2024-3-3礼拝

聖書箇所:コリント人への手紙第二  3章12節から18節

説教題:「御霊の働き

【導入】

前回の礼拝では「御霊に仕える者」と題して説教を取り次ぎました。

御霊に仕える者とは、唯一真の神様、主イエス様に仕える者の意味でもありますが、唯一真の神様、主イエス様、御霊様は、かしずく僕、使用人を求めておられるのではありません。

唯一真の神様、主イエス様、御霊様にお仕えするのは、様々な分野で、日夜お仕えするのは天使であり、天使で充分なのです。

唯一真の神様、主イエス様、御霊様は使用人を求めておられるのではなく、霊的に交わる人を求めておられるのであり、そのために、主イエス様は罪人の贖いとなられたのです。

人は主イエス様の贖いによって、唯一真の神様との交わりを回復して頂いたので、人は礼拝を通して、奉仕を通して、献金を通して、唯一真の神様、主イエス様、御霊様と交わり、交わりとして唯一真の神様、主イエス様、御霊様にお仕えするのです。

その御霊様ですが、直接私たちと関わり、助け、導いてくださいますが、特別な働きをお持ちです。

御霊様の特別なお働きを見て行きましょう。

【本論】

新改訳2017 3:12 このような望みを抱いているので、私たちはきわめて大胆にふるまいます。

36節、「神は私たちに、新しい契約に仕える者となる資格を・・・御霊に仕える者となる資格」をくださいました。

この「新しい契約」は、永続する契約であり、「仕える」務めは、永続する務めであり、「栄光を帯びた」契約、務めであり、唯一真の神様、主イエス様から委ねられた働き、務めであり、隠れてこそこそと、遠慮してそっと、申し訳なさそうにおずおずと振舞う必要はありません。

勿論、高慢になったり、傍若無人に振舞ったり、見下すような態度を取ってしまってはなりませんが、「このような望みを抱いているので、私たちはきわめて大胆にふるま」うべきなのです。

3:13 モーセのようなことはしません。彼は、消え去るものの最後をイスラエルの子らに見せないように、自分の顔に覆いを掛けました。

モーセは、新改訳第三版、民数記123節に、「モーセという人は、地上のだれにもまさって非常に謙遜であった」と記されている通りの人物であり、人々が特別視しないように、配慮し、顔に覆いを掛けたのです。

また、新改訳2017版、出エジプト記3430節、「アロンと、イスラエルの子らはみなモーセを見た。なんと、彼の顔の肌は輝きを放っていた。それで彼らは彼に近づくのを恐れた。

34:31 モーセが彼らを呼び寄せると、アロンと、会衆の上に立つ族長はみな彼のところに戻って来た。モーセは彼らに話しかけた。

34:32 それから、イスラエルの子らはみな近寄って来た。彼は主がシナイ山で告げられたことを、ことごとく彼らに命じた。

34:33 モーセは彼らと語り終えると、顔に覆いを掛けた。

34:34 モーセが主と語るために主の前に行くとき、彼はその覆いを外に出て来るまで外していた。外に出て来ると、命じられたことをイスラエルの子らに告げた。

34:35 イスラエルの子らがモーセの顔を見ると、モーセの顔の肌は輝きを放っていた。モーセは、主と語るために入って行くまで、自分の顔に再び覆いを掛けるのを常としていた。

モーセの顔の肌が輝いたのは、主の栄光の輝きを受けたからであり、モーセは輝きが、自分自身からのモノでない事を自覚していたので、顔に覆いを掛け、また、輝きが永続するモノではない事も自覚していたので、輝きが消え去る瞬間も見せないように配慮し、顔に覆いを掛けたのです。

モーセの顔の輝きは、消えうせるモノであり、モーセの働きも一時的な働きであり、また、欠けだらけの働きですが、主の栄光の輝きは永遠の輝きであり、主のお働きは唯一の、永遠の、完全なお働きであり、主の栄光の輝きをこそ見るべきであり、人々を混乱させないためにも、人が目立ってはならず、人は一切の輝きを封じなければならないのです。

3:14 しかし、イスラエルの子らの理解は鈍くなりました。今日に至るまで、古い契約が朗読されるときには、同じ覆いが掛けられたままで、取りのけられていません。それはキリストによって取り除かれるものだからです。

人はこの世の働きや物に目や心を奪われ、殊更に持てはやし、ありがたがります。

人々は、モーセの働きの限界や輝きの意味を理解せず、モーセが顔の輝きを覆った意味を悟らず、モーセに頼り、モーセに依存してしまったのです。

モーセが召され、モーセが働きを終えてからも、モーセを信奉し、「古い契約」、律法、聖書が朗読される時に、「古い契約」、律法、聖書に覆いを掛け、字面を追うだけで、契約の主の栄光の輝きを隠し、主であるお方を見ず、見ないならば、契約が啓示している、救いの真理を悟り知る事は出来ないのです。

不信仰という覆いが掛かっていたならば、何度聞いても、自分の罪を自覚できず、主イエス様の救いを受け入れる事も出来ないのです。

私たちのなすべき事は、人の働きや輝きには覆いを欠け、御霊様のお働きによって、私たちの不信仰という覆いを取り除いて頂き、主イエス様のお働きや輝きの覆いを取り除いて頂き、(じか)に、主イエス様のお働きや輝きを拝する事なのです。

3:15 確かに今日まで、モーセの書が朗読されるときはいつでも、彼らの心には覆いが掛かっています。

問題は、「心には覆いが掛かってい」る事を自覚していない事です。

見えていないのに、見えていると思い込んでいる事、主を見ていないのに、主を見ていると思い込んでいる事、主に従っていないのに、主に従っていると思い込んでいる事です。

自分は見えていると思い込んでいるなら、覆いが取り除かれる事はなく、自分は正しいと思い込んでいるならば、悔い改めに導かれる事もないでしょう。

3:16 しかし、人が主に立ち返るなら、いつでもその覆いは除かれます。

立ち返る」は、回心を表すことばです。

悔い改める、の意味で理解してもよいでしょう。

主に立ち返る」、悔い改める。

早いに越した事はありませんが、「主に立ち返」るのに、遅いと言う事はありません。

願いさえするならば、不信仰と言う名の「覆いは」「いつでも」「取り除かれます。

主に立ち返る」。

自分の力や行ないでは中々に難しい事ですが、御霊様なら難しい事はありません。

しかも、「その覆いは」、永遠に、完全に「除かれます」。

しかし、「なら」との条件付であり、自発であり、主が一方的に、強制的に、有無を言わさず「その覆いは除かれ」るのではありません。

3:17 主は御霊です。そして、主の御霊がおられるところには自由があります。

私たちは罪の奴隷の状態であり、身体の自由を奪われ、心の自由も奪われ、契約に誠実に取り組もうと思っても、律法、聖書の要求を行なおうと思っても、完全に行なう事が出来なかったのですが、御霊様、主イエス様によって、罪から解放され、真の自由が与えられ、契約に誠実に取り組む思いが、律法、聖書の要求に従う思いが与えられるのです。

勿論、罪の性質が残っているので、不自由さは残りますが、その不自由さは徐々に変えられて行きます。

3:18 私たちはみな、覆いを取り除かれた顔に、鏡のように主の栄光を映しつつ、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられていきます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。

私たちはみな」、即ち、「主に立ち返る」事を願う全ての人たちの「覆い」は「取り除かれ」、鏡のように主の栄光を映しつつ、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられてい」くのです。

変えられて」は、一足飛びにではなく、一歩一歩「変えられてい」くのであり、外面的、表面的にではなく、内面的、質的に「変えられてい」くのです。

人は、神のかたちに造られましたが、罪を犯したので、神のかたちを失ってしまいました。

しかし、「御霊なる主の働きによ」り、主イエス様のお働きにより、神のかたちを回復し、主との交わりが回復するのです。

人間の知恵では考えられず、思いもしない事であり、人間の力では、一歩も進まず、達成し得ない事ですが、「御霊なる主の働き」であり、確実に、着実に「変えられてい」くのです。

御霊なる主」は、私たちのうちに働いて、私たちの信仰の歩みを助け、私たちの救いを完成してくださるのです。

【適応】

御霊なる主の働き」は、キリスト者を「」として保つ事です。

御霊なる主」に満たされ、導かれて歩むならば、キリスト者たちは「鏡のように主の栄光を映しつつ」歩む者とされるのです。

キリスト者たちは鏡とされており、キリスト者が主を見る時、主ご自身のご栄光とご性質を反映させるのです。

この鏡を曇らせ、或いは歪ませるモノに常に警戒しなければなりません。

警戒しなければならないモノとは、殆ど決まって、人間的に見て、この世的に見て「良い」と言われるモノです。

工夫をしたり、無駄を省いたり、効率を考えたり・・・。

キリスト者のなすべき事は、唯一真の神様、主イエス様に意識を集中させ、見上げる事であり、唯一真の神様、主イエス様との交わりを最優先させる事です。

唯一真の神様、主イエス様との信仰的な関係性の強弱は、この世との関係性に現われます。

仕事、着る物、食べる物、人間関係などを優先させてはならないのです。

これらの事を意識し、心を配り、忙しくしていると、また、この世の事に執着し、固執していると、唯一真の神様、主イエス様に対する意識は散漫になり、希薄になり、眼を逸らし、交わりは薄れ、疎遠になり、おざなりになります。

当然の結果として、鏡は曇り、歪み、反射させる主のご栄光も、主のご性質も、曇ったもの、歪んだものとなり、この世の人々は、唯一真の神様、主イエス様を正しく知る事が出来ませんし、間違った知識、即ち、間違った神観、間違ったキリスト観、間違った聖霊観、間違った人間観、間違った罪観、間違った教会観、間違った終末観・・・を持ってしまいます。

この世の人々は、唯一真の神様、主イエス様との正しい関係に入れません。

キリスト者自身も、唯一真の神様、主イエス様との正しい関係を維持出来ず、唯一真の神様、主イエス様と正しい関係に無ない事に気付かずに歩む事になってしまうのです。

そうならないために、「御霊」はキリスト者を守り、その救いと、世の人々の救いのために日夜働かれているのです。

本当に至れり尽くせりであり、其れ程迄にキリスト者は、すべての人々は、唯一真の神様、主イエス様に愛されているのであり、御霊の働きの対象である事が明らかなのです。

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聖書箇所:コリント人への手紙第二  4章1節から6節

説教題:「主イエスによって任ぜられた務め

【導入】

前回の礼拝では「御霊の働き」と題して説教を取り次ぎました。

福音宣教のための働き、最前線では、使徒、宣教師、伝道師、教師と呼ばれる人たちが中心的に働き、家庭や職場、地域社会では、キリスト信者たちが主体的になって働きますが、福音宣教の働きの力となっているのは御霊様であり、福音宣教の働きの任命権者は主イエス様です。

福音宣教の働きは、主イエス様の任命に応じる働きであり、自発的応答であり、誰かに勧められたりではなく、誘導されたりでもなく、強制、強要されたりでもありません。

自発的応答ではありますが、自主的選択、職業選択の自由によって就く働きではありません。

主イエス様の選びと、任命と、派遣による働きです。

福音宣教の働きは、主イエス様の働きですが、実際に遣わされるのは人間であり、主イエス様の主権で人間が選ばれ、立てられ、派遣されるのです。

人間の側にも、都合がありましょうが、主イエス様の御旨に従うのが祝福の基であり、この従順を忘れ、大原則を忘れ、疎かにする時、主イエス様の御旨よりも、人間の側の都合や条件を前面に押し出す時、強く主張する時、福音宣教の働きは停滞し、頓挫するでしょう。

福音宣教が遅々として進まず、教勢が伸び悩むのも、この辺に原因があるのかも知れません。

遣わされる側も、受け入れる側も、主イエス様の主権、御旨を第一とするべきである事を確認して行きましょう。

【本論】

新改訳2017 4:1 こういうわけで、私たちは、あわれみを受けてこの務めについているので、落胆することがありません。

パウロ自身を顧みるならば、キリスト者を激しく迫害した人物ですが、そのような人物が主イエス様の新しい契約に仕える務めに任ぜられたと言う事は、主イエス様の「あわれみを受け」たと言う事以外の何ものでもないのです。

パウロは、明確な意思を持って、確信的に主イエス様に反旗を翻したのであり、本来ならば、断罪に処すべき人物であり、何かしらの刑罰を科すべきですが、主イエス様の「あわれみを受けて」、全くの不問に処されたのです。

これは人間社会では異例中の異例の処置ですが、主イエス様の本質を現す処置なのであり、七を七十倍するまで赦すのが、主イエス様の本質なのです。

そしてパウロは、主イエス様の「あわれみを受けて」「この務め」、即ち、宣教の働きに就かされたのです。

パウロは主イエス様の「あわれみを受け」たので、反省して、感謝して、お礼に「この務め」、即ち、宣教の働きに就いたのではありません。

パウロの自主的申し出、提案ではなく、主イエス様の主権による任命なのです。

落胆する」は、人々の批判や非難を受けて、恐れ、怯え、萎縮し、黙し、何も出来なくなってしまう、の意味ですが、主イエス様の「あわれみを受けてこの務めについているので」、人々を恐れ、怯える必要はなく、萎縮し、黙してしまってはならず、誰にも遠慮する事なく、大胆に福音を宣べ伝えなければならないのです。

4:2 かえって、恥となるような隠し事を捨て、ずる賢い歩みをせず、神のことばを曲げず、真理を明らかにすることで、神の御前で自分自身をすべての人の良心に推薦しています。

恥となるような隠し事」とは、パウロを批判し、反対した人たちがとっていた陰険な行動であり、人々の人気取りのための、気を引くような行動であり、騙したり、陥(おとしい)れたり、を平然と行なっていたのです。

ずる賢い歩み」とは、利己的な目的を遂げるためには手段を選ばず、どんな事でもする、の意味であり、非常に巧妙であり、人々に取り入る術に長けており、人々にそれと気付かれずに、人々を取り込み、巻き込み、操るのです。

ことばを曲げ」は、正しくない動機から、勝手に改変させる、の意味であり、パウロを批判し、反対した人たちは、「ことばを曲げ」「真理を明らかに」せず、即ち、都合のいい解釈をしたり、真実に少しの嘘を混ぜたり、都合のいい部分を誇張したり、都合の悪い部分は削除したりしたのですが、これらは二枚舌であり、悪魔、サタンのやり口であり、決して関与しても、採用してもならない方法です。

パウロは、パウロに好意的な人たちに対しても、パウロに反対、敵対する人たちに対しても、誰に対しても、常に公明正大に語って来た、誠実に対応して来た、と「神の御前」に表明するのです。

4:3 それでもなお私たちの福音に覆いが掛かっているとしたら、それは、滅び行く人々に対して覆いが掛かっているということです。

パウロは反対者、賛同者の分け隔てなく、誰に対しても公明正大、誠実に語って来ましたが、福音宣教は前進し続けて来た訳でも、拡大し続けて来た訳でもありません。

時に停滞し、後退し、時には縮小、衰退しても来たのですが、それは、パウロら福音宣教者たちに落ち度があった訳ではなく、パウロら福音宣教者たちの伝える「福音に覆いが掛かっている」のであり、福音自体に問題があった訳でもありません。

パウロら福音宣教者たちに反対し、敵対する人々、「滅び行く人々」に対して「覆いが掛かっている」のであり、「覆いを掛ける」者がいる事を示唆しています。

主イエス様の赦し、憐れみは、七を七十倍するまで寛大、寛容なものですが、自らが、福音を拒否し、贖いを拒絶し続けるなら、福音を受け取る事は出来ないのです。

4:4 彼らの場合は、この世の神が、信じない者たちの思いを暗くし、神のかたちであるキリストの栄光に関わる福音の光を、輝かせないようにしているのです。

この世の神」ですが、直訳は「この時代の神、この世界の神」であり、悪魔とかサタンの事です。

信じない者たち」、即ち、主イエス様が遣わされたパウロら福音宣教者たちを受け入れない者、反対し、敵対する者には、「この世の神」が不信仰と言う覆いを掛け、福音を遮り、「思いを暗くし」、「神のかたちであるキリストの栄光に関わる福音の光を、輝かせないようにしているのです」。

それでも、悔い改め、パウロら福音宣教者たちを受け入れるならば、主イエス様は七を七十倍するまで赦してくださり、不信仰と言う覆いを取り除いてくださり、「福音の光」の「」きを見る事が出来、その恩恵に与る事が出来るのです。

4:5 私たちは自分自身を宣べ伝えているのではなく、主なるキリスト・イエスを宣べ伝えています。私たち自身は、イエスのためにあなたがたに仕えるしもべなのです。

パウロら福音宣教者たちの中心メッセージとその使命は、「主なるキリスト・イエスを宣べ伝え」る事です。

生き方、価値観、考え方が、自分中心から聖書の指し示す神様、主イエス様に切り替わる事です。

しかし、この世の福音宣教者たちは、主イエス様に視線を集中させ、焦点を合わせるのではなく、ちょっと脇道に逸れ、自分の働きや成果、苦労話、体験談、成功談などを、面白おかしく語り、自分自身に耳目を集中させ、意識を集めるのです。

持てはやされる事や集まりの中心にいる事を欲しますが、パウロら福音宣教者たちは、決して支配者でも、まとめ役でも、リーダーでも、先導者でもないのです。

イエスのためにあなたがたに仕えるしもべなので」あり、世話役であり、介助者であり、殿(しんがり)を務め、落伍者や道を外れる者が一人として出ないように、見守るのです。

この事は、パウロら福音宣教者のみならず、全てのキリスト者に当てはまる事であり、主イエス様の謙遜と仕える者の姿に倣う生き方の手本なのです。

4:6 「闇の中から光が輝き出よ」と言われた神が、キリストの御顔にある神の栄光を知る知識を輝かせるために、私たちの心を照らしてくださったのです。

神が」私たちを憐れみ、恵みを注いでくださり、「私たちの心を照らしてくださったので」、私たちは救われ、キリスト者とされたのです。

キリスト者を迫害するパウロが福音宣教者とされたのも、主イエス様が現われ、パウロの、自分の正義を振りかざす頑なな「心を照らしてくださった」からであり、この光によってパウロは主イエス様の贖いの意味を知り、迫害者から福音宣教者に変えられたのです。

キリスト者もパウロら福音宣教者たちも、自らが「」きを発し、放つのではなく、「キリストの御顔にある神の栄光を」反射させるのであり、その働きのために、召し出され、遣わされるのです。

【適応】

福音宣教の働きは、決して人の考え、計画、働きではないのです。

福音宣教の働きは、終始、常に「主イエス様によって任ぜられた務め」である事を覚えておかなければなりません。

そうしないと、主イエス様の主権で始められた働きが、いつの間にか人が主導権を握り、熱心であり、献身的であり、聖書的であっても、主イエス様の御旨から離れ、人間の働きになってしまいましょう。

福音宣教者自身が召命に確信を持てず、派遣地を選び、働きに悩み、将来に不安を持ち、頑張らなければ、しっかりしなければ・・・と自分を追い詰めてしまう。

また、受け入れ側では、人間的な目で福音宣教者を選び、注文を付け、自分たちの意に沿わせようとし、批判し、追い詰めてしまう。

人間の側が、福音宣教の働きが「主イエス様によって任ぜられた務め」である事を忘れる時、脇に押しやる時、お座なりにする時、あらゆる事態、全ての問題を自分たちで処理しなければならなくなります。

それであらゆる事態、全ての問題が解決に導かれたとしても、それでは唯一真の神様、主イエス様のご栄光は現れません。

人間の頑張り、努力、工夫、犠牲が評価され、人間が讃えられてしまいます。

福音宣教者も、受け入れ側も、福音宣教の働きは、終始、常に「主イエス様によって任ぜられた務め」である事を覚えておくなら、あらゆる事態は全て問題ではなくなります。

何故ならば、あらゆる事態に主イエス様が対処してくださり、解決してくだるからです。

全ての問題に対して、主イエス様が全てをご存知であり、伴ってくださり、助けてくださり、守ってくださり、支えてくださり、導いてくださり、障害を取り除いてくださり、道を切り開いてくださるからです。

福音宣教者も、受け入れ側も、常に自分の働きではない事を、自分たちの働きではない事を確認するので、必要以上に負担を感ぜず、平安でいられ、喜んでいられ、感謝する事が出来るのであり、唯一真の神様、主イエス様のご栄光が現われ、世の人々への証しとなるのです。

あらゆる事態、全ての問題に対処する秘訣は、主イエス様の主権を認める事であり、「主イエス様によって任ぜられた務め」である事を片時も忘れない事であり、主イエス様に委ねる事です。

その時、福音宣教の働きは麗しい働きとなり、福音宣教に関わる全てを祝福し、罪の世に祝福をもたらし、唯一真の神様、主イエス様のご栄光が現われ、福音宣教に携わった者たちは、否、キリスト者は全て福音宣教に召された者であり、全てのキリスト者は輝かしい栄誉を受けるのです。

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聖書箇所:サムエル記第一 30章21節から31節

説教題:「働けなかった者への分け前」

【導入】

積極的な選択ではなく、切羽詰った状況を打破するための、止むに止まれぬ選択ではありましたが、「他に道はない」と敵国ペリシテ人の王アキシュに保護を求めてしまったダビデ。

アキシュの信用、信頼を得るために、嘘で塗り固めた報告をするダビデ。

その嘘が露見しないようにと、無用な殺戮を繰り返すダビデ。

そして、アキシュと共にイスラエル人と戦わなくてはならない状況に追い込まれてしまったダビデ。

大切な家族を残し、戦いに出かけたダビデであり、ダビデと共に戦う集団ですが、留守にしている間にアマレク人の略奪隊の暗躍を許し、無防備のツィクラグを襲う事を許し、ダビデの家族、ダビデの部下の家族、財産、家畜が奪い去られてしまいました。

が、神様はイスラエル人と戦わなくてはならない状況からダビデを救い出し、家族、財産、家畜を奪われ、旅の疲れと合いまって意気消沈するダビデに向かって、神様は、必ず救い出せるとの約束を与え、その約束通り、アマレク人を完膚なきまでに打つことが出来、家族を一人も失う事なく救い出し、財産、家畜を取り戻させてくださったのです。

更には、アマレク人の略奪隊が、各地で略奪した財産、家畜をも分捕り物とする事が出来たのであり、それは夥しい量であったのです。

アマレク人の残党は400人と記されていますが、その勢力がイスラエル人を悩ます事はなく、その後300年に亘り、衰退の一途を辿り、ヒゼキヤ王の時代に至って、歴代誌第一442節に「また、彼らシメオン族のうち、五百人の人々が、イシュイの子ペラテヤ、ネアルヤ、レファヤ、ウジエルをかしらとしてセイル山に行った。

4:43 彼らは、アマレクの逃れて残っていた者を討ち、そこに住んだ。今日もそのままである」と記されているように、完全に滅ぼされてしまいます。

ここに神様の預言が成就するのであり、かように神様のご計画は遠大です。

同時に、神様はダビデをイスラエルの王とするための計画も推し進め、王としての、指導者としての訓練を与えます。

先に申し上げましたが、アマレク人の略奪隊から奪った分捕り物の量は夥しい量であったと申しましたが、通常、それらの分捕り物は量の多少、質の上下に関らず、お頭、この場面ではダビデの物になるのが通例でした。

そこから一部を、活躍した部下に下賜するのであり、多くの部下にとっては働き損のくたびれ儲け、って事もあるのです。

ですから、働かなかった者が分捕り物の分け前を貰えるはずもないのが、当然であったのです。

しかし、神様への信頼と、服従の結果得た物、或いは与えられた物は、神様の物であって、個人や一部の人たちの物ではありません。

ダビデが取り返した物は、ダビデ個人の物ではなく、取り返しに貢献した人たちの物でもなく、神様から預かった物であり、神様の御心によって管理しなければなりません。

神様の御心に叶う管理とは何でしょう、共に聖書を紐解いて行きましょう。

【本論】

30:21 ダビデは、疲れてダビデについて来ることができずにベソル川のほとりにとどまっていた二百人の者のところに来た。彼らは、ダビデと彼に従った者たちを迎えに出て来た。ダビデは、この人たちに近づいて彼らの安否を尋ねた。

ダビデの部下、ダビデに従い戦いに出かけた壮年の男子は凡そ600人です。

彼らはダビデに従いツィクラグを出発し、ペリシテ人と共にイスラエル軍と戦うためにアキシュと共にイズレエルに向けて行軍していましたが、道中の中半でペリシテ人の首長の不審、反感を買って、ツィクラグに戻される事になりました。

ツィクラグに戻って見ると、ツィクラグはアマレクの略奪隊に襲われていて、休む間もなく家族の救出、財産、家畜の奪還に向かった訳です。

その移動距離はざっと見積もって200km以上でしょう。

18時間、4km8h32km32km9days270km

この距離は、武具に身を固め、武器を持ち食料を持っての移動ですから大変な重労働と言えるでしょう。

疲れてベソル川を渡れなかった200人の心中を察するに、どんなに苦しかった事でしょうか。

一刻も早く助け出したい家族、取り戻したい財産、家畜。

しかし、疲れて川を渡る事の出来ないもどかしさ、不甲斐なさ、情けなさ。

現代のような通信手段のない時代ですから、追跡している仲間の状況も分からない。助けられたのか、取り戻したのか。

手強くて援軍が必要なのか…何かをしようにも、何も出来ない。

唯、待つしかない。

出来るのは、400人が置いて行った荷物を守る事だけ。

とは言っても、大事な物を残して行った訳でもありません。

しかし、彼らは気付いていなかったかも知れませんが、200人の武装集団が川の辺(ほとり)に陣取っている姿は、状況を知らない者にとっては近寄り難い光景であり、それは川の渡し場を守る姿、背後の守りの姿と映ったのではないでしょうか。

残された200人は、追跡した400人を気遣い、その安否を、その武運を、家族の救出を、財産、家畜の取り戻しを祈っていたに違いありません。

この間、凡そ一週間位ではないかと考えられます。

無事に戻って来た仲間の姿を見て、迎えに出て、取り戻した家族を見て、心底、安堵したに違いありません。

そして、ダビデもまた疲れて一緒に行動できなかった200人を気遣い、安否を尋ねるのです。

お互いがお互いを気遣い合う、麗しい光景が21節に記されているのです。

ところが、

30:22 ダビデと一緒に行った者たちのうち、意地の悪い、よこしまな者たちがみな、口々に言った。「彼らは一緒に行かなかったのだから、われわれが取り戻した分捕り物は、分けてやるわけにはいかない。ただ、それぞれ自分の妻と子どもを連れて行くがよい。」

と冷たく突き放す言葉を投げかけます。

意地の悪い、よこしまな者」と記されていますが、彼らは本当に「意地の悪い、よこしまな者」たちだった訳ではありません。

彼らは当時の、分捕り物に対する常識的な考え方を表明しただけなのであり、取り返さなければ、所有権は喪失し、奪い返した者が、新しい所有者になるという当時の考え、受け入れられていた権利を主張したに過ぎないのです。

更には、働かなかった者は、分け前に与れないという事をも意味している発言でもありましょう。

先の、所有権に付いての考え方は、現代に適応出来ませんが、後の、働きに対する報酬、分け前は、権利であり、要求でき、現代でも当たり前の考え方です。

働かなかった者が、奪還に参加しなかった者が、自分の物であっても所有権を主張できないのが常識の時代にあって「妻子だけは連れて行っても良い」と言う宣言は、同胞に対する温情であり、最低限の憐れみ、と申せましょうが、ダビデの考えは、神様のお考えは、単なる温情や、最低限の憐れみなどではなく、当時の常識を覆すモノでした。

30:23 ダビデは言った。「兄弟たちよ。【主】が私たちに下さった物を、そのようにしてはならない。主が私たちを守り、私たちを襲った略奪隊を私たちの手に渡されたのだ。

30:24 だれが、このことについて、あなたがたの言うことを聞くだろうか。戦いに下って行った者への分け前も、荷物のそばにとどまっていた者への分け前も同じだ。ともに同じく分け合わなければならない。」

ここでのポイントは「主が私たちに下さった物」と言う考え方です。

「私たちが奪い返した物」でもなければ「私たちが戦い取った物」でもないのです。

主が私たちに下さった物」であり、「主が私たちを守り、私たちを襲った略奪隊を私たちの手に渡された」結果、私たちが手にしているのであり、私たちに与えられたのである、とダビデは受け止め、宣言したのです。

働いた者に奪還物、略奪物所有の権利があるのが当然の事であるとするならば、このアマレクの略奪隊との戦いの功労者は神様であり、ダビデたちの働きの結果でない以上、誰一人、所有権を主張出来る者はいないのです。

更に、ダビデ一行は、ダビデが頭であり、ダビデが支配者でありますが、真の支配者は神様であり、ダビデも神様の僕の一人に過ぎず、奪い返した物も、奪い取った物も、全てが神様のモノであり、神様に分配の権利があると言う事なのです。

この二重の意味で奪還物、略奪物は神様のモノであり、私たちの自由にはならないこと、この世の習慣ルールを、神の民であるダビデ一行には適応させてはならない事を教え、宣言しているのです。

では、神の民のルールとは何でしょうか。

それは、働きの結果ではなく、神様の憐れみによって、恵みによって分け与えられる、施しとして与えられると言う事です。

多く働いた者も、命がけで働いた者も、あんまり働かなかった者も、全く働かなかった者も、ベソル川を命がけで渡って戦いに参じた者も、疲れてベソル川を渡れず戦いにいけなかった者も、同じように分け与えられるのが、神様のルールであり、神様の憐れみ、恵み、施しなのです。

この世界は神様が造られたのであり、人間も当然、神様が造られました。

手足も神様が造られ、能力も働きの場も神様に与えられたモノなのです。

能力の差、働きの差は、神様が与えられたモノであって、それ故に、能力の差や働きの差によって差別される事はなく、皆が同じように分け前に与かるのです。

ダビデの口を通して、神様が語られたのであり、それ故に、

30:25 その日以来、ダビデはこれをイスラエルの掟とし、定めとした。今日もそうである。

この神様によって与えられたルールはイスラエルの掟であると宣言され、今日に至っているのです。

それは、同時に、クリスチャンのルールでもあります。

即ち、天国のルールでもあると言う事です。

働きの差によって天国には入れるか否かが決まるのではなく、神様の憐れみによって決まるのであり、誰もその働きを誇らないためでもあるのです。

30:26 ダビデはツィクラグに帰って来て、友人であるユダの長老たちに戦勝品の一部を送って言った。「これはあなたがたへの贈り物で、【主】の敵からの戦勝品の一部です。」

30:27 その送り先は、ベテルの人々、ラモテ・ネゲブの人々、ヤティルの人々、

30:28 アロエルの人々、シフモテの人々、エシュテモアの人々、

30:29 ラカルの人々、エラフメエル人の町々の人々、ケニ人の町々の人々、

30:30 ホルマの人々、ボル・アシャンの人々、アタクの人々、

30:31 ヘブロンの人々、すなわち、ダビデとその部下がさまよい歩いたすべての場所の人々であった。

26節以降に記されている地名の多くは、現代特定する事が出来ない土地です。

ヘブル語は子音だけが表記され、母音が表記されないので、読み方は難しく、例えば亀も、独楽も、熊も、鴨も、「km」で表記されるのです。

地名の表記も同じですので、当時と違う読みをしている事も考えられ、また、襲われて焼かれて廃墟となって、現代に残っていない地名も多々あるのです。

しかし、これらの町々は、ダビデとその一行が助けてもらった町であり村であり、そのお世話になったお礼と共に、アマレクの略奪隊、ペリシテの略奪隊に苦しめられていた人々に対する施し、支援でもあったのでしょう。

このように、礼を持って、憐れみの心を持って接するのが、必要を充分に満たす施しをするのがイスラエルの掟であり、神様の御心なのです。

【適応】

もしも、私たちが、その働き、或いは献げ物、或いは貢献度によって評価されるとしたら、誰が天国に入る権利を得る事が出来るでしょうか。

自発的に、死に物狂いで働いたとしても、順位を付けられたら、一番は一人しかなく、二番、三番、百番、千番、144000人まで天国に入れるとしても、自分の順位が分からなければ、努力のし様がありません。

仮に一番であったとしても、明日順位が落ちている事だってあり得るのではないでしょうか。

また失敗をしない人はいないのですから、ペケを貰って、資格を失う事だって有るのではないでしょうか。

どれだけ頑張っても確証がなかったとしたら、自暴自棄になってしまうのではないでしょうか。

働いても働いても、献げても献げても、安心のない生活。それはこの世が、頑張った者が報いられる世界であり、怠けた者が報酬を得られない世界だからです。

そして、知らず知らずの内にこの世のルールが教会にも入り込んで、何かをしなければ安心出来ない世界になってしまっているのではないでしょうか。

しかし、神様は憐れみ深いお方であり、情け深いお方であり、誰にでも、働きに対する報酬としてではなく、神様に似せて造られた存在自体に対して恵みを与えて下さるお方である事を忘れてはならないのです。

神様は報酬としてではなく、恵みとして天国に入れる権利を与えて下さるのであり、そこに働きの大小、軽重、長短が関係することはありません。

イエス様が語られた葡萄畑の例え、朝早くから働いた者も、昼から働いた者も、3時頃から働いた者も、夕方になってから働いた者も、皆同じ1デナリを受け取ったように、神様は多く働いた者にも、少ししか働かなかった者にも、同じ1デナリを与えられるのであり、それが神様のルールなのです。

多く働けた者は、多く働く機会を、長く働く体力を、多方面に渡る能力を神様から与えられたからであり、少ししか働けなかった者は、少しだけ働く機会が、限られた体力が、特定の能力が神様から与えられたからなのです。

ですから多く働けた者は少ししか働けなかった者を侮ってはならず、差別してはならず、不当に扱ってはならないのです。

神様が頭なのであり、神様が決められたルールに従うのが私たちに求められている事なのであって、22節の「われわれが取り戻した分捕り物は、分けてやるわけにはいかない」の様な判断を神の民の内に、教会内に持ち込んではならないし、そのような判断を、神様は、私たちに委ねられてはいないのです。

働き盛りで多く働いた人々も、年を召されて、幼くて、病気で、色々な事情で働けない人々も、皆等しく、神様から同じ恵みを受けるのであって、其処には差はありません。

教会は働きによって居場所、報酬が与えられるのではなく、何の働きもない者が居られる所であり、恵みに与れる所なのです。

多く働いた者は誇ってはならず、また、廻りもそれを殊更賞賛してはならず、働けなかった者も卑下してはならず、また、廻りもそれを非難してはならないのであり、一緒に働く、或いは、同じ事をするのではなく、背伸びもせず、無理もせず、こそこそする事もなく、飾る事もなく、ありのままの自分で居られる所、居て良い所、それが教会であり、神様の、神の民のルールなのです。

この世のルール、頑張った者が評価される世界は、辛くても休みたくても頑張り続けなければならない世界であり、本当に疲れる世界であり、弱い者、働けない者には居たたまれない世界ですが、教会には本当の自由、憩いがあるのです。

あなたの廻りに、この世のルールに疲れている人が居ませんか。

あなた自身が、この世のルールに疲れていませんか。教会には競争がありません。

何かをしなければと言う、義務も役割もありません。

教会に来て、神様の恵みを受け取って下さい。

それが、それだけが神様の願いなのですから。

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                                       2024-3-24礼拝

聖書箇所:コリント人への手紙第二  4章7節から15節

説教題:「キリスト者の使命

【導入】

先の礼拝で、「主イエス様によって任ぜられた務め」と題して、福音宣教の働きについて学びました。

福音宣教の働きは、「主イエス様によって任ぜられた務め」であり、決して人の考え、決意、熱心から発した働きではないのです。

その意味で、福音宣教の働きは、特殊な働きであるといえますが、更に特殊といえるのが、その働きの性質と目的です。

この世の働きでは、能力に応じて、知識に応じて、体力に応じて、経験に応じて、働きの種類が割り振られ、更なる能力、知識、体力、経験の向上が要求されましょうが、福音宣教の働きで重要なのは、主イエス様に対する従順だけであり、それが全てです。

福音宣教の働きで必要なのは、主イエス様に対する従順だけであり、持っている、与えられている能力、知識、体力、経験の中でお仕えすれば良いのです。

この世では、他者と比較され、他者と競走し、他者を追い抜くことが要求されましょうが、他者と比較する必要はなく、比較してはならず、競走する必要もなく、競走になってもいけません。

福音宣教の働きは、能力、知識、体力、経験に応じて与えられ、委ねられるのではなく、主イエス様の主権、御旨で働きが与えられ、委ねられるのであり、秀でていたとしても驕り高ぶらないように、劣っていたとしても卑下しないようにしなければなりません。

持っている能力、知識、体力、経験を活かす事、有効活用する事が求められているのであり、持っている能力、知識、体力、経験に磨きをかけ、創意工夫し、福音宣教の機会を逃さない事が求められているのです。

「主イエス様によって任ぜられた務め」である事のもう一つの意味についてみて行きましょう。

【本論】

新改訳2017 4:7 私たちは、この宝を土の器の中に入れています。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものではないことが明らかになるためです。

この宝」は、福音宣教のメッセージであり、福音宣教のメッセージが指し示す主イエス様です。

土の器」は、福音宣教を宣べ伝える人たちの事であり、パウロたちのような使徒たち、宣教師たち、教師たちであり、全てのキリスト者たちの事です。

宝を土の器の中に入れています」との比喩は、「土の器」にお金や書類を入れて保管した、当時の一般的な習慣であり、また、凱旋する軍隊が、戦いで分捕った金銀、宝石を「土の器」に入れて持ち帰った事に由来するようです。

土の器」は、単なる入れ物であり、壊れ易く、価値はありませんが、保管するという機能が重要です。

同じく、使徒たち、宣教師たち、教師たち、全てのキリスト者たちも、弱い存在であり、罪深い者ですが、福音のメッセージという「」を入れ、運ぶための道具であり、そのために造られた存在であり、有益な存在である事を示しています。

聖書には陶器師と陶器の喩えがイザヤ書、エレミヤ書などに記されていますが、陶器師は用途に応じて陶器を作るのであり、神様も、主イエス様の事を伝える道具として、福音宣教のメッセージを運ぶ器として、神の偉大さを伝える道具として、人を造られ、用いられるのです。

私たちは単なる器、道具に過ぎないのであり、誇ったり、高ぶったりする事を戒めます。

測り知れない」は、「普通の限界を超えた」の意味であり、唯一真の神様の栄光や恵み、力や愛などの、並外れた偉大さに対して用いられることばです。

私たち「土の器」は、「測り知れない」「」を運ぶ器として召されているのです。

4:8 私たちは、四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方に暮れますが、行き詰まることはありません。

4:9 迫害されますが、見捨てられることはありません。倒されますが、滅びません。

続けて、パウロは、自身の経験に基づく体験を語りますが、これらの経験はコリント人への手紙第二1123節以降にしるされています。

これらはパウロの自慢話ではなく、パウロは弱さ、無力さを常に自覚していたのであり、主イエス様は、ご自身に仕えるしもべたちを敵に渡す事はなさいません。

そして「滅びません」とあるように、福音宣教者を支え、守ってくださり、用いて福音宣教の働きを前進、拡大させてくださるのです。

滅びません」は、福音宣教者たちの守りであると同時に、福音宣教の働きが支えられ、守られるのであり、停滞、頓挫、撤退、「滅び」る事はないのです。

4:10 私たちは、いつもイエスの死を身に帯びています。それはまた、イエスのいのちが私たちの身に現れるためです。

4:11 私たち生きている者は、イエスのために絶えず死に渡されています。それはまた、イエスのいのちが私たちの死ぬべき肉体において現れるためです。

イエスの死」は、主イエス様の十字架上の経験、苦しみを示しており、「身に帯びています」は、主イエス様に従う者は、主イエス様の苦しみと死に与る特権が与えられている、の意味であり、主イエス様に従おうとする者は、8節、9節の状況に置かれ、いのちを失う事にもなりますが、主イエス様の経験、苦しみ、死に与る事を通して、「イエスのいのちが私たちの身に現れる」、即ち、主イエス様の復活に与る者とされるのです。

4:12 こうして、死は私たちのうちに働き、いのちはあなたがたのうちに働いているのです。

パウロたち、使徒たち、伝道者たち、教師たちの経験、苦しみ、死を通して、コリントの兄弟姉妹たちは、福音、主イエス様を知り、福音、主イエス様を信じて、死からいのちに移されたのです。

いのちは、死や苦しみの上に築かれるのであり、使徒たち、伝道者たち、教師たちの経験、苦しみ、死を通して、いのちの道が伝えられ、いのちに至るのです。

4:13 「私は信じています。それゆえに語ります」と書かれているとおり、それと同じ信仰の霊を持っている私たちも、信じているゆえに語ります。

13節の鍵括弧は、詩11610節、「私は信じています。まことに私は語ります」からの引用です。

主イエス様が唯一真の神の御子、贖い主、救い主である事を信じた者は、これを口で言い表さないではいられないのです。

黙ってはいられないのです。

誰かに伝えずにはいられないのです。

それは、義務でも、割り当てでもありません。

独り占めにしては置けない事であり、独り占めしてはならない宝だからなのです。

語らなければ、隠すなら、それは災いなのです。

コリント人への手紙第一916節c、新改訳聖書第一版は「もし福音を宣べ伝えなかったら、私はわざわいに会います」と訳し、2017版は、「福音を宣べ伝えないなら、私はわざわいです」と訳しています。

福音を受け取り、信じた者は、ああ良かった、と安堵して、お仕舞ではないのです。

福音はすべての人に届けられなければならず、語り伝えなければならないのであり、伝えなかった責任を取らなければなりません。

誰かに語り伝えなければ、「私はわざわいに会う」、「私はわざわいです」。

エゼキエル書317節、「人の子よ。わたしはあなたをイスラエルの家の見張りとした。あなたは、わたしの口からことばを聞き、わたしに代わって彼らに警告を与えよ。

3:18 わたしが悪い者に、『あなたは必ず死ぬ』と言うとき、もしあなたが彼に警告を与えず、悪い者に悪の道から離れて生きるように警告しないなら、その悪い者は自分の不義のゆえに死ぬ。そして、わたしは彼の血の責任をあなたに問う。

3:19 もしあなたが悪い者に警告を与えても、彼がその悪と悪の道から立ち返ることがないなら、彼は自分の不義のゆえに死ななければならない。しかし、あなたは自分のいのちを救うことになる。

3:20 また、正しい人がその正しい行いをやめて不正を行うなら、わたしは彼の前につまずきを置く。彼は死ななければならない。あなたが彼に警告を与えなかったので、彼は自分の罪のゆえに死ぬ。彼が行った正しい行いは覚えられない。そして、わたしは彼の血の責任をあなたに問う。

3:21 しかし、もしあなたがその正しい人に、罪を犯さないように警告を与え、彼が罪を犯さないようになれば、彼は警告を聞いたのであるから、彼は必ず生き、あなたも自分のいのちを救うことになる。

福音は全ての人に届けられるべき性質のモノであり、全人類の宝であり、一人で独占しては、占有しては、隠してはならないモノなのです。

4:14 主イエスをよみがえらせた方が、私たちをもイエスとともによみがえらせ、あなたがたと一緒に御前に立たせてくださることを知っているからです。

キリスト者の生涯は主イエス様の生涯と連動しており、主イエス様が苦しまれたように、キリスト者も苦しみ、主イエス様がよみがえらされたように、キリスト者もよみがえらされるのです。

主イエス様が父なる神様の前に立たれるように、キリスト者も父なる神様の前に立たせていただく事になるのです。

4:15 すべてのことは、あなたがたのためであり、恵みがますます多くの人々に及んで感謝が満ちあふれ、神の栄光が現れるようになるためです。

パウロたち、使徒たち、伝道者たち、教師たちが、苦しみ、迫害などを恐れなかったのは、特別な人たちであったからではありません。

勇気があり、忍耐強い人たちだったからでもありません。

福音宣教のために生きた人たちであり、主イエス様の生涯と我が生涯を重ねた人たちなのです。

そして、主イエス様の従順、ご目的が「神の栄光が現れるようになるため」であったように、私たち土の器」は、神の栄光が現れるようになるため」に造られたのであり、救われ、贖われたのです。

私たち土の器の従順、目的は「神の栄光が現れるようになるため」である事を片時も忘れてはならないのです。

【適応】

私たち土の器は「神の栄光が現れるようになるため」を意識した言動を心がけてこそです。

コリント人への手紙第一1031節、「10:31 こういうわけで、あなたがたは、食べるにも飲むにも、何をするにも、すべて神の栄光を現すためにしなさい。

10:32 ユダヤ人にも、ギリシア人にも、神の教会にも、つまずきを与えない者になりなさい。

10:33 私も、人々が救われるために、自分の利益ではなく、多くの人々の利益を求め、すべてのことですべての人を喜ばせようと努めているのです。

神の栄光が現れるようになるためがキリスト者の使命です。

贖われ、救われた当初は、贖われた事、救われた事を感謝し、喜んでいるだけでも問題ありませんが、贖われ、救われたのは、主イエス様の弟子になるためであり、主イエス様の弟子は、マルコの福音書1615節、「それから、イエスは彼らに言われた。「全世界に出て行き、すべての造られた者に福音を宣べ伝えなさい。」」です。

この世は、唯一真の神様を知らない人たち、唯一真の神様に背を向ける人たち、唯一真の神様に逆らう人たちで溢れているのです。

これらの人たちに唯一真の神様をお伝えするのはキリスト者の使命です。

福音宣教の働きは、終始、常に「主イエス様によって任ぜられた務め」であり、キリスト者の使命である事を覚えておかなければなりません。

福音宣教の働きは、パウロたちのような使徒たち、伝道師たち、教師たちに任せておけば良い働きではなく、全てのキリスト者が関わる働きであり、関わらなければならない働きです。

救われ、贖われた事で満足し、安穏としていてはならず、地の隅々にまで福音を宣べ伝えなければならないのです。

その働きがあったからこそ、私に福音が届いたのであり、私たちが贖いに与り、救いに与ったのです。

世の罪人が贖われ、救われる働きを途絶えさせてはならず、連綿と続け、拡大させるのはキリスト者の使命なのです。

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                                       2024-3-31イースター記念礼拝

聖書箇所:ヨハネの福音書20章1節から18節

説教題:「復活」

【導入】

今日はイースターと言う事で、主イエス様の復活を記念する行事が、各地で行われているようです。

さて、そもそも「イースター」というのは、何でしょうか。

「イースター」の由来について調べて見ました。諸説の一つに、「イースター」はヨーロッパに住んでいたチュ―トンという民族の信じる「春の女神(Eostreイオストレー)」に由来したお祭りだと言う説があります。

チュ―トン族の人たちは、毎年4月に、この「春の女神」に生贄を捧げていました。冬の寒さと入れ替わり、春の暖かい日差しを受けて、草木が芽生え、冬眠していた動物も元気を取り戻す。

そんな春の到来を心待ちにしている様子が「春の女神」のお祭りに現われています。この「春の女神」のお祭り「イースター」と、主イエス様の復活がどのようにして結びついていったのでしょうか。

主イエス様が十字架に付けられたのは、過ぎ越しの祭りの時期でした。

過ぎ越しの祭りは、ニサンの月の14日の夕方から始まる、とされていて、イスラエル人にとって重要な祭りの一つです。

ニサンの月というのはイスラエル人の暦の数え方で、現代の暦では3月中旬から始まり、4月中旬に終わります。

ですからニサンの月の14日と言うのは、3月末、4月初頭に当たる訳です。

その過ぎ越しの祭りと、主イエス様の復活とを結びつけて、ユダヤ人キリスト者たちはお祝いをしていた訳ですが、キリスト教がヨーロッパに広まって行ったとき、ヨーロッパで古くから祝われていた、4月初頭に始まる「春の女神」と言う土着の宗教のお祭りと結びついて、祝われ出したのが「キリスト教的イースター」と言う事のようです。

キリスト教がヨーロッパの宗教となって、「春の女神」としての「イースター」は祝われなくなって行っても、「キリスト教的イースター」は引き継がれて行った訳でしょう。

「イースター」は異教的なものと言える訳ですが、「イースター」だけが、土着の宗教と結びついた異教的なものではありません。

「クリスマス」もその由来を調べて見ると、ペルシヤに起源を有するミトラ教の影響を受けていた、と言われています。

土着の宗教と深く関わる「イースター」や「クリスマス」ですが、だからと言って、否定するのではなく、「イースター」や「クリスマス」を通して、救い主イエス・キリストの降誕と復活こそ、全人類に対する全能の神からの最高の贈り物であり、喜びである事を世にあかしする責任と任務が与えられているのではないでしょうか。

「イースター」を主イエス様の復活の日として祝う事になった訳ですが、主イエス様の復活は墓場がその舞台となっています。

【本論】

20:1 さて、週の初めの日、朝早くまだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓にやって来て、墓から石が取りのけられているのを見た。

主イエス様が葬られたのは、ゴルゴダの丘の近くにある、アリマタヤのヨセフの、私有の墓地でした。

金曜日の夕方、墓に収められ、3日目の日曜日の朝早く、まだ暗いうちに復活されたのです。

そして、その復活は、霊的な意味での復活ではありませんでした。

霊的な復活であれば、墓の入り口の石を取り除ける必要はありません。

霊的なものならば、物質の影響は受けないでしょうから、石をすり抜けてしまうでしょう。

主イエス様が霊的にも物質的にも復活をされた事の証拠が、「墓から石が取りのけているのを見た」なのです。

死んで墓に葬られたイエス様が、物質的な身体を持って復活され、墓から出て来た事を現すのが「墓から石が取りのけて」なのです。

墓の石がそのままならば、イエス様が復活されたのかどうか、分かりません。

墓の石がそのままならば、イエス様が出て来たのかどうかも、分かりません。

だからこそ、まず最初に、墓の石が取り除かれていて、墓の中が空だった事を、マグダラのマリアと一緒に墓に行った数人の女性は目撃者となる必要があったのです。

20:2 それで、走って、シモン・ペテロと、イエスが愛されたもうひとりの弟子のところに行って、こう言った。「だれかが墓から主を取って行きました。どこに主を置いたのか、私たちには分かりません。」

20:3 そこで、ペテロともうひとりの弟子は外に出て、墓へ行った。

20:4 二人は一緒に走ったが、もう一人の弟子がペテロよりも速かったので、先に墓に着いた。

20:5 そして、身をかがめると、亜麻布が置いてあるのを見えたが、中に入らなかった。

20:6彼に続いてシモン・ペテロも来て、墓に入り、亜麻布が置いてあるのを見た。

20:7 イエスの頭を包んでいた布は亜麻布と一緒にはなく、離れたところに丸めてあった。

20:8 そのとき、先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来た。そして、見て、信じた。

20:9 彼らは、イエスが死人の中からよみがえらなければならないという聖書を、まだ理解していなかった。

20:10 それで、弟子たちは再び自分たちのところに帰って行った。

墓の石が取り除かれていて、墓の中が空だったからこそ、マグダラのマリアはイエス様を探したのです。

この時点でマリアも弟子たちも、イエス様が預言した事を正しく理解しておらず、イエス様が復活したとは思っていませんでした。

2節に「だれかが墓から主を取って行きました」、9節に「まだ理解していなかった」と記されている通りです。

この世の常識と、自分達の体験では、「死んだ人が生き返る」と言う事は受け入れられる事ではありません。

仮死状態から蘇生する、と言う事なら、有り得ない事ではありません。

しかし、イエス様の死は、仮死状態だったのではありません。

鞭打たれ、歩くのもやっとの状態で十字架に付けられ、槍で脇腹をえぐられて、殺されたのであり、完全に死んでいるのをローマの百人隊長、兵士たちに確認された上で、墓に葬られたのです。

ですからイエス様の復活は蘇生ではありません。

完全な死から、完全な命へ、朽ちる身体から、朽ちない身体へ、古い身体から、新しい身体への復活です。

しかし、弟子たちはこの事を理解できてはいなかったのです。

では8節にある「先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来た。そして、見て、信じた」、という記述は何を意味するのでしょうか。

先に墓に着いたもうひとりの弟子は、イエス様の身体に巻かれていた亜麻布と、頭に巻かれていた布切れとが、巻かれた時の状態になっているのを見て、2節でマリアが言うような「だれかが墓から主を取って行」ったのではないことを確信します。

イエス様の身体が誰かによって持ち去られたのではなく、全能の父なる神様の大能の御手によって何かが起こった事だけは信じたのではないでしょうか。

イエス様の復活を漠然と感じてはいたが、聖書の預言とは関連付けて考えられなかった。

だから、9節、「イエスが死人の中からよみがえらなければならないという聖書を、まだ理解していなかった」との注釈が記されているのです。

20:11 一方、マリアは外で墓の外にたたずんで泣いていた。そして、泣きながら、からだをかがめて墓の中をのぞき込んだ。

20:12 すると、白い衣を着た二人の御使いが、イエスのからだが置かれていた場所に、一人は頭のところに、一人は足のところに座っているのが見えた。

20:13 彼らはマリアに言った。「女の方、なぜ泣いているのですか。」彼女は言った。「だれかが私の主を取って行きました。どこに主を置いたのか、私には分かりません。」

20:14 彼女はこう言ってから、うしろを振り向いた。そして、イエスが立っておられるのを見たが、それがイエスであることが分からなかった。

20:15 イエスは彼女に言われた。「なぜ泣いているのですか。だれを捜しているのですか。」彼女は、彼が園の管理人だと思って言った。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。私が引き取ります。」

20:16 イエスは彼女に言われた。「マリア。」彼女は振り向いて、ヘブル語で、「ラボニ」すなわち、「先生」とイエスに言った。

園に残ったマリアは復活した主イエス様と出会いますが、イエス様だとは分からず、園の管理人だと誤解します。

二言、三言の会話があっても、まだ気が付きません。

しかし親しく「マリア」と名前を呼ばれた、その時、全てがクリヤーになるのです。

霧、霞がかかっていて、ぼんやりとしか見えなかったのが、霧、霞が晴れて一気に全てが見通せる様に。

墓の石が取り除かれていて、墓の中が空だったと言う事実と、主イエス様の「三日目に甦る」と言った預言が、「マリア」と名前で呼びかけられた事で結び付いて、「マリア」は側に立っておられる方が、主イエス様だと認知する事が出来たのです。

エマオに行く途中の二人の弟子も、何時間も一緒にいて、親しく話しをしていたのに、主イエス様だとは分からなかったのです。

彼等も、墓の石が取り除かれていて、墓の中が空だったと言う証言を聞いていたからこそ、目の前のお方がパンを取って祝福し、裂いて彼らに渡された、その姿を見た時、目が開かれて、一緒に居られる方が、主イエス様だと認知する事が出来たのです。

主イエス様の復活を信じ受け入れる、切欠となる出来事は人それぞれです。

事実の積み重ねがあれば、信じられる訳ではありません。

腑に落ちる、って言いますけれど、散々説明を聞いても、中々理解できないのに、何かの瞬間に「ああ、そう言う事か」って体験、皆さんも在るのではないですか。

何年も教会に通っていて、聖書の知識は豊富でも、それで、主イエス様を信じられる訳ではありません。

逆に、聖書を読んだ事が無くても、教会には数回しか来た事が無くても、主イエス様を信じる事になる人が居るのも事実です。

私たちの側から見れば、「私が信じた」のですけれど、神様の側から見れば、聖霊様を送ったので、信じる事が出来た、と言う事なのです。

聖霊様が働かれた時、私たちの心はイエス様を主として受け入れる事が出来るのです。

20:17 イエスは彼女に言われた。「わたしにすがりついていてはいけません。わたしはまだ父のもとに上っていないのです。わたしの兄弟たちのもとに上っていないのです。わたしの兄弟たちのところに行って、『わたしは、わたしの父であり、あなたがたの父である方、わたしの神であり、あなたがたの神である方のもとに上る』と伝えなさい。」

20:18 マグダラのマリアは行って、弟子たちに「私は主を見ました」と言い、主が自分にこれらのことを話されたと伝えた。

主イエス様には、すがり付く事の出来る身体がありました。

聖書の別の箇所では、釘の跡がある手、刺されたキズ跡がある脇腹を示し、触りなさいと促しました。

湖のほとりで弟子たちとパンを食べ、魚を食べる身体をもって、墓から出てきたのでした。

主イエス様の復活は、霊的存在、幻覚、象徴などでは決してないのです。

主イエス様は霊的、肉体的な身体を持って復活されました。

私たちが霊的な苦しみに会う時、主イエス様も霊的な苦しみを共有して下さるためです。

私たちが肉体的な苦しみに会う時、主イエス様も肉体的な苦しみを共有して下さるためです。

私たちの一生は死で終らず、新しい身体への復活がある事の証拠、希望の為です。

だから主イエス様は肉体をもって、復活されたのです。

主イエス様の復活には肉体が必要、不可欠だったのです。

だから、墓から出てこられる時、墓を塞いでいた、石を取り除く必要があったのです。

【適応】

墓を塞いでいた、石にはもう一つの意味が有ると思います。

主イエス様と会う為には墓の石が取り除かれる必要があったのですが、この石は私たちの心の蓋、大きな妨げを現してはいないでしょうか。

私たちの心が塞がれていては、主イエス様は私たちに会いに入って来る事が出来ません。

この石は主イエス様と私たちの交わりを妨げる隔ての壁なのです。

この石を取り除かなければ、私たちは主イエス様とは会う事が出来ないのです。

この石はどうしたならば、取り除く事が出来るのでしょうか。

人の力では動かす事の出来ない、大きくて重い石なのです。

でも、安心してください。

マグダラのマリアが墓に来た時、石はすでに取り除けられていました。

その時の状況がマタイの福音書2812節に詳しく記されています。

読みますのでお聞き下さい。

「さて、安息日が終わって週の初めの日の明け方、マグダラのマリアともう一人のマリアが墓を見に行った。

28:2 すると見よ、大きな地震が起こった。主の使いが天から降りて来て石をわきに転がし、その上に座ったからである。」

人の力にはよらないで、重い大きな石は取り除かれたのです。

マリアの心配をよそに、障害はちょうどその時に、取り除かれたのです。

人の努力や働きによるのではありません。

「イエス様に会いたい。」

この気持ちだけで、墓に行ったのです。

全能の父なる神様はマリアの思いに応えて下さり、御使いを遣わして石を取り除いて下さいました。

再び、塞がれる心配はありません。

主の使いが天から降りて来て、石をわきへ転がし、その上に座ったからである」。

主の使いが、石を転がし、転がした石の上に座って、石が動かないようにされているのです。

同じように、心の石は、人の力や努力によって取り除かれるものではありません。

全能の父なる神様の憐れみによって取り除かれ、聖霊様の働きによって、再び塞がれる事はないのです。

だから、主イエス様との関係が絶たれる事は有りません。

私たちは何時でも主イエス様とお会いする事が出来るのです。

「イースター」は主イエス様の復活をお祝いする日です。

そして、墓の石が取り除かれていた事に象徴される、主イエス様と私たちの隔ての壁が取り除かれた事を感謝する日なのではないでしょうか。

ここに居られる皆さんの心の石はすでに取り除かれていますか。

イエス様をお迎えしたい、会いたいと願うなら、その通りになるのです。

20:8 そのとき、先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来た。そして、見て、信じた

この時点で、本当の意味で理解していなかった事は先に学びました。

全てを理解しなければ信じる事は出来ない……。

そう言う生き方も在るでしょうが、有限な人間に、無限、全能の力をお持ちの父なる神様を理解する事が出来るでしょうか。

救いのプロセス、贖いの仕組みなど、良くは解らない。

でも全能の父なる神様がなさる事だから、と言う理由で信じた時、聖霊様の助けにより理解出来る時が訪れるのです。

何と感謝な事ではないでしょうか。

ここに居られる皆様が、復活された主イエス様と親しく交われます様に祈ります。

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