物を生かす働きを与えるのです。
しかし、「兄が弟に仕える」事をこの世の慣習に反する事、屈辱と理解したならば、神様は酷いお方だ、と考えるでしょうし、覆さなければならないと考え行動するでしょう。
そして、一方に肩入れした結果は学んだ通りであり、憎しみが支配する関係になり、神様のご計画の推進に大きな影響を与える事になるのです。
セコイ策略であっても、用意周到な策略であっても、万人が納得、同意する策略でも、神様に背を向けた策略はサタンを喜ばせるだけであり、不幸を呼び寄せるだけであり、不幸の渦中に巻き込まれ、為す術もなく溺れて行くしかないのです。
神様のご計画、御旨を知らされた者は、神様のご計画、御旨に従うべきであり、神様のご計画、御旨を共通認識として共有すべきです。
イサクは、エサウとヤコブを呼び寄せ、神様のご計画、創世記25章23節を再確認した上で、エサウとヤコブに相応しい祝福が与えられるように祈るならば、エサウにとっても、ヤコブにとっても、イサクにとっても、リベカにとっても、不幸な結果にはならなかったでしょう。
人間は皆失敗をしますが、祝福を逃してしまいましょうが、決してそれでお終いではありません。
エサウに希望が語られたように、私たちにも希望があります。
神様に反抗し、さ迷い、放浪した挙句の果てであっても、策を弄さなくても、自分で何とかしなくても、神様の下に戻って来るなら迎え入れられ、くびきを解かれ、神の子とされるのであり、神様から祝福を頂けるのです。
祝福は探して得るモノではなく、神様に従う時与えられるモノであり、神様に従う事こそが祝福なのです。
ここにおられる皆様が神様に従い、神様から大きな祝福を与えられますように。
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