2024-5-5礼拝

聖書箇所:コリント人への手紙第二 5章18節から21節

説教題:「和解の務め

【導入】

私たちキリスト者は新しく造られた者」であり、古い被造世界から離れなければなりませんが、しかし、現実にはこの世に生きているのであり、否、生かされているのであり、それは、救われて安心し、喜んで生きるためではありません。

新しく造られた者」の特徴は、自分の平安や幸せを追求するのではなく、罪を赦され、永遠のいのちを頂いた事に感謝して、「主に喜ばれること」をする事です。

主に喜ばれること」をするのは、無理やりでも、義務としてでもなく、主イエス様に贖われ、「新しく造られた者」の特徴なのです。

その「主に喜ばれること」の一番は、主を信頼し、主にお委ねし、主の御旨、ご計画に従順に生きる事です。

主の御旨、ご計画は、聖書に記されている通りですが、受動的な働きであり、消極的な生き方ですが、「新しく造られた者」には、積極的な働き、能動的な生き方が期待されています。

その働きは「和解の務め」であり、この世に強い影響を与える働きであり、「新しく造られた者」にしか出来ない働きといっても過言ではありません。

【本論】

新改訳2017 5:18 これらのことはすべて、神から出ています。神は、キリストによって私たちをご自分と和解させ、また、和解の務めを私たちに与えてくださいました。

5:19 すなわち、神はキリストにあって、この世をご自分と和解させ、背きの責任を人々に負わせず、和解のことばを私たちに委ねられました。

18節、「これらのことはすべて、神から出ています」は、唯一真の神様の主権の宣言です。

唯一真の神様の関わらない事は、何一つありません。

全てが唯一真の神様の許しの中で起こっているのです。

この宇宙、万物を造られたのは、唯一真の神様であり、被造物を保持し続けてくださっているのも、唯一真の神様です。

歴史を支配しておられるのも唯一真の神様です。

被造物のお世話をし、維持、発展させるのは人間に委ねられた働きですが、唯一真の神様の御旨に従って、である事を忘れてはなりません。

しかし、人間は唯一真の神様の御旨に逆らい、罪を犯し、自身に死をもたらし、被造物世界に混乱と破滅をもたらしました。

唯一真の神様の、人間の犯した罪に対する怒りと裁きは、何によっても取り除く事は出来ません。

その、人間の罪を赦す事も、唯一真の神様であり、主イエス様の十字架での死をもって、人間の罪を贖い、人間を義と認め、人間を神の子としてくださるのも、唯一真の神様なのです。

18節、「神は、キリストによって私たちをご自分と和解させ」てくださったのであり、19節、「神はキリストにあって、この世をご自分と和解させ」てくださったのです。

この稀有な「和解」の働きは、唯一真の神様と、神の子であり罪の無い主イエス様にのみ、成し得るお働きであり、被造物を山と積み上げ献げても、滅私奉公、汗水流してのご奉仕を献げても、主日の礼拝を欠かさずに献げても、善行、施しなどを日々行っても、唯一真の神様との「和解」の役には立ちません。

唯一真の神様との「和解」は私たちの努力や熱意など、私たちに起因するものではなく、唯一真の神様の一方的な憐れみと恵みで「和解」に与るのです。

そして、「和解」の恵みに与って、それで終わるのではありません。

和解の務めを私たちに与えてくださいました」であり、「和解」に与った者は、唯一真の神様から受けた憐れみ、恵みを次に伝えていかなければならないのです。

それは、「新しく造られた者」にしか出来ない働きであり、期待されている働きなのです。

和解」は第一に、私と唯一真の神様との間の関係の修復ですが、全ての人間と唯一真の神様との「和解」を伝える事は、「新しく造られた者」に与えられ、委ねられた働きです。

人間の犯した罪によって、被造物の全ても唯一真の神様との関係が壊れてしまっていますが、その関係を「和解」、修復するのは、主イエス様の十字架の死なのであり、「和解」を伝える事は、「新しく造られた者」に与えられ、委ねられた働きなのです。

罪を犯したのは人間であり、全ての責任は人間にあり、「和解」を申し出る権利は無く、お願い出来る立場でもありませんが、唯一真の神様は、人間に責任を負わせず、御子、主イエス様に責任を負わせ、「和解」を成し遂げてくださったのです。

5:20 こういうわけで、神が私たちを通して勧めておられるのですから、私たちはキリストに代わる使節なのです。私たちはキリストに代わって願います。神と和解させていただきなさい。

唯一真の神様の方には、何の落ち度も責任の欠片もないのに、人間との「和解」を切望し、人間との「和解」のために、愛する御子、主イエス様を犠牲にされたのです。

この「和解」の知らせを伝える働きは、「和解」を受けた者の働きであり、責務です。

伝えても伝えなくても良い働きではなく、伝えられるなら伝えた方が良い程度の働きでもなく、何としても伝えなければならない働きです。

この「和解」は主イエス様の犠牲によってしか与れないからです。

唯一真の神様との「和解」を伝えるのは、「和解」を知識として知っている者ではなく、「和解」に与った者だけが為し得る働きなのです。

和解」の主旨を正しく理解し、「和解」のメッセージを忠実に宣べ伝えばければならないからです。

単なる知識の受け売りでは薄っぺらな印象を与えるだけなのではないでしょうか。

しかし、実体験に基づいた知識は、説得力が違いましょう。

加えて、唯一真の神様の使節として派遣されるのであり、自分の意思で出て行くのではなく、主イエス様の代弁者として語るのであり、自分の感想や感動を語るのではありません。

人々に取り入るための方便や策を弄してはならず、時に煙たがられても、真実を語り続けなければなりません。

真剣に、誠実に、解り易くが基本でしょう。

時に例話やユーモアを取り入れる事もありでしょうが、誇張や誤魔化し、割愛や削除は避けなければなりません。

和解」の内容の基本は21節です。

5:21 神は、罪を知らない方を私たちのために罪とされました。それは、私たちがこの方にあって神の義となるためです。

罪を知らない方」、「この方」は、唯一真の神の御子、主イエス様であり、人間としてお生まれになられましたが、その生涯に於いて、罪を犯さなかったお方、罪と無縁であったお方、罪の汚れを少しも受けておられないお方、罪に染まらなかったお方であり、即ち、義、そのものであるお方です。

その義なるお方を、「神は・・・罪とされました」。

義なるお方が、罪人の身代わりとなられ、罪人の代わりに十字架に掛かられ、罪人の代わりに死なれたのです。

この方にあって」は、「この方と結びついて」の意味であり、私たち罪人は、「罪を知らない方」、「この方」、唯一真の神の御子、主イエス様と結び付いてのみ、「神の義となる」、即ち、「神が義と認めてくださり」、罪に定められる事なく、裁きによって滅びる事がなくなるのです。

唯一真の神様は、義なるお方であり、罪は罪として認め、正しい裁きを行い、罪に対する刑罰として死を与えます。

罪を見逃したり、有耶無耶にしたり、無かった事にはなさいません。

人間の罪を赦すためには、全く罪の無いお方に罪の刑罰を転嫁させなければならず、全く罪の無いお方、唯一真の神の御子、主イエス様と結び付いてのみ、「神の義となる」のです。

これが福音であり、福音を伝える事が「新しく造られた者」のなすべき事であり、「主に喜ばれること」です。

【適応】

新しく造られた者」、キリスト者は、「和解」の使信を届ける者として召されていますが、機械的に「和解」の使信を届けるのではなく、単に「和解」の使信の通路となっているだけでもなく、伝えるべき使信が私たちの身体の、言動の、生活の一部になっていなければなりません。

主イエス様の言動が、唯一真の神様ご自身そのものであったように、御旨そのものであったようにです。

主イエス様の弟子として、「和解」の使信を伝える者として、私たちの身体は、言動は、生活は、自分が伝える「和解」の使信を体現するものでなければなりません。

勿論、罪を持つ私たちですから、主イエス様の為されたようには行かず、齟齬や矛盾も多々ありましょうが、主イエス様に対する従順、誠実を心掛けるなら、大きく逸脱する事はないでしょうし、主イエス様、聖霊様が折りに適った助けを与えてくださるでしょう。

さて、主イエス様を信じていない人でも、「和解」の使信を伝え、また、奉仕や伝道をする事は出来ましょう。

司会業の人による流暢な司会、ピアニスト、オルガニスによる素晴らしい伴奏、声楽家による感動的な讃美、イベント企画運営会社によって立案、計画、運営された伝道。

技術的には素晴らしいものでしょうが、決定的な違いがあります。

罪を認め、主イエス様に対する信仰を告白し、洗礼を受け、唯一真の神様の御旨、御こころに沿うように変えられた心でなければ「和解」の使信を、身をもって現す事は出来ません。

身を持って「和解」の使信を伝える、届けるのです。

和解」の使信を届ける前に、先ず、自分自身が「和解」の使信を受け入れ、経験してこそ、伝える事が真実である事が相手に届く、伝わるのではないでしょうか。

和解の務め」は、「新しく造られた者」、キリスト者全てに委ねられた働きであり、期待されている働きであり、相応しい働きであり、「主に喜ばれること」です。

和解の務め」に取り組む過程で、「和解の務め」に相応しく整えられ、益々、主イエス様に似た者とされ、人々の目を、こころを、唯一真の神様、主イエス様に向けさせるのです。

 和解の務め」は自分自身の益になり、また、唯一真の神様、主イエス様との平和を造る者であり、二重の祝福を受ける務めなのです。

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聖書箇所:コリント人への手紙第二 6章1節から10節

説教題:「神とともに働く者」

【導入】

私たち人間の罪によって、毀損し、断絶した、唯一真の神様との交わりと関係は、どんな生贄を献げても、献げ物を献げても改善、回復させる事は出来ません。

加えて、人間の罪によって、被造物世界にもたらした混乱は、何によっても秩序を取り戻す事は出来ません。

しかし、主イエス様の十字架は、裂かれた肉と流された血潮は、人間の罪を贖い、唯一真の神様との交わりと関係を修復し、回復させ、被造物世界は秩序を取り戻し、有るべき姿と機能を回復させるのです。

これは、主イエス様が成し遂げられた、もたらされた「和解」であり、この良き知らせ、福音を伝えるのは、「和解」に与った者に与えられた使命であり、取り組むべき課題であり、働きです。

私たちキリスト者は、新しく造られた者」であり、「和解の務め」が与えられています。

この働きは、終わりが無く、広大無辺であり、取り組むに限度、際限がありません。

大変な働きですが、臆する事も、恐れる事も、怯む事もありません。

何故ならば、唯一真の神様がともに働いてくださるからです。

パウロは、「和解の務め」に召された者としての心構えと励ましとを語ります。

【本論】

新改訳2017 6:1 私たちは神とともに働く者として、あなたがたに勧めます。神の恵みを無駄に受けないようにしてください。

第一に強調するのは、「私たちは神とともに働く者」である、と言う事です。

直訳は「私たちはともに働く者」であり、「神と」と言う単語はありません。

ですから、この手紙の読者である「コリント教会の兄弟姉妹たちと」「ともに働く」と理解する事も可能ですが、文脈からは「神と」であり、訳者は「神と」を加えて、「私たちは神とともに働く者」とし、私たち読者の助けとしたのでしょう。

私たちは神とともに働く者」であり、「和解の務め」は神が中心であり、神が主権者であり、神が決定権者である、と言う事を片時も忘れてはなりません。

私たちは神とともに働く者」であり、「和解の務め」は孤軍奮闘の働きではないのです。

例え、見かけの上では独りであったとしても、聖霊様が側に居てくださり、主イエス様が見守ってくださっています。

人間の協力者が与えられたとしても、罪人の集まりの働きであり、烏合の衆の働きのようであり、各自が自分の意見こそ最高だ、と思い、これしかない、と考え、中々纏まらず、右往左往し、停滞し、時に頓挫もしましょうが、「神とともに働く者」との明確な、鮮明な、強い自覚があり、それに伴った謙りを持ち、謙虚さを保つなら、意見の相違による混乱や分裂は避けられ、「和解の務め」は停滞、頓挫する事なく、漸進し続ける事でしょう。

キリスト者は、罪深い者、穢れた者でありながら、「神とともに働く者」として召し出されているのであり、何と言う光栄であり、特権であり、祝福でしょうか。

パウロは続いて、コリント教会の兄弟姉妹たちに、この「神の恵み」、光栄、特権、祝福を「無駄に受けないようにしてください」、と勧めます。

和解の務め」に召された者、「神とともに働く者」として、相応しく歩んだか、働いたかが問われます。

私たちは神とともに働く者」であり、「和解の務め」は神が中心であり、神が主権者であり、神が決定権者である、と言う事を片時も忘れてはなりません。

そうすれば、意見の相違などによる混乱や分裂などは避ける事が出来、この世の人々は、「和解の務め」を通して、「神の恵み」を知るに至るでしょう。

6:2 神は言われます。「恵みの時に、わたしはあなたに答え、救いの日に、あなたを助ける。」見よ、今は恵みの時、今は救いの日です。

鍵括弧はイザヤ書498節からの引用です。「主はこう言われる。「恵みの時に、わたしはあなたに答え、救いの日に、わたしはあなたを助ける。わたしはあなたを見守り、あなたを民の契約とし、国を復興して、荒れ果てたゆずりの地を受け継がせる。

このイザヤの預言が成就したのです。

和解」を受け入れるなら、罪人でも、異邦人でも、誰でも、救われるのです。

しかし、この「恵みの時」、「救いの日」は、何時までも続く訳ではありません。

終末は必ず来るのであり、終末がきてからでは、門が閉じられてからでは遅いのです。

和解の務め」は、悠長に構えていて良い働きではなく、あなた任せの働きでもなく、重要な働きであり、喫緊の働きであり、救われた者、全てが関わる働きであり、各々に与えられた賜物、各々の置かれた環境、状況、関係性などの中で、積極的に取り組む働きなのであり、時と日を無駄にしてはならない働きなのです。

唯一真の神様は、「神とともに働く者」を遣わされます。

自分の考えが一番良い、と思い、自分の意見こそ最高だ、これしかない、と考える者は、「神とともに働く者」とは対極の働き人でしょう。

唯一真の神様は、「神とともに働く者」を「和解の務め」に召し、異邦人にも「和解」を呼び掛け、「和解」に与らせてくださるのです。

6:3 私たちは、この務めがそしられないように、どんなことにおいても決してつまずきを与えず、

和解の務め」、「和解の」使信などが誤解などを受ける事が無いように、充分過ぎる配慮が為されなければなりません。

キリスト者の普段の言動が、不用意な言動が未信者に「つまずきを与え」るような事になっては残念です。

教会でキリストの愛、赦しなどを聞きながら、同時に批判的な言動や、偽善的な言動を見聞きしたならば、教会に失望するのではないでしょうか。

語られる「和解の務め」の「つまずき」となるのではないでしょうか。

そんな事にならないように十分、注意しなければなりません。

6:4 むしろ、あらゆることにおいて、自分を神のしもべとして推薦しています。

あらゆることにおいて」、常に「神のしもべ」である事を意識した言動を心掛ける事を奨励します。

自分を神のしもべとして推薦しています」は、自慢や高慢の現われではなく、謙遜や遠慮も、時に必要ですが、「自分を神のしもべとして推薦」出来る程の自負を持つ事は、とても大切な事ではないでしょうか。

神のしもべ」である事は、堂々と表明すべき事であり、信任に値する働きである事を自覚し、責任を自覚するためなのです。

6:4b すなわち、苦難にも苦悩にも困難にも、

6:5 むち打ちにも入獄にも騒乱にも、疲れ果てた時も眠れない時も食べられない時も、大いなる忍耐を働かせて、

苦難にも苦悩にも困難にも」は、広い意味での苦痛であり、肉体的な、精神的な苦痛であり、絶え間なく襲い掛かる苦痛であり、避ける術もなく、只々耐えるしかない苦痛を伴う、あらゆる意味での苦痛です。

むち打ちにも入獄にも騒乱にも」は、特別な苦痛であり、特殊な状況下で受ける命の危険を覚える苦痛です。

疲れ果てた時も眠れない時も食べられない時も」は、自らの意思で飛び込んだ苦痛であり、疲労困憊でも、極限状態でも、働きに身を投じ、寝食を二の次にし、寝食を忘れるまでに、働きに没頭した事を告白しています。

列挙した苦難は、未信者にとっては避けたいもの、関わりたくないもの、絶望でしかないでしょうが、キリスト者にとっては「忍耐」を生み出すもの、品性を整えるものなのであり、希望に繋がるものなのです。

6:6 また、純潔と知識、寛容と親切、聖霊と偽りのない愛、

純潔」は、道徳的な意味とともに、私心、邪(よこしま)な思いがない事を意味し、「知識」は、贖罪や愛、真理に関する知識とともに、救いについての啓示に関する知識を意味します。

寛容と親切」は、キリスト者同士の間に見られる徳目を意味し、「聖霊」は、聖霊によって与えられる賜物としての力を意味します。

偽りのない愛」は、偽善的でない愛、自己中心でない愛、誠実、純粋な愛を意味します。

愛は偽善的になり易く、人を惑わし易いので、パウロは警告を与えているのです。

これらの徳目を備えるのは、容易ではありませんが、聖霊が内住するので、心配する必要はなさそうです。

6:7 真理のことばと神の力により、また左右の手にある義の武器によって、

真理のことば」は「和解」の使信、救いの使信であり、「神の力」は、パウロを支えた力、導いた力であり、パウロとともに働いた力です。

左右の手にある義の武器」は、唯一真の神様、主イエス様に敵対する力、勢力との戦いに必要な武器であり、「左の手」には、防御用の、信仰の大盾を持ち、唯一真の神様、主イエス様に敵対する力、勢力の放つ火矢を防ぎ、「右の手」には、攻撃用の、御霊の剣を持ち、唯一真の神様、主イエス様に敵対する力、勢力を打ち砕き、蹴散らし、進路を切り開くのであり、決して人を攻撃する事が遭ってはなりません。

6:8 また、ほめられたりそしられたり、悪評を受けたり好評を博したりすることによって、自分を神のしもべとして推薦しているのです。私たちは人をだます者のように見えても、真実であり、

8節のことばは、示唆に富んだことばです。

ある人からは高い評価を受け、ある人からは罵りの言葉を浴びせられるのです。

主イエス様は、ある人からは、神の子、預言者だ、との評価を受け、ある人たちからは、ベルゼブルの手下だ、気が狂っている、との評価を受けたのです。

人は、知り得た情報でしか判断出来ないのであり、一面しか見ていないのに、あたかも全てを知っているかの様な判断をするのであり、或いは都合に合わせた恣意的な判断、忖度をし、空気を読んでの判断をするのであり、常に公正な判断をする訳ではないのです。

神のしもべ」である事を意識し、中立、公平、公正を心がけ、「真実であり」続けなければなりません。

それでこそ、「和解」の使信、救いの使信が真実味を放ち、人々に届き、受け入れられるのではないでしょうか。

人に取り入るような、迎合するような態度であるなら、状況によって、相手によって態度を変えるなら、誰が信じるでしょうか、受け入れるでしょうか。

6:9 人に知られていないようでも、よく知られており、死にかけているようでも、見よ、生きており、懲らしめられているようでも、殺されておらず、

パウロは有名人ではありましたが、正しく知られていた訳ではありません。

人に知られていないようでも、よく知られており」は、悪意のある噂や、歪められた虚像を鵜呑みにした人々からは、主イエス様の弟子ではない、使徒ではない、偽使徒だ、と思われていたのです。

一方、パウロの宣べ伝えた働きによって、主イエス様を多くの人が受け入れたのであり、その働きを通して、多くの人はパウロの実像を知っていたのです。

死にかけているようでも、見よ、生きており」ですが、パウロは死ぬような目に幾度となく遭遇しましたが、その危機を無事、乗り越える事が出来ました。

懲らしめられているようでも、殺されておらず」は、不当な懲らしめ、鞭打ちなどを何度も経験しましたが、いのちを落とすまでには至らなかったのです。

6:10 悲しんでいるようでも、いつも喜んでおり、貧しいようでも、多くの人を富ませ、何も持っていないようでも、すべてのものを持っています。

悲しんでいるようでも、いつも喜んでおり」は、罪に塗れ、彷徨う人々のために悲しみ、主イエス様と出逢って、救われた人々の事では喜びに溢れていたのです。

貧しいようでも、多くの人を富ませ」ですが、パウロは分け与えるような金品を持ってはいませんでしたが、一時的な援助、この世の無くなる物によってではなく、金品、献げ物、善行などでは得られない贖いの道、救いの道を通して、霊的に富む者としたのです。

何も持っていないようでも、すべてのものを持っています」は、パウロの生き方であり、この世で価値ありと考えられる物に頼らない生き方、唯一真の神様のみを頼る生き方は、神様の恵みが有形無形となって豊かに注がれる生涯となります。

主イエス様に頼る、と言う事は、「すべてのものを持ってい」る、と言う事です。

これらがパウロの確信であり、経験の裏づけで言わしめたことばであり、キリスト者に強くお勧めするのです。

【適応】

神とともに働く者」とは、「神とともに」生きる者と言い換えても良く、狭い意味では献身するとか、牧師になるとか、宣教団体などで働くとか、生きる、と言う事ですが、「神とともに働く者」と言う生き方は、特定の働き、生き方ではなく、24時間、366日、唯一真の神様、主イエス様を意識した働き方、生き方であり、広い意味で唯一真の神様への信仰に基づく働き方であり、生きる生き方であり、一般社会でも、家庭でも、会社でも、学び舎でも、唯一真の神様、主イエス様を意識して、信頼し、委ね、従う生き方です。

食べるにも飲むにも、何をするにも唯一真の神様、主イエス様の栄光のため、と言う生き方です。

縁の下の地味な働きでも、華々しい表舞台の働きでも、誰にでも出来る仕事でも、専門的な知識や資格、経験が必要な仕事でも、簡単な務めでも、難しい務めでも、「神とともに働く」のであり、自分が主体的に働くのでも、自分の主導で働かせるのでもありません。

唯一真の神様、主イエス様が主体であり、唯一真の神様、主イエス様の主導に従うのです。

創造者が主体であり、絶対者の指導に従うのですから、齟齬が生まれようがなく、混乱や不調和の起こりようがありません。

秩序があり、調和があり、光栄、栄誉、祝福が伴うのです。

人から受けるモノは、8節に記されているように的外れな評価に終始しましょうが、しかし、唯一真の神様、主イエス様は、誠実であったか、忠実であったか、正直であったかを見られるのであり、唯一真の神様、主イエス様から受ける評価は確実であり、正確であり、公正であり、的確であり、適切です。

唯一真の神様、主イエス様に従って生きるからキリスト者なのです。

キリスト者であるか否かは、唯一真の神様、主イエス様に従って生きるか否かであり、唯一真の神様、主イエス様に従って生きなければ、この世で成功しても、人から最高の評価を受けても、何の価値もありません。

キリスト者は神とともに働く者」として召され、光栄、栄誉、祝福の存在としてこの世に置かれているのです。

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