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聖書個所:ヨハネ8:3136                    2016-9-25礼拝

説教題:「真理はあなたがたを自由にします」

【導入】

イエス様とはどのようなお方なのか。

「神が遣わされたお方だ」「この方はキリストだ」「世の光だ」「上から来られたお方だ」などと、イエス様がどのようなお方なのか、どんな働きをされるために来られたのかを学びましたが、そんな知識が大切なのではありません。

勿論、知識の伴わない、感情的な信仰や、間違った知識を基礎とした信仰は、サタンに足下を掬われてしまいますから、サタンの巧妙な策略に騙されないように、正しい、充分な知識が必要である事は言うまでもない事です。

しかし、知識は必要ですが、知識がどんなに豊富でも、それで救われる訳ではありません。

事実、聖書や律法の知識においては右に出る者のいない律法学者やパリサイ人も、救われていると言う保証がないために、日夜、聖書解釈に勤め、不足を補い、行動を律して、救われるために血の滲むような努力を重ねていたのです。

彼らは正しい聖書解釈者であると自負していましたが、神様の御心からは遠く離れた自己中心的な解釈でしかなかったのです。

神様の御心にそう聖書の知識を生活の中に生かしてこそ、救われる訳であり、その点で、律法学者もパリサイ人も、素晴らしい人々だった、と言えるのですが、こんなに努力、精進しなければ救われないのであれば、救われる人は何処にいるのでしょうか。

これでもか、これでもか。

罪から離れるための律法なのに、律法に縛られ、律法によって不自由な生活を強いられて、喜びもなく、平安もない毎日。

そんな人々に向かってイエス様は霊的な自由について宣言されます。

【本論】

8:31 そこでイエスは、その信じたユダヤ人たちに言われた。「もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です。

8:32 そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」

イエス様のお話を聴いた人々は、一時的な興奮と感情から、イエス様を信じましたが、その信仰は、道端に蒔かれた種のように、土の薄い岩地に蒔かれた種のように、直ぐに馬脚を現します。

口ではイエス様を信じるとか、イエス様に従うと言いますが、それは、自分の理解出来る範囲内の事であって、少しでも納得出来ないと、自分の考え、自分たちの伝統にそぐわないと、攻撃し、排除し、イエス様を見限って離れて行こうとするのです。

信仰とはイエス様の言葉を信じる事であり、理解出来なくても従う事です。

イエス様の言葉を信じ、従うと言っても、何も分からなくても良いのだ、闇雲に、何んにも考えないで、ただ信じれば良いのだ、ただ従えば良いのだ、と言う事ではありません。

イエス様の言葉に理解出来ない点や、納得出来ない点があっても、神様の言葉だから罪深い私たちには理解出来ない事もある、隠されている事もあるとの謙虚な態度で聴き従う事が大切なのです。

イエス様の言葉に留まる、とは、イエス様は間違った事は命令しない、私たちにとって有益な、必要不可欠な事であるとの信仰を持って従う事であり、そのような生き方をする者だけが、イエス様の弟子と言えるのだと宣言しておられるのです。

そしてイエス様の言葉に聴き従い、弟子として明確な自覚の内に行動するならば、分からない事も次第に理解されて行くし、隠されていた事も徐々に明らかにされて行くのです。

広辞苑、キリスト教辞典には、真理とは本当の事、まこと、絶対的存在または実在的関係・事態を言い表わしている判断の客観的妥当性を現す、云々と書かれていました。

これを信仰的に理解するならば、真理とは単なる概念ではなく、絶対的存在であり、変らぬもの、永遠に存在するものであり、それはイエス様を指し示し、神様を指し示しているのです。

真理とはイエス様の事であり、イエス様の内に真理があり、イエス様にしか真理はないのです。

このイエス様の言葉、教えの内に留まるならば、初めは不充分な理解であっても、徐々に明らかにされて行き、益々イエス様を深く知り、聖書や律法は生き方そのものとなって行くのです。

イエス様から、神様から離れた生き方は、律法が支配する生き方であり、これをしてはならない、これをしなければならない、と言う生き方ですが、イエス様の内に、神様の内に生きる生き方は、イエス様のお考えを我が物とする生き方ですから、束縛もなく、強制もありません。

自由意思で従うので、そこには無理強いもなく、喜びと感謝が溢れる生き方となるのです。

嫌々ながら従うのではないので、本当の自由があるのです。

自由とは、してもいいし、しなくてもいい、どちらも選択できる状態であり、そのような中で、自分の意思で選び取って行く事なのです。

マルチン・ルターの著書に「キリスト者の自由」と言う冊子があります。

「キリスト者の自由」とは、いわゆる宗教改革的論文中の1篇で、福音主義の信仰を明らかにしたものであり、キリスト者の生活全般が含まれ、30章にまとめられています。

 まず、「キリスト教的な人間」とは何であるかと問い、「キリスト者はすべてのものの上に立つ自由な君主であって、何人にも従属しない。キリスト者はすべてのものに奉仕する僕であって、何人にも従属する。」と言う命題を掲げ、その命題に対して、段階を踏んで論述しています。

最初に、キリスト者の自由は身体的なものでも、外面的なものでも得る事が出来ず、信仰のみが人を義とし、信仰のみが人を自由にする事を論じ、同じ信仰によってキリスト者は、キリストの支配権と祭司権を受ける事が出来ると論じています。

この自由は、いかなる律法も善行も必要としないが、信仰が善い行いをなさせ、愛の奉仕を行なわせるのであり、「キリスト者の自由」とは神の喜びたもうこと、つまり、隣人への奉仕が目的である所の自由なのである、と結論しているのです。

別の言い方をするならば、神を愛し、人を愛する自由であると言っているのです。

イエス様の仰られる自由とは、あらゆる拘束、束縛からの自由であり、精神的な自由であり、罪責からの解放、罪の支配からの自由、重荷からの自由、あれをしなければならない、これをしてはならないと言う所からの自由であり、イエス様はその事を語っておられるのに、人々はイエス様の仰る自由を正しく理解出来ず、的外れな質問を返します。

8:33 彼らはイエスに答えた。「私たちはアブラハムの子孫であって、決してだれの奴隷になった事もありません。あなたはどうして、『あなたがたは自由になる。』と言われるのですか。」

このユダヤ人の質問には、民族的な誇り、選民意識が溢れています。

創世記、出エジプト記を読む時、イスラエル民族が400年近くもエジプトで奴隷の状態であった事、士師記、サムエル記、列王記、歴代史を読む時、度々ペリシテ人、カナン人に支配されていた事。

更に時代は下って、ペルシャ、バビロニアに支配され、今もローマ帝国から屈辱的な支配を受けている事を忘れています。

ある程度の自治権と自由はありましたが、被支配者である事に変りはありません。

アブラハムの子孫と言う誇りは、被支配者として、アイデンティティーを確立する唯一の拠り所であったでしょうが、このような選民意識、民族的誇りが、現実を見誤らせ、政治的な支配における不自由さの中にいても、これが神様の裁きであり、神様の、イエス様の与えて下さる本当の自由から離れている事を感じなくさせているのです。

真理、イエス様が人の心の中に入ってくるまでは、本当の霊的自由、イエス様の与えて下さる自由がどんな感じのものなのか、実際には全くわからないのです。

8:34 イエスは彼らに答えられた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。罪を行なっている者はみな、罪の奴隷です。

ここでイエス様は自由が何を意味するかを悟らせようとなさいます。

イエス様の仰られる自由とは罪に対するものであり、罪を犯している者は、罪に支配されている、罪の奴隷なのだと仰っているのです。

イエス様に従う真の自由か、罪に従う罪の奴隷か。

人は、このどちらかに従うしかないのです。

罪を行なっている者はみな、罪の奴隷です。

行なっている、とは特定の罪を行なっている事を現しているのではなく、罪の支配を習慣的に受け入れている状態を現しています。

何かをしたとかしないとかではなく、何時も何を頭、主人としているか、なのです。

兵隊はのべつ幕なしに戦っている訳ではありません。

戦っている時もあれば、休んでいる時もあり、食事をしている時も、リラックスしている時もあります。

しかし、それらは、本人の自由で選択出来るのではなく、隊長が命令を下すまでの束の間の時間であって、身柄は拘束されているのであり、真の自由は除隊するまでありません。

兵役についた瞬間から兵隊なのであり、その身分は何処に行っても付いてまわります。

休暇中でも、集合命令が出されれば、何処にいても指定された場所に出頭しなければなりません。

罪の奴隷と言うのも、罪を犯している状態を指しているのではなく、身分を指している言葉なのです。

つまり、罪を犯している瞬間だけが罪の奴隷なのではなく、身分が罪の奴隷なのであり、世の常識から見たら良い行いであっても、罪の奴隷と言う身分で行なっているのであり、罪の奴隷である以上、イエス様を主人としている訳ではなく、イエス様に受け入れられる事はありません。

但しこの奴隷という身分ですが、奴隷というのは未来永劫、不変的な身分ではありません。

ユダヤの法律では、自分自身を自分で買う事が出来、これで奴隷の身分から解放されることが出来るのです。

自分で自分を買わなくても、誰かが買ってくれて、自由にしてくれるなら、それでも奴隷の状態から解放される事になります。

つまり、奴隷の状態は変り得るものであり、変ろうと願うなら、変る事が出来るのですが、誰が主人であるかによって、その状態は決まるのだと言う事を覚えておかなければならないのです。

8:35 奴隷はいつまでも家にいるのではありません。しかし、息子はいつまでもいます。

奴隷は主人の命令で、売り飛ばされ、また、何処にでも行かなければなりませんが、息子は何時までも家にいる事が出来ます。

親の命令に従わなければならないと言う点で、息子は奴隷と似ているかも知れませんが、しかし、息子は奴隷とは全く違います。

奴隷には命令に従わない自由はありませんが、息子には従う自由と、従わない自由があるのです。

奴隷は主人の命令で家を出て行かなければなりません。

奴隷にはその家に何の権利も持たず、財産もありませんが、息子は父の世継ぎであり、その家に確かな権利を永遠に持っているのです。

努力したから得た権利なのではなく、息子だから持っている権利なのです。

8:36 ですから、もし子があなたがたを自由にするなら、あなたがたはほんとうに自由なのです。

どんなに頑丈な、抜け出す事の出来ない罪の奴隷の状態であっても、もしイエス様が自由にされるなら、罪の奴隷の状態から解放され得る事を宣言しています。

人には不可能であり、律法には不可能ですが、神様に不可能はないのですから、罪から、罪のとがめから、罪の力から、罪の結果から私たちを自由にする事が出来るのです。

息子と言う身分を与えられ、永遠の命を与えられ、天の国籍を与えられ、それは永久に剥奪される事はないのです。

それが自由にされる、と言う事であり、奴隷の身分からの解放なのです。

この宣言がイエス様によってなされました。

これが、罪の奴隷からの解放の宣言であり、福音、良きおとずれなのです。

【適応】

「真理はあなた方を自由にします」。

「真理」を「イエス様」と読みかえると、意味がより明瞭になります。

「イエス様はあなた方を自由にします」。

律法が私たちを罪の奴隷から解放して自由にするのではありません。

良い行い、鍛錬、修行、難行、苦行が私たちを罪から引き離して、自由にするのでもありません。

更には、礼拝を守る事や、献金を献げる事や、奉仕をする事が私たちを罪の奴隷から解放して自由にするのでもありません。

誰かがやっているから私もやる、のではありません。

やりたくないのにやらなければならない。

我慢しながらでは喜びも感謝もありません。

自分のしたい事をするのが自由なのでもありません。

これでは自由があるようで、自由ではありません。

しかし、真の自由はイエス様にあり、イエス様によって自由にされた者だけが、イエス様の助けによって神様の御心に適う行動が出来るようになっていくのです。

神であるイエス様が私たちを自由にし、助けて下さる、この約束は真実です。

私たちがイエス様に対して不真実であっても、イエス様は真実な方ですから、この約束が反故になる事は絶対にありません。

イエス様を信じる者だけが、イエス様の約束によって自由にされるのであり、

自由にされた者だけが、神様の御心を喜んで行なう事が出来るのです。

このような意味で自由になりたいと思う者は、ただ、イエス様に自由を下さいと願い出るしかありません。

そして、ご自分の下に来る全ての者を自由にする事は、イエス様だけが持っている固有の職務であり特権なのです。

イエス様がご自分の下に来る者を拒まれる事はなく、全て罪を離れたいと願う者を自由にして下さるのです。

ここに居られるお一人お一人が、イエス様の言葉に留まり、何にも縛られない真の自由を得られますように。

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聖書箇所:ペテロの手紙第一4章7節~11節              2016-9-18礼拝           

説教題:「神の恵みの良い管理人として」

説教者:河野 優牧師   (説教は非掲載です)

【聖書】

 4:7 万物の終わりが近づきました。ですから、祈りのために、心を整え身を慎みなさい。
 4:8 何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさい。愛は多くの罪をおおうからです。
 4:9 つぶやかないで、互いに親切にもてなし合いなさい。
 4:10 それぞれが賜物を受けているのですから、神のさまざまな恵みの良い管理者として、その賜物を用いて、互いに仕え合いなさい。
 4:11 語る人があれば、神のことばにふさわしく語り、奉仕する人があれば、神が豊かに備えてくださる力によって、それにふさわしく奉仕しなさい。それは、すべてのことにおいて、イエス・キリストを通して神があがめられるためです。栄光と支配が世々限りなくキリストにありますように。アーメン。

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聖書箇所:マタイの福音書18章15節から20節             2016-9-11礼拝

説教題:「兄弟を得るために祈る」

説教者:河野 優牧師   (説教は非掲載です)

【聖書】

18:15 また、もし、あなたの兄弟が罪を犯したなら、行って、ふたりだけのところで責めなさい。もし聞き入れたら、あなたは兄弟を得たのです。
18:16 もし聞き入れないなら、ほかにひとりかふたりをいっしょに連れて行きなさい。ふたりか三人の証人の口によって、すべての事実が確認されるためです。
18:17 それでもなお、言うことを聞き入れようとしないなら、教会に告げなさい。教会の言うことさえも聞こうとしないなら、彼を異邦人か取税人のように扱いなさい。
18:18 まことに、あなたがたに告げます。何でもあなたがたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたがたが地上で解くなら、それは天においても解かれているのです。
18:19 まことに、あなたがたにもう一度、告げます。もし、あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます。
18:20 ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。」

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聖書箇所:創世記2741節から45節             2016-9-4礼拝

説教題:「エサウのヤコブへの恨み」

【導入】

この世は権謀術策の世界であり、生き馬の目を抜く社会であり、正直に生き、誠実に働いても、騙され、搾取される社会です。

好むと好まざるとに関わらず、否応無しに巻き込まれてしまいますので、うかうかしてはいられませんが、そんな事に心を配って生きるのも疲れてしまいます。

皆が正直で、誰もが誠実な社会が理想ですが、人間は皆、罪の性質を持っているので、皆が正直で、誰もが誠実な社会の実現は難しく、古今東西、騙しと搾取が横行しています。

何回かに別けて、イサクのセコイ策略と、リベカとヤコブの用意周到な策略の経緯を見てきましたが、騙したつもりが騙され、イサクとエサウは臍を噛む事になってしまいました。

臍を噛むような事になった時の反応、対応は、大きく二つに分かれそうです。

一つは、自分を吟味し、反省し、同じ行動を取らないように、生き方を変える人間です。

ダビデは姦淫の罪を犯し、それを糊塗するための策略を巡らし、殺人の罪を犯しますが、その時、神様は預言者ナタンを遣わし、ダビデの罪を指摘します。

罪を認めたダビデは反省し、悔い改めを告白します。

その時、神様はダビデの罪を赦し、神様はダビデを退ける事をなさらず、ダビデは続けて神様に仕える事が出来ました。

今一つは、責任を転嫁し、自分には非がない、仕方がなかったと言い訳をする人間です

当然反省もなく、生き方は変らず、間違いを繰り返します。

サウルは、神様の命令に背いて、待つ事をせず、不相応にも生け贄を献げてしまいました。

その時、神様は預言者サムエルを遣わし、サウルの罪を指摘しますが、サウルは言い訳を繰り返し、反省の弁もなく、悔い改めもせず、神様の命令を侮って、アマレク人の家畜を滅ぼし尽くさなかったのです。

その時、神様はサウルを退け、サウルを離れ、サウルの王位は剥奪され、サウルは神様に仕える事が出来なくなってしまいました。

罪を犯さないに越した事はありませんが、問題は対処の仕方です。

反省するか、責任転嫁するか。吟味するか、なかった事にする、聞き流すか、です。

そして、人間は自分の事は棚に上げて、相手の問題点を上げ連ね、相手を恨(うら)む事で、受けるダメージを軽減しようとしてしまいます。

セコイ策略を巡らしたイサクですが、イサクは自分の愚かさに、神様のご計画に反する行動を取っていた事に、薄々気付き、身震いし、ヤコブに与えた祝福を撤回する事はしませんでしたが、エサウは、別の反応をします。

【本論】

27:41 エサウは、父がヤコブを祝福したあの祝福のことでヤコブを恨んだ。それでエサウは心の中で言った。「父の喪の日も近づいている。そのとき、弟ヤコブを殺してやろう。」

喉から手が出る程に価値のある、何がなくても欲しかった長子の受ける祝福ですが、エサウの頭の上をすり抜け、ヤコブの頭に注がれてしまいました。

長子に与えられるモノは、大きく三つありました。

一つは、財産であり、兄は弟の二倍を受け取る権利があり、二つ目は、一族郎党の頭になる宣言であり、三つ目は、先の二つを支える神様の祝福の宣言です。

この三つは、切っても切り離せない関係にあり、且、人間の思惑、裁量で自由に出来るモノではありません。

通常は、長子が受けるモノですが、絶対不変のルールではなく、神様が御介入される時、長子以外に与えられる事もあります。

イサクは次男であるのに、神様の御介入があって、長子として選ばれ、ヤコブも次男であるのに、神様の御介入があって、長子として選ばれます。

ヨセフは十二人兄弟の十一番目であるのに、神様の御介入があって、一族郎党の頭とされ、一族郎党を養い、一族郎党を祝福する立場に置かれます。

ダビデも七人兄弟の末っ子であるのに、イスラエル王国の頭とされ、救い主に続く者とされるのです。

特別な働きには、神様に選ばれた者、召された者が就くのであり、特別な働きのために、特別な祝福が与えられるのです。

その特別な祝福は、奪おうとして、奪えるモノではなく、邪魔も、阻止も出来ません。

エサウは、合意の上で、一つ目の権利をヤコブに売ってしまいました。

しかし、本来、この三つのモノは、神様の主権で与えるモノであり、人間の勝手には出来ないモノです。

そして、ヤコブが立てられ、エサウが下に置かれる事は、リベカを通して知らされているのであり、神様のご計画には従わなければなりません。

それなのに、イサクとエサウは、神様の主権を犯し、神様のご計画に反する行動を取ってしまったのです。

イサクとエサウは、神様に裁かれ、打たれて当然ですが、打たれず、神様のお取り扱いを受ける事になります。

この神様のお取り扱いへの対応でまた、大きな違いが起こって来ます。

エサウは、破局に直面しているのに、現実を見ようとはせず、非を認めようとはせず、どうにもならない現実への憤(いきどお)り、怒りを処理出来ず、ヤコブに責任転嫁します。

エサウは、生き方、考え方を吟味する事なく、神様のご計画に思いを馳せる事もせず、ヤコブを恨(うら)む事で、心の平静を保とうとしますが、こんな事で対処出来る訳がありません。

怒りや妬(ねた)み、憤(いきどお)りや恨(うら)みを解消するのは難しい事ですが、制御しなければならず、暴走しないようにしなければなりません。

しかし、エサウは、怒り、憤(いきどお)り、恨(うら)みに身を委ね、とんでもない決心をしてしまいます。

それでも、直ぐに行動に出なかったのは、父イサクへの配慮、気配りであり、結果、多少の冷却期間をおく事になり、最悪の事態に直結せずに済みます。

27:42 兄エサウの言ったことがリベカに伝えられると、彼女は使いをやり、弟ヤコブを呼び寄せて言った。「よく聞きなさい。兄さんのエサウはあなたを殺してうっぷんを晴らそうとしています。

心に思っている事を隠しておくのは、非常に難しい事です。

ましてや、殺人計画を内に秘めておきながら、平静を装うのは至難の業、なのではないでしょうか。

悟られない様に努力しても、滲み出るモノであり、吐き出さなければ、ガス抜きしなければ、耐えられるモノではありません。

エサウは極々親しい、信頼出来る僕に、内なる計画を洩らしたのでしょうが、エサウとヤコブの対立は、イサクとリベカと無関係なモノではなく、一族の中に対立関係を生み、其々の僕を巻き込み、リベカの腹心が、エサウの僕の中に潜り込んでいたのではないでしょうか。

エサウの計画はリベカに知られる事となります。

リベカはエサウの計画を知り、のっぴきならない状況である事を悟り、直ぐに的確な対策を立て、ヤコブに指示を与えます。

27:43 だからわが子よ。今、私の言うことを聞いて、すぐ立って、ハランへ、私の兄ラバンのところへ逃げなさい。

エサウは「父の喪の日も近づいている」と独白していますが、当時、イサクの死は、非常に現実的な事でありました。

イサクは、ヤコブに騙されたショックと、神様を欺いた自責の念に苛(さいな)まれ、心身ともに最悪の状態であり、今にも死にそうだったのです。

この時点での、イサクの年齢は、少なくとも100歳以上、最大でも160歳であり、ショック、ストレスに耐えられずに、命を損なう事は十分考えられる事でしたが、結果的に、イサクの一生は180年であり、この事件の後、少なくとも20年は生き長らえます。

人間の寿命は、状況で判断出来ません。

息も絶え絶えでも、持ち直す事があり、元気溌剌でも、急逝する事もあります。

イサクは、神様のご計画で、ヤコブが戻って来るまで生き長らえさせていただき、エサウとヤコブの和解を目撃し、確認し、平安の内に一生を全うさせて頂くのです。

それはともかく、リベカの作戦は、エサウの性格を十分知っての上でのアイデアでした。

27:44 兄さんの憤りがおさまるまで、しばらくラバンのところにとどまっていなさい。

流石、リベカは母親です。エサウの性格を見抜いていました。

エサウは感情的で、直情型、怒りっぽく、激情型ですが、反面、冷めやすく、忘れっぽく、根に持たない性格だったようです。

「しばらく」は非常に幅のある表現であり「数日」から「数年」を意味します。

事が事だけに「数日」ではないかも知れない、時には「数年」かもしれない。

しかし、エサウは忘れる事が出来る人間だったのです。

人間にとって、忘れる事も大切な資質の一つです。

悲しい事、辛い事、悔しい事を忘れられなかったならば、どんなに苦しいでしょうか。

忘れる事も、人間に与えられた賜物の一つであり、人間関係をスムーズにするツールなのです。

勿論、悲しみ、辛さ、悔しさを与えた側は、決して忘れてはなりませんし、謝罪の心を持ち続けなければならず、被害者が忘れられるように、赦せるように、和解に努め、努力を惜しんではなりません。

忘れるのを待っているような方法は、解決策ではありません。

距離を置き、時間を置くのは、解決策を模索するためでなければなりません。

リベカの策が、単なる時間稼ぎであり、エサウが忘れるまで待つ、と言うような消極的、他力本願だったのは、残念です。

最善と思われた苦肉の策でしたが、解決策ではありません。結果は最悪です。

ヤコブを救うためではありましたが、ヤコブと別れなければならなかったのであり、そして、悲しい事に、リベカとヤコブは、再び顔を合わせる事は出来なかったのです。

27:45 兄さんの怒りがおさまり、あなたが兄さんにしたことを兄さんが忘れるようになったとき、私は使いをやり、あなたをそこから呼び戻しましょう。一日のうちに、あなたがたふたりを失うことなど、どうして私にできましょう。」

ここにリベカの母性が表現されています。

ヤコブを偏愛したリベカですが、決してエサウを憎み、嫌っていた訳ではありません。

ヤコブもエサウもリベカの子であり、エサウに弟殺しをさせたくないし、結果、弟殺しで殺されて欲しくはなかったのです。

弟のヤコブが、兄エサウを従える事、弟のヤコブが、イサクの後を継いで、当主になる事は神様の御こころであり、その神様のご計画を知るリベカは、イサクとエサウの計画に危機を覚え、悩み、神様のご計画の実現のために、策を弄しましたが、結果は混乱を大きくし、家族の不和を増大させ、家族関係を崩壊させるだけでしかありませんでした。これがサタンの目論見です。

家族関係を崩壊させ、神様との関係にひびを入れるのが、何よりの喜びですが、神様に選ばれた家族を崩壊させるのが、サタンの無常の喜びなのです。

人間の浅知恵は、齟齬があり、限界があり、円満な結果は望めません。

しかし、神様の知恵は、齟齬がなく、完全であり、無限であり、最善、最高が保証されています。

人間は、蒔いた種の刈り取りをしなければなりません。

イサクも、エサウも、リベカも、ヤコブもです。

其々が、大切なものを失い、ばらばらに成らざるを得ませんでした。

イサクは、後継者問題に悩み、解決が与えられないままに、老いて行き、リベカは、ヤコブと別れ、再会適わず、生涯を終えるのであり、エサウは、心に憎しみを抱えて生き続け、ヤコブは、ラバンの下で、辛い20年を送る事になるのです。

神様が働かれるまで待てなかった結果は、厳しいモノであり、それを選んでしまったのです。

【適応】

神様のご計画を知る者、知らされた者は悩みます。

神様のご計画が、あらぬ方向に進む時、焦りますし、もどかしく、居ても立ってもいられない心持になるのは自然です。しかも、こちらを立てれば、あちらが立たず、あちらを立てれば、こちらが立たず、苦肉の策は問題を拗らし、複雑にするだけです。

リベカの行動は、褒められた事ではありませんが、評価出来る点が幾つかあります。

一つ目は、42節に記されているように、状況を知る、把握する事です。

「兄さんのエサウはあなたを殺してうっぷんを晴らそうとしています」。

闇雲に騒いでも、何の解決にもなりません。

エサウの思い、計画、その時期を具体的に知る事は大切です。

想像であるとか、根拠のない思い込みは、的確な判断の妨げであり、不確かな情報を根拠にしては、事態を悪化させかねません。

「敵を知り、己を知れば、百戦危うからず」です。

噂を信じてはいけませんが、「火のない所に煙は立たず」ですから、予兆を察知する事は大切です。

数多の情報の中から、正しい情報を取捨選択しなければなりません。

教会も同じです。

教会はイエス様が頭であり、イエス様が支配される所ですが、教会の中にも、サタンは入り込んでい

特定の誰か、ではなく、誰もが、サタンの手先になる可能性を秘めています。

イエス様は一番弟子のペテロに、天の御国の門の鍵を預けたペテロに、「下がれサタン」と一括されましたが、人間的な判断にはサタンが付け入りますから、常に神様中心の教会であるように、何時の間にか人間が中心になっていないかを吟味しなければなりません。

教会は罪人の集まりですから、人間的な思い、この世の価値判断が先行し勝ちです。

だからこそ、人間的な思いが先行しないように、人間的判断が重んじられないように、人間が中心にならないように、この世的な価値や常識が支配的にならないように、よくよく注意しなければならないのです。

牧師の意見、役員の意見、古参の信徒の意見だから正しい訳でも、的確な訳でもありませんから、鵜呑みにしてはいけません。

神様の御こころを現していると断定しては、なりません。

常に、聖書と照らし合わせて、吟味し、正しい判断が出来るように祈らなければなりません。

それでも、間違いを完全に防ぐ事は出来ませんが、聖書と照らし合わせた結果、祈った結果であるならば、神様が働いてくださるのではないでしょうか。

二つ目は、43節に記されているように、ヤコブに希望を与えた事です。

「しばらくラバンのところにとどまっていなさい」。

当てのない旅に出すのではなく、取り敢えず逃げ出すのでもなく、確実に保護を受けられる場所、リベカの兄ラバンの家に行く事を指示しました。

ヤコブたちの滞在しているベエル・シェバと、リベカの兄ラバンの住むハランとは、直線距離で800km程離れています。

楽な、安全な、優雅な旅ではありませんが、一時的な避難場所ではなく、「しばらく」即ち「数日から数年」衣食住が保証されているのは、何と心強い事なのではないでしょうか。

旅の毎日の中で、食と住を確保するのは大変な事です。

お金では解決しません。情け、憐れみに縋らなければならず、旅人を持て成すのが文化の土地柄でも、数年の寄宿は論外でしょうし、行く先々で保護が得られる保障はなく、旅は危険が一杯です。

しかし、目的地が明確なら、希望があり、目的地に近づけば、「ああ、ラバンさんね、良く知ってるよ。ラバンさんの甥子さんなら大歓迎だよ」…が期待出きるのではないでしょうか。

勿論、遊んで暮せる訳ではありませんが、少なくとも安全と衣食住が保証されているのは大きな希望です

そして三つ目は。45節に記されているように、罪の自覚を促した事です

「あなたが兄さんにしたこと」。

言うまでもなく、リベカの指示ですが、策を受け入れたヤコブに大きな責任があります。

脅かされようが、言い包められようが「する、しない」を決めるのは、他でもないヤコブです。

1列王記13章に、ヤロブアム王に遣わされた預言者と、年老いた預言者のエピソードが記されています。

ヤロブアム王に遣わされた預言者は「主の命令によって、『パンを食べてはならない。水も飲んではならない。また、もと来た道を通って帰ってはならない。』と命じられている」と告白します。

しかし、年老いた預言者は、ヤロブアム王に遣わされた預言者を騙します。

神様から新しい命令を受けたから、戻っても大丈夫、飲食しても大丈夫、と嘘をつきます。

「そこで、その人は彼といっしょに帰り、彼の家でパンを食べ、水を飲んだ」。

結果、ヤロブアム王に遣わされた預言者は「獅子が道でその人に会い、その人を殺した」のです。

非常な不条理を感じますが、神様が問題にされるのは、年老いた預言者、リベカではなく、ヤロブアム王に遣わされた預言者の判断、選択であり、ヤコブの判断、選択なのです。

自分の判断、選び、行ない、を吟味しなければなりません。

責任を転嫁する処に、曖昧にする処に、解決も前進もありません。

自分のした事の自覚。その結果は、死に値する。

しかし、逃れ場がある、のです。

言い替えるならば、神様から祝福を頂ける、と言う事です。

祝福は探して得るモノではなく、神様に従う時、与えられるモノであり、神様に従う事こそが祝福なのです。

使徒の働き4章19節「神に聞き従うより、あなたがたに聞き従うほうが、神の前に正しいかどうか、判断してください」であり、

使徒の働き529節「人に従うより、神に従うべきです」。

ヤコブは状況を正しく把握し、リベカの指示に従って安全な場所に逃げ込みました。

皆さんも、吟味し、罪の大きさを知り、神様にしか救いがない事を知ってください。

ここにおられる皆様が、罪の自覚と告白をし、神様の教えに従い、神様の下に逃げ込んで、神様の救いに与りますように。

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